2011年9月23日金曜日

映画 「雪花と秘密の扇子」




映画「雪花と秘密の扇子」、原題「SNOW FLOWER AND THE SECRET FAN」を観た。原作 リサ シーの 2005年ベストセラー小説を映画化したもの。

監督:ウェイン ワン
キャスト
雪花:ソフィ : チョン ジヒヨン
百合:ニナ  : リー ビンビン
ボーイフレンド:ヒュー ジャックマン

ストーリーは
二組の二人の少女の物語が200年の歴史を隔てて 同時に平行して語られる。

上海に住むニナ(リー ビンビン)は ビジネスウーマンとして成功して 恋人と一緒にニューヨークに派遣されることになった。同僚達とのお別れ会をして、渡米に胸を膨らませているときに、突然 消息を絶っていた親友、ソフィ(チョン ジヒヨン)が交通事故で昏睡状態に陥っているという連絡を受ける。ニナは 渡米を取りやめて病院に駆けつける。
数年前、ソフィのボ-イフレンド(ヒュー ジャックマン)のことで 二人は諍いをしたまま互いに連絡を絶っていた。何年も、ソフィが どこで何をしていたのか、ニナは知らない。しかし、事故に会う前、ソフィアは何度も二ナに電話をしていた。出発前の忙しさにまぎれて、ニナが気がつかなかったのだ。

呼吸装置をつけられて辛うじて呼吸をするソフィアのベッドの横で 二ナはソフィアのバッグを開ける。そこには、分厚い ソフィアの書き残した小説の原稿が入っていた。二ナはそれを読みながら、行方を絶っていたソフィアの ここ数年の足跡をたどるのだった。二ナが交際するすることを反対していたボーイフレンドとニナは オーストラリアで短い間暮らしていた。しかし不実な男に ソフィアは心を開く事もなく 妊娠していたことも知らせずに 一人香港に帰ってきて 小説の執筆に没頭していた。

小説の舞台は 清時代の湖南地方。
百合(リリー)と雪花(スノーフラワー)は 同じ日に生まれた。湖南地方の古くからある伝統に従い、一定の年齢になると 二人は同じ日に纏足をされ、「老同」ラオトング(エターナル シスター)という生涯を通じて姉妹になる契約をする。二人は二人だけに通じる秘密の文字を教わり 生涯この文字を通じて意思疎通ができるように教育される。百合は貧しい家の出身、雪花は裕福な特権階級出身だったが 二人は双子の姉妹のように仲良く育ち、成長していった。

やがて適齢期になると、纏足が完璧に美しく仕上がった百合から先に 裕福な家庭の嫁として迎えられた。一方、雪花の家では父親が阿片中毒になり、没落していく。やがて、百合に子供ができ、「老同」の雪花に会いに行きたいが 義母は 男の子供を産むことだけが嫁の仕事と決めて、嫁の外出を認めなかった。仕方なく、二人は扇子に二人だけに通じる言葉で書いて やり取りをして、互いに励ましあった。
何年もたって、義父母が亡くなり やっと百合が雪花に会いに行くことが出きることになった。訪ねていくと 沢山の子供を抱えて、教育のない男に嫁いで変わり果てた雪花が 出迎えてくれた。暴力をふるう夫の姿をみて、百合は 雪花とその子供達を 自分のところに引き取ろうとする。しかし、雪花はそれを拒否して、一方的に「老同」は切れたと宣言する。生涯の姉妹を誓ったのに、裏切られたと思った百合は 悲嘆に暮れる。

しかし ある日、使いがやってきて雪花が 死の床にあること知らせてくる。雪花は 百合の幸せを考えて 「老同」の関係を一方的に破棄したが、本当はいつも百合のことを心から思っていた と言い残して雪花は死ぬ間際に和解する。という小説だった。
読み終わって、二ナは これは自分達のことだ と思う。ソフィアの二ナに対する真摯な友情を この小説で二ナは 確認することが出来た。二人の友情と絆は絶つことはできない。
もう二度と ソフィアのそばを離れない と決意して昏睡状態のソフィアの手を握るのだった。
というストーリー。

湖南地方の美しい髪型、民族衣装、刺繍を施した美しい纏足の靴。そして、秘密の文字が書かれた扇子。
女が墨をすり、筆に墨を浸して扇子に文字を書いていくシーンが美しい。消えていった200年前の中国の文化の 残酷と美に目を瞠る。情緒豊かな 胡弓の調べを聴きながら 清の時代の滅びてしまった文化のノスタルジーにどっぷり浸りきる。

ベトナム出身のアメリカ人 トライ アン ユン監督が「青いパパイヤの香り」で、自分が生まれる前のベトナムの田舎を叙情的に描いたように、香港出身のアメリカ人ウェイン ワンは 自分の故郷をノスタルジックに描いた。彼は「ジョイラック クラブ」でもこれをやった。叙情的で詩的で美しい。しかし、他人にとっては冗漫で退屈かもしれない。

この映画のテーマは「老同」ラオトング すなわち女の友情だ。
女はこの時代 纏足をされ 良縁を得て裕福な家庭に向かい入れられ、一度も会ったこともない男の物となり 男の子を産まなければならなかった。そんな重圧に耐えるには 確かに女同士の友情は必要だったのかもしれない。
この映画では 裕福になった百合が 貧しい雪花を強引に自分の家に連れて帰ろうとして、雪花から「老同」を破棄される。雪花は「貧しくても私は夫を愛しているのよ。」と言っているのに、雪花をそんな夫から引き剥がし 裕福な自分の家に連れて行くことが 雪花の幸せだと決め付ける百合は 一人合点の奢った「友情」を強制して、迷惑この上ない。拒否されて当たり前。幸せの基準をお金の有無で決め付けるところも いかにも中国的だ。

ニナとソフィアの「友情」も同様。二ナはソフィアの恋人を一方的に悪い男と断じて、別れることをアドバイスして それを受け入れないソフィアと仲たがいする。悪い男ほど 別れられない女も沢山居る。それもまた愛であって、横から あんな男はダメとか 忠告しても意味がない。おせっかいも はなはだしい。自分が ニューヨーク栄転を前にした将来性のある男と一緒だからといって それと同じような男としかソフィアが幸せになれい と信じる傲慢さ、自己中心的で、偏狭な視野。これは、友情でも、「老同」でもないのではないか。

それを考えると、この映画は二組の二人の女の友情の物語だが、人間が描かれていない。人と人が友情で結びつくためには まず、強い自我があり、互いにそれを尊重しながら理解しあっていくことが必要条件だ。
たしかに女の立場は 200年前は弱かった。男の玩具でしかなかった。
纏足文化は 女の奴隷化であり、男の享楽のために 女の体を去勢し 性道具として使って良かった という時代の産物だ。そんなものを懐かしがってもらっては困る。

視点を変えてみると 纏足は何百年も前の 過ぎた昔のことだろうか。
いま女達は纏足の代わりにハイヒールを履く。ハイヒールによって内股の筋肉が鍛えられ、バランスが悪い為 腰を振らずに歩く事が出来ない。それを見て ヨダレをたらす男達。どんなに知的産業に女が進出するようになっても 男の玩具となって生きる女の数を減らすことができない。
雄と雌しかいない地球で どう生きるのか 互いにどう折り合って生きるのか 人それぞれ、というわけだ。
この映画、女が見るのと男が見るのと 見方が全然ちがってくるかもしれない。何も考えず、ただ美しい昔の中国の文化を眺めるだけでも良い。美しい胡弓の調べと 冗漫な画面で寝てしまう人も多いかもしれない。

チョン ジヒョンという韓国の女優さんは、日本でも人気があるらしい。この映画を日本でも上映するかどうか ゴグってみたら、「チョン ジヒョンが全裸でレズビアンに挑戦」というような 大宣伝をしてあった。マスコミの下衆な視点にあきれる。そういうシーンは全くないので 安心したり落胆しても良い。映画は女の友情がテーマであって、レズビアンではない。
韓国のチョン ジヒョンも、中国のリービンビンも、どちらも美しい女優さんだ。ヒュー ジャックマンも 映画の中で歌って踊って大サービスしている。

プロデユーサーが、いま悪名高いルパード マードックが70代のとき 30で結婚したウェンデイー マードック。誘拐されて殺された被害者やイギリス王室の面々まで携帯電話をハッカーして タブロイド新聞で暴露するような卑劣なことをやり続けている 世界最悪のメデイア王の妻、ウェンデイーだ。これは余計だったかな。

2011年9月17日土曜日

エフゲニー キッシンのピアノリサイタル



ロシアからエフゲニー キッシンが来て 3夜だけオペラハウスでピアノを弾いてくれた。
第1夜は キッシン一人だけのリサイタル。第2夜は アシュケナージが指揮するシドニー シンフォニー オーケストラをバックに グリーグのピアノコンチェルト Aマイナー、第3夜は ショパンのピアノコンチェルト 第1番Eマイナーを シドニーシンフォニーと共に演奏する。

6月に やはりランランがシドニーに来た時も 彼は3夜だけ演奏した。第1夜が ランランの独奏のリサイタルで ベートーベンのソナタなどを弾き、第2夜は ラフマニノフピアノコンチェルトを、第3夜は チャイコフスキーのピアノコンチェルトを シドニー シンフォニーと共演した。ラフマニノフのピアノコンチェルトを聴きに行ったが、シドニー シンフォニーに落胆、、、今回も同じ事を繰り返したくないので、第2夜と第3夜を避けて、第1夜の彼の独奏を聴きに行った。全曲 フランツ リストだ。

プログラムは
1)超絶技巧エチュード リコルダンザ 作品139
2)ピアノソナタ Bマイナー 作品178
休憩
3)詩的で宗教的な調べ 作品173
4)巡礼の年 スイス一年目 作品160
5)巡礼の年 ベニスとナポリニ年目 作品162
アンコールに リストの「愛の夢」

シドニーオペラハウス コンサートホールの2500席が ひとつの隙間もなく埋まった。2時間の彼の演奏の間、2500人が静まり返り、息をするのも躊躇われるような時もあった。
もともと形にこだわらないオージーは 楽章ごとに拍手するし 演奏中でも気に入ればブラボーを叫ぶし、クラシックファンでも行儀が良いとはいえないが それでも今回は程よい緊張が見られた。詰め掛けた人々は、若い人が多く ピアノを勉強している生徒達の熱をもった目で キッシンの一挙一頭を追っている姿が 印象的だった。やっぱり、ピアノがとても好きな人って、居るんだなあ。

エフゲイ キッシンは 1971年生まれ。ユダヤ系のロシア人。2歳でピアノ教師だった母親の目を盗んでピアノを弾き始めた という。10歳でピアノ協奏曲を演奏して世に認められ、12歳で モスクワ フィルハーモニーオーケストラをバックに ショパンのピアノコンチェルトを弾く姿がフイルムで発売されて、世界の注目の的になった。
カラヤン、アバド 小沢などの指揮で ベルリンフィルハーモニーオーケストラや、ロンドン交響楽団と共演している。
ショパン、リスト、ベートーベン、チャイコフスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフなど、超技巧的な曲でも、世界各国の民謡でも 何でも弾く。

http://www.evgenykissinfansite.co.uk/id12.html
今年40歳とは思えない 少年のような姿。憂いを含んだ目ざしで、ただ一心に弾く。全然笑わない。ものすごい集中力で鍵盤に向かい、細心の気使いで 計算しつくされた完璧な音を出す。一音一音が すっきり空気を通して立ち上がってくる。ものすごいスピードの中でも 音に一点の曇りもない 明快な音。

オペラハウスの空気を凍らせて断ち割るようなフォルテシモ、 そして、胸が締め付けられるようなピアニシモの対照の美しさ。音のひとつひとつが 宝石のように輝いている。
となりに座っていたオージーの青年が ピアノが強音を奏でている時は 身を乗り出して 弱音になると胸をかきむしって音に没頭していた。わかる。 同感だ。
ピアニシモに胸をかきむしられる思い、、、本当に このピアニストは何という表現力を持って居るのだろう。この人は10本の指で 人間の情感の全ての喜怒哀楽を表現する力を持っている。こういうひとを天才をいうのだろう。ピアノが弾けるということと、ピアノで弾いてみせるということが全然ちがうということが しみじみとわかる。

彼のリサイタルが終わり オペラハウスを出ようとすると、若い人たちが彼のCDを握りしめ、並んで彼が楽屋から出てくるところを待っていた。その列の長いこと長いこと、数百人。
エネルギーを使いきっただろうキッシンに サイン攻めは とても気の毒だと思いつつ 平日の夜なので 家路を急いだ。ピアノを勉強している若い人々に サインという宝物が欲しい気持ちはわかる。しかし、それをもらうために長く並んで待つのだったら、時間を惜しんで 真剣に鍵盤に向かい、しっかり練習しなさい と言いたくなる。

オットは 翌日起きてきて、一晩中 頭のなかでキッシンのピアノが鳴り響いていたよ、、、と言っていた。わかる。わかる。同感。いまでもわたしの頭の中で 宝石のような音が響いている。

2011年9月16日金曜日

映画 「十三人の刺客」



日本では2010年9月に公開された日本の東宝映画「十三人の刺客」、「13 ASSASSINS」を観た。
日本からは大分遅れて 今週から シドニーの大型一般映画館で公開された。日本映画が 英語字幕つきで一般映画館で公開される機会は 極めて少ない。特別の シドニー国際映画祭とか 興行成績に関係のない独立的に文化作品を上映する特殊な映画館でなら、溝口ファンとか、黒澤明ファンが オーストラリア人にも居るから 時々日本映画を見せている。
しかし、大型の興行映画館で、ハリウッド映画と並んで、日本映画を公開するのは、良くて年に1本だろう。この作品の前は ジブリの「ポニョ」だった。
監督 三池宗史(山かんむりの宗の字がPCにない)は 日本で、というよりもアメリカで一定の人気があるらしい。暴力的で残酷なフイルムを作るのが得意な人らしいが、その手の映画を観ないので よくわからない。
キャスト
明石藩主 松平ナリツグ(漢字がPCにない):稲垣吾朗
江戸幕府老中 土井大炊頭位        :平幹二朗
御目付役 島田新左衛門          :役所広司
明石藩 鬼頭半兵衛            :市村正親
御徒目付組頭 倉永左平太         :松方弘樹
島田新六郎 新左衛門の甥         :山田孝之
平山九十郎(浪人)            :伊原剛志
小倉庄次郎(平山門弟)          :窪田正孝
木賀小弥太(山の民            :伊勢谷友介

ストーリーは
江戸末期 徳川将軍の異母弟にあたる明石藩主 松平ナリツグは 天下泰平の緩みきった社会の中で退屈してやりたい放題、冷酷で無意味な殺生を繰り返す暴政を布いていた。藩主に反省を求めて明石藩江戸家老が 老中土井家の屋敷で切腹して訴えるが、将軍は無視、世間知らずなナリツグは 部下の意見を聞かずに一方的に腹を立て この家老一家を惨殺する。将軍の弟ということで 誰もナリツグの暴走を止めることが出来ない。

しかしこの暴君が老中に就任することが決まると、老中筆頭の土井大炊頭位(平幹二朗)は、このままにしておくことはできない と考えナリツグ暗殺を計画する。信頼できるのは お目付け役の島田新左衛門(役所広司)のみ。島田は ナリツグ暗殺が 将軍の為、民のために必要だと判断して 秘密裏に仲間を集め始める。太平な社会でしばらく戦がない。武士は志を失い 腰に刺した剣も役立たずだった。そんな中で島田のもとに、藩主暗殺の志を同じくする武士たちが少しずつ集結してきた。事を起こすのは 参勤交代で藩主が江戸に向かう途中が良い。11名の島田に命を預けた武士たちの激しい訓練と準備が始まった。そして、彼らは街道に仮の宿場を作って一行を待ち構えるのだった。
しかし 迎え撃つ敵の数は200人、、、。
というストーリー

この映画は 戦闘のリアリテイを表現するところに重点を置いている。後半、戦闘場面が延々を続く。切っても切っても13人対200人だから終わらない。殺しても殺しても殺しきれない。死ぬまで戦うのみだ。他の選択肢はない。すでに13人の反逆者たちの帰る場はない。藩主を襲う時点で 反逆者は 侍の身分も家も失っている。男達にとって死ぬことが目的とも言える。

画面全体が暗い。画面の芸術性 洗練されたカメラワークは はるかに「最後の忠臣蔵」が良かった。画面を見ていて紅葉した木々に下を人が歩くと秋の風が感じられ、川が流れるシーンでは水の冷たさが伝わってきた。映画では画面を通して 観客の五感に訴え疑似体験をさせることができるなら フイルム作りが「成功」したと言えるのではないか。それがこのフイルムにはない。監督は エンタテイメントとしての映画に徹底していて、筋書きで、強引に観客を引っ張っていく。

島田新左衛門は 何が何でもナリツグの首を取らなければならない。戦えば互角の鬼頭半兵衛と戦っても しょせん「現状維持派」の半兵衛と 「反逆」の新左衛門とではエネルギーの大きさが違う。従って鬼頭の首は飛ぶ。役所広治は とても良い役者だ。でも日本映画といえば 必ず役所広治が出てくる。他に俳優さんは居ないのだろうか。映画のなかで 役所広治のほうが 松方弘樹の役より格上の役だったと知って驚いた。松方弘樹のほうが はるかに時代劇では年季が入っていて 刀さばきも 立ち回りも素晴らしい。貫禄がちがう。

浪人の平山九十郎(伊原剛志)が素敵。怖い顔で 大立ち回りして、どんどん切って行く。まわりすべてを大量の敵に囲まれて絶望的な状況で 「オレの後から来い。俺が切り損ねた奴を切って進め。」と可愛い門弟の 窪田正孝に言う。二人の生き方も逝き方も潔い。

木賀小矢弥太(山の民)の伊勢谷友介の出現と12人との関わり方を見ていて彼は生き残るだろうと 思っていたが やはり生き残った。最後に二人の男を残したのは良い。山の民と 島田新左衛門の甥、新六郎が生き残る。希望が残った。
島田新六郎は 家を出てくるとき 妻に「行って来る。もし帰ってこなかったら お盆に帰ってくる。迎え火焚いて 待っていてくれ。」と言い捨てて出てきた。しかし、お盆に帰ってくることもなければ、家賃と食費を持って家に帰ってくることもない。そんな風にして 女が捨てられる時代だったのだろう。

彼は叔父、志のある武士が目的を達し藩主暗殺を成し遂げたことを見届け 全ての仲間の死を確認したあと、「侍なんかやめだ。ばかばかしい。オレはメリケンに渡って金髪の女を抱く。」と言う。これが良い。こんな男が明治維新を乗り切るのだ。鎖国と徳川幕府は すでに内部から崩壊していたのだ。

映画に美しい女が一人も出てこない。
話の途中に少しだけ登場する女達は 暗がりから出てきて 眉を落とし白粉で顔を塗りたくっていて お化けのように怖い。この監督 女嫌いではないか。それとも女に何か恨みでもあるのですか。

大型エンタテイメントの映画として成功している。日本で公開されたフイルムから結構大事な場面がカットされてて見られなかったらしい。カットされたシーンは 伊勢谷友介と岸部一徳のシーンと 稲垣吾朗が犬を食うシーンだと言われている。どうして海外版のために 余計なことをするのかわからない。カットについて監督は怒って良いはずだ。

2011年9月13日火曜日

映画 「猿の惑星 創世記 ジェネシス」




映画「猿の惑星 創世記 ジェネシス」、原題「RISE OF THE PLANET OF APE」を観た。日本公開は 10月7日だそうだ。
チャールトン ヘストン主演の「猿の惑星」シリーズは かつて大流行したが それなりに気色悪く、それなりに面白かった。1968年「猿の惑星」、1970年「続 猿の惑星」、1971年「新 猿の惑星」、1972年「猿の惑星 征服」、1973年「最後の猿の惑星」と続けて製作された。4作ともアーサー ジェイコックスの監督だ。2001年にも リチャ-ド ザナックのよって 別の「猿の惑星」が作られている。

今回イギリスの監督 ルパード ワイアットが 今が「旬」のジェームス フランコを主役にして 以前の「猿の惑星」がどうしてできたのか という創世記の話を 映画化した。今さら40年前の映画の筋に 話につなげるのは ちょっと無理がある。しかしそこを 若くて才気あふれ、笑顔が新鮮で愛くるしく 何をやっても憎めない そんなジェームス フランコが 人よりもオツムの良い猿を育ててしまったことが そもそもの「猿の惑星」ができた契機ですと言っている。まあ それでも良い。楽しい映画だ。

http://www.apeswillrise.com/
監督:ルパード ワイアット
キャスト
研究者ウィル  :ジェームス フランコ
猿 シザー   :アンデイ サーキス
父親チャールス :ジョン リスゴー

ストーリーは
サンフランシスコに住むウィルは 遺伝子工学の研究者で アルツハイマー治療薬の開発に従事している。仕事から帰ると 父親のチャーリーはアルツハイマーに侵されて認知障害を起こしている。彼は日に日に症状が悪化し、せん妄や暴力的な異常行動が出てきて 家政婦にも手が終えなくなってきた。

ウィルが開発途中のアルツハイマー治療薬は まだ動物などに試してみていないのでどんな副作用が起るのか 未知の段階だ。しかしウィルは 父親の症状がこれ以上悪化することはない と考えて自分が開発し新薬を ごまかして家にもって帰り チャーリーに注射してしまう。
ウィルは 翌日 自力で歩くことさえ ままならなかった父親が すっかり元気な様子で流暢にピアノを弾く音で目を覚ます。劇的にウィルの開発した新薬の効果が出たのだ。喜んだのは父親チャーリーだ。すっかり「治って」もとに戻れたのだから。

一方、研究所では この新薬をテストするために注射されたチンパンジーが突然暴れだし、逃亡しようとしたため銃殺される。暴れ出したチンパンジーは 妊娠していたのだった。殺された母体から 秘密裏に心優しい飼育人によって、助け出された赤ちゃんチンパンジーは ウィルのもとに引き取られることになった。ウィルとチャーリー親子は チンパンジーに シーザーという名前をつけて 自分達の子供のように可愛がって育てる。シーザーは新薬を注射された母親から生まれたから 頭脳は人間並みだ。人のように話すことは出来ないが 言葉を理解する。親子は シーザーが大きくなると ひんぱんに森に連れて行って遊ばせた。シーザーは賢い子に育っていった。

ある日、チャ-ルスが隣の家人と諍いをしているのを 家の中から見ていたシーザーは チャールスを救う為に 家から飛び出して 隣人を傷つけてしまう。その結果 シーザーは警察命令で、猿の保護施設に入所させられてしまった。保護施設では 刑務官に暴行され、他の猿達からはひどい目に合わされて、シーザーは人間不信に陥る。ウィルとチャーリーは すぐに迎えに来ると言うが もう人間は信じるに値しない。
シーザーは研究所から手に入れた 新薬を捕獲された他の猿達に散布する。その結果 何百という猿達が一夜のうちに 人並みの知能を獲得した。シーザーはリーダーとなって 猿達を率いて反乱を起こす。動物保護施設の冷酷な係員は殺され、警察と正面衝突をする大規模な反乱が起きることになった。

一方、シーサーの母親が銃殺されたとき 赤ちゃんのシーザーを救い出した飼育係は 出血性の病気に罹っていた。これは新薬による副作用で 母親チンパンジーからウィルス感染したものに違いない。飼育員がウィルに それを報告しようとしたときは すでに時遅く 飼育員はウィルスをまき散らしながら死んでいった。
ウィルは シーザーの乱暴を止めさせようと シーザーを探し回る。一緒に家に戻って 一緒に暮らそう。しかし、シーザーは 猿の群れを連れて 森に向かう。ウィルが止めるのを シーザーは聞かない。なぜなら、森こそが シザーにとっての家だったからだ。
というストーリー。

たわいないストーリーだけど 動物愛好家にとってはとても楽しい映画だ。シーザーがとても可愛い。彼が 保護施設に入れられ、最も信頼していた人に裏切られた と思ったときの表情、反乱を起こす時の表情が 人並みというか、人以上に 表情豊かで表現力がある。反乱を起こしたかった訳ではなく 反乱せずに居られなかった状況も よくわかる。終わり方も良い。

ただこの作品を1968年から1973年までに制作された映画の「創世記」として捉えるのは つじつまが合わない。SFと言うが、科学的でない。
遺伝子工学によって人並みの知能を持った猿が一挙に 現在68億人の世界総人口に迫るほど増加して地球を乗っ取るほどの力を持つことは 考えられない。地球にはそれほどの 水、食料、エネルギーがない。また猿が 高い知恵を持っても 知能は教育によってしか 継続的に伸びることはできない。人を征服するためには、人以上の継続的 高等教育機関がなければならないのだ。また、猿の寿命を人並みに どうやって伸ばすことが出来るのか。遺伝子操作でそれができるとは 考えられない。

わたしはこの映画は うまく収まって シーザーがウィルとチャーリーから自立するところで きれいに話しが終わるが、実は 未来は明るくない と考える。猿達は出血性のウィルスに感染している。この猿達は 長くは生きられない。おまけに猿達は このウイルスをサンフランシスコ中に撒き散らしたのだ。人の未来もまた 明るくないのだ。

そんな映画だけれども、もともと「サルの惑星」は 皮肉な筋書きの大昔のSFだ。作者のフランス人 ピエール ブールは 自分が戦争中 フランス領インドシナで 日本軍の捕虜になったときの 経験から「サルの惑星」の発想を得たという。
しかし、あまり、深く考えないで 画面を楽しめば それで良いのだ。そうそれで良いのだ。

2011年9月11日日曜日

NYメトロポリタンオペラ 「トスカ」



ニューヨーク メトロポリタン オペラ公演「トスカ」プッチーニ作曲、3幕4時間を 映画館でハイデフィニションフイルムで見た。

実物のオペラ「トスカ」は 去年 オペラオーストラリア公演を、下の娘と観た。上の娘は この「トスカ」を本場イタリア ローマのカラカラ遺跡の野外オペラ会場で観てきたところだ。真夏なのに、夜になると遺跡のあたりに風が出て、寒くて寒くて途中からは ガタガタ震えながら観ていた と言う。

指揮:ジョセフ コラネリ
キャスト
トスカ   :カリタ マテイラ
カラバドッシ:マルセロ アルヴァレス
スカルピア :ジョージ ガグニッゼ

ストーリーは
1800年 ローマ。聖アンドレア デラ ヴァレ教会で画家、カラバドッシがマリア像を描いている。そこに ナポレオン支持派の反政府活動家アンジェロデイが 監獄から脱獄してくる。カラバドッジは 親友の出現に驚きながらも 自分もナポレオン支持に傾いているので、親友を匿い 無事に逃亡させる決意をする。脱出計画を立てている最中に 女優で恋人のトスカが カラバドッジに会いにくる。あわてる恋人のただならぬ様子に、嫉妬深いトスカは 彼が浮気をしていたのではないかと疑って責め寄る。

そんなトスカを 心から愛している気持ちを誠実に伝えて なんとかなだめて、カラバドッジは 親友を別荘に案内して匿う。
しかしその間に 警視総監スカルピアが 脱走犯を追って教会にやってくる。トスカもカラバドッジの態度に腑に落ちない気持ちで 教会にまた戻ってきて、スカルピアと顔を合わせる。スカルピアは早くも カラバドッジが アンジェロッテイの逃亡に関わっていることを悟り トスカの嫉妬心を利用してカラバドッジを問い詰めれば 脱獄犯を再逮捕できるし、ついでに片思いしていたトスカも思いどうりに出来る と考える。

カラバドッジは逮捕され、拷問を受ける。それに耐えられずトスカは スカルピアに、自分の体と引き換えに 逮捕されたカラバドッジの命を救う約束をさせる。しかしスカルピアの腕が、トスカに伸びた瞬間、誇り高いトスカは思わずスカルピアを刺し殺してしまう。
死刑場に引き立てられたカラバドッジに トスカが駆け寄る。スカルピアとの約束で、銃殺刑に使われる銃には空砲が入っているだけ、死んだふりをして、役人達が立ち去った後、二人で逃げましょう、と、愛し合う恋人達は歌い合う。

しかし空砲のはずの銃には スカルピアの思惑通りに実弾が入っていた。
目の前で恋人を銃殺されたトスカは 聖アンジェロの城の頂上に登り 身を投げて恋人のあとを追う。
というおはなし。

今回観たフイルムでは イタリア人ジョセフ コラネリが指揮をし、ソプラノをフィンランド人のカリタ マテイラが歌い、テノールをアルゼンチン人のマルセロ アルヴァレス、そしてバリトンをジョージア人のジョージ ガグニッゼが歌った。それをシドニーで観て 日本語で報告を書いている。
アメリカ大陸、ヨーロッパ、南米、ロシア、そしてオーストラリアと、全大陸をひとつのオペラが駆け巡っている訳だ。トスカというオペラ中のオペラ、オペラの代表のような この作品がいかに時代を超え、国境を越えて愛されているかが、わかる。

ソプラノのカリタ マテイラは緑色の目をしているそうだが、トスカを演じるために茶色のコンタクトレンズを入れて、実にパワフルな声で歌った。愛する男の命を助けるために 自分の体を警視総監に差し出すが、嫌な男に身をゆだねることに耐えられなくなって 刺し殺してしまい 最後には逮捕され裁かれるよりは死を選ぶ強い女だ。可愛らしくて転がるような美しいソプラノではなく、力強い 自立した女の しっかりした声でなければならない。彼女、重い1800年代の衣装姿で、よく歌っていたが、やはり年齢は隠せない。40後半から50代ではないだろうか。体が固い。この役をあと何年も 繰り返して演じるには無理がある。

その点、テノールのマルセロ アルヴァレスは 若い。パワフルなのに 限りなく柔らかく伸びる美しい声だ。最後には 彼が登場すると客席では総立ちになって拍手していた。その拍手の長いこと 長いこと 本当に長いことスタンデイングオべーションが続いた。本当にきれいな声だ。今後も他のオペラで 彼を見ることもできることだろう。人気者になるに違いない。

しかし この公演の一番の華は なんと言ってもスカルピアだ。ものすごく悪い奴。腹黒く 表は冷酷無情 裏では色欲物欲に目のくらんだ 俗物中の俗物。最低の最低の最低の奴。卑怯でムシズの走る男。こんな奴に触られでもしたら、思わずヒステリーを起こして殺してしまいそう、、、本当に こんな男を絵に描いたような男をバリトン歌手が 歌って演じた。もとソ連いまはジョージア出身のジョージ ガグニッゼだ。太ってギョロギョロ目で二重顎 本当に憎憎しい。彼がブランデーグラスを片手に、金で買った3人の娼婦たちと戯れながら 歌う。これがみごとだ。みごとに いやらしい。
娼婦達は 薄く透けて見えるガウンに 身に着けているのはGストリングだけ。おしりも乳房も出しっぱなしで 「え、、これオペラだったかな」と心配するほど妖艶に これでもかこれでもか とばかり挑発的で扇情的なポーズを取る。日本公演でも これをやるだろうか。ちょっと心配。
ともかく 今回の悪役スカルピアは 大成功。「トスカ」は ヴィデオでも舞台でも何度も観ているが、これほどピカイチのスカルピアを他に見たことがない。バリトンの太ぶとしい音までもが 憎憎しく聴こえる。ものすごく上手だ。これほど悪役を演じることができる人の才能に拍手。

メトロポリタンオペラの公演をネットで見ていたら、ソプラノだけを替えて、彼らがテノールとバリトンのコンビで 「トスカ」を何度も演じていることがわかった。絶妙のコンビ、ということだろう。マルセロ アルヴァスと、ジョージ ガグニッゼ、ちょっと忘れられない 良い歌手たちだ。

衣装の豪華さ。舞台の洗練されたセンス。優秀な歌手たち。メトロポリタンオペラの贅沢さに、身を浸して 満ち足りた日曜の午後を過ごした。

2011年9月10日土曜日

第7回 ラグビーワールドカップが始まった




第7回 ラグビーワールドカップが始まった。
マオリの武闘ダンスなど、ど派手な開会式のショーのあと、第一試合 ニュージーランド対トンガ戦が行われ、予想どうり41対10で、オールブラックスが圧勝した。トンガの選手達の立派な体格、体重130キロの選手が弾丸のように走る。素晴らしく力強い試合だった。激しい格闘技なのに、ペナルテイがわずか という紳士的な良い試合だった。
試合前日 トンガチームがニュージーランドの空港に着いたとき ニュージーランドに住むトンガの人々6000人が出迎えた という。

世界中から 10万人のラグビーファンが ニュージーランドに集まってきている。開催国のニュージーランド オールブラックスは 何が何でも優勝しなければならないから 今 ものすごい嵐のようなプレッシャーの中に居ることだろう。もちろん、オーストラリアのワラビーズも 優勝候補だ。でもワラビーズは もうワールドカップで 2回優勝しているので、今回は ラグビーで世界最強のエリスカップをオールブラックスに もっていってもらいたい。

出場20カ国は 5カ国ずつ4つのグループに分かれて 総当たり戦を戦い それぞれのグループ上位2カ国が、決勝トーナメントに出て 世界最強国が選ばれる。

日本は この4年に一度開催されるワールドカップに 第一回戦1987年から連続参加している。日本チームのいるAグループには オールブラックスが居り、他にフランス、トンガ、カナダがいる。
ワラビーズの居るCグループは アイルランド、イタリア、ロシア、アメリカの5カ国だ。

1987年の第一回ワールドカップは オーストラリア、ニュージーランド共同で開催され、オールブラックスが優勝、第二回は イングランドで行われ ワラビーズが優勝、第3回は南アフリカ開催で、南アフリカが優勝した。この ネルソン マンデラのスピーチで始まった感動的なワールドカップは、クリント イーストウッドの監督した映画「インビクタス」で描かれた。第4回は ウェールスで開催され、再びワラビーズが勝ち進み、第5回はオーストラリアで開催されて、イングランドが勝ち、前回はフランスで開催されて、南アフリカが優勝した。

観戦できるスポーツのなかで 何が一番好きかと問われて、躊躇なく「それはラグビー」と 答えることが出来る。その点だけが 吉永小百合と共通している。、、、? 
父がラグビーを好きだった。
毎年 正月に行われる6大学戦で最後に残った優勝戦が 早慶戦になることが恒例だった頃 子供時代を過ごした。父はラグビー部の顧問教授の中に名前だけ連ねていた時期もあったから 直接観戦できる席が用意されていたのに、いつも家で子供達と一緒に観戦していた。子供心に 真冬の凍った土を蹴散らしながら 肉体と肉体がぶつかりあう激しいスポーツに、他の野球などにはない醍醐味をみて惹かれていた。

死んだ夫もラグビーファンだった。子供が出来るまでは、正月は二人で厚着をして よく球場に観に行った。昔のデモ仲間のあいだで ラグビーチームがあることを聞いて 頼み込んで夫をチームに入れてもらった。シャツもスパイクつきの靴も買い揃えて 嬉しそうに走っていた。背ばかり高くて 筋肉のついていない体に スクラムは全然似合わなかったが 全体のチームの動きを的確に見ていて よくボールを取ってパスしていた。徹夜続きの忙しい仕事の合間に、よく続けたと思う。履き潰すほどには 活躍しなかったスパイクシューズを 沖縄転勤、レイテ島転勤と、赴任先が変わるごとに 大事に持ち歩いていた。もっと若い頃は 熊谷組に居て 野球の選手だったので、野球のユニフォームや帽子やシューズも大きな箱に入れて大事にしていた。

二人の娘とニュージーランドに滞在していたとき、「ラグビーやらない奴は男じゃない。」と、水道工事のオッサンから 哲学者で もの静かな教授までが 真顔で言うのを何度も聞いた。
ラグビーは自分の力でボールを抱えてゴールを突破しなければならない。足で蹴ったボールがネットに入るか 偶然性の高いサッカーと異なる。強い立ち塞がる相手チームの壁を実力で崩し 前進しなければ何も始まらない。加えて気が遠くなるほど広いフィールドを 80分という 長い試合時間を走り続ける。頼みは スクラムの強さと逃げ切る足の速さだ。
オールブラックスには 体重が100キロ以上あるのに、100メートルを10秒で走る選手が何人も居る。オールブラックスは 国の誇りでもあるのだ。

オーストラリアに16年住んでいて ワラビーズの活躍ぶりにも目を奪われる。単純に体が大きくて 水牛のように強ければ良いのではない。今年まで 日本のサントリーサンゴリアスで活躍していた ジョージ グレーガンの小柄だが的確に見方にパスを出す頭の良さ 機敏性、走りこむ速さは驚異的だ。彼の動きを見ていると いかに総合的な力がラグビーにとって大切かが わかる。
オールブラックスやワラビーズの激しい格闘技としてのラグビーを見慣れた目で 改めて日本の試合を見ると、体が華奢で、スピードが遅く 試合後半になるとダレてくることが とても気になる。お決まりのように、テレビ解説者とスポーツアナウンサーが、後半戦になると、「選手たちが疲れてきました。」と繰り返す。80分間 走り続けられないなら ラグビーなんかやるなよ と言いたくなる。国際試合を本当に勝ち抜きたかったら、大量の肉だけ集中して食べて体作りをすることも必要ではないのか。
ワールドカップには、「後半戦です。選手は疲れてきました。」も、「倒れています。魔法の水を持ってきました。」などもない。2試合続けてできるくらいの体力のある選手達の立ち塞がる厚い壁を破り、前に進まないとトライを決められない。

今日は 日本対フランス。
第一回大会から招待を受け 毎回出場しているとても名誉な日本チーム。アジア最強チームの全日本ラグビー。 勇気をもって ぶつかっていってもらいたい。