2013年9月13日金曜日

映画 「イノセントガーデン」

 


サイコテイックスリラー、英米合作映画
原題:「STOKER」
監督:パク チヤヌク
キャスト
インデイア ストーカー :ミア ワシコウスカ
エベリン(母)       :二コル キッドマン
チャーリー(叔父)    :マチュー グード
リチャード(父)      :デルモット マルロニー
グエドリン(叔母)    :ジャッキー ウェバー

ドラマ「プリゾン ブレイク」の主演俳優、ウェントワース ミラーが脚本を手がけたことで、話題を集めた作品。脚本が高く評価されていたので、たくさんの映画監督が志願したが、選ばれたのは今までハリウッドで仕事をしたことがなかった 韓国人のパク チャヌク。この監督はソウル生まれの50歳。「オールド ボーイ」で、カンヌ国際映画祭特別賞を受賞した。この作品は日本の漫画を原作とした残酷シーンの多い復讐劇だが、クエンテイン タランテイーノから、高く評価された。
原題、「STOKER」、邦題「イノセントガーデン」は、オーストラリアでは公開されたばかりだが、日本では、5月にすでに公開されたようだ。キャストの二コル キッドマン、ミア ワシコウスカ、ジャッキー ウェバー等、映画の中心人物が そろってオージー俳優なのも、おもしろい。撮影中は、「グッダイ!」で、始まったんだろうな。「グッダイ、アウア ヤ?」(GOOD DAY、 HOW ARE YOU?)とかね。
ストーリーは
街からずっと離れた田舎の大きな屋敷にストーカー家の屋敷がある。父親、リチャードと、母親エベリンと、一人娘インデイアが、たくさんの使用人とともに住んでいる。広大な敷地には森も湖もあり、父親はハンテイングが趣味だ。愛娘のインデイは、幼いうちから父親から狩猟の手ほどきを受けていた。インデイは、誕生日に毎年新しい靴を父親から贈られるのが、習慣だった。

インデイの18歳の誕生日に、父親が車の事故で亡くなる。年頃で反抗期のインデイは母親との折り合いが良くない。父親を心から慕っていたインデイに、喪失感は大きい。そんな父親の葬儀の日に、インデイは初めて、一度も会ったことのなかった叔父を紹介される。チャーリーと名乗る、亡くなった父親よりずっと年の若い弟は、葬儀の日以来、屋敷にとどまり、以来不思議な3人の生活が始まる。ハンサムで優しいチャーリーに、母親エベリンはすぐに心惹かれていく。チャーリーはインデイにも優しい。美術学校に通うインデイは、友達の居ない変わり者。成績はとびぬけて良いが、誰にも心を許さず頑なな様子が、男の子たちの間では、からかいの対象になっている。チャーリーはインデイを学校の送り迎えを買って出るが、インデイはひたすらチャーリーを拒んで無視し続ける。不思議なことに、使用人たちが次々と居なくなる。遠方からわざわざ会いに来てくれた叔母も、チャーリーとの諍いの後で姿を消す。

インデイはつきまとう学校の男の子から、暴行を受けそうになって危機一髪のところでチャーリーに助けられる。チャーリーは当然のように、この男の子を殺害する。インデイは死体を埋めるのを手伝う。インデイが想像した通り、姿を消した女中や叔母も、チャーリーに殺されたのだろう。インデイは激しくチャーリーを憎みながら一方で、自身の理解を超えて異常な性的興奮を感じている。そんな危ない二人の関係を知った母親は、チャーリーをなじりとばし、反対に殺されそうになる。
そんなこんなで、インデイはついに、チャーリーの出現の真相を知って、、、。
というお話。

ストーリーだけを簡単にひとことで言ってしまうと、ストーカー家の異常性格者が次々と殺しまくるだけのお話だ。ただそれだけなので、どしてサイコスリラー映画に分類されている理由がわからない。推理や犯人捜しなど全くない。
しかし、映像作りが、とても凝っている。音の使い方が秀逸だ。シーンごとに聴覚、触覚、知覚をふんだんに刺激してくれる。
葬儀で美しい未亡人が人々に囲まれて、皆に慰められている。それを見ながら、18歳の反抗期真っただ中のふてくされ娘が、台所でガリガリ、ぐしゃぐしゃものすごい音をさせながらゆで卵の殻を割っている。音のない世界で、妖艶な未亡人がいつも人々の中心だ。一方で最大音で 娘が卵をガリガリ、メキメキ、、、。母と娘の対照的な心象風景を 交互に画面で対照的に映し出していて、みごと。上手だ。
だいたい、二コル キッドマンほど喪服とベール姿が似合う女優は他に居ないのではないか。古くは、ジャンヌ モロー、オードリー ヘップバーンなども、喪服の美人だった。二コル キッドマンは、彼女独特の気が強いくせに頼りなく、神経質ですぐにヒステリーを起こしそうな危ない雰囲気が、喪服姿にとてもマッチしている。彼女、夫の葬儀なのにイライラ ギリギリしていて 悲しみに心塞がれた未亡人と思えない。それが証拠に叔父が屋敷に住み着くと、すぐに尻尾を振って男の部屋に入りびたり。本当に悲しんでいるのは娘インデイだけだ。だから、こんな母親が、「こんなときだというのに、どうして私たち分かり合えないのかしら。」などと言ってくれても、娘としては無視するか、せせら笑うことしかできない。当たり前だよね。

ピアノの連弾シーンがある。インデイがピアノを弾いていると、チャーリーが後ろからそっと来て伴奏を始める。二人の連弾が手を交差しながら続けられ、鍵が鍵穴に カチャリと収まるように、二人の嗜好がぴったりと合う瞬間だ。この映画の一番の見せ所だろう。
画面がときどきスローモーションになったりする。そのことによって結構大切なメッセージが誰にでもわかるようになっている。その点、感の悪い人、裏読みのできない人、想像力に欠けていて暗示されていることが読めない人でも、なんかを感じ取れるようになっている。親切だ。

多感なテイーン、父親への憧憬、美しい母への反発、若い男になびく母親への軽蔑と憎悪、ちょっと変わった男への好奇心、過剰な性へのあこがれと嫌悪。これを 全然笑わない女優、ミア ワシコウスカが、いつもふくれ面で上手に演じている。毎年父が贈ってくれた靴が 実は父親からではなかった、という衝撃。靴への偏愛と異常性格者の関係ってわかりやすいかも。

映画の始めのシーンで、赤い花が出てきて、「花は自分で色を選んだりすることができない。」というインデイのナレーションがある。それが、最後の最後で白い花が 血しぶきが飛んで赤く染まるシーンで終わる。「ふむふむ、、なるほどね。」と いうふうにわかるようになっている。
花は自分で色を選べない。人は生まれを自分で選んで生まれてこれない。悪い血統の家に生まれれば その遺伝子は受け継がれていく。叔父の病は姪にバトンタッチされ、えぐい大量殺人は止まらない、というわけだ。
アートな映像、視覚、聴覚、触覚をフルに刺激してくれる画面作りには感服する。だけど、こういう映画が大好き というような人とはあまり友達になりたくない。

2013年9月12日木曜日

ラリアの関節痛よさらばの春

    

日本は暑い夏から ようやく秋めいてきた様子。日本の秋は一年のうちで最も美しい季節。
外国で暮らしていて、「あきこ」とは、どういう意味か、と問われることがある。私の「あきこ」は 文章の「あき」からきていて、先祖の淡路島の洲本にいた古東領左衛門の孫の孫あたりの古東章叔父さんからもらったものだ。素晴らしく美しい字を書く人で、文章も上手だった。でもそんなことを説明しても、外国人にはわからないから、アキは「秋」で、コは「子供」。オータム チャイルドという意味だよ、と。秋は日本では 山々が紅葉し、果物が実をつけ、高い山々には純白の雪を抱く、最も美しい季節なのだよ、と説明する。だから、私の職場では、ふざけて私のことを オータムチャイルドと呼ぶ人もいる。

南半球のオーストラリアでは日本のこの時期が、春になる。
今年は、いつの間にか木蓮が咲き始めたと思っていたら、梅も桃の花も桜も藤の花もいっせいに咲き出して満開になって、さっさと散っていった。街路樹のイングリッシュパイントリーも、杉も、樫も一斉に芽吹いて葉をつけた。そんな春の到来が 今年はことさら嬉しかった。冬の間、関節炎が痛んで、指も手首も腰も膝も顎まで痛くなり いつになっても改善せず、もうこのままずっと痛みを抱えていくのかと、暗澹たる気持ちになっていたからだ。

人の体は50年も60年も 何の問題もなく使えるように設計されていない。
人は、重い頭を支えて、何十年も立ったり歩いたりしてきたから、年を取れば誰でも 膝や腰が痛くなる。すり減って無くなった軟骨のあとに関節が変形してきて神経を圧迫して痛むから、まわりの筋肉を鍛えて、同じ動きをしても痛まないような迂回路をつくって、とりあえず炎症や痛みを回避することが大切だ。そのためには、1にも、2にもストレッチをすること、それだけが解決策と言ってよい。ステロイドの関節注射や鎮痛剤やマッサージや温泉などは、一時的には良いが、解決策にはならない。
一番こたえたのは指の第2関節の腫れと痛みだ。むかしヴァイオリンで酷使してきた。物をつかむのに力が入らない。人に握手されると 飛び上るほど痛い。錠剤を手のひらにとるが、曲がらない指の間をぬけて落とすばかり。コップを落として割る。ドアに鍵が入らない。夜中、痛みで目が覚める。

毎日、30分の自転車こぎ、30分のストレッチ運動を冬の間、ずっと続けた。指が動かなくなると困るので、ギターを始めた。自分で弾くだけでは続かないと思って、先生について習い始めた。薬指が曲がらないのでGコードもFコードもちゃんとした音が出ない。それでもレッスンは楽しく、ギターを背中に背負って電車で先生のスタジオに通った。
1にも、2にも ストレッチ。これを続けていけば必ず効果が出ると 確信しているくせに、努力が全然報われないのではないか、ずっとずっと痛いままではないのか、と自問自答の毎日。

ようやく、気温の上昇とともに関節の可動域が広がって、痛みが軽減してきた。1にも、2にも ストレッチ。人にいつも言い続けてきたことが、自分でもよくわかった。当たり前なことだけれども、努力は必ず報われる。痛みは必ず軽減する。月並みな言葉だけれど、真実だ。とても嬉しい真実。明けない夜はない。冬の後には、必ず春がくる。

写真は、ワラタ(WARATAH)の花。葉から2M以上の長い茎を持ち、その上に真紅の美しい花をつける。オーストラリアのネイテイブの花で、ラグビーチームの名前にもなっている。花(鼻)の下が2Mあるなんて、どんだけ女たらし!

2013年9月1日日曜日

メトロポリタンオペラ 「椿姫」

http://www.palacecinemas.com.au/events/metopera20122013season/

       

このごろ大泣きすることがなくなった。
14歳年の離れた最初の夫と一緒になった頃は、夫の居ないところで隠れてひっそり泣くことが、よくあった。ずっと年上の夫をもつと その人の世界が理解できなくて、ひとり置き去りにされたような気持ちで泣くものだ。今のオットとはもっと年が離れているが 全然泣かなくなった。自分が年を取ったうえ、この世に慣れて図々しくなったこともあるだろう。

久しぶりに心から大泣きしてみたくなって、オペラを観ることにした。オペラで一番泣くのは 文句なく 「椿姫」だ。オペラ「カルメン」では、カルメンの死は悲しいというよりも「むごい」。「リゴレット」の娘の死は、あり得ない悲劇だし、「ラ ボエーム」のミミの死は、しょうもない、みじめなだけだ。「蝶々夫人」の死は馬鹿げている。全然泣けない。泣くなら「椿姫」だ。
「椿姫」の悲しさは、やっと見つけた本当の愛の中で、若い恋人と幸せの絶頂にいるときに、男の父親に別れてくれと懇願され、諄々と諭されて、自分の幸せを諦める女が健気でいじらしくて、泣かされる。男に別れると言っても信じてくれない。他の男に心変わりしたと言って飲んだくれて遊び歩いても信じてくれない。一直線に愛を求めてくる恋人を、はねのけて、はねのけて最後まで男のために、自分を偽ろうとする女の姿に、大泣きせずにはいられない。うんと悲しい悲劇で泣きたかったら、やっぱり「椿姫」だ。

ニューヨークメトロポリタンオペラ「椿姫」、去年の公演をフイルムに収めたものを映画館の大画面で観た。今年はジュゼッペ ヴェルデイ生誕200年にあたる。彼はイタリア北部に生まれたが、そのころは、今日のようにイタリアはひとつの国ではなかった。イタリア統一は ヴェルデイ48歳のときだ。同じ年に生まれたワーグナーのように、パトロンが居たわけでなく、特別豊かでもなかったヴェルデイは、生活のために生涯 作曲し続けた。「椿姫」は 中でも彼が一番油が乗りきっているときに書かれた作品で、完成度が高く、素晴らしい曲ばかりだ。

指揮:ファビオ ルイズ
キャスト
ビオレッタ:ナタリー デユッセイ
アルフレッド:マチュー ポレンザー二
ジェルモン:ドミトリ ボロストスキー
ストーリーは
第1幕
パリ社交界の華、高級娼婦のビオレッタは 浮気者で人気者。結核を病んでいて、長生きできないことを自分で知っている。ならばと、うんと享楽的に遊び呆けて、男から男へと渡り歩いて派手に愉快に人生をやってきた。ところが若いアルフレッドに愛を告白されて、今までに味わったことのない胸のときめきを感じる。アルフレッドに惹かれている自分に自分で、ビオレッタは驚いていた。
第2幕
ビオレッタは生まれて初めて 純真な若い恋人アルフレッドとの幸せな生活に浸っている。社交界からは身を引いて、二人だけの幸せな生活。でも二人して暮らしていくために、ビオレッタは 自分の宝石や家具を売らなければならない。隠れて家具を売るところを知ったアルフレッドは、自分の世間知らずを恥じ、お金を引き出しにパリの家に帰る。アルフレッドの留守中に、老紳士が訪ねてくる。それはアルフレッドの父、ジェルモンだった。彼は 結婚する娘のために 世間体を繕わなければならない。家名を汚さずに済むように 息子とは別れてくれという。はじめは取り合わなかったビオレッタだったが、切々と説得する父親の話を聞くうち、遂にアルフレッドの将来のために自分が犠牲になって別れる決意をする。
第3幕
ビオレッタは心変わりしたという手紙をアルフレッドに残して、パリの社交界に戻る。他の男たちと遊び呆ける姿を見てアルフレッドは 逆上してビオレッタに金を投げつけて侮辱する。ビオレッタはただ泣き崩れるしかない。
第4幕
数か月後、結核に病むビオレッタは、死の床に居る。そこに、すべての事情を知らされたアルフレッドが駆け付ける。アルフレッドは、自分の無知を謝り、二人して田舎で暮らそうと言う。謝罪するために来た父、ジェロモンは、ビオレッタこそが、心の美しい本当に自分の娘にふさわしい人だと述べて、心から詫びる。しかしビオレッタにはもう それに答える力が残っていない。二人に見守られながらビオレッタは死んでいく。
というお話。

このオペラには男女合唱団による「乾杯の歌」をはじめとしてアルフレッドの「燃える心を」など、有名でテレビやコマーシャルなどででよく使われている曲がたくさんある。ビオレッタが始めから終りまでずっと舞台の上に居て、息を継ぐ暇がない。彼女の独白が多く、動きも激しい。独白やアリアは技巧的に難曲が多く、3時間余り、コロラドソプラノにとって、とても見せ場が多いが、過酷ともいえるオペラだ。マリア カラスが好んで歌った。

ビオレッタを歌ったナタリー デユッセイは、やせっぽちで小さな人だが、驚くほど豊かな声量で、気品のある美しいコロラドソプラノを歌う。彼女の「ラメンモールのルチア」を メトロポリタンオペラで見たことがあるが、いつも彼女の体当たりの演技には目を見張る。今回のビオレッタも、この人ほど役にふさわしい歌手はいないのではないかと思うほど役になりきっている。何度も失神してバタリと倒れるシーンがあるが、本当に体当たりで倒れるので 彼女の体は傷だらけではないだろうかと 本気で心配した。すごいエネルギーだ。

アルフレッドのマチュー ポレンザーニ、イタリア人らしく背が高く体も大きく見栄えが良い。芝居も上手くて、若くて世間知らずの坊ちゃんが、一人の孤独な女にのめり込んでいくのが納得できる演技だ。倒れたビオレッタを抱きしめながら 愛を切々と歌い上げながらボタボタ涙を ビオレッタの顔に落としていた。あわてて拭いていたが、失神しているはずのビオレッタは目を閉じていて、顔の上に ポタポタ涙が降ってくるのにじっとしていなければならなくて辛かっただろう。真迫力の演技だ。こんなシーンは、フイルムを見ている人にしか見えず、舞台で見ている人にはわからない。

しかし、このオペラでは何といってもアルフレッドの父親のバリトンに じっくり聴かせてくれる魅力が詰まっている。ジェルモンのバリトンがよく響きわたって、説得力をもってくれないと、どうしてこれが悲劇中の悲劇なのかわからなくなる。ビオレッタが自分の幸せを諦め犠牲になって、アルフレッドが嘆き悲しむ理由がわからなくなる。ジェルモンは、とて大切な役だ。これを歌ったドミトリ ボロストスキーは銀髪で出てきたが、本当はアルフレッドと同じくらいの年か、もっと若かったのかもしれない。バリトンなのに背が高く顔が良い。バリトンは背が低く、樽みたいな体形の人が多いから、こんなバリトンの登場がすごく嬉しい。こんな人に切々と訴えられ、懇願され、諄々と説得されたら、なんでも言う通りにしたくなる。

1853年に作曲されたこのオペラ、ヴィクトリア調の背景で屋敷も、どっしりとして華麗な舞台設定、ドレスは コルセットでウェストを絞った古典的な裾の長いドレスで出てくるのが常だったが、この舞台は現代風。全4幕で、舞台が回り舞台で 背景が変わったりせず、幕間にインターミッションが入ることもなかった。終始 簡素なひとつの舞台に 移動式の家具が出てきたり引っ込んだり 壁がドアになったり実に合理的に空間を使っていた。まず白壁で囲まれた舞台に巨大な時計がひとつ。限られた時間に生きるビオレッタの命の長さを表している。ビオレッタの衣装も、赤い短いドレスひとつだけで、着替えることもない。華やかな社交界で飲んで踊るシーンも、ダンサーも男女合唱団も みな男装して黒い背広姿だ。とても斬新な発想の舞台だ。

舞台が簡素で衣装などが単純になればなるほど 聴き手の関心は 3人の登場人物の役者ぶりと声そのものに集中する。そしてその期待が、裏切られることはなかった。3人3様の良さが合わさって 素晴らしいハーモニーを醸し出している。ソプラノの気品ある力強い声と、テノールの甘い語りかける声と、バリトンの圧倒的な説得力。まったく、よく泣かせてくれた。ビオレッタが嘆くたびに、アルフレッドが絶望するごとに泣かされた。本当に、オペラはやはり素晴らしい。