2026年9月8日火曜日

兵衛大叔父のチューリップ

私にとっては「鎌倉のじいちゃん」大内兵衛がラッキーだったのは、若いときに海外留学で、はじめはニューヨーク、のちにハイデルベルグで学んだことで、広い見識を持ち大局から世の動きを見ることができるようになったことだと思う。
初めのニューヨーク留学は、彼が東京大学を卒業し大蔵省に就職した2年目に、大蔵省留学生として28歳で3年間(1916-1919)派遣された。
次のドイツ留学は、彼が編集担当した東大経済学部雑誌「経済学研究」に森戸辰男が「ピョートルクロポトキンの理念」についての論文を載せたことで、森戸は逮捕され大学が罰金刑をうけて、彼が停職処分を受けたあと復職できるまで〈1921-1923)ハイデルベルグに留学できたことだ。

彼の時代は進学する人の数も少なく、中学に進学したエリート達は英語をものにして、高校で2-3か国語をこなし、大学では英独語などの外国語の原書を読んで議論ができるレベルだったそうだ。そういえば父も、その父(大内兵衛の兄)も日記は英語で書いていた。

1938年2月1日に、大内兵衛(1888-1980)、有沢広巳(1896-1988)、大森義太郎(1898-1940)、脇村義太郎(1990-1997)、高橋正雄(1901-1995)、美濃部亮吉(1904-1984)の6人は、中国への宣戦に反対したことを理由に、共謀して「無産運動の理論的指導を行い、労農派の勢力の拡大を測り共産運動をした」として検挙された。
近衛文麿内閣の政府、検事、警察は、これらの学者が、日本の軍国主義を批判したことをもって、治安維持法で起訴しようとした。しかし、これら学者たちは、統計学をもとに社会科学の視点から日本が戦争に勝てる国力を持っていない確信をもっていた。戦時中、シンガポール陥落、南京進出、敵の戦艦沈没と。多くの日本人がお祭り騒ぎをしていた間中、兵衛は「すぐ負けるから」と父に言っていた。若くして外国を見て歩いた人の目は、開戦に至る10年も前から、中国侵略には無理がある、対米戦争で勝てるわけがない、とわかっていた。

鎌倉のじいちゃんの思い出は、彼が愛したチューリップ畑だ。鎌倉から江ノ電に乗って、駅からかなり歩いた急坂の上、古い木造の家に住んでいた。風通しの良い格調ある大きな家だった。道路からてっぺんの家までの広い斜面には、彼が植えたチューリップがみごとな絨毯のように広がっていた。こまめで歩くのも何をするのも早くて、よく笑うじいちゃんのチューリップだ。
影響を受けて父も熱心に、庭にチューリップを植えた。球根を掘り出して、縁側で乾かし毎年植えなおす。世界一オランダがきれいだ、とよく言っていた。結婚前、訪ねてきた母が庭中にチユーリップが咲いていて、それを褒めたので将来の妻のために、帰るときチューリップを切って渡したのだという。その手が激しく震えていたのは「もったいなくて」だった、と父から何度も聞かされて、そのたびに笑った。

母は宇佐美誠次郎(大内兵衛の弟子)の妹だった。彼は論文をマルキストと断じられ、治安維持法で検挙され厳しい実刑を強いられた後、「死んで来い」と終戦まじかの中国の最前線に送られた。生きて帰れたのは奇跡だった。心も体も大きな抱擁力のある叔父だった。会えば、「何読んでるの」ロマンロラン、「バイオリン何弾いてるの」メンデルスゾーン。これだけの会話しかないのに、ずっと横に居て寄りかかっていると、しみじみ心が満たされてくるような温かい人だった。
写真は大きな大きな宇佐美誠次郎叔父と、小柄で茶目っ気いっぱいの大内兵衛大叔父。
もう昔のことなので、この写真しか手元に残っていないのが悲しい。