2018年4月1日日曜日

アキ カウリスマキの新作「希望のかなた」

フィンランド映画
監督:アキ カウリスマキ
題名:TOIVON TUOLLA PUOLEN
英名:THE OTHER SIDE OF HOPE
邦題:希望のかなた           
キャスト
シェルワン ハジ: カーリド
サカリ ㇰオマネン: ヴィクストロム
イルツカ コイヴェラ:ドアマン
ジャン フーテイアイネン:コック
ヌップ ユイビュ : ウェイトレス

第67回ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞作。
日本でもフィンランド人映画監督、アキ カウリスマキのファンは多くは無いが、確実に居る。彼は今年で60歳。何度ハリウッドに招へいされても、鼻で笑って動ぜず、ヘルシンキで、頑なに自分の映画を製作している。英国のケン ローチと共通しているのは、社会の底辺に生きる労働者、失業者など、市井の人々に照明を当て、それらが現実社会で踏みにじられる姿を映し取りながらも、そのような人々の中にある本当の良心と強さを描き出して見せるところ。彼の作品には、一人として美男次女が出てこない。愛も恋も露出もない。泣いたりわめいたりするオーバーアクションや、いたずらに銃撃戦や効果音で恐怖感をあおったり興奮させられることもない。市井の人々が、黙々と働き、言葉数は少ないが、見つめ合い、理解し合う。その深さはとめどもなく深淵だ。

2012年5月3日に、このブログでアキ カウリスマキの映画「ル アーブルの靴磨き」を書いたので、今回読み直してみた。何年も前に観た映画なのに、一コマ一コマが思い出されて涙が止まらなかった。何て良い映画だったろう。あれから何百本もの映画を観て今日に至っているが、この映画ほど見た後、熱いもので胸が満たされ、人の幸せをひざまずいて祈りたくなるような気持ちになった映画は、他に無かった。人の良心というものが、どれほどこの社会に無くてはならないものか。わかる者だけが良心に従い、わかるものだけ同士で小さな幸せを分かち合う。それはそれを圧倒的多数の人々や一般社会や社会機構の「良識」をはるかに超えたところにある。ほとんどの人には忘れられた本当の良心のありかを、アキ カウリスマキの助けを借りて、見つけられた人々は、わたしは幸せだと思う。                        

ストーリーは
ヘルシンキ。
港にトルコから石炭を積んできた貨物船が着く。
石炭のコンテナの中にかくれて全身を石炭のすすでまみれた男が埋まっている。この男カーリドは、シリアのアレポから爆撃で家族親族のすべてを失い、たった一人生き残った妹を連れて脱出してきた。トルコ、スロベニア、ハンガリーと難民としてドイツに向かう途中、ハンガリアでネオナチに襲われて暴力をふるわれているうち、妹と生き別れになってしまった。それ以降カーリドは、必死で妹を探して各国の難民キャンプや、難民の流れつく土地を探して回っている。トルコの港で再び、ギャングに襲われ逃げ込んだところが石炭のコンテナだった。石炭の行先がヘルシンキだったと知ったのは、コンテナを乗せた貨物船が到着した時だった。

カーリドは妹を自分一人で探し出すことは無理だと知って、ヘルシンキの警察に出頭して難民申請をする。申請をして難民審査を受ける間、フィンランド政府は妹を探し出してくれるかもしれない。難民収容所で、カーリドは、アフガニスタンから来た難民の友達ができた。彼はパスポートや最小限の荷物を持って国を出ることができたカーリドと違って、自分の身分を証明できる書類をもたずに国を追われたために、難民審査に時間がかかり、すでに何か月も収容所に居てフィンランド語も少し話すことができた。早く社会に出て仕事をしたいという彼はアフガニスタンでは看護師だった。カーリドは彼の持つ携帯電話を使って、アレポに残っている友人に妹の消息を聞くことができるようになった。

収容所で審査結果が出る。「シリアのアレポは、危険な戦場とは言えない。無宗教のカーリドに命の危険はなく、帰国して生活することができるので、難民とは認められない。」という予想はしていたが、冷酷なものだった。結果が出た以上、彼は難民ではなく不法移民扱いとなり、即座に強制帰国となる。朝早く警察が迎えに来る。
カールドは、何が何でも妹を見つけ出さなければならない。すべての家族が殺され、家長として妹を見つけ出し保護してやらなければならない。それができなければ、自分だけ生きていても仕方がない。彼は夢中で難民収容所から脱走する。ネオナチの襲撃から逃れ、警察から逃げ回り、そして、レストランの駐車場で、そのオーナーのヴィクストロムに出会って助けられる。

ヴィクストロムは、長い事ワイシャツのセールスマンをしてきて疲れきり、アルコール中毒寸前の妻との愛情も薄れ、妻と別れて家を出た。全財産を現金に換えて、高級秘密クラブのカジノに向かう。生きていてもツマラナイ。自分の人生など博打のようなものだった。とことんまで落ちて行ってみよう。
ところが捨身の彼はポーカーで運を掴み、たった一晩で全財産の数倍の現金を手に入れる。人生、棄てた物じゃないと言うことか。その足でビジネスアドバイザーに会い、勧めに従って売りに出ているレストランを買い取った。

レストランには、全然やる気のないコックと、ウェイトレスとドアマンが居た。前オーナーから給料未払いの災難に遭っていた3人の従業員は、そのままレストランに勤め続ける。慣れないレストラン経営をやってみてヴィクストロムは、余り収益が上がらないので、流行の寿司レストランに模様替えしてみるが、客が入らず、またミートボールを出すレストランとして営業を続行。彼は、駐車場で見つけたカールドを新たに雇用して、贋の労働許可証を偽造してやり、彼に寝食できる場を提供する。カールドは、エジプト人となり、名前を変えて、献身的にレストランで働きながら、妹を探す。

そんなある日、カールドは難民収容所で仲良くなった友達から、妹の居場所が分かったことを知らされる。妹はリトアニアの難民収容所に居る。一刻も早くそこから妹を助け出さなければ、二度と妹と会えなくなる。ヴィクストロムは、長距離運送トラックを雇って妹を収容所から探し出して、ヘルシンキまで’連れて帰る手配をする。港で妹を待ち構えるカーリド。遂にヴィクストロムのおかげで、カーリドは妹と再会することができた。これからは兄として妹を守ってヘルシンキで一生懸命妹のために生きて行きたい。

しかし妹は、エジプト人の名前で兄と生きることを望まない。しばらく会えないでいた内に、妹はすっかり自分の考えをもつ大人になっていた。彼女はシリア人として本当の自分の名前で、誇りをもって生きて行くと言い張る。その妹は明日、警察に出頭して難民申請をするという。おそらく兄同然、難民審査で難民認定は受けられないだろう。再びシリアに強制送還されて死んでいくのか。しかし、兄は妹の考えを変えることはできない。
その夜、カーリドは再びネオナチに襲われてナイフを腹に受け、深い傷を負う。

ヴィクストロムは、この夜、小さな店をやっていた元妻を訪ねる。妻は、「あなたが出て行った日から一滴もお酒を飲んでいないの。」という。その元妻にむかって彼は、「レストランの女マネージャーを探しているんだ。」と。二人は微笑み合う。

翌朝、ヴィクトロムはカーリドの部屋が、すっかり片付いているのを発見する。残された血痕。何があったのか。当のカーリドは、警察署の横で妹を待っていて、出頭する妹を抱きしめて、送り出す。港の見える公園。横になったカールドに、すっかり慣れた捨て犬が会いに来る。犬を抱きしめる、笑顔のカーリド。
というおはなし。

死んでいくカーリドには犬がそばにいてくれる。彼は妹のためにやるだけのことはやり、そして妹がもう自分のことを必要としていない、すっかり大人になったことを知って、満足して死んで行ける。
ヴィクストロムは、と言えば、昔の女房と再び何とかやっていけるだろう。無償の援助を、カーリドにし続けた彼の驚異的な親切心と、良心と、市民社会の一員としてのヒューマンな良識。援助を必要とする難民を保護しない冷酷な社会と、難民を襲うネオナチの不理屈。生きた人をシンナーをかけて火をつけ、ホットドッグといって面白がって殺すことができるネオナチという先進国にはびこる者たち。
それでも、それでも市井の人々が、名もなき市民が、金も権力も持たないごく普通の人々が、自分のできる範囲で困っている難民に当然のこととして手を差し伸べる社会のありように、アキ カウリスマキ監督は希望をつなげようとしている。

映画の中で、カールドは一度として笑わない。避難民としてどれだけの苦難を負って来たかが想像できる。彼は自分はどうでも良い。彼の使命は妹を探し出し自分の保護のもとに置くことだけだ。その日が来るまで、彼はヴィクストロムに拾われて、労働許可証が出て安心して寝食できるようになっても、友人とビールを飲んでも、好きな音楽を聴くことができても、決して笑顔をみせず一貫して無表情だ。
その彼が一度だけ笑顔を見せる。最後の最後、死んでいく自分に可愛がっていた犬が会いに来てくれた時だ。そのことが泣かせる。

妹も笑わない。兄という保護者を失い、少女ひとりリトアニアに避難民としてたどり着くまで、何があったか、どんな酷いことが続いたか、想像を超える。ヴィクストロムの援助で、やっと念願の兄に遭えたが彼女は笑わない。二人は堅く抱き合うだけだ。わたしたちは笑顔を忘れた難民たちの姿をみて、いかにシリアからヨーロッパに逃れた難民が厳しい旅路を経験したかを、考えてみることができるだけだ。

映画のあちこちで歌われる初老の男たちが歌うロックが良い。やっぱ、ロックは、くたびれたヨレヨレのおっさんが歌うのでなければね。カールドが、明日には強制送還になるという夜に、シリアの弦楽器を手にして、物に憑かれたように楽器をかき鳴らすシーンも、物悲しい。弦楽器は、魂の発露だ。言葉にならない魂が叫んでいる。

笑いのシーンも多い。ヴィクストルムが不器用な男だと言うことが良くわかって、笑い泣きさせてくれる。笑った後、ほろっと悲しくなるのだけれども。
だいたい寿司レストランを始めると言い出して、寿司の本を4-5冊買って、マネして寿司もどきを作って客に出す、などという無茶を他の誰が考えるか。
また、それなりに客の入るレストランといわれて、客にミートボールかサーデインかと注文を聞いて、サーデインの缶詰めとジャガイモの乗った皿を出すなんて!

戦禍を逃れてヨーロッパに流入する難民の立場は、受け入れ各国が厳しさを増す中、状況が困難になるばかりだ。2011年、この監督の作品「ル アーブルの靴磨き」は、ベトナム移民のチャンとともに靴磨きでその日その日を、カツカツの生活を送るマルセルは、ガボンから密航してきた少年のために、大金を作ってロンドンに居る母親のところまで見送ってやることができた。しかし、今回の2017年作の映画では、シリアからの難民カーリドの命を助けてやることができなかった。
しかし、ヴィクストロムは、人間としての良心をもって、これからも難民や困っている人々、無力な人々の力になるだろう。それが人間というものだ。
人の為に生き、初めて人は人となる。(トルストイ)
アキ カウリスマキの映画には、どんな状況にあっても人は人の良心のために勇気を奮い立たせることができる、そんなことを教えてくれる。

2018年3月17日土曜日

アイウェイウェイ「AI’S LAW OF THE JOURNEY」シドニービエンナーレにて



南半球の3月半ばといえば、秋の兆しが日々増してきて涼風さわやかと思いきや、シドニーは40度の暑さ。炎天下をシドニー湾に浮かぶ、コカトゥー島に行って、アイウェイウェイの作品「AI"S LAW OF THE  JOURNEY」(旅の掟)を見て来た。

巨大なゴム製の作品。長さ70メートルのゴム製のボートに、258人の巨大な難民が命を託している。アイウェイウェイの怒りが炸裂している。ライフジャケットを身に着けた人々に顔はない。恐怖も、飢餓も、悲哀も、憎しみも、怒りも顔に表せない。すべての感情を押し殺し、胸にとどめ、ただただ耐えている。ボートの行きつく先に希望があろうがなかろうが、国に留まり死を待つよりは少しでも可能性のあるボートに乗る。苦しくなる。観ていると、とても苦しくなる。建物を出れば、真っ青な空が広がっているというのに。平和そのものの美しい緑に囲まれた島。のんびりヨットが浮かぶシドニーの港。

コカトゥー島は、シドニー湾のフェリー発着所から小型フェリーで30分のところにあり、かつては、造船所、海軍工廠だった。そのもっと昔は刑務所、少年院、監獄として使われていたのでオーストラリアの囚人遺跡群として、世界遺産に登録されている。いまでも囚人たちが建設したレンガ造りの堅固な刑務所が丘の上に立ち、港には巨大な造船施設が残っていて、石炭による発電所から防空壕までそっくり残っている。フェリーは30分おきに発着し、キャンプに来ている小中学生や、ピクニックに来ている家族連れなどで、けっこう平日でも賑わっている。

アイウェイウェイの作品は、21回シドニービエンナーレのために出品された。ビエンナーレは、3月16日から6月11日まで。コカトウー島、NSW州立美術館、現代美術館、オペラハウス、アートスペース、アジア現代美術センターなどで、300以上の作品を見ることができる。今年ビエンナーレのキューレーター、総合芸術監督に抜擢されたのは日本人で、森美術館のチーフキューレーター片岡真実さん。アジア人として初めて監督に指名されたそうだ。作品を出品している作家の20%はオーストラリア人、アジア人が40%、欧米が40%だそうだ。      

「AI'S LAW OF THE JOURNEY」(旅の掟)は、2017年3月にチェコのプラハ国立美術館でいったん展示された。巨大な70メートルの長さのゴムボートに、難民が乗っている、この作品は世界中で起きている難民の流入を題材にしている。現在ベルリンに滞在している彼は、ギリシャのレスボス島に渡って来る難民がトルコからヨーロッパに移動しようとして途中で命を落とす現場を見て、居たたまれず作品を作った。この作品によって「ぼくは誰も責めてない。芸術家の自分としてできることをしているだけだ。」と言う。
彼の視点の原点は、「人類は一つ」そして、「私たちはすべての境界を失くし同じ価値を共有し、自分以外の人々との苦悩や悲劇をはじめとする様々な苦難に関わるべきだ。」という信念にある。

彼が2017年、23か国の難民を撮影したドキュメンタリーフイルム「ヒューマンフロー」もこのビエンナーレでみることができる。アフガニスタン、パキスタン、タイ、トルコ、イラク、パレスチナ、レバノン、シリア、ヨルダン、イスラエル、ハンガリー、セルビア、ギリシャ、ケニア、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、アメリア、メキシコの国々で起きている人々の移動、戦火に追われ国を捨てて逃れてくる、6500万人の人々を映像に捉えた作品だ。彼は「民主的ないわゆる自由世界に暮らす恵まれた人々があまりにも人間の苦しみに無関心なこと。これは難民の問題ではない。人間の危機であり、助けることができるのに助けようとしない人々の危機だ。」と批判している。
                     
2017年8月―11月に横浜トリエンナーレでも彼のこのフイルムが上映され、会場の横浜美術館の入り口は、難民の命綱となった800のライフジャケットが展示され、美術館の外壁には14艘の救命ボートが展示されたそうだ。トリエンナーレを見に来た人は、いやおうなくアイウェイウェイのライフジャケットと救命ボートを潜り抜けなければ会場には入れなかったわけだ。
彼は2011年中国当局から、81日間拘束を受け、パスポートを没収されて4年間海外に出られなかった。子供の時、反体制派の詩人だった父親のために家族全員が、文化革命時、18年ものあいだ強制労働に従事させられた。彼の反骨精神は筋金入りだ。
 
ニュースでは毎日のように、アフリカから国を追われて脱出してきた人々のボートが転覆して40人亡くなりました、50人亡くなりましたと報道され、僧衣を着た仏教徒がロヒンジャの母子に襲い掛かかり、家に火を放つ。イラク、アフガニスタンから逃げてトルコに流入する人々、アメリカとメキシコ国境で銃をもつ国境警備隊。気が狂いそうになる。
難民を受け入れたために苦境に立つドイツのアンゲラ メルケルに対して、フランスの極右マリーヌルペン、オランダのヘルト ウィルダースなど、ヨーロッパとアメリカではポピュリズムが広範に勢力を伸ばした。難民の流入のために、自分たちの国の伝統が壊され、仕事を奪われ、生活が苦しくなり、治安も悪くなったという、ポピュリズムの妖怪が世界を跋扈している。
そうではない。グローバル競争の激化、ひたすら市場価値を求め、投機的な資本主義のマネーゲームが富んだ者を肥え太らせて、貧者との格差を広げているのだ。

難民問題は、ヒューマニテイーだけでは語れない。しかし国境などに縛られない、空を自由に飛ぶアイウェイウェイのような芸術家にとっては、共産主義国も資本主義国も、難民を見殺しにしているという意味では全く同じ、犯罪国家に過ぎない。まだ60歳のアイウェイウェイ、これからも発言し続けることだろう。頼もしい。

写真はコカトゥ島

2018年3月11日日曜日

15世紀のタペストリー「貴婦人と一角獣」を観る







1484年から1500年の間にフランドルで制作されたと言われている「貴婦人と一角獣」のタペストリーを観に、NSW州立美術館に行ってきた。
フランスの国宝だそうで、「中世のモナリザ」といわれている。フランスのカルチェラタンにあるクリュニー中世美術館の所蔵品で、ニューヨークメトロポリタン美術館に一度、2013年に日本に一度貸し出されただけで海外では展示しないと言われていたが、クリュニー中世美術館改装中の間、オーストラリアに貸し出されることになった。2月から6月24日まで。このタペストリーは、男装の作家ジョルジュ サンドが自分の小説の中で絶賛したために、世の注目をあびることになったと言われている。

15世紀に作られた作者不詳、作成動機不明、制作年月不明のタぺストリーが、フランス中部の小さな遺跡,ボウサック城で発見されたのが19世紀に入ってから。倉庫に丸めてあって、ネズミが食い襤褸のようになっていたタペストリーは、1841年の発見から、長い交渉の末、1882年に政府によって購入された。それ以来補修され、復元されて現在はクリュニー中世美術館によって収納展示されている。

6面のタペストリーは背景が赤色、そこに痩せて背の高い貴婦人と、花々と沢山の動物が描かれている。この貴婦人は6枚とも同じ女性とみられ、6面とも中央に立ち、右にライオン、左に一角獣をはべらせている。描かれている旗の紋章が、フランス王シャルル7世の時代に有力者だったジャン ル ヴィスト家の紋章なので、彼が自分の娘の結婚を祝って作らせたものではないか、と言われてる。

貴婦人の右に座るライオンは警護、従属を表し、左に座る一角獣は、純真、忠実、処女性を表す。花々のうち薔薇の花は純情、パンジーは幸運、ザクロの樹は繁栄を表す。6面のタペストリーすべてに、8匹以上の動物がいて、多いものには18匹の動物がみられる。たとえば犬(忠実)、猿(罪)、キツネ{狡猾)、ウサギ(繁殖)、ひつじ(無知)、たくさんの鳥、そしてマグパイは、マリアに受胎を告げた天使ガブリエルに例えられる。

6面のそれぞれに、どんな意味があるか解釈はいろいろあるが、人の5感を表すという解釈が有力。すなわち
第1面は、貴婦人がライオンと一角獣を横に置いて、花輪を作っている。これが臭覚。
第2面は、貴婦人が一角獣の角を握っている。これが触覚。
第3面は、貴婦人がアーモンドの実が入った器を持っている。これが味覚。
第4面は、貴婦人がパイプオルガンを奏でている。これが聴覚。
第5面は、貴婦人が自分の膝の上に一角獣の両前足を抱いて、鏡に映った一角獣の姿を見せている。これが視覚。
第6面は、宝石箱の中の宝石を手にした貴婦人で、第6感といわれる「魂の欲望」。貴婦人は宝石を、己の欲望のまま取り出そうとしているのか、それともいったん手にした宝石を戻そうとしているのか、不明。一貫して処女性を求めてきたが、欲望に走ろうとしているのか、それを押し戻して純潔を保とうとしているのか。
どのタペストリーも赤色をバックに、鮮やかな庭の花々と動物たちがバランス良く描かれていて、貴婦人は繊細で美しい衣服を身に着け、たたずまいは慎ましく、気品に溢れている。

始めてタペストリーの美しさに惹かれたのは、ローマだ。システインチャペルに入る前、バチカン教会に入るなり両側に並んだ、いくつものタペストリーに心を奪われた。彫刻でもない、絵画でもない、個人の作でなく沢山の人の気の遠くなるような根気と途方もない時間をかけて織られたタペストリーの見事なこと。こんな繊細な作業に携わる人々が居て、その一人一人が美の欲求にかられた芸術家であったこと。そんな結実であるタペストリーが、当たり前のように通路に架けてあって、人々はただ通り過ぎ、ほこりや汚れにさらされ、何世紀ものあいだ陽の光にさらされてきたことが、信じがたい。いま思えばローマはタペストリーも、彫刻も、絵画も何もかも、信じられないほどの美にあふれていて、このような空気の中で育ち、生活できる人々が、ただただ羨ましく思えた。

そこで、このフランスが誇る6面のタペストリーだ。
赤が素晴らしい。裏はもっと鮮やかな赤だそうだ。見えないけど、、。色がさめないように展示は照明がおとしてある。写真は撮れるがフラッシュは禁止だ。
ところでアーモンドの実の入った器を持つ貴婦人のタペストリーを見ていて、アッと声をあげてしまった。左端に居るのはタスマニアタイガーではないか。

タスマニアタイガーは、タスマニアに生息していた、オオカミの大きさでオオカミのような顔と声を持つ肉食動物だ。トラのような縞模様が体と尻尾にみられる。それでいて何と有袋類。この国にはカンガルー、コアラ、カモノハシなど有袋類動物の宝庫だが、中でもタスマニアタイガーの美しさは特別だった。絶滅させてしまった事は残念に尽きる。

このタペストリーが作られたのが1500年少し前。オーストラリア大陸はまだ「発見」されていない。まして端っこのタスマニアなんて、もちろん先住民族アボリジニの国だった。でもこのタペストリーにこの動物がいると言うことは、ジェームス クックがオーストラリア大陸を発見するより前の時代に、タスマニアにフランス人が来て、ジャングルでタスマニアタイガーに遭遇して、フランスの中部に戻って、その姿をタペストリーに復元したのか、、、という可能性は全く、、、ない。
これらタペストリーに描かれている動物のほとんどは一角獣を含めて想像上の生き物だったのでした。
写真はタスマニアタイガー

2018年2月10日土曜日

映画「シェイプ オブ ウオーター」

原題:SHAPE OF  WATER
邦題:「シェイプオブウオーター」
監督: ギレルモ デル トロ       
アメリカ映画20世紀フォックス
キャスト
イライザ:サリー ホーキンス
ジャイルス:リチャード ジェンキンス
ゼルダ: オクタビア スペンサー
ストリックランド大佐:マイケル シャノン
ホフステトラ―博士:マイケル スタルバーグ

2017年ベネチア国際映画祭でプレミア上映され、金獅子賞を受賞。今年のゴールデングローブ賞では、7部門でノミネートされていた。また、今年2018年のアカデミー賞で、最多の13部門でノミネートされている。

ストーリーは
1962年 米国と露国の冷戦下。
イライザは、アメリカ軍秘密生物化学実験室に雇われている清掃婦だ。発語障害を持っていて知能も聴力もあるので普通に聞き取ることはできるが、声を出して言葉を発することができないため、手話で人とコミュニケートする。子供の時から、首に3本のひっかき傷のような、目立つ傷跡をもっている。ひとり彼女は、映画館の2階のアパートに住んでいる。彼女には二人の友達がいて、一人は同じ映画館の上に住んでいる初老の画家、ジャイルスで、彼はゲイだ。もう一人の親友は同僚のゼルダ。黒人女性で、人とのコミュニケーションが苦手のイライザのために、通訳係になったりして、親身になって支えてくれている。イライザはお風呂が大好きで、毎日浴槽にたっぷり湯を張って自慰行為をひとり楽しむ。仕事帰りには、美しい靴を見て回る。お金がたまったら、気に入った靴を買うことが、小さな自分だけの楽しみだ。

イライザの働く実験室に、ある日大きな水槽が運び込まれてきた。以来ストリックランド大佐の怒鳴り声がしたり、床に血のりが見られるようになってただならぬ空気が漂っている。そこには、南アメリカでストリックランド大佐によって捕獲された半漁人がいた。興味をもったイライザが水槽をのぞき込むと、半漁人は突然姿を現して、イライザを驚かせる。ストリックランド大佐は半漁人を鞭で思い通りにしようとしている。半漁人に暴力をふるう様子を目にしたイライザは、言葉の通じない半漁人が残酷な扱いを受けていることに胸を痛める。そして隠れて昼休みに自分のお弁当を分けてあげるようになって、手話で会話をして、二人の心が通い合うようになった。その様子を見たホフステトラー博士は、半漁人にも人と同じような「心」があることを発見して、この生物の関するデータをロシアに送っていた。博士はロシアのスパイだったのだ。

しかしストリックランド大佐の思い通り実験に従わない半漁人を、軍は殺害処分することに決めた。それを知ったイライザは、何とか半漁人を助け出そうと、隣人のジャイルスに頼み込む。そして首尾よくジャイルスと、同僚ゼルダの助けを得て、イライザは半漁人を自分のアパートの浴槽に連れてくることに成功した。二人は愛し合う。一方、半漁人の脱出の責任をロシア軍からもアメリカ軍からも追及されたホフステトラー博士は殺される。

イライザは年に数回、運河が解放されて大海に通じる日が来るのを待っていた。毎日激しい雨が降り、運河が開くその日に、半漁人を海に放って自由にしてやることが、イライザの願いだ。そのときが、自分にとっては悲しい半漁人との別れの日でもある。
しかしその直前に、運河で彼らは追ってきたストリックランド大佐に捕獲される。警察もやってきた。そこでイライザは半漁人をかばって撃ち殺される。それを見た半漁人は怒り余って大佐を殺す。そして、死んでしまったイライザを抱いて二人して運河に身を投げる。
水底深く、イライザの首についていた3本の傷跡が開いてイライザは呼吸を始める。以来、二人は幸せに深い水の中でずっと暮らしました、とさ。
というお話。

ファンタジー映画ということで、美しいおとぎ話を、メキシコ人監督が作った。
はじめはサイエンスフィクションで、冷戦下の米軍とロシア軍の秘密組織が新兵器開発のために合成人間を作り出したという話かと思っていたが、設定からして違っていて、この半漁人は南米、おそらくアマゾンあたりで捕獲されたという設定。ならばアマゾンでは半漁人の彼の両親や親戚も居るわけで、不思議な治癒力を持って、死者を生き返らせることができる半漁人が今もなお元気で暮らしているのかもしれない。?

この監督の優れたところは、それぞれの登場人物がどんな人なのか、いろんな場面でとてもよく上手に表わしていて丁寧に解説しているところだ。
例えば、隣の住人ジャイルス。孤独なゲイで、時代遅れの画家でイラストレーター。描くタッチが古いので、どの出版社や新聞社も彼の絵を買ってくれない。自分では上出来だと信じているから、古くからの仕事仲間が申し訳なさそうに持ち込まれた作品を買わないで拒否するごとに落胆して腹をたてる。猫と平和に暮らしているが、パブでちょっとした仕草でゲイだと見破られ、「子供連れの家族も来る店だから、もう二度と来ないでくれ。」と言い渡されて傷ついて帰って来る。そんな自分がもう失うものなど何もない、と気付いてイライザのために奮闘する。そういった彼の心の変化がよくわかって、共感できる。

また親友のゼルダ。自分と同じアフリカンアメリカンの夫は、仕事がなく、暴力こそ振るわないが昼間から酒を飲んでいる。イライザの行く手の探してゼルダのアパートに暴力的に踏み込んできて、妻の首を絞めて脅すストリックランド大佐を、力なくただ見ているだけだ。一方的に家の中に踏み込んできた白人の男が妻に暴力を奮っても抗議さえできない無力で臆病な夫に心底がっかりするゼルダの怒りと哀しみがとてもよくわかる。そんな夫をもっているからこそ、障害者のイライザのために、危険をおかしても力になろうとする心優しい、世話好きな女なのだ。

ストリックランド大佐は、意味もなくたまたま権力を持ってしまった卑劣な男として描かれている。一方的な強いパワーを持った男がどんなものか、家庭に戻った時に見せる一方的なセックスシーンでもよく表れている。こんなものを妻が望んでいるとでも信じているのだろうか。1960年代のアメリカそのものだ。矮小な男ほどエバリ散らす。このように、登場人物ひとりひとりが日常の中で、どんな暮らし方をしているのか、生活習慣を通じて好みや感じ方、考え方などがとても細かく描かれていて映画そのものが分かりやすい。こんなふうに細やかな観察の上に立った人間の描き方ができる監督が素晴らしい。

若くも美しくもないイライザは水の中では自由で居られる。浴槽の中での小さな楽しみと、綺麗な靴を買うこと。自分の小さな世界で小さな楽しみを見つけて生きている。発語障害をもったイライザは、聴力に障害がなく知的障害もない、自閉症スペクトラムでもないから、恐らく過去に虐待や暴力にさらされたことが原因で言葉を発することができなくなったと思われる。そんな女性が自分で愛を見つけて、まっとうする。美しい物語だ。
1960年代を表すセピア色に統一された画面も美しい。

この半魚人、アマゾンで捕獲されるまでは、沢山の生き物たちから神のように尊敬されていたというのに、人間社会の映画では、最後まで名前を与えられなかったから半魚人というしかないが、ウルトラマンのような顔姿。イライザの首にあった傷跡を開口させてエラ呼吸できるようにしてくれた。いつか、アマゾンの源流で潜水してみたら、イライザが 小型のウルトラマン、ウルトラマンセブン、ウルトラマンジャック、ウルトラマンA、ウルトラマンレオとゾフィーなんかを引き連れて海中散歩しているのが見られるかもしれない。


2018年1月14日日曜日

映画「スリービルボード」ゴールデングローブ4冠

原題:Three Billboards Outside Ebbing Missouri
邦題:スリー ビルボード                   
監督、脚本:マーチン マクドナー             
イギリス映画
キャスト
フランシス マクド―ナンド:ミルドレッド ヘイズ 母親
サム ロックウェル:ウィロビー警察署副所長
ウデイー ハレルソン:ウィロビー警察署所長
ジョン ホークス:チャーリー ヘイズの息子
ピーター デインクラッジ:ヘイズの前夫
アビ― コーニッシュ:ウィロビー警察署所長の妻

ベニス国際映画祭でプレミア初公開され、トロント国際映画祭でピープルズチョイス賞受賞。
2018年ゴールデングローブで、最高の賞に当たる作品賞、マーチン マクドナー監督に監督脚本賞、主演のフランシス マクド―ナンドに主演女優賞、サム ロックウェルに助演男優賞が賞与された。

ストーリーは、
ミズリー州、エビングの田舎町。
7か月前にテイーンだった娘がレイプされ殺された。警察による捜査は一向に進展せず、一人の容疑者さえも逮捕されていない。警察の非力に業を煮やした娘の母親、ミルドレッド ヘイズはハイウェイ沿いの巨大な看板広告に、警察は何をやっているのか、ウィロビー警察署長の責任を問う、まだ誰も捕まっていない、という3枚の看板広告を出す。

名指しで看板に名前を書かれたウィロビー警察署長は、家庭では二人の娘を持つ優しい父親だが、心情的には人種差別主義者であり、気短で喧嘩早い男だ。彼が膵臓癌を患っていることは,街の住民にとっては周知のことだった。また、彼の右腕、警察副所長のデイクソンはラテイーノで、母親と二人で暮らしていて母親に頭が上がらない小心者のくせに、ウィロビーに似て短気な男だ。
娘を殺されたミルドレッド ヘイズは警察など怖くない。警察は娘のアンジェラを殺した犯人を見つけられない腰抜けどもの集まりだ。警察が黒人虐めばかりしている間にも、娘を殺した犯人は第2第3の犠牲者を作っているに違いないと、毒付く。しかし警察を信頼し、ウィロビー所長を尊敬している市民たちはミルドレッドを非難する。殺されたアンジェラの弟チャーリーは、姉と同じ高校に通っていたが、彼は学校で虐められていて、母親のやりすぎは良い迷惑だと思っている。母親は飲めば暴力を奮う父親と離婚して、19歳の若い女と同棲している。父が母親に会いに来て、言い争いから暴力を奮おうとすると、チャーリーは、父の喉元に包丁を突き付けて母親をかばって守ろうとする。

父親は死んだ娘が、実はしつけの厳しい母親を嫌って、自分と一緒に暮らしたがっていたと言って、故意に母親を傷つける。母親は、娘のアンジェラが誘拐され殺された日、執拗に車を借りたがっていたのを覚えている。だが彼女は車を貸してやらなかった。車を持ち出せば、遊びに行って友達と車の中で「ヤク」をやるに決まっている。車を借りられなかった娘は怒って、「じゃあいいわよ。歩いて帰ってきて途中で誰かにレイプされるから、、、」と怒鳴って出かけた。そして、彼女の言った通りになってしまった。誰よりも母親の怒りは自分に向けられている。怒り、憤り、そして後悔して、歎き悲しむ。出て行ったときのままにしている娘の部屋で母親は自分を責め続ける。

一方ウィロビー警察署長は、アンジェラの再捜査を始めたところで、膵臓癌が悪化したその痛みに耐えかねて、妻とミルドレッドと部下のデイクソンに手紙を残して自殺する。所長の死は、ミルドレッドが出した看板広告が原因でストレスになったせいだと、街の放送局が報道したため、市民の怒りと反発は増々膨れ上がった。ミルドレッドは、嫌がらせをされ、脅迫され、3枚の巨大広告は誰かによって放火された。看板を必死で消火しようとして走り回る母親を見て息子のチャーリーは胸を痛める。そんな母親に味方が現れる。同僚の黒人女性、黒人の人権活動家、小人症の男性などだ。力を合わせて3枚の看板は元通りにされた。亡くなったウィロビー署長の寄付金にも助けられた。

しかしミルドレッドの怒りは収まらない。火炎びんで警察署を放火する。たまたま署で故ウィロビー署長からの、自分あての手紙を読んでいたデイクソンは、大やけどを負う。遺書である手紙には、アンジェラの事件をしっかり捜査してミルドレッドの力になってやるように書かれていた。その日からデイクソンにとってミルドレッドは、ただの疫病神ではなくなり、本気で警察官として彼女の力になろうとする。デイクソンはその後、バーで見慣れない男を見る。男は娘が誘拐されて殺された時もこの町に居た。調べてみるとこの男はアイダホから来ている。デイクソンはこの男が犯人に違いないと確信し、一方的に男を怒らせて殴らせて、わざと半殺しの目にあう。そのおかげで男の拳の皮膚が採取出来て、DNAの検査に出すことができた。デイクソンはミルドレッドにそれを伝える。しかし、新しく着任した警察署長は、この男はDNAで犯人にマッチしなかったし、事件の起こった日にはこの町にいなかった、とデイクソンに言い渡す。

この男は確かに事件の日、この町に居た。デイクソンは警察署長の言うことを信じない。ミルドレッドも信じない。この男は野獣のように自分を脅迫した。
デイクソンは母親の髪を優しくなでて家を出る。ミルドレッドも息子の安らかな寝顔に別れを告げて家を出る。二人の行先はアイダホ。歩むハイウェイは一方通行だ。
というお話。     

娘を殺された母親の怒りが大爆発、炸裂する。ハイウェイに弱腰警察を揶揄する大広告看板を出し、良識的市民から批判され、牧師から訪問され、車にミルクをぶつけられ、チンピラから恐喝され、協力者を半殺しにされ、歯医者に麻酔なしに歯を抜かれそうになり、勤め先を壊され、放送局から警察署長殺しとなじられ、署長未亡人から非難され、前夫から首を絞められても、彼女は動じない。怒る母は、一歩も退かない。孤立無援など全然怖くない。法的に犯人を警察が逮捕できないことがわかると、少しの迷いもなく自らの退路を断ち、リベンジに突き進む。潔い。
          
「庭の千草」(The Last Rose of Summer)をソプラノ歌手が朗々と歌う背景を美しい田園風景が写される。アイルランドの詩人、トーマス モアが詩を詠んだクラシックの名曲だ。この曲が流れるなかを、牧歌的な光景の中にハイウェイがあり、3つの今は使われていない巨大な広告のための看板が映し出されるところから映画が始まる。116分の映画のなかで、もう一度だけ、この美しい旋律が流れる。娘を殺された母親が警察を告発する看板を出したその下に、花を植えた鉢を並べていたときに、奇跡の様に美しい鹿が姿を現して、母親の横で草を食む。思わず美しい鹿に見とれて涙を落とす母親が哀れで悲しい。そんなに自然が豊かで美しい場所なのに、現実にはテイーンが誘拐され、レイプされ、殺されて捨てられる。失業者には希望がない。黒人は歴然と差別される。小人症も差別されている。酒場では男達が暴力をふるい、粗暴で女を平気で殴る。それがアメリカだ。それが世界だ。

今年はアメリカの中で、保守的で白人中心主義を払拭できずにいた男社会ハリウッドで、女たちによる地崩れが起きている。権力を持った男達が告発されている。女たちによる反逆は、しばらくは収まりそうにない。法的にも、倫理的にもリベンジは正しい事ではない。しかし、娘を殺された母親は、怒りをこめて、100回殺しても殺し足りない勢いで男を殺すだろう。

クリント イーストウッド監督が、「ミリオンダラーベイビー」でアカデミー作品賞を受賞したときに、安楽死を認めるような映画に賞を与えることは正しくないという意見が飛び交った。時の流れというものは、その当時は法的にも倫理的にも反する事柄も、一歩先に時代を先取る映画では、それが許された。いずれどの国でも人が人としての尊厳を守るために厳しい条件のもとに安楽死は認めざるを得なくなるだろう。この映画でもリベンジは正しくない、ということは簡単だ。しかし、では、法的に女を守ることができなかった社会で、法的、倫理的な正義とは何なのか。

映画が終わった時、たくさんの女たちが涙を浮かべて拍手していた。ものすごい母親としての共感。熱い女性としての共感。思わず自分も拍手していた。
今年のゴールデングローブは、女性のための、差別されてきた有色人種のための賞だった。多くの参加者が黒服を着て参加。セシルBデミル賞を受賞したオプラ ウィンフリーのスピーチ「ミートゥー」には、長い長いスタンデイング オベーションがあった。こういった一連の流れが、一時的なものでなく、これからの女性差別へのと暴力、人種への差別と暴力、性的マイナーな人々への差別と暴力を失くす社会を構築する方向に、本気で向かってほしいと心から思う。






2017年12月23日土曜日

2017年に観た映画ベストテン

第1位:私はダニエルブレイク 「I、DANIEL BLAKE」
第2位:ホークシャーリッジ  「HACKSAW RIDGE」」
第3位:ヒットラーの忘れ物  「LAND OF MINE」
第4位:ゴッホ最期の手紙   「LOVING VINCENT」
第5位:言の葉の庭      「GARDEN OF WORDS」
第6位:沈黙         「SILENCE」
第7位:モヒカン故郷に帰る  「THE MOHICAN COMES HOME」
第8位:軍艦島        「BATTLE ISLAND」
第9位:WHERE TO INVADE NEXT
第10位:オリエント急行殺人事件 「MURDER ON THE ORIENT EXPRESS」


第1位:「私はダニエルブレイク」

この作品の紹介と評価を述べたブログ日記は、10月28日に書いた。イタリアネオリアリズム手法を取る労働者の味方、ケン ローチが、81歳になって、とっくに引退宣言をしたはずなのに、政府の福祉制度が本当に保護されるべき弱者のために機能していない現状に怒り心頭に達して、やむにやまれず制作した作品。テーマは何と、50年前に彼が作った映画「キャシー故郷に帰る」と全く同じ。最低限政府は国民の命を保障し、福祉を必要とする人の生活を保障しなければならないのに、50年前と同様それができておらず、事態は悪くなる一方である現状を、激しく告発している。 「人を人として扱わない。人を辱め罰することを平気でやる。まじめに働く人々の人生を翻弄し、人を飢えさせることを武器のように使う政府の冷酷なやり方に憤っている。」と彼は述べている。

イギリスに限らず市場原理による高度に発達した自由経済をとる先進国にとって、福祉は、実際には飾り物に過ぎない。肥えるものはますます富に太り、まじめに働き真面目に税金を納めて来た者たちは、必要な時に福祉が受けられないで飢えている。誰もが自分だけは大丈夫、いまは健康で働いているし、仮に事故で障害者になったり、破産して収入が無くなっても保険や政府の生活保護で何とか生活していけるはずだと思い込んでいる。政府の広報は美辞麗句が連ねられて、あたかも困った人は、誰でも福祉が簡単に受けられるかのように宣伝している。

恐ろしいことは、実際自分がその立場になってみないと、実際に福祉が受けられるかどうか、まったくわからないことだ。自分の経験から言うと、80を越えるまでオットは政府から年金も恩給も何も受け取らずに、まじめに働き、まじめに税金を納めて来たが、病気になり障害者となって仕事ができなくなったので、老人年金を申請した。しかし政府の年金審査官は様々な理由をつけて申請を却下、最低限の年金を政府から出させるのに、2年半の時間を要した。その間無収入で24時間介護の必要なオットをかかえて、私はフルタイムで働きながら障害者を介助し、1日おきに腎臓透析に連れて行くことに、体力の限界まで自身を酷使したが、年寄りに年金を出すという当たり前のことを簡単に認めない役所との交渉に疲れ果て、ぼろぼろになった。

現状でさえ貧しい福祉政策下で、老齢人口は増大する一方だ。やがて街は年寄りのホームレスで膨れ上がるだろう。米国も日本もオーストラリアも法人税を控除し、個人の税金を重くする予算を通過させた。これから福祉はますます悪くなる。ケン ローチの怒りは切実な私達の怒りでもある。人が人としての尊厳をもって生きられないような社会は、一体誰のものなのか。


第2位:ホークシャーリッジ 
 
このオーストラリア人監督、メル ギブソンによって製作された映画の詳しい解説と評価は、2016年11月7日のブログに書いた。シドニーでは11月に封切られたが、日本では今年2月に公開された。第2次世界大戦の中でも、最も激しい戦闘が行われた沖縄戦で、良心的兵役拒否の思想から武器を持たずに参戦した青年デスモンド ドスが戦闘の最前線からたくさんの傷病兵を救い出したという実話を映画化した作品。
これほど戦場場面のリアリティを映像化した作品は他に無い。「プライベートライアンを探せ」のノルマンディ―上陸シーンもすごかったが、これをはるかに超える。シュッと手留弾が飛び地面に穴が開きその上をバラバラになった体の部分が落ちてくる。ブスッと撃ち込まれた銃弾によって腹に穴が開きみるみる銃創が開いて血が噴き出る。砲撃を受けて土が跳ね上がり体が宙に浮いて地面にたたきつけられたバラバラの手足。雨のように降って来る銃弾を避け仲間の死体の山を見るとネズミが肉を歯み、体中蛆で真っ白。メル ギブソンのリアリズムが半端でなく炸裂している。

良心的兵役拒否という思想は、日本社会では最も理解されにくい思想ではないか。社会の中で個人の存在が認められ、個人の思想信条が尊重されている成熟社会でなければ、起こり得ない。赤紙一枚で戦争に駆り立てられて、上官に従わなければ厳罰処理される。縦割り、垂直型の日本軍組織では、個人の思想信条の自由などという思想など全くあり得なかった。日本社会は、いつ成熟できるのか。日本の組織は、いつ民主化され、個人の人権を守るような組織に変われるのか。国際社会の中で日本はいつ大人になれるのか。

米軍の沖縄上陸後の地上戦で、連合国軍上陸部隊は7個師団、18万3000人。後方の兵を加えると54万8000人の大軍が沖縄を取り囲んでいた。一方日本軍は総勢11万6400人、沖縄出身の軍関係の死者2万8222人。一般住民の死者9万4000人。本土から来た軍関係者死者は、6万6000人足らず。記録されているだけでも800人もの非武装の沖縄住民が、「日本軍」によって殺されている。住民は自分たちの生活の場を奪われて、連合軍に包囲されたあと、戦闘の盾にされ、白旗を掲げて投降した婦女子は日本軍によって、後ろから撃たれて死んでいった。県民の4人に一人は沖縄戦の犠牲者だ。
生きて辱めを受けるなと、集団自決を強いた日本軍人達の非人間性は、どんなに糾弾してもし足りない。日本軍司令官牛島の腹切場面も映画に出てくるが、一般市民を守らない軍人のトップが卑怯にも一番先に死んで責任逃れをするとは何事か。こうした優れた反戦映画を見ると、いかに日本の組織には人権思想が欠如しているか、を思い知らされる。


第3位:ヒットラーの忘れもの  

4月16日にこの映画の解説と映評を書いた。デンマーク、ドイツ合作映画。1945年5月。終戦とともにデンマークに駐留していたドイツ軍兵は、敗戦とともに捕虜となり、ドイツ軍が埋めて行った200万個の地雷を撤去する作業を強制された.。その兵士たちの数、2000人。戦争末期に徴兵されたばかりの10代の子供の様なドイツ新兵14人が、サデイステイクなデンマーク軍軍曹に預けられて、地雷撤去作業に従事する。軍曹にとって14人の少年たちは母国を蹂躙した憎い敵だ。だが日が経つうちにいつしか軍曹と少年たちとの間には、父と子のような心の交流が生まれる。次々と少年たちが誤って地雷の爆発で死んでいく。ヒューマンで、強力な反戦映画。地雷を撤去し終わった砂浜を、思わずはしゃいで走り回る少年たちの姿が、空を舞う天使のように美しい。

第4位:ゴッホ最期の手紙  

11月25日にこの映画について詳しく書いた。世界中から立候補してきた5000人のプロの油絵画家から選ばれた、125人の画家が、ゴッホの色使いや筆のタッチを真似て、キャンバスに描いた6万5000枚の絵を、実際の役者の動きにあわせてモーションピクチャーとしてフイルム化した映画。とても美術的で、ゴッホの絵が沢山出て来て、その肖像画から人物が出てきて動き出す不思議な体験ができる。新しい映画の技法で、見ていて面白く興味が尽きない。ゴッホを堪能できて嬉しかった。


第5位:言の葉の庭    
今年の1月3日のブログで、この映画について書いた。これほど美しいアニメーションを他に観たことがない。新海誠による監督、制作された初期の彼のフイルムで、才能がほとばしっている。彼の作品「君の名は」が劇場で人気を呼んで注目されるようになったそうだが、この人の描くアニメーションの美しさは、ジブリにもデイズ二―にもピクサーにも他の誰にもまねできない。情感豊かで、自然を見る目が他の人にない繊細さで みごとに捕えられている。
この人が雨を描くと、自然描写が例えようもなく美しい。観ていて雨が匂ってくる。全身が雨を感じることができる。空が曇り、雨が落ちてくる。水滴が土に吸い込まれ土の香りが立ち込める。やがて水たまりが出来、その水面に鮮やかな緑が映える。雨が緑を生き返らせて草の匂いが立ち上って来る。天から次々と落ちてくる水滴が、街の騒音を消し、草や木の喜びの歌を奏でる。生き物すべてに命を与えるように雨に濡れて木々が息を吹き返すように、若い男女の傷ついた魂が再生する。これほど5感が呼び覚まされる映像は魔術を見るようだ。本当に本当に美しいアニメーション。忘れられない。

2017年に観た映画ベストテン

第6位:沈黙

2月24日に詳しい映画の解説と映評を書いた。 豊臣秀吉は1587年50万人の大軍を率いて九州に侵攻し島津義久の島津藩を降伏させキリスト教信者を迫害した。その前までは、九州から仙台まで、沢山の教会が建ち有馬、安土には神学校が建ち40万人ものクリスチャンの数を誇っていた。キリシタン禁令下ポルトガル人フェレラ司祭は、他の司祭らとともに日本に密航し、20年余りスペリオという最高の重職について布教を続けていた。その彼が捉えられ棄教したという知らせがローマ教会に伝えられる。フェレラを恩師として慕っていたロドリゴ司祭が、他の2人の司祭とともに日本に渡航する決意をするシーンから、この映画が始まる。

カメラが純白で巨大な大理石のローマ教会に居る、3人の黒服の司祭達を映し出す。何も遮る物のない権威の象徴である教会の巨大な建物と、小さい小さい司祭たちの存在。やがて彼らは、教会を出るために降りる長い階段を、今度はカメラが教会の塔、頭上高いところから見下ろす。アリの様に小さな人間の姿。黒衣を風に翻し、死を決意した司祭たちが静か音もなく足早に歩み去る。
今度はカメラが美しい海岸線を映し出す。広がる空、荒い大波が打ち寄せる。美しい太陽の輝きの中で何かが不協和音を奏でている。波打ち際に3本の柱にズームしていく。何とそれは、3日3晩磔の刑にあって苦しみながら殉死していく信者たちの呻吟する音だった。巨大で荒々しい自然の中で、小さな小さな存在としての人間。こうしたカメラワークが例えようもなく美しく素晴らしい。自然と人、権威と弱き者、こうしたコントラストを映像で表現するマーチン スコセッシ監督の手腕が冴えている。


第7位:モヒカン故郷に帰る  

日本映画はこちらでは手に入らないが、コンピューターエキスパートの義理の息子の努力によっていくつかの日本映画を手に入れることが出来た。観た映画は、「怒り:レイジ」、「新深夜食堂」、「深夜食堂」、「FOUJITA」、「桐島部活やめるってよ」、「ヒミズ」、「くちびるに歌を」、「世界の片隅に」、「南極料理人」、「世界から猫が消えたなら」、「イニシエーションラブ」、「孤独のグルメ」セッション1から5まで、などなど。私小説的、4畳半的で楽しいが小津の世界をさらに小さい規模にしたような。でも日本映画はそれで良いのかもしれない。

「モヒカン故郷に帰る」は、沖田修一監督。がなりたてるばかりのデスメタルバンドのボーカル永吉が妊娠した恋人を連れて7年ぶりに故郷に帰る。両親と弟に歓待されるが、父親が突然倒れ癌で余命わずかなことを知らされる。モヒカン頭に松田龍平、父親に柄本明、母にもたいまさこ、恋人に前田敦子。この家族のやりとり、どこか間の抜けたゆるさと言い、昭和的セピアカラーといい、本音で怒鳴り合える家族喧嘩といい、笑いが止まらない。はじめから終りまで笑って笑って、最後のころには気が付いたら涙を流しながら笑っていた。人情にやられた。個性と個性がぶつかり合える、温かい家庭を心から良いなあと思う。うらやましい。こんな家庭で育ってみたかった。日本の良さがいっぱい詰まっている。芸達者な柄本明の演技が秀逸。


第8位:軍艦島

8月18日にこの映画について映評を書いた。すぐれた反戦映画。戦時下、長崎県端島の石炭採掘現場は地下1000メートルの深さにある海底。95%の湿度、30度の暑さという過酷な環境で、沢山の中国人、韓国人が強制労働させられていた。敗戦まじかに鉱夫たちは反乱を起こし、多くの犠牲者を出しながらも島を脱出する。暴力シーンが多い分、感傷もロマンスもあって、見ていて情に流されそう。韓国映画独特の、自分の身を挺して悪と戦い死んでいくヒーロー達、強くて優しい女と子供を守る男達、どの男たちも身長180センチ以上ある引き締まったみごとな身体を持っていて、裸が絵になっている。歴史的事実を描いた映画だが、エンタテイメントとしても成功している。


第9位:

WHERE TO INVADE NEXT   

マイケル モアによるドキュメンタリ―フイルム。イタリア、フランス、フィンランド、チュニジア、スロベニア、ドイツ、ポルトガルを旅行して現在米国では深刻な問題になっている事柄を、他の国ではどのように対処してきたかを取材している。人がより幸せに生きるには、どういった国の対策が必要なのか、何をは国から学び持ち込むべきなのかを問う。
ダニエル トランプが大統領選に出馬しても、女性差別発言や、下卑た立ち振る舞いにジャーナリズムをはじめとして誰もが次期大統領に選出されるはずがないと予測していた時に、ずっと早いうちからマイケル モアは、トランプが選出されることを予測していた。徹底的に取材をする人。人の話をきちんと聞いて回る。彼のジャーナリストとしての確かな目で、アメリカ社会の底辺で暮らす人々に何が起きているのかを早くから予測していた。

労働団体の力が歴史的に強いイタリアでは、労働環境が良い。2時間の昼休み、産休、年6-8週間の有給休暇、有給ハネムーン、年13か月分の給与など。それらによって逆に生産性が向上している。
フランスでは学校給食がフルコースで質の高い食事が提供されている。また性教育も早いうちから行われている。
フィンランドの学校では、子供達は遊ぶことで、より多く学ぶという思想から、授業時間が短く、宿題がない上、学校ごとの標準値を設けない。それでいて世界一学力がある子供達を輩出している。
スロベニアでは大学では、奨学金も学費もない。それでいて学力レベルは大変高い。
ドイツでは労働者の権利が高く、生活と仕事とのバランスが取れた生活スタイルを選ぶことができる。
ポルトガルではドラッグが自由に手に入り、健康保険が充実しているため、薬物中毒者はドラッグが自由化されたあと減少している。
ノルウェーでは死刑制度が廃止され、監獄がない。犯罪者が普通の人と同じように自立して生活できるように配慮されていて、犯罪率が下がっている。
チュニジアでは女性が妊娠中絶を自由にでき、出産も自分で管理できるように女性の権利を守ることに配慮している。
アイスランドは世界で初めて民主的に女性大統領を選出した国。2008-2011年の財政危機をもたらせた銀行に厳しく責任を追及する女性大統領が活躍している。

こういったすべての政策アイデアはもともとは米国のものだった。余裕ある労働環境を得るためにイタリアを侵略する必要も、子供達が自由に遊ぶ時間を作るためにフィンランドに移住したり、産前産後の女性の健康を得るためにチュニジアに侵攻する必要もない。アイデアだけは持っていて、実行できなかった米国の政治に問題があったのだ。という結論に同感。

第10位:オリエント急行殺人事件

アガサ クリステイが1932年に発表した推理小説で、エルキュール ポアロシリーズのひとつ。リンドバーグの息子が誘拐されて殺された事件にヒントを得て書かれた小説。何度も映画化されているが、今回のはアメリカ映画。監督と主演に ケネス ブラナー。

1974年の英国版が、とても1939年代のオリエント急行列車や時代背景が原作に近く、よくできていて、おまけにキャストが豪華絢爛でアカデミー賞も獲ったし、文句なしだったので、今回のアメリカ版はちょっとがっかり。
でも、ジョニーデップの悪漢ぶりが、とても良かった。これじゃ殺されても仕方ないよね、というようなワルが狡猾な弁舌をふるい、女性には冷淡、差別的で、ポアロに命を狙われているからと警護を依頼する小心もの。悪い奴だが人間的に描かれているところが良かった。ドラゴミロフ侯爵夫人のジョデイ デインチも良かった。この人は何を演じても可愛い。
イギリス版1974年では、59歳になってもなお美しいイングリッド バーグマンが、グレタ オルソン役を演じてアカデミー賞を取ったが、今回の映画でこの役はペネロペ クルーズ。英国版で、あの下から男を見上げる悩殺美人のローレン バコールが、ハバード夫人役だったが、今回の映画ではミッシェル ハイファ―がこの役をやっていた。英国版ではアーバスノット大佐役を、ショーン コネリーが演じたが、今回の映画では全然知らない人。ラチェットの秘書役も今回は知らない人だったが、前回の英国版では、あの「サイコ」の美青年アンソニー パーキンスだ。英国版で前回アンドレ伯爵はマイケル ヨークが演じたが、今回はセルゲイ ポル二ンで、バレエダンサーだそうだ。登場したときから只者ではない殺気と狂気をもちあわせた、異様な緊張を醸し出していて、推理小説にもってこいの役柄を好演していた。

ただこの映画、殺人者が多いので一人ひとりの殺人動機や役割を描き切れず、どうしても消化不良になっている。長編小説を2-3時間の映画にするのは容易ではないだろうが、推理物は小説の魅力には勝てない。推理は頭の体操だから活字によってよりイメージを広げていくことに醍醐味がある。やはり推理物は読むに限るって、、、映画評になってない。

2017年12月16日土曜日

映画 「否定と肯定」

英米合作映画
監督:ミック ジャクソン      
原題:「DINIAL」
原作:デボラ リープスタッツ
   「HISTORY ON TRIAL:MY DAY IN COURT WITH A HOLOCAUST DENIER」ホロコースト否定論者との法廷での日々
キャスト:
レイチェル ワイズ:デボラ リープスタッツ教授
トム ウィルキンソン:リチャード ランプトン弁護士
テイモシー スパル :デヴィッド アービング教授
アンドリュー スコット:アンソニー ジュリウス弁護士

ストーリーは
1994年 アメリカ ジョージア州アトランタのエモリ―大学で、ホロコースト研究者として教鞭をとる歴史学者デボラ リープスタット教授は、自著の「ホロコーストの真実」を出版記念公演をする場で、沢山の学生たちの前で、ホロコースト否定論者のデヴィッド アービング教授から侮辱される。その上、このナチスドイツ学者から、デボラ リープスタットが著書の中で、アービングをホロコースト否定論者と断定していることで、彼から名誉棄損で訴えられる。訴訟を起こされたのは、リップスタットと彼女の論文を出版した出版社だった。イギリスの訴訟では、被告側が立証責任を負うため、リップスタットは、ホロコーストが歴史的事実であることを法廷で証明しなければならなくなった。アービングにとっては、豊富な財源をもとに、自分が活躍するイギリスで、若いアメリカ人の女性教授をやりこめることで、自説を大々的に宣伝することが目的だった。

弁護士チームに会うために、リップスタットは英国に渡る。リップスタットは、アービングに沢山の学生たちの前で侮辱され、自分が書いた論文が事実に反すると言われ、訴訟まで起こされて、怒り心頭に達している。法廷の場で、アービングと直接議論をもちかけて、ホロコーストが実際にあった事実を認めさせ、ケチョンケチョンに論破して恥をかかせてやらなければ気が済まない。ホロコーストが事実であることは疑いようのない事実であり、ユダヤ人に偏見を持つアービングなど、学者の資格はない。怒りと苛立ちで一杯の被告、リップスタットに対して、彼女の弁護団は、冷たい。
ロンドンのユダヤ人団体に会いに行くが、彼らはリップスタットを擁護するどころか、裁判がアービングのホロコースト否定論の宣伝に使われていることで、リップスタットが裁判を受けて立つことを迷惑がっている。ユダヤ人団体は注目されることを望んでいない。

他に誰も友人や親しい人も英国にはいないリップスタットは、肌寒く毎日雨ばかり降るロンドンで、孤独を噛みしめる。
アービングは自分の主張を宣伝するために陪審に訴える発言を繰り返し、自分の思い通りの裁判をしようとしていたが、弁護団は裁判官による決着を要求する。リップスタットと弁護団長のランプトンは、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所に、地元の学者の案内で訪れる。裁判で、ホロコーストが本当にあったことだということを証明しなければならない。

アービングは強制収容所のガス室を設計した技師を法廷に出廷させ、ガス室の天井に張り巡らされたチューブには、ガスを放出させる穴がないので、ガスによる大量殺人などなかったことだと主張する。この主張はマスコミにも大々的に取り上げられて、ノーホール、ノーホロコーストとセンセーショナルに報道される。
怒ったリップスタットは、かつてガス室から生還した生存者を証言台に呼ぶことを求めるが、弁護団はそれに同意せず、生存者の証言などアービングの巧な弁論によって侮辱されるだけなので、証言もリップスタットの発言も必要ないと、主張する。納得できないリップスタットは、法廷で発言を封じられたままで、不満は募る一方だ。弁護団はアービングの著作が、偏見に満ちたもので、事実の歪曲があることを、ひとつひとつ辛抱強く証明していく。そして、徐々にアービングの主張が論理的でなく不条理であることが明らかになる。論理によって追い詰められたアービングは、ユダヤ人に対する強い偏見と差別意識を法廷で露わにする。アービングの主張がいかに事実からかけ離れているか、差別主義者による思いこみに過ぎないか、いかに論理性のないユダヤ人を忌み嫌う感情論に偏っているかが、法廷で証明されていく。

2000年1月、裁判が始まって5年、1600万ドルという、とてつもない裁判費用をかけた裁判の判決はアービングの敗訴に終わった。リップスタットは、自分の名誉を守るために、常に冷静沈着に法廷闘争を戦ってくれた弁護士団に心から感謝した。
という事実に基ずいたお話。

アトランタに住むアメリカ人女性が訴えられて、自分の無実を証明するために、ロンドンの法廷に立つ。ロンドンは今日も雨で寒い。弁護士と訪れたアウシュビッツも冷たくて雨。デボラ リップスタットの心の中を映し出すような、寒々とした雨。裁判制度も気候も人々も全く異なるアメリカ人の目に映るイギリスを、雨で表現するカメラワークが実に上手い。アメリカ人とイギリス人の違いも、見ていて興味深い。

ことほどさように歴史修正主義者、ホロコースト否定論者、ネオナチ民族差別主義者、レイシストとの論戦は消耗戦だ。
この裁判の結審前に、チャールズ グレイ裁判長は、人が純粋信じていることを、嘘と断言して良いのかと、問いかける。虚偽を信ずる者は嘘つきか。それが歴史的事実のねつ造ならば、イエスと言えるだろう。明解な偏見による事実の否定ならば、イエスだ。かくしてアービングは敗訴したが、これはが正しい。転じて、日本の国民会議の面々を法廷に立たせて、彼らの歴史認識に誤りがあることを証明するためには、どれだけの労力と資金が必要だろうか。

訴えられたデボラ リップスタットを演じたレイチェル ワイズは、ル カレの書いた「ナイロビの蜂」の主人公を好演してアカデミー助演女優賞を獲った。とても心に残る良い映画だった。ル カレは、自身も英国のスパイでもあった興味深い作家だ。

法廷の争いを映画化すると劇的にも、退屈にもなるが、名画がいくつかある。代表は何といっても「12人の怒れる男」だろう。1957年アメリカ映画。原作レジナルド ローズ。主演はヘンリー フォンダだ。父親殺しで逮捕された17歳の息子の、法廷証拠も証言もすべて少年に不利。11人の陪審が少年の有罪を確信していたが、たった一人の陪審が無罪を主張し、証拠を一つ一つ再検討して他の陪審を説得していく姿は、感動的だ。娘たちは、インターナショナルスクールの授業でこれを観た。人が人を裁くことができるのか、こうした命題を考えるために、最良の教育材料だと思う。

1962年「アラバマ物語」「TO KILL MOCKINGBIRD」は、1932年人種差別の強いアメリカ南部を舞台とした映画。ピューリッツアー賞を受賞した小説の映画化で、監督ロバート マリガッツ、主演はグレゴリー ペックだ。白人女性への暴行容疑で逮捕された黒人青年の弁護をするフィンチ弁護士の活躍には目を奪われる。この映画でグレゴリー ペックはアメリカのヒーローになった。

最後に、2014年「ジャッジ裁かれる判事」原題「THE JUDGE」も良かった。監督、デヴィッド ドプキン、アイアンマンのロバートダウニージュニア主演。彼の老いた父の判事を演じたロバート デュヴアルが好演していて、アカデミー助演男優賞を獲った。ロバート ダウニージュニアは、不良中年の代表。8歳のころからマリファナを吸引していた本当の不良なのに、切れ者の弁護士を演じている。

法廷を題材にした良質な映画がいくつもあるが、この映画の邦題「否定と肯定」が、原題の「否定」を意図的に弱めるようで、意訳がちがうのではないか、という論争があるようだ。原題はなるべく触らないで、そのまま「デナイアル」とか、原作の「ホロコースト否定論者との法廷での日々」が良いかもしれない。