2013年12月24日火曜日

ダン ブラウンの 「インフェルノ」

            


ダン ブラウンが大好き。
彼の書くロバート ラングルトンが大好き。
ラングルトンほど素敵で、優れた観光ガイドは他に居ない。尽きることのない豊富な知識、過去の歴史をそらんじていて、ラテンを含む数か国語に通じていて、難解な暗号を読み解く。ハーバード大学教授だが、象牙の塔にじっとしていることなく行動派で、気が付くとインデイアナ ジョーンズなみに冒険の旅に出ている。フェミニストだが、女たらしではなく謙虚で紳士。いつもイニシャル入りの特注手縫いのハリス ツイードを着ている。男の魅力の塊みたいなロバート ラングルトンを生み出した作家、ダン ブラウンは1961年生まれのアメリカ人。父は数学者、母は宗教音楽家、妻は美術史研究者という。

2003年に「ダ ヴィンチ コード」の出版を機会に、世界的なベストセラー作家となり、その前に出版していたが売れていなかった、2000年「天使と悪魔」も 一挙にベストセラー入りした。ロバート ラングルトンシリーズ第一弾の、「天使と悪魔」は、キリスト教のイルミナリティ組織と、聞いたこともなかった科学技術の「反物質」が出てきたし、「ダ ヴィンチコード」では、レオナルド ダ ヴィンチの絵に隠された暗号を読み、イエス キリストの今まであまり語られることのなかった挿話が描かれた。2009年の「ロスト シンボル」では、フリーメイソン組織の秘密性を暴き出した。出版されたばかりの2013年「インフェルノ」は、ラングルトンシリーズの第4作目となる。10月に出版され、11月末に日本語訳で出版された。11月初めに予約してあったが、遅れて手元に着いたのは12月半ばになった。待ちに待った本だ。

2015年には映画化が決まっている。またラングルトンをトム ハンクスが演じるらしいが、原作に描かれているラングルトンは トム ハンクスよりもずっと魅力的な男で、作者ダン ブラウンの姿に近い。作者はハンサムで実にチャーミングな人だ。だから熱狂的なラングルトンファンはそのまま ダン ブラウンファンになって、両者を常に混同する。彼はインタビューで私生活を一切語らないマスコミ嫌いなので、ファンは一層 想像力をかきたてられてダン ブラウンをラングルトン以上のスーパーマンかバットマンのように思いがちだ。実際には、毎朝4時にはキーボードに向かい、お昼まで執筆を365日するし、10ページ書いては、1ページを除いて捨てるような地味な作家だそうだ。
今回の「インフェルノ」は、ダンテの叙事詩「神曲」第一部の「地獄篇(インフェルノ)」が、謎解きになって、地球の人口増加現象が語られる。ラングルトンは殺人者に追われながら フィレンツェ、ベネチア、イスタンブールを駆け回る。いつもの通り、美人の協力者と一緒だ。おもしろくてドキドキしながら650ページを一気に読める。

ストーリーは
ハーバード大学宗教象徴学教授ラングルトンは、目が覚めると頭に包帯、点滴でつながれてフィレンツエの病院に居る。どうして自分がイタリアに居るのか全く記憶がない。頭にぐるぐる巻かれた包帯は一体何だ。シエナ ブルックスと名乗る金髪の美しい女医に、自分に何があったのか、事情を聞いている内に、突然外が騒がしくなり病室のドアが開くと、シエナの同僚のマルコーニ医師が、突然闖入者によって撃ち殺される。とっさのシエナの機転で、ラングルトンはシエナのあとについて逃亡。バイクに乗った黒ずくめのプロの殺し屋の追跡をかわしながらラングルトンは、どうして自分が追われなければならないのか理由を考える。ラングルトンが何をしたというのだ。

シエナがラングルトンのハリスツイードのジャケットの裏地に縫い込まれた円筒を見つける。ダンテの「神曲」を描いたボッチチェリの「地獄の見取り図」だ。しかし、おかしなことに、この見取り図は、原画にない暗号がついていた。ラングルトンとシエナは暗号が何を指示しているのか、知るためにヴェッキオ宮殿に侵入、ダンテのデスマスクを盗み出す。シエナは驚くべき高い知能を持った女性で、何度も彼女の知恵と機転に助けられながら逃亡、銃口から逃れながら、なぜ自分の命が狙われるのか必死で考える。デスマスクにはさらに謎の暗号が仕組まれていた。それを解くために二人はサンタマリア デルフォーレ大聖堂、ベネチアに飛んでサン マルコ大聖堂を彷徨った末、目的地が、意外にもイタリアではなく、イスタンブールだったことに気が付く。しかし、追っ手によって二人は分断されてしまい辛うじてシエナを逃がしたラングルトンは、敵に捕獲されてしまう。シエナは、先にイスタンブールに向かう。しかし、殺し屋と思っていたラングルトンの追っ手は、実は国際機関WHO議長ドクター エリザベス シンスキーとそのチームだった。シンスキーは説明する。

スイスの大富豪で生化学者ベルトラン ゾブリストは地球上の人類から人口爆発を食い止めるために、生物化学兵器ともいえる病原菌を仕掛けた。ダンテの熱狂的ファンでもあるゾブリストは暗号で病原菌を隠した場所を暗示するだけで、自から死んでしまった。彼は1300年代にペストがヨーロッパの人口の3分の1を死に追いやったことで、生き残った人々が豊富な食料を得てルネッサンスの原動力になった歴史的事実を、高く評価していた。そして世界人口がこのまま増加すれば 資源も枯れ葉てて世界は滅亡するの違いないので、世界人口を3分の2に間引くため病原菌を仕掛けたという。この科学者の残したダンテにまつわる暗号を読み解いて一刻も早く病原菌を回収しなければ人類の危機に陥る。3日前にWHOからラングルトンは、病原菌を隠した場所を示す暗号を解くように要請されていたが、事故で記憶を失っていたのだった。

ラングルトンらの一行はイスタンブールに飛ぶ。ラングルトンの協力者だと思われたシエナは ゾブリストの恋人だった女で、ラングルトンが解いた暗号をさらに読んで、病原菌の隠された場所にすでに向かっている。ようやくのことで、ラングルトンが突き止めた病原菌の場所は、観光客に人気のスポットで、その夜はイスタンブール国立交響楽団がコンサートを開いていた。演奏曲目は、フランツ リストの「ダンテ交響曲」。病原菌がばらまかれるまで数時間しか残っていない。ラングルトンは、、、。
というお話。

ダン ブラウンを読ませる力は「知」への欲求だ。彼の本は、知の集積というか、ハーバード大学の講義を聴いているようなものだ。ラングルトンはいつも追われながら、世界各地にある建造物や美術品の歴史的価値や構造や特徴や現代における価値を説明してくれて、さらに今まで誰も述べてくれなかったような不可解な古代の象徴に秘められた暗号や、本当の意味や価値を読み解いてくれる。旅行者には興味があっても行ったり、触れたりすることができない奥の部屋や、地下や、からくりのあるドアや、天井の作りまで、ラングルトンが逃亡しながら足を踏み入れてくれるので、知ることができて、自分が前に訪れて、見て聞いた観光名所に さらに愛着が増す。
例えば、ミケランジェロのフィレンツエ、ヴェツキオ宮殿のミケランジェロの傑作「勝利」の像は、ローマ教皇ユリウス2世の墓を飾る為に作られたが、同性愛を憎んだユリウスの心情に反して、像のモデルはミケランジェロが長年愛したカヴァエーリという青年だった。ミケランジェロは彼のためにいくつものソネットを書いている。というエピソード。
またヴェネチアのサン マルコ大聖堂を飾る4頭の馬は、漆黒のオランダ馬フリーシアン種がモデルで歴史上最も盗難にあった美術品といわれる。無名のギリシャ人によって製作されたがビザンチン帝国皇帝によってコンスタンチノーブルに持ち出された。その後十字軍がコンスタンチノーブルを陥落させるとヴェネチアに運ばれて、1254年にサン マルコ大聖堂に設置される。そして500年後にナポレオンがヴェネチアを征服すると、4頭の馬はパリに運ばれて凱旋門を飾り、ナポレオンが破られると再び、ヴェネチアに運ばれた、というようなエピソードは、実際、この巨大な4頭の馬を観たことのある人には、たまらなく興味がわく。

ラングルトンが説明してくれたイスタンブールの「沈んだ宮殿」に上下さかさまに置かれているメヂューサの巨大な大理石でできた頭を一度見てみたい。360年に建造されて、東方教会となりモスクに変わり、いまはキリストも、アラーも、モハメドもいるという「アヤソフィア」も、是非訪れてみたい。こうして、ラングルトンが解説してくれる名所や建物は、本の出版後必ず人気の観光名所になるそうで、各国の観光相からどんなに感謝されてもしきれないだろう。
この本に出てくる、フィレンツエのサンタ マリアデルフォーレ大聖堂、天国の門、サン ジョバンニ洗礼堂、ダンテの家、サンタ マルゲリータ デイ チェルキ教会、ヴァザーリ回廊、、ヴェッキオ宮殿の五百人広間、ポルタロマーノ美術学校、ボーボリ庭園、ヴェキオ橋、ヴェネチアのムラノ島、サンタルチア駅、大運河、水上バス、などなどラングルトンの解説は 月並みな旅行解説本と違っていつも興味を倍増させてくれる。ラングルトンを、「走り回る旅行ガイド」と言った人が居たが、的を得ている。
とにかく面白い。
「ダヴィンチコード」に比べると、驚きは少ないが、充分満足だ。

2013年12月19日木曜日

映画 「リスボン行き夜行列車」

                            


原題:「NIGHT TRAIN TO LISBON」
監督:ビル オーガスト
原作:パスカル メルシェル
キャスト
レイモンド  : ジェレミー アイアンズ
ステファ二ア:メラニー ローレント
アマデウ  :ジャック ハストン
アドリアナ :シャーロット ランプリング

ストーリーは
舞台はスイスの美しい街 ベルン。
ラテン語学者の高校教師レイモンドは、何年も前に妻が出て行ってから、毎日判で押したように平凡で何の変化もない生活をしてきた。朝起きて、高校で講義をして、帰宅してから眠るまでの間、ひとりチェスを楽しみ、毎晩決まった時間に床に就く。何の変化もないひとりの生活に、何の不満もない。

ある雨の降る朝、いつものように高校に向かう途中の橋の上で、赤いコートを着た若い女が橋の欄干に立ち、いまにも身を投げようとしているところに出くわした。レイモンドは夢中で走っていき、女を抱きかかえて急場を救う。放心したままの女は、そのままレイモンドの後をついてきて、彼が講義をする教室に入ってきて、レイモンドに言われるまま席に着く。しかし、女は、しばらくすると脱いだ赤いコートを置いたまま無言で教室を出て、姿を消す。慌てて、レイモンドはコートを掴んで、あとを追うが女の姿を失ってしまう。コートのポケットには、一冊の本が入っていた。ポルトガルの哲学者で詩人だったアマデウ ド プラドの本だった。そして、その本にはリスボン行の汽車の切符が挟まれていた。期日を見ると、あと15分で出発する切符だった。レイモンドは、そのままプラットホームに向かう。しかし、切符を買った主はやってこない。川に飛び下りて死のうとしていた女は現れない。レイモンドは迷った末、そのまま汽車に乗り込んでしまう。

アマデウ ド プラドは医者だったが、彼が書いた本は、きわめて哲学的な深い思索に富んだ内容で魅力に満ちていた。美しい詩的な文体で自己哲学を語っている。レイモンドは、本に引き込まれるようにして読んだ。読めば読むほど、アマデウの生涯に興味がわいてくる。この作者と身投げしようとしていた女とは、どう関係があるのだろうか。本の出版先はアマデウの自宅になっている。レイモンドはリスボンに着くと、宿をとり、さっそくアマデウの家を訪ねる。出てきたのは、アマデウの姉だった。アマデウは生涯でたった1冊、この本を書き、それを100部しか出版しなかったという。しかしアマデウのことを語る姉の口は重い。あたかも、アマデウの生涯が秘密だとでも言っているようだ。結局大した情報を得られないままホテルの帰る途中、レイモンドは自転車に衝突して眼鏡を割ってしまう。眼鏡屋で、新しい眼鏡をあつらえるあいだ、検眼士のマリアに、アマデウについて語る。するとマリアが意外なことに自分の叔父がアマデウと親しかった、という。

レイモンドはマリアについて、老人ホームにいる叔父に会いに行く。しかし、叔父はアマデウの名前を聴いただけで 怒り狂って二人をホームから追い出す。レイモンドはアマデウを生涯を調べるために、アマデウのかつての教師でその葬式を行った神父に会い、その糸口から彼の親友だった薬剤師を訪ねる。しかし、みんな一様にアマデウと聞くと、口を閉ざし、何も語ってくれない。過去に何があったのか。
徐々にわかってきたことは、レイモンドが会って話を聴こうとした人々がみな、アマデウも含めて、むかしのアントニオ サラザール独裁政権のときの地下活動家だったことだ。そして、ついにレイモンドは一人の女を同時に愛した活動家たちの、語りようもない苦い経験に、たどり着いたのだった。レイモンドの前に赤いレインコートで身投げしようとした女が現れる。彼女はアマデウの孫だった。
事情がすべて解明できて、レイモンドはやっと 重い荷物を下ろしたような気持ちになって、スイスに戻るために準備をする。アマデウの謎ときに、ずっと付き添って、道案内やレイモンドの力になって支えてくれたマリアとも別れの日が来た。リスボン駅で、汽車に乗る前、マリアに何と言ってよいかわからず言葉が出ないレイモンドに向かって、マリアは言う。「あなたはここまで来たのよ。今度は私のために、どうしてここに留まってくれないの。」
というお話。

映画ははじめ、初老の男の退屈な日常を延々と映し出す。そして、画面が突然、橋から飛び降りようとしている真っ赤なコートを着た女に変わる。ここから急に、画面のテンポが速くなり、ミステリーのはじまり、はじまり、、、という流れが出てきて見ているのが嬉しくなる。レイモンドが慣れない外国で地図を見ながら探し当てる人々が、みんな影のある人たちで、多くを語らない。そこに観客は引きずり込まれてしまう。なぞがいっぱいで、おもしろくてわくわくする。出だしも、ストーリーの広がり方も良い。
ところが期待させてくれた割に、結論が貧弱でがっかり。作者は飽きっぽい人なのではないだろうか。次々に登場人物を出してきて話が広がっていくあいだは、興味津々だが、あと200ページくらいで徐々に結論に導いていかなければならないところを、だんだん面倒になってしまい20ページで終わりにしてしまった という印象なのだ。とても残念。
推理小説も読んでいるときが一番幸せだ。犯人はあれでもない、これでもない、事件をこうしてみるのがよいのかどうなのか、と、考えながら注意深く読み進めるときの嬉しさ、わくわく感に比べたら、結論が出てしまったあとの推理小説ほどばかばかしいものはない。この映画がまさに、それだ。ミステリーぽいのに、ただのメロドラマだった、というがっかり感は大きい。ミステリーとしてもロマンティックストーリーとしても、中途半端で成功していない。

リスボンの街がとても素敵だ。石畳の狭い道路。石造りの家々。重い木の扉。清楚な教会。こんな素敵なところで、ひと夏過ごしてみたい。

この映画に登場する役者が良い。ヨーロッパでむかし活躍した役者たちが良い年を取っていて次々と出てくる。トム コートナイ、ブルーノ ガンズ、クリストファー リー、ジョージ オークレー、シャルロット ランブリング、みんなすっかり年を取った名優だ。この映画の良さはストーリーや映像の出来上がりよりも役者の良さでもっている。
主演のジェレミー アイアンズがとても良い。66歳、シェイクスピア舞台俳優出身。端正な顔が年を重ねて、より知的で思慮深い顔になっている。学者で、ひとつわからないことが出てくると解明できるまでとことん追う、追っている間はそのことしか頭にない。まわりのことに一切お構いなしといった学者肌の、常識外れでどうしようもない男を上手に演じている。そんな無防備で子供みたいな男に魅かれるポルトガルの女も良い。
ジェレミー アイアンズは、アムネステイーインターナショナルの活動家でもある。いくつかの映画の音楽を作曲したり、監督したりもしていて、ピア二ストでもある。66歳のいま、47年間獄中で死刑囚として収監されている被告の再審要求と、死刑制度廃止を訴えてメッセージを世界中に送っている。
http://www.youtube.com/watch?v=35Jp03rm2KY&feature=share

2013年12月12日木曜日

映画 「木洩れ日の家で」

                                                             

ポーランド映画
原題:「TIME  TO  DIE」
監督: ドロタ ケンジェジェアフスカ
キャスト
アニエラ :ダヌダ シャフラルスカ
息子   :クシシュトフ グロビシュ
孫娘   :バトルイツィヤ シェフチク
ドストエフスキー:カミル ビタオ
公証人 :ヴィトルト カチャノフスキー
犬    :フラデルフィア (フィル)

 ストーリー
ワルシャワ郊外。大きなアカシアの木々に囲まれた広い庭を持つ木造の屋敷がある。戦前から建つ大きな二階家だ。1915年生まれのアニエラは、この屋敷で生まれ育ち、結婚し、息子を育て、夫に死なれ、息子が巣立っていくのを見送った。そして今は、一人で、愛犬フィルと暮らしている。共産主義の時代には、国から強制的に屋敷の一部を取り上げられて、別の家族に家を提供しなければならないこともあったが、今は一人きり、フィルを相手に、静かな余生を過ごしている。家を改造して息子の家族と住むことを申し出たが、嫁が嫌がるという理由で、すげなく断られている。隣の家では、成金の男が愛人を囲っていて、家が狭いので、アニエラの家を買い取りたいと、不動産屋を通して圧力をかけてくる。礼儀を知らない下品な人達で、若い女はお化けのようなグレートハウンドを飼っている。

自分は90を超えて老い、息子は自分を疎んじて訪ねてこないし、健康に不安もある。しかし、2階のサンルームで、フィルを相手に話をしたり、双眼鏡で隣近所の出来事を覗き見したり、思い出に浸ったりして、退屈することはない。ただ、唯一の望みは そのサンルームで淹れたての熱いお茶を飲むことだ。自分が台所で淹れたお茶は、二階のサンルームまで運んできて飲もうとすると、すっかりぬるくなっていて香りもなくなっている。仕方なく、アニエラは、リキュールに手を伸ばす。

もう一方の隣の家では、若い夫婦が、貧しい子供たちを集めて音楽学校を開いている。朝から下手なトランペットの合奏などを聴かされて、そのやかましいこと。でも子供たちがショパンのワルツに合わせて、ダンスをしているところなど、双眼鏡で覗き見れば、自分が若いころに夫と踊った思い出に浸ることもできる。悪戯さかりの子供たちが 壁を伝って、ア二エラを覗きに来たり、むかし息子が遊んだ庭のブランコに乗りに来たりする。

ある夜、ベッドの横で眠っていたフィルが、異様な吠え方をするので、アニエラが起きてみると、息子夫婦が隣の成金の家を訪ねていて、4人が談笑しているではないか。息子は訪問を終え家の前に停めていた車まで歩いてきて、嫁と話をしている。息子は母親の家を無断で、隣の人に売り飛ばそうとしていたのだった。たった一人の愛する息子が、内密に、アニエラの家を横領しようとしている。同居を拒否しながら、家を売って、金もうけをしようとしている息子。小さい時から、欲の深い、思いやりのない子供だった。たった一人の孫まで、アニエラのつけている、指輪を欲しがるばかりの可愛げのない孫だった。

アニエラは怒りに震え、悲しみ、そして絶望する。喪服に身を包み、死を迎えるためにベッドに横になる。でも、期待通りに死は訪れない。そして、アニエラは自分が人生の終末期にいる自分に、何ができるだろうか、と考えて、ある決意をする。公証人を呼び、貧しい子供たちを集めて音楽教室を開いている若い夫婦に家を譲る契約をする。家を貧しい子供たちのために解放するのだ。アニエラの望んだとうり、子供たちが引っ越してきた。やかましいが、活発な子供たちによって、再び古い屋敷は活気を取り戻す。アニエラは満足して、サンルームでフィルと、何事もなかったように寛いで、、、。
というお話。

2007年に、ポーランドで活躍する女性監督 ドロタ ケンジェジャフスカによって製作され、2011年に日本の小劇場でも公開された作品。オーストラリアでは公開されなかったので、ヴィデオを日本で買ってきて観た。当時91歳だったダフタ シャフラルスカが主演して、話題になった。
この気品ある女性に美しいこと。小柄で華奢だが、姿勢が良くてローヒールの靴を履いて、柔らかなワンピースを着ている姿など、ほれぼれする。単調なひとりきりの生活のなかでも、双眼鏡で世間の動きをしっかり見ていて、好奇心を失わないでいる。訪ねて来た息子には、つい小言ばかり言ってしまうが、心ではとても息子を愛している。太って大柄になった無口な息子の後ろ姿に、一番可愛いかったころ自分をいつも頼ってくれた幼い日々の息子の姿を、重ねて見ている。憎まれ口しか言わない孫娘にも、深い愛情を抱いている。
そうした愛がすべて裏切られたと、知った時の衝撃は、まさに自分を死に追い込むしかないような耐え難いことだったに違いない。しかし、まだ自分に人のために役立つことができる、と思い至ってからのアニエラの別人のような生き生きとした姿に変わる。二つの大戦を経て、ポーランドの過酷な歴史を見て来たアニエラには、不屈の魂が宿っているのだ。
アニエラは欲深い息子家族を見限ることによって、将来のある子供たちの笑顔と喧噪と活気そして生きる活力を得た。品のない。思いやりのない肥満体の孫よりも、年寄りを大切にする貧しい子供たちという大きな家族を迎える、というか賢い選択をした。立派な決断。

映画の主役は91歳のアニエラと愛犬フィルだが、このフィルが素晴らしい。黒と白のボーダーコリーで、本当にアニエラの飼い犬としか思えない名優ぶり。いやな不動産屋が家に入り込んで来れば、猛然とほえたてて家から追い出すし、電話が鳴っていて足取りの遅いアニエラが間に合わないとわかると、走って行って飛び上って受話器を外すことができる。アニエラが話しかけると、耳を立てて、しっかり聞いてくれる。ベッドからアニエラが話しかけると、体を床に伏せたまま、目をアニエラに向けて、しっぽだけで返事をして振って見せる。アニエラを注意深く見つめて話を聴こうとしているフィルは、主人の飼い犬というよりも人生のすぐれた伴侶だ。犬の良さをすべて兼ね備えたフィルの表情の豊かさ。素晴らしい犬。

映画が始まったばかりの時に アニエラの独白がある。「ああ、いま熱いお茶があったらば、もう他に何も要らないのだけど、、。」という。自分が台所で淹れたお茶は、二階のサンルームに運んできたころには、すっかり冷めて香りもなくなってしまう。誰かがここに居て、アニエラのために熱いお茶を淹れて持ってきてくれたら何にも代えがたい、と自分の孤独を嘆くシーンがある。これが映画の終末のシーンを暗示している。アニエラの屋敷が、貧しい子供たちの音楽教室になってから、一人の男の子が、不注意でアニエラのお気に入りのテイーカップを、落として割ってしまう。この男の子は、アニエラに叱られるのを承知で 別のカップに熱いお茶を淹れてサンルームに持ってくる。ガラス窓を通して安楽椅子に座るアニエラの腕が見える。呼びかけても返事がない。足元にいたフィルがアニエラを眠っていると思って揺り動かす。そしてフィルは何が起こったのかを知る。フィルはガラス窓ごしに、男の子に向かってじっと目を合わせる。その目は何が起こったのか 男の子に伝わった。フィルと男の子とが見つめ合うことろで映画が終わる。

犬の目がすべてを語り告げているところも、感動的だが、それを受け止める無垢な子供のやわらかい心の痛みが表情からしっかりと伝わってくる。これほど優れた終わり方をする映画、他になかったように思う。この最後のシーンだけのために、この映画を観る価値がある。犬をよく知っている人には、号泣ものだ。子供好きの人にも胸をかきむしられることだろう。素晴らしい映画。犬と子供とおばあさんが好きな人には必見の名作だ。
黒白の画面なので、光と影のコントラストが明確で、色彩がないゆえに実際よりも豊な色彩を感じられる美しい映画だ。


2013年12月7日土曜日

2013年に観た映画 ベストテン

                     

第一位:「華麗なるギャツビー」
第2位:「ザ ロケット」
第3位:「舟を編む」
第4位:「シルク ド ソレイユ彼方からの物語」
第5位:「ライフ オブ パイ」
第6位:「コンチキ」
第7位:「キャプテン フィリップス」
第8位:「アンナ カレ二ナ」
第9位:「リンカーン」
第10位:「アイアンマン 3」

今年は映画の不作年だった。新作映画を50本ほど観たが、印象に残る作品が少ない。2012年に観た映画ベストテンと比べてみると それがよくわかる。
 

       第1位:「HUGOの不思議な発明」
       第2位:「最強の二人」
       第3位:「J エドガー」
       第4位:「レ ミゼラブル」
       第5位:「ル オーブルの靴磨き」
       第6位:「アウンサンスーチー引き裂かれた愛」
       第7位:「人生の特等席」
       第8位:「ぼくらのラザール先生」
       第9位:「アメイジング スパイダーマン」
       第10位:「バットマン ダークナイトライジング」
これらの2012年に観た、どの作品もいまだに記憶に新しい。マーチン スコセッシ監督の「HUGOの不思議な発明」は、映画史上に語り残される記念的な作品だったし、フランス映画の「最強の二人」も、クリント イーストウッド監督の「J エドガー」も、大型ミュージカル「レ ミゼラブル」も、昨日観たように、記憶に深く残されて、忘れられない。アキ カウリスマキのフランス映画も、「ぼくらのラザール先生」も、会話を最小限に削り取って、映像ですべてを語りつくした素晴らしい作品だった。また大型娯楽作品の「スパイダーマン」も、「バットマン」も、より良き人として生きたいと願う青年が正義のあり方に苦悩する姿が描かれていて、共鳴し共感することができた。
同じく、大型娯楽作品だが、今年のブラッド ピットの「ワールド ウオーZ」、トム クルーズの「オブリビオン」、「マン オブ スチール、スーパーマン」、マット デーモンの「エリジウム」、、、これらは一体何だろう。ヒーローでもなければ、ただの破壊者ではなかったか。正義も信義も人としての苦悩もない ただぶち壊して暴れまわる娯楽作品ばかり。派手に壊して痛快がる、というハリウッド映画がどうしても娯楽と思えない。精神の荒廃ではないか。心のどこかが病んでいる。観客のほとんどの人は、真面目に働いて、真面目に人を愛し、真面目に暮らしているのだから 真面目に良い映画を作って欲しい。

ハイデフィニションフイルムに収められたオペラを5本ほど 今年は映画館で観たが どれも良かった。ニューヨークメトロポリタンオペラも、ロンドンロイヤルオペラも、国立パリオペラも、資金繰りが大変だろうに、本当に良い舞台を続けている。ヨーロッパを起源にもつ600年の伝統をもつオペラを、私たちの次の世代に伝えていくことが、文化人の使命と考える人々の熱意と誇りが支えているのだろう。

第1位:「華麗なるギャツビー」
映画の説明と詳しい内容は、6月12日の日記に書いた。
村上春樹が そのアメリカンな文体の影響を受けた作家、F スコット フイッツジェラルドによる1925年の作品を映画化したもの。原作がよくできていて、感動的なので映画も素晴らしい。豪華絢爛 キラキラ輝いて贅沢で美しい映画だ。

第2位:「ザ ロケット」
映画の紹介は、11月14日の日記に詳しく書いた。
今年のベルリン国際映画祭、最優秀賞、アムネステイインターナショナルフイルム賞、シドニーフイルムフェステイバル オーデイエンス賞受賞。キム モルダウト監督のラオス映画。ラオスという世界で一番激しい爆撃を受けた国では、今も約50トンの不発弾が埋まっている。命の危険を顧みず不発弾から金属を抜き出して生計を立てている人が絶えない。そんな環境にもかかわらず、子供たちは一日一日を全身で喜びあい、笑い合い、悲しみを分け合って明日を強く信じて生きている。子供たちの前に進もうとする姿をして、戦争の愚かさを訴えた、優れた反戦映画。

第3位:「舟を編む」
11月23日に作品の紹介文を書いた。
日本の良さをギュッと缶詰に詰めたような映画。日本人独特の優しさ、労わり合い、あうんの呼吸で仲間が育つ環境、謙虚さ、職場のボスの部下に対する父親のような愛情、仕事への情熱、苦労を共にすることで育つ連帯と愛着、仲間のために無言で犠牲になる潔さ、新人が気が付かぬうちに職場の空気に染まっていく環境、夫を思いやり自分を決して主張しない妻、愛情の示し方が下手だが、心から妻を愛する夫、個を超えて共同体の中でこそ、自分たちの達成感、満足感を充足させる日本人の特性。熱すぎず、ぬる過ぎず、ぬくくて心地よい、温泉みたいな映画だ。そんな日本人であることが嬉しくなる映画。

第4位:「シルクドソレイユ 彼方からの物語」
2月26日に映画批評を書いた。
1958年からカナダを本拠に活躍するサーカス集団シルク ド ソレイユによる7つのラスベガス公演をカメラに収めて編集したもの。カメラに拘るジェームス キャメロン監督が自ら3Dのカメラを抱えて高所に登ったり、水に潜ったりして、動きの速いアクロバットを撮影した。素晴らしいおとぎ話に仕上がっている。人間にはこんなことまでできるのかという新鮮な驚きと感動の連続。本当に夢みたいに美しい舞台だ。

第5位:「ライフ オブ パイ」
1月4日に映画の紹介文を書いた。
これほど豊な色彩の美しい映像を観せてくれるとは、さすがに色彩の天才アング リーだけのことはある。16歳の少年パイが 海難事故に会い救命ボートに、生き残ったトラを一緒に227日間 漂流するお話。インドのまばゆいばかりの色彩のあでやかさと多様さ、色とりどりの花々、美しい動物たち、娘たちの匂い立つようなみずみずしさ、輝く海、大海の日の出と日没、果てしない海原、クジラやクラゲの美しさ、、、。ストーリーなどなくて良い。画面の美しさに目を奪われるばかりだった。

第6位:「コンチキ」
4月23日に映画評。
2013年アカデミーとゴールデングローブ賞候補作のノルウェー映画。ノルウェーの人類学者で冒険家のトール ヒェルダーの実話。彼は南太平洋のポリネシアの人々は、南米から渡ってきた民族であるという学説に至り、それを証明するために、イカダのコンチキ号で南米から南太平洋をめざした。102日かけて、海流に乗って7000キロの距離を航海し、ポリネシアのアモツ島に漂着、ポリネシア人の先祖がペルー人であることを証明した。のちに この学説はDNA検査などから後になって否定されるが、彼の行動力と、なしとげた業績が否定されたわけではない。一本気で行動派学者のヒェルダーの姿がいかにも偲ばれるバル ヘイゲンが好演している。

第7位;「キャプテン フイリップス」
ジャーナリスト出身のポール グリーングラス監督による2009年4月にソマリア沖で起きた海賊による貨物船船長人質事件をドキュイメンタリータッチで描いた作品。主演にトム ハンクスを配したところに映画として成功した鍵がある。たぶん、トム ハンクスの主演した沢山の映画の中で一番良い。100%キャプテン フイリップスに、なりきっている。幾度も生命を脅かされ、その度ごとに、これで一巻の終わりと窮地に追いやられる男の迫真の演技を見せる。最後の頃には恐怖感が最高潮までせり上がってきて見ているだけで呼吸をするのも苦しくなってくる。ドキュメンタリー監督の腕の見せ所だろう。
それにしても巨大なアメリカのタンカーを、ちっぽけなモーターボートでたった4人のソマリア人が襲撃する。そんな海賊たちが勇敢な上、物凄く頭も切れる。荒れる海を4人のソマリア人が巨大な壁のようなタンカーに向かって、少しもひるまず進んでいく姿が、すごい。4人のソマリア人の前に、大統領やペンタゴンや全米海軍、最新のヘリコプターや軍艦や大砲や重装備が何の役にも立たないで、5日間も引きずり回される姿は、痛快にも思える。訓練されたネイビーシールズ、狙撃兵たちも腰抜けにしか見えない。本当の闘いとは、莫大な資金をかけた装備や、最新の武器でもなければ、頭数でもない。信ずる者の強さではないだろうか。

第8位:「アンナ カレ二ナ」
2月18日に映画評を書いた。
ものすごくお金を使って製作された古典、1873年にトルストイによって執筆された世紀の恋の物語。たくさんの女優が演じたが、ケイラ ナイトレイのアンナは可愛らしすぎてミスキャストか。しかし、次から次へと出てくるココ シャネルの宝石も、19世紀のロシア貴族の豪華衣装も、だたそれだけ見ていて楽しい。舞踏会ダンスシーンや、ぺテルスブルグに向かうアンナを追うアーロン テイラージョンソンとの停車駅シーンも、ジュード ロウの夫役も、とても素敵。舞台の作り方が芸術的で、回り舞台をみているような新しい手法で、スピード感があって面白かった。

第9位:「リンカーン」
2月16日に批評を書いた。
リンカーンの伝記という地味で面白くもおかしくもない映画を、一級の役者で作った小品。リンカーン役のダニエル デイ ルイス、妻役にサリー フィールド、息子にジョセフ ゴードン レビット、盟友にトミー リー、、、これだけ贅沢な役者がそろえば、話の筋や内容などどうでもいい。役を演じる姿をみているだけで納得、良い芝居を観た、と感動できる。

第10位:「アイアンマン3」
5月19日に内容を書いた。
これでロバート ダウニー ジュニアのアイアンマンシリーズも終了した。彼がこれ以上アイアンマンスーツを着て、プレイボーイの億万長者を演じるのは、年齢から言っても無理がある。それにしても良い終わり方をした。有終の美というか、すべてのアイアンマンスーツを花火のように夜空に飛ばして爆発させて、彼はただの人間に戻った。「スーパーマン」とも「スパイダーマン」とも、「バットマン」とも違う、普通のオジサンっぽいメカ狂が、いちやくヒーローになってしまったが、やりすぎだったことをよく反省して、もとに人間に戻ってくれて、嬉しい。これで、安心して、ロバート ダウニー ジュニアのアイアンマンって、良かったよねーと過去のこととして話ができる。ほっとした。

2013年11月30日土曜日

島田荘司の「アルカトラズ幻想」

    


本の帯に「構想20年の渾身作」、と書いてある。さらに、それに続いて簡単な本の紹介があるので、書き写してみる。
「一九三九年十一月二日、ワシントンDCの森で、娼婦の死体が発見された。被害者は木の枝に吊るされ、女性器の周辺をえぐられていたため、股間から内臓が垂れ下っていた。時をおかず第二の事件も発生。凄惨な猟奇殺人に世間も騒然となる中、意外な男が逮捕され、サンフランシスコ沖に浮かぶ孤島の刑務所、アルカトラズに収容される。やがて心ならずも脱獄した男は、奇妙な地下生活に迷い込むー。」 
ということだ。作者、島田荘司は、御手洗シリーズなどで、人気のミステリー作家の大御所。私はミステリーは好きだが、女の体を切ったり、貼ったり、つなげたりする猟奇事件ものを 好んで読む人は、かなり重症の女性コンプレックスをもっていて、人格が歪んでいるんじゃないかと思うし、自分の体を試しに切ったり貼ったりつなげたりして見て、痛いことをよくよく経験してみたほうが良いのじゃないかと思うから、好きではない。でも、どうして この537ページの重い本をわざわざ日本から買ってきて読んだかというと、このミステリー小説の内容やストーリーに関係なく、中で、恐竜について古生学者の記述があると、知ったからだ。

子供の時から恐竜が大好き。
2億年前、ジュラ紀にどうして自分が生まれなかったんだろう。まだホモサピエンスは出てきていないけど、、。地球をドカドカ闊歩していたブラキオザウルスの背中に乗ったり、ステゴザウルスの頭の上に登ってみたり、翼竜を自家用小型飛行機代わりに使いこなしてみたりして、まだ噴火、爆発を繰り返す地球を生きて観たかった。飽きずに何時間も小学館の恐竜辞典の絵を眺めては夢見る子供だった。
ピーターポール&マリーの「パフ」では、リトルジャッキーは大人になって、遊び友達の恐竜パフのところに来なくなって パフは泣いて暮らしたと、言うが、確かにそうなのだ。恐竜の寿命は100年から200年。パフが 遊び友達を失って孤独を嘆くのも無理はない。

同じ恐竜でも、スピルバーグが1993年に製作した映画、「ジュラシックパーク」は、面白かった。
原作は、1990年にマイケル クライトンによって書かれたSF小説。スピルバーグによって、初めて映画にデジタル音響システムが組み込まれた。彼の作り出した映像効果が、あまりに本物的で、この映画は大成功して全世界で恐竜ブームを引き起こした。琥珀の中から、蚊が吸血した恐竜のDNAを採取し、その欠損部分をカエルのDNAで補完してワニの未授精卵に注入することによって 恐竜を再生する。現実に琥珀に閉じ込められた虫を私たちは博物館で見たことがあるから、がぜんこうした技術が実際にできることのように思える。映画ではDNAの補完材料だったカエルが性転換できるカエルだったために、自己繁殖してしまい恐竜が人間のコントロール範囲を超えて増えてしまうという設定だった。遺伝子工学が発達した今、思い返してみてもSFとして、少しも古くない。良くできたストーリーだったし、映画も優れていた。島田荘司の「アルカンタズ幻想」も、映画にすると、おもしろい。この小説は、どちらかというと視覚的に受ける作品だ。

さて、「アルカンタズ幻想」だ。
本の中で古生学者バーナード コイ ストレッチャーをして恐竜についての沢山の疑問点を語らせている。まず、アパトザウルス。1904年に米国ワイオミングで全身骨格が出土された。1億5千年前の中世期ジュラ紀に生息していた。体長33メートル、体重40トン。首の長さ13メートル、草食で毎日500キログラムの草を食べていた。泳ぐ能力を持っていないので、陸上で暮らしていたとされる。今日一番動物のなかで体重の重いゾウが、5トンの重さだが、40トンの体重をもつこの恐竜がゾウよりずっと細い足で自分の体重を支えられるわけがない。また13メートルの長い首を、長いしっぽと同様に水平にしたまま それを支えて動き回れるような強靭な骨格や筋肉は、物理的に言ってあり得ない。生物学、考古学、生理学、物理学、地質学など、すべての英知を集めて考えてもこの恐竜はあり得ない。でもアパトザウルスは33メートルの体長で、13メートルの首を水平にしながら、その細い足で歩き回れるわけがないから、といって、のろのろしていていつも肉食恐竜の餌食になっていたかというと、そうではなく1億年以上の間にわたって、100年から200年の寿命を生きた。どうして、それができたのか。

次にテイラノザウルス。1908年に米国モンタナで全身化石が発見された。肉食で体長12メートル、体重5トン。頭だけで前後左右に1.5メートルと大頭で大きな顎と歯を持ち、2本足で歩き、前足はカンガルーのように退化している。肉食で、咬筋力は3-8トンという強力な噛む力を持っていた。ということがわかっているが、この恐竜と同じ重さのゾウが4本足でも、自分の体重を支えて、ゆっくりしか歩けないのに、細い2本足で、大きな頭と体を支え、逃げる獲物を追って、敏速に走り回れるわけがない。生物は大型化すれば 筋肉も大きくなり早くは動かせなくなる。にも関わらず、発掘された化石はこの恐竜がきわめて発達した筋肉をもち、肉食していた証拠を示している。どうしてそのような生き物が、地球上に存在したのか。
最後に翼竜。キリンと同じ大きさの背の高さで体重100キログラム。左右の翼の幅が12メートルで、肉食。今日生きている一番大きな鳥はワタリアホウドリで、翼が3.5メートル、体重12キログラムで、これが飛行する鳥の体重の限度とされる。航空物理学上、体重40キロを超える鳥は飛行できない。大型化した羽を支える筋肉は、重い体重を支えるために敏速に羽ばたきし続けなければ落下する。にもかかわらず、翼竜は1億数千年もの間、肉食を楽しみ、羽ばたきして空を飛び回っていた。どうしてそんなに長い間、生存できたのか。

そこで、バーナード コイ ストレッチャーはある結論を出し、それを証明するために実験をする。
うーん。
で、結論はどうだったかって?わからない。1億5千万年前よりももっと前の地球で起きていたことだ。証人はいない。いや、ゴキブリがいた。ゴキブリに知能を発達させて話ができるように開発して、大昔に起きたことをゴキの先祖がどう語り伝えたか、聞き出せたら真実がわかるかもしれない。この本、猟奇殺人ミステリーが好きで、宇宙の話が好きで、恐竜も大好きな人には読まずにはいられない本だろう。私には、猟奇殺人に興味なく、宇宙の話は難しくて理解できなかったので、この本の前半で恐竜に関するところだけが面白かった。後半は、ミステリーを解くために、あり得ない不自然さが目立ち、興ざめした。まったくミステリー読者に向いていないらしい。


2013年11月23日土曜日

映画 「舟を編む」

             


原作:三浦しをん
監督:石井裕也
キャスト
馬締光也 :松田龍平林香具矢 :宮崎あおい
西岡正志 :オダギリジョー
たけ    :渡辺美佐子
松本崩祐 :加藤剛
松本千恵 :八千草薫
岸部みどり:黒木華
佐々木薫 :伊佐山ひろ子
荒木公平 :小林薫
三好麗美 :池脇千鶴
ストーリー
大学院で言語学を専攻した馬締光也は 出版社玄武書房で営業部員として働いていたが 人と話すことが得意でないため、営業成績は最低だった。そんなとき、編集室辞書編纂部では、30年もの間勤めて来たベテラン荒木公平が退職することになり、人探しをしていて、馬締に白保の矢がたつ。馬締は、まじめ一方で趣味は読書。知識は豊富だが上手に人との関係を作ることができない。学生時代から10年余り下宿している早春荘の大家、たけに可愛がられ、たけの亡くなった夫の書庫を自分の図書館のように使っている。自分の部屋も 蔵書で足の踏み場もない。時間さえあれば本を読んでいる。

出版社にとって辞書編纂部は社内でも「金食い虫」と呼ばれ、数十年単位で編集出版される辞書を編集する部なので、ベストセラーや雑誌の様に出版するそばから売れて会社に利益を出す部ではない。地味なまじめ一方の学者肌の人材が必要だ。社では「大渡海」という名の新しい辞書を出版するために編集を進めているところだった。監修を務めるのは、この辞書を作るために大学教授職を辞めて玄武社にきた国語学者松本朋佑(加藤剛)、彼を献身的に支える職人肌の荒木公平(小林薫)、事務作業を一手に引き受ける契約社員の佐々木薫(伊佐山ひろ子)、そして入社5年目の西岡正志(オダギリジョー)の4人だった。馬締は、辞書編集部に移動してきて、その第一日目から松本部長の言葉に対する愛着と、辞書編纂への熱意を語られて、初めてやりがいのある仕事をみつけて発奮する。仕事は、「辞書はことばの海を渡る舟、編集部はその海を渡る舟を編んでいく。」地味で、果てしのない仕事だ。しかし学者肌だが面倒見の良い部長をもった編集部は、家族のような信頼でまとまっていて、馬締は 初めて自分の居場所をそこに見つける。そして馬締は、水を得た魚のように新しい仕事に没頭する。

ある日、下宿している早雲荘の大家たけのところに、京都の料理屋で修業していた孫の香具矢が帰ってくる。可憐な彼女に一目ぼれした馬締は、半死状態、、。編集部の面々の助けを借りながらやっと恋を成就させる。そして遂に馬締は香具矢と結婚にこぎつける。時間がたち編集長松本が癌で亡くなり、馬締が入部してから13年間かかって、辞書「大渡海」は完成する。というお話。

ちょっと変わった小説がベストセラーになっているという話は聞いていて、興味をもっていた。原作が手に入る前に 映画のチケットを娘が入手してくれた。シドニー日本文化交流フイルムフェステイバルというイベントのこけら落としに、この映画が上映されたのだ。日本では70万人もの視聴者を映画館に動員し、興行成績をあげたそうだ。
ふだん何げなく使ってきた辞書というものを作る人々が居て、何十年もの時間をかけて、地道に「言葉集め」をして、意味の解釈だけでなく用例集めや使用例を他社の辞書と比較しながら コツコツと編集する、その仕事ぶりに驚かされた。また流行語を含めた新しい言葉を常に探し求めて、新たに辞書に解釈を加えるだけでなく誤用例もあげていく。そんな編集部の苦労する様子が実に興味深かった。20数万語の言葉を収録するために15年間文字通り、一目一目を編んでいくような地道な歩みに目を見張る。
ただ、タイトルの「舟を編む」ということばには違和感が残る。舟を編むことはできいない。たとえ比ゆ的に「編む」という言葉が使われたにしても、自分は何となく日本語としてすんなり呑み込めない。しかしタイトルの斬新さゆえにこの本が好きになる人も多いのだろう。

石井裕也監督と馬締を演じた松田龍平とは、共に30歳だという。若い監督だが、実力がある。上質の落語のような会話の呼吸、間合いの良さが秀逸。誰かが何かを言う。その瞬間にガラリとその場の空気が変わり、居合わせた人がそれぞれその人なりの反応をする。その間合いと、変化の仕方をしっかり演技で見せてくれる役者たちがとても生きている。見ている人が自分の体験を思い起こしてその場にすんなり納得できて 深く共感できる。
香具矢に一目ぼれをして腑抜けになった馬締が出勤してきたところを、松田が後からふざけて脅かしただけなのに、その場に崩れ落ちて腰をぬかして立ち上がれないシーン。人とうまく話ができない馬締にちょっとした冗談やおふざけが通じなくて、かえって慌てる人の良い西岡がおかしくて笑える。西岡は一見軽薄に見えるが実は情のある、良くできた男だ。私は映画の登場人物の中でこの西岡が一番好き。社の予算が足りなくなって、馬締か西岡かどちらかが辞書編纂部から広報部に移動しなければならなくなって、それを誰にも知らせずに自分から潔く部を去っていく。後からそれを知らされて、馬締が必死で西岡を追うが突き返されて言葉を失い茫然と佇むシーンも印象的だ。どっちもいい奴なんだ。
編集部の面々が馬締が恋の病に陥ると すかさず香具矢の勤める料理屋に予約をとる、その息のあったチームワークの良さには笑いを誘い人の心をなごませる。編集長松本の人柄の良さゆえだ。仕事の後で居酒屋に皆を連れて行き、本音で部下との交流を図る。部下たちは熱い親父には勝てない、と文句を言いながらその親父を慕っている。こんな職場で働きたいと思う人も多いだろう。家族のようだ。

役者がみんな良い。西岡を演じたオダギリジョーがとても良い。この役者、個性の強い役柄を演じることが多いが、この映画のような普通の男を演じると、すごく光っていて魅力的だ。加藤剛と八千草薫の夫婦も良い。本当の仲の良い夫婦が一緒に年を取ったみたい。
主役の松田龍平と宮崎あおいは、難しい役を上手に演じている。
馬締は軽度のアスペルガー症であるらしい。これは 自閉症の一種でオーストリアの小児精神病医ハンス アスペルガーによって命名された症候群。対人関係に障害をもち、特定分野に強いこだわりを持ち、軽度の運動障害をもつ。知的水準は高く、言語障害も持たない。子供の時に「b」と「d」、「つ」と「て」、「わ」と「ね」の区別ができず、鏡文字を書いたりして発見されることが多い。ふつうに学校生活た社会生活ができ、「ちょっと変な人」くらいに認識されて何の問題もなく、家庭を持つ人も多いが、社会適応ができず ひきこもりやうつ病を併発する人も多い。ひとつのことに偏執狂のように異常な興味を持つ特性を生かして、芸術分野で優れた結果を出す人も居るが、自分の興味ない分野には、きわめて冷淡になる。そういった難しい役を松田龍平は、若いのによく演じていた。お父さんは松田優作だそうだが強い役者遺伝子を受け継いだみたいだ。
1988年バリー レヴィンソンの「レインマン」で、トム クルーズと共演したダステイン ホフマンが重度の自閉症を演じている。きっと松田龍平は役作りの過程でこのダステイン ホフマンを100回くらい見たのではないだろうか。

この作品、日本映画製作者連盟から、アカデミー賞外国語映画部門に出品されたそうだが、欧米で評価されるだろうか ちょっと心配。「仕事人間、過労死、残業クレイジーニッポン」の典型みたいに見られないといいけど、、。個が確立していて、個人生活重視、公私混同を嫌い、時間がきても仕事が終わらなくて残業すると自己管理ができない無能者とされ、残業どころか休暇は締切だろうが何だろうが、きっちり取る、、、他人の個人生活に介入しないことが礼儀とされて、職場ではどんなに信頼できる仲間でも互いの私生活には関心を持たない、、、そういった欧米型社会で育った人達に、この映画の良さがわかるだろうか。

編集長の部下に対する父親のような愛情、家庭よりも仕事への情熱、苦労を分かち合うことによって育つ職場での結束、仲間の犠牲になって自分から移動になる潔い部員、ボスへの敬愛、自己主張の強かった新人が職場の空気に染まっていく様子、夫を思いやり自分を決して主張しない謙虚な妻、家族の理解、愛情の示し方が下手だが心から妻を愛する夫。個を超えた共同体の中でこそ自分たちの達成感、満足感を充足させる日本人特性。日本人の優しい労わり合い。あうんの呼吸で仲間が育っていく環境のやさしさ。謙虚と潔さ。熱すぎず、ぬるすぎない、ぬくくて温泉みたいに心地よい映画だ。。映画を観ていると、日本人って、何て良いんだろうと思う。
さて、外国人はこれをどう観るか。作品は、アカデミー賞に輝くだろうか。結構、高く評価されて、「シャル ウィー ダンス」みたいに、この映画の欧米版「オックスフォード辞典を編む人々」なんていうコピー映画を、エデイー レッドメインみたいなハンサムな役者が主演して大成功するかもしれない。わくわくする。

2013年11月14日木曜日

映画 「ザ ロケット」

                                   
http://www.abc.net.au/atthemovies/txt/s3827512.htm

監督:キム モルダウト (KIM MORDAUNT)
ラオス映画
キャスト
アロ (AHLO) :KI  SITTHIPON
キア (KIA)  :LOUNGMAN KAOSAINAM
母        :ALICE KEOHAVONG
叔父さん    :THEP PHONGAM
父        :BOONSRI YINDEE

ベルリン国際映画祭最優秀賞、アムネステイインターナショナルフイルム賞
シドニーフイルムフェステイバル2013年オーデイエンス賞

ストーリーは
全裸の女の出産シーンから始まる。女の義母が出産の介助をしている。長い苦しみの末に、元気な男の子が生まれてほっとしているところで、再び女の陣痛が始まる。後継ぎになる男の子の誕生に顔を崩して喜んでいた出産介助の母親は、急に別人のようになって女を責めたてる。彼女は双子を宿していたことを隠していたのだった。義母は介助しない、氷のように冷たい視線で産み落とされたもう一人の男の赤子を見ている。昔からのしきたりで 双子は家族に悪運をもたらす邪鬼だと言われてきた。どこの家でも後から生まれてきた二人目の赤子は 生まれてすぐに埋められる。出産直後だというのに、嫁と母親は赤子を抱いて山に向かう。赤子を誰にも悟られないうちに埋めてしまわなければならない。しかし、嫁は掘った穴の中にどうしても元気な泣き叫ぶ子供を埋めることができない。

そこで、画面は突然、満面笑顔の元気な男の子に変わる。10年の時が経ち、家族に不幸をもたらすと言われた疫病神のアロは、元気に育っている。双子の兄は、居ないので病気か事故で亡くなったらしい。義母と両親とアロは貧しいながらも仲良くに暮らしている。しかし平和な山村に、突然政府の役人がやってきてダムができるので強制立ち退きを命令される。村民たちが軍に追い立てられるようにして山に移動する最中、こともあろうにアロの母親が事故で命を落としてしまう。用意された代替え地は痩せた土地で、人々はビニールをはぎ合せて雨風をしのぎ、トカゲや蛇を捉えて空腹を凌ぐような生活だった。アロの父親は、家や田畑を無くし、妻にさえ先立たれ、腑抜けのようになっている。気丈なアロのおばあさんだけが頼りだが、彼女は口を開ければアロを、家族に不幸を呼んできた疫病神だと責めたてる。空腹で先の見えない生活の中でもアロは 友達を見つける。エルビスプレスリーのような奇妙ななりをした叔父さんに連れられた8歳の女の子キアだ。二人は野山を駆け回り二人して遊び呆ける。しかし、アロのちょっとしたいたずらが、村の自警団の怒りを買ったために、アロ家族もキアとキアの叔父も村を追われることになってしまう。

10歳のアロの父とおばあさん、8歳のキアとその叔父、これら5人の奇妙な放浪が始まる。キアの叔父は自分の故郷に皆を連れていく。しかしそこは無数の地雷と不発爆弾の埋まった廃村だった。5人は苦しい流浪の旅を続ける。ある村に着いてみると、ロケットフェステイバルが開催されるという。村は干ばつに苦しんでいた。ロケットを打ち上げて雲の上まで飛ばして雨を呼んできたものには、多大なご褒美が出るという。アロの父親は母親からなけなしのお金を引き出して、ロケットを作り始める。

一方、アロはキアの叔父が、もとは米兵だったという秘密を知っている。叔父から得た知識で蝙蝠の糞を集め、高い木を伐り出して独力でロケットを作り始める。お祭りが始まり、大人たちが作った大型のロケットはアロの父親のロケットも含めて、決して雨を呼んでこなかった。村民たちが失意のうちに祭を終了させようという時になって、小さなアロがロケットを背負って会場に到着する。そして、アロの作ったばかりのロケットは、厚い雲を超えてどこまでも飛んでいき、雷を引き起こし、ついに雨をもたらせてくれた。どしゃぶりの中で、村長は、アロたち家族が村に定住するための許可を与えた。抱き合って喜ぶ大人たち。満身笑顔のアロとキア。ここで映画は終わる。

ラオスは世界で一番激しい爆撃を受け、一人当たりに落とされた爆弾の量が世界一の国だ。ベトナム戦争でラオス北部とベトナムのホーチミンルートを通る南東部に、アメリカによって200トンを超える爆弾が落された。米軍はやっきになって北ベトナムから南ベトナム解放戦線に補給を送るホーチミンルートを断裂しようとした。1964年から1973年の9年間の間に200トン、8分ごとに一つの割合で爆弾を落とし、それはラオス人一人当たり1トン以上の量に値する。
それに加え、フランス植民地時代の独立戦争や、第2次世界大戦中の日本軍の進駐や パテトラオとラオス軍との戦争を含む地上戦で大型爆弾、ロケット爆弾、手りゅう弾、大砲、対人地雷などなど、膨大な不発弾が埋まっている。また米軍が落したクラスター爆弾は7800万個であり、そのうち30%は不発弾だ。国連はラオスの山村に今だに埋まっている不発弾は約50万トンと、推定している。
そういった地雷と不発弾による事故でたくさんの人がいまだに死傷している。不幸なのは不発弾を解体して金属や火薬を抜き出して売って生計を立てている人々が多いことだ。金属スクラップ集めで家計を支える子供たちの多くが命を落としている。

映画の中で、アロがひもじいのとおばあさんのつらく当たられて、しょげている時、キアがふざけて腐った木の実をアロにぶつけるシーンがある。二人は始めは土や葉を投げ合っているが、しまいには二人して夢中になって大笑いしながら石や木切れなど片っ端から掴んで投げ合う。アロが土の色をした丸いものを投げようとした瞬間、見ている観客は心の中で「ダメ―!」と叫ぶ。アロがそれをキアに投げつける瞬間、おじさんの太い腕がアロのつかんでいた手りゅう弾をつかむ。それまでただの飲んだくれでロック狂のへんてこな叔父さんでしかなかった男が、初めて頼もしく見える瞬間だ。うまいな。こういう見せ方。監督の腕が良い。

ラオスにはたくさんの山岳民族、少数民族がいる。ラオスを時計回りにみるとベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、中国に囲まれた内陸国だから、ラオ語を話さない少数民族もたくさんいる。キアの叔父さんはロック狂でへんてこで、どこに行ってもつまはじきされている少数民族だ。アメリカによって起こされたベトナム戦争の中で最も、激しい被害にあった被害者と言える。
米軍はベトナム共産軍を圧殺するために、少数民族に武器を与えて、軍事訓練をした。これらラオス政府から差別されてきた少数民族は 米兵の一兵卒としてベトナム軍のスパイとして戦場に送られたり、米軍に役立つ兵力としてこき使われて そして捨てられた。だから今だに少数民族は、新政府から虐殺され、差別されている。少数民族出身で米兵くずれでロック狂という 難しい役をタイ人俳優のTHEP PHONGAMが、上手に演じている。彼の狂いっぷりが、素晴らしい。衣食足って礼節をわきまえてしまった日本人俳優には こんな屈折した奇妙な男を演じる役者はいないのではないか。

とにかく二人の子役が素晴らしい。ひもじい、情けない、逃げ場のない小さな社会で、こぼれるような笑顔、二人して大口を開けてガハハと笑いころげる豪快な天真爛漫さ。子供を主人公にした そのパワーの圧倒されまくる。映画はまさに演劇、映像、音楽、脚本、舞台、原作、光と影そしてすべてを含んだ総合芸術だという事実を目の当たりに見せてくれる。ベトナム戦争のもたらしたもの、無数の死、政治の不理屈、常に置き去りにされる女や子供の生きる権利、こうしたものを訴えるための100の理論や論争を このひとつの映画が表現して語りつくしている。子供の持つ本来のパワーが、優れた反戦映画として完成している。

これほど心に沁みる映画を観たのは、「赤い運動靴と金魚」(1997年)、と「禁じられた遊び」(1958年)以来だろうか。言論弾圧のひどかったイランで、マジット マジによって製作された「赤い運動靴と金魚」は、子供たちを主人公にすることによって、宗教よりも戦争よりも人間らしく生きることを訴えた。又、ルネ クレマンによる「禁じられた遊び」は、ドイツ軍の爆撃機によって両親も可愛がって抱いていた犬も殺されて生き残った孤児と、農家の少年との心の触れ合いが、胸をえぐられるような痛みをもって反戦を訴えかけてくる。

監督はオーストラリア人のテレビドキュメンタリーフイルム作家。フリーで東南アジアに残された戦禍の中を生きる人々を描いた「SECRET WAR」、ロシアの政治的自由とベルリンの壁崩壊を描いた「45YEARS IS ENOUGH]」、などで実力を認められてきた。代表作は、「BONB HARVEST」2007年で、ラオスの不発弾から金属を回収してスクラップで家計を支える子供たちを描いて、最も優れたドキュメンタリーフイルムとして評価されている。
このひとのこれからの活躍を見ていきたい。



2013年11月8日金曜日

オットと日本さらばじゃ、また逢う日まで


16泊17日間の日本旅行も終わりに近付いた。今夜、日本航空でシドニーに帰る。
成田出発は夜8時。これが嫌なんだ。ホテルは10時か11時にはチェックアウトしなければならない。そこから夜8時まで、外で時間をつぶさなければならない。生後10か月の赤ちゃん並に昼寝が必要なオットには これが辛い。2つの大きなスーツケースは 宅配の人が空港に持っていってくれていて先に飛行機の貨物に収納していてくれている。小さなリュックサックひとつの身軽な姿で夜まで、さあ、どうするか。

タクシーで浅草のスカイツリーまで行く。4階まで上がって、上まで上がるチケット売り場にいくと、2時間待ちだという。遊び盛りの5歳の子供の並に、じっとして列に2時間並んでいることなどオットにはできない。私に寄りかかって立っていられるのがせいぜい10分間。4階から、頂上を見上げる写真を撮って、横にある墨田区水族館に入る。区立の水族館らしく子供への教育を目的として建てられている。エレベーターで最上階まで上がって、海中生物を見ながら、らせん状の通路を下りてきて、階下の大きなプールで泳いだり、体を干しているペンギンを見られるようになっている。上野動物園の水族館に比べると見劣りするが、子供たちを連れてきて じっくり水の生き物を観察させるのには良いところだ。

コーヒーで一休みして上野駅に向かう。そこから特急で成田へ。京成電車から眺めるのどかな初秋の眺め、、、田んぼはすでに収穫が終わっていて、野菜畑に大根や青葉野菜が植わっている。疲れるから目をつぶって寝ていきなさい、というがオットは車窓の風景から目が離せない。空港駅に着くまでオットは名残惜しそうに ずっと景色を見ていた。

空港の中のレストランは来るたびに利用するから、もうほとんど端から端まで試しに食べてみたことがあるが、寿司屋を除いて 1件としてまともな食べ物を出すところがない。外見だけまともに見えるが、実際はとても、プロの料理人が作っているとは思えない。これって、日本の恥じゃないだろうか。国辱ものだ。空港の中は、見送りに来る人や、たくさんの外国人が何時間も過ごさなければならない場所だ。朝から夜まで、人が絶え間なしにレストランを使う。マクドもスタバもあるが、レストランならば、もう少しましなコックの居るレストランとして営業すべきだ。シンガポール空港には、飲茶や、レストランは勿論、仮眠室も無料のシャワールームもコーヒー一杯で座ってゆっくりインターネットを使わせてくれるカフェがいくつもあった。それらが成田には一つもない。

機内は驚くことに混んでいて、空席が全然なかった。食事が終わり次第 空いている席を確保してオットを横にさせてもらおうと思っていたが、それができない。小さな席に丸くなって10時間。
前回の帰りの飛行機では、3席空席を確保してオットを寝かせて、自分は、ビデオで
ランランのコンサートパフォーマンスがあったので、ずっとこれを繰り返し繰り返し観て聴いてきたので10時間がつらくなかった。今回は、映画はみんなもう映画館で観たものばかり、ビデオはお笑いのもしかなくて退屈なので、同じ映画を繰り返し見ていた。今ではそれも良い思い出だ。

日本で、わざわざ忙しい中を、時間を作って会ってくださった心の優しい友達たち、ありがとう。食事に連れ出してくれた兄姉、ありがとう。いつまでも忘れずに、帰るごとに会いたがる こんな母親のためにいつも優しくしてくれる息子たち、ありがとう。ありがとう。昔の同級生も、いつもと友達でいてくれて、ありがとう。ツアーの方々も親切にしてくれて、ありがとう。
山たち、その清々とした空気の中で雄姿を見せてくれて本当に本当にありがとう。会えて良かった。

オットと休暇を充分楽しんだ。良い休暇だった。休暇の欠点といえば、それが短すぎることだ。

2013年11月3日日曜日

オットと上野で科学博物館へ

        


夜中じゅう嵐が吹き荒れていた。日本滞在最後の日、朝になると、大型台風は過ぎ去りつつあったが、風がとても強い。私一人なら行きたい美術館も、行きたいコンサートも、観たい映画もたくさんある。でも オットには遠くが無理なので、ホテルのまわりを タクシーで出かけてはタクシーで帰ってくることを繰り返している。それでもオットには 初めてのカフェ、初めてのレストラン、初めて見る美術館や博物館に、珍しいものがたくさんあって、とても嬉しそうに眺めている。オットが日本に居ることを知らないオーストラリアの仕事仲間から 携帯電話に電話がかかってきて、「ジャパンは素晴らしい、食べ物は美味しいし、人々が親切で、謙虚で、優しい。喘息も起こさず最高のホリデーを過ごしているよ。」と熱弁している。

風で髪が、ぐしゃぐしゃになりながら、タクシーで上野科学博物館に行く。入口にシロナガスクジラがある館で、娘たちが子供のころ一番好きな遊び場だった。中には、「忠犬ハチ」が居て、南極から生きて帰ってきた「ジロー」が居る。カメに入ったミイラも健在だったし、恐竜のレプリカがたくさんある。いくつになっても楽しいところだ。
ダイオウイカという世界最大のイカも居る。マッコウクジラの前身骨格も組み立ててある。アンモナイトもたくさんあって、フーコーの振り子もあって、地球が自転していることを実感させてくれる。

ゼロ戦機が展示されているのを初めて知った。前にも見ていたのかもしれないが、ゼロ戦に否定的だったから目に入らなかったのかもしれない。パブアニューギニア沖で発見されて海から引き上げられて復元されたという。オットは、嬉しそうに、「オーゼロー!!!」と叫ぶ。オーストラリアでも有名だ。日本ではゼロ戦は、ジブリの宮崎駿による「風立ちぬ」で、一挙に話題になって関心が持たれた。この映画を観たかったが、日本滞在中は無理だったので、上下2巻のアニメを本にしたものを、帰る前に空港で買った。帰りの飛行機を待つ間、読むというか、見ていたら、見ず知らずの中年のおじさんに、シドニー行の飛行機を待つゲートで、「それ、いくらでしたか?」と聞かれたので、びっくりした。ジブリはもはや子供むけのアニメではなく 大人も中年も老年も共通で愛されていることがわかって、嬉しかった。

ゼロ戦については、百田尚樹の「永遠のゼロ」を読んでいて、ゼロ戦がいかに低予算にもかかわらず優れた戦闘機だったか、を知った。「今思い出してもあのゼロには悪魔が乗っていたと思う。550ポンドの爆弾を腹二抱えてあれほどの動きができるなんて信じられない。」とアメリカ人パイロットに言わせた攻撃性と機動性を持っていた。しかし、日本軍は、「参謀たちはゼロの搭乗員は消耗品と言い、整備士は備品と呼んでいた。」のが実情だった。この作品は、ゼロ戦パイロットを主人公に、戦争の非情さと人間愛を描いた稀有な小説だ。漫画化されたようだが、小説に感動したのと、好きな漫画家が書いていないので漫画は読まない。

オットは第2次世界大戦前とベトナム戦争の中間に青春時代を送ったために どちらの戦争でも兵役を免れた。彼の2歳上の人々は強制的に徴兵でヨーロッパ戦線に送られた。彼より5歳若い人々は懲役制で、一兵卒としてベトナムに送られていた。この不人気なベトナム戦から帰ってきたオージーたちは、徴兵で行かされたのに、「ベトナムで女子供を殺してきた」、と帰れば非難され、世論に叩かれた。このころはアメリカもオーストラリアも兵役は国民の義務で、反戦思想から兵役を拒否すれば 「アカ」のレッテルを張られて国家犯罪者として刑務所に送られた。オーストラリアでベトナム参戦者が第1次世界大戦や第2次世界大戦の退役兵士として国の功労者として認められるようになったのは、つい最近のことだ。望もうが望むまいが 否応なしに戦場に送られたのだから すべての退役者が同等に評価されるようになったのは時の流れゆえだろう。しかし、オットがもしベトナムに送られていたら、私との結婚は絶対無かっただろう。

戦争が悲劇なのは、それを望む者はわずかな者なのに、実際に戦場で戦う圧倒的多数の若者たちは、自分の意思ではなく強制されて、それが必要だと思わされて戦うからだ。何て非人間的なことだろう。だから、どんなことがあっても兵役を強制する徴兵制だけは 絶対に認めてはならない。
阿部首相は、福島原発事故以来、1000トン単位の放射線汚染水を海に垂れ流しているのを知りながら、それを否定して見せたり、28万6千人の被災後 避難生活を続けていて、10万人の人が仮設住宅生活を強いられているのに、東京オリンピックを誘致した。辞退すべきだろう。28万6千人の人が避難生活している、そのとなりでお祭りをして誰が楽しいか? 3年たっても家に帰れない10万人の人々が仮設住宅で、不便しているとなりで、スポーツをやって誰が楽しいか?2020年にオリンピックが東京に決まった時、オットは「トーキョーよりフクシマが先でしょ?」とぼそりと言った。当たり前だ。本当に、東京オリンピックに使うお金を全部福島に回しても足りない。それが、オージーの常識だろう。
そんなことごとを話しながら、ホテルの夜は更ける。明日の今頃は シドニーに向かう飛行機の中だ。

2013年11月2日土曜日

オットと台風で上高地が夢の夢に

        

日曜日に上野で仲間たちに会って、月曜日のお昼に天麩羅で兄と姉に会い、夜は仲の良い夫婦にデイナーに招かれた。火曜日にオットを休ませ、水曜日にバスで新宿を出て、上高地に行かれたら最高だと思っていた。ツアーは 朝7時に新宿を出て、新島々まで走って上高地帝国ホテルでランチを食べて夕方まで穂高を目前にして河童橋あたりを散策できるという。新宿に戻ってくるのは夜になるので 翌日シドニーに帰らなくてはならない身には少し大変だが、強行するだけの価値はある。立山、剣と同じ感動を味わえるはず。穂高に会いたい。穂高岳に会いたい。穂高岳山脈の真下で深呼吸したい。

ところが火曜日の朝起きてみると、ホテルのおかみが、台風が東京を直撃するので、強風豪雨注意報が出ているという。問い合わせると、上高地バスツアーはとっくにキャンセルになっていた。30年ぶりとかで東京を直撃する大型台風だという。
同じホテルに泊まっている外人たちが 朝、小雨も気にせずに、でかいリュックを背負って出かけようとするところを捕まえて、ホテルのおかみが一生懸命引き止めようとしている。英語で「ふーうはろーちゅーいほー」って、なんていうの、と聞かれたが「さあー」と私。一瞬、日本語がわからなくて、返事ができない。おかみに何を言われても、全然気にしないでニコニコして外に出ていくガイジン客たちを心配して、パニックになるおかみ。ダイジョブ、ダイジョブ、、若いガイジン青年たち、外国で痛い思いをすれば学ぶことも多い。何でも経験だ。そのために日本まで来ているんでしょう?と言っておかみを納得させる。

近所に朝食を食べに行き、上高地行が夢の夢になって気落ちする。くさっていても仕方がないので風速80Mとか、50Mとか言われている道をタクシーで近所の松坂屋に気晴らしに行く。松坂屋は30年前と全然変わっていない。千駄木に住んでいた時、自転車の前と後ろに娘たちを乗せて、松坂屋の前で母と待ち合わせをしておもちゃを買ってもらったことがある。
オットのシャツを買う。「ライル アンド スコット」というブランドで、胸のところにタカだかワシだかの刺繍が入っている。100%コットンで質も良い。気に入ったので色違いを3枚買う。

私にはエコーの靴を買う。日本のデパートには品質の良いものが置いてある。種類も多い。シドニーでもエコーの靴は買えるが 人口が少ないだけ靴のデザインも限られる。
この20年、靴はエコーと決めて来た。デンマークの小さな工場で作られ始めたこの靴は、本当に歩きやすい。良い皮を使って手縫いしてあるので、形が崩れないし、壊れない。今、職場で履いている靴はもう5年間、毎日使っているが全然壊れない。それだけに安くはない。3万円のショートブーツが気に入ったが、これからシドニーは暑い真夏になるので、シャンパン色の2万円のスリポンにする。
エコーは、デンマークのデイーター カプチャー氏によって開発された、世界で最も履いていて快適な靴だ。皮なめし工場から、原料調達からデザイン、製造、流通まですべて自社グループ内で行われている。牛の皮が工場に納入されてから消費者の手元に届くまで生産過程すべてを、一元化している唯一の靴製造会社。快適なのには秘密がある。足に負担をかけないクッショニング、通気性と除湿性のある靴をつくるために、1にも2にも質の良い皮を使っていることだ。年を取って皮の大きなハンドバッグを持ち歩くのが辛くなってきて、初めてエコーの靴は、同じ皮なのに、どうしてこんなに軽いのか、と考えて思い当った。エコーの皮なめし工場では、厳しい品質が求められるので、エコー製品用だが高級ブランド服や自動車メーカーからも、皮革の卸売を請われているという。エコーの靴を愛用するようになって 若いころハイヒールを常用して足指が変形してしまった足にも辛くない靴が見つかって喜んでいる。デンマークからやってきた丈夫で軽い靴に感謝感謝だ。

デパート最上階で、お子様ランチを大きくしたようなステーキやエビフライやハンバーグまで入っている重いランチを食べて、タクシーで帰りオットを休ませる。夜から台風が直撃するので、夕食のものは買い置きしておくように、ホテルのおかみに言われて あわてて上野駅のアンデルセンでコロッケパンやハムやスープを買いに行く。
山に行けなくなって恨みの台風だが、夜は ホテルで遠足気分。

2013年10月31日木曜日

上野でオットと友達と

            

ホテルを移る。今のホテルに何の文句もないが 他のホテルも開拓してみようと思ってホテルニュー東北というサードニックスから歩いてすぐのホテルに、旅行前から予約を入れていた。サードニックスは娘がおととし台湾の友達と日本旅行した時にも、去年ボーイフレンドの居るマレーシアに行く途中日本に立ち寄ったときも泊まっていて、早くも来年の二月にまた日本に寄るときの予約も入れている。
ホテルニュー東北は3階建てなのにエレベーターがないと聞いていたので、一階のツインを予約してあった。ダブルベッドのツインで、部屋はとても広い。いかにも下町のおかみさんという感じのおかみが迎えに出てくれて、部屋を出てカウンターに座っているおかみの前を通るたびに話しかけてくれていろいろ世話を焼いてくれる。おかげで滞在中、明日の天気から、昨日のニュースから、朝ご飯に良いカフェのパンの種類から、晩御飯に一番近いレストランのトンカツの大きさまで事前にわかった。

今日は兄夫婦と姉夫婦に昼食に呼ばれていて、夕食は中学時代のクラスメイト夫婦に招待されている。オットには何日も前から、今日は、昼も夜もイベントがあって、昼寝なしのビッグデイだよ、と言い聞かせてある。このビッグデイを終えて、翌日一日休ませてオットの体力回復を待って、その翌日に、バスの一日旅行、「上高地日帰り」に、参加したいと画策している。
銀座「ハゲ天」でてんぷらをいただく。

中学時代のクラスメイト「ひろこちゃん」とのデイナーは、嬉しい会合だった。私の中学時代から唯一親しくしている人で、ご主人も穏やかな素晴らしい方だ。3人姉妹の真ん中。いつも自分のまわりの人を喜ばせることばかり考えている。子供の時から 彼女の作るクリスマスや誕生日プレゼントは、特別に手のかかった思いやりに満ちたものばかりだった。一年半前に来日したとき会って、オットもこの夫婦が大好きになった。ただそこに居るだけで癒すことができる人。いま彼女も私も孫の居る身になって 、なお友情が変わらずに続いていることを感謝しなければならない。
落ち着いた精養軒のビクトリア風の家具調度品に囲まれて、慇懃無礼なウェイターのよって運ばれる料理は、みな洗練された良いお味だった。素晴らしい夜。大切な友人が、彼女のために生まれてきたようなご主人と仲睦まじくしている様子が 何よりも嬉しい。彼女は人目を惹く美人だが結婚は遅かった。24回見合いをして、全部断った「つわもの」だ。それまでして、妥協なして本当に自分にあった結婚相手をみつけた。自分にあった人を見つける と容易く言うが、夫婦のマッチングは難しいものだ。

オットは自分で強い主張をしたり、意見を述べたりしない。几帳面で物静かで、きわめて扱いやすい。良く誰からも「いいひとね。」と言われ、「いい人」然としている。どちらかというと、「いい人」というよりは、「どうでもいい人」という感じの没個性人間だが、内部にはなかなか強情なところもある。昔、羊を何千頭も抱えるファーマーだったから、オーストラリアの農業を基盤にしている、最も保守の国民党の支持者だ。オーストラリアでは、労働党と自由党が交代で政権を取っているが、オットは、そのどちらも毛嫌いしている。ある日、中国人夫婦に招待されて中国新正月のパーテイーに招待されて二人で出かけた。中国人の中でも、私たちには場違いな、セレブの集まりで 出席者は上院議員や弁護士や政治家ばかり50人ほどだった。当時の首相ジョン ハワードがとなりのテーブルに居た。毎日テレビのニュースで見ている見慣れた顔だ。豪華な食事が終わり、人々が自分の席を離れて、名刺交換など始めたとき、ざっと見回してもオージー(コーカシアン)は、オットとジョン ハワードだけだった。あとは全員、私以外は中国人で「テルマエロマエ」風にいうなら「平たい顔族」だった。コーカシアンが他に居なかっただからだろう。ハワード首相は、席を立つと、まっすぐオットのところに来て握手の手を差し出した。オットはニコリともせず、手を出そうとしない。その場の雰囲気が凍り付いた。人々が息を殺してこちらを見つめている、、。緊張。しかし、さすが世慣れた首相、出した手を引っ込めて何事もなかったように別のテーブルに向かって歩み去った。オットには社交辞令が通じない。このときのオットは、とても大きく見えた。

こんなオットに会ったばかりのころ、家にデイナーに招かれた。
私は左利きで、それを子供の時はあからさまに笑われたり、「おかしな子」扱いされた。今では個性重視の時代になって「ぎっちょ、ぎっちょ」と馬鹿にされたりはしないが、マイノリテイーであることには変わりない。レストランに行くと ナイフとフォークがすでにセットイングされていて、食べるとき私は手をクロスさせて、右に置かれたナイフを左手に、左に置かれたフォークを右に持ち替えなければならない。オットが運んできた料理を食べようとすると、左にナイフが、右にフォークがあるではないか。オーマイガッ! 感動だ。オットとそれ以前に食事をしたことは1度か2度だったか、「ぎっちょ」について話したことは一度もなかった。しかしオットは見ていて、気が付いていたんだな。結構いい奴なんだ、とこのときオットへの評価を上げたのだった。

オットは今、年を取ってヨチヨチと幼児のように歩く。手も震えてきた。もう長生きできない とわかっている。そんなオットとこうして日本で、本当に心が通じる仲間達や友人との時間をたくさん共有できた、ということが本当に嬉しい。

2013年10月29日火曜日

上野でオットと仲間たちに会う



         


上野のサードニックスホテルから歩いて2分のところにある焼き鳥屋「とら八」で、教授が夕食の席を準備してくれていた。今夜は「短矩亭」こと教授、「スーヤグニール」、「FUNKA」と「テンパーテンパー」と会う。これらは、みんなMIXI名であって、これがフェイスブックになると、「短矩亭」、「MASAAKI SUDO」、「FUNKA」、「GREEN DESIGN WORK」となる。私たちは、色んな所で出会い、MIXIを通じて友情を深めてきた。教授は歩けないオットのために、ホテルから出て角を曲がれば良いところに、みんなを集めてくれた。カウンターと他に 数席分しかテーブルがない店に あふれるほどの人が飲みに来ている。焼き鳥の煙と人々の話し声と乾杯の歓声で、エネルギーに満ちている。

教授、「短矩亭」との付き合いはフィリピン時代からだから、もう20年になろうか。1988年、フィリピンのレイテ島貫通道路建設のプロジェクトマネージャーになった夫について、小学生の二人の娘を連れてレイテに3年、マニラに7年暮らした。マニラで夫にフィリピン人女性との間に家庭ができて離婚を余儀なくされて フィリピン生活10年のうち最後の3年間は 娘の通うインターナショナルスクールでバイオリンを教えるシングルマザーだった。
日本政府が送り込んだ外国で、夫が家庭を捨てて失踪するというような事態の中を 何とか持ちこたえてこられたのは、大人同士のやりとりに、いっさい感知せず、天真爛漫に学校生活を満喫してくれていた娘たちのおかげだ。大人の会話に口を挟まず、心配も不安も動揺もせず、全幅の信頼を母親に寄せてくれていた娘たちには、いま、どんなに感謝しても感謝しきれない。

教授は、そのころマニラの地元新聞社編集記者をして、インターナショナルスクールでバイオリンを教える日本人に興味を持って、取材にきたのが切っ掛けで出会った。彼は日本語で話ができる数少ない友人となり、当時13歳と14歳だった娘たちのよき話し相手にもなってくれた。敬虔なクリスチャンでフィリピンの貧困救済や、様々な活動に関わっている。いま彼は大学で教えている身だが、その学術的な価値については全然わたしにはわからない。
フィリピンのマルコス独裁政権下に発表を封じられた反逆の作家、私の尊敬するフランシスコ シヲニール ホセの親しい友人でもある。シヲニール ホセの作品「ポーオン」から「木」、「弟よわが処刑者よ」、「仮面の群れ」、「民衆」へと続く大河小説は、マルコス政権下では出版することができなかったが、いまはフィリピンの近代史、貴重な歴史的証言となっている。教授は「本の虫」でもある。彼の資料のコレクションは、ジャーナリスト大森実並だろう。毎日、フェイスブックで書き続ける彼の評論はいつも的を得ていて、シニカルで手厳しい。筆の辛さに反して、人柄は会って話せばただのオッサンみたいにあたたかい。マニラで会ったときは 生意気盛りだった13,14の娘たちが、いま社会人となり家庭を持っている、というのが全然信じられない、と繰り返して言っていた。本当に月日の経つのが速い。

「スーマー」ことスーヤグニールがやってきた。吟遊詩人、4弦バンジョーとギターを抱えて歌って暮らすアーチスト。横浜に居をかまえ。いろんな店で歌うシンガーソングライターだ。
伊藤慎一さんという方が「グラフィカ」という写真集を不定期的に出していて、2011年「島 02 グラフィカ 三陸」を出版して、このスーマーを紹介している。わたしはMIZIを通してスーマーのことを知って、彼の歌をユーチューブを通してで聴いていた。聴いているととても心が落ち着く不思議な力をもった音楽というか、「語り」だ。本人は、とても静かで謙虚な人、決して大声を出さない。自分の声で自分の言葉をギターとバンジョーに乗せて、語り掛ける。

一年半前にオットと初めて日本に来た時 初めてスーマーのライブを聴きに行った。それでオットはスーマーの大ファンになった。このときに、「短矩亭」も「テンパーテンパー」も聴きにきて、みんな仲良くなった。3枚のCDとスーマーのひとりごとを編集した小冊子をもらって、シドニーでよく聴いている。スーマーは 画家の瓜南直子さんと飲み友達だった。彼女が亡くなって以来、スーマーの歌は 心なしみんな哀しい。彼女のお通夜の二日前に訪ねて行ったそうだ。彼女の横でずっと酒を飲み、しまいには横でいびきをかいて朝まで眠ってしまった。翌朝玄関を出ると、白い猫が突然木から降りてきてスーマーをしばらく見つめて そして行ってしまったという。それをスーマーは、画家がねこに変ってスーマーにお別れを言いに来たのではないか、と、、、。
そんなスーマーは、福島にも歌いに行って、たくさんのことを感じて帰ってきたことと思う。3-11が起こったあと、彼は「こんなときに ひとつになれないなんて」と嘆いたが、その嘆きは3-11以降ずっと続いている。わたしたちは福島の死も、怒りも、悲しみも、ひたひたと迫ってくる放射能被爆さえも「ひとつ」になって経験することができないでいる。「こんなときに、ひとつになれないなんて」それで哀しいのはわたしであり、あなたであり、世界中にみんなだ。

「スーマー」が、「FUNKA」と彼のガールフレンドを連れてきてくれた。「FUNKA」は MIXIで彼の日記があんまりおもしろいので友達になってもらった。若いのに60年代70年代のロックを歌うシンガーソングライター。文学、詩、演劇、漫画、映画、ロック、写真、落語、歌舞伎など、すべてのアートに精通している。書くことも話すことも面白い。彼の良さは、何でも本物と顔を合わせて自分なりの理解をするところだ。怖いものなしの彼の行動性とフットワークの軽さは特筆すべきだ。好きな作家に会いに行き、本人から直接インスピレーションを受けてくる。写真家に直接会って、質問をして本当に知りたいことを掴んでくる。芝居もコンサートも落語も歌舞伎も直接聴きに行く。そういう態度、いいなあ。彼はダブル曼荼羅というバンドを作っていて、有形無形の仲間たちと自由自在に編成しながらロックを歌っている。毎週第4木曜日には、高円寺の地下カフェで、定期パフォーマンスを続けていて、そこにスーマーが加わったりしている。
こんな人が友達で居てくれて嬉しい。とても可愛らしいガールフレンド、、、歌舞伎評論家と言っていたけれど、ゆっくり話を聞かせてもらえなくて残念だった。カルバンクラインのシャツにジーンズ、、、なんてきれいな人だったことか。今度ゆっくりお話しを聴かせてほしい。

もう一人の焼き鳥屋であったのは息子の「テンパーテンパー」。これはMIXI名で、フェイスブックでは「グリーンデザインワーク」を主宰するデザイナーだ。建築物のデザイン、インテリアデザイン、広告のデザイン、自然保護をテーマにしたシャツやバッグを作って販売もしている。ウェブデザインもしていて、屋久島出身なので、屋久島の自然を紹介する素晴らしいヴィデオを作って公開している。
彼はわたしには大切な息子。出会いからもう10年になるが、公立病院の心臓外科病棟にいたとき、救急室のナースが、「ジャパニーズボーイが大怪我で大出血していて、モルヒネをどんなに使っても痛みが取れないでいる。」と言う。彼は、シドニーのマンリービーチで、事故にあいサーフボートが体に突き刺さって大出血する大怪我をした。22人の善意のオージーの血液をもらい、手術で助かったが、彼の体には何本ものピンとネジが埋まっている。会いにいってみると金髪で藤城清治の切り絵にあるような可愛い少年が Vサインをしていた。自然体でいつも笑顔の好青年。この息子もいま、生きていてくれているだけで嬉しい。彼は長いこと入院を与儀なくされたが、どのナースからも可愛がられた。しばらくして退院したあとも、整形外科のナースたちは、私を見れば必ず「ユーキどうしてる?」と聞いてきた。遠くの国から一人でやってきて、サーフィンで事故にあい死にかけた青年、長期間の入院の間、サーフィン仲間以外には面会者がなかったこの青年を ナースたちはみんな自分の子供のように思っていたんだな。こんどリタイヤするロビンに会ったら、「ユーキ結婚したよ。あなたと同じナースがお嫁さんだよ。」と伝えてあげよう。

みんなと楽しいお酒の宴。いつまでもこの素晴らしい人たちと一緒に居たいが、オットは3時間すわっているのが限度。昨日’カメラを無くしたけれど、こんな気持ちの良い仲間たちにしっかりと慰められた。1年半ぶりの再会だったが、またこんどみんなと再会できることを約束して別れた。
ホテルに着くなり、いびきをかいて眠るオット。良い日だった。ありがとう。

2013年10月27日日曜日

上野でオットと国立博物館へ


  

朝のうちだけ元気なオットをタクシーに乗せて、上野の山の今度は国立博物館に行く。
何の疑問もなく1200円の入館料を払って入ろうとすると入口の係り員が、「常設館だけの入館料なので、それだけでは京都のなんだかを展示しているなんだか館には、入れませんよ。」と注意される。常設館だけで充分。離れたところにある別館までは歩けない。
それで何気なく今、その時もらったチケットをよく見たら、小さい字で65歳以上の人は無料、と書いてあるではないか。ここもだ!。シドニーに帰ってきてから知った事実!何て親切な館員ばかりなんだ!

オットは本館で鎧や刀や槍や仏像ばかり見て、ばちばち写真を撮っている。そんな珍しくもないものが、オットには珍しかったのか。
穂高で荻原碌山(オギワラ ロクザン)の彫刻について触れたが、彼の作品「女」がここにはある。知らなかったが、彫刻を見て碌山の作品だとわかった。重要文化財に指定されている。手を後で縛られて、顔を天に向けている女のブロンズ像は碌山美術館にある「デスペラ」同様に、作者の女への絶望的な愛情を訴えていて、強力なインパクトを与えてくれる。素晴らしい作品だ。

アジア館でエジプトのミイラや石像を見る。子供たちが小さくて千駄木に住んでいたとき よく来たところだ。娘たちはエジプトの展示物が大好きだった。特に犬の顔をして人間の姿をしたエジプトの女神の石像に魅かれていた。素晴らしく美しい像だ。
展示物が、インドやアフガニスタンや中国の仏教遺跡から切り取り、持ち去ってきた成果であることが悲しいが、見る側からみると、紀元前の優れた歴史に触れることができて、ありがたいことだ。ロンドンの大英博物館は、世界中から盗んできた歴史的な遺物のコレクションでは世界最大規模を誇る。古代ギリシャの遺跡から持ってきたものはアテネに、エジプトの墓から持ちさって来た遺品はエジプトに、インドの遺跡から石を削り取ってきた仏像はインドに返却すべきだろう。あったものは、あったところに帰し、その地に発祥した文化に敬意を表して、現地に遺跡博物館を作るなどして、遺品を保護をすべきだ。

そんなことを考えながらソファに座って、大谷探検隊がエジプトから遺跡を発掘して遺品を隠して持ってくる当時の写真を見ていた。部屋にはほかに二人の男の人が展示を見ていた。ソファから 隣の部屋のソファが見えて、オットがくたびれて座っている。ハンドバッグとマフラーとカメラのストラップを持ったまま オットのいるソファに移った。そこでオットに声をかけ、あっと思った時、カメラのストラップがなかった。あわててもとの座っていたソファに戻ったが、カメラがない。ほんの2-3分のことだった。ストラップをもっていると思った私の手からカメラがソファに滑り落ちて、すぐカメラが持ち去られてしまったのだ。
撮った写真を全部無くしてしまった。
カメラを盗まれてしまった。
カメラには1000枚の写真が写ったセームカードが入っていた。そのほとんどは、孫たちの写真などでコンピューターにバックアップしてあるが、日本に来て撮った写真はバックアップしていない。剣岳をあれだけ苦労して撮ってきた。もうこの山を真近に見ることはないかもしれないと思って撮った立山、剣、北アルプスの山々の写真、弥陀ヶ原、黒部、安曇野の写真がみんなみんな無くなってしまった。

受付に走って行って、カメラを盗られたので「館内放送をさせてください。」と訴えるが、聞いてくれない。係り員が、カメラが落ちているかどうか、全館内をさがすので 探し終えるまで待ちなさいという。そうではない。ほんの5分前のできごとだ。カメラを取った人は それをポケットに入れて、まだ館内に居る。「カメラは要らないから、セームカードだけ返してください。写っている写真は他の人には価値はないが、私にとってはとても大切なものなのです。」「どうかお願い、カードだけは返してください。」と 館内放送してくれたら、盗んだ人にも心はあるだろう。聞いてくれたかも知れなかった。

私に大切なのはカメラではなく、中のカードなのに、何度説明しても係り員たちはわかってくれない。カメラの色とか、大きさとかを事務的に書いているだけだ。「夜になったら掃除の人が落ちているカメラを見つけるかもしれないので、見つかったら連絡します。」という。
ちがうんだってば。カメラを盗んだ人は 中のカードを捨てていくかもしれない。掃除の人に探してもらいたいのはカメラではなくて、カードなのだ。言っていることが通じない係り員たちを相手に、涙が勝手に出てきて、仕舞にはわんわん大泣きする。一人で大騒ぎしていて、オットなど怖がって遠くのほうに避難している。それでも悲しくて悲しくて、泣いても泣いても収まらない。撮った写真を全部失ってしまったのだ。はじめは同情していた係り員たちも、もう私に手を焼いて顔がひきつっている。「明日の朝、掃除の人がカメラの落とし物を見つけるまで待ちなさい。」を繰り返すだけ。
ちがうってば。
カメラは出てこない。無くしたカメラはまた買えば良い。中のカードを無くしたら永遠に撮った写真は無くしたままなのだ。わんわん泣いて、自分の声が頭骸骨のなかで響いてわーんわーんと鳴り響いている。吐き気までしてきた、、、。もう退け時か。

翌日、博物館に言われた番号に電話する。さんざん待たされて、担当者から担当者の間を回されて 待たされたあげく案の定、「昨日カメラの落とし物はありませんでした。」と言う。おい、ちがうだろー。

上野でオットと国立西洋美術館へ

    


山から帰ってきて、上野のサードニックスホテルでくつろぐ。駅から歩いて5分、昭和通り沿いにあるホテルで、無料の朝食がつく。トースト、ゆで卵、スープとコーヒーまたは、ホットケーキ、またはベーグルかホットドッグとスープ。ホテルで朝食が付くのはありがたい。起きて、食べてからゆっくり身支度をして外出ができる。それができないところでは 起きてカフェまでオットを歩かせて、食後、重くなったオットを椅子から引きはがし、ホテルまで歩かせると、もうオットはベッドに横になってしまう。トドのように横に伸びたオットを一休みさせてから外出するまで、冷えたエンジンをまたかけ直すのに、とても時間がかかるのだ。
日本では名が通っているかどうか解らないが、外国ではこのサードニックスホテル、結構、人気がある。ネットを通じてずっと先の予約まで入れられるし、予約日直前までキャンセル料を取らずに、安くて良い部屋が予約できるからだ。WIFIも、自由に使えるインターネットもある。バックパッカーでなくても長い滞在に、安くて便利なホテルはありがたい。

今日は上野の西洋美術館に行く。普通の人にとっては ホテルから美術館まで歩いて20分だが、オットを連れていくと、タクシーで30分かかる。上野動物園、不忍池、上野国立博物館、科学博物館あたりは、「うちの庭」だった。私は勤めていた新聞社を辞め、専門学校に行き、都立駒込病院に勤め出したので、病院から歩いて通える千駄木2丁目に一軒家を借りていた。二人の娘たちは、そこで生まれた。
休日には自転車で、前に次女、後に長女を乗せて、不忍池のカモにエサをあげに行ったり、東大の三四郎池に釣りに行ったり、上野動物園で一日中動物と遊んだりして過ごした。都心なのに 根津神社や須藤公園など、子供が走り回れるところがいくらもあり、夏目漱石図書館など、教育施設も豊富だった。二階家の屋上の物干し台から晴れた日には 富士山も見えた。西洋美術館は、よく子供たちを連れて来た。入館しなくても建物の前にオーギュスト ロダンの彫刻、「考える人」、「カレーの市民」、「地獄の門」のレプリカがあって、よじ登ったり、まわりを走り回ってよく遊んだ。

館内には松下幸次郎がヨーロッパで収集したドラクロア、クールベ、ミレー、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、シニャック、などフランスを代表する画家たちの作品が常設されている。20世紀の作品では、マルケ、ピカソ、スーチン、レジェ、エルンストの作品もある。
行ったときは、「ミケランジェロ展」特別展をやっていて、システイン教会の天井画など、彼の代表作をフィルムでみせていて、自筆の手紙などが展示されていた。NHKが作ったフィルム以外に見るべきもののない、何か内容の貧しい展示だった。これで特別料金をとるなんて。

入口で、支えないと歩けないオットと二人して、エスカレーターは?エレベーターは?と 大騒ぎして入館する私たちを見ている係り員が、私たちから入館料とミケランジェロ特別展示入室料、2000円をむしり取ってくれたが、いま、このときにもらったパンフレットを見たら65歳以上は無料と書いてあるではないか。オットは65歳以下に見えるわけがない。どうなんだよ!!!
展示室ごとに、係員が一人ずつ座っていて来館者を監視している。グループできている高校生がちょっと絵に近付いただけで 飛んできて注意している。エレベーターを探して重い足を引きずっているオットに平気で、「まっすぐ50メートル行って右です。」とか言って、自分が座っている横の従業員通路のドアさえ開けてくれればエレベーターの入り口なのに、知らん顔をしている。人は職業を選べる。こういう仕事につかなくて良かったと思う。

作品の数は多いかもしれない。しかし、市民の憩いの場所になっているシドニーのNSW州立美術館の雰囲気とは天と地の違いがある。シドニーでは、子供たちが館内で床に寝そべったり、走り回ったり、ソファで熟睡している人もいれば、画の前に座り込んで模写している人もいる。フラッシュをたかなければ絵の写真も撮れる。
芸術は決して特別なものではない。人は誰もが描きたい欲求を持っていて、訴え、表現したい欲求を何かの形にしたいと思っている。出来上がった作品に、自由に触れ、味わい、感じることができないならば、何のための美術館か。

スペインからやってきた版画を特別に展示していたが、これだけが、ちょっと良かった。16世紀のイタリア、フィレンツェの版画家たちによるエッチングだ。オラツィオ スカラッぺリとか、バルトロメオ コルオラーとかの聞き覚えのない人や、ジョバンニ べネト カスとリーネとか、ジョバンニ バテイスタ テイアポロとか、聞き覚えのありそうな人たちの美しいエッチングに感心した。精密画でサンタクローチェ広場や、フィレンツェの街の様子が描かれていて美しい。

タクシーで上野の山を下りて、カフェでケーキとコーヒーを。カフェでタバコを吸っている人がいて、びっくりする。禁煙コーナーがあるようだが、煙は広がる。幼稚園くらいの子供を連れたお母さんが二組、二人ともお母さんがケーキを前にしてタバコを吸っている。欧米でもオーストラリアでも絶対見られない風景だ。新宿では、こんな光景は見なかった。上野だけか?
ホテルでオットを寝かせて、一人で街に出てみる。上野は、とてもとても下町だ。ごたごたしていて、人が多い。そしてファッショナブルな店が一軒としてない。ユニクロさえ、上野のユニクロに置いてあるものは田舎っぽい。20年前の昭和の時代に戻ったようなセンスだ。レトロで良いかもしれないが、買い物したいものがない。みつはしであんみつを食べ、下町の熱気にあてられて、何も買わずにすごすごホテルに戻る。

夜はホテルでサンドイッチを食べれば良い、というオットを叱咤激励して、焼き鳥屋に食べに出る。威勢の良いお兄さんがカウンターのうしろで 手際よく焼き鳥を焼いている。生ビール、おでん、焼き鳥、から揚げ、刺身、焼き野菜、銀杏、冷奴をたて続けに食べて、満腹してベッドへ。
この動けないオットを連れて、明日はどうするか、気になって一日旅行のパンフレットを検討する。もういちど山に行けるチャンスはあるだろうか。「日帰り上高地のバスの旅」というのが、素敵すぎる。朝はやく新宿からバスで、上高地まで行き、上高地帝国ホテルで昼食を食べて、そのへんを散策して、深夜帰ってくるという。そのためには、新宿のホテルに動かないといけないが、どうしよう、、。上高地から穂高を見上げる瞬間を想像するだけで、ドキドキしてきて眠れなーい!

2013年10月26日土曜日

山でオットと3日目:安曇野

        



標高2450メートルの室堂から黒部平1828メートル、そして黒部ダム1470メートルに下りてきた。泊まった「くろよんロイヤルホテル」は、下界への玄関口だ。館内にはレストラン「吉兆」まである格調の高いホテルだった。オットは朝食にクロワッサンを、私は勿論御飯と味噌汁と山葵漬けだ。落葉松に囲まれたホテルを出て、バスで一挙に安曇野に下る。途中、蓮華岳、餓鬼岳、針ノ木岳、赤沢岳、爺が岳が見える。

安曇野は北アルプスの山々から湧き出た梓川、黒沢川、鳥川、中房川によってできた扇状地、松本盆地の一部だ。安曇野の至る所から地下水が湧き出ていて、ワサビやニジマスの養殖に利用されている。いまはリンゴの季節で、真っ赤に色付いたリンゴがバスの窓から手が届きそうに実をつjけている。四方山に囲まれていて、晴れていれば常念山脈、槍、穂高、唐沢岳、乗鞍岳、御嶽山などなど、北アルプスの山々が全部見られるはずだ。今日は、曇りで手前の低山しか見えない。あつい雲の上の方に、いつ山がのぞけるか、遠くに目を凝らす。

高瀬川を渡って、穂高町に入りワサビ農園に案内される。ワサビは気温の低い、水の綺麗な清流でしか育たない。ボートに乗って、ワサビ農園に水を送る水路で水遊びをする。オットは透き通った冷たい水を農園に送り込む水車にいたく感動して、ボートから身を乗り出して写真を撮りまくっている。6人乗りのゴムボートが オットが動くごとにバランスをくずしてユラユラ揺れて、同乗者たちがハラハラしている。ボート遊びのあとは、ワサビバーガー、ワサビラーメン、ワサビビールのある売店で、ワサビアイスを食べたが、ちっともピりっとこなかった。色だけはワサビ色だったけど。

そのあとバスは「碌山美術館」の前を通る。
荻原碌山、1879-1910は、東洋のロダンと言われる穂高町出身の彫刻家だ。穂高東中学校のとなりに、彼の個人美術館が建っている。ここには碌山に関係の深い高村光太郎の作品もある。40年余り前に、この美術館に一人で来た。槍、穂高を縦走して山を下ってきた。駅の案内所で紹介された民宿に泊まった翌日、民宿のおかみに勧められてふらりと立ち寄った小さな美術館で、彼の作品「デスぺラ」、(絶望)を観たとき文字通り雷に打たれたように、感動で動けなくなった。木の床の小さな館の中心に据え置かれたこの ひざまずく女の彫刻を見て、みごとに絶望する女の姿と、孤独にさまよう自分の心とが合致したからかもしれない。この彫刻に出会うことが、槍、穂高を登る目的だったかのようにも思えたものだった。「デスペア」は、碌山が生涯愛した、たった一人の女性、相馬黒光への報われない愛の苦しみを描いた作品だ。相馬黒光は中村屋の創始者、相馬愛蔵の妻で、夫婦ともに芸術家でもあった。体をゆがめて地面に伏せ、うつむく女は、碌山の絶望を全身で表している。1909年の作品だ。碌山は報われない愛に苦しみながら31歳で急死する。
数日後、私とオットは上野の国立近代美術館で、偶然、碌山の作品、「女」に出会った。両手を縛られて、顔を天に向ける女のブロンズ像をみて、すぐに碌山を思い浮かべたのだから、余程「デスぺラ」の印象がまだ残っていたのだろう。

バスは、「ちひろ美術館」に停まる。岩崎ちひろは、国際的に有名な絵本画家で、親が穂高町出身だったそうだ。美術館のまわりは広い公園になっていて保育園の子供たちが保母さんに連れられて、お弁当を食べていた。館内には3000冊の絵本が閲覧できるようになっている。ちひろの絵がたくさんのカードになっていて、母親が子供に画を見せながら、画のイメージを親子で膨らませて、物語をつくることができるようになっているセットを、DVDと一緒に購入した。4歳の孫娘と2歳の孫息子のために 良いおみやげができた。 美術館の隣の旅館でランチを食べる。見た目にきれいなお弁当。おっとっと、、、!マツタケがあるではないか。さり気なく焼き野菜と一緒に並んでいる。口に入れて初めて、マツタケだとわかった。すごく得をした気分。

旅の終わりに長野県の名産品ばかりを集めた物流センターに、バスが止まる。みんなおみやげを両手いっぱい買っている。マツタケを入れた籠も売っている。巨峰の入った籠をひとつ買って、ホテルで食べることにした。夕方、バスは最終地点、上田に着いた。ここから新幹線に乗って東京に帰る。25人のツアーで、ほぼ全員と仲良くなった。ガイジンはオットだけだったので、皆から大事にしてもらった。人ごみで迷子と遭難を繰り返す私たちだったが、皆親切でありがたかった。感謝感激で、さよならだ。

新幹線で、上野に到着。上野駅に「アンデルセン」というパン屋工房ができていて、焼きたてのパンを売っている。飲み物とサンドイッチとパイを買ってホテルに向かう。このツアーが始まる前に泊まった同じホテルなので、置いてきたスーツケースは、もう部屋に運ばれているはず。前と同じレセプションの人が、笑顔で「お帰りなさい」と迎えてくれる。そんな心使いと言葉かけが何よりうれしい。
ビールにサンドイッチ、安曇野で買った巨峰ブドウを食べると もうオットは、風呂にも入らずにベッドへ。私は3日間分のたまった洗濯物をもってホテルのコインランドリーへ。洗濯物のドライヤーが回っている間、アンデルセンのパイで、ウィスキーをチビチビやりながら、撮った写真を見返して、深夜ひとり二マニマして顔を緩める。とうとう山に行って、帰ってきたんだ。

2013年10月25日金曜日

山でオットと2日目:室堂から黒部湖へ

     


翌日、弥陀ヶ原から高原バスで室堂に行く。
室堂は立山、剣縦走の拠点地だ。手前に、「雪の大谷」という雪の名所がある。毎年8メートルもの積雪があるここは雪の吹き溜まりで、時として20メートルもの深い雪が溜まる。除雪車で 両側に切り立った氷の道を作って、4月から6月までの間、観光客が500メートルもの長い、雪に囲まれた道を歩くことができる。それがすっかり溶けてなくなってしまった今は、室堂ターミナルは観光客と立山登山者とでごった返していた。

今日の室堂は強風が吹き荒れている。山の上のほうは大変だろう。素晴らしい眺めだ。昨日はガスがかかって見えなかった剣岳が立山の横からくっきりと頭と肩を出してそびえ立っている。立山連峰が全部見える。立山の主峰、雄山3003メートル、浄土山2831メートル、別山2880メートルが目前に聳えていて、大日連山、国見岳、天狗岳も立派だ。

ここには水蒸気やガスを噴き出す地獄谷があり、火山活動によって爆発した火口をみせていて、今もなお小さな爆発を繰り返している。学生のころ立山を登った時は、地獄谷のなかを自由に歩けた。硫黄のにおいに閉口しながら、ガスが噴き出て、まさに地獄のような岩場を歩いたものだった。もう一度、地獄を見られると思っていたら、今は、立ち入り禁止になっていた。3-11の東北大震災が起きたとき、地盤が変動して、きわめて有毒なサリンガスが噴出するようになったからだという。本当に山は生きているんだな。だから絶えず変化をしながら、人を惹きつけて止まない。

室堂で山岳ガイドについて1時間半かけて、みくりヶ池を一周するトレッキングに参加したかった。参加したかった。本当に参加したかった。早朝なので、みくりヶ池に映える立山、剣の絵葉書のようなみごとな写真が撮れるに違いない。しかしオットが室堂で高原バスを降りたところから一階まで上がって、外に出ることも、2階に上がって展望台に行くこともできない。ヒューヒュー喘息の息をしているオットを放って、ツアーのみんなは嬉々として山岳ガイドに付いて出かけてしまった。
階段しかない室堂ターミナルで 隣接する立山ホテルのカフェを見つけてオットを座らせる。コーヒー1杯で、1時間ねばるようによくよく言い聞かせて、脱兎のごとく地獄谷の方向にむかって走り出す。剣の写真を撮るために。だいだい山で、走っている人なんかいるわけがない。ひどい形相で転がるように走る私を不思議そうに見る人々、、、わー見ないで、見ないでー!風だと思ってください。
風が強くてなぎ倒されそうだ。強風に逆らってガシガシ走る。1時間でできるだけ剣岳が良く見えるところまで行って写真を撮らなければ、、。やっと、目的を果たして写真をバチバチとると もう1時間経っている。向うから大荷物を背負った青年がやってくる。ライチョウに会いましたか?と笑顔で話しかけてくる。大日岳からずっと縦走してきた、という。うらやましいぞ。
大急ぎでターミナルまで戻りオットの身柄を引き受けて、駅に隣接する立山自然保護センターに連れていき、ライチョウの生態のフィルムを並んで見る。大画面に映し出されるライチョウを追ったフイルムを見ただけで本当にライチョウに会ったような気になれる。しあわせ。

標高2450メートルの室堂からトンネルの中をトロリーバスで、立山を横切って大観峰2316メートルに行き、ロープウェイで黒部平1828メートル、黒部湖1455メートルまで下る。とにかく人が多い。トロリーバスもケーブルカーもたくさんの人が乗車の順番を待っている。乗り換えごとに、ツアーコンダクターは、ツアーの面々に付いて行けなくて、駅のど真ん中で遭難している私たちを、人込みの中から探し出して順番の先頭に押し出すことで大変苦労していた。ごめんなさい。

黒部湖で遊覧船に乗る というのがツアーの目玉のひとつだったが、強風で遊覧船は出ないことになった。標高1433メートルの黒部ダム0.8キロの距離を歩いて渡らなければならない。アルペンルートを富山側から来たのだから、長野県側に出なければならない。オットを支えて歩かせる。少し歩いては、甘いものを食べさせて、また少し歩いては飲み物を与える。何のことはない私のやっていることは動物の「調教師」と変わらない。
黒部ダムはこのオットではなく、死んだ夫が昔、熊谷組に居た時に建設に関わった。山が深く道がないので資材を運ぶ運搬ルートを整備することが大仕事だった、とよく聞かされた。ダムの側面に殉職者慰霊碑がある。黒部のダム開通までのドラマを映画化し、石原裕次郎が主演した「黒部の太陽」は、有名だ。見てないけど。
新田次郎の「点の記」は、剣岳が主役だが、映画化されてとても良かった。実際に、撮影のためにスタッフも役者たちも剣岳を登坂したというが、重いカメラをもった撮影班は大変だっただろう。今またこの時の映画監督、木村大作は、黒部で新しい映画の撮影に入っているという。「春を背負って」というタイトルらしい。楽しみだ。

黒部ダムからは、真正面に赤沢岳2678メートルがとても立派に見える。とおく後立山連峰が大きく広がり、白馬山脈につながっていく。ダムの上0,8キロをようやく渡り歩き、扇沢行のトロリーバスに乗らなければならない。40段の階段がそびえ立っている。関西電力が山を掘って、岩をぶち破って作った山の地下を走るトロリーバスだ。1段 1段 オットをなだめすかし、飴を与え,鞭で脅かして登る。そのあいだ、たくさんの人が、「大丈夫ですか」と聞いてくれる。大丈夫なわけないだろーが!秘境で山をぶち抜いて作ったダムを歩いているのだから、大変なのはわかる。しかし車椅子の人がアルペンルートに来られるようになるのは、いつのことだろうか。

扇沢からバスを乗り換えて、黒部ロイヤルホテルへ。落葉松に囲まれたモダンな洋館だ。夕食はフレンチ。
男女別の露天風呂まである。でもオットには大浴場は無理。外国では温泉に、水着を着て入る。ずっと前、私の友達が男同士で露天風呂に入っている写真をフェイスブックにアップした。アメリカンスクール育ちの娘は、ニッポンの中年男達が裸で露店風呂に入っている写真にショックを受けて、すぐにフェイスブック友達から外して絶交した。娘はニッポン人が温泉で酒を飲んだり、くつろいだりするのを全部裸でするものだ、ということを知らなたっかのだ。私も公衆浴場や温泉で他人とくつろぐ経験がない。どんなものか 覗いてみたが沢山の人がいるところに入っていく勇気がない。深夜、オットを寝かせて、そっと誰もいない巨大な檜の風呂にちゃぽんと入り、泳いでみて、露天風呂に浸かってみた。石でできた温泉は深さも十分あり垣根で外の風や雨を防ぐ工夫がされているが、遠くの山が見える訳ではなく、宿の庭が見られるようになっている。これが森林浴か?経験してみたが、肌は本当にスルスルになった。だから人気なんだな。なっとく。

2013年10月23日水曜日

いよいよオットと山へ、弥陀ヶ原





アルペンツアーに参加する。そのために上野のホテルに1泊した。
ツアーの名前は、「歩かなくても楽しめるアルペンツアー」、、ジャジャーン!歩かなくて山に登って紅葉が見られるなんて、そんなことを山の神様に許してもらえるのだろうか。宣伝文句の「足の弱い人でも大丈夫」、「荷物は無料で一足先に宅配します」、「歩かないで、3000メートル級の山々が目の前に、、、」という言葉につられて、ついふらふらと参加を決めてしまった。オットは沖縄に行きたい と叫んでいたというのに。ゴメンよー!

アルペンルートとは、北アルプスの山々の中でも、長野県の大町市から日本海側の富山市を結ぶ立山、黒部の山々を行くルートを言う。具体的には立山から美女平、室堂に登り、立山を観ながら黒部湖に降りてきて、黒部ダムを見て扇沢に下りる、2泊3日の山旅だ。
学生の頃、夏に立山、剣岳縦走を何度か試みた。同じコースで、トロリーバスで室堂まで行き、立山の雄山に取り着いた。立山3山には成功したが、2度とも天候が悪くて剣まで行けなかった。その時以来、剣岳は私にとって「登山不可能な山」、永遠に見上げて憧れる山になった。どこから見ても美しい。妥協のない完璧な美しさ。堂々として取り付きようがない。こんなに素晴らしい山が、立山よりも低いなんて信じられない。立山3003メートル、剣岳2999メートル。いっそのこと剣の頂上に高いケルンを積んで立山より高くしたい。

新幹線あさま511号に乗る。上野駅で待っていると、長野に行く白のボデイに赤いラインの入った新幹線や、山形行きの緑色の美しい新幹線や、真っ赤な美しい流線型の秋田行きの新幹線が次々と入ってきて目を奪われる。オットは夢中でカメラを向けているけど、シャッターを押したときにはすでに走り去っていて、ひとつも写真に映っていない。
新幹線で長野駅まで行き、バスで立山駅へ。そこから立山ケーブルカーに乗り、一挙に500メートルの高度をかせいで、美女平に行き、またそこから高山バスで弥陀ヶ原まで登るのが今日のスケジュールだ。
美女平までの立山ケーブルカーに乗るときの階段が大変だった。オットは死にかかった。私だけの支えでは足りなくて、ケーブルカーの係りの人が オットを背負うようにして叱咤激励して何とかオットを引き上げてくれて、やっとのことでケーブルカーに乗ることができた。ケーブルカーは急傾斜に止まっているから、乗り込む階段も急傾斜で、手すりも頼りの綱も鎖もない。下りるのも大変だった。半分死んだ顔で、美女平行きのバスに乗り込んで、やっと息を吹き返した。「歩かなくても楽しめるアルペン」なんて、真っ赤なウソを信じちゃダメだよ。山はそんなに甘くない。

反対に私は山に入れば入るほど生き生きしてきた。落葉松とぶなの林のなつかしい香り。山から吹き下ろしてくる乾いた風の心地よさ。山の滋養を全身に感じて体中の血液が浄化されるようだ。何て山は素晴らしいんだ。心が嬉しくて沸き立っている。山の風と一緒に飛び回っている。

高原バスで、標高1930メートルの弥陀ヶ原に上がるまでの途中、称名の滝を見る。350メートルの高さを豊かな水量が落下する。日本で一番長い滝だ。ちょっと沢登りしてきます、、、と言って取り付くようなスケールではない。
弥陀ヶ原は、紅葉の真っただ中だった。もんくなしの日本の秋に出くわした。ダケカンバの真紅、ヌマモミジ、チシマササ、オオバスノキ、アオモリトドマツ、ナナカマド。どれもが異なった赤さに染まっている。弥陀ヶ原は美女平と室堂の間に広がる東西9キロ、南北3キロの広い大湿原だ。春から夏のかけては山からの水でたくさんの水溜りが点在し、水芭蕉、ゼンテイカ、チングルマ等が咲く。今ごろの秋にはすっかり湿地が乾いて歩けるほどになるが、尾瀬のように木道ができていて木道から外れて高山植物を踏み荒すようなことは許されない。木道から、かなり離れたところで、ライチョウがダケカンバの実を食べにくる。それが証拠に、金魚のエサのような形の良い乾いた糞がところどころに落ちている。ライチョウ、、、なんて可愛い奴なんだ。姿は見えないんだけど糞を見ただけで満足。

弥陀ヶ原には私たちの泊まる弥陀ヶ原ホテルと国民宿舎があって、どちらも白い大きなモダンな建物だ。弥陀ヶ原ホテルの中二階にある大食堂からのながめが素晴らしい。四方ガラス張りの窓から紅葉した中大日岳が見える。他に獅子岳、鍬崎山、白山なども。遠くを見ると、下方には日本海と富山市まで見える。キラキラ街の火が光る、日本海側の夜景は絶景だ。
夕食に、富山でしか捕れないという白エビを大根おろしをつけて出された。ホタルイカや、なんとかのワタ漬けとか、なんだかの刺身など山海の珍味もたくさん。それで、お酒を飲んだ。室堂から引いた大きな温泉まである。3000メートル級の山々に囲まれて、絶景をみながら温泉に、お酒で、のんびりできる贅沢に、なんだか慣れない。山に居るという実感だけで、嬉しすぎて山でくつろぐのがもったいなくて仕方ない。山だ、山だ、山に居るんだぞー! と、心がはしゃいで止められない。ひとりでワーっと叫んで走り回りそうだ。

2013年10月22日火曜日

オットと名古屋へ




昨日一人でホテルから脱け出したとき、新幹線のチケットを買ってあった。名古屋に行くには新宿からでは東京駅より品川駅のほうが歩かなくて済むという。みどりの窓口は、いつも事務的だが親切だ。
3泊泊まった新宿のホテルを後にして、名古屋に向かう。大きなスーツケースは 名古屋から東京に帰ってきたときに泊まる、上野のホテルに宅配で届けてもらうので、2泊3日の名古屋には、小さなリュックサックひとつで向かう。息子に会うために。

この息子は、むかしむかしシドニーにワーキングホリデイで来た時に、病気で倒れて入院したときに付き添った。高学歴で、高収入の大企業をサッサとやめてサーフィンとサッカーをするためにシドニーに来た。背が高く、ハンサム、デイスクジョッキーなど、趣味も多岐に渡り、ちょっと甘えっ子のほかは、文句のつけようのない35歳の青年。こんな100点満点のような青年がいまだになぜ一人なのか合点がいかない。出来ることならば、本当に本当の母親になりたかった。

オットは新幹線に乗れるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。朝から「わーい、わーい!!!」というはしゃいだオットの「心の声」が聞こえてくる。前回日本に来た時に、東京、京都間を乗ったときに、カートに飲み物やお弁当を乗せた売り子が来て、富士山を見ながらビールでお弁当を食べた感激を忘れていない。
ところが今回は名古屋までの自由席で、一番後ろの1号車。カートは前からくるという。1号車まで売りに来るのは名古屋に着くころでしょう と後ろの座席の人は言う。ホテルから新宿駅までオットを歩かせるのに駅から5分のところを30分かかった。そこから品川駅まで山手線に乗り、新幹線プラットフォームまで何とか歩かせるのに大汗をかいて、とてもお弁当や飲み物まで買って持つ余裕はなかった。車内で、5号車に自動販売機があります、という案内を見て行ってみたら、ぎょえー!ウォーターボトルだけの自動販売機だった。ありかよ!
ビールとベント―ボックスをひたすら待っているオットに、冷たいウォーターとリュックの底の底に残っていた1日前のぺちゃんこに潰れたクリームパンを食べさせる。空腹で不機嫌になったオットに、富士は見えるか、どころではない。

名古屋駅に着いた途端、駅ビルのなかにカフェがないかと探すオットの目が血走っている。私はきしめんが食べたい。味噌カツが食べたい。鶏手羽さきが食べたい。味噌おでんが食べたい。ひつまぶしが食べたい。スープスパゲテイが食べたい。お握りが食べたい。ういろうも食べたい。しかし、そのどれも食べられない。オットのために、見つけた駅ビルのカフェで、焼きたてのアップルパイを食べてコーヒーで一息つく。朝はトーストとコーヒー、昼はサンドイッチとコーヒー、夜はバーガーとビールで良いオット、何なら朝も昼も夜もサンドイッチで嬉しいというオット。何て奴と結婚しちまったんだ。全く腹が立つ。

息子と連絡がついて何年振りか、なつかしい息子がタクシー出迎えに来る。一緒にポルトガル料理屋へ。ますます立派になって、、、。名古屋で自立して生活している息子に こうして会えるなんて、何て嬉しいことだろう。息子がちょっとだけ触れる仕事の愚痴も、家族のことごとも、形の良い眉毛にカミソリでデザインを入れる独創性も、まっすぐ通った鼻筋も、力強い顎の形も、大きな手も、なにもかも嬉しい。生きて息をしていてくれて、それだけで嬉しい。私たち家族は、ワーキングホリデーで来たこの青年のことが本当に好きだった。シドニーに来たばかりで入院することになって、痛みをこらえて退院したときも、マンリーの海で溺れ死にそうになったときも、家探しや、職探しに苦労していた時も、忙しすぎてあまり力になってあげることができなかった。それが、いまは立派な職業人。眩しく見えるぜ!

次の日は名古屋城を見て、ノリタケガーデンを見る。昔は名古屋駅から名古屋城が見えた。大昔京都で逮捕されたドジな学生を身柄引き受けするために京都に向かう途中、名古屋駅から立派なお城が見えたので、いつか行ってみたいと思っていた。商業都市の中心名古屋は、今ではラシック、ナデイアパーク、名古屋パルコ、オアシス21、などなど超近代的な複合商業施設が林立している。美味しい食べ物屋さんも多い。高層建築のビルばかりで、もちろんもう駅からお城は見えない。
タクシーに乗って、昔は駅からお城が見えた、というと年配の運転手は、笑いながら肯定も否定もせず、「そんなときもありましたかねえ。」と感慨深げに言うだけだ。

夜、息子と観覧車に乗って、名古屋の夜景をながめる。
あとは焼き鳥屋で息子と一杯やる。味噌カツ、味噌おでん、ひつまぶし、手羽先、刺身、から揚げを次々と平らげる。名古屋のひつまぶしは、かば焼きを小さく切って載せたうな丼を、はじめは普通に食べ、2杯目にはネギ、ワサビ、ノリをたくさんかけて食べ、3杯目は混ぜ合わせた中身をお茶漬けにして食べる。うな丼を3回違った食べ方で楽しむ名古屋の名物だ。お茶漬けにする前に食べきってしまったので、あとでお茶を飲んだから、おなかの中でうまい具合に3杯目のひつまぶしをやっているはずだ。
頼もしい息子の腕で、タクシーにオットとともに押し込まれて、バイバイと、、、。遠ざかる息子の姿が小さくなっていく。ぼやけてよく見えないけれど。

2013年10月21日月曜日

オットと新宿で

        
念願の日本上陸から第2日目。
オットにビッグカメラでカメラと時計を買う。カメラと言ってもソニーのデジカメで4万3千円ほど。腕時計といってもシチズンの実用的なやつで、高級品とは程遠い、私たちにとっての日本上陸記念だ。
数年前オットに当時発売されたばかりの、ニコン5000デジタル一眼レフカメラを買った。オットが嬉しそうにこれを首から下げて写真を撮ったのは去年日本に来た時の一度きりで、それ以降は二度と使わない。重いのと、使い方が難しくなって使いこなせないままホコリを被っている。今回のは軽くて首に下げても重くないし、40倍にフォーカスできる。小さいカメラの中で一番レンズの質が良い、というセールスマンの勧めに従って買った。これだけのオットの買い物に朝、ホテルを出てから3時間、、、もう限度です とオットの息が上がっている。カフェでコーヒーとケーキを食べさせて、カメラ屋からホテルまでの300メートルの距離をタクシーで来たが、またタクシーで帰り、オットを寝かせる。全く2歳になったマゴより手がかかる。

シドニーを出る前にアマゾンに、30冊ほど本とDVDを注文して、ホテルに受け取ってもらってあった。他に乾燥食物まで注文してあったので大きな段ボールで3箱分、荷台に乗せてボーイが部屋まで運んできた。ネットで注文するときは次々とボタンを押すだけで簡単なのに、こんな大荷物になっているなんて、、、。中のものをより分けて、全部娘達宛てに郵便局から送る。外国にいても日本人は日本人。本が必需品だ。活字なしの生活ができない。エッサエッサと、ひと箱ずつ郵便局に運んで送り、荒い息で帰ってきた私に、「カステーラとか僕へのプレゼントもシドニーに送っておいてくれた?」とオットのたまう。「ねーよ、そんなもん!」全く2歳のマゴより手がかかる。

鬼の寝る間に、そっと音を立てずにホテルを出て、ルミネで自分のパンツを4本とシャツ10枚を買う。試着したのはパンツ1本とシャツ1枚だけで、買ったのは全部同じものを色違いで求める。パンツとジーンズだけは日本人体形に合った日本製でないと似合わない。シドニーで何着も買ったパンツが全部無駄になっている。オージーのお尻と日本人のお尻と、実際どうちがうのか、よくわからないが、不思議と日本製のパンツなら試着せずともうまく自分にフィットするのだ。ホテルに帰ってみると、眠っていたはずのオットが、ブーツをはいて、ジャケットまできちんと着て待っていた。ホテルで取り残されて、眠るどころか緊張して待っていたらしい。私が居ると寄りかかって自分では何もしないくせに一人きりになるととりつくろう性格。よくあるケースかもしれない。赤ちゃんを寝かしつけて、シメシメと、そーっと音をたてないようにお茶を入れて、お菓子を口に居れようとした瞬間に、寝たはずの敵がギャーと泣く、という感じ。全く 2歳のマゴより手がかかる。

すでに正装してしまっているオットと夕食のためにホテルから20メートル先にあるトンカツ屋まで歩く。サッポロ生をジョッキで2杯ずつ。これが美味しい。このために、はるばる日本にやってきたぜーい、と心から思える。ヒレカツの柔らかさにも感激。私がドボドボとカツにもキャベツにもソースをかけるのを顔をしかめて見ながら、オットは塩をパラリとかけるだけで、おいしそうに食べている。1年半前に来た時と、味が変わっていない。カラリと揚がったカツに、「良いお味ですね。」というと、若旦那、「前に来てくれたお二人さん、よく覚えていますよ。」と言われる。そう、あのころは、オットは支えなしでも自分ひとりでサッサを歩けた。80歳を超えると哀しいことだが自分でできないことが増えていく。ホテルに帰って、新宿の夜景を見ながら、ウィスキーの水割りグラスを傾ける。飲み相手、、これだけは2歳のマゴにはできない、か。

2013年10月20日日曜日

死ぬ前にもう一度日本に

    

死ぬ前にもう一度日本に行きたい、と突然言い出したオットを連れて日本を旅行してきた。
3週間かけて東京、名古屋、長野の山々を見て東京に戻り、懐かしい人々にも会い、二人して無事、病気も怪我もせずに、帰ってこられたので、ほっとしている。
もどってきたシドニーでは、明るい青空の下、紫色のジャカランダの花が咲き始めていた。出かける前は ようやく春を告げるワトルが、美しいゴールデンシャワーのように頭の上から垂れ下がるように咲き始めた頃だったから、居ない間にオーストラリアは春から夏に移行したことになる。

18歳で生まれて育った家を出た。あのころはベトナム戦争に反対するデモとストに明け暮れていて、閉鎖した大学内に住み着く活動家たちも多く、18の家出学生など珍しくもなかった。それからずっと時間がたち、18年という時間と同じくらいの時を シドニーに移ってきて、オットと過ごしたことになる。シドニーで大学を終えた娘たちも 立派に専門職について自立した。時の流れの速さに愕然とする。

2012年の4月に初めてオットを連れて日本を旅行した。桜が満開する前に帰ることになって残念だったが、オットは初めて見る東京、箱根、富士、京都、奈良に感激のし通しだった。帰って来て、3か月後に心筋梗塞の大発作を起こして緊急手術して命をつなぎ止めた。
今回の旅では、血圧計、狭心症の舌下錠、抗血液凝固剤、降圧剤、コレステロールの薬、膀胱筋弛緩剤、喘息薬、吸入器、3種類の吸入剤、緑内障点眼剤、黄変部変性点眼薬などなどを リュックに詰めて持ち歩くことになった。もともとサンタクロースのような体形のオット、運転で出かけるのは得意だが徒歩で歩くのは100メートルがやっと。左から支えるようにして抱えて歩くが、だんだん寄りかかってきて20メートル歩くころには、50キロで小柄な私に自分の体重を全部持たせかけてくる。旅行中ずっと、叱咤激励して歩かせる事を繰り返すことになったが、こんなことなら車椅子の人と旅行するほうがずっと楽だっただろう。

まず第一日目。日本航空便で成田に着いたのは夜。新宿駅から歩いて5分の距離にあるサンルートプラザ新宿ホテルに泊まることになっている。ホテルまで直接リムジンバスが行ってくれるので、助かる。途中、スカイツリーが、イルミネーションでさまざまな色で輝いていた。乗り物が大好きなオットは、飛行機に乗れるのが嬉しくて嬉しくて、はしゃいで機内食をすべてたいらげる、という信じられないことをして、リムジンバスに乗るときは 空港の自動販売機で買った缶コーヒーを握りしめて夜の光景に目を凝らしていた。
日本に着いて外国暮らしの日本人が、まずやりたいことの一つが、「自動販売機」に駆け寄ることではないだろうか。同じ一つの自動販売機なのに、ボタンひとつで、熱いコーヒーも冷たいお茶も出てくる。感激だ。缶コーヒーも沢山種類があって、こだわりの味を宣伝していて、どれも、美味しい。
もう一つ、外国暮らしの日本人が日本に着いて感激するのは、空港の座ると温かいトイレ。日本では空港でもデパートでも駅でも どこに行ってもトイレは洗浄器つきの温かい便座が当たり前だ。けれど欧米やオーストラリアでは洗浄器つきのシャワートイレットを知っている人が少なく、見たことのある人もわずかだ。このことを知ってからは、顔が綺麗なオージーが綺麗に思えなくなってくる。世界中で日本人ほどお尻がぴかぴかに綺麗な国民は他には居ない。みんなもっと自分たちのお尻を誇りにして良いだろう。

ホテルでやっと一息ついてベッドに入る。しばらくして やっとうつらうつらして来た頃に、オットがハートアタックみたいに胸が痛いと言い出す。眠いところを起こされて、「オイ、オマエ ただの食いすぎだよ。」と言って、くるりと背を向けて眠りたい本音をおさえて、血圧測定、脈をみて、狭心症の舌下錠剤を口に含ませてやる。本心ではなくて、ちゃんと優しい声で、「ちゃんと心臓動いてるよー。」と報告。安心したらしく、もう1錠舌下錠を服用させるとオットは すぐにスースー寝息をたてて眠り始める。
やれやれ。
第一日目から、これかよ!
死ぬ前にもう一度日本に行きたいと言い出して、娘たちには「去年日本に行かれて良かった。私の人生で最良の時だった。人生で一番幸せだった。」と遺言のように繰り返し言うので、、本当に、死ぬのかと思ってもう一度日本に連れてきてあげたけけれど、、、。この調子で毎年毎年、死ぬ前にもう一度、、、と言い出すつもりではないのだろうか。
眠るタイミングを失って、オットの気持ちよく眠る規則的な寝息を聴きながら、「まんまとだまされた。また、むこうが上手だった。だまされたー!」という感にさいなまれて全然眠れなくなった私。心穏やかでない第一日目の夜が明けていく。

2013年9月13日金曜日

映画 「イノセントガーデン」

 


サイコテイックスリラー、英米合作映画
原題:「STOKER」
監督:パク チヤヌク
キャスト
インデイア ストーカー :ミア ワシコウスカ
エベリン(母)       :二コル キッドマン
チャーリー(叔父)    :マチュー グード
リチャード(父)      :デルモット マルロニー
グエドリン(叔母)    :ジャッキー ウェバー

ドラマ「プリゾン ブレイク」の主演俳優、ウェントワース ミラーが脚本を手がけたことで、話題を集めた作品。脚本が高く評価されていたので、たくさんの映画監督が志願したが、選ばれたのは今までハリウッドで仕事をしたことがなかった 韓国人のパク チャヌク。この監督はソウル生まれの50歳。「オールド ボーイ」で、カンヌ国際映画祭特別賞を受賞した。この作品は日本の漫画を原作とした残酷シーンの多い復讐劇だが、クエンテイン タランテイーノから、高く評価された。
原題、「STOKER」、邦題「イノセントガーデン」は、オーストラリアでは公開されたばかりだが、日本では、5月にすでに公開されたようだ。キャストの二コル キッドマン、ミア ワシコウスカ、ジャッキー ウェバー等、映画の中心人物が そろってオージー俳優なのも、おもしろい。撮影中は、「グッダイ!」で、始まったんだろうな。「グッダイ、アウア ヤ?」(GOOD DAY、 HOW ARE YOU?)とかね。
ストーリーは
街からずっと離れた田舎の大きな屋敷にストーカー家の屋敷がある。父親、リチャードと、母親エベリンと、一人娘インデイアが、たくさんの使用人とともに住んでいる。広大な敷地には森も湖もあり、父親はハンテイングが趣味だ。愛娘のインデイは、幼いうちから父親から狩猟の手ほどきを受けていた。インデイは、誕生日に毎年新しい靴を父親から贈られるのが、習慣だった。

インデイの18歳の誕生日に、父親が車の事故で亡くなる。年頃で反抗期のインデイは母親との折り合いが良くない。父親を心から慕っていたインデイに、喪失感は大きい。そんな父親の葬儀の日に、インデイは初めて、一度も会ったことのなかった叔父を紹介される。チャーリーと名乗る、亡くなった父親よりずっと年の若い弟は、葬儀の日以来、屋敷にとどまり、以来不思議な3人の生活が始まる。ハンサムで優しいチャーリーに、母親エベリンはすぐに心惹かれていく。チャーリーはインデイにも優しい。美術学校に通うインデイは、友達の居ない変わり者。成績はとびぬけて良いが、誰にも心を許さず頑なな様子が、男の子たちの間では、からかいの対象になっている。チャーリーはインデイを学校の送り迎えを買って出るが、インデイはひたすらチャーリーを拒んで無視し続ける。不思議なことに、使用人たちが次々と居なくなる。遠方からわざわざ会いに来てくれた叔母も、チャーリーとの諍いの後で姿を消す。

インデイはつきまとう学校の男の子から、暴行を受けそうになって危機一髪のところでチャーリーに助けられる。チャーリーは当然のように、この男の子を殺害する。インデイは死体を埋めるのを手伝う。インデイが想像した通り、姿を消した女中や叔母も、チャーリーに殺されたのだろう。インデイは激しくチャーリーを憎みながら一方で、自身の理解を超えて異常な性的興奮を感じている。そんな危ない二人の関係を知った母親は、チャーリーをなじりとばし、反対に殺されそうになる。
そんなこんなで、インデイはついに、チャーリーの出現の真相を知って、、、。
というお話。

ストーリーだけを簡単にひとことで言ってしまうと、ストーカー家の異常性格者が次々と殺しまくるだけのお話だ。ただそれだけなので、どしてサイコスリラー映画に分類されている理由がわからない。推理や犯人捜しなど全くない。
しかし、映像作りが、とても凝っている。音の使い方が秀逸だ。シーンごとに聴覚、触覚、知覚をふんだんに刺激してくれる。
葬儀で美しい未亡人が人々に囲まれて、皆に慰められている。それを見ながら、18歳の反抗期真っただ中のふてくされ娘が、台所でガリガリ、ぐしゃぐしゃものすごい音をさせながらゆで卵の殻を割っている。音のない世界で、妖艶な未亡人がいつも人々の中心だ。一方で最大音で 娘が卵をガリガリ、メキメキ、、、。母と娘の対照的な心象風景を 交互に画面で対照的に映し出していて、みごと。上手だ。
だいたい、二コル キッドマンほど喪服とベール姿が似合う女優は他に居ないのではないか。古くは、ジャンヌ モロー、オードリー ヘップバーンなども、喪服の美人だった。二コル キッドマンは、彼女独特の気が強いくせに頼りなく、神経質ですぐにヒステリーを起こしそうな危ない雰囲気が、喪服姿にとてもマッチしている。彼女、夫の葬儀なのにイライラ ギリギリしていて 悲しみに心塞がれた未亡人と思えない。それが証拠に叔父が屋敷に住み着くと、すぐに尻尾を振って男の部屋に入りびたり。本当に悲しんでいるのは娘インデイだけだ。だから、こんな母親が、「こんなときだというのに、どうして私たち分かり合えないのかしら。」などと言ってくれても、娘としては無視するか、せせら笑うことしかできない。当たり前だよね。

ピアノの連弾シーンがある。インデイがピアノを弾いていると、チャーリーが後ろからそっと来て伴奏を始める。二人の連弾が手を交差しながら続けられ、鍵が鍵穴に カチャリと収まるように、二人の嗜好がぴったりと合う瞬間だ。この映画の一番の見せ所だろう。
画面がときどきスローモーションになったりする。そのことによって結構大切なメッセージが誰にでもわかるようになっている。その点、感の悪い人、裏読みのできない人、想像力に欠けていて暗示されていることが読めない人でも、なんかを感じ取れるようになっている。親切だ。

多感なテイーン、父親への憧憬、美しい母への反発、若い男になびく母親への軽蔑と憎悪、ちょっと変わった男への好奇心、過剰な性へのあこがれと嫌悪。これを 全然笑わない女優、ミア ワシコウスカが、いつもふくれ面で上手に演じている。毎年父が贈ってくれた靴が 実は父親からではなかった、という衝撃。靴への偏愛と異常性格者の関係ってわかりやすいかも。

映画の始めのシーンで、赤い花が出てきて、「花は自分で色を選んだりすることができない。」というインデイのナレーションがある。それが、最後の最後で白い花が 血しぶきが飛んで赤く染まるシーンで終わる。「ふむふむ、、なるほどね。」と いうふうにわかるようになっている。
花は自分で色を選べない。人は生まれを自分で選んで生まれてこれない。悪い血統の家に生まれれば その遺伝子は受け継がれていく。叔父の病は姪にバトンタッチされ、えぐい大量殺人は止まらない、というわけだ。
アートな映像、視覚、聴覚、触覚をフルに刺激してくれる画面作りには感服する。だけど、こういう映画が大好き というような人とはあまり友達になりたくない。

2013年9月12日木曜日

ラリアの関節痛よさらばの春

    

日本は暑い夏から ようやく秋めいてきた様子。日本の秋は一年のうちで最も美しい季節。
外国で暮らしていて、「あきこ」とは、どういう意味か、と問われることがある。私の「あきこ」は 文章の「あき」からきていて、先祖の淡路島の洲本にいた古東領左衛門の孫の孫あたりの古東章叔父さんからもらったものだ。素晴らしく美しい字を書く人で、文章も上手だった。でもそんなことを説明しても、外国人にはわからないから、アキは「秋」で、コは「子供」。オータム チャイルドという意味だよ、と。秋は日本では 山々が紅葉し、果物が実をつけ、高い山々には純白の雪を抱く、最も美しい季節なのだよ、と説明する。だから、私の職場では、ふざけて私のことを オータムチャイルドと呼ぶ人もいる。

南半球のオーストラリアでは日本のこの時期が、春になる。
今年は、いつの間にか木蓮が咲き始めたと思っていたら、梅も桃の花も桜も藤の花もいっせいに咲き出して満開になって、さっさと散っていった。街路樹のイングリッシュパイントリーも、杉も、樫も一斉に芽吹いて葉をつけた。そんな春の到来が 今年はことさら嬉しかった。冬の間、関節炎が痛んで、指も手首も腰も膝も顎まで痛くなり いつになっても改善せず、もうこのままずっと痛みを抱えていくのかと、暗澹たる気持ちになっていたからだ。

人の体は50年も60年も 何の問題もなく使えるように設計されていない。
人は、重い頭を支えて、何十年も立ったり歩いたりしてきたから、年を取れば誰でも 膝や腰が痛くなる。すり減って無くなった軟骨のあとに関節が変形してきて神経を圧迫して痛むから、まわりの筋肉を鍛えて、同じ動きをしても痛まないような迂回路をつくって、とりあえず炎症や痛みを回避することが大切だ。そのためには、1にも、2にもストレッチをすること、それだけが解決策と言ってよい。ステロイドの関節注射や鎮痛剤やマッサージや温泉などは、一時的には良いが、解決策にはならない。
一番こたえたのは指の第2関節の腫れと痛みだ。むかしヴァイオリンで酷使してきた。物をつかむのに力が入らない。人に握手されると 飛び上るほど痛い。錠剤を手のひらにとるが、曲がらない指の間をぬけて落とすばかり。コップを落として割る。ドアに鍵が入らない。夜中、痛みで目が覚める。

毎日、30分の自転車こぎ、30分のストレッチ運動を冬の間、ずっと続けた。指が動かなくなると困るので、ギターを始めた。自分で弾くだけでは続かないと思って、先生について習い始めた。薬指が曲がらないのでGコードもFコードもちゃんとした音が出ない。それでもレッスンは楽しく、ギターを背中に背負って電車で先生のスタジオに通った。
1にも、2にも ストレッチ。これを続けていけば必ず効果が出ると 確信しているくせに、努力が全然報われないのではないか、ずっとずっと痛いままではないのか、と自問自答の毎日。

ようやく、気温の上昇とともに関節の可動域が広がって、痛みが軽減してきた。1にも、2にも ストレッチ。人にいつも言い続けてきたことが、自分でもよくわかった。当たり前なことだけれども、努力は必ず報われる。痛みは必ず軽減する。月並みな言葉だけれど、真実だ。とても嬉しい真実。明けない夜はない。冬の後には、必ず春がくる。

写真は、ワラタ(WARATAH)の花。葉から2M以上の長い茎を持ち、その上に真紅の美しい花をつける。オーストラリアのネイテイブの花で、ラグビーチームの名前にもなっている。花(鼻)の下が2Mあるなんて、どんだけ女たらし!

2013年9月1日日曜日

メトロポリタンオペラ 「椿姫」

http://www.palacecinemas.com.au/events/metopera20122013season/

       

このごろ大泣きすることがなくなった。
14歳年の離れた最初の夫と一緒になった頃は、夫の居ないところで隠れてひっそり泣くことが、よくあった。ずっと年上の夫をもつと その人の世界が理解できなくて、ひとり置き去りにされたような気持ちで泣くものだ。今のオットとはもっと年が離れているが 全然泣かなくなった。自分が年を取ったうえ、この世に慣れて図々しくなったこともあるだろう。

久しぶりに心から大泣きしてみたくなって、オペラを観ることにした。オペラで一番泣くのは 文句なく 「椿姫」だ。オペラ「カルメン」では、カルメンの死は悲しいというよりも「むごい」。「リゴレット」の娘の死は、あり得ない悲劇だし、「ラ ボエーム」のミミの死は、しょうもない、みじめなだけだ。「蝶々夫人」の死は馬鹿げている。全然泣けない。泣くなら「椿姫」だ。
「椿姫」の悲しさは、やっと見つけた本当の愛の中で、若い恋人と幸せの絶頂にいるときに、男の父親に別れてくれと懇願され、諄々と諭されて、自分の幸せを諦める女が健気でいじらしくて、泣かされる。男に別れると言っても信じてくれない。他の男に心変わりしたと言って飲んだくれて遊び歩いても信じてくれない。一直線に愛を求めてくる恋人を、はねのけて、はねのけて最後まで男のために、自分を偽ろうとする女の姿に、大泣きせずにはいられない。うんと悲しい悲劇で泣きたかったら、やっぱり「椿姫」だ。

ニューヨークメトロポリタンオペラ「椿姫」、去年の公演をフイルムに収めたものを映画館の大画面で観た。今年はジュゼッペ ヴェルデイ生誕200年にあたる。彼はイタリア北部に生まれたが、そのころは、今日のようにイタリアはひとつの国ではなかった。イタリア統一は ヴェルデイ48歳のときだ。同じ年に生まれたワーグナーのように、パトロンが居たわけでなく、特別豊かでもなかったヴェルデイは、生活のために生涯 作曲し続けた。「椿姫」は 中でも彼が一番油が乗りきっているときに書かれた作品で、完成度が高く、素晴らしい曲ばかりだ。

指揮:ファビオ ルイズ
キャスト
ビオレッタ:ナタリー デユッセイ
アルフレッド:マチュー ポレンザー二
ジェルモン:ドミトリ ボロストスキー
ストーリーは
第1幕
パリ社交界の華、高級娼婦のビオレッタは 浮気者で人気者。結核を病んでいて、長生きできないことを自分で知っている。ならばと、うんと享楽的に遊び呆けて、男から男へと渡り歩いて派手に愉快に人生をやってきた。ところが若いアルフレッドに愛を告白されて、今までに味わったことのない胸のときめきを感じる。アルフレッドに惹かれている自分に自分で、ビオレッタは驚いていた。
第2幕
ビオレッタは生まれて初めて 純真な若い恋人アルフレッドとの幸せな生活に浸っている。社交界からは身を引いて、二人だけの幸せな生活。でも二人して暮らしていくために、ビオレッタは 自分の宝石や家具を売らなければならない。隠れて家具を売るところを知ったアルフレッドは、自分の世間知らずを恥じ、お金を引き出しにパリの家に帰る。アルフレッドの留守中に、老紳士が訪ねてくる。それはアルフレッドの父、ジェルモンだった。彼は 結婚する娘のために 世間体を繕わなければならない。家名を汚さずに済むように 息子とは別れてくれという。はじめは取り合わなかったビオレッタだったが、切々と説得する父親の話を聞くうち、遂にアルフレッドの将来のために自分が犠牲になって別れる決意をする。
第3幕
ビオレッタは心変わりしたという手紙をアルフレッドに残して、パリの社交界に戻る。他の男たちと遊び呆ける姿を見てアルフレッドは 逆上してビオレッタに金を投げつけて侮辱する。ビオレッタはただ泣き崩れるしかない。
第4幕
数か月後、結核に病むビオレッタは、死の床に居る。そこに、すべての事情を知らされたアルフレッドが駆け付ける。アルフレッドは、自分の無知を謝り、二人して田舎で暮らそうと言う。謝罪するために来た父、ジェロモンは、ビオレッタこそが、心の美しい本当に自分の娘にふさわしい人だと述べて、心から詫びる。しかしビオレッタにはもう それに答える力が残っていない。二人に見守られながらビオレッタは死んでいく。
というお話。

このオペラには男女合唱団による「乾杯の歌」をはじめとしてアルフレッドの「燃える心を」など、有名でテレビやコマーシャルなどででよく使われている曲がたくさんある。ビオレッタが始めから終りまでずっと舞台の上に居て、息を継ぐ暇がない。彼女の独白が多く、動きも激しい。独白やアリアは技巧的に難曲が多く、3時間余り、コロラドソプラノにとって、とても見せ場が多いが、過酷ともいえるオペラだ。マリア カラスが好んで歌った。

ビオレッタを歌ったナタリー デユッセイは、やせっぽちで小さな人だが、驚くほど豊かな声量で、気品のある美しいコロラドソプラノを歌う。彼女の「ラメンモールのルチア」を メトロポリタンオペラで見たことがあるが、いつも彼女の体当たりの演技には目を見張る。今回のビオレッタも、この人ほど役にふさわしい歌手はいないのではないかと思うほど役になりきっている。何度も失神してバタリと倒れるシーンがあるが、本当に体当たりで倒れるので 彼女の体は傷だらけではないだろうかと 本気で心配した。すごいエネルギーだ。

アルフレッドのマチュー ポレンザーニ、イタリア人らしく背が高く体も大きく見栄えが良い。芝居も上手くて、若くて世間知らずの坊ちゃんが、一人の孤独な女にのめり込んでいくのが納得できる演技だ。倒れたビオレッタを抱きしめながら 愛を切々と歌い上げながらボタボタ涙を ビオレッタの顔に落としていた。あわてて拭いていたが、失神しているはずのビオレッタは目を閉じていて、顔の上に ポタポタ涙が降ってくるのにじっとしていなければならなくて辛かっただろう。真迫力の演技だ。こんなシーンは、フイルムを見ている人にしか見えず、舞台で見ている人にはわからない。

しかし、このオペラでは何といってもアルフレッドの父親のバリトンに じっくり聴かせてくれる魅力が詰まっている。ジェルモンのバリトンがよく響きわたって、説得力をもってくれないと、どうしてこれが悲劇中の悲劇なのかわからなくなる。ビオレッタが自分の幸せを諦め犠牲になって、アルフレッドが嘆き悲しむ理由がわからなくなる。ジェルモンは、とて大切な役だ。これを歌ったドミトリ ボロストスキーは銀髪で出てきたが、本当はアルフレッドと同じくらいの年か、もっと若かったのかもしれない。バリトンなのに背が高く顔が良い。バリトンは背が低く、樽みたいな体形の人が多いから、こんなバリトンの登場がすごく嬉しい。こんな人に切々と訴えられ、懇願され、諄々と説得されたら、なんでも言う通りにしたくなる。

1853年に作曲されたこのオペラ、ヴィクトリア調の背景で屋敷も、どっしりとして華麗な舞台設定、ドレスは コルセットでウェストを絞った古典的な裾の長いドレスで出てくるのが常だったが、この舞台は現代風。全4幕で、舞台が回り舞台で 背景が変わったりせず、幕間にインターミッションが入ることもなかった。終始 簡素なひとつの舞台に 移動式の家具が出てきたり引っ込んだり 壁がドアになったり実に合理的に空間を使っていた。まず白壁で囲まれた舞台に巨大な時計がひとつ。限られた時間に生きるビオレッタの命の長さを表している。ビオレッタの衣装も、赤い短いドレスひとつだけで、着替えることもない。華やかな社交界で飲んで踊るシーンも、ダンサーも男女合唱団も みな男装して黒い背広姿だ。とても斬新な発想の舞台だ。

舞台が簡素で衣装などが単純になればなるほど 聴き手の関心は 3人の登場人物の役者ぶりと声そのものに集中する。そしてその期待が、裏切られることはなかった。3人3様の良さが合わさって 素晴らしいハーモニーを醸し出している。ソプラノの気品ある力強い声と、テノールの甘い語りかける声と、バリトンの圧倒的な説得力。まったく、よく泣かせてくれた。ビオレッタが嘆くたびに、アルフレッドが絶望するごとに泣かされた。本当に、オペラはやはり素晴らしい。

2013年8月26日月曜日

映画 「ランナウェイ 逃亡者」

    


原題:「THE COMPANY YOU KEEP」
原作:ニール ゴードンのスリラー小説「THE COMPANY YOU KEEP」
監督:ロバート レッドフォード
キャスト
ニック スローン:ロバート レッドフォード
シャロン ソラズ:スーザン サランドン
ミミ        :ジュデイー クリステイー
ベン セパード :シーア ラベロフ
オブボーン元警官:ブレンダン グリーソン
ストーリーは
妻に先立たれた弁護士 ジム グラント(ロバート レッドフォード)は、11歳の娘と ニューヨーク郊外のアルバニーで、二人で暮らしている。ある日、30年前に反ベトナム戦争運動にかかわって指名手配されていた極左組織のシャロン ソラズ(スーザン サランドン)が逮捕されたというニュースが流れる。彼女はFBIの捜査追及を 30年余りの間逃れて逃亡生活をしていたのだった。彼女は銀行強盗の際に爆弾で銀行のガードマンを殺害した容疑で逮捕された。この事件の主犯はニック スローンという男で、30年間指名手配されていて まだ逮捕されていない。

新聞記者のベン セパード(シーア ラベロフ)は、シャロン ソラズがニューヨークの弁護士ジム グラントという男に関係がある というFBIの極秘情報を得る。ベンはシャロンの逮捕を契機に 当時の反ベトナム運動の地下秘密組織に興味を持ち 指名手配されている逃亡者たちを追うことを ジャーナリストの使命だと考える。さっそく弁護士ベン セパードに会いに行き、どうしてシャロンの弁護を引き受けないのかと問い詰めても、ジムは質問をかわすだけ。疑問に思ったベンは、ジムの素性を調べる。すると驚くべきことに、ジム グラントという男はすでに死亡していて、現在弁護士として成功している男は、ジムになり澄ました誰かだ。30年前の秘密地下組織のファイルと指名手配中の顔写真を照らし合わせて見て、ベンは、ジム グラントと名乗る弁護士こそ、事件主犯で逃亡中のニック スローンであることを知る。大スクープだ。翌日の新聞は、ベンの記事が 大きなセンセーションを起こす。

1980年、ミシガン州で過激派が銀行強盗を行い、その際に’ガードマンが殺された。その容疑でFBIが30年余りも追跡していた男を一人の新聞記者が暴き出したのだった。ニックは娘を連れて逃亡する。今は大学教授だったり、材木商だったりする昔の仲間を頼りながら、逃亡し、遂にカナダ国境で、昔の恋人、ミミ(ジュデイー クリステイー)に会う。二人は昔愛し合っていて、別れた時にはミミは、妊娠中だった。ミミは口を閉ざしていて、ニックには、当時の事情がわからない。
一方、新聞記者ベンは 調べれば調べるほど自分が窮地に追いやってしまったニック スローンが、銀行強盗に関与していたとは思えなくなっていく。そこで初めて銀行強盗があった時に、最初に現場を捜査した元警官ヘンリー オズボーン(ブレンダン グリーソン)にインタビューを申し込む。そこでベンは彼の美しい娘レベッカ(ブリット マーリング〉に出会う。元警官は 予想通り強盗事件にニックは関わっていないと証言する。ますますベンはペンの力でニックを追い詰めてしまったが彼が殺人犯ではない確証をもち、自己嫌悪に陥る。

一方、ニックはミシガンの銀行強盗の主犯だったミミに、自首を勧める。シャロンが逮捕されたあと、ミミの逮捕も時間の問題だ。当時ミミは、恋人だったニックに罪を着せてまで逃げ延びなければならなかった。30年たったいまやっとニックは、ミミからニックとの間にできた子供が実は 事件のあと元警官ヘンリーのもとで育てられ、今は美しい立派な女性になっていることを知らされる。
警察の追手が迫った。ミミはボートでカナダに逃げる。ニックは警察の目をミミからそらすために反対方向に逃げ そして逮捕される。逃亡に成功したミミは しかし、あとで考えを改めて捜査隊に向かって行く。
記者ベンは30年前の事件を掘り下げて人々に事実を知らせることに、どんな意味があったのか、自分は無実の弁護士を追い詰めて傷つけただけだったのではないのか、何も知らずに元警官の家庭で育ち立派な社会人になっているレベッカの素性をさらし出し、傷つけることになっただけではないのか、報道の真実とは何だったのか、自問自答するのだった。
というおはなし。

総じて、ベビーブーマー以外の若い人にとっては 退屈な映画だ。どうしてこんなにオールドファッションの年寄りばかり出している映画に人が来るのか 若い人には理解できないだろう。私は若くもなくベビーブーマーで、まさにこの映画で語られる時代を、ベトナム戦争反対運動にも人並み程度に関わり、そのために資金調達に銀行強盗くらい やっても仕方ないよな、くらいの認識で駆け抜けてきたが それでもこの映画は退屈だった。
テーマが何なのか明らかでないからだ。
一つは ベトナム反戦運動してきた地下組織のメンバーにとって、当時の誤りを今、どう考えるのかというテーマ。ここでは殺人に至るテロは誤りだったから、潔く自首して罪を認めると 言っている。それも単純すぎるような気がする。
もう一つのテーマは、30年間秘密にしてきたことを 報道記者が暴き立てて「事実」を表にさらけ出すことにどんな意味があるか、というジャーナリストの良心に係わることだ。この映画では どちらのテーマも中途半端で見ている人に何も考えさせない、何も訴えないで終わってしまった。

40年前、アメリカには徴兵制度があった。アメリカが北ベトナムを爆撃し始めた1965年、ベトナム戦争はベトナム地域のことなどでは無く、全世界の緊迫する問題になった。アメリカの若者は強制的にベトナムに送られ、反戦デモを大学内で行っただけで学生が警察に撃ち殺されたりした。従軍を拒否した若者は刑務所で拘禁され暴行を受けた。沖縄ではベトナムでバラバラになった米兵の死体を、次々とつなぎ合わせて本国に送り返していた。ベトナムの独立を封じ、南ベトナム傀儡政権を作ってアジアの軍事拠点を作ろうとしていたアメリカに 若者が抵抗するのは、当然の流れだった。この当時、学生生活を送ったベビーブーマーには、100人100様のストーリーがあるだろう。問われれば答えるしかないが、他人のストーリーをいまさら聴こうとは思わない。
だから、ニックとミミが自首しろとかいや、しないとかベッドシーンの後で グダグダやっている姿にはげんなりだ。年寄りのベッドシーンなんか見たくない。ロバート レッドフォード77歳、ジュリー クリステイー72歳の裸など誰も興味ない。

 ロバート レッドフォードが良かったのは、「明日に向かって走れ」1969年、「夕日に向かって走れ」1969年、「ステイング」1973年、「華麗なるギャツビー」1974年、「愛と悲しみの果て」1985年、「モンタナの風に抱かれて」1996年までだ。年を取れば醜くなる。出しゃばるのを止めたり、醜い部分を修正したり、ぼやかしたり、隠したりするのは必要最低限のエチケットだ。
ただ、66歳のスーザン サランドンが逮捕され尋問のあとに、今、同じ状況になったら同じことをまたやるつもりか、と問われて、ためらわずに「私は同じことをするだろう。」と毅然と答えるところは良かった。

報道記者としての良心の問題。FBIからご秘密情報を盗み出し、犯人をあぶり出して、追いつめる、この記者は事実を知りたかっただけだ。それが結果としてたくさんの人を傷つけることになり、真犯人の逮捕につながり、封じていた過去の秘密が表に出た。ジャーナリストの使命と良心の呵責。これはジャーナリストにとって永遠の悩みだ。映画ではこれについて、踏み込んでいない。
映画としては、退屈な映画なので、日本公開はないだろうと思っていたら、10月4日、公開だという。

2013年8月23日金曜日

映画 「エリジオン」

               


映画:「エリジオン」
原題:「ELYSIUM」
監督:ネイル ブロンキャンプ
キャスト
マックス デコスタ:   マット デーモン
防衛長官ジェシカ:   ジュデイー フォスター
エージェント クルーガー: シャルト コプレイ
フレイ サンチャゴ:   アリス ブラガ

タイトルのエリジオンとは 理想郷、英雄が最後に達成して行き着く場所のこと。アメリカ映画。サイエンスフィクションのアクションスリラー映画。
製作、監督、脚本は、ネイル ブロンキャンプ。
ストーリーは
2154年、地球は人口の爆発的な増加や、資源の奪い合いによる各国間の戦争、度重なる自然災害によって、病弊し切っている。もはや国は無くなっている。人類は、持てる者と持たざる者の2つの階層に完全に分かれている。一方は、地球から離れてエリジオンに住むわずかなエリート。他方は貧困と餓えの蔓延した地球に住む圧倒的多数の人々だ。

エリジオンは巨大企業、アーマデインが創設した宇宙空間に浮かぶ人工的に作られた星だ。最高に発達した科学と文明を持ち、そこに住むわずかな住民には、もはや寿命も病気もない。贅沢に人々はスポーツに興じ、高い文化を享受している。
地球から 上空に浮かんでいるエリジオンが見える。指輪のような形をした銀色に輝く美しい星だ。ロスアンデルスの孤児院で育つマックスは、仲良しのフレイに、いつも自分が大きくなったらフレイを連れて必ずエリジオンに連れて行ってあげると約束していた。

マックスは成長して、いまではアーマデインの工場で働いている。フレアは看護婦になった。汚れ果てた空気の中で人々は貧困と病気に苦しんでいる。アーマデインが治安警察もすべて支配しており、人々はたくさんの警察ロボットに監視されて、暮らしている。ある日、マックスは工場で機械の誤作動のために高濃度の放射線を全身にあびてしまい、後五日の命、と診断される。時間がない。五日間の間にエリジオンと地球を往復する宇宙船を乗っとって、エリジオンに行かなければ命を長らえることができない。マックスは躊躇わずに地下組織に入る。そこで、地下組織で働く医師と技術者によって、人工頭脳を脳に埋め込み、人工神経を手足に装着する人体改造手術を受ける。

マックスはアーマデインの経営者の乗る宇宙船を乗っ取り、経営者の脳をすべて自分の頭脳にコピーする。そしてエリジオンに向かおうとするところで、フレアを人質にとられて、エージェント クレイガーの執拗な追跡に抗しきれず拘束されて、囚人としてエリジオンに連行される。そこでもマックスは戦い続けるが、力尽き、、、。
というお話。

強い男、マット デーモンがスキンヘッドになって、頭に人工頭脳を取り付けて大活躍する。寡黙で幼馴染の女の子との約束を果たすために傷ついても、死にかけても戦い続ける。マット デーモンが好きな人には見る価値あり。だけれどもサイエンスフィクションとしては、つっこみどころの多い子供向け映画か。
1: 寿命がなく、年を取らず永遠に生きられる社会が2154年にくるとは思えない。映画では、どんな病気もマシンに中に入ると治ってしまうことになっているが、すべての疾病は原因も異なれば、発病のメカニズムも異なる。単純な怪我ならば 特別なマシンに入って早く治すことができる時代は来るだろう。しかし遺伝病や自己免疫疾患のように複雑なメカニズムで発病した疾病をマシンで一瞬で治せるはずがない。また精神疾患はどうだろう。寿命が無くなって、永遠に生きられることになったら人は重篤な精神疾患に苦しむことになるだろう。人は機械ではないから、マシンに入ってたちどころに病気が治る時代がくる、ということはあり得ない。

2:映画では、一つの巨大企業が地球を支配しているが、資本主義社会では企業同士が競い合って巨大企業になるのであって、一つだけの企業が生き残って、全世界を牛耳ることは考えられない。
3:映画では人類をエリジオンに住む階層と地球人の階層とに2分しているが、永遠に生き続けるエリジオンの人口が変わらないならば、文明は衰退する。代わって地球では圧倒的多数の頭脳が大きな力を持つ。いくらロボット警察が監視していても安定した社会は構築できない。またエリジオンの食糧生産、エネルギーの生産はどうなっているのか。人の命が永遠である以上、食糧もエネルギーも永遠に生産可能でなければならない。
4:地球から見て、いつも同じところに浮かんでいる人口的に作られた星エリジオンは、地球と月と太陽との自転の関係では どうなっているのだろう。いつまでも浮かんでいられるものなのか、そのあたり宇宙物理学をやってる人でないと、よくわからない。

アメリカ人は世界で一番 他言語を習得することが苦手な国民がと言われているが、本当にそうだ。ヨーロッパのように地続きで異なる言語文化をもった外国人を持たないから、自然と自分の言葉と自分の世界が世界のすべてだと思い込んでしまう。この映画では、ロスアンデルスとエリジオンしか出てこない。出てくる人はみんなアメリカ人ばかりで、インド人もいなければアジア人も出てこない。世界人口の半分はインド人と中国人なんですけど、、。アメリカというか、ロスが世界だ ロスが地球だ、と、、こんな小さな世界でサイエンスフィクションで遊んでもらいたくない。
でもマックスの苗字が、デ コスタで、フレイの苗字がサンチャゴ というのは、おもしろい。会話もスペイン語と英語のミックスだった。伝統的なアメリカ人の氏は 2154年には絶え果てて、人々も言語もスペイン語圏の人々に乗っ取られていることを予見している。

マット デーモンがSFの主人公という不思議で意外な役柄。この前の映画「ビハインド カンデラブラ」では,意外や意外、、、同性愛のピアニストのペット、ビューテイフルリトルボーイの役をやったのもびっくりだった。芸達者だなあ。
ジュデイー フォスターが知的で冷血、防衛庁長官といった役どころを演じている。マーチン スコセッシの「タクシードライバー」で若干13歳で娼婦役を演じた頃からのファンとしては、彼女の口許の皴が悲しい。ハリウッドは一流の化粧係を抱えているのに、どうして彼女の皴をきちんと消してくれなかったんだろう。フレイを演じたアリス ブラガが若くて可愛らしい。二人の女性を比べても仕方がないが、やっぱり大写しの画面では年齢の衰えが鮮明に出て隠しようがない。

ブラッド ピットの「ワールド ワオーZ」、トム クルーズの「オブリビオン」、マット デーモンの「エリジオン」と、ハリウッドを代表する役者たちが それぞれSF映画を主演したが 総じて「どこがサイエンスなのか」「これでもサイエンスか」と一喝したくなるような、ストーリーの細部の詰めの甘さが目につく。医学知識の欠如、科学知識の不足、未来をイメージするイメージそのものの貧困さが、気になる。
しかし、頭にマイクロチップを埋め込んで、頭からコードを延ばして別人の頭につなげるとその人の頭脳をコピーできるし、人工神経を手足につけて戦闘ロボット並に強くなる、というのは 夢みたい。人として心をもったまま、ロボットのような機械人間になって、悪者をばたばたやっつけて、正義に味方になって戦いたいというのは子供のころ、だれもが、思い描く夢かもしれない。そんな子供の夢を、大真面目に、たくさんのお金をかけて映画にしてくれたのだから、かなり科学的にあり得なくても、つっこみどころ満載でも、それで良いのではないか。娯楽映画なのだから。


2013年8月12日月曜日

映画「ビハインド ザ カンデラブラ」


http://www.youtube.com/watch?v=TQ9OgbLCsUM
    



原題「BEHIND THE CANDELABRE」

オランダで、同性どうしの結婚が法で認められるようになって12年。現在のところ同性婚が認められている国は、パートナーシップを認めている国を含めると、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、スペイン、ポルトガル、カナダ、南アフリカ、アイスランド、ルクセンブルグ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、メキシコ、、ドイツ、などなど。今年、英国議会で承認され、続いてニュージーランドに先を越されて、やっとオーストラリアでも同性婚法案が討議されるようになってきたが、承認されるまでには、まだ時間がかかる。
結婚は個人の嗜好に関わることで、結婚しようがしまいが、同性婚か異性婚か、他人が関わることではない。社会的責任を負う成人が結婚すれば、年金や遺産相続など、社会保障上の優遇措置も、異性婚、同性婚ともに等しく法的に保障されなければならない。当たり前のことだ。今まで法的保護されていなかったことのほうが異常だった。

映画「ビハインド ザ カンデラブラ」を観た。邦題はまだわからない。
「カンデラブラ」という言葉は、シャンデリアの複数形。だから原題を直訳すると、「シャンデリアの輝く後ろで」とか、「煌めくシャンデリアの背後で」というような意味になる。
マイケル ダグラスとマット デモンが同性愛カップルを演じた話題作。今年のカンヌ国際映画祭に出品された。ハリウッド映画の重鎮マイケル ダグラスと、アクション ヒーローのマット デーモンという、考えられないようなカップルのとりあわせの意外さに惹かれて見に行った。

監督:ステーブン ソダーバーグ
キャスト
リベラーチェ:マイケル ダグラス
スコット ソーソン:マット デーモン
ドクタースターツ:ロブ ロウ

ストーリーは
エルビス プレスリー、エルトン ジョン、マドンナやレデイーガガが、舞台のパフォーマンスで大爆発して人気が出る、その前の時代。テレビがやっと全米の家庭に普及したばかりのころ、世界の舞台で誰よりも人気を得ていたのは、ピアニストのリベラーチェだった。彼は一流のエンタテイナーとしてラスベガスのヒルトンを拠点にして、きらびやかで派手な演出で、ピアノを演奏していた。舞台には、きらびやかなガラス細工で覆い尽くしたピアノ。純白のミンクのガウンを羽織り、10本の指全部を純金の指輪で飾り、派手な衣装を身にまとったリベラーチェが舞台に上がると、熱烈な女性ファンたちは歓声を上げ、彼がダンス音楽を弾くと踊り狂い、クラシックを奏でると涙して静かに聴き入った。当時のアカデミー賞の舞台も、リベラーチェの演奏演出でリードされていた。
彼は、シングルマザーだった母親を大切にして、身の回りに、美青年を沢山はべらして、はたから見ると同性愛者だったが、それを決して認めることをしなかった。彼の自宅は 演奏の舞台をそのまま持ってきたように豪華絢爛、部屋のどこにでも特大のシャンデリアが煌々と輝き、家具調度品や食器に至るまでビクトリア朝、ベルサイユ宮殿をそのまま再現したように派手に飾り立てていた。

1977年、犬の調教師をしていたスコット ソーソンは 友人に誘われてラスベガスでピアニスト リベラーチェのショーを見たあと舞台裏を訪れる。ひと目でソーソンを気に入ってしまったリベラ―チェは 強引にソーソンを自分の秘書になってもらいたいと求める。父と子ほどに年齢が離れているにもかかわらず二人は愛し合うようになり、ソーソンはリベラーチェの身の回りの世話から ショーにまで一緒に登場するようになり、互いになくてはならない関係性を築き上げる。

リベラーチェは生来の気前の良さから自分が好んで身に着けている宝石や金銀と同じものをソーソンに与え、彼のために家を買い、養子縁組までして世話を焼く。若いソーソンは時として、自分の好きな時間に外出して、普通の人のように友達付き合いもするふつうの生活をしたい、今の生活には自由がない、と苛立つときもあるが、リベラーチェの情愛の深さに、自分もまた全力でリベラーチェにつくして生きようとする。二人の愛情生活は5年余りの間、続く。

しかしソーソンが 姉の葬儀のために田舎に帰っている間に、寂しさに耐えられなくなったリベラーチェは若いダンサーに心を移す。絶望するソーソン。リベラ―チェがすべてだったのに、と叫びながら耐え難い痛みから、ソーソンはアルコール中毒に身を落とす。
5年経った。ソーソンは自分を取り戻し、平穏な生活に戻っている。ある日、リベラーチェから電話がかかってくる。電話に応じて、ソーソンがリベラーチェを訪ねてみると、たくさんの使用人を抱えて豪華絢爛だった屋敷は見る影もなく、彼は死の床に居た。二人は溢れる思いで語り合う。そしてリベラーチェは人生で一番幸せだったソーソンとの生活の思い出に、自分がいつも身に着けていた指輪をソーソンに与える。ほどなくしてリベラーチェの死が伝えられる。エイズだったが、死因は発表されなかった。というお話。

監督ステーブン ソダバーグは スウェーデン系アメリカ人。
1989年「トラフィック」で、アカデミー監督賞受賞。史上最年少26歳の受賞だった。アメリカの暴力社会、人種差別社会や警察内部の不正を描いていて、良い映画だったので、社会派の監督かと思っていたが、このあとは、「オーシャンズ11」(2001年)、「オーシャンズ12」(04年)、「オーシャンズ13」(07年)で成功。2008年になって、チェ ゲバラのバイオグラフィー「チェ」を製作した。「チェ」は前篇、後篇と合わせると6時間あまりの長編映画。オーストラリアでは公開されなかったので、台湾でヴィデオを求めて、誰もいない日に、ソファのまわりに昼食、夕食、おやつ、飲み物を準備して一挙に観た。素晴らしい作品だった。今回のこの映画も、とても良い。芸達者な二人の役者がそれぞれとても良い味をだしている。

マイケル ダグラスは68歳。ベラルーシ出身でユダヤ系アメリカ人俳優、カーク ダグラスの息子。「ウォール街」(1987年)でアカデミー主演男優賞、「ローズ家の戦争」(1989年)、「ブラックレイン」(1989年)を主演、これは松田優作の最後の作品にもなった。
1979年に映画「チャイナシンドローム」を製作出演したが、これはマイケル ダグラスが反原発活動家として原発の危険を予告したという意味で、記憶に残る。ジェーン フォンダがこの映画を主演したために、ジェネラルエレクトリック(GE)は 怒ってすべてスポンサーから下りると、公言したことでも話題になった。しかし、この映画公開日、1979年3月16日から12日後に、ペンシルバニア、スリーマイル島で原子力発電所で、原子炉炉心がメルトダウンする事故が起こった。あたかも映画が事故を予言したかのような形になったことで、映画としては全然イケてない映画だったが 映画史上に残る作品になった。

マット デーモンは、頭脳明晰、正義のために戦う強い男か、立派なお父さんの役ばかり主演してきた。リベラーチェににじり寄られて毒牙にはまって、遂に心まで奪われていく心優しい青年の役を好演。全裸シーンが多いけれど68歳のマイケル ダグラスも40代のマット デーモンも若い体に感心。二人の男の関係がとても自然に描かれていて好感がもてる。表も裏もない純真な男と男の関係が、切なくて優しくて とても良い。
リベラーチェに限らず、シャンデリアのように輝くスターの生と死のストーリーは 輝いているときには美しいだけに悲しい。エイズで死の床にあってもなおソーソンの目からみるとリベラーチェは輝いて見えている。彼が棺に納められているときでさえソーソンには、舞台で輝いているリベラ―チェしか見えていない。本当に本当にソーソンには「リベラーチェがすべて」だったのだ。そして、二人は本当に愛し合っていたのだ、ということがわかってホロリとする。

マット デーモンははじめ動物調教師をしていたころは がっしりしてちょっと太り気味、顔も四角だったのがリベラーチェに望まれて 痩せて顔もシャープな顎の顔に変ってくる。ハリウッド映画の化粧係のテクニックにつくずく感心。どんな顔でも作れるんだなあ。びっくりだ。
この世では、あつい男と男の友情に涙する男がたくさん居るのに、男同士の結婚を嫌う男が多いのは どうしてだろう。全然理解できないよ。オーストラリアでも、日本でも早く同性婚を立法化するときだと思う。