2011年8月23日火曜日

もってかえる


父が亡くなっても家のある人たちは みな帰っていく。通夜の後も 葬式のあとも。わたしには帰る場がないから 父が前住んでいたホームに一人もどる。そして父のにおいのする部屋で、父のベッドに横になり 父のにおいの残る枕で眠る。

でもそれも もう最後。私もわたしの巣にもどる。外国という名のとらえどころのない海の果てに。そんな頼りのないところに 自分の作った小さな場所を わたしなりに守らなければならないから。

父と母が 共に息をして暮らした場にあった 薔薇の油絵を持っていく。
父が最後の日まで手元に置いていた 湯のみと茶筒をもっていく。
父が晩酌でウイスキーを飲む時 母がお相手にワインを飲んだウェッジウッドのワイングラスを持っていく。
父が物を書いていた机の上にあった 一輪挿しを持っていく。
箪笥の奥にあって 恐らく父は 一度も身に着けなかったカフスボタンを持っていく。
父が入院先でヒゲを剃っていた電気剃刀を持っていく。粉のような父の剃ったヒゲごと。
書斎に飾ってあった 娘が色鉛筆で描いた父の肖像画を持っていく。
父の大好物で いつか食べようと取ってあったカニ缶を持っていく。
父の枕元にあった 本20冊ほど持っていく。
父が 散歩のとき被っていたソフト帽を被っていく。
父の枕もとにあった懐中時計を持っていく。
父が履いていたソックスを履いていく。
箪笥に入っていた 父の匂いの残るハンカチを6枚ほどもっていく。
父が書いたペンでこれを書いている。
父の匂いのするものを、何もかも持ってかえりたい。
父が吸っていた空気を持って帰りたい。
何もかも持って帰りたい。
他の誰にも渡したくない。
それができなくて、哀しい。

父 書く人 


8月13日
父の血圧が100前後、脈120くらい、呼吸数25、末梢血流酸素68%-75%を前後し、一方血糖値が高栄養輸液のために330と急上昇する。昼間は」普段どうり呼吸が苦しいが」話しかければ返事をし、お父さんおはよう、と言うと「おお」と返事をする。義姉が 「お父さん明日また来ますから」と言うと しっかり握手をする。

それなのに それは突然やってきた。
午後5時。幻視 幻覚がはじまる。父は兄、姉夫婦に囲まれながら私たちと視線が合わなくなった。父は天井を見ている。私たちに見えない何者かを見て、「おお」とか、「ほほー」とか言って、嬉しそうにしている。突然肩をすくめて笑い声をあげる。私の右手を 痛いほど強く握りしめるので、しばらくして手をはずすと、その手を布団から出して、空中で何かを書く様子を見せる。あわてて 父の手にペンを持たせると しっかり握りノートに何かを書こうとする。

父は昔から筆を持つと 美しい字を書いたが、ペンを持つと実に歯切れの良い 起承転結のある 格調高い文章を書いた。大学で教えていた間、学術書を書いたが 定年退職後は趣味で 随筆集をいくつも出した。書くことが趣味で 仕事で、道楽でもあった。そんな父が死の最期までやりたかったことは やはり書くことだった。

幻覚の世界で父はペンを握り 誰かと話し合い、笑い合い、そして書き続けた。父の持つペンに 紙をあてると字にならない字を書き続けた。
「お父さん お母さんとお話しているの」と聞くと、いいやとはっきり首を横に振る。「お父さん 疲れるから眠ってください」と言っても、首を横にふる。
幻覚のなかで、朝まで父は休まず ずっと誰かたちと話をしながら何かを書いていた。

8月14日
とうとう父は一睡もせずに 昨夜5時から朝まで ずっと目を大きく開き、右手にペンを持ち 何かを書いていた。ときどき笑いながら、楽しそうに。

呼吸が 下顎呼吸に変わったので、ホームで眠っている兄と姉夫婦を呼ぶ。かけつけたみんなの前で 父は30分かけて ゆっくりゆっくり呼吸数を落とし、そして呼吸を止めた。
父のみごとな死を私たちは 黙って見つめていた。

大内義一 99歳。
午前7時 永眠。
ペンを握りながら 力尽きて逝く。

優しくなった父


8月12日
「土建屋に箪笥を持たせるな」という言葉がある。土木建築設計技師だった夫は 地下鉄、道路、橋、公園などのプロジェクトが始まると 最初から関わり現場を指揮し、完成するころには もうそこからは離れて別の仕事にとりかかっていた。一箇所に長く留まっていることはない。文字通り、家族を連れて 家から家へ引越しの連続で 立派な箪笥など買う余裕がなかった。

沖縄に3年、レイテ島に2年、マニラに7年、そして 夫を失ってからは オーストラリアに移って15年。随分長いこと外国暮らしをしてきたが 二人の娘をつれて 年に一度正月に帰国するのが楽しみだった。2週間ほど、父のところに 滞在する。着けば、父はさっそく二人の孫に お小使いを渡し、私たちが嬉々としてデパートに買い物に行くのを見送ってくれた。ロクに本など買わず 服や装身具ばかり、買ってきては 広げて父に見せる私たちの姿に「おお すごいの買ってきたな」「うん とても似合う服だよ。」と、大げさに一緒になって喜んでくれた。教壇に立っていたころの俗物嫌いの父からは想像できない変化だった。

庭で たくさんの花を育て、池の金魚の世話をしていた父が 突然家を売り、原書や貴重本など すべての本を 淡路の図書館に寄付したり処分して母と二人きり身軽になって有料老人ホームに入居したときは みながびっくりした。父としては 子供たちが巣立ち 孫も大きくなって 老夫婦二人になったので、いつまでも母に買い物や食事の支度をさせず 楽をさせようと思ってのことだった。と思うが、母はホームに入って 翌年亡くなった。一人きりになった父のために 子供達もお弟子さん達も 頻繁に訪ねたが、13年間、一人きりで暮らした父の日々は辛かった と思う。

エックスレイ写真を見ると右肺の全域が 炎症で完全につぶれているのに 父は 右側にいる私のために 体ごと顔を右に向けて眠っている。抹消血管の酸素血流量は 80%前後。痰がつまるとすぐに60%くらいに落ちる。気が気ではない。
夜11時、呼吸の状態が良くないので 兄と姉に電話をする。たいしたことではないのかもしれないけれど、、、と言ってどもる私に それで良いと兄が言ってくれる。兄は練馬から車で飛ばして、1持間で到着。姉は父のホームから ただちに来る。皆が到着してみると 父の呼吸は安定していた。
深夜になって、兄姉はホームに引き上げる。

写真は娘が描いた父

父をひとりじめ


8月11日
3時間ほど父のそばを離れる。そんなときほど 何かあるのではないか、いやな予感に脅えながら 父のホームに向かう。
帰国して、成田から病院に直行したので 父が住んでいたホームから 自分の着替えや 読むものを持ってきたい。病室に父を残して 病院発の船橋法典行きのバスに乗る。イトーヨーカ堂で買い物をしてホームに着いたとたんに 父の急変の連絡が入る、逸る気持ちでタクシーに飛び乗って病院にもどる。

モニターをつけているが、血中酸素量が下降したので、婦長が家族全員を呼んだ。見たところ 呼吸状態も意識状態も2日前と変わらない。
しかし肺のエックスレイ写真を 2日前のものと比べて見ると歴然たる違い。肺葉のすべてに白い影が広がっており、ほんのわずかの隙間しか 残っていない。医師に改めて「危篤状態です」と言われる。

呼びかければ父は返事をし、笑顔を見せ、強く手を握りかえしてくれる。兄夫婦は夕方帰宅するが、姉夫婦は病院近くの父のホームに泊まることにする。
父の横で眠るようになって3晩目。食事は兄や姉が来る途中、コンビにで買ってきてくれるおにぎりや果物など。それが食べきれず たまっていく。

昼間は良いが、夜間、痰がたくさん出て 吸引してもらわなければ窒息してしまうので、夜が父にとって とても辛い。鎮痛剤を入れてもらって 父の眠りが少しだけ深くなり 多少心が休まる。
父と同じ呼吸をする。父が吸い。父が吐く空気を 吸って吐く。父の匂いのする枕に ほほをつけて、まどろむ。強く厳しかった父が こうして年をとり、弱くなって優しくなる。 そんな「お父さんをひとりじめ」

ブラックシープ


8月10日
一晩中 父の手を握りながら 横で眠り父と娘の濃密な時間をすごす。呼吸を通して 肺に炎症が広がっていることがわかる。主治医が現状を説明する。子供たちが知らないうちに 父は尊厳死協会に登録していて、延命治療拒否を明確にしていた。すべての決定は 常に父。家族は従うもの。これが 明治生まれの人の生き方だった。

一人息子の兄は偉大な父という 大きな壁を前にして、大変だったと思う。父の書き散らしたものをまとめ、手を入れ、編集し、学会の発表も秘書のように後ろで支えた。多数の著作も、業績も兄が後ろで支えて できたものだ。私には それらがどんな価値をもったものなのか、全くわからない。

どの家族にも ブラックシープと呼ばれるような 異端児が居るものだ。
私が完全に子供のときから できの悪い へそ曲がりの変わり者 ブラックシープだった。いまは日本を捨てて26年間 外国暮らし。そんな娘にも父は常に変わらぬ愛情を注いでくれた。そんな父と、だまって父を支えてきた兄と姉と義姉に申し訳ないと思いつつ、父の手を握りながら 二人だけの夜を過ごす。
主治医に中心静脈栄養カテーテルを挿入すると言われ、それが父の延命治療拒否の意思に反するのではないか と迷いつつも、静脈が確保できなくなったので同意せざるを得ない。

痛み止めの処方を、という申し出に「どこが痛いのですか」と問う医師に、腹をたてる。寝たきり、寝返りもできなくなった肺炎患者に 痛みが全くないと、確信するような医師の想像力の欠如を 嘆かずにいられない。

チチキトク


8月8日
父親が、肺炎で食べ物も飲物も飲み込めなくなって入院した という知らせを受け、カンタス 夜の便でシドニーから成田へ。空港から直接 船橋を経由して市川大野中央病院へ、父のもとに直行する。

ベッドで 父は苦しそうな息をしていたが、「章子がきました。」と言うと、「オオッ」と 嬉しそうに答える。つやのある顔、長年 教壇に立った人のハリのある声。私の手を握る力強さ。

日本を後にして26年、母を亡くして13年。もう この人を失ったら 私は外国でただ一人 みなし児になってしまう。もう 日本という根を失なってしまう。そう思って 悲しみが こみあがってくる。父の呼吸する姿を見ていて 回復すると思えない。残された時間が貴重で 一刻も父のそばを離れたくない。
病院のベッド横に簡易ベッドを置いてもらい、横になる。繰り返し、繰り返し吸引される痰。吸引と検温のために ナースが来る以外、病院の静寂な時間を、父と娘の濃密な時間が流れる。しっかり父の手を握ったまま眠る。

父は子供たちを甘えさせなかった。大学に入ったころ、議論をしていて 
激して私が「あなたの考えは、、」と言ったら、「あなたじゃない。父上と言え」と 怒鳴られた。そのころ父は 早稲田政経学部の教務主任として 大口明彦全学連委員長に退学を言い渡していた。父としては苦しい判断だったろうが。立場上やむを得なかった。しかし、下駄を履き 学生服で登校してくる その人の姿に、同じように貧しく 学生服、学帽で同じ校舎で学んだ自分の姿を重ねて、深い愛情を感じていた。そう思う。数年後、あの人は京大で法学を学んでいる と報告したときの嬉しそうな顔。後に弁護士として成功されたことを知ったときの父の喜びは 自分の弟子たちが巣立った時よりも大きかった と思う。

家には いつも学生 または元学生がいた。母はみなに食べさせるのが大変だったと思う。ほとんど毎週のように訪ねてくる安田学園の卒業生や 早稲田のお弟子さんたちは、家族の一員のようだった。それらのお弟子さんたちは、卒業で父の世話になり、就職で父の手を煩わせ、結婚で父を悩ませ、子供が生まれると父を喜ばせた。媒酌人になって母と出かけることが多かった。どれだけの人の入学と卒業を助け、どれだけの就職の面倒を見、どれほどの結婚に立ち会ったか、数え切れない。

56年間 早稲田の教壇に立ち、名誉教授になって退職した。限りなく学生たちから慕われた。
しかし娘にとっては「父上様」であり、普通の人のように お父ちゃんというような言い回しで甘えることはできなかった。お弟子さん達と同じように、一定の距離をおいていた。お願いがあると 正座して 説明しなければならなかった。明治気質の父にならい 母も若いときは子供たちに甘えを許さない厳しい人だった。子供を中心にしている よその家庭や、友達のような両親が うらやましい時期もあった。権威と威厳の双璧のような親を憎み、反発する時期は 途方もなく長かった。父も苦しかっただろう。申し訳なかったと思う。

父は苦しい呼吸を続ける。
それでも、昔話をする私に 父は笑顔を見せる。聞けば「ウン」とか「ホホウ」とか 返事をする。「兄さんが帰ってきた私にお小使いをくれました。」「お姉さんが自分で焼いたパンを持ってきてくれました。」と言うと、顔をくずして一緒に喜んでくれる。高校野球を 少しの間見ていたので、そのままにしておくと 突然テレビを指して「それ、やめてくれないか。」と。そういえば テレビも映画も音楽も嫌いな人だった。部屋が暗くなってもカーテンを閉めずにいたら、「そこを閉めなさい。」長かった父の一人暮らしぶりが垣間見られて 悲しい。