真夏のシドニー名物「オープンエア シネマ」に娘に連れて行ってもらった。
とっぷり日が暮れた頃に、オペラハウスとハーバーブリッジが真向いに見える景観の良い岬の高台で、シャンパンやワインを飲みながら、最新映画を見る。仮設された観客席には限りがあるし、強風や嵐になるとキャンセルされるから 限られたチケットは 売りに出されたとたんにネット上で、売り切れになる。
このシドニーの野外シネマというと、日本でいえば、真夏の甲子園とか、真冬のラグビー日本一とか、東京ドームでのジャイアンツ戦みたいなもの。これぞシドニーライフ、という感じ。行ってみて初めてその良さがわかる。行ってみないとわからない。シドニーに来る人、みんなに勧めたい。
このときは ゆっくりと日が暮れて、あたりが暗くなり、ハーバーブリッジや まわりの高層ビルに灯りがともり、たくさんの光をデッキにつけた豪華船が出航していくのを見送りながら、娘の機転でそろえてくれた寿司にシャンパンを傾ける。やがて、あたりが真っ暗になり、海上から真っ赤なスクリーンが重そうに、立ち上がってくる。出し物は、最新作、トルストイ原作の「アンナ カレリーナ」だ。レフ トルストイが、1873年に 執筆を開始した、「戦争と平和」に並ぶ彼の代表作。ロシア革命の父、レーニンが愛読し、ドストエフスキーも トーマス マンも絶賛した長編小説。
映画では 古くは1930年代に、グレタ ガルボが主演。さすがに これは見ていないが、1948年のヴィヴィアン リーが主演した作品と、1967年のロシア映画のアンナ カレリーナと、1997年に英米合作で初めて 全部ロシアで撮影されたソフィー マルソーのアンナ カレリーナを観ている。ヴィヴィアン リーの1948年版は 白黒映画なので、ロシアツアーリズムの中での貴族社会の重厚さ、歴史の重みがよく出ていて ヴィヴィアン リーの意思をもってこの時代の勢いに逆らって生きる女の強さと それが、音を立てて折れるようにして死んでいく姿が無残で、忘れられない映画になった。
グレタ ガルボ、ヴィヴィアン リー、ソフィー マルソーと、世界の美女が演じて生きたトルストイの名作。最新作のケイラ ナイトレイは、ではどうだっただろうか、、。かなり がっかり。おちゃらけていうと、「あんな カレー二ナ?」という感じ。ナイトレイは、ただの可愛い子ちゃんでしかない。エラが出ていて顎が細い分、発音が口先だけになってしまって 声に奥行がない。舌先でペラペラしゃべるだけのせりふには 重みも品格もない。彼女は海賊にはなれても、ロシア貴族にはなれない。完全にミスキャストだ。トルストイの大悲劇の名作が ただのメロドラマになってしまっている。1874年の貴族社会が背景なのに、衣装だけが豪華で お尻も胸もない 貧相な体形のナイトレイが 若い男を追いかけるだけのドラマ、、これでは、シャネルも泣いているだろう。次から次へと衣装が変わるたびに ナイトレイが身に着けている宝石は全部 シャネルから貸与されている超豪華品ばかり。宝石にはよだれが出るが、女優の細い首には重そうで 気の毒になる。自分の体にふさわしい宝石を身につけなさい というメッセージとして、しっかり受け取った。
ぺテルスブルグに住む政府高官アレクセイ カレー二ンの妻、アンナは18歳で嫁いで すでに9歳の息子がいる。兄に会いに、モスクワ来たところで、貴族の将校、若いヴロンスキーに出会って、今までに感じたことのなかった気持ちの高まりを感じる。二人は恋に陥った末、出走。アンナはヴロンスキーの子供を産むが、夫は、離婚に応じない。夫、カレー二ンに味方する社交界は アンナとヴロンスキーの不品行を認めず、社交界から締め出し、アンナは失意のうちに生きる目的を失って、列車に身を投げる。
アンナの恋の物語と同時に、アンナの兄嫁の妹、キテイに求婚する善良な地方の地主 リョーヴィンとキテイの話が 同時に並行して語られる。虚飾に満ち腐敗した貴族社会がある一方で、農村で実直に生きるリョービンの生き方を対比させ トルストイ独特の「より良い人間として生きるには、、、」という’命題が提示されている。
初めてアンナが 将校ヴロンスキーに会った翌日、ひとりぺテルスブルグに帰る汽車の途中駅で、胸のざわめきを抑えようとしてアンナが、雪のプラットフォームに出る有名なシーンがある。蒸気機関車の煙が消えると、そこに、居てはならないはずの男 ヴロンスキーが立っている。驚愕するアンナ。この大事なシーンは、映画史上でも有名シーンのひとつで、例えば、「カサブランカ」で、イグリッド バーグマンが ハンフリー ボガードの部屋に再び姿を現して「待った?」と聞くシーンがある。このシーンは カップラーメンのコマーシャルにもなった。あるいは、「アンタッチャブル」の駅の階段から乳母車が転げ落ちてくるシーンとか、「サイコ」のシャワーシーンとか、「アンナ カレリーナ」の汽車に身を投げるシーンみたいな 映画にとって大切で、印象的なシーンだ。
1997年のソフィー マルソーは、プラットフォームで、ショーン ビーン演じるヴロンスキーを認めると「WHAT ARE YOU DOING HERE?」と言うけれど、なんか、英語だと情緒もへったくれもないんだ、と思ったものだ。今回のケイラ ナイトレイは、ヴロンスキーを見た途端、もう早くも あなた大好きモードの涙目で、一度ダンスを踊っただけの中なのに、ウルウルの目で どうして私についてきたの?それならトットと一緒に’駆け落ちしましょ、、なのだ。どこまでも軽い現代的と言うべきか。
アンナがヴロンスキーの子供を産んだ直後、産褥熱に浮かされて、ヴロンスキーの愛と保護の真っただ中に身を置きながら、アンナは夫に「わたしは今死にそうなの。最後に許すと言いに、会いに来て。」と手紙を書く。で、、、 サッサと産後回復すると やってきた寛大な夫に「わたし、死ななかったけど、ごめんなさい。やっぱりヴロンスキーを愛しているの。」と言うが、ここで、一緒に映画を見ていた観客が大爆笑した。わたしも その様子を見ていて笑ったけれど、ケイラ ナイトレイは ここで喜劇を演じているとは思っていなかったろう。ヴィヴィアン リーがここで この台詞を言っていたら それを見ている人にも納得させてしまう力のある演技ができていただろう。残念。すくなくとも ここは爆笑シーンではなかったはずだ。日本語訳では、どうなるのだろう。
妻に裏切られるカレー二ンを演じたジュード ロウが、とても良かった。一度も声を荒げることがない。論理的にアンナを説得してもとに戻そうと 最後まであきらめない。誠実な人柄を表すように 抑えた低い声で語りかける。よき夫、よき父親で、繊細な神経をもった紳士。
ヴィヴィアン リーがアンナを演じたときの夫役や、ソフィー マルソーの時の夫役は、冷酷でしつこい嫌な夫だったので、アンナに共感したが、ジュード ロウが演じたような夫では、妻が、どうしてこんな良い人を捨てて突っ走ってしまったのか、全然、人を納得させることができない。
「演じる」ということの 難しさを改めて認識させられる映画だった。
ヴロンスキー役のアーロン テイラー ジョンソンは、2009年の「NOWHERE BOY」で、若い頃の、ビートルズのジョンの役を主演した。幸せではなかった少年時代のジョンが、母親と叔母のもとで育ち、ポールとジョージに出会うまでの、心の軌跡を描いた映画。多感で繊細なジョンを好演していた。この映画では、母親のヴロンスカヤ伯爵夫人に叱られてうなだれる姿や、アンナが死んでしまうと思って泣きじゃくる姿が可愛らしい。B級映画「キック アス」でも主演していたが、実力がある。これからが楽しみな役者だ。
映画の手法が新しい。
スピードのある回り舞台を観ているようだ。登場人物が歩きながら背景が 勝手にどんどん変わっていく。シーンごとの移動を これまでのフイルムのように 場面を変えることをしないで、背景を変える。役者たちは舞台の上を動きながら役を演じていて、スピード感がある。とてもおもしろい試みだ。美しい舞台を観ているような、とてもアートな作品だ。
ぺテルスブルグに住む政府高官アレクセイ カレー二ンの妻、アンナは18歳で嫁いで すでに9歳の息子がいる。兄に会いに、モスクワ来たところで、貴族の将校、若いヴロンスキーに出会って、今までに感じたことのなかった気持ちの高まりを感じる。二人は恋に陥った末、出走。アンナはヴロンスキーの子供を産むが、夫は、離婚に応じない。夫、カレー二ンに味方する社交界は アンナとヴロンスキーの不品行を認めず、社交界から締め出し、アンナは失意のうちに生きる目的を失って、列車に身を投げる。
アンナの恋の物語と同時に、アンナの兄嫁の妹、キテイに求婚する善良な地方の地主 リョーヴィンとキテイの話が 同時に並行して語られる。虚飾に満ち腐敗した貴族社会がある一方で、農村で実直に生きるリョービンの生き方を対比させ トルストイ独特の「より良い人間として生きるには、、、」という’命題が提示されている。
初めてアンナが 将校ヴロンスキーに会った翌日、ひとりぺテルスブルグに帰る汽車の途中駅で、胸のざわめきを抑えようとしてアンナが、雪のプラットフォームに出る有名なシーンがある。蒸気機関車の煙が消えると、そこに、居てはならないはずの男 ヴロンスキーが立っている。驚愕するアンナ。この大事なシーンは、映画史上でも有名シーンのひとつで、例えば、「カサブランカ」で、イグリッド バーグマンが ハンフリー ボガードの部屋に再び姿を現して「待った?」と聞くシーンがある。このシーンは カップラーメンのコマーシャルにもなった。あるいは、「アンタッチャブル」の駅の階段から乳母車が転げ落ちてくるシーンとか、「サイコ」のシャワーシーンとか、「アンナ カレリーナ」の汽車に身を投げるシーンみたいな 映画にとって大切で、印象的なシーンだ。
1997年のソフィー マルソーは、プラットフォームで、ショーン ビーン演じるヴロンスキーを認めると「WHAT ARE YOU DOING HERE?」と言うけれど、なんか、英語だと情緒もへったくれもないんだ、と思ったものだ。今回のケイラ ナイトレイは、ヴロンスキーを見た途端、もう早くも あなた大好きモードの涙目で、一度ダンスを踊っただけの中なのに、ウルウルの目で どうして私についてきたの?それならトットと一緒に’駆け落ちしましょ、、なのだ。どこまでも軽い現代的と言うべきか。
アンナがヴロンスキーの子供を産んだ直後、産褥熱に浮かされて、ヴロンスキーの愛と保護の真っただ中に身を置きながら、アンナは夫に「わたしは今死にそうなの。最後に許すと言いに、会いに来て。」と手紙を書く。で、、、 サッサと産後回復すると やってきた寛大な夫に「わたし、死ななかったけど、ごめんなさい。やっぱりヴロンスキーを愛しているの。」と言うが、ここで、一緒に映画を見ていた観客が大爆笑した。わたしも その様子を見ていて笑ったけれど、ケイラ ナイトレイは ここで喜劇を演じているとは思っていなかったろう。ヴィヴィアン リーがここで この台詞を言っていたら それを見ている人にも納得させてしまう力のある演技ができていただろう。残念。すくなくとも ここは爆笑シーンではなかったはずだ。日本語訳では、どうなるのだろう。
妻に裏切られるカレー二ンを演じたジュード ロウが、とても良かった。一度も声を荒げることがない。論理的にアンナを説得してもとに戻そうと 最後まであきらめない。誠実な人柄を表すように 抑えた低い声で語りかける。よき夫、よき父親で、繊細な神経をもった紳士。
ヴィヴィアン リーがアンナを演じたときの夫役や、ソフィー マルソーの時の夫役は、冷酷でしつこい嫌な夫だったので、アンナに共感したが、ジュード ロウが演じたような夫では、妻が、どうしてこんな良い人を捨てて突っ走ってしまったのか、全然、人を納得させることができない。
「演じる」ということの 難しさを改めて認識させられる映画だった。
ヴロンスキー役のアーロン テイラー ジョンソンは、2009年の「NOWHERE BOY」で、若い頃の、ビートルズのジョンの役を主演した。幸せではなかった少年時代のジョンが、母親と叔母のもとで育ち、ポールとジョージに出会うまでの、心の軌跡を描いた映画。多感で繊細なジョンを好演していた。この映画では、母親のヴロンスカヤ伯爵夫人に叱られてうなだれる姿や、アンナが死んでしまうと思って泣きじゃくる姿が可愛らしい。B級映画「キック アス」でも主演していたが、実力がある。これからが楽しみな役者だ。
映画の手法が新しい。
スピードのある回り舞台を観ているようだ。登場人物が歩きながら背景が 勝手にどんどん変わっていく。シーンごとの移動を これまでのフイルムのように 場面を変えることをしないで、背景を変える。役者たちは舞台の上を動きながら役を演じていて、スピード感がある。とてもおもしろい試みだ。美しい舞台を観ているような、とてもアートな作品だ。