これは、受賞に際して彼が行ったスピーチの全文です。2年前のスピーチですが、いま、読んでみても、内容に全く変わりががありません。改めて、ここにコピーしてみました。
「非現実的な夢想家として」
僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。
サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。
長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。
どうしてそんなに時間がかかったかというと、
たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。
それで手間取ってしまった。
僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、
女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。
それひとつをとっても、バルセロナが
どれほど素晴らしい都市であるかがわかります。
この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、
もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、
もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に
日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。
地球の自転が僅かに速まり、
一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波は
すさまじい爪痕を残しました。
場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。
39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても
助からないことになります。
海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、
そのうちの九千人近くが行方不明のままです。
堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、
未だに遺体も見つかっていません。
おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。
そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、
胸が締めつけられます。生き残った人々も、
その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、
生活の基盤を失いました。
根こそぎ消え失せた集落もあります。
生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに
生きていくことを意味しているようです。
日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。
毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。
各地で活発な火山活動があります。
そしてもちろん地震があります。
日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、
危なっかしいかっこうで位置しています。
我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、
地震については予測がつきません。
ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、
別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。
おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、
マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、
多くの学者が予測しています。
それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。
もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、
それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、
正確なところは誰にもわかりません。
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も
「普通の」日々の生活を送っています。
人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。
今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。
どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に
生活していられるのか?
恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。
いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。
この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、
すべてはとどまることなく変移し続ける。
永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。
これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、
宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、
民族的メンタリティーとして、
古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、
いわばあきらめの世界観です。
人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。
しかし日本人はそのようなあきらめの中に、
むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、
秋になれば紅葉を愛でます。
それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど
自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。
桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、
ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを
失ってしまうからです。
我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。
そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、
小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、
むしろほっとするのです。
美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、
かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、
僕にはわかりませ
しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、
ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、
被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。
あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、
普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、
今なおたじろいでいます。
無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、
復興に向けて立ち上がっていくでしょう。
それについて、僕はあまり心配してはいません。
我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。
いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。
壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に
間借りしているわけです。
どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。
少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。
ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。
好むと好まざるとにかかわらず、
そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、
簡単には修復できないものごとについてです。
それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。
それらはかたちを持つ物体ではありません。
いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、
というものではないからです。
僕が語っているのは、具体的に言えば、
福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった
六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、
いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。
メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、
おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、
近海に流されています。
風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から
立ち退きを余儀なくされました。
畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。
そこに住んでいた人々はもう二度と、
その地に戻れないかもしれません。
その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、
近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、
その原因はほぼ明らかです。
原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を
想定していなかったためです。
何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、
安全基準の見直しを求めていたのですが、
電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。
なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、
大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、
原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを
下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、
明らかにしなくてはなりません。
その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、
土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。
我々は腹を立てなくてはならない。
当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。
我慢することには長けているけれど、
感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。
そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは
少し違っているかもしれません。
でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在を
これまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、
糾弾しなくてはならないでしょう。
今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、
核爆弾を投下された経験を持つ国民です。
1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、
米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、
合わせて20万を超す人命が失われました。
死者のほとんどが非武装の一般市民でした。
しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、
生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、
時間をかけて亡くなっていったということです。
核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、
人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、
我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。
ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。
どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、
経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、
その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。
我々は被害者であると同時に、加害者でもある。
そこにはそういう意味がこめられています。
核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、
また加害者でもあるのです。
その力の脅威にさらされているという点においては、
我々はすべて被害者でありますし、
その力を引き出したという点においては、
またその力の行使を防げなかったという点においては、
我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、
三カ月にわたって放射能をまき散らし、
周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。
それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。
これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、
今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。
我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、
我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?
戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、
いったいどこに消えてしまったのでしょう?
我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、
何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。
つまり利益が上がるシステムであるわけです。
また日本政府は、とくにオイルショック以降、
原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として
推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、
原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが
原子力発電によってまかなわれるようになっていました。
国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、
世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。
既成事実がつくられてしまったわけです。
原子力発電に危惧を抱く人々に対しては
「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような
質問が向けられます。
国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。
高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、
ほとんど拷問に等しいからです。
原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」という
レッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。
効率的であったはずの原子炉は、
今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。
それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した
「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、
ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。
それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、
論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた
「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を
許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
我々は電力会社を非難し、政府を非難します。
それは当然のことであり、必要なことです。
しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。
我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。
そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。
そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、
原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が
広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。
そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチを
ポケットから取り出し、言いました。
「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、
この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。
それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、
社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、
国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。
それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、
我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、
妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、
中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、
我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、
そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、
大きな機会となったはずです。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、
その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、
我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。
またそれを克服することによって、人の精神がより強く、
深いものになる場合もあります。
我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、
それを専門とする人々の仕事になります。
しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、
それは我々全員の仕事になります。
我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、
彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、
その作業に取りかかります。
それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。
晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、
種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。
一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが
進んで関われる部分があるはずです。
我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。
そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、
立ち上げてなくてはなりません。
それは我々が共有できる物語であるはずです。
それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。
我々はかつて、まさにそのようにして、
戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。
その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という
移ろいゆく儚い世界に生きています。
生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。
大きな自然の力の前では、人は無力です。
そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。
しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、
そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、
それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、
そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、
このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。
我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。
依って立つ文化も異なっています。
しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、
同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。
だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、
人々の手に取られることにもなるのです。
僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。
夢を見ることは小説家の仕事です。
しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。
その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、
ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、
豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。
我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく
「非現実的な夢想家」になることができたら、
そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を
形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。
それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを
通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。
我々は夢を見ることを恐れてはなりません。
そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに
追いつかせてはなりません。
我々は力強い足取りで前に進んでいく
「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。
人はいつか死んで、消えていきます。
しかしhumanityは残ります。
それはいつまでも受け継がれていくものです。
我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、
原子力発電所事故の被害にあった人々に、
義援金として寄付させていただきたいと思います。
そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、
ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。
そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、
深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
2013年6月10日月曜日
2013年6月5日水曜日
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」
2013年4月出版、文芸春秋社。
2009年の「IQ84」以来、久々に発表された新しい小説、「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んだ。
私の世代で、村上春樹のことを嫌いな人に会ったことがない。同じ時代に、同じ匂いを嗅ぎ、同じ状況を見ながら年をとってきた。彼が何を書いても、内容だけでなく、同じ時代の手触りを確かめることができて、共感できる。彼の描く、アメリカ文学そのままの、明瞭で簡潔な文体が好きだ。
彼の描く男と女の会話を、「こじゃれたスノッビーの会話」だとか、「気取った中流意識」だとかいう人もいるけど、そんな会話を、意味もよくわからないまま口をとがらせて、明治の学生会館や安田講堂や六角校舎でまくしたてていた日々もあったような気がする。スノッビーなのではなくて、これが彼の文体であり、彼のスタイルなのだから、彼が年をとっても変えることはないだろう。
同時代の人の間で、一定の人気のあった大江健三郎の世界に共感を抱いたことは一度もない。彼の書く女が、現実からかけ離れた、男が想像するだけの女でしかないと感じるからだ。その意味で、村上春樹は、男と女の高くて長い垣根を越えた初めての「新しい」世代作家だったと思っている。
ストーリーは
多崎つくるは、36歳。鉄道駅に子供の時から惹かれていて、その延長で東京の大学で土木工学を学び、鉄道会社の施設部で働いている。名古屋市の公立高校で、同じクラスで同じボランテイアをしていた、仲の良い5人グループのひとりだった。5人は、正確な5角形を形造るように、互いに均等な間隔で互いを必要とし、必要とされるような親密さをもっていた。偶然、つくる以外の4人は、男友達の赤松、青海、女友達の白根、黒埜というように、色のついた苗字をもっていたので、互いに、アカ、アオ、シロ、クロと呼び合っていた。つくるだけが そのままツクルだ。5人のグループは高校卒業後も親密だったが、つくるは名古屋を出て、ひとり東京の大学に進む。大学2年のときに、突然、もう4人はつくるとは顔を合わせないと、きっぱり宣告され、グループからはじき出される。理由がわからず、自分にとって身内よりも親しかった存在だった4人の友達に拒絶され、つくるは孤立して死ぬことだけを考えていた時期もあった。
それから、16年経ち、いま、つくるは2歳年上で、旅行会社に勤める沙羅という恋人がいる。彼女に促されて、つくるは かつての4人の親友を訪ねる旅に出る。そして、つくるが皆から拒絶されたのは、シロこと、白根柚木が上京した時、つくるにレイプされたことが原因だった、と聞かされる。つくるには全く覚えのないことだ。その、シロは6年前に絞殺されていた。真相をすこしでも知るために、つくるは クロの住むフィンランドに出かける。シロは気を病んでいた。何者かによってレイプされ、妊娠させられて精神の波長を崩していった姿を、終始保護者のようについていたクロから聞かされる。そして、クロとつくるは、シロがよく弾いていたピアノ曲を一緒に聞いて、そして別れる。
というお話。その最後のところを引用すると。
過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた。その痛みはいつまでも同じ強さでそこに留まっていた。彼は息を止めて目を堅く閉じてじっと痛みに耐えた。アルフレート ブレンデルは端正な演奏を続けていた。曲集は「第1年 スイス」から「第2年 イタリア」へと移った。そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、危さと危うさによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
そして、
シロがあのとき求めていたのは、5人グループを解体してしまうことだったのかも知れない。高校時代の5人はほとんど隙間なく、ぴたりと調和していた。彼らは互いをあるがままに受け入れ、理解し合った。一人ひとりがそこに深い幸福感を抱けた。しかしそんな至福が永遠に続くわけはない。楽園はいつか失われるものだ。シロの精神はおそらく、そういう来るべきものの圧迫に耐えられなかったのだろう。
という結論に至る。
4人の友達に拒絶されて以来、人と関わりを持つことができなくなっていた36歳のつくるが 再び4人に会って、真相に直面して、やがて自信を取りもどしていく。そのヒーリングプロセスを小説にしたもの。読者はみな、甘酸っぱい高校時代を経て、性的関係を作るという荒波をくぐって、大人になってきたわけだから、様々な意味で、小説に出てくる5人の成長過程に共感することができる。
アオは、ラガーマンがそのまま大きくなったように、セールスマンになって戦っているし、アカは望まれるまま大学や銀行に就職し、家庭を持つが、うまくいかず、本当は自分が同性愛者だったことを知る。シロは 大学時代にレイプされたことを契機に 生きる波長を崩していく。そんなシロを支えるるクロは心の平静をもとめて陶芸にのめりこみ、フィンランド人と出会って結婚する。つくるはその4人の歩んで来た道を知ることによって、自分の心の傷を修復していく。
読み終わって、優しい気持ちになっている。
この小説を単純な恋愛小説、青春小説として私は読んだ。作者は徐々に年を重ねて、ストーリーが単純になってきている。前の作品はもっと理屈っぽかったり、ストーリーにも意外性やひねりがあった。ピカソが 子供の時は驚くほど写実的で正確なデッサン画を描くのに長けていたが、年を取るに従い作風が抽象的に変わっていき、キャンバスに点がひとつ、線が一本だけ、というように凝して、単純化していったのと似ているだろうか。
私は「ねじまき鳥クロニクル」が好きで、そのころの村上春樹が一番良かったと思っている。
彼がノーベル文学賞を取ると、予想されていることで、賛否両論がどちらも同じくらいあるようだが、彼は人気作家であるだけで良い。もともとノーベル賞に文学賞など必要ない。人類の進歩に貢献した医学、科学、物理などの基礎学問の研究には、莫大な予算が必要で、チームワークで当たるものだから、公的援助が十分ではない、研究に賞を与えることに意味があるだろう。しかし文学者にはペンさえあれば良い。ましてチームワークではなく、作家個人の問題だ。振り返ってみても、ノーベル文学賞を授与された日本人作家で、ろくな作家が居ない。作家に賞を与えるには意味がなく、文学賞は、作家ではなくて、作品に与えられるべきだ。ハルキは ノーベル賞でなく、人気作家として、いつまでも書き続けていってもらいたい。
2013年5月30日木曜日
映画 「宿命」(プレイス ビヨンド ザ パインズ)
アメリカ映画
原題:「THE PLACE BEYOND THE PINES」
監督:シアン フランス
キャストルーク :ライアン ゴスリング
ロミーナ :エバ メンデス
息子ジェーソン:デーン デハーン
アベリー警部 :ブラッドレイ クーパー
息子AJ :エモリ― コーエン
題名の「THE PLACE BEYOND THE PINES」という意味は、そのまま訳すと、松林の向こうの場所、ずっと遠くで到達することができない、自分には手の届かない場所のこと。でも、ここでは単純に、先住民モホーク族の言葉でいうと、 この先、ずっと行ったところのニューヨークを指す。
映画の内容から、題名の意味を深く考えると、自分が赤ちゃんのときに死んでしまった父親を追い求める少年の心を暗示している。あるいは、死んだ父親が、本当は自分が求めていて、手に入らなかった安定した暖かい家庭のことを同時に示している、とも解釈できる。
邦題の「宿命」という言葉が、ストーリーの内容に適しているかどうか疑問。宿命というと、唐獅子牡丹を背に彫った、高倉健がヤクザを引退したのに、義理ある人のために決死で敵の陣中に殴り込む感じ。避けようにも避けられない定めに生きる浪花節的な、ストーリーを思い浮かべてしまう。
ストーリーは
バイクスタントマンのルークは 命知らずの危険なバイク乗りのアクロバットショーを見世物にして、街から街へと移動して稼いでいる。昔、恋人が居た街に、再びやってきた。そこでロミーナと再会する。彼女は ルークにすげないそぶりを見せて、何も言わないが、彼女が育てている赤ちゃんが、実は自分の子供だったことを 人から知らされて、ルークは衝撃を受ける。子供のために 力になりたくて、勝手にショーをやめて、定住することに決める。そして、まとまったお金を子供に渡したくて、悪友と組んで銀行強盗を始める。ジェーソンと名付けられた赤ちゃんと、ロミーナと、つかの間の幸せを噛みしめて、すっかり父親の気持ちになっている。
しかし、どんなにバイクさばきが巧みで、逃げ足が速くても、銀行強盗がいつも成功するとは限らない。ある日、逃亡に失敗して、遂に新米警官に追いつめられる。ルークはもう逃げ切れないことを悟って、ロミーナに電話する。「子供に父親がどんな男だったか、息子には絶対言わないでくれ」、と。 ルークが撃たれたとき、彼は、銃を持ってはいたが、電話を手にしていた。先に撃ったのは、どちらだったか。相手が銃をもっているかどうか解らない内に 警官から先に撃てば、犯罪になる。新人警官のアベリーは、悪人にたち向かうヒーローになるか、自分の恐怖心から容疑者を殺してしまった犯罪者になるのか、真相に目をつぶってもらい、彼は自分を擁護する。相手が撃ってきて、止むを得ず、撃ち殺してしまったと。しかし、死んでしまった男にも 自分と同じ年の子供がいたことを知らされて、アベリーは良心の呵責に苦しむことになる。
時が経った。警察を辞めたアベリーは、官庁に勤めている。アベリーがルークを撃ち殺したことで、夫に批判的だった妻とは離婚した。18歳になった息子が、ドラッグに溺れていて手を焼いている。息子のAJは、転校先の高校で、ジェーソンという静かで恥ずかしがりやの友達ができた。AJは 体も大きく、押しが強い。ひょんなことから、ジェーソンは、自分の本当の父親が、AJの父親に殺された事実を知ってしまう。大切な父親を撃ち殺しておいて、いつも自分が優位に立とうとするAJを、ジェーソンは許すことができなくなった。銃をもって、AJの家に押し入ったとき、その場に偶然現れたAJの父親を、ジェーソンは、成り行きで、誘拐して森に向かう。ジェーソンは 父親の「仇」を取ってアベリーを殺し、金をとって逃亡するつもりでいた。しかし、アベリーは 連れていかれた森で、膝をついて、ジェーソンに 心から謝罪する。そして、胸のポケットに入れていた財布を ジェーソンに投げてよこす。財布には、アベリーの唯一の良心の証のように、小さく折りたたまれた「ジェーソンを抱く父親ルークの写真」が入っていた。ジェーソンは、黙って森から立ち去る。バイクで遠く、ずっと遠くに走っていくジェーソンの姿。ここで終わる。
主人公のルーク役のライアン ゴスリングが、映画の半ばであっさり殺されていなくなってしまう という珍しい筋書だ。主人公なのに。 スクリーンからは姿を消すが 実際映画が終わるまで 彼の「面影」がついてまわる。居なくなった、その男のために残った者たちが苦しんだり、慕ったり、追い求めたりする。なかなか よくできた映画だ。ゴスリングは、「ノートブック」、「ブルーバレンタイン」、「ドライブ」などを主演、細身で甘いフェイス、繊細な感じの性格俳優だ。
映画のなかで、昔の恋人が 一言も告げずに自分の子供を生んで 育てていたことを知る。そのあと、一人きりになって大粒の涙をぼろぼろ落とすシーンがある。音もなにもなく、動きもなく、カメラはじっと 長いこと 長いこと動かない。このロングショットがとても美しい。また、1対1の会話のときに、ゴスリングは 瞬きもせずじっと相手の顔を見つめる。彼独特の雰囲気と目差しが、とても印象に残る。おまえの言うことを全身を耳にして聞いてるよ、と目が語っている。こんなふうに、じっと見つめられて話を促されたら、あんなことでもこんなことでもどんなことでもしゃべってしまいそうだ。映画関係者の間では、監督からも役者からも、男からも女からも、彼ほど心を許して付き合える人は他に居ない、と とても人気者なのだそうだ。本当に人柄が良いのだろう。好きな役者の一人だ。
映画で、ルークは、自分が大事にされて育ってきていないので、大切なものなど、何も持たないし、自分の命さえ どうでもよいと、粗末に扱って、命知らずのアクロバットで日銭を稼いできたが、突然「赤ちゃん」という宝物が現れて、動転する。赤ちゃん、、、金、、、強盗と、連想して、銀行を襲う単純さにも、あきれるが、そのような選択肢しかない世界で生きてきた無骨な男なのだ。
一方のアベリー警部は、親が法曹界で有名な判事で 正義について厳しく教育を受けてきた。教育もあり仕事も家庭もある。しかし、自分のしたことで、良心の呵責から一生逃れることはできない。この二人の男たちは、みごとに明と暗の対照をも見せている。
アベリー警部役のブラッドレイ クーパーは、「ハングオーバー」、「シルバーラインノートブック」でおなじみの役者。コミカルな映画ばかりに出ているが、正統派ハンサムの役者だ。
赤ちゃんのときに殺されてしまった父親を求める孤独な息子の姿が、胸を打つ。
小さな作品だが、心に残る映画だ。
http://www.abc.net.au/atthemovies/txt/s3744418.htm
2013年5月28日火曜日
映画 「ザ コール」
http://www.imdb.com/title/tt1911644/
アメリカ映画 原題:「THE CALL」
監督: ブラッド アンダーソン’
キャスト
ジョーダン: ハル ベリー
ケイシー :アゲイル ブレスリン
マイケル : マイケル エクルンド
数年前に 勤務を公立病院心臓外科病棟からエイジ ケア施設に移った。務めているところには、救急蘇生設備がないから 時々、電話で、000番(日本の119番と110番)をかけて救急車を呼ばなければならない。相手のオペレーターは よく訓練されていて 電話をかけてきた声の様子で どれくらい緊急か、わかるらしくて心停止患者の心臓マッサージをしながら 電話をかけた時は、何も質問せずに、すぐ救急車を回してくれた。が、それほど急がないけれど出血が止まらないから 1時間以内には病院に連れて行ってほしいというようなときは、傷の深さとか、薬はどんなものを使っているかとか、家族の様子とか、いろいろ質問した末、冷やして止血してからまた電話して、などとグダグダ言われて時間を無駄にすることもあった。まあ、救急車をタクシー代わりに使う ふとどき者もいるし、予算の制限もあるから 仕方ないんだけれど。
日本では警察と救急車は110と、119番。オーストラリアでは000、アメリカでは911。英国では999と112、ドイツでは110と112、スペインでは091、ロシアでは02か03、シンガポールは999、台湾は日本と同じ。フィリピンでは117、中国は110番だ。ビジネスマンなど今日はロンドン、明日はドバイなどと世界狭しと飛び回っているのに、緊急電話番号を、世界で統一しなくて良いのだろうか。自分が命の危険を感じた時に、「えーと ここはトルコだから110番じゃなくて、えーと えーと、、。」と迷っているうちに間に合わないことになっているかも知れない。
「ザ コール」のストーリーは
ジョーダン(ハル ベリー)は、緊急警察電話911のオぺレーター。長年にわたって勤務についていて、どんな時にも慌てずに、パニック状態で電話をかけてくる市民に 適切な助言を与えて救急車や警察やパラメデイックチームを手配してきた。警官の恋人がいる。
ある夜、家で留守番をしていた少女から、誰かがドアを壊して侵入してくる という電話を受ける。さっそくジョーダンは警察を家に向かわせる一方、恐怖でパニックになっている少女にできるだけ逃げてベッドの下に隠れるように指示する。不気味な男の息使いと足音だけの恐怖。
男は家の中をすべて物色して 少女が居ないと思って、外に出る。いったん 途切れた電話に不安を感じたジョーダンは、少女の携帯に、本当に男が外に出ていったかどうか問い合わせる。その電話の音を、家の外から聞いた男は、少女が家に隠れていることを知って、家に戻ってくる。少女の絶叫とともに、不気味な男の荒い息を残して通話は切れる。数日後、少女の無残な惨殺死体が発見される。たった一本に電話に命を託していた少女を守るどころか、死に追いやってしまったことで、ジョーダンは責任を感じてふさぎ込む。
数か月後、ジョーダンは 誘拐されて車のトランクに押し込まれたという少女から電話を受ける。泣き叫んでいる少女をなだめすかして、誘拐された時の様子や場所を聞き出し、トランクの中を物色するように促す。さらにジョーダンは、少女、ケイシーに、中からテールランプを蹴飛ばして、トランクに穴をあけるように指示する。警察はパトカーやヘリコプターで、車を探し始める。少女は テールランプが落ちた穴から手を出して、後続車に知らせたり、ペンキを見つけて穴から流したり、パニックになりながらもジョーダンの指示に従う。しかし高速道路を飛ばしている車を、警察は見つけることができない。途中で何も知らない市民が 車の異常に気が付いて 少女を助けようとしたりするが、二人とも誘拐者にあっけなく殺されてしまう。その過程で、犯人が指紋から 逮捕歴のないドクターであることが割れる。犯人は 二人の子供を持つ、普通の家庭人だった。
一方、少女は依然として車のトランクから、唯一生き延びる希望を911のジョーダンに託している。あきらめないで。必ず助けるから。ウィークエンドには一緒に映画に行きましょうね、と。しかし、男に携帯電話を見つかり、不気味な息使いを残して通話が切れる。ジョーダンは、男の対応から 数か月前に、自分が対応して惨殺された少女を殺した犯人と、この男が同一人物であることを知った。同じ過ちを繰り返して、助けを求めてきた少女をむざむざ殺されるのを待ってはいられない。長時間の少女との通話で疲労困憊して自宅に帰るように上司に命令されたジョーダンだが、少女のことを思うとたまらずに、男が所有していた森の山荘に向かう。そこで待っていたのは、、、。
というサイコスリラー。
とても怖い。
月曜日の朝10時。こんな時間に、一人でサイコスリラーを見るなんて。他には年配のカップルがいるだけの広々とした映画館で、握っていたホットチョコレートも、すぐに冷え切った。
誘拐されて泣きじゃくって電話をかけてきたケイシ―に、「何色の車に乗せられているの」と問われて、彼女はブルーと答える。その直後、少女を乗せた真紅の車の上を 警察のヘリコプターが、飛んでいるシーンが映る。ヘリの音だけがむなしく聞こえるロングショット、、、。 カメラワークが、冴えている。
ハル ベリーは、ベリーショートなヘアで女戦士みたいな役ばかりやっていて、アフリカンアメリカンの美しさをすべて持ち合わせた女優だが、ここでは、長いカーリーヘアで、可愛らしい。911番では、どんな件に出会っても「 私情を挟まない、助けに行くことを約束するが、それ以上の約束をしない、助けを待っている間にできることをさせて適切な助言を与える」、といった 911の決まり事を若い人たちに教育しているが、自分の過失で、少女が亡くなり、トラウマに陥ってしまう。それが自然だ。とても理解できる。しかし、犯人はサイコパスで 少女だけでなく、他の少女を助けようとした大の男たちも、ジャンジャン殺していて、危険な男だと十分認識しているはずなのに、ジョーダンは一人きりで夜、男の山荘に行く。これが不自然でなくて何だろう。全然理解できない。
けれど、そこを道理とか、理屈を優先すると、怖いサイコスリラー映画にならないから、ジョーダンとケイシーにちょっと無理させないとね。そこで、色んなことがわかる。少女が、殺してと泣き叫んでも殺さない。犯人が、何を欲しくて少女を誘拐してくるのか。少女を生かしておいて、そ、そ、、、そんなことまでするのか、と。
とても怖い。映画の作り方が、上手だ。
アゲイル ブレスリンが、とても綺麗な少女になっていて驚いた。「リトル ミス サンシャイン」では、8歳の分厚い眼鏡をかけた 太っちょの女の子だった。
監督は 「マシ二スト」を制作した人。このクリスチャン ベールの作品も忘れられない。寡黙な監督だ。
2013年5月19日日曜日
映画 「アイアンマン 3」
もう戦争は、敵対する双方が血を流しながら戦うものではなくなってきたらしい。それは、人類が賢くなって、血を流さずとも、互いに外交の力で話し合って、協調する社会がようやく来た と言いたいところだが、全然違う。人はいつまでも賢くはならず、誤りは繰り返し、徐々に悪質になってきただけだ。
米国防総省は、無人偵察機プレデターを、2001年9,11以降、アフガニスタンで使ってきたが、この無人機が、今では1万1千機も活動している。2011年9月、イエメンでアメリカ国籍のアルカイダ幹部、アンワル アル アウラキが 16歳の息子と共に殺害されたのは、無人機によるものだった。外国の土地で、何の法的手続きもなく米国国籍をもったものが、米国のオフィスのPCボタンを押す者によって、葬り去られている。 ニュースウィークによると、米軍アルファドッグという犬型ロボットは、戦場で人が45キロの荷物しか運べないところを、180キロの装備を運んでいる。中国、ロシア、韓国、インド、パキスタン、ドイツなど、50か国余りの国々が無人機を必要としている。
中国人民解放軍サイバー部隊61398舞台は 米国の20以上の主要産業企業、141社のシステムに侵入して産業スパイの代行をさせている。また米国とイスラエルは コンピューターウィルス スタックネットでイランの遠心分離機を壊し、核開発を妨害しているという。サイバー戦争の悪いところは、法的裏付けのない、証拠を残さない 悪質な戦争で、実際の人々が死んでいく ということだ。
人は、ここまで来てしまった。嘆いても仕方がない。 アイアンマンが、現実になってきただけだ。
映画「アイアンマン」は、2008年に マーベルコミックのヒーローを、当時43歳のロバート ダウニージュニアが演じて、大ヒットした。監督、ジョン ファブローは、「アイアンマン1」と「アイアンマン2」を監督して、アイアンマンのガードマン兼、運転手のハッピー ホーガンの役を映画の中で演じているが、監督が シェーン ブラックに変わった、「アイアンマン3」でも、変わらず、ハッピー役を演じていた。自分の映画にちょい役で出演する、って ヒッチコックのようだが、本人がとても嬉しそうに役を演じていて微笑ましい。
アイアンマンこと、トニー スタークは、スターク財閥の御曹司で、天才的な物理学者の発明家だ。武器を生産して莫大な利益を得ていたが、自分が開発したクラスター型ミサイルを、米軍に売り込もうとしてアフガニスタンで、ゲリラに誘拐される。このときミサイルの誤爆でクラスターの破片が トニーの心臓に刺さり、死ぬところだったが、自分と同じように誘拐されていた医師によって、バッテリーで心臓に電磁石で破片を引き留めておかれて命を救われる。この時以来、トニーは熱プラズマ反応炉、アークリアクターを心臓に埋め込んで、生き延びてきた。誘拐され、犠牲者を出しながら生還できた経験から、自分の作った武器が戦争に使われ、人々が死ぬことを 深く反省し、今後は人の為になる生き方をする決意をする。
自分の体内に埋め込んだ生命維持装置、アークリアクターと同様のエネルギーを使ったアイアンスーツを開発して、トニーは、今まで人にできなかったパワーを駆使して弱者を守る正義のヒーローへと変わっていく。
「アイアンマン2」では、大活躍して悪者をやっつけてくれるヒーローのアイアンマンが、トニー スタークであることを、メデイアに発表してしまって、依然からのプレイボーイぶりに拍車がかかる。独身、大資産家、天才的な発明家、無敵のアイアンマン、、、これが、もてはやされないわけがない。ハメを外して、秘書のペッパー(グイネス パルトロウ)に叱咤され、結局 トニーは、社長業をペッパーに譲り、自分はアイアンマンの開発と研究に集中することにする。そこまでが、アイアンマン1と2のお話で、その次からは、映画「アベンジャーズ」で、マーベリックコミックのヒーローが全員集合して、米国を襲ってきたエイリアンと戦うというお話に引き継がれていった。
「アイアンマン3」のスト―リーは、
トニー スタークは、エイリアンの襲撃を、「マイテイーソウ」や「ハルク」や、「キャプテンアメリカ」や「ブラックウィドー」と一体なって、戦い、米国を守ることができたが、またいつ、どんな敵が襲ってくるのか、、、トニーは、不安になると、急に呼吸ができなくなるパニックアタックに陥るようになった。おまけに米国防省は、アイアンマンパワースーツの秘密を国に提出するように命令するが、トニーに拒否されてからは、国の安全をアイアンマンに任せる訳にはいかない と、トニーとは距離を置くようになった。トニーは 仕方なく、アイアンマンパワースーツの開発に没頭する。彼は、離れていても、スーツの着脱ができるように、腕にセンサーを埋め込んで、遠隔操作ができるパワースーツを開発していた。研究室では、パワースーツももう42体を数えるようになった。
そんなある日、突然、謎のロケット砲撃を受けて、トニーは、自分の豪邸も研究室もすべて破壊されてしまった。犯人は、聞いたこともない敵「マンダリン」という組織だという。主犯は、13年前に、遺伝子操作で不死身の体をもった人間を作る技術をトニーに売り込んだが、鼻で笑われて以来、アイアンマンを破壊する計画に着手していたアルドリッチ キリアン博士だった。博士は自分が障害者だったが この再生医療の技術で不死身の体となった。大統領を誘拐して、国を自分の思う通りのスーパーパワーをもった不死身人間が乗っ取ろうとしていた。それに対抗して国を守ろうとするアイアンマンは、、、、というお話。
アイアンマン2で、トニーがパワースーツを 空中でも装着できるようになって、あっと言わせてくれたが、アイアンマン3では 腕に埋め込んだセンサーで、パワースーツが遠くにいても、トニーのもとに飛んできてくれる。でもまだ開発中だから、中途半端で、やきもきさせられるところが、おもしろい。トニーが拘束されて不死身人間にやられて、もう傷だらけ、、というときに、遠く離れた他の州で、メカに強い少年が修理してくれたアイアンマンパワースーツが 部分ごとに飛んでくる。カシャリと 片足に装着、パワーアップした足で、敵の攻撃を避けているうちに バキューンとマスクが飛んできて頭を防衛してくれて、なんとかしている間に、やっと完全なアイアンマン姿になって、攻防したり、しかし何と言っても開発中だから スーツがトニーに向かって飛んできたと思ったら、互いにぶつかって合体できなくて、ただの「鉄くず」になってしまって、あわてたり とにかくこの遠隔操作がおもしろい。
「アイアンマン」の面白さは、「バットマン」のような悲壮感がなくて、全くノーテンキに明るいところだ。苦労人ロバート ダウニージュニアの人柄でもあるのだろう。大財閥の御曹司で独身プレイボーイで発明家の役を、43歳でやって大成功させ、48歳で最後のアイアンマンを みごとに演じた役者魂も、すごい。
「バットマン」は、幼いときに自分のために両親が暴漢にあって殺されてしまった原罪意識と、自分の閉所恐怖症から逃れられずに苦しむ。「スパイダーマン」も、両親は謎の失踪中、育ててくれた尊敬する叔父さんを自分の過失で殺されてしまう。正義の味方のバットマンもスパイダーマンも 人として、悩みをもっているから ストーリーに深みが出ている。しかし「アイアンマン」には そうした悩みがない。「アベンジャー」のヒーローたち全員で戦わないと、エイリアンに勝てなかったことで、ちょっと落ち込むが、メカ好きの少年に励まされれば、たちまちオッケーだ。そんな陽気でネアカで単純なヒーローも これで最終回だと思うと、寂しい。思い返してみると画面では「アイアンマン3」が 3D画像も、メカも豪華で素晴らしいが、「アイアンマン1」が印象深い。初めてスーツの制作にとりかかり、パワーバランスが悪くて高所から落下したり、PCで3Dの図面を見ながら設計するところなど、今までにないSF満載で、面白かった。PC狂いの男の子など 垂涎ものだったろう。秘書ペッパーとの、間を置いたクールな関係も良かった。
今回の悪者の親分マンダリン(ベン キングスレー)が、実は雇われた役者だった というのには笑った。さすが、ガンジーを演じてアカデミー主演賞をとった役者の演技で、こんな軽い役でも実によく演じている。本物の悪役キリアン博士を演じた ガイ ピアースも怖いほど悪い奴になっていて良かった。
最後、アイアンマンは、自分の渾身の作品アイアンパワースーツを、ペッパーのために全部破壊して、「夜空の星」または「、打ち上げ花火」にしてしまって、自分の動力源アーク リアクターまで投げ捨てて、「アイアンマンパワースーツがアイアンマンではなくて、ぼくがアイアンマンなんだ。」というせりふで終わる。パワースーツがなくても自分は自分という自信を持って、秘書ペッパーと一緒に生きていく、ということだろうが、これでいいのか?ペッパーの望み通り、トニーは、ただの男に戻って、仲良く二人で暮らしましたとさ、、。これでは、おとぎ話の終わり方ではないか。42体のアイアンマンパワースーツよりも、米国の安全保障よりも、ペッパーが大事ということか。犠牲が大きすぎないか。
だいたいアークリアクターがなくなっても、トニーの心臓は大丈夫なのか。おまけに キリアン博士によって遺伝子組み換えでスーパーパワーをもってしまった秘書ペッパーは、もう死ねない不死身体のはず、そんな二人が幸せに暮らしていけるのか???というような細かいプロットの矛盾については、言及しないのが、賢いSFアクション映画を観るときの「お約束」だ。
見ていて、とにかく楽しい。
大型娯楽作品は、まず観て、そして楽しまなければ損だ。
監督:シェーン ブラック
キャスト
トニー スターク :ロバート ダウニー ジュニア
ペッパー ポッツ :グイネス パルトロウ
マンダリン :ベン キングススレー
キリアン博士 :ガイ ピアース
ジェームス ローズ中佐 :ドン チーデル
ハッピー ホーガン運転手:ジョン ファブロー
2013年4月23日火曜日
映画 「コンチキ」
ノルウェー映画
原題:「KON-TIKI」
監督:ヨアキン ローニング
エスパン サンドベルグ
2013年アカデミー賞、ゴールデングローブ賞候補作
ノルウェーの人類学者で冒険家、トール ハイエルダーによる「コンチキ号漂流記」(偕成社)や、「コンチキ号探検記」(ちくま文庫、河出文庫)は、子供の時に、夢中で読んで、愛読した。冒険物語の中でも ピカイチ。ドキドキワクワクの連続だ。実際に、ハイエルダーがコンチキ号で、南米から南太平洋まで航海したのは、1947年だが、彼の航海記は、いま読んでも大人も子供も楽しめて、全く古さを感じさせない。ユーモアたっぷりで、ウィットに富んだ、気品のある文章は、いつまでも人を惹きつける。20世紀の名著の一つだそうだ。
実際航海中に クルーによって撮影されたフイルムは、長編ドキュメンタリーに編集されて、1951年のアカデミー賞、長編ドキュメンタリー賞を受賞している。
コンチキとは、インカ帝国の太陽神ピラコチヤ コンチキの名前からきている。ノルウェーの人類学者トール ヘイエルダールは、南太平洋ポリネシアの島々を学術調査して、ポリネシアの神々がインカ帝国のそれに酷似していることや、人々が東からやってきたと、言い伝えられていることから、ポリネシア人は 南米から移ってきた民族であることを確信する。当時、ポリネシア人が はるか、8千キロもの海を渡って 南米から来たという学説を信じる者はいなかった。そこで、彼は、自説を証明しようと、コンチキと名付けた「いかだ」を作り、南米から南太平洋に向かう計画を立てた。インカ帝国を征服したスペイン人の残した図面をもとに、バルサという南米産の常緑樹や、松、竹、マングローブなどを使って、いかだを組み、麻でマストを作る。何の動力もつけずに、風と、フンボルト海流を頼りに、5人のクルーとともに、太平洋を渡る。
南米ペルーを1947年4月に出発、102日後の8月に、彼らは、遂にポリネシアのツアモツ諸島に到着。7000キロ余りの距離を航海して、ペルーからポリネシアまで 人々が海流にのって移動することができることを証明した。ポリネシア人の先祖が南米のインデアンだという学説が証明された形になったが、のちに、ヘイエルダールの学説は否定される。DNAなど、科学的な調査によって いまではポリネシア人はアジアを起源とすることが、定説になっている。
しかし、ヘイエルダールはいつまでも、ノリウェーの英雄であることに変わりはない。現在、コンチキ号は、ヘルシンキの博物館に展示されている。
2006年に、ヘイエルダールの孫たち6人が、再びコンチキ号を作って、ペルーから太平洋を横断する航海に挑戦した。ヘイエルダールが作ったのと同じ、いかだを作り、ポリネシアに渡った軌跡をなぞることによって、今日の海洋汚染が海中動物や植物にどのように影響しているかを調査するのが目的だったそうだ。60年経っても ヘイエルダールの冒険心は、孫の代まで受け継がれているようだ。
映画は 今年のアカデミー賞候補になったが、受賞にならなかったのは、アング リーの「ライフ オブ パイ」の同じような海の漂流ものが重なったのが不運だったのかもしれない。映像の魔術師、アング リーの鮮やかな色彩の氾濫、光と影の芸術、最新技術を駆使しての映像美には、誰も勝てはしない。
しかし、「コンチキ」の自然描写も、秀逸だ。海から日が昇り、海に日が沈む。サメの襲撃による恐怖、くじらの群れとの交流、光り輝くクラゲの遊泳、降るほどの星々。
ハイエルダールの描き方も良い。自分の学説の曲げず、それを証明するために学識者や「ナショナルジェオグラフィー」や、新聞社などから 航海に必要な資金を集めようと、足を棒にして回るが、一向に資金提供者を見つけられない。ペルー大使に直談判して 誇り高いペルー民族が ポリネシア人の先祖だと、熱心に説得して資金を引き出すところなど、涙ぐましい。航海のクルー探しでも、経験者を集められず、やってきたのは、冷蔵庫のセールスマンで、海を知っているどころか、泳ぐこともできない男だ。
やがて航海が始まり、6人6様の個性の強い男たちが、協力したり、ぶつかったり、いがみ合ったりするが、キャプテン ハイエルダールのいつも穏やかな人柄が救いになる。
唯一の外部との連絡を果たす無線機がだめになっても、現在位置がわからなくなっても、客観的にみて、全く希望がないように思える局面でも、自分の根底に楽天性をもち、自分を信じることが大切だということが よくわかる。冒険物語はいつも自分を励ましてくれる。だから、読むのも、見るのも大好き。
この映画をみていると、ノルウェー人にとって、いかにハイエルダールが、大切な存在で、みなが誇りにしているかがわかる。アムンゼンにしても、本当に立派な冒険者たちを生んだ国だ。
6人のクルーとキャスト
トール ハイエルダール :パル ヘイゲン
エリック ヘイゼルベルグ:オッドマグナス ウィルアンソン
ベント ダニエルソン :グスタフ スカルスガード
クント ホーグラン :トビアス サンテマン
トルステイン ラビー :ヤコブ オフテブロ
ヘルマン ワジンガー :アンドレア クリスチャン
2013年4月22日月曜日
小野伸二、がんばる
小野伸二、33歳、背番号21、ポジションはMID、25ゲームで8ゴールを成功させ、さらにチームを、レギュラーシーズンで、みごと、優勝させた。トニー ポポヴィッチ監督は、今年の最優秀監督賞を受賞した。新造チームが 10チームあるプロのチーム戦で 上位に食い込むことは不可能と言われていたにも関わらず、強豪チームを次々と破り、優勝したのは、胸のすくような快挙。昨年9月に小野伸二が 加わってからは小野の人気はすごい。試合ごとに、オージーファンが、オーノ、オーノ、を連呼していた。
昨日の午後、サッカーのグランドファイナル戦があった。レギュラーシーズン戦とは別に、10チームの総合点を上げた2チームが、最終的に戦う、いわばオーストラリアで一番強いサッカーチーム王者決定戦だった。小野伸二のウェスタンシドニーワンダラーと、セントラルコースト マリナーズとが試合をした。マリナーズは、過去3回続けて優勝している強豪チームだ。どちらのチームも、熱狂的なファンが多い。観客は、どちらもチームの選手たちと同じシャツを着て、応援に来る。でも、昨日は地元、シドニー勢のウェスタンシドニーワンダラーの、赤と黒の縞のシャツを着たファンがずっと数では多く、試合前から異様な盛り上がり方をした。オリンピック会場につめかけたのは、4万2千人余り。4万2千人と軽く言うが、シドニーの人口は、376万人だ。野球の巨人戦で東京ドームに2万人集まるといっても、東京の人口は 1千322万人だ。これまで、これほどサッカーの試合が 盛り上がることはなかった。シドニーでサッカーがこれほど熱くなっていて、それを日本人の小野が機動力になっている。
試合結果は0対2で、ウェスタンシドニーワンダラーは、優勝を逃した。善戦したが、前半で得点をあげられ、後半、ペナルティキックで点を取られた。SBS国営テレビのサッカー解説者で、自分もサッカーのエースだった クレイグ フォスターは、試合を振り返って、「2回もペナルテイーを取られた。これについては賛否両論あるだろう。」と言っていた。サッカーのペナルテイーは、たった一人のレフリーの判断に任される。公正な判断だったか、疑問をもつことも多い。
小野もシュートしたが、得点にならなかった。残念。
グランドファイナルには 優勝できなかったが、ともかくも、レギュラーシーズン戦ではチームは、優勝した。小野は 今年の契約延長にサインした。
ニュースでも、小野の顔写真を引き伸ばしたお面を、オージーの子供たちがかぶって、オーノーオーノー、シージー シージーと黄色い声を上げて声援している。小野伸二の活躍が 嬉しい。
2013年4月18日木曜日
映画 「オブリビオン」
映画「オブリビオン」を観た。原題「OBLIVION」アメリカ映画、サイエンスフィクションアクション。日本での公開は 5月31日。
監督:ジョセフ コジンスキー
キャスト
ジャック:トム クルーズ
ビーチ :モーガン フリーマン
ジュリア:オルガ キュリンコ
ビクトリア:アンドレア ライズボロー
ストーリーは
地球はすでに60年前にエイリアン スカブによる攻撃で壊滅していた。生存者はみな、他の惑星に移住している。かつては、米軍海兵隊員だったジャック(トム クルーズ)は、地球に残って、残存するエイリアンの監視と始末をする命令を受けて、小型宇宙船に乗って毎日パトロ-ルしている。まだ、あちこちの洞窟や地下壕のなかに、エイリアンが隠れていて、生き残った人間を攻撃してくる。ジャックは、最新技術を駆使して作られた球形の攻撃型宇宙船で、任務を遂行する。指令は 他の惑星の司令塔から PCを通じて送られてくる。ジャックのパートナー、ヴィクトリアは、危険な任務のために出かけていくジャックを、二人が住んでいるカプセルから PCを通じて見ていて、後方援助する。家は、汚染された地面から、はるかに高い位置に建てられたカプセルで、中で、空気も水も人工的に作られている。
ジャックは 何度も何度も同じ夢を見る。それは、自分がニューヨークのエンパイヤビルデイングの展望台で 美しい女性と微笑みを交わしているシーンだった。そんなある日、パトロールをしていると、突然、大型のシャトルが墜落してきて、地球に激突する。大破したシャトルから、5つの人間を乗せたカプセルが散らばった。ジャックは、生存者を救助しようとするが、ジャックのパトロールマシンは、容赦もなく次々と 人を乗せたカプセルを 攻撃して爆破させる。ジャックは、必死で最後に一つ残ったカプセルを守る。残ったカプセルの中で眠っていたのは、ジャックが これまで幾度も夢で見た、美しい女性だった。
しかし、女性を保護したジャックは、何者かに襲われて拉致される。連れていかれた洞窟の中で、ジャックが対面したのは、マルコム ビーチと名乗る、地球に残ったレジスタンス軍の指揮官だった。そこで、ジャックは驚くべき事実を知らされる。
実は、地球には、エイリアンなど居ないのだった。地球を破壊したエイリアン、スカブは人間の中からジャックのような優秀な人を選んで、そのクローンをたくさん作って、思うまま使用している。ジャックやヴィクトリアも そうして作られたクローンであって、すでに人間ではない。しかし、ジャックは例外的に、人間だったときの記憶をもったまま生きている。
カプセルで眠っていた、美しい女性は、ジュリアという名の女性宇宙飛行士で、60年前に宇宙に飛び立ったNASAのミッションだった。しかも、ジュリアはジャックの妻だった。ジャックは、自分がクローンであって、ジュリアの本当の夫ではない、と知るが、ジュリアは、60年前のジャックの記憶をもったジャックを 自分の夫として受け入れる。
恐らく、マルコム ビーチらのレジスタンスとジュリアは 唯一の地球上の生き残りだろう。レジスタンスは 絶えず攻撃にさらされていた。ついに、司令官ビーチは 敵の攻撃で致命傷を受ける。ジャックは、エイリアン、スカブの本拠地に乗り込むために、捕獲したジュリアをカプセルごと連れていく、と連絡する。ジュリアは、ジャックをうながして、自分が原子爆弾を抱えて、エイリアンの司令塔に入り込み爆破するつもりでいた。ジャックは、それに同意したふりをして、ジュリアを再び眠らせてカプセルに入れて、安全な隠れ家に送り込み、カプセルには、致命傷を受けているビーチを乗せて、司令塔に向かう。二人は、宇宙に浮かぶエイリアンの本拠地に入り込み、爆破する。スカブの本拠地は 木端微塵の宇宙の塵となった。
3年の時が経つ。あれから ジュリアはジャックの子供を生み、泉のほとりの隠れ家で平和に暮らしている。生き残ったレジスタンスたちも健在だ。
というストーリー。
二人乗りの小型ヘリコプターのような 球形の戦闘機を自由自在に繰って、地上や空を飛び回る。真っ白でピカピカ光っている。その乗り物を小型にしたような球形のレーダーつきの戦闘ロボットが いつも 後からついてきて、援護射撃して守ってくれる。男の子ならば 誰もが乗ってみたい乗り物、誰もが夢中になりそうな戦闘ロボット。操縦士は、白い宇宙服を着て、ライフルのような銃を背中に背負っている。小型のバイクも 装備されている。いくつになっても 年を取らない、少年のようなトム クルーズが大真面目な顔で、ちょっと嬉しそうに それを操作している。うらやましい。
地上にそびえたつ、プール付き、寝室、台所付きの住宅カプセルには、戦闘機の発着できるへリポートが付いている。すべてガラス張りで美しい。それで、出かけていけば、訳の分からない玩具のようなエイリアンが潜んでいて、それをバリバリ倒していく。これは、メカ好きな男の子たちのための おとぎ話だ。見ていて、とてもわくわくして、うらやましい。
ふつうSFアクションに女性が出てくると とたんにメロドラマ風に 話がトロくなって、つまらなくなるが、この映画は、そんなことはない。さすが、トム クルーズだ。SFなのに、ラブシーンなどが入ってくると、「そんなことをしている場合じゃないでしょ。地球の存亡がかかってるんだからボヤボヤするんじゃない。」と 激を飛ばしたくなるが、この映画では必要ない。登場するジュリアも ヴィクトリアも人工的近未来の顔をしていて、愛だ恋だとべたつかない。ジャックの妻、ジュリアは宇宙飛行士だし、スカブを倒さないことには 人類の生存が危ぶまれる、と わかればすぐに爆弾を抱えて敵地に飛び立とうとする。立派だ。最後に3歳になった娘が出てきて、ふむふむ、そんな時間があったんですか、という感じ。ジュリアを演じたオルガ キュリエンコという女性、日本人かと思ったが、可憐で可愛い。SFだから、頭の良い人が見ると細かいプロットで理屈に合わないとか、科学的でないとか、地球上で生き残ったのはレジスタンスだけで動植物はどうなったのか、とか、放射線で破壊されつくした地球に他の惑星から指令がどうやって届いたのかとか、いろいろ、よくわからないところもあるだろうが、深く考えないで、画面を楽しむのが良い。
安物のSFでなくて、120ミリオンドルというような、沢山のお金をかけて、こういった美しいSFの映像を作り出すことができるハリウッド映画。やっぱり楽しい。見る価値はある。
http://www.imdb.com/title/tt1483013/
http://www.imdb.com/title/tt1483013/
2013年4月16日火曜日
映画「ハイドパーク オン ハドソン」

月刊雑誌「文芸春秋」のはじめの数十ページは、いつも、その時々の様々な分野で活躍している人のエッセイが載る。そこで、誰の文だったか忘れたが、大学教授のエッセイで、彼が「日本は昔、アメリカと戦争したから、、」と話し出したら、受講中の学生たちが「えええー?」と心底吃驚した とあった。それで、教室のざわめきが静まったとき、一人の男子学生が恐る恐る、「、、、で、どっちが勝ったんですか?」と、教授に聞いたという。これには、たまらず、おなかを抱えて笑った。
また、もうすこし前の、やはり文芸春秋のエッセイで、ある美術大学教授が 自分が子供の時、B29に焼け出された話を 学生たちに聞かせたら、「えー?そんなに濃い鉛筆があるんですか?」と、問われたという。B29は、B1 とかB2と、数字が上がるほど太くなって、濃くなる鉛筆のことかと思ったらしい、と。
新人類だか、幼稚園大学生だか、ニートだか、ノマドだか、異星人だか、なんか知らないが、自分の国がそれほど昔でもない過去に、とんでもなく無鉄砲な戦争をして、米国の占領下に置かれたことがある現代史くらいは、知っていたほうが良い。その前時期に、今がとてもよく似ているように思えるから。
映画「ハイドパーク オン ハドソン」を観た。日本が太平洋戦争で戦った、相手国アメリカの当時の大統領、フランクリン ルーズベルトの晩年のエピソードを映画化したもの。ルーズベルトをビル マーレイが演じていて、今年のゴールデン グローブ最優秀男優賞の候補になった。
ルーズベルトと言えば、日本人にはなじみ深い顔だ。小学校高学年の教科書には、スターリン、チャーチルに並んで、彼がサインをする「ヤルタ会議の3人」の写真が載っている。この3人が戦後社会の舵取りとなった。
民主党出身。第32代大統領(1933-1945)で、アメリカ政治史で、唯一、4選された大統領。アメリカで最も高く評価されている大統領でもある。ニューヨークハイドパーク生まれ。裕福で 政治色の強い家庭で育ったユダヤ人。第一次世界大戦後の世界恐慌のなか、自分の信じるケインズ福祉国家を実行し、ニューデール政策をとって景気を回復させ、世界恐慌のどん底からアメリカを救った。また、当時各家庭にようやく普及したラジオを通じて、初めて国民に、じかに対話をした。
しかし、大戦中、在米日本人から財産を奪い、強制収容所に送り、アフリカ系アメリカ人の公民権運動を徹底して妨害した人種差別主義者だった。日本の敗戦を見ずして、直前に心臓麻痺で急死した。
監督:ロジャー ミッチェル
キャスト
ルーズベルト:ビル マーレイ
英国国王ジョージ6世:サミュエル ウェスト
クイーンエリザベス :オリビア コールマン
デイジー :ローラ リネイ
ストーリーは
第二次世界大戦前夜。
アメリカ社会は 世界恐慌から抜け出しつつあったがフランクリン ルーズベルトの責任は重い。ヨーロッパでは、ドイツ、ナチスの力が拡大する一方で、脅威となっていたが、イギリスではジョージ5世が亡くなり、長男のエドワードが、ナチス、ヒットラーと密接な関係をもったシンプソン夫人と再婚するために、王位を捨てた。このため予想も期待もしていなかった若く、吃音障害をもつ次男のジョージが王位を継承する。1939年。ジョージ6世は、初めてアメリカに渡り、大統領に会う。国王は、チャーチルをはじめ、議会に押される形で、ルーズベルトに不穏なヨーロッパ情勢に理解を得、ナチスドイツにアメリカが組しないという約束を、是が非でも取り付けなければならなかった。
ルーズベルトは小児麻痺で 下半身麻痺の障害者だったが 彼には妻エレノアと愛人で秘書のルーシーが居た。そこに彼は 長年のお気に入りだった遠縁のデイジーを迎えた。デイジーは、田舎から出てきてルーズベルトの身辺の世話を頼まれるが、ハイドパークの自宅の裏に小屋を建てたのは、引退後は’デイジーと暮らすためだ、ルーズベルトに告白されて、舞い上がる。デイジーが恋心を募らせていると、じつはその小屋で、ルーズベルトと秘書が逢引していることを知ってしまう。一時は田舎に帰ったデイジーだったが、実家に迎えに来たルーズベルトをみて、デイジーは第3番目の女として 彼のために生きる決意をする。
一方、クイーンエリザベスを同伴してアメリカに渡り、ニューヨーク、ハイドパークまでやってきた英国王ジョージ6世は イギリスと違って、自分たちを歓迎する人垣もなく、警備もなく、イギリス史式礼儀をわきまえないアメリカの人々の対応に驚愕し、腹を立て、困惑していた。椅子に座ったまま出迎えるアメリカ大統領、、、「ハイネス」と呼ばずに、「ねえーあなたのこと エリザベスって呼んでいい?」と妻エレノアに聞かれて、「NO」と強く否定する王妃、、、。アメリカ人の友達のような馴れ馴れしい態度、客を迎えることに慣れていない使用人たちの礼儀を失した態度、到着翌日には アメリカンインデアンのダンスを見ながらホットドッグパーテイーをするという。英国王には、ホットドッグというようなアメリカ下層労働者の食べ物を 写真で見たことがあるが、どうやって食べるものなのか想像もつかない。意表を突いたアメリカ川の受け入れ態度に 若い国王は困惑するばかりだった。
しかし国王は自分の父親ほどの年齢のアメリカ大統領に、次第に惹かれていく。チャーチルからイギリスの命運がかかった手紙を持たされてきた緊張は、ルーズベルトとのフランクな会話でほぐされて、癒される。国王は、大統領と互いに心を許し合えたと同様に、イギリスとアメリカが 強い絆で結ばれていることを確信する。ジョージ6世は、チャーチルの手紙を渡さずとも、立派にミッションを務めることができ、帰国する。
やがて、時がたちルーズベルトは、終戦を待たずに亡くなり、デイジーも死ぬ。彼女の残した日記から、ルーズベルトの秘められた生活が明らかになった。
というお話。
優秀な政治家で、ニューディール政策で、アメリカ経済のどん底から救ったルーズベルトの私生活の秘話を いま映画化する必要があるのだろうか。映画「ヒッチコック」でも 立派な業績を残して、いまだに彼ほどの天才的な映画監督はいないと、高く評価されている監督の私生活が 今になって表に出て映画化されて、私は悲しかった。なんだ、男としてはサイテーな奴だったのか、と女性の目で見て思う。
まあ、昔は女はみな男に依存するしかなかったし、女は社会的地位がなかったし、という事情はわかるが、昔でも立派な男はいた。自分なりに倫理観を持ち、女性を人間として自分と対等の価値を認め、自分の命と同じに愛する相手を大切にした男たちは、どんな時代にも、どんなところにも居た。だから、秘書兼、愛人の女に彼を「シェアしていきましょ。」と言われて、それを許して、3番目の女になるデイジーには、共感のかけらも持てない。
ジョージ6世がとても良い。初めて訪れたアメリカで、誰も国王を見ていないのに、人にすれ違うたびに帽子をとって、とっておきの笑顔で挨拶する国王、自分自身に自信を持てないで、緊張で吃音を繰り返す悩める国王。単刀直入に息子に話しかけるようにして話す ルーズベルトの話術にはまって、徐々に自信を取り戻す国王の気持ちが 映画を見ていてとてもよくわかる。厳格すぎる父親から愛情をもって接することがなかった国王、、次男であるため、何の期待もされずに育った恥ずかしがりやの国王が、ルーズベルトに息子扱いされて、うれしくなり、有頂天になる姿が、痛ましく、また共感を呼ぶ。映画「英国王のスピーチ」も良かったが、この映画のシーンも良い。ビル マーレイの大仰な演技や、ローラ リネイのやぼったさには、まいったが、ジョージ6世の サミュエル ウェストの演技に救われた。
2013年4月6日土曜日
浅田次郎の小説「蒼穹の昴」
浅田次郎の小説が好きだ。人間に対する優しい目差しが感じられる。彼は物書きのプロ、ストーリーテラーの名人だが、手作りで自分の世界を紡いできた人の、文章に対する真摯な眼差しが好ましい。悲惨で、客観的に見たら残酷な人生を歩んでいる人の生と死を描いても、皮肉や裏切りやあざとさとは縁がなく、あくまでも人の道に対して真っ直ぐで、優しい。宮本輝にも共通する、人への愛があり、ある種の陽気で楽天的な明るさが根底にある。
彼の「鉄道員」は名作だが、このような切れ味の良い短編も良いが、長編も良い。彼の トレジャーハント(宝探)しシリーズ、とでもいうか「シェイラザード」と、「日輪の遺産」と「蒼穹の昴」を続けて読んだ。「シェイラザード」は、昭和20年に台湾沖で2000人余りの人命と膨大な帝国陸軍の金塊を乗せたまま沈んだ、弥勒丸の引き上げに集まった男女の物語。「日輪の遺産」は、終戦直後、帝国陸軍がフィリピンのマッカーサーから奪った200兆円に値する金を、終戦時の混乱のなかで、隠した軍人たちのお話。
「蒼穹の昴」は、清国の財宝、1000カラットのダイヤモンド(龍玉)を乾隆大皇が、人目の届かぬ台地の奥底に封じ込める、お話だ。3つの小説の中で、「蒼穹の昴」1-4巻が一番面白かった。これだけ中国の現代史に通じ、歴史的人物に絡めて、物語を作るには、どれほどの史実を調査し研究し、歴史を読み込んできたのか、、、彼が検証した資料の束がどれほどのものだったか、想像すると、気が遠くなる。読んでいると、北京の街並みのたたずまいや、様々な人々が交差する様子が、映像を見ているかのように、生き生きと想像できる。本物の小説家というのは、こんな人を言うのだろう。
ストーリーは
時代は清朝末期。
河北省静海の地主の次男、梁文秀(リアン ウェンシユウ)は、地主の息子だが 変わり者で、貧民で牛の糞を拾って売り歩く李春雲(リーチュンユン)の死んだ兄と幼馴染の遊び友達だったことから、気軽に春雲の話し相手になってやったりする。文秀は「科挙」の試験を受けるために、上京するが、占い師に’将来天下の財宝を手中に収めるであろう、と予言された春雲を連れていく。
梁文秀は みごと科挙の試験を主席で突破して、政府の官僚となる。学問も財力もない春雲は 自ら男性器を切り落として宦官となって、西太后慈禮(シータイホウツーシー)に仕える。大清国を君臨して観劇と飽食に明け暮れる西太后は、みごとな舞を見せる春雲を手元に置いて可愛がる。しかし、列強国に囲まれた清国は、植民地化しようとする日本やヨーロッパ諸国の侵略を受け 外部の力によって音を立てて壊れていく。清国を近代化して延命しようとする改革派の梁文秀と、西太后を守って清国を延命させようとする李春雲の命は、4億の中国人の命とともに 激動の歴史の流れに投げ出され翻弄される。
というお話。
清朝6代目、韓隆大皇は、「バイカルのほとり、ゴビ砂漠の果て、ヒマラヤの峻嶮な峰から、南蛮の島々まで史上空前の大帝国を作り上げた」人だ。1000カラットの龍玉を家宝とする。彼の知識の源であり、生涯の心の友が、ヴェネチアからイエズス会を通じて派遣されたイタリア人、ジュゼッペ カスチリョーネだった。ダヴィンチの再来と言われた画家で、技師で、天文学、生物化学にまで通じている学者だ。彼はジョバンニ、バチスタ,テイアポロなど、ベネチア時代の先輩だった。当時、アントニオ ヴィバルデイもイエズス会から中国に派遣されようとしていたがヴィバルデイは 直前に逃亡、カスチリョーニは、ひとり清国に渡って、若い韓隆に教育を施し、西洋の科学を教え、芸術を伝えた。
利発な子供だった韓隆が、カスチリョーネに与えられた望遠鏡をみて、地球が円いことに気が付くシーンは感動的だ。のちにキリスト教が禁止されたあとでも、カスチリョーネの機転で 孤児院が運営され、そこでガラス作りや工芸作品が引き継がれていくシーンも印象深い。
利発な子供だった韓隆が、カスチリョーネに与えられた望遠鏡をみて、地球が円いことに気が付くシーンは感動的だ。のちにキリスト教が禁止されたあとでも、カスチリョーネの機転で 孤児院が運営され、そこでガラス作りや工芸作品が引き継がれていくシーンも印象深い。
清国は、もともとタルタル女真族の連邦体だ。漢人ではない。タルタル族大ハーンの子孫、韓隆の直系は、西太后の他に置いてはいない。清国末期には、長すぎる西太后の治世が続き、暗殺未遂も起きるが、これはタルタル族内部の内紛が原因だった。内部紛争から清朝崩壊へと、なし崩しに会う清国では、満州旗人か、漢人か、国の存亡に危機にあっても、民族の血の濃さが権力を決めるのだ。
一方、列強諸国は、帝国主義日本も、欧州の国々も 寄ってたかって清国を侵略、分割しようとしていた。日本は遼東半島を強奪するだけでなく満州王国を我が物にした。ロシアは’旅順、大連を獲得しようと、待ち構え、フランスは広州湾の租借をとり、雲南で鉄道を施設、それを起点に植民地化を狙っていた。イギリスは香港、九龍半島全部を自分のものにして、ポルトガルはマカオを摂取した。アヘン戦争で中国を思いのまま蹂躙した英国は、香港を99年間租借するというこう交渉までしていて、植民地化は、1997年まで’続いたのだ。
宦官制度の描写がすごい。手術による死亡も稀ではない。切り落とした男性器は「宝貝」パオペイと言い、雇い主に担保として取られ、移動にたびに見せなければならない。勤め上げて この担保を買い戻せればよいが、できなければ一生借金を背負うことになる。李春雲は 手術台が払えない為、自分で手術する。彼のように貧しいゆえに、餓死するか、占い師の言葉を信じて宦官として出世するか 二者択一しかできないとしたら、人はどちらを選ぶだろうか。
中国の歴史を学ぶと必ず出てくる「科挙」という国家試験制度を、文秀は通過するところが 興味深い。身分に関係なく秀才が唯一出世できる試験のために、全土から優秀な若者が集まって上京してくる。省の試験に合格して、挙人となり、中央の会試を突破して、「進士」となって、国政に携わる。試験問題が 実際の国の外交戦力を問うもので、それらの問いに、若い進士達が次々と実践的な答えをしていくところが 感動的だ。日本の一級国家公務員試験など、この進士試験のように、国家政策を自分で述べる質疑応答だと、おもしろい。例えば、「シリアの反政府勢力を支持しながら、どのように対露、対中外交を進行させるのか。」とか、「5%の消費税を上げずに効率的に税収入を増やすには、」とか、返答をすべて漢語で書かせるとか。
同じ年に進士となった、文秀と、王逸(ワンイー)と、順桂(ジュンコイ)の3人の友情が素晴らしい。国を背負って行く若々しい官僚たちの熱意と知性。そんな新しい清国への改革が 次々とつぶれて、誇り高い若者たちに 3人3様の悲劇が待ち構えている。
登場人物がみな魅力的だ。
清国改革派の梁文秀と、西太后を自らの命を懸けて守る李春雲、清国外交の命運を握る李鴻章将軍(リーホンチャン)、光緒帝、軍の権力を握る栄禄(ロンルー)、春雲に愛される宦官の蘭琴(ランチン)、春雲の妹 玲玲(リンリン)、カスチヨリーネ神父、フランス人ファビエ神父、ニューヨークタイムス記者のトマス バートン、会津藩士族出身の新聞記者、岡圭之助、、、どの登場人物にも魅力があって、忘れられない。
清朝末期の歴史の重みに圧倒され続けて4巻まで読み進んだ。そして、今さらながら中国という国の大きさに目を見張る。3000年の歴史に人類の知恵が詰まっている。大国中国、こんな国と戦争をしてはいけない。日本は大陸から分離した今、大陸をマザーランドと呼ぶ、小さな島国にすぎないのだから。
2013年4月2日火曜日
小野伸二がんばれ!
シドニーに住んでいて、何らかのプロフェッショナルとして活躍している日本人は多い。
コンピューター技術者、研究者、医師、獣医、薬剤師、歯科医、フィジオセラピスト、ナースも私と定期的に交流しているナースだけでも12人くらいいる。しかし、スポーツのさかんなこの国で、先祖代々、肉だけを食べて生存競争に勝ち抜いてきたオージーたちに交じって、日本人が活躍してくれることは、驚異に値する。
日本人が3週間かかって大腿骨骨折から、やっと立ち上がり 歩くためのリハビリに入るのに比べて、オージーは,術後1週間で歩き始めるし、日本人が1週間絶対安静にする心臓のメジャー手術でも、オージーは5日で退院だ。出産後、産婦を1週間は入院させる日本と違って、オージーは、出産後すぐに、産婦に歩いてシャワーを浴びに行かせて、翌日自宅に帰させる。医療現場にいて、体力の差が歴然としている姿を見ているから、肉食欧米型勢力のやるスポーツに、米と魚を食べてきた日本人が 負けずに活躍していることは、大変立派なことだと思う。
サッカーの小野伸二(33歳)が、シドニーで活躍している。
チームは「ウェスタンシドニーワンダラーズ」で、ポジションはもちろん、(MF)ミッドフィールダー。彼が昨年9月に入団して以来、大活躍してくれて、そして遂に このチームが、シーズン優勝をした。もともと、ワンダラーズは、Aリーグ(日本でいうjリーグ)の中で、一番新しいチームで、全く優勝など誰も期待していなかった。優勝といえば、「セントラルコースト マリナーズ」か「、シドニーFC」だろう。今年、「シドニーFC」は、イタリアからアレクサンドロ デル ピエロを入団させ、このチームにはオーストラリア代表サッカルーズの主将ルーカス ニールも居る。また「ニューキャッスル ジェット」には、元イングランド代表のエミール ヘスキーが居る。新しいチームが優勝するとは、誰も思っていなかった。本当に、ワンダラーの優勝は、快挙なのだ。
ウェスタンシドニーワンダラーズの拠点地は、パラマッタという西部。西部の人間は他とは違う。西部劇に出てくる開拓民を思い描いてくれれば良いかもしれない。粗暴で男そのもの、とにかくスポーツに熱狂的で、すぐにヒートアップする。移民も多い。それだけに、オーストラリアで一番人気のあるフットボールよりも、サッカーファンが多い。
小野伸二が、チームのオファーを受けたのが、去年の9月28日、シドニーに到着したのが、10月1日。その日のチームファンたちの空港への出迎えは、熱狂的で、ニュースを見ていても、すごかった。日本語を知らないチームサポーターたちが、「オーノ オーノ シンジ― シンジー」の合唱だった。
9月のシーズン開幕後、彼は、すぐに試合に参加して、チームをまとめていた。彼は攻撃の全権を握り、守備では前線からの守備に貢献する。必要な時に、必要な場所にいて、パスで、アシストする。ボールをよくコントロールして、送り出す。24試合に出場して、7得点を挙げた。快挙だ。でも、10連勝して、臨んだ、3月23日、地元のパラマッタ スタジアムの試合で、足の付け根を大怪我をして、休場した。次の3月29日の試合で チームは勝ち進み、シーズン優勝が決定した。優勝戦に出られなくて、悔しかっただろう。
「ウェスタンシドニーワンダラー」は、Aリーグに参加初年度に優勝したことになる。トニー ポポヴィッチ監督、キャプテンはヴュー チャンプ、小さなチームで、控え選手とレギュラー選手との差がなくて、チームワークが良い。小野に言わせると「誰が出ても同じことをやる。」チームだ。
「セントラルコースト マリナーズ」、「パース グローリー」、「メルボルン ヴィクトリー」、「ブリスベン ロア」、「シドニーFC]、「ニューカッスル ジェット」、「メルボルン ハート」、「ウェリントン フェニックス」、「アデレード ユナイテッド」の10チームが戦い、レギュラーシーズン優勝が決まったので、これからは、後半戦で、セミファイナル2試合と、グランドファイナルがある。これに勝てば、ファイナルの王者となる。オーストラリアで一番のチームとなる訳だ。
すでに、シーズン優勝チームは、アジアサッカー連盟のACLの選抜対象になっている。だから、小野伸二は、オーストラリア代表として、アジアゲームに出場することになる。これは とても嬉しいことだ。
1日も早く、怪我から回復してほしい。がんばれ!
2013年3月24日日曜日
映画 「大いなる遺産」
原作:チャールズ デイッケンズ原題:GREAT EXPECTATION
監督:マイク ニューウェル
キャスト
マグウィッチ :ラルフ フィネス
ピップ :ジェレミー アービン
ミス ハビシャム:ヘレナ ボンハム カーター
ステラ :ホーリー グレンジャー
ストーリーは
孤児フィリップ ピリップ(通称ピップ)は、鍛冶屋の姉夫婦の家に引き取られていた。ある早朝、両親の墓に花を供えようとして、脱走犯に出くわしてしまう。そのいで立ちの恐ろしさから、言われるままに、秘密に食物とやすりを与える。その後、成長したピップは、村で唯一裕福なミス ハビシャムの屋敷に、彼女の姪のステラの遊び相手として、定期的に招ばれるようになる。ビップは貧しい少年を見下して高慢で意地悪なステラの態度に傷つきながらも ステラの美しさに心を奪われる。
その後、立派に成長したビップは鍛冶屋の見習いをしていたが、ある日、弁護士の訪問を受ける。匿名の人の好意で、資金を提供され、ロンドンで紳士になる修行を受けられることになったのだった。ビップはその匿名の人は、ミス ハビシャムに違いなく、立派な紳士になれば、ステラと結婚できるに違いないと思い込む。嬉々として、ピップはロンドンで、弁護士の仕事を手伝いながら、紳士修行に精を出した。しかし、ある日、子供の時に 自分が助けた脱走犯、アーサー ラステイグが訪ねてきて、ピップを一人前の紳士に教育する資金を提供したのは自分だと 告白される。彼は、イギリスを離れ、オーストラリアで、農場主として成功し、ピップに会いに来たのだった。その昔、罪に陥れられた、彼には妻も娘もいた。その娘がステラだったのだ。ピップはミス ハビシャムを訪ね、ステラに会うが、ステラはピップの気持ちを知りながら、ピップと敵対する大金持ちの俗人と結婚することになっていた。
失意のピップは アーサー ラステイグを、警察の追手から逃れ、もう一度、オーストラリアに帰そうとするが、失敗。逮捕されたアーサーは怪我を負い、死ぬ。ピップは紳士になっても、何一つ幸せを掴めないことを悟る。
というお話。
原作者 チャールズ デイケンズ(1812-1870)は ヴィクトリア時代を代表する作家。「オリバーツイスト」、「クリスマスキャロル」、「デヴィッド コバフィールド」、「二都物語」などが代表作。生家が破産したため、学校教育は4年しか受けられず、たった12歳で、独立。靴墨工場で働きながら、ジャーナリストになる夢を持ち、1834年、22歳でモーニング クロニクル紙の記者になった。自分をモデルに貧しい者達を小説に書き、成功。68歳で亡くなると、ウェストミンスター寺院に 英国を代表する作家として埋葬された。墓石には、「苦しみの多い抑圧された貧しい者の共鳴した、イギリスで最も偉大な作家だった」という文字が彫られている。
プルースト、ドストエフスキー、トルストイ、ジョージ オーエルなどから 高く評価された。英語圏の国々では 彼の作品が必ず教科書に用いられている。日本の国語の教科書に、森鴎外や夏目漱石が載っているようなものか。
それほどポピュラーな作家の作品だから、これまで7回も映画化されている。
最も印象に残っているのは、1946年 デヴィッド リーン監督によるのもだろう。白黒映画だが、この年のアカデミー賞、監督賞を取っている。ピップは ジョン ミルズ、ステラをジーン シモンズ、マグヴィッチを フィンレイ カリーが演じている。
1998年の、アルフォン カーロン監督によって、撮影された、同じ作品では ピップを、イサン ホーク、ステラをグレン パースロー そしてマグヴィッチを ロバート デ ニーロが演じている。
今回の新しい「大いなる遺産」では、ヘレナ ボンハム カーターの演じるミス ハビシャムの怪奇ぶりが秀逸だ。裕福で恵まれた家庭の一人娘だが 結婚式の当日に婚約者から婚約破棄の手紙を受け取り、それ以来、時間を止めて、ウィデイングドレス姿のまま、何十年も生ける屍のように生きている。引き取ったステラを可愛がり、他の誰をも信頼しない。屋敷は蜘蛛の巣と 埃にまみれている。そんな異常な女を、役柄にぴったりなヘレン ボンハム カーターが好演している。彼女、映画監督のテイム バートンの奥さんで、こんな人間離れした役ばかりやっている。ハリーポッターシリーズでも、ずっと怖い魔女役で出演していた。「レ ミゼラブル」では孤児コデットを虐待する叔母の役、「スウィートトッドフリート街、悪魔の理髪店」では、人肉でパイを料理する女の役、「アリス ワンダーランド」では、トランプの女王役になっていて、とても怖かった。全然ふつうの女性の役で出てこない。
囚人アーサー ラステイグが、オーストラリアに流刑にあったのち、羊の牧場主として成功する。大金を手にして、警察に追われながら、またロンドンに ピップに会うためにもどってくる。自分の命を助けてくれた少年を 一人前の紳士にしてやりたいという願いをかなえるだけのために、自分の命を粗末にする。そんなあわれな男の役を ラルフ フィネスが演じている。この映画で 彼が一番輝いている。2時間あまりの映画の中で、彼が出てきただけで役者の貫録というか、迫力が 他の役者たちに比べて全然違う。炎のように生きた男の人生が ことさら痛ましく感じられるのは、役者の存在感ゆえだろう。「ハリー ポッター」でも、「ブルンジ」でも、「「愛を読む人」でも、とても良かった。
現代社会では考えられないお話だが、階級社会が永遠に続くと思われていた、この時代に紳士になること、貴族社会で受け入れられることがそれほそ大切だったのか。いま考えれば、アーサー ラステイグは、じめじめ雨ばかりで、気候の良くないロンドンなどに見切りをつけて、せっかくオーストラリアで牧場主で成功したならば、どうしてピップをオーストラリアに呼んでやり、一緒に事業を拡げて、楽しく暮らさなかったのだろうか、と思うけど。囚人の移民でできたオーストラリアは、気候がよく、刑期を終えた囚人には土地が与えられ、イギリス階級社会からいったんドロップした人々にとっては 生きやすい土地であったはずだ。
そういえば ローレンスの「チャタレー夫人」にも、夫人がイギリス階級社会の誇りも何もかも捨てて、無教養で無口な「きこり」と一緒に、手と手を取り合って、「二人でオーストラリアに逃げましょうか。」という台詞があった。囚人がさかんに送られていたオーストラリアという新しい国を当時のヨーロッパ人が、どう捉えていたかが 推測されて、興味深い。
いま考えれば、二人してオーストラリアに移住したら、きこりは特殊技能を生かしてイングランド式庭園をつくる造園や、公園管理、林野庁に就職して出世できただろう。不能の夫をもったチャタレーが、名誉を捨てて 新開地で贅沢さえしなければ 彼と幸せなハッピーエンドもあり、だったかも。
時代は変わる。人の考え方も価値観も変わる。階級制度、奴隷制度、専制君主、男尊女卑、、、壊されるべきものは、壊される。いつまでも虐げられた者は 黙ってはいない。とってつけたような紳士の名誉よりも実質を。紳士淑女の虚礼よりも生の人間を、しっかり取り戻すことだ。
2013年2月26日火曜日
映画「シルク ド ソレイユ 彼方からの物語」
1985年以来 カナダを本拠にするサーカス集団、シルク ド ソレイユのパフォーマンスを映画化したもの。ラスベガスで公開された 7つのサーカスを、50か国余りの国々から集まった、1200人のパフォーマーが演じている。公演は、「O」、「KA」、「ビバ エルビス」、「LOVE」、「ズーマニテイ」などなど7つの公演を合わせて編集されている。日本では去年の11月に映画館で公開された。
カーニバルに迷い込んだ少女(エリカ リンツ)が 空中曲芸師の青年(イゴール ザリボフ)に恋をする。青年はエリカを見つめて、空中で綱を落としてしまい、落下。砂に飲み込まれる。そのあとを追って、エリカは青年を探しに、冒険の旅に出る。というストーリー。台詞はなく、すべてパントマイムと音楽だけ。砂に飲み込まれ、砂漠でピエロに出会ったエリカは 彼の案内でさまざまな人々に出会いながら、冒険を重ねていく。半ばからは、誰も乗っていない空の三輪車が、彼女を案内して空中曲芸師の青年を探し求める。
シルク ド ソレイユを3Dデジタルで映像化するアイデアは、ジェームス キャメロンからきたそうだ。キャメロンは「アバター」撮影後、3Dで録った彼のデモフィルムを シルク ド ソレイユの社長に送り、それを契機に両者が会って、フイルム化が実現したそうだ。プロデユーサー兼 総指揮が キャメロン、映画監督は、「シュレク」や「ナルニア物語」のアンドリュー アダムソンだ。キャメロンは、現在活躍している映画監督の中で、最も尊敬すべき監督の一人だと思うが、長年ハリウッドにいる映画人にしては珍しく とっても人柄の良い人らしく、「アバター」発表の時には、自分が開発したカメラ技術の、デジタル3Dで、ビジュアル モ-ションを作った新しい技術を、他の映画監督たちを招待して、惜しげもなく公開したそうだ。
世界一の石油会社BPが アメリカ西海岸で事故を起こし、地下で噴出するオイルを止めることができなくて 世界を震撼させていた時、いち早く、自分たちが「タイタニック」撮影のために開発した水中ロボットや機材を BPに使うように申し出ていた。
世界一、深い海底を自分の開発した潜水機材で、遊泳した冒険家でもある。
このシルク ド ソレイユの撮影では、自ら3Dカメラを抱えて、空中で撮影したそうだ。18台の3Dカメラを同時に使いながら 動きの速いアクロバットを撮影したという。
この映画で見られる、ラスベガスの7つのショーのうち、幾つかは今でも公演されている。日本でも北米以外では 唯一シルク ド ソレイユの常設舞台が デイズ二ーランドにあった。2008年に 初めて「ZED」の公演が行われ、3年続いたが、2011年3月11日の地震で休業、安全な興行が保障できないことや、興行収入の問題があり、12月31日で興行が打ち切られた。全然、知らなかった。残念だ。でも考えてみれば サーカスのアクロバットは 一瞬の取り違い、一秒の相手とのミスが事故につながる。骨折や脱臼どころではない、脊椎損傷で死亡事故につながったり、一生車椅子の生活になりかねない。地震国ではリスクが多くなるので、彼らの 興行打ち切りと、全員の引き上げはやむを得なかったのかもしれない。
ずいぶん昔になるが シドニーで、シルク ド ソレイユを見に行った。大きな広場にカラフルなテントが立ち、それはそれは素晴らしいサーカスだった。
テントに入るなり たくさんのピエロたちが歩き回っていて、まだ舞台が始まる前なのに、お客が退屈しないように手品を見せたり、遊んでくれる。そのプロフェッショナルな立ち振る舞いで、お客は テントに入った途端に、おとぎの国に入り込むことができる。手品やアクロバットも、みな出し物に、生のオーケストラが演奏している。ヴァイオリニストの腕も素晴らしかった。ピエロの笑わせ方にも品のある、上質な笑い。
観ていると、マットの上で10人ほどの青年が 棒やボールを投げ合いながら自分たちも跳んだり空中回転するアクロバットで、一人の青年が動かなくなった。ピエロ達がその青年を速やかに運び出し、アクロバットは途切れることなく続いたので 私たちは何が起こったのかわからなかった。でも、すべてのパフォーマンスが終わったあとで、アナウンスで、「パフォーマンスの最中に倒れた団員は、病院に運ばれましたが骨折も怪我もしていないことがわかりました。ご心配かけました。」と放送された時、同時にワーっと お客たちが拍手と歓声があがって、みな喜び合った。忘れられないことになった。一瞬のミスが 団員にとっては命に係わるような仕事をしているのだ。
観ていると、マットの上で10人ほどの青年が 棒やボールを投げ合いながら自分たちも跳んだり空中回転するアクロバットで、一人の青年が動かなくなった。ピエロ達がその青年を速やかに運び出し、アクロバットは途切れることなく続いたので 私たちは何が起こったのかわからなかった。でも、すべてのパフォーマンスが終わったあとで、アナウンスで、「パフォーマンスの最中に倒れた団員は、病院に運ばれましたが骨折も怪我もしていないことがわかりました。ご心配かけました。」と放送された時、同時にワーっと お客たちが拍手と歓声があがって、みな喜び合った。忘れられないことになった。一瞬のミスが 団員にとっては命に係わるような仕事をしているのだ。
今回の映像のうち、どのパフォーマンスも素晴らしいが、エリカを案内するピエロがとても素敵。背が高くて手足が長く、ものすごいハイジャンプしながら走ったり、頭が後ろに着きそうなほど反り返ることができる。舞台回しの役だが、最高のピエロ。BENEDLKT NEGROという名前。トキメキ。
「ビバ エルビス」のショーの中の 沢山のトランポリンをロックに合わせて沢山の男の子たちが 跳んで跳ねて空中回転したり交差したりするのも楽しい。「LOVE」ではビートルズの曲に合わせて空中で大きな車輪が回り その中やその上を男たちが駆け回ったりする。すべてのアクロバットが 今まで見たことがあるボリショイサーカスの空中ブランコの100倍くらい危険度が高く、スピードがあるのに、観ていて楽しい。
「O」の水中撮影もすごかった。水の底からゆっくりアラビア風の音楽に合わせて、踊り子たちが 踊りながら引き上げられてくる。沢山の踊り子たちの踊りが 美しいが、驚いたことに最後にゆっくり踊りながら水から引き上げられてきた6人の踊り子たちは 一体何分間水中で息を止めて待っていたのだろうか。よく生きていました。
大きな金魚鉢のようなプールで一人水に入ってはプール際でバランスをとったり、美しいポーズをとる曲芸も美しい。3人のアラビア女性(?)のアクロバットは、3人とも怖いくらい体が柔らかくて、どこが誰の足で どこからどこまでが足なのか手なのかわからない。
「KA」の 巨大な床が垂直に立ち上がって、ワイヤー一本で男たちが戦闘を繰り広げるシーンは すごい迫力。ビュンビュン矢が 垂直の床に飛んできて付き刺さる。飛んでくる矢を避けたり、突き刺さった矢に体重をかけたりしながらスピーデイーに やっつけたり、やっつけられて床から滑り落ちて行ったりする。
でも私が好きなのは、空中で金色に輝く四角のワクを手や足や体でクルクル回したり、中に入ったりしながら踊る青年のパフォーマンス。鍛えぬいた男女の体が これほど美しいものか と感動する。
最後のエリカが、空中曲芸師アエリアリストに やっと会えて、二人が仲良く 一本のひもに手を絡ませるだけの命綱で 空中で踊る美しいパフォーマンスが良かった。「ふたりはやっと会えて、幸せに幸せに暮らしました、とさ。」という、おとぎ話がすんなり飲み込める 本当に美しい舞台だった。
本当に夢みたい。シルク ド ソレイユ。何て素敵な人たちだろう。
大きな金魚鉢のようなプールで一人水に入ってはプール際でバランスをとったり、美しいポーズをとる曲芸も美しい。3人のアラビア女性(?)のアクロバットは、3人とも怖いくらい体が柔らかくて、どこが誰の足で どこからどこまでが足なのか手なのかわからない。
「KA」の 巨大な床が垂直に立ち上がって、ワイヤー一本で男たちが戦闘を繰り広げるシーンは すごい迫力。ビュンビュン矢が 垂直の床に飛んできて付き刺さる。飛んでくる矢を避けたり、突き刺さった矢に体重をかけたりしながらスピーデイーに やっつけたり、やっつけられて床から滑り落ちて行ったりする。
でも私が好きなのは、空中で金色に輝く四角のワクを手や足や体でクルクル回したり、中に入ったりしながら踊る青年のパフォーマンス。鍛えぬいた男女の体が これほど美しいものか と感動する。
最後のエリカが、空中曲芸師アエリアリストに やっと会えて、二人が仲良く 一本のひもに手を絡ませるだけの命綱で 空中で踊る美しいパフォーマンスが良かった。「ふたりはやっと会えて、幸せに幸せに暮らしました、とさ。」という、おとぎ話がすんなり飲み込める 本当に美しい舞台だった。
本当に夢みたい。シルク ド ソレイユ。何て素敵な人たちだろう。
2013年2月25日月曜日
映画「ゼロ ダーク サーテイ」
これほど後味の悪い映画も他にない。
2001年9.11の主犯をオサマ ビン ラデインと決めつけ、CIAがSEALS(米海軍特殊部隊)を使い、彼の居場所を突き止めて暗殺するまでの過程を描いた映画。独善的で一人善がりで、正義の名を借りた容疑者への私刑と虐殺を正当化する。彼らは、ガードマンも持たず、無抵抗の武器を持たないラデインを一方的に殺害した。
ビン ラデインの急襲作戦に ゴーを出したオバマ大統領は 共和党にも出来なかったことをやった、この結果を高く評価されて、超保守、愛国支持者まで味方にしてしまった。容疑者を逮捕、捜査、尋問することもなく、主犯と断定し、深夜闇に紛れて、襲って殺すという、警察も行政も裁判制度もない私刑処分をしたのは、アメリカという世界一権力を持ち、法も民主主義も持たない無法国家だ。こんなことが まかり通るなんて。
いまだ、9.11については「アルカイダという有名だが実態が把握されていない組織による犯行ではない、」とする知識人も多い。一般に報道されていることが、事実ではなく、9.11直前に巨額のドルが、ウォールストリートで動いたことや、少なくとも、ペンシルバニアの飛行機事故は 爆弾犯によるものではなかったという目撃者や関係者が多いことや、誰一人として犯行を公に認める声明を出していないなどなど、わかっていないことが多い。未解決事件なのだ。
CIAやアメリカ政府が作り上げたお話ではなく、客観的な事実を私たちは、知る必要がある。
上映に先だって、アメリカ国内でも上院議員のジョン マッケイン、カール レヴィン、ダイアン フェインステインらが この映画はアメリカ政府に 人々の誤解をもたらす恐れがあると声明を出した。人権擁護団体も、映画のトップシーンで CIAが捕虜を虐待するシーンで、これらが国際法違反であるという理由で抗議声明を出した。
パキスタンも この映画は、購入せずパキスタン国内では上映できないようにした。前代未聞の形でパキスタン政府を無視してパキスタン国内で、アメリカ政府が介入、軍事行動をとったことで、政府も不快と遺憾を表明した。また映画のなかで、一般のパキスタン人がアラビア語をしゃべっている。パキスタン人は、ウルドウー語か、パシュト語を話す。また映画では、一般人がHUMMUSという、ひよこ豆とごま油のペーストを食べているが、トルコ人と違って、パキスタン人は、これを食べない。パキスタン文化に無知で、基本的知識さえ欠如しているため、このフイルムはパキスタン人にとっては悪い冗談でしかない、とパキスタン人コラムニストが語っている。
監督:キャサリン ビグロウ
キャスト
マヤ ;ジェシカ キャステイン
ジャステイン ;クリス プラット
ストーリー
2003年CIA分析官、マヤらはアルカイダのリーダー ビン ラデインを探し出すために、パキスタンに派遣される。ここでありとあらゆるテロリスト容疑者へ拷問をして、情報を得る。何日も食べさせず、眠らせず、ぶんなぐり、水攻めや性的拷問 何でもありだ。ビン ラデインは腎不全を患っている。常に 腎透析できる施設と医者を必要としているはずだ。当初からCIAは、顔の割れている アルカイダ ナンバー2のアブ アラハドを、追っていたが、その写真の顔は彼の弟で、すでに死亡していたことがわかった。ありとあらゆる手段で、アブ アラハトを追う。クエートのプリンスに、アルファ ロメオをプレゼントする代わりに、彼の母親の電話番号を手にする。そこから不審者をあぶり出し、ついに顔のわからなかったアブ アラハドがパキスタン国境ちかくで ある家に出入りしていることを突き止める。屋敷には数人の男女が子供たちと住んでいる。CIAの長官は、屋敷の男女は ドラッグ デイラーだと決めつけて、まじめに取り合わない。マヤは辛抱強く 監視して、この屋敷に住むのがビン ラデインに違いないことを 確信して、仲間を説得する。遂に、2代のステルスヘリコプターで、SEALSの面々が 夜間屋敷を急襲。側近の男女たちを、手あたり次第に次々殺していって、泣き叫けぶ子供たちに、ビン ラデインの部屋かどうかを確認したうえで、中に居た無抵抗の男を 殺害。何発もの銃撃をしたうえで、ラデインと確認する。というストーリー。映画の中では少なくとも ラデインとされる男以外に3人の男女を殺害しているが、実際はどうだった、誰にもわからない。
SEALSの元隊員マット ビソネットが、ペンネームでこの作戦の内幕を克明に描いた本を出版。これが映画の参考になっている。マット ビソネット自身が、ビン ラデインに銃弾を撃ち込んだそうだ。
SEALSはアメリカ人にとってはヒーローだが、本来は名前も顔もわからない秘密の存在だ。国のために自己犠牲の精神で特殊作戦を戦い、戦果を一般人に知られることはない。退職後も彼らは どんな作戦に従事したか、家族にも語ってはならないことになっている。この愛国の戦士の名前と顔が 表に出るときは、死んだときだけだ。
例えば、2006年イラクで銃撃戦の最中 窓を破って手りゅう弾が飛んできた。一瞬のスキもなくマイケル モンスール隊員は手りゅう弾の上に覆いかぶさり 体で爆発を受け、他の仲間たちの命を救った。2005年アフガニスタンでSEALSのヘリコプターが40人のタリバンに囲まれた。米兵全員が負傷、マイケル マーフィー隊員は覚悟を決め、電波の通じやすい広場に走り、全身に銃弾を受けながら無線で友軍の救助を依頼しながら絶命した。ニュースウィークによると、己の命を捨てて仲間を助けることがSEALSの伝統だそうだ。これも、アメリカ人の自画自賛で、マット ビソネットの自伝や、この映画などが、契機になってSEALSに入隊したいと思う人も多いのだろう。
映画の中で、CIA分析官マヤが 自分の生活とか、趣味とか男遊びとか酒やドラッグなど見向きもせずに仕事にうちこんで、それがなぜかというと、9.11が動機になっていることは、わかる。事実こうした職員も多かっただろう。また、SEALSの隊員どうし 互いに命をあずけ合った仲間と仲間の友情も、本当のことで、実際にあるだろう。
しかし、映画を見ていて、一瞬たりとも共感できるシーンがない。正義はどこにいったのだ。こんなことをアメリカという国が大手を振ってやっている。許されて良いことではない。
2013年2月22日金曜日
パリ国立オペラ公演「カルメン」
パリ国立オペラオーケストラ
パリ国立オペラ合唱団
パリ国立オペラ児童合唱団
指揮:フイリップ ジョーダン
監督;イブ ボウネシー
キャスト
カルメン:カテリーナ アントナテイ
ドンホセ:ニコライ シヨコフ
ミケイラ:ゲニア クメリール
エスカミリオ:ルドヴィック テジエール
メルセデス:ルイス カリナン
フラスキック:オリヴィア ドライ
一番好きなオペラは、「カルメン」と「アイーダ」。
この二つのオペラは何度見ても 誰が演じるのを見ても新しい感動をもたらせてくれる。ひとつひとつの音楽が感じさせてくれる胸の高まり、興奮、悲哀、歓喜、安らぎ、怒り、憤怒、、、観ていて舞台に立っている人とともに 喜び、怒り 悲しみ 楽しむ。椅子に座っているのは体だけで、オペラの間中 自分の魂が舞台の中で 役者たちに交じって飛び回っている。主演女優とともに、恋をして男を捨て、憎しみに震える。こんな体験ができるのはオペラだけだ。演じながら、声の限りに歌いつくす声楽のエネルギーに、観ているものが完全に取り込まれてしまうオペラの魔力というものだろう。
パリ国立オペラの去年12月の出し物「カルメン」のハイデフィニションフイルムを映画館で観た。たった2か月前に パリで公演されたオペラを こんなに早くシドニーで観られるなんて 何て嬉しいことだろう。
ジョルジュ ビゼーは一年以上かけて作曲した、このオペラが不評だったために、心臓を悪くして37歳で失意のもとに死んだといわれている。チャイコフスキーは彼の死後、「カルメン」は世界一人気のあるオペラになるだろう と予言した。ビゼーの死後、たくさんの作曲家や演出家によって、手が加えられて今日の姿になったが、事実、「カルメン」は フランス語で書かれた最も人々に愛されるオペラになった。
余りに有名なストーリーだが、一言でいうと、三角関係の末、別れた男に殺される女の話だ。背景にセビリアの独立運動やジプシーへの差別社会が存在する。現在でも スペインは、最大で深刻な問題、バスク地方の分離独立運動を抱えている。
主人公カルメンは バスク地方の出身のジプシー。スペイン政府からは二重に差別されている上、反政府盗賊団の一員だ。カルメンのために身を持ちくずすドン ホセもバスク地方の出身。立身出世が困難な立場だが、軍隊に入団して国のために忠誠を尽くすことで 堅実に生活の糧を得て、国に残してきた母親を楽にさせたいと願っている、誠実な青年だ。
タバコ工場で働くカルメンは 気の合わない女ボスを口論の末、ナイフで刺し殺そうとして 治安軍に拘束され、鎖につながれるが、見張りのドン ホセに「あなたも同郷者じゃない、そんな女を縛り付けるの?」と情に訴え、激しく愛を乞うダンスを踊って誘惑した末、すきを見て逃亡。ドンホセは 罪人を逃亡させた罪で留置される。数か月後、懲役を終えてカルメンに会いに来たホセは、カルメンと愛し合う。しかしカルメンを口説きに来た上司を、嫉妬から切りつけてしまい、もう軍には二度と帰れない身になってしまう。
カルメンとホセはジプシーの盗賊団の一行とともに、山に移動して軍の駐屯地を襲い武器を奪う。帰る場のなくなったドン ホセはすぐにカルメンから飽きられる。カルメンは闘牛士エスカミリオに心移りし、やがて招待された闘牛場の場外で ドン ホセに再開。カルメンと再び愛に生きることしか考えられないホセに愛を乞われ それを無碍に断ったカルメンは殺される。
このオペラのどのシーンも、素晴らしいが、一番華やかなシーンは 最初と最後だ。
最初の町の中心、井戸のある広場の喧騒のシーン。
駐屯している軍の交代時間になると軍人たちの行進に合わせて 子供たちが行進のまねをしたり、井戸の周りで一休みする兵士たちに物売りが集まり、タバコ工場で働く女工たちが、休憩時間に井戸で一服するのを待ち構える男たちで、大変な喧騒だ。100人あまりの男声女声合唱団や児童少年合唱団が、走ったり、水浴びしたり、跳ねたり跳んだり それぞれの役を演じながら歌う。田舎からドン ホセに会いに来たミケイラが 兵士たちにからかわれたり、タバコ工場の女工と男たちのやり取りがあったり、役者たちが、舞台の上をひしめいている華やかなシーンだ。舞台の隅から隅まで小さな子供たちまで一人もボーとしていないで、役を演じて「街の喧騒」を立派に演じている。舞台だから当たり前かも知れないけれど、初めて見たときは、その見事さにびっくりした。とても楽しいシーン。その喧騒の只中に カルメンが出てきて「ハバネラ」(野の鳥)を歌って、男たちを魅惑する。野の鳥は自由の鳥。誰にも手なずけられたりしないものさ、、、と言うわけだ。
また最後の 闘牛場の華やかなシーンも素晴らしい。美しい闘牛士たちがマタドールに身を包み堂々と舞台をうねりながら行進し、人々が歓声で迎える。子供たちがパレードに付き従い 道化師や、一輪車の軽業師たちや 着飾った紳士 淑女がカーニバルを楽しむ。ここも100人の歌手とダンサーがそろって豪勢で華麗な舞台が繰り広げられる。そして、人々が闘牛場に入ってしまうと、広い広場にカルメンとドン ホセだけが取り残される。静寂と死。
実によくできたオペラだ。今回のカルメンは 首を絞められて殺された。オペラオーストラリアの前作ではピストルだったし 2年前のイギリスロイヤルオペラのはナイフだった。オペラオーストラリアの公演では 盗賊団とともに山い向かうカルメンに 本当の馬に乗せて歌わせた。リハーサルで馬から振り落とされて足を捻挫しながらの公演で主演歌手は大変な思いをしたそうだ。
闘牛士エスカミリオが 初めて登場する場面で馬に乗って出てくる舞台もあったし、カルメンにカスタネットを持たせて色っぽいフラメンコを躍らせる舞台もあった。
今回の公演で秀逸だったのは、エスカミリオの素晴らしいバリトンだった。ルドヴィック デジエールって、どこの国の人だろう。今までみたカルメンで、いつもエスカミリオは、見たところ立派なのに声量が足りなかったり、闘牛で牛を避けるどころか避けることもできなさそうな巨体で醜かったり なかなか満足な人に会えなかったが 今回のエスカミリオには大満足。それとミケイラのソプラノが 力強いソプラノで、真っ青な秋の空を突き抜けていくような晴れ晴れとしたソプラノで、びっくりした。ゆるぎない 立派なパワフルなソプラノ。舞台の隅々まで声が行き渡る。端役にはもったいない。
主役のカルメンは平均点か。イタリア女性にしては 歌は良いが演技にジプシーの激しい性格が表現されていなかった。金髪のカルメンでは、ちょっと迫力に欠けるということか。しかし、ニコライ シュコフのドン ホセは、とても良かった。演技力も歌も申し分ない。最後のカルメンを殺すときなど、女に、「もう顔も見たくない、好きじゃない、」と言われているのにしつこく 偏執狂みたいな’顔で 無理にカルメンにウエデイングドレスを着せて、そのリボンで首を絞めるところなど、本当に怖かった。カルメンを見る目など、完全の狂人の目になっていて演技と思えない真迫力にぞっとした。すごいな。歌いながらここまで役柄に打ち込めるのか、と感動した。
また、指揮者のフィリップ ジョーダンが素晴らしい。若くてハンサム。華麗で闘牛士みたいに、切れの良い、素晴らしい指揮で、目を奪われた。写真は彼の姿。
本当に身も心も満たされたオペラの午後。
おまけに、映画館には ボトルでない樽のイタリアビール ペリー二がある。ボトルより数倍美味しい。3時間余りのオペラを観て渇いたのどを潤して、景気よく闘牛士に唄を歌いながら 運転して帰ってきた。音楽は本当に何と人を幸せにしてくれるのだろう。
2013年2月18日月曜日
映画 「アンナ カレリーナ」
真夏のシドニー名物「オープンエア シネマ」に娘に連れて行ってもらった。
とっぷり日が暮れた頃に、オペラハウスとハーバーブリッジが真向いに見える景観の良い岬の高台で、シャンパンやワインを飲みながら、最新映画を見る。仮設された観客席には限りがあるし、強風や嵐になるとキャンセルされるから 限られたチケットは 売りに出されたとたんにネット上で、売り切れになる。
このシドニーの野外シネマというと、日本でいえば、真夏の甲子園とか、真冬のラグビー日本一とか、東京ドームでのジャイアンツ戦みたいなもの。これぞシドニーライフ、という感じ。行ってみて初めてその良さがわかる。行ってみないとわからない。シドニーに来る人、みんなに勧めたい。
このときは ゆっくりと日が暮れて、あたりが暗くなり、ハーバーブリッジや まわりの高層ビルに灯りがともり、たくさんの光をデッキにつけた豪華船が出航していくのを見送りながら、娘の機転でそろえてくれた寿司にシャンパンを傾ける。やがて、あたりが真っ暗になり、海上から真っ赤なスクリーンが重そうに、立ち上がってくる。出し物は、最新作、トルストイ原作の「アンナ カレリーナ」だ。レフ トルストイが、1873年に 執筆を開始した、「戦争と平和」に並ぶ彼の代表作。ロシア革命の父、レーニンが愛読し、ドストエフスキーも トーマス マンも絶賛した長編小説。
映画では 古くは1930年代に、グレタ ガルボが主演。さすがに これは見ていないが、1948年のヴィヴィアン リーが主演した作品と、1967年のロシア映画のアンナ カレリーナと、1997年に英米合作で初めて 全部ロシアで撮影されたソフィー マルソーのアンナ カレリーナを観ている。ヴィヴィアン リーの1948年版は 白黒映画なので、ロシアツアーリズムの中での貴族社会の重厚さ、歴史の重みがよく出ていて ヴィヴィアン リーの意思をもってこの時代の勢いに逆らって生きる女の強さと それが、音を立てて折れるようにして死んでいく姿が無残で、忘れられない映画になった。
グレタ ガルボ、ヴィヴィアン リー、ソフィー マルソーと、世界の美女が演じて生きたトルストイの名作。最新作のケイラ ナイトレイは、ではどうだっただろうか、、。かなり がっかり。おちゃらけていうと、「あんな カレー二ナ?」という感じ。ナイトレイは、ただの可愛い子ちゃんでしかない。エラが出ていて顎が細い分、発音が口先だけになってしまって 声に奥行がない。舌先でペラペラしゃべるだけのせりふには 重みも品格もない。彼女は海賊にはなれても、ロシア貴族にはなれない。完全にミスキャストだ。トルストイの大悲劇の名作が ただのメロドラマになってしまっている。1874年の貴族社会が背景なのに、衣装だけが豪華で お尻も胸もない 貧相な体形のナイトレイが 若い男を追いかけるだけのドラマ、、これでは、シャネルも泣いているだろう。次から次へと衣装が変わるたびに ナイトレイが身に着けている宝石は全部 シャネルから貸与されている超豪華品ばかり。宝石にはよだれが出るが、女優の細い首には重そうで 気の毒になる。自分の体にふさわしい宝石を身につけなさい というメッセージとして、しっかり受け取った。
ぺテルスブルグに住む政府高官アレクセイ カレー二ンの妻、アンナは18歳で嫁いで すでに9歳の息子がいる。兄に会いに、モスクワ来たところで、貴族の将校、若いヴロンスキーに出会って、今までに感じたことのなかった気持ちの高まりを感じる。二人は恋に陥った末、出走。アンナはヴロンスキーの子供を産むが、夫は、離婚に応じない。夫、カレー二ンに味方する社交界は アンナとヴロンスキーの不品行を認めず、社交界から締め出し、アンナは失意のうちに生きる目的を失って、列車に身を投げる。
アンナの恋の物語と同時に、アンナの兄嫁の妹、キテイに求婚する善良な地方の地主 リョーヴィンとキテイの話が 同時に並行して語られる。虚飾に満ち腐敗した貴族社会がある一方で、農村で実直に生きるリョービンの生き方を対比させ トルストイ独特の「より良い人間として生きるには、、、」という’命題が提示されている。
初めてアンナが 将校ヴロンスキーに会った翌日、ひとりぺテルスブルグに帰る汽車の途中駅で、胸のざわめきを抑えようとしてアンナが、雪のプラットフォームに出る有名なシーンがある。蒸気機関車の煙が消えると、そこに、居てはならないはずの男 ヴロンスキーが立っている。驚愕するアンナ。この大事なシーンは、映画史上でも有名シーンのひとつで、例えば、「カサブランカ」で、イグリッド バーグマンが ハンフリー ボガードの部屋に再び姿を現して「待った?」と聞くシーンがある。このシーンは カップラーメンのコマーシャルにもなった。あるいは、「アンタッチャブル」の駅の階段から乳母車が転げ落ちてくるシーンとか、「サイコ」のシャワーシーンとか、「アンナ カレリーナ」の汽車に身を投げるシーンみたいな 映画にとって大切で、印象的なシーンだ。
1997年のソフィー マルソーは、プラットフォームで、ショーン ビーン演じるヴロンスキーを認めると「WHAT ARE YOU DOING HERE?」と言うけれど、なんか、英語だと情緒もへったくれもないんだ、と思ったものだ。今回のケイラ ナイトレイは、ヴロンスキーを見た途端、もう早くも あなた大好きモードの涙目で、一度ダンスを踊っただけの中なのに、ウルウルの目で どうして私についてきたの?それならトットと一緒に’駆け落ちしましょ、、なのだ。どこまでも軽い現代的と言うべきか。
アンナがヴロンスキーの子供を産んだ直後、産褥熱に浮かされて、ヴロンスキーの愛と保護の真っただ中に身を置きながら、アンナは夫に「わたしは今死にそうなの。最後に許すと言いに、会いに来て。」と手紙を書く。で、、、 サッサと産後回復すると やってきた寛大な夫に「わたし、死ななかったけど、ごめんなさい。やっぱりヴロンスキーを愛しているの。」と言うが、ここで、一緒に映画を見ていた観客が大爆笑した。わたしも その様子を見ていて笑ったけれど、ケイラ ナイトレイは ここで喜劇を演じているとは思っていなかったろう。ヴィヴィアン リーがここで この台詞を言っていたら それを見ている人にも納得させてしまう力のある演技ができていただろう。残念。すくなくとも ここは爆笑シーンではなかったはずだ。日本語訳では、どうなるのだろう。
妻に裏切られるカレー二ンを演じたジュード ロウが、とても良かった。一度も声を荒げることがない。論理的にアンナを説得してもとに戻そうと 最後まであきらめない。誠実な人柄を表すように 抑えた低い声で語りかける。よき夫、よき父親で、繊細な神経をもった紳士。
ヴィヴィアン リーがアンナを演じたときの夫役や、ソフィー マルソーの時の夫役は、冷酷でしつこい嫌な夫だったので、アンナに共感したが、ジュード ロウが演じたような夫では、妻が、どうしてこんな良い人を捨てて突っ走ってしまったのか、全然、人を納得させることができない。
「演じる」ということの 難しさを改めて認識させられる映画だった。
ヴロンスキー役のアーロン テイラー ジョンソンは、2009年の「NOWHERE BOY」で、若い頃の、ビートルズのジョンの役を主演した。幸せではなかった少年時代のジョンが、母親と叔母のもとで育ち、ポールとジョージに出会うまでの、心の軌跡を描いた映画。多感で繊細なジョンを好演していた。この映画では、母親のヴロンスカヤ伯爵夫人に叱られてうなだれる姿や、アンナが死んでしまうと思って泣きじゃくる姿が可愛らしい。B級映画「キック アス」でも主演していたが、実力がある。これからが楽しみな役者だ。
映画の手法が新しい。
スピードのある回り舞台を観ているようだ。登場人物が歩きながら背景が 勝手にどんどん変わっていく。シーンごとの移動を これまでのフイルムのように 場面を変えることをしないで、背景を変える。役者たちは舞台の上を動きながら役を演じていて、スピード感がある。とてもおもしろい試みだ。美しい舞台を観ているような、とてもアートな作品だ。
ぺテルスブルグに住む政府高官アレクセイ カレー二ンの妻、アンナは18歳で嫁いで すでに9歳の息子がいる。兄に会いに、モスクワ来たところで、貴族の将校、若いヴロンスキーに出会って、今までに感じたことのなかった気持ちの高まりを感じる。二人は恋に陥った末、出走。アンナはヴロンスキーの子供を産むが、夫は、離婚に応じない。夫、カレー二ンに味方する社交界は アンナとヴロンスキーの不品行を認めず、社交界から締め出し、アンナは失意のうちに生きる目的を失って、列車に身を投げる。
アンナの恋の物語と同時に、アンナの兄嫁の妹、キテイに求婚する善良な地方の地主 リョーヴィンとキテイの話が 同時に並行して語られる。虚飾に満ち腐敗した貴族社会がある一方で、農村で実直に生きるリョービンの生き方を対比させ トルストイ独特の「より良い人間として生きるには、、、」という’命題が提示されている。
初めてアンナが 将校ヴロンスキーに会った翌日、ひとりぺテルスブルグに帰る汽車の途中駅で、胸のざわめきを抑えようとしてアンナが、雪のプラットフォームに出る有名なシーンがある。蒸気機関車の煙が消えると、そこに、居てはならないはずの男 ヴロンスキーが立っている。驚愕するアンナ。この大事なシーンは、映画史上でも有名シーンのひとつで、例えば、「カサブランカ」で、イグリッド バーグマンが ハンフリー ボガードの部屋に再び姿を現して「待った?」と聞くシーンがある。このシーンは カップラーメンのコマーシャルにもなった。あるいは、「アンタッチャブル」の駅の階段から乳母車が転げ落ちてくるシーンとか、「サイコ」のシャワーシーンとか、「アンナ カレリーナ」の汽車に身を投げるシーンみたいな 映画にとって大切で、印象的なシーンだ。
1997年のソフィー マルソーは、プラットフォームで、ショーン ビーン演じるヴロンスキーを認めると「WHAT ARE YOU DOING HERE?」と言うけれど、なんか、英語だと情緒もへったくれもないんだ、と思ったものだ。今回のケイラ ナイトレイは、ヴロンスキーを見た途端、もう早くも あなた大好きモードの涙目で、一度ダンスを踊っただけの中なのに、ウルウルの目で どうして私についてきたの?それならトットと一緒に’駆け落ちしましょ、、なのだ。どこまでも軽い現代的と言うべきか。
アンナがヴロンスキーの子供を産んだ直後、産褥熱に浮かされて、ヴロンスキーの愛と保護の真っただ中に身を置きながら、アンナは夫に「わたしは今死にそうなの。最後に許すと言いに、会いに来て。」と手紙を書く。で、、、 サッサと産後回復すると やってきた寛大な夫に「わたし、死ななかったけど、ごめんなさい。やっぱりヴロンスキーを愛しているの。」と言うが、ここで、一緒に映画を見ていた観客が大爆笑した。わたしも その様子を見ていて笑ったけれど、ケイラ ナイトレイは ここで喜劇を演じているとは思っていなかったろう。ヴィヴィアン リーがここで この台詞を言っていたら それを見ている人にも納得させてしまう力のある演技ができていただろう。残念。すくなくとも ここは爆笑シーンではなかったはずだ。日本語訳では、どうなるのだろう。
妻に裏切られるカレー二ンを演じたジュード ロウが、とても良かった。一度も声を荒げることがない。論理的にアンナを説得してもとに戻そうと 最後まであきらめない。誠実な人柄を表すように 抑えた低い声で語りかける。よき夫、よき父親で、繊細な神経をもった紳士。
ヴィヴィアン リーがアンナを演じたときの夫役や、ソフィー マルソーの時の夫役は、冷酷でしつこい嫌な夫だったので、アンナに共感したが、ジュード ロウが演じたような夫では、妻が、どうしてこんな良い人を捨てて突っ走ってしまったのか、全然、人を納得させることができない。
「演じる」ということの 難しさを改めて認識させられる映画だった。
ヴロンスキー役のアーロン テイラー ジョンソンは、2009年の「NOWHERE BOY」で、若い頃の、ビートルズのジョンの役を主演した。幸せではなかった少年時代のジョンが、母親と叔母のもとで育ち、ポールとジョージに出会うまでの、心の軌跡を描いた映画。多感で繊細なジョンを好演していた。この映画では、母親のヴロンスカヤ伯爵夫人に叱られてうなだれる姿や、アンナが死んでしまうと思って泣きじゃくる姿が可愛らしい。B級映画「キック アス」でも主演していたが、実力がある。これからが楽しみな役者だ。
映画の手法が新しい。
スピードのある回り舞台を観ているようだ。登場人物が歩きながら背景が 勝手にどんどん変わっていく。シーンごとの移動を これまでのフイルムのように 場面を変えることをしないで、背景を変える。役者たちは舞台の上を動きながら役を演じていて、スピード感がある。とてもおもしろい試みだ。美しい舞台を観ているような、とてもアートな作品だ。
2013年2月16日土曜日
映画 「リンカーン」
この2月、米国で、バラク オバマが大統領が再選されて、彼はリンカーンが所有していた聖書に手を置いて、大統領宣誓をした。米国にとって第16代米国大統領エイブラハム リンカーンは、「奴隷解放の父」と呼ばれ、アメリカンフロンテイア精神代表として、開拓精神のパイオニアとして尊敬されている。
丸木小屋で育ち、無学の両親に育てられ、斧で木を切ることに長けていた。独学で弁護士になり、大統領にまで登りつめた。祖父は、父が子供の時に、その目の前でインデイアンに惨殺されたが、その話を子供の時から聞かされて育ったために、土地所有権の争いを避けるために、法律を学んだと、言われている。大統領になって、インデイアンを保留地に追い込み、インデアン大虐殺を指揮し、それが南北戦争で北軍の勝利を導くことになった。黒人を解放して、労働者や兵士として確保するのは賛成だが、インデイアンは 民族浄化、皆殺しにしなければならないと考えていた。奴隷制度拡張に反対し、南北戦争を指揮、南軍のロバート リー将軍に降伏をゴリ押しして戦争を終結させたが、直後に暗殺。初めての、在職中に暗殺されたアメリカ大統領となった。
このリンカーンの役を、ダニエル デイ ルイスが演じ、その妻役がサリー フィールだと分かったとき、その映画を見るまでもなく、もう今年のアカデミー賞を誰が取るか、決まったようなものだ、と思った。二人とも すでにアカデミー主演男優賞、女優賞をとっている。ダニエル デイ ルイスに至っては、彼が主演する映画の、ほとんどの作品で、アカデミー主演男優賞にノミネートされている。
ロンドン生まれのユダヤ人。1989年「マイ レフト フット」で主演男優賞、1992年「ラスト モヒカン」と、2002年「ギャング オブ ニューヨーク」でノミネートされ、2007年「ゼア ウィル ビブラッド」で、再び主演男優賞を取っている。彼が出てくると、他の役者がかすんで見える。それほどカリスマテイックな役者だ。
エイブラハム リンカーン:ダニエル デイ ルイス
メアリー トッド(妻) :サリー フィールド
ロバート トッド :ジョセフ ゴードン レビット
タデウス ステイーブンス:トミー リー
ストーリーは
南北戦争が始まって、すでに3年。戦況は硬直し、人々は増え続ける重税にあえいでいた。共和党のリンカーンは 2期目の大統領として選出されると 奴隷制度拡張を叫ぶ民主党の圧力に対抗して、議会に圧力をかけて 何とか戦争を終結させようとする。すべての上院議員は、州議会によって選出されていたから 当時圧倒的多数だった 奴隷制度拡張主義の民主党は’、大統領の主張に同意しない。収入源である大土地所有者にとって、民主党党員の存亡をかけた戦いでもあった。リンカーンとその側近は 民主党の結束力に負けず、一人ひとり 取引、恫喝など、手段を選ばず取り崩していく。そして、とうとう議会で、奴隷解放を明記する条文を通過させ、戦争を終結させた。しかし、大統領は、オペラに出かけた夜、。
というお話。
ダニエル ルイ ルイスの上手すぎる演技の、独り舞台だ。リンカーンが、このようにして悩み、このようにして妻にガミガミ言われ、このようにして祈ったのだろう。
奴隷制度の欠陥を、民主党議員に向かって説得するとき、古代エジプトの哲学者ユークリッドを出して説得する。幾何学の原論の中から「同じものと等しいものは 互いに等しい」という あらゆる学問に通じる真理を語っていく。白人は'人間で、黒人は人間、ならば白人も黒人も同じ人間だ、という単純でゆるぎのない真理だ。彼の説得力を もの語るシーンだ。
サリー フィールドの妻役も、素晴らしい。「アメイジング スパイダーマン」で アンドリュー ガーフィールド演じるスパイダーマンの養母役で とても光っていた。今回は リンカーンをしっかり支える恐妻を好演、他の女優がやっていたら、嘘くさくなっていただろう。
共和党タデウス ステイーブンス議員をやった トミー リーは、奇妙なカツラ姿で出てきたが どうしてそんなものを被っていたのか、最後にわかる。この人が映画に出てくると、ほっと、映画に血が通う気がするのは 私だけだろうか。
息子のジョセフ ゴードン レビットも、ダニエル デイ ルイスとサリー フィールドの間の生まれて 大事にされて育つと、こんな息子になるだろう、というような素直な姿で好演している。
明るいシーン、華やかなシーン 楽しいシーンの全くない 重厚で 感動的なアメリカ南北戦争の歴史を語った映画。アメリカ人は この映画、好きだろう。アメリカ人の心根の底の底を優しくく撫でてくれる。
オバマの大統領宣誓を注目する 貧困層や移民たちやゲイや アフガニスタンに送られた兵士たちは、オバマの横顔に、このリンカーンの姿を重ね合わせて観ることだろう。そんな映画だ。
2013年1月30日水曜日
映画 「インポッシブル」
スペイン アメリカ合作映画
原題:「IMPOSSIBLE」
邦題:「インポッシブル」
監督: J A バヨナ
キャスト
マリア:ナオミ ワッツ
ヘンリー:ユアン マクレガー
ルカス:トム ホーランド
2004年12月26日に起きたスマトラ島沖地震と それに続いて起きた津波の被害にあった、スペイン人家族のお話。あの23万人の死亡者、行方不明者を出した津波だ。
これは実話です、という断り書きで映画が始まり、最後に実際に被害にあった家族写真が出てくる。主演したナオミ ワッツが、今年のアカデミー賞、主演女優賞にノミネートされている。監督は、サイコホラー映画「永遠のこどもたち」を製作したJ A バヨナ。
ストーリーは
クリスマスイヴ。2004年のクリスマスホリデーを 家族そろって過ごそうと、3人の子供達を連れたスペイン人一家が、タイのリゾートにやってくる。日本に派遣されて働いている父親ヘンリーと、医師の妻、マリアと、5歳、7歳、と15歳の3人の男の子たちだ。 寒い冬から一足飛びで真夏のリゾートに来て、クリスマスには、子供達はクリスマスプレゼントを受け取る。幸せ一杯だ。翌朝 家族は、早くから南国の強い光をあびて、ホテルのプールで遊んでいた。その時、未曾有の規模のスマトラ島沖地震が起き、近辺の海岸だけでなくアメリカやアフリカにまで波及して犠牲者が出るほど大規模の津波が押し寄せる。不気味な轟音と共に、ホテルの塀を越えて、巨大な波が押し寄せてきたとき、家族全員が あっという間に大波に流される。
波が来た時に、初めに遠くに流されていった長男のルカスを マリアは追う。名前を呼びながら、漂流物にぶつかり、傷だらけになって、マリアはルカスと一緒になると、長い漂流の末、やっとのことでマングローブの茂る浜に泳ぎ着く。マリアは肺に達する大きな傷を胸に受け、ガラスで切った片足も出血が止まらない。そんな母親を励まし、自分も傷だらけになりながらルカスは、救出されるまで 母親を気丈に支える。
ヘンリーは、波が押し寄せてきた時、幼い二人の息子を抱きかかえていた。肋骨骨折や無数の傷を受けながらも運良くホテルに近い椰子の木にひっかかり無事息子の命を守ることができた。二人の息子達を避難所に向かうトラックに載せると、ヘンリーは、7才のトマスに、5歳の弟の面倒を見るように言って聞かせ二人の見送ると、自分は長男とマリアを探し始める。おびただしい数の死体。混乱を極める仮設病院。
マリアはルカスの機転で、病院に運ばれ、胸の手術を受けるが、傷は深く衰弱が激しい。やがて沢山の人の助けや偶然が重なり、家族5人が再び会うことが出来、マリアは気力を取り戻し、、、。というお話。
2011年3月11日に、東日本大震災と、それに伴う大津波と原発事故を体験している日本人には、この2004年の大津波の映像を見るのは過酷過ぎる。と思っていたが、この映画、日本でも、じきに公開されるという。主演女優ナオミ ワッツがアカデミー賞にノミネートされたからかもしれない。確かに子供の為なら何が何でもやってのけることができる母親の姿を熱演していて、あつい涙を誘う。とても良い役者だ。
ナオミ ワッツ、44歳イギリス生まれのオージー女優。高校では二コル キッドマンと同級生だったそうだが、ニコルのように恵まれた家庭で育った女王様ではなくて、働く為に卒業もしていない苦労人。テレビ俳優だったがデビッド リンチに認められて、2001年「マルホランド ドライブ」を主演して実力を見せた。
その後、2004年に日本のホラー鈴木光司原作、中田秀夫監督による「リング」のアメリカ版リメイク「リング1」と「リング2」を主演した。日本のホラー、怪談の怖さを世界中の人々に紹介して震え上がらせてくれた功績者でもある。2005年の「キングコング」では、網タイツで踊って手品をみせてキングコングを面白がらせて辛うじて殺されずに済んだ女を演じ、2010年「フェアゲーム」では CIA職員でありながら「イラクに 核兵器どころか大量殺人兵器も無い」と本当のことを言ってしまって、CIAから命を狙われた役をショーン ペンとともに演じ、また、2011年には「「J エドガー」では、一生独身で、エドガーが死ぬまで支えて生きる地味で寡黙な秘書の役を演じた。美人なのに、総じて金髪美人の可愛い子ちゃんが良い男に会ってハッピーエンド、、というような作品に全然出ていない。「マルホランド ドライブ」でデビューということからしてメインストリームではない。頭が良すぎるのかもしれない。
映画でナオミ ワッツの夫役をやったユアン マクレガーは、41歳、スコットランド人の舞台俳優だ。この人も過酷な状況で傷だらけになりながら苦労する役が多い。2012年の「イエメンでサーモンフィッシング」は、彼にしては珍しい恋愛ものだ。彼の2011年「ゴースト ライター」が良かった。ここでも彼はCIAに最後にあっけなく殺されてしまう。
今回の映画でナオミ ワッツ以上に大活躍して「悲嘆」「絶望」そして再会後には「歓喜」をたっぷり見せてくれて泣かせてくれたのは 長男ルカス役のトム ホーランドだ。16歳のバレエダンサーということだが、華奢でずっと若く14歳くらいに見える。ジブリ作品「アリエッテイ」の主役、心臓病のショウの役を 英語版で声役を務めた。舞台「エリオット」で注目されてエリザベス女王の前でも演じたそうだ。バレエを踊る舞台俳優。将来を期待されている。
津波で人々が流されるシーンは クリント イーストウッド監督の映画、「ヒア アフター」に出てくる津波のシーンに、とてもとても似ている。透明な水の中で人々が溺れ、激しい勢いで突進してくる車や柱にぶつかり傷だらけになる。衝撃音がすごい。
でも本当の津波は、透明な波ではなくて、海底地震によって覆された海底の真っ黒い土砂の波が 暴力的にぶつかってくるのだ。この波に沈められると、海の中は何も見えないし、衝撃で多量に飲んでしまう土砂はヘドロや石油を含んでいるため急性中毒を起こして、救出されたあとで 人々は亡くなることが多い。泥が咽喉に詰まって呼吸ができなくなったり、急性肺炎も併発する。これほどの大規模の大災害にあって 混乱のなかで家族5人が再会できたことは、この映画のタイトルが言うように ほとんどインポッシブル(ありえない、不可能)なことだったろう。奇跡に近い再会だった。映画はハッピーエンドだが、現実は 23万人の死であり、とてつもない「悲惨」と「無残」な別離だった。
ヒトは、2004年にスマトラ島沖地震と津波を体験し、2011年3月に東日本大震災と大津波を経験した。ヒトは二本足で立ち、道具を自在に使えるようになると、ほかの動物も植物もすべて人が生存する為に利用し、自然を破壊してきた。自然から逆襲されても仕方の無いほどに、罪を犯してきた。いずれヒトは滅亡し、地球は無くなる。無限の宇宙の歴史から見たら、地球上で繰り返される自然災害など ちっぽけな出来事でしかないのかもしれない。
それでも私達は、こうした映画を通して 災害に出くわしたひとつの家族の喜怒哀楽に、少しでも共感したくて、映画を見る。
絶対、忘れない為に。
2013年1月22日火曜日
7人の邦人犠牲者を悼む、仏はマリ介入を止めよ
アルジェリア南部イナメナスの天然ガスプラントで起きた、イスラム武装勢力による人質事件で、軍が介入したため、日本人7人の犠牲者が出た。ロイター共同によると人質48人が殺害された と伝えられている。詳細がわかってくれば、もっと犠牲者が出る可能性もある。
イスラム武装勢力が、外国人人質を取って世界に対して「マリへのフランス軍攻撃を止めるように」訴え、要求したにも拘らず、アルジェリア政府軍が聴く耳をもたず、強硬手段に出たために、犠牲者が出た。多数の犠牲者が出たのは、勿論イスラム武装勢力のテロリズムによるが、人質交渉も、フランス政府やイギリス政府などと話し合いも一切せずに、武力で一挙に解決をはかったアルジェリア政府の責任だ。
人質をとった武装勢力は、隣国マリへのフランス軍攻撃の停止を要求していた。マリで、北部のトゥアレグ人がアルカイダの支援をうけて、勢力を拡大してきたことを憂慮するフランス軍は、マリ政府軍の要請を受けて トゥアレグ勢力を攻撃している。マリ政府軍の後にフランス軍が居て、それをイギリス、アメリカ、ドイツ、ガーナ、アルジェリアが後押しをしている。マリ国内民族問題に、フランスは口出しをすべきではない。
アルジェリアは人口のほとんどがアラブ人で 90%以上がスンニ派のイスラム教徒。天然ガスの生産量、世界第9位。今回 武装勢力に占拠された天然ガス施設は イギリスの石油最大企業BPのものだ。人質になって犠牲になった日本人は 天然ガスプラント日揮の技術者だった。国境の囲いに関わらず、企業は国境を超えて共同で利益を追う。世界が今、豊富な資源を求めてアフリカや中東の国々で勢力をのばそうとしている。資源の奪い合いだ。マリへのフランス軍介入も、豊富な資源を確保し続けることが、目的だ。
改めて7人の邦人の犠牲を悼む。フランス軍は、これ以上の犠牲者を出さない為に、マリへの介入を止めるべきだ。
イスラム武装勢力が、外国人人質を取って世界に対して「マリへのフランス軍攻撃を止めるように」訴え、要求したにも拘らず、アルジェリア政府軍が聴く耳をもたず、強硬手段に出たために、犠牲者が出た。多数の犠牲者が出たのは、勿論イスラム武装勢力のテロリズムによるが、人質交渉も、フランス政府やイギリス政府などと話し合いも一切せずに、武力で一挙に解決をはかったアルジェリア政府の責任だ。
人質をとった武装勢力は、隣国マリへのフランス軍攻撃の停止を要求していた。マリで、北部のトゥアレグ人がアルカイダの支援をうけて、勢力を拡大してきたことを憂慮するフランス軍は、マリ政府軍の要請を受けて トゥアレグ勢力を攻撃している。マリ政府軍の後にフランス軍が居て、それをイギリス、アメリカ、ドイツ、ガーナ、アルジェリアが後押しをしている。マリ国内民族問題に、フランスは口出しをすべきではない。
アルジェリアは人口のほとんどがアラブ人で 90%以上がスンニ派のイスラム教徒。天然ガスの生産量、世界第9位。今回 武装勢力に占拠された天然ガス施設は イギリスの石油最大企業BPのものだ。人質になって犠牲になった日本人は 天然ガスプラント日揮の技術者だった。国境の囲いに関わらず、企業は国境を超えて共同で利益を追う。世界が今、豊富な資源を求めてアフリカや中東の国々で勢力をのばそうとしている。資源の奪い合いだ。マリへのフランス軍介入も、豊富な資源を確保し続けることが、目的だ。
改めて7人の邦人の犠牲を悼む。フランス軍は、これ以上の犠牲者を出さない為に、マリへの介入を止めるべきだ。
2013年1月19日土曜日
映画 「ヒッチコック」
原題「HITCHICOCK」
監督:サーシャ ガヴァン
キャスト
アルフレッド ヒッチコック:アンソニー ホプキンス
アルマ レヴィル:ヘレン ミレン
ジャネット リー:スカーレト ヨハンソン
アンソニーパーキンス:ジェームス ダーシー
アルフレッド ヒッチコックは「サスペンスの神」と言われて、後続の映画人に多大の影響を与えた。ジャン リュック ゴダールや、フランソワ トリュフォーなど、ヌーベルバーグの旗手達からは、神様のように崇拝された。(今になって思えば 神はヒッチコックではなくて ドナルド チャップリンの方だったと思うけど。)彼は、ロンドン生まれのアイルランド人。27歳で、監督で脚本家だったアルマ レヴィルと結婚。二人してハリウッドに移ってから、サスペンス、犯罪物の白黒映画で大成功した。
自分が映画好きになったのは 多分にヒッチコックの影響による。小学生高学年から中学生のころ、テレビで1時間物のヒッチコックシリーズが放映されていて、ヒッチコックが番組の後に登場して、解説をする。物語のなかに、ヒッチコック本人がさりげなく通行人や 特徴のある体形の本人の「影」などになって出演していて、それを探すのも面白かった。
普通の人が、とんでもない人違いで事件に巻き込まれたり、二重人格の人の恐ろしい犯罪が起きたり、善良そうな夫に保険金を掛けられて 妻が殺されそうになったり、効果音を使って、恐怖心が煽り立てられる。ドキドキ、ハラハラ 怖がりながらも画面から目を離せない。事件のキーになる物、電話とか鍵とか色とか音を、実に上手にハイライトさせて、あとで「ああ そうだった。なるほど。」と、納得させて事件の解決をみる。観ている時は気がつかないが、「ダイヤルMを廻せ」では撮影に 普通の電話の倍も大きな電話を使って「事件のキー」を暗示していた。さりげない会話が 後で重要な事件解決の鍵を暗示していたりもする。
サスペンスは いわば作り手と観客の頭脳ゲームのようなものだから、画面ひとつ見逃せない。そんな映画の面白さを教えてくれたのが ヒッチコックだった。
ハリウッド パラマウントも、当時の最高の男優、女優を彼の映画のために提供したと思う。
1940年の「レベッカ」では、ローレンス オリビエと、ジョーン フォンテイーン。1945年の「白い恐怖」では グレゴリー ペックとイングリッド バーグマン。1946年「汚名」では、ケイリー グラントとイングリッド バーグマン。1954年の「ダイヤルMを廻せ」では、レイ ミランドとグレース ケリー。54年の「裏窓」では、ジェームス スチュワートとグレース ケリー。「泥棒成金」では、ケイリー グランドとグレース ケリー。1958年「めまい」では、ジェームス スチュワートとキム ノヴァック。1959年の「北北西に進路をとれ」では、ケイリーグランドと エバマリー セイント。1960年の「サイコ」では アンソニー パーキンスとジャネット リー。1963年の「鳥」では ロッド テイラーと、テイッピ ヘドレン。1964年の「マーニー」では ショーン コネリーとテイッピ ヘドレン。1966年の「引き裂かれたカーテン」では、ポール ニューマンとジュリー アンドリュース、、、などなど、これだけ豪華な役者達を自由自在に使って自分の映画を作った。すごいなー。彼の映画をほぼ全部みている自分にも 少しあきれる。
彼の映画の中で、一番好きな作品は、「レベッカ」1940年作だ。年の離れた男の屋敷に、後妻として迎えられた幼妻ショーン フォンテイーンを震え上がらせる前妻レベッカの影、、。ラストシーンで、レベッカの付き添い女中が屋敷に火を放ちレベッカの影とともに、炎に焼かれて狂い死んでいくシーンなど、怖くて怖くて映画を観たのは10歳前後だったのに、昨日見た映画のように克明に記憶している。
1969年作の「サイコ」はやはり、映画史上に残る名作だろう。映画「ヒッチコック」は、この「サイコ」を作る過程を描いた作品だ。
ストーリーは
「北北西に進路を取れ」が 思いのほか製作費がかかったためパラマウントには予算がない。ヒッチコックは、実際に起った女性大量殺人のノーマンべイツ事件をもとに人格障害でサイコパスの男による残酷殺人事件の映画を作ることに決めていた。犯人は母親しか愛せない男で、母親がすでに死んでいるのにミイラ状態になった母親を抱いて眠る。歪んだ性衝動は若く美しい女性を殺して切り裂くことで解消していた。映画のタイトルは「サイコ」。
当時、「サイコパス」(精神病質)という医学用語が一般に知れ渡っていなかったし、女性大量殺人のような「きわもの」を扱うのは、B級のグロテスクえいがと決まっていたので、ヒッチコックのアイデアは パラマウントに受け入れてもらえなかった。そのためヒッチコックは 自宅を抵当に入れて、自分で資金を作り、低予算の白黒映画「サイコ」に取り掛かった。
自分も監督だった妻のアルマは、おもしろくない。主役になるジャネット リーを、初対面ですぐに気に入ってしまったヒッチコックを見ていて、「あ、またか。」と夫の悪い女癖に腹が立つ。アルマは脚本家のウィッドフィールド クックと共に、ヒッチコックの次の作品の脚本をすでに用意してあった。にも拘らず夫はそれを読もうともしない。夫に愛想がつく。一方、ウィッドフィールドはアルマを女王様のように扱ってくれて優しい。女心がなびかないわけが無い。彼はアルマのために海沿いに家を借りた。子供のようなヒッチコックの世話に疲れると、アルマはその海の家でウィッドフィールドと肩を並べてタイプライターをたたく。
それに気がついたヒッチコックは アルマとぶつかり合い、怒鳴りあい、責め合う。しかし、ヒッチコックが過労で倒れたのを機に、アルマは自分を必要とする夫のもとに帰る。以降、二人三脚で作り上げた低予算映画「サイコ」は、大成功する。というお話。
太って特殊メイクを施したアンソニー ホプキンスより、妻役のヘレン ミレンの演技が素晴らしい。夫への「嫉妬」と「諦念」。若い男への少女のような「憧憬」と「落胆」を、みごとに表現している。
エドガー フーバーを演じたデカプリオ、マーガレット サッチャーを演じたメリル ストリープ、マリリン モンローを演じたミッシェル ウィリアムズ、アウンサン スーチーを演じたミッシェル ヤオ、、、ここでヒッチコックを演じたアンソニー ホプキンスが加わると、比較してちょっと、がっかり。本物のヒッチコックのかもし出す、おっとりしたユーモラスな姿の印象が強すぎて ホプキンスがヒッチコックに見えない。
「サイコ」の主人公はアンソニー パーキンスなのに パーキンスのそっくりさんジェームス ダーシーなど、2時間余りの映画のうちの数分しか出番がなくて、これではあんまりじゃないか。でもそれは、「サイコ」でパーキンスに殺されるジャネット リーのシャワーシーンが有名になりすぎたからかもしれない。特殊効果音とともに サイコパスに襲われるシーンの怖さは本当に並外れて怖い。
映画の中でヒッチコックが、ジャネット リーの気を引こうとして、アルマが妊娠してしまったので僕達は結婚せざるを得なかったんだ と言うシーンがある。また、アルマはアルマで 若い脚本家に 私が先に映画監督だったのよ。ヒッチは助監督だったんだから、、、と言うシーンもある。浮気は後ろめたい。だから浮気に走る口実が要る。
ヒッチコックは もう30年あまり結婚生活をしているのに むかしむかし妻が妊娠してしまったからやむなく結婚したという口実で 若い女性との浮気の口実にしてきた。アルマは自分も才能があったのに ヒッチだけが脚光をあびて有名になり自分は裏方役に押し留められている不満を隠せない。
ヒッチコックは 大きな子供のように、短気で感情を抑制できない。怒ると馬鹿食い、がぶ飲みを止められなくなって、ほとんどアル中。おまけに映画に出演した女優に次から次へと手を出す。そんな 現実のヒッチコックが、自分がイメージしていた上質のユーモアを持った紳士のイメージに そぐわない。イメージが重ならない という違和感が映画が始まって終わるまで消えなかった。「サスペンスの神様」も 所詮俗人です、と言われて なんか、ちょっと、しょげてしまった。
2013年1月14日月曜日
映画 「ライフ オブ パイ」
原題:「LIFE OF PI」
邦題:「ライフ オブ パイ、トラと漂流した227日」
原作:「パイの物語」ヤン マーテル
監督:アング リー
題名の通り16歳の少年がインドからカナダに渡航する途中で 海難事故に遭いトラと救命ボートで漂流した末に救助される冒険物語。
ストーリーは
パイは動物園を経営する父親と教養ある母親とに間に生まれ育った。数学に出てくる、割っても割っても割り切れない円周率のパイにちなんで名前をつけられた。幼い内から よく勉強が出来て、パイがスペルが「PI」で発音するとピー(おしっこ)とも読めるために、小学校で虐めにもあうが 逆に秀でた知識で生徒ばかりか先生方からも尊重させるようになる子供だった。ヒンズー教だけでなく、イスラムにも仏教のもキリスト教にもユダヤ教にまで 改心し、すべての宗教と自分は協調して生きていけると信じていた。そんな一風変わり者のパイも16歳になり、美しい少女に恋をする。 しかし家族はカナダに動物園ごと移住することに決めていた。
大型貨物船に沢山の動物達や彼らの食料を乗せ、家族の旅が始まる。しかし、出航してしばらくすると嵐に遭い船は沈没、パイは傷ついたシマウマとともに救命ボートで脱出する。嵐が過ぎ去り、パイは両親も兄弟も失ったことを知る。
運良く生き残ったオランウータンを海上から拾い上げ、ボートに積まれた非常食を探索していると、救命ボートの船底から獰猛なハイエナが飛び出してくる。ハイエナは傷ついて動けないシマウマとオランウータンを襲う。パイの素手では、小さなボート上の殺戮を止めることができない。しかし、船底には、ハイエナをも簡単に食い殺すトラが潜んでいたのだった。トラは次々と動物を餌食にする。パイは寸でのところで、いかだを作ってボートから乗り移り、トラの攻撃から逃げ延びる。
救命ボートのトラと、それにくくりつけられた、いかだに乗るパイとの生存をかけた闘いと漂流が始まる。 パイは、いかだで雨をためて、魚を釣って生き延びる。そしてボートに移って、トラと水と食料を分け与える。トラが空腹に耐えかねて飛び魚を追って、海中に飛び込むと、その隙にボートに乗り移って、救命ボートの船底から水や非常食を取り出す。パイとトラは、何十日も漂流し、いくつもの嵐を乗り越えるうち、互いに生き残り同志の共存関係が出来てくる。パイは、トラが生きているからこそ自分も生きる意味を持つことができるのだということを知る。
227日たった。とうとう、島にたどり着き、ボートが砂浜に打ち上げられるが、パイにはもう砂地を立って歩く力がない。トラはボートから飛び下り、林に入って行って姿を消した。林に姿を消す前に 一度だけ振り返ってトラはパイを見つめた。
というお話。
冒険小説でお伽噺だが、とても映像が美しい。3Dの必要はない。3Dでなくても充分過ぎるくらい自然が美しく描かれている。大海の日の出と日没。輝く果てしない海の大きさ。くらげが漂い、鮫が回遊し、巨大な鯨がボートをかすって行く。荒れる海、なぎの梅。海の表情を映しだすカメラワークが秀逸だ。
映画のはじめのころに、出てきて、回想の形で繰り返されるインドのまばゆいばかりの色彩の多様さ。色とりどりの花々、インド舞踊の衣装の美しさ、香りたつようなインドの少女たちの美しさにも心奪われる。
おまけに、コンピューターグラフィックで、ここまで出来るのか、と驚くほど動物達の表情が豊かで動きがリアルだ。トラがパイと漂流するうちに段々とやせ細り、最後に林に姿を消す頃には 骨と皮になっている。とてもリアリテイがある。
トラはリチャード パーカーという名前を持っている。エドガーアラン ポーの「ナンタゲット島出身のアーサーゴードンビムの物語」という1838年に書かれた恐怖小説があって、小説の中で4人の男が海で難破した末、リチャード バーカーという男が3人に殺されて食べられる という話がある。で、実際1884年に実際に、同じ状況で、カニバリズムがおこり、偶然殺されて食べられた男がリチャード バーカーという名前だった、という記録が残っている。本当だったら、ポーの小説よりも怖い。
しかしこの映画のリチャード バーカーというトラは、むしろ、ヒンズーの輪廻思想で、トラは人の生き代わりなので、大切にしなければならないという思想からきているのだと思う。パイの動物園では このトラは始めからリチャード バーカーを呼ばれて尊重されていた。
貨物船の食堂で働く、人種差別でタチの悪いコックが出てくるが、彼はジェラール ドバルデュー。フランス人の役者だが、最近、フランスにこのまま居ると収入の65%を税金で取られるばかりなので、と、国籍を捨ててロシア人になってしまったことで話題になった。
この映画で、残念なのは、モノローグがインド人独特の強いアクセントの英語で ものすごく聞き取りにくいことだ。英語で語ってくれるが、英語の字幕をつけてもらいたかった。
でも身も心も引き込まれる冒険物語。 文句なしに映像を楽しめる。
本当に美しい映画だ。
2013年1月3日木曜日
映画 「レ ミゼラブル」
原題:「LES MISERABLES」
監督:トム フーバー
キャスト
ジャン バルジャン:ヒュー ジャックマン
コデット :アマンダ セルフライド
フォンテーヌ :アン ハサウェイ
シャベール警部 :ラッセル クロウ
マリウス :エデイ レッドメイン
エボニーヌ :サマンサ バークス
ヴイクトル ユーゴーは フランスを代表する作家で、ロマン派の詩人。ボードーレールを見出して世に紹介たことでも有名。たった23歳で詩作や小説を評価されて、レジオンドヌール勲章を受け、ルイ18世から高額の年金を受け取っていた。にも拘らず、リベラルな知識人として、コメデイフランセーズの台本で、王政を笑い上演禁止になったり 1848年にはルイ ボナパルトが政権をとると これに真っ向から反対して弾圧され、ベルギーに亡命せざるを得なくなった。以来、1870年でナポレオンが失脚するまでフランスに帰ることができなかった。 小説「レ ミゼラブル」は ベルギーで出版される。
クリスチャン精神に裏打ちされた人道主義。人としてより良き人として生きようとする男、ジャン バルジャンの半生を描いた。1本のパンを盗んだゆえに19年間投獄され、出獄後 一晩の宿を許された教会から銀食器を盗み、捉えられるが、神父から、それらは盗んだものではなく与えたものだ、と証言されて罪を逃れる。この神父に 良き人として、人の為に生きることを諭されて良心に目覚める というお話は余りにも有名。 子供の頃は 岩波少年少女文庫で読み、中学では細かい字の大人用の本で読んで、心が躍った。ジャン バルジャンと警部シャベールとの確執、どこまでも追ってくる執念の塊のようシャベールの恐ろしさ、パリの地下水道のドラマテイックな逃走、コデットを虐め抜く叔父叔母のいかさま師ぶり、せっかく安定した生活ができるようになり人々の信頼を得て市長にまで成りながら、他の男がジャン バルジャンとして逮捕されたと知ると、すべてを投げうって出頭する勇気、、、ジャン バルジャンの冒険に息もつけずに読み進んだ。人間として、良き人として生きる決意、少女を守り、幸せになるまで見届けると言う断固とした決断、自分の良心を見つめる厳しい目、本当に素晴らしい名作。感性豊かな子供のうちに 是非読んでおくべき本のひとつだ。
ミュージカルはロンドン コペントガーデンで上演されて大成功、ロングランで、今でも上演が続いている。ロンドンで観られると思っていたが、運悪く、丁度劇場の修理で滞在中に観られなかった。 映画化してフイルムを作ったのは トム フーバー。「英国王のスピーチ」を作った監督。 ジャン バルジャン役は オージーの、歌って踊って演じる、ヒュー ジャックマン。44歳。身長190センチの大きな体で、ミュージカル「オズから来た男」を演じて、オーストラリアよりもアメリカで先に、人気者になった。全然名前のない役者時代に テレビで共演した7才年上のオージー先輩役者デボラリー ファーネス(全然美人じゃない)と結婚して以来、ずっと離れたことが無いという仲良し夫婦だ。
このミュージカル映画は、演技を撮影した後、レコードしておいた歌を画面にくっつける従来のミュージカルの製作方法をやめて、演技と歌をライブで撮影している。そのため どの役者の歌も迫力のある臨場感に満ちている。
映画の最初のシーンに、みな度肝を抜かれるのではないだろうか。オーケストラの重厚な響きで始まる大スペクタクルだ。どでかい帆船を修理するために港のドッグに船を停留させるために何百人もの囚人たちが鎖につながれたままロープで船を牽く。ドッグの畝かと思っていたものが、船をひくロープでそこに豆粒のようにへばりついていたのは 疲れ果てた囚人たちだったのだ。 ここでヒュー ジャックマンが歌う「囚人の歌」がすごい迫力だ。彼いわく、36時間水を飲まないで居ると、顔が4.5キロ痩せることが出来る。そうして自ら激しい頭痛と戦いながら脱水し、骸骨のような形相になってこのシーンを演じたのだそうだ。恐るべき執念。本当に圧倒された。
驚いたのは、コデット役のアン ハサウェイが、とても高い綺麗な声で歌っていたこと。娘のために痩せた体で、身を持ち崩し初めて体を売ったあとに歌う「I DREAMED A DREAM」(夢やぶれて)は、可哀想で不憫で 聴いていて自然に涙が浮かんでくる。 でも、エプニーヌ役のサマンサ バークスには勝てない。彼女の歌唱力は本物だ。たった一人、片想いとわかっていて自分の愛した青年を見つめる けなげな純真さを「オン マイ オウン」で歌い上げる。その姿に胸がつまる。
ジャン バルジャンが富も名誉も地位も捨てて、身代わりに拘束された男を救うために名乗りを上げる決意を示す「WHO I AM」(おれは誰だ)も、すごく良い。もう怖いくらい。
たくさんの登場人物に繰り返し繰り返し歌われる「民衆の歌」は 本当に心に響く。貧しくて もう失うものなど何もない民衆蜂起の歌の合唱が、映画を観終わった後でもずっと頭の中で繰り返されて、忘れられない。
原作が良いので ミュージカルにしても、映画にしても人の心を打つ。古典作品だが 今でも人々は富める物と、何も持たないものとに分断され、厳しい生活の中でも、人は愛する人のために身を投じ、良心をもって良き人でありたいと念じて生きている。150年前に出版された文学作品だが、少しも古くない。今日でも全く新しい。
これだけ力の入ったミュージカルをほかに見たことが無い。2013年のアカデミー賞は、全部これにあげたら良いのではないだろうか。
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