2018年9月15日土曜日

映画「クレイジーリッチ エイシアン」

いま世界中でベストセラーになっているケビン クワンの小説「CRAZY RICH  ASIANS」をハリウッドで、アジア人監督、全員アジア人キャストによって作られた映画。興行成績は今年の8月に公開されて以来、連続第1位の記録を更新中。オーストラリアでも大人気だ。
この「CRAZY RICH ASIANS」は3部作の第1作目で、「CHINA GIRL FRIEND」が第2作目、3作目が「RICH PEOPLE PROBLEMS」で、3部作ともすでに出版されている。原作者ケビン クワンは44歳のシンガポール生まれで、エンジニアの父親、ピアニストの母親に連れられて子供の時にアメリカに移住したシンガポール人。

初めてハリウッドでアジア人による中国人の物語を描いた「JOY LUCK CLUB」から実に25年ぶりに2度目のアジア人によるアジア人の映画が作られたことになる。「JOY LUCK CLUB」が第二次世界大戦の悲惨な体験が淡々と描かれていたのに比べて、この映画は、ラブロマンスのコメデイ―だ。世界第1位の経済大国になった中国から来た人々のパワーをもろに見せつけられる。舞台はシンガポールで、そこに住むスーパーリッチな不動産王の御曹司と、シングルマザーに育てられたチャイニーズのニューヨーカーとの恋愛物語。
原作では伝統的な中国人の価値観と、アメリカ育ちの中国人の若い世代の意識の落差について、真面目に語られているが、映画ではそれを強調するあまり面白おかしく笑いを取るコメデイとして仕上がっている。

ハリウッド映画
監督:ジョン M チョウ
原作:ケビン クワン
キャスト
レイチェル         :コンスタンス ウー   
ニック           :ヘンリー ゴールデイング
ニックの母エレノア     :ミッシェル ヤオ
ニックの従妹アストリッド  : ジェッマ チャン
ニックの祖母        リサ リュ―
レイチェルの親友ぺイク リン:オーク ワフィナ
ペイク リンの父親     :ケン ジェオング
レイチェルの母ケリー    :タン キェン フア
ニックの親友コリン     :クリス ペン
ニックの親友の許婚者アラミンタ:ソノヤ ミズノ

ストーリーは、
レイチェルはニューヨーク大学で経済学を教える教授。香港から移住したシングルマザーのケリーに育てられた。同じ大学で史学を専門にしているニックと恋人同士だ。
ある日、ニックにシンガポールに住む親友の結婚式に呼ばれているので、一緒にシンガポールに行こうと誘われる。喜んで休暇を取り、二人して機上の人となるが、乗り込んだ機内で案内されたのはファーストクラスの座席。レイチェルは何かの間違いだと思ってあわてる。しかしニックは笑って、せっかくの旅行なのだからこれで行こう、とレイチェルを説得する。
シンガポールで出迎えてくれたニックの親友コリンと、その許婚者アラミンタに会い、食事を楽しんだあと、レイチェルは一人、昔のニューヨーク大学時代の親友だったペイク リンに会いに行く。ペイク リンの家はびっくりするほど立派な豪邸で、彼女は両親と兄弟家族と一緒に住んでいた。家族に暖かく迎え入れられたレイチェルは、恋人の名前を聞かれて、「ニック ヤングというの。」と答えた瞬間、家族全員が凍り付く。レイチェルの恋人は、シンガポール一の大富豪の跡取り息子だったのだ。エルメスを普段着にしているペイク リンの家族の面々は、ノーブランドのワンピースを着ているレイチェルが、そのままニックのお婆さんの家で開かれる晩餐会に行くつもりでいることに驚愕。そんな服でヤング家のパーテイーに出られるわけがない。新友ペイク リンはレイチェルに、デイナードレスを着せて、一緒に晩餐会に行く。

レイチェルはお城のようなヤング家で行われている贅沢なパーテイーに、肝を冷やしながら、ニックに家族や友人たちを紹介されて、委縮していく自分に気が気ではない。
ニックの母親エレノアと祖母は、レイチェルを迎い入れるが、冷ややかな空気は変えようがない。レイチェルに出来ることは、エレノアの指にある巨大なエメラルドの指輪を褒めることくらいしかない。

翌日はバッチェラーパーテイー。男達は、ヤング家の所有する島でバカ騒ぎ。レイチェルはニックの許婚者アラミンタの女友達とでバッチェロパーテーに加わる。しかしレイチェルはニックの昔のガールフレンドたちから嫌がらせを受け、ベッドに腐った生魚を入れられたりする。カルチャーショックと、ニックの恋人としての嫉妬ややっかみを受けて、傷つきながらも、レイチェルはコリンとアラミンタの結婚式の参列する。
しかしその夜、レイチェルはニックの祖母と母親エレノアに呼ばれて、レイチェルは母親が浮気して生まれた私生児だと言うことが調べで分かったので、そのような娘をヤング家に迎えるわけにはいかない、と宣告される。レイチェルは自分の父親のことを知らない。自分でも知らなかったことを調べられて知らされた上、たった一人の身内である母親を侮辱されて、レイチェルは親友パイク リンの家に駆け戻り、惨めな自分が情けなくて食べ物も喉を通らない。ニックに会う気力もない。

ニューヨークから知らせを受けた母親ケリーが、レイチェルを連れ戻しに来る。ケリーはレイチェルに、本当に事を話す。父親は暴力をふるうような男で、良い人ではなかった。昔好きだった人と再会して妊娠してしまった。その事を夫が知ったら大変なことになるとわかっていたので、夫にも恋人にも何も告げずにひとりアメリカに逃れるしかなかった。レイチェルを産み、苦労しながら育てて来たが、それが自分にとって何よりも喜びに満ちた人生だった、と母は言う。レイチェルは母親と二人でニューヨークに帰ることにする。
その前に、ニックにさよならを言うために会うと、ニックは跪いてレイチェルにダイヤの指輪をささげて、求婚する。ニックの母親と話をしなければならない。レイチェルはニックの母親エレノアを麻雀屋に呼び出して告げる。麻雀で私が勝ったらニックは私のもの。もしお母さんが勝ったらニックはお母さんのものです。レイチェルはそう言ってゲームを始めるが、レイチェルはわざと負けて、その場を去る。

レイチェルとケリーは、来た時と大違い、ニューヨーク行の格安エアラインのエアアジアに乗り込む。その機上にニックが飛び込んできた。ニックの母親エレノアの巨大なエメラルドの指輪を差し出して膝まずき、再びニックはレイチェルに求婚をする。
というお話。

コメデイだが、純情な二人の恋人たちに泣き、心温まるシーンで終わる。
それにしても、映画を観ていてつくずく感じたのは、アメリカ人も中国人もお金が好きな国民だということ。徹底した拝金主義、物質至上主義で、贅沢をして物質で豊かさを形で表さないではいられない国民性。アメリカ人と中国人って、とても似通っている。

映画でシンガポールの観光旅行を楽しむことができた。素晴らしいシンガポールの観光名所が全部出てくる。どでかいチャンギエアポート、マーライオンのパーク、5つ星のラッフルズホテルのコロニアルスタイルの優美な外観と、スウィートルームの贅沢なスペース、それと度肝を抜くマリーナベイサンズ ホテルのプール。このプールは、3つの高層ビルを空中でつないだ57階屋上の、空中庭園の中にある。それとガーデン バイザ ベイのウオーターフロント公園で豪華な結婚式が行われる。ふんだんに花と水を使った、贅沢で見事な演出。これ以上華麗な結婚式はない、というくらい美しい。チャリーン、結婚式の費用だけで800万円。
ニックの親友のお嫁さんアラミンタを演じたソノヤ ミズノは、日本人とのダブルでファッションモデルでバレエダンサーだそうだが、背が高くてプロポーションが良くて絵になるような美しいお嫁さんだった。
これほど要所要所シンガポールの観光アイコンが使われているのに、意外なことに撮影のほとんどはマレーシアで行われたそうだ。ニックのお婆さんのお城の様な屋敷は、マレーシアの超高級ホテルだったカルコサス リネガラという歴史的な建物で、ニックのお母さんのモダンな海辺の家もマレーシア。コリンがバッチェラーパーテイーをしたのはマレーシアのラワ島、バッチェロパーテイーはランカウイ島だったそうだ。

アジア人の映画で楽しいのは、出てくる男達が美しいことだ。この映画でも主役のヘンリーゴールデイングが とても素敵。31歳、身長186cM。マレーシア人と英国のダブルで、イギリス育ち。彼にとってこれが初めての映画出演だというのだから驚きだ。これまでTVの司会や旅番組のホストだったそうだ。歩き方から食べ方、身のこなし方まで上品で美しい。
彼の親友役のクリス パンも素敵だし、ニックの従妹ジェマ チェンがとびぬけた美人だが、彼女のオットと元彼氏が、二人とも若すぎず、美しい肢体、渋い男の良さを体現していて忘れ難い。ピエル ペンと、ハリーシュン ジュニアという役者さん。いくつもの中国映画と韓国映画に出演しているに違いないので、記憶にとどめておこう。

主演女優レイチェル役のコンスタンス ウーは可愛い。でも美しさではニックの従妹役のジェマ チャンに及ばない。姿かたちと着こなしの良さではお嫁さん役のソノヤ ミズノに及ばない。また役者としては、レイチェルの親友を演じたオークワフィナに及ばない。オークワフィナは、話題作「オーシャン8」で、ケイト ブランシェットや サンドラ ブロックと共演して、大女優に負けない強い個性を見せてくれた。全く美人でないが、これからもハリウッドで活躍していく人だ。ヒップホップシンガーソングライターでもある。

準主役はもちろん憎まれ役ニックの母を演じたミッシェル ヤオだ。マレーシア人なのに中国映画と言えば、必ず彼女が主演だ。ゴング リーとか、チャンツ―ィ―が主役だったときはいつも重要な脇役を演じていて、流暢な英語を操るアジア人国際女優として不動の地位にいる。「クロ―チングタイガー」、「ゲイシャ」、「グリーンデステイ二ー」など彼女の出てくる映画など20本くらいは見ている。
そのハリウッドでもよく知られた大女優のミッシェル ヤオが、今回の映画でインタビューに答えて、自分はバナナだと言い出したのには とても驚いて考え込んでしまったよ。彼女がマレーシアで料理屋に連れて行かれた時、箸しかなくて、どうやって箸を使うか知らなかった。マレーシア人だが、その文化もしきたりにも疎い。アメリカで育ったアジア人はアメリカではアジア人といって差別と偏見にさらされ、アジアに行けば変な外人扱いをされる。欧米育ちのアジア人はみな、民族差別と差別の裏返し差別とでもいう立場で自分のアイデンティテイーに悩むものだ、と言っていた。とても共感できる。

アジア人による、アジア人監督と、アジア人キャストで作られたハリウッド映画ということで、これを観る欧米生まれ欧米育ちのアジア人は、欧米人とは全く異なった映画の受け止め方をしているのだ。アジア人だと、アメリカ生まれ、アメリカ育ちのアメリカ国籍のアメリカ人でも、顔を見た人は、「あんた英語しゃべれるか?」と聞いてくるし、「あんたの故郷はどこだ?」と問われながら育って大人になる。
国民の4人に1人は外国生まれという移民でできたオーストラリアに居ても、同様だ。「どこから来たの?」「英語わかる?」がいつもついてまわる。それをいちいち「おい、あんたの言ってることは人種差別で、人権侵害行為なんだぜ。」と解説などはせず笑って受け流して生きている。そこに痛みは無いといえるか。

その意味で、この映画を観て、コメデイなのに泣いて見ているアジア人が多かった、というレポートが とても理解できるものだった。
世界一の経済規模を持つ中国。長いことコーカシアンの男が中心だったハリウッドで、プロデユーサーワインズバーグのスキャンダルを切っ掛けに、女性によるミートウー運動、権利保障を要求する運動が起き、俳優を含む映画関係者のなかで女性やアフリカンアメリカンやメキシカンアメリカンやチャイニースアメリカンがたくさん居るのに、登用されていない現状を、覆す動きが盛んになってきている。21世紀になって、ようやくここまで来た。もっともっとマイノリテイーによる映画が作られなければならない。

2018年9月9日日曜日

映画 「判決 ふたつの希望」

どんなに腹を立てていても言ってはいけない言葉というのがある。
相手が生きているその根幹に関わることで、その人が人であるための尊厳に触れるような言葉。それを言ってしまったら文字通り「おしまい」なので、致命的な言葉を間違って吐いてしまったら、言葉を取り消すことができないし、後戻りも出来ない。

前世紀まで、そういった言ってはいけない言葉は、ファックユーとか、マザーファッカーとか、サンオブビッチとか、バスタード(ケダモノ)とか、シット(くそ)とかだったけれど、今ではもっともっと悪い言葉が出てきている。
外国に住み、病院で看護師をやっていると、腹を立てた年より患者からこういった禁句を投げかけられることもある。病気の人は、心も病気だから不安や不満や痛みを看護師や医者を罵倒でもしないと、居られない時もあるのだろう。言われても専門職だから全然平気だ。「このチンク野郎」とか、香港人じゃないのに「ホンキ―野郎」とか、「モングエル」(野良犬)とか、痩せてるのにファットアス(豚野郎)、とか、シットバグとか、「二ガーアフリカに帰れ」とか。「ゴーバック ウェア ユーフロム」などなどだが これは、ヤンキーゴーホームみたいにポピュラーな差別言葉だ。
NSW州知事、ボブ カーの中国人妻を「メイル ブライド」(宅急便花嫁)と失言して、議員職を追われ自殺未遂した議員も居たっけ。
子供がそういった言葉を吐くと、まわりの大人たちがあわててそれを取り消そうとしたり、ごまかしたりするので、タチの悪い子供はわざと面白がって言うようになる。だから子供が小さいうちから言ってはいけない言葉、とくに民族差別、性差別に関わる禁句を口にすることは「犯罪」をであること、「人権問題」に関わる重大なことだということを子供に教育しなければならない。言ってはいけない言葉を吐くことは犯罪で反社会的な行為なのだ。それをテーマにした映画を観た。

原題:「THE INSULT」       
レバノン スランス合作映画
監督:ジアド ドウレイ
キャスト
ヤセル:カエル エル バシャ
トニー:アデル カラム

ストーリーは、
レバノンに住むキリスト教徒のレバノン人、トニーは自動車修理工で、妻と二人でアパートに住む。妊娠中の妻は、子供を育てるならいま自分達が住む都会の小さなアパートではなく、都会の喧騒や混雑から離れた、夫の家がまだ残っている田舎で暮らしたいと思っている。しかし夫は頑なにその案を拒否している。
アパートのベランダで洗濯した水は、配管のない2階のベランダから直接外に流れ落ちる。狭いアパート下の路面で工事を始めた工事責任者のヤセルは、洗濯の汚水を浴びて腹を立ててベランダから突き出たパイプを切り落とす。この工事責任者のヤセルは、パレスチナ人で寡黙で優秀な技術者だが、モスリムで難民出身だ。ヤセルはベランダから切り落としたパイプから新しい配水管をつけて水が外に漏れないようにする。しかし怒り収まらないトニーは、その新しい排水管を叩き割る。

トニーはヤセルに、勝手にパイプを切り落としたことで「謝罪」を求める。工事が止まって困った市の職員は、ヤセルに謝罪させて、この場をまるく収めて早く工事を再開させたい。トニーの妻も、怒っているトニーの方が水を垂れ流して悪かったので、妥協するように懇願するがトニーは聞かない。市の職員に連れられてきたヤセルは、トニーに謝罪しようとするが、トニーはパレスチナ出身者に言ってはならない言葉「このやろう自分の国にとっとと帰れ」という侮辱の言葉を言ってしまう。怒ったヤセルはトニーを殴って、ろっ骨骨折の負傷を追わせる。その後トニーは骨折した体で、自動車修理の仕事を続けて、職場で倒れ、それを抱き起して病院に送った妊娠中の妻まで、早産で未熟児を出産するという不幸が重なった。

トニーを負傷させ逮捕されたヤセルは、頑なに沈黙を守り、何が起きたのかを言おうとしない。トニーにはレバノンのキリスト教側のサポートが付き、ベテランの弁護士が付いて裁判が起こされる。裁判では圧倒的にトニーが有利な状況だ。たった1本のバルコニーの排水管をめぐって怒り狂うトニーと、静かに黙し、どんな罪も受け入れると、自己弁護を一切せず沈黙を守るヤセル。孤立するヤセルに人権問題を専門とする優秀な女性弁護士が現れる。何とそれはトニーの弁護士の娘だった。父娘の裁判所での対決はそれでなくても注目を浴びた。
トニーとヤセルの裁判は、大きな問題として報道され、レバノンのキリスト教支持者と、モスリムの支持者とに分かれ、互いの支持グループがデモでぶつかり合うような社会問題にまで発展した。

レバノンの自動車修理工がパレスチナ難民出身者を侮辱したために殴られた。殴ったヤセルが謝罪すれば済むことだったのに、それが民族問題、宗教問題に発展してしまった。裁判の途中で、トニーの弁護士は、なぜトニーがこれほどにパレスチナ難民を憎むのか、調べるうちにトニーが生まれ育った国境近くの村が、トニーが6歳のときに、モスリム勢力に占領され、大規模な住民虐殺の起きた村だったことを突き止めた。トニーは幸せだった田舎での生活を奪われ、家族親族を虐殺され、難民となって都市に流れて来た体験が、ムスリムへの憎悪、難民への侮蔑に向かっていたのだった。トニーの弁護士は法廷でそれを明らかにする。

トニー自身が認めようとしなかった根強いモスリムへの差別意識の根源が、衆人の前にさらされ、6歳のころから閉ざして思い出そうとしなかった自身の過去に、トニーは対峙することになる。自身の過去に、心の整理をつけなければならない。6歳で去ってから30年近く、訪れることのなかった故郷にトニーは初めて帰る。家は荒れ果てていたが、当時そのままだった。かつての果樹園は林になっていた。その大地に身を投げ出して、初めてトニーは自分では抑えきれなかった「怒り」を「赦し」の心に変えることができた。
というお話。

この映画のみどころは、トニーの顔の変化だろう。トニーは都会の小さなアパートで妊娠中の妻と暮らし、妻の話を聴こうとしないし、平気で妻を傷つける。仕事熱心だが幸せそうではない。何をしていても、何をしてもらっていても、いつも怒っている。平気で難民を侮辱して、絶対に人の言うことを聞こうとしない。妻や役所の職員や裁判官がどんなに説得しても耳を貸さない。そんな幸せでない、世界の不幸を一身に背負ったように見える男が、裁判の過程で裸にされて、初めて自分自身の姿に気が付いて、傷跡を再生させていく。映画のはじめからトニーの怒った顔が、最後の最後になって、まったく別人のような柔らかな顔になる。その大きな変化、それだけのためにこの映画が作られたと言っても良い。

一方のパレスチナ難民ヤセルの寡黙で、達観した姿は、キリストのようだ。好きで難民になったわけではない。自分で選んでレバノンで技術者になってレバノンに住んでいるわけではない。両親が生まれた土地で暮らしていければそれに越したことはない。レバノンで少数民族として生きなければならないパレスチナ人にとって差別は、常に付きまとう。

人には誰にも誇りというものがあり、人の尊厳に関わる言葉を吐いたもの、侮辱したものは、差別禁止法によって裁かれ、罰を受けなければならない。
原題の「INSULT」(侮辱)という言葉はとても強い言葉だ。普通の日常会話には出てこない言葉で、直接に告発とか、訴訟、犯罪に関わる言葉だ。侮辱する方も、侮辱される側の方も傷つく。その意味で、邦題を「判決、ふたつの希望」としたのは、まったく映画の内容に合っていない。はじめから裁判が和解のためにあったようなイメージを与えて、本来の映画とはかけ離れた題名になってしまったように思う。

2018年アカデミー賞外国映画賞候補作。オーストラリアシドニー映画祭観客賞、ベネチア国際映画祭男優賞受賞作品。