2009年8月25日火曜日

映画 「COVE」(入り江)




映画「THE COVE 」を観た。
シドニーでは8月22日から 二つの劇場で公開が始まった。ニュータウンのデンディと、ダーリンハーストのシェベル劇場だ。全米でも7月から 公開された模様。
日本で公開されることを 切に願う。
2009年 ロバート レッドフォードのサンダース映画祭でオーデイエンス賞、カナダ(HOT DOGS)ドキュメンタリー最優秀賞、シドニー映画祭オーデイエンス賞、ブルーオーシャンフィルム最優秀賞受賞作。

和歌山県太地町のイルカ追い込み漁で 年2300頭のイルカが捕獲され、水族館に売られる一部を除いては、殺されて鯨肉として市場に出回るという。その様子をフィルムに納めたもの。

製作者は、リチャード オーバリー(RICHARD O"BARRY)。
1970年代に米国TV番組「フリッパー」(邦題「わんぱくフリッパー」)で主演したイルカ達の捕獲と調教をした人。マイアミの水族館で たくさんのイルカを調教して イルカショーを主催して人気を呼んだ張本人。テレビ局の思惑どうりにイルカを調教することに何の疑問も感じていなかったが、「フリッパー」の主役だったイルカが ストレスで弱り果てて リチャードの腕の中で息を引き取ったことで、考えを改める。以降、私財をなげうって、捕獲されたイルカを海に戻してやる活動に打ち込む。ハイチ、コロンビア、グアテマラ、ブラジルなどで水族館や劣悪な環境で見世物になっていたイルカを 大海に返す運動をしてきた。1991年には 国連の環境プログラムから、業績を表彰されている。著書に、「BEHIND THE DOLPHIN SMILE」1989年、「TO FREE A DOLPHIN」2000年がある。
WWW SAVEJAPANDOLPHINS.ORG

監督は ロイ シホイヨス(LOUIE PSIHOYOS)。ナショナルジェオグラフィック誌のカメラマン。優秀なダイバーでもある。「フューチュン」、「デイスカバー」、「GEO]、「タイム」、「ニューズウィーク」、ニューヨークタイムズ誌などの表紙カバーの写真を撮っている人。2005年に海洋保護協会を設立。

カメラクルーは 世界最高のフリーダイバーと言われる マンデイー ロー クラックシャンク(MANDY RAE CRUICKSHANK)。彼女は水深90Mまで 6分間息を止めて自力で潜って 上ってこられるそうだ。彼女とカーク クラツク(KIRK KRACK)が、ダイバーとして水中カメラをもって撮影に参加。

これに ハリウッドの特殊撮影グループ カーナーオプテイカル社(KERNER OPTICAL)が加わり 岩に埋め込んだ高解像度ビデオカメラで、崖の上から 追い込まれるイルカ漁の様子を撮影した。また、鯨の形をした飛行船を造り 遠隔操作で上空から イルカ漁の様子を撮影することに成功。一連の撮影を 特殊カメラのセンサーで 警備員達の妨害を 避けながらゲリラ的に撮影が行われた。

2007年に 環境保護団体「シーシェパード」に 太地町のイルカ漁が撮影され 世界に紹介されて以来 太地町では環境保護団体や外国人やフイルムクルーに神経を尖らせている。警備員を沢山雇い、撮影や見学にも介入して 妨害をしている。
撮影には大掛かりな撮影機具が要る。「オーシャンイレブン」ならぬ、かくし撮影チームが太地町に入ったとたんに、24時間の尾行、警備官による嫌がらせ、執拗な追跡と一挙一動への介入が入る。ものすごく人相の悪い私服警官ともヤクザともいえない男達。

イルカを追い込む入り江には、高い崖に囲まれた 小さな入り江で、トンネルを越えないと たどり着けない。イルカの追い込み漁が始まると、トンネルが閉鎖され、崖の上の公園も立ち入り禁止になり、人一人追い込み漁の様子を見ることが出来ない。
イルカ漁を 空から、崖の上から、海底からと、3方向から撮影する為に部隊が秘密行動を開始する。明かりもない深夜 岩に埋め込んだカメラを設置するために崖をよじ登るクルー、囲い込まれたイルカ達を海底から撮影する潜水クルー。そして、空から飛行船を飛ばすクルー。執拗に監視する警備員達から逃れながら行動する。

そして、撮れたフイルムは 血、血、血 の海だ。人と同じ 家族とそれの属するコミュニテイーを持って暮らしていたイルカが群れごと捕獲され 人と同じ豊かな感情を持ったイルカが 身動きできない狭い網に1昼夜囲われた末 一頭一頭 刺し殺されていく。水中カメラで捉えた赤ちゃんイルカ達の絶叫ともいうべき叫び声。親達を求めて泣き叫ぶ幼いイルカの声、、、とても、正視できない。
リチャード オーバリーが言う。日本には立派な環境保護団体や、科学者、良心的な海洋学者、グリーンピース、それを支持する人々がたくさんいる。WHERE ARE THEY?どこに行ってしまったんだ、と。
彼は何人もの日本人にインタビューする。毎年9月になると2300頭ものイルカが 殺されて食肉にされることを知っていますか?道行く人々、誰もが答えはNONだ。
IWCで、日本代表が 写真を見せながら ミンク鯨は年々増えています、、、と説明している。そのフィルムの前で、太地町のイルカの血に染まった海で男達がイルカを突き刺して殺しているフイルムを映し出したコンピューターを腹にくくって 躍り出るリチャード。これを即座に激写するニュースマンたち。
くりかえして言う。この映画の日本での上映を切に願う。


日本がクジラとイルカを捕獲していることについて 世界中から批判されて、孤立している状況を認識すべきだ。現状では、IWCで、日本は商業捕鯨を中止させられ 調査捕鯨についても 厳しく中止を求められている。しかし日本は札束にものをいわせて IWCの票を買って アジアやバハマ島などの小さな国から日本支持票を買い、辛うじて調査捕鯨を続けている。このことについて、先進諸国からは、厳しい糾弾を受けている。南極海での捕鯨については ワシントン条約にも違反するということで、毎年国際法に訴えるとの諸国からの圧力がかかっている。

西オーストラリアのブルーン市は イルカ漁に抗議して、太地町と姉妹都市であることを中止した。この8月 市議会が全会一致で 太地町がイルカ漁を続けるかぎり交流を中止することに決定。
ブルームは戦前から日本から潜水夫がきて真珠を取って地域の産業に貢献してきたが 日本の鯨とイルカ漁が問題になって以来 日本人墓が荒らされたり、日本人アタックが起きて問題になっている。日本人は 日本にいるかぎり何をやっても何を言っても安全と思っているかもしれないが 海外に住む日本人が 襲われたり 嫌がらせを受けるなど、被害が出ていることについて無視してもらいたくない。

南極海での日本の調査捕鯨にも、日本近海のイルカ追い込み漁にも反対する。

IWCでは一定程度の大きさの鯨を対象に保護基準を設定していて、大きさが違うだけで イルカは保護から外されている。イルカも鯨も鯨類(クジラ目)で、同じ大型野生動物だ。イルカは、社会のなかで、社会的役割をもち集団行動をとる 高度な知性を持つ。その生態や生息範囲など、まだわかっていないことも多い。
鯨もイルカも 高い知能と社会性をもった野生動物だ。人とともに生きてきた家畜とも ペットとも異なる。自由に大海に生きる 大型野生動物は 保護の対象であって、殺して食うものではない。
鯨とイルカの捕獲、食肉することに反対する理由は以下の通り。

1)他に蛋白源となる食品が豊富な日本で鯨肉を食べ続けなければならない理由がない。鯨肉を食べるのは日本の伝統文化だ というのはウソだ。都市に住む多くの日本人が鯨肉を食べ始めたのは戦後であり、鯨肉が日本人の蛋白源だったという歴史はない。

2)海は誰のものでもない。そこに生息する野生動物を 世界中のひんしゅくをかいながら捕獲 食肉すべきではない。鯨は家畜ではない。

3)殺生方法が残酷きわまる。日本側はIWCで 瞬時に殺しているというが、逃げ回る野生動物にモリで突き 力尽きるまで泳がせて引き上げて殺す鯨、岸に追い込んで一昼夜網で囲み、突き棒で一頭一頭突き刺して殺すイルカ。自由に大海を泳ぎまわっていた動物を瞬時に殺す方法があるわけがない。

4)調査捕鯨に毎年5億円の調査費が税金から仕払われているが それに見合う調査のフィードバックがない。 調査捕鯨の結果が国際的に権威ある英語論文雑誌に まったく成果が発表されていない。科学研究のために億単位の国庫補助を受けて調査捕鯨していながら 何ら研究発表が行われていない このことについて、IWCからも、先進諸国からも激しく批判されている。

5)調査捕鯨予算の多くは 捕獲した鯨を売りさばいた利益でまかなっていることが明らかになっている。これでは公正な調査ができるわけがない。賄賂を取り締まる警察部署で、その予算が賄賂をもらった金で運営しているようなもので 取り締まろうとすればするほど、賄賂をもらわなければならない という滑稽な図式になっている。

6)鯨やイルカなど大型海洋動物の肉は水銀汚染されていて、小児、妊婦などは 食べるべきではない。政府、厚生労働省でさえ、週40グラム以下に抑えるべきとしている。一食分の鯨肉カツレツで 約100グラム。危険とわかっている食べ物を、食べ物の選択肢のない子供に食べさせてはいけない。
以上。

重ねていうが、この映画、日本での上映を切に願う。

2009年8月20日木曜日

映画 「バリボ」


東チモールは1975年末 かねてからの約束どうりに ポルトガルから 平和的に独立を果たした。
しかし、ポルトガル兵が撤退すると、すぐにインドネシアからの侵略が開始される。国連からの視察を待たず、国際法違反を承知に上での スハルトを先頭とした 軍の独走によるものだった。1975年の侵略と 大虐殺によって 東チモール人の 虐殺された人の数は、183000人あまり。

このとき、オーストラリアのテレビ局 「チャンネル7」と「チャンネル9」から派遣されていた5人のジャーナリストが、インドネシア軍の侵攻と、住民の大虐殺開始の映像を捉え、世界に報道していて、インドネシア軍によって殺された。この5人の消息が絶えた時点で、5人の足跡を追って 事実を報道しようとした、新聞社、「オーストラリアン」の編集記者も、首都デリーで軍によって惨殺された。
バリボ:BALIBOとは、インドネシアと東チモールとの国境の街の名前だ。5人のジャーナリストが殺された現場だ。

監督:ロバート コノリー (ROBERT CONNOLLY)
キャスト
アンソニー ラパグリア ANTHONY LAPAGLIA
(ロジャー イースト:オーストラリアン編集記者)
オスカー アイザック OSCAR ISSAC
(ホセ ラモス ホルタ:東チモール独立政府顧問)
デモン ガメゥ DEMON GAMEAU 
(グレグ シャックルトン:チャンネル7報道官)
ナサン フィリップ NATHAN PHILIPS など

ストーリーは
1975年、バリボの海岸沖は、インドネシア軍の戦艦で埋まっていた。インドネシア軍の上陸と侵攻は、もはや時間の問題と思われていた。空からの独立抵抗軍にむけての爆撃攻撃は すでに始まっていた。国境の街は 空からの攻撃で破壊され 多数の死者が出ており、住民は 次々と避難していた。東チモール独立抵抗軍は、山から下りて果敢にも 強国インドネシア軍と戦っていた。

東チモール独立政府顧問 ホセ ラモス ホルタは、海外からのジャーナリストを呼び寄せて、現状を報道し 世界中の多く人々に 東チモールの窮状を知ってもらおうと奔走していた。彼は オーストラリアから来た「チャンネル7」と、「チャンネル9」の若いクルー5人が 前線の状況を報道するために、組織立てて護衛をつけた。5人は インドネシア軍が 国際法に違反して 隣国を侵略する様子を 映像に捕らえては フイルムを本国に送っていた。バリボの海岸沖を埋める軍艦を撮影し、爆撃された村々の惨状をフイルムの捉えて 避難民にそれを渡して オーストラリアに届けるよう依頼していた。遂に軍は 上陸を開始する。海岸に アリが押し寄せるように 上陸してきた軍を バリボの丘の上から、カメラに収めていた5人は インドネシア軍に追われて、次々と情け容赦なく 惨殺され、フイルムとともに、焼却される。オーストラリアの国旗を描き ジャーナリストであることを明らかにしていたにも関わらず 否、ジャーナリストだったからこそ、彼らは真っ先に軍によって口を封じられたのだった。

テレビクルーから フィルムが届けられなくなって いよいよ5人のジャーナリストが 失踪したことが明らかになった。首都デリの、ホテルを拠点にしていた新聞社「オーストラリアン」の編集記者ロジャー イーストのところに、ホセ ラモス ホルタが現れて 5人の失踪が知らされる。ロジャーは この5人のテレビ局ジャーナリスト達を探しに バリボに行くことを決意する。バリボにたどり着くまでに 空から爆撃を受けて壊滅した村々を通過しなければならない。ロジャーは ジャングルで 空からの機動爆撃に逃げ惑い、侵攻してきた地上軍からも逃れながら、生々しい、5人が殺された家の跡を見る。そして急いでロジャーは デリーに戻り 事の顛末をオーストラリアに送信しようとする。しかし、時すでに遅く デリーはインドネシア軍に包囲されていた。現状を国外に知らせようとして ロジャーは真っ先に連行されて殺される。指名手配されていたホセ ラモス ホルタは国外に東チモール独立政権を樹立するために 辛くも脱走、国外脱出に成功する。

ロジャーが滞在していたホテルオーナーの7歳だった娘が ロジャーが引き立てられ 殺されるまでの ありのままを目撃していた。その後、24年間たって、東チモールが 悲願の独立を果たしたときに、やっと、当時の真相究明のための証人探しがはじまり、この少女が重い口を開くことになる。この少女の証言によって初めて、消息不明だったロジャー イーストの死亡が 死後24年たって明らかになった。
というおはなし。

映画は これで終わるが、5人のジャーナリストの死も、当時の生き残りのレジスタンスの証言などから、やっと明らかになった。しかし、彼らの死に至る詳細は まだわかっていないことも多く、残された5人の家族らは現在も法廷で事実確認の裁判係争中だ。5人の銃殺に、インドネシア軍将校だった スハルト(のちの大統領)が直接 手をくだしたのではないか と言われている。事実、この映画のなかで、両手をあげて、オーストラリアから来た記者です、といっているジャーナリストに向かって 有無を言わさずピストルで撃ち殺した男の役者は 異常にスハルトに似ていた。映画監督もなかなか芸が細かい。

最前線を報道するジャーナリストは 常に危険に身をさらされる職業だ。が、情報と引き換えに 命を失っていった若いジャーナリスト達の死は余りにもむごい。無残だ。
つい最近も チェチェンのジャーナリストで人道活動家だった女性が ロシアのスパイに誘拐されて夫とともに惨殺された。優れたジャーナリストが たくさん たくさん たくさん 死んでいった。数え切れない。

しかし 時として、ジャーナリストの映し出す一枚の写真が 世界を変えてしまうことがある。ベトナム戦争で、ナパーム弾の嵐の中を全裸で火傷を負いながら泣き叫ぶ少女、、、銃殺される瞬間の北べトナム解放戦士、、、中東戦争のときのオイルまみれの海鳥、、、チベットでデモの末 川に浮かぶ仏教僧の遺体、、、ウイグルで自警団に襲われた少女達の写真。一枚の写真が人々の心をゆさぶる。その一枚のために、ジャーナリストは 戦場にむかう。

東チモールは オーストラリア人にとっては とても特別な存在だ。豊かな海底油田の眠っているチモール海を隔てて オーストラリアとチモールは 手を伸ばせば届く距離にある。
1999年の東チモール独立運動のときは、強力なインドネシア軍に毎日毎日 抵抗して殺されていくチモールの人々を見つめながら 歯噛みしながら与野党一体になって 国連軍派遣を 要求し続け、ようやく国連軍派遣が決議されると、いち早くオーストラリアとニュージーランドは鎮圧軍を チモールに派兵した。

その後 独立は してみたものの、次から次へと西側から送られてくるインドネシアの撹乱するための私兵や私服軍人達に 脆弱な生まれたばかりの国は その地位を脅かされてきた。インドネシア軍が引き上げるとき、東チモールの国家基盤 経済基盤の70%を 彼らは破壊していった。再建が、不可能なほどに。
長年インドネシアに抵抗し、20年の懲役刑に服していたシャナナ グスマオは 初代大統領となり、獄中の彼を支えてきたオーストラリア女性 キーステイー スワードは 大統領夫人に。国外で独立運動を推進し、ノーベル平和賞を授与されたホセ ラモス ホルタは 副大統領に。
現在 選挙によってホセ ラモス ホルタが大統領、シャナナ グスマオが首相に選ばれた。2008年には、反乱軍によって、大統領 ホセは銃撃をうけ、一時死亡と報道されたが、ダーウィンで 緊急手術を受け、九死に一生を得た。多難な行く末だ。絶え間ない 政権抗争、経済基盤の脆弱さ、一つの国が独立するということが、いかに大変なことか。

2000年だったと思う。シャナナ グスマオの講演を聴きに行った。シドニー大学の カーペットを敷いた小さな講堂だった。そこでは、彼と、キーステイー スワードとの間に 生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声がときどき聴こえ、あたたかい なごやかな空気に満ちていた。雄弁でない、とつとつとした話し方で、これからの東チモールという新しい国造りへの抱負を語る シャナナは 誠実そのものだった。物静かで なんと謙虚なひとだったろう。子供のときから 強国インドネシアに立ち向かい ゲリラとして武器を取り 長い獄中生活にも負けず 独立を成功させ、建国の基となった人。なんて立派な人。
その人の話を聞きに集まった人たち、シャナナの一挙一動を あたたかく歓迎する人々の かもしだす空気もまた、感動的だった。 静かな拍手を送り、笑いかける人々、シャナナを支持するということが 声高に政治を語ることでも、スローガンを叫ぶことでも、敵を非難することでもなく こんなにも やわらかい空気に満ちた集まりで出会うことなのか と、目のさめる思いだった。政治集会や人権活動家の支援集会 講演会など、学生時代には 限りなく参加したり、主催したりもしたが、このときの シャナナの講演会のような 声高に語る人など一人も居ない あたたかく 優しい 濃密な 大人の集まりには出会ったことがなかった。あの、独特な静かで熱い空気が いつまでも忘れられない。

2009年8月11日火曜日

映画「パブリック エネミーズ」


アメリカ映画 「パブリック エネミーズ」を観た。
キャストは
ジョン デリンジャー:  ジョニー デップ
メルヴィン パーヴィス: クリスチャン べイル
女 ビリー:    マリオン コテイヤール
フーバー検察局長:  ビリー クラダップ

1929年大恐慌が始まり 30年代の経済低迷期には、アメリカ社会は病み 混乱を極めていた。失業者があふれ、飢えた人々の不満は膨れ上がるばかり。シカゴに根を張った ギャングによる凶悪事件は 止むことを知らず ジョン デリンジャー(ジョニー デップ)率いる、レッド、ハミルトン、ジョージ ネルソン、チャールズ フロイドといった面々は、次々と銀行を襲って強盗を繰り返していた。困りきった 検察局のフーバー(ビリー クラダップ)は これを機会に 地方警察の枠を超えて 全米範囲で凶悪犯を追い 捕らえることができる捜査組織FBIを作ろうと画策していた。フーバーは メルヴィン パーヴィス(クリスチャン べイル)を抜擢して FBI最初の大仕事 ジョン デリンジャーの逮捕を命ずる。デリンジャーとハーヴィスの 戦いが始まった。

デリンジャーは 何度も刑務所に放りこまれても 協力者を得て、脱獄を繰り返し 銀行強盗を繰り返す。極悪犯人でありながら、仲間を大切にし、仲間の命を守る為に 自分の危険を顧みない。一目ぼれした女 ビリーを自分のものにする為には何でもする。初めて ビリーに会って これからはどんなことがあっても、君を愛し一人きりにはしない と誓う 純情さも持ち合わせている。
しかし、FBIも すべての電話回線を盗聴し、次から次へと デリンジャーの協力者を力で屈服させて寝返らせた。遂に、デリンジャーの女ビリーを逮捕、拷問して デリンジャーを追い詰める。
というストーリー。

滅びの美、悪の華、がテーマ。それをどう人間味豊かな一人の 生身の男として映像で表現するかが、この映画の真髄。 若く、熱く 生きて死んでいく男は美しくなければならない。
不況、失業 飢えた人々の間で 火花のように華を咲かせて 権力者にたてついて 極悪犯として散っていった パブリック エネミーは 人々の不満の捌け口であり、希望の星であり、英雄だ。FBIが生まれることを 人々は決して歓迎していたわけではない。人々の心は 極悪犯の側にあった。
だから 映画を観ている人も、ジョニーデップの味方だ。危険な罠が仕掛けられるたびに デップに生き延びて欲しいとハラハラし、最後の最後までデップに 逃げろ、走れ、生きろ と心で叫び続けて、最後にビリーと一緒に、大きな涙をひとつ落とす。
ジョニー デップのベビーフェイスと、ちょっと間の抜けた感じが とてもデリンジャーらしくて良かった。

この映画、男向け、アクション映画に仕上がっている。このところハリウッドでは アクションになるとハンドカメラを使って 実況中継ふうに 揺れるカメラで撮るのが一般的になってしまった。はじめから最後まで ハンドカメラだけですべてフィルムを編集したような映画もでてきた。私はこれが大嫌い。 チャップリンは 動かないカメラの前で 俳優の方が大変な努力をしてアクロバット的な動きまで習得して映像を撮った。だから 特殊撮影で飛んだり跳ねたりする香港カンフー映画も ハンドカメラで追う暴力シーンも私にとってはニセモノにすぎない。

キャストに デリンジャーをジョニー デップに演じさせたのは、成功だった。そして、一方のFBI責任者 クリスチャン ベールも 大成功。クリスチャン べイルのような シャープでハンサムな男が 30年代の服を身に着けると 俄然引き立つ。彼のような 美男子には バットマンのお面を被ったり、ターミネイターの戦闘服よりも この1930年代の、白いワイシャツ、タイ、しっかりしたコートに帽子が良く似合う。きちんと折り返しのある純毛のズボン、ジャケットと、長くてがっしりしたコート。そしてソフト帽。ネクタイもピンクや水色や黄色なんかの軽薄な色でなくシックで落ち着いたタイ。1930年代の男達、なんと素敵だったのだろう。いまの男達 化繊のスーツに 色シャツ、頭はボサボサ、、一体男の美はどこへ、、、。オージーなんか 冬でも半ズボンで、カーボーイハットだもんね。

人々は映画を観ながら ジョニー デップに共鳴している。だからクリスチャン べイルは正義の側かもしれないけど 全然、誰も味方していない。それをわかっていて 演じるクリスチャン べイルって、いつも損な役回りだ。
「バットマン ダークナイト」では 彼は主役のバットマンだったが、ジョーカー役のヒースレジャーが この作品を遺作に28歳で事故死してしまったので この映画はクリスチャンべイルのではなく、ヒースレジャーの特別な映画になってしまった。
「ターミネイター4」では 彼が主役のジョン コナーだったが、この映画の話題と言えば アーノルド シュワルツネイガーが出たかどうか ばかり話題になって、クリスチャン べイルは2時間あまり戦っていたのに、数分間でただけのシュワちゃんに主役を奪われてしまった。
「ユマ3時10分決断のとき」では、悪役、ラッセル クロウを裁判所まで連行する 潔き 正しく 立派なクリスチャン べイルが正しい道をあゆんでいたのに 最後には見事に逃げられて、ラッセル クロウが 断然 輝いていた。
役者としては クリスチャン べイルは 役になりきる素晴らしい役者なのに、何故か不運が続いている。めげないで 「アメリカン サイコ」でショックを与えた 不気味なほどの美しくて、悪い奴を主演して欲しい。

最後に 映画で エージェントのひとり、ステイーブン ラングがデリンジャーの女ビリーに会いに来る。このシーンが良い。FBIの中でも いつもこの 目立たない中年捜査官は 他の捜査官のように突っ走ることも 罠を仕掛けて人を陥れることもなく冷静に事態に対処していた。
血の通った この男の「ひとこと」と、ビリーの「大粒の涙」。
これがすべてを語っている。心に残るシーンだ。

話題作で新作だから観た。
しかし、残念ながら 1967年の「俺達に明日はない」(原題「BONNIE AND CRYDE」)や、1969年「明日に向かって撃て」(BUTCH AND THE SUNDANCE KID」)には比べようもない。同じ時代のギャングを描いた映画だが、フェイ ダナウェイとウォーレン ビューテイー、ポール ニューマンとロバート レッドフォードにくらべ、輝きが 全然足りない。この時代に比べて フイルムの質も撮影技術も格段によくなっているはずだ。それなのに、60年代の映画を超えられていない。これらの優れた映画は 時代が作ったと言うのだろうか?

2009年8月8日土曜日

浦沢直樹「MONSTER」



浦沢直樹のコミック「MONSTER」全18巻(小学館)を読んで、とっても おもしろかった。

この人の作品、「20世紀少年」22巻と「21世紀少年」上下(小学館)の 計24冊を読んで この作者の構想の広がり方、登場人物を小まめに使いながら お話の枠を広げて大きくしていく独特の描き方にとても引かれた。この「MONSTER」も、読んでいるうちに どんどん話の筋に引き込まれていき 気が付いたときには18冊読み終わっていた。途中ダレることなく 一気に24冊とか18冊を 読ませる力を持っている この人は構想力のある とても頭の良い作者なのだろう。
彼の作品の終わり方も、独特で ひとつの結論を彼は出さない。だから人によって 最後の解釈が全然ちがってくる。

「20世紀少年」も、結論の読み方が 読む人によって 随分違ってくるのだろう。読んでいる間中 お面を被った「ともだち」が誰なのか それが知りたくて 知りたくて 読み進んできたが 最後の最後「ともだち」は ケンちゃん以外は 誰も名前さえ覚えていなかった影の薄い男の子だった。ケンちゃんが その子のことを 憶えていたのは自分がその子に ものすごく卑怯なことをしたからだった。その意味で 世界を破壊する「ともだち」は 自分自身のなかにある敵だった、と言うことも出来る。
「MONSTER」も、結論と解釈が人によって全然ちがったものになると思う。

ストーリーは
東西ドイツの間の壁が取り払われる前 1986年。東独から元貿易局顧問が妻と10歳になる男女の双子を連れて 西独に亡命してくる。しかし、その直後に 夫婦は殺され、男の子は銃撃をうけて半死状態で発見される。瀕死の男の子の手術を担当したのは デイュッセルドルフ私立病院の 天馬賢三医師。優秀な外科医。 卓越した技術と医師としての使命感 そして謙虚な姿勢で、同僚からも 患者達からも 信頼されていた。病院長の娘と結婚して 外科部長に抜擢されるところだった。
しかし、男の子の救命を優先したため、同じときに、院長に頼まれて 脳血栓で倒れた市長の手術が手遅れになったことで、怒った院長から 憎まれ、婚約者の娘も失うことになってしまった。

天馬医師が救命した少年ヨハンは 順調に回復する。両親は死亡。殺人現場で発見された 双子の妹アンナは 事件の衝撃で口が聞けない状態になっていて、同じ病院に収容されていた。しかし、ある日、突然、ヨハンとアンナは姿を消す。そして彼らの治療に関わっていた病院長や医師たちが、天馬を除いて 全員 毒殺死体で発見される。

9年たった。
ハンブルグで、ケルンで、ハノーバーで、4組の子供の居ない中年夫婦の死体があがる。そしてこの事件に関わっていた警察官達までが 毒殺されて発見される。

ハイデルベルグに10歳までの記憶のない 19歳の少女がいる。名前はニナ。飛び切り明るい快活な娘で 養父母に引きとられて幸せに暮らしている。養父母を本当の両親だと思っている。しかし心理学者ガイテル医師は 二ナの失った記憶が 何か途方もない恐怖によって閉じ込められたものに違いないと確信している。
そのニナに突然、20歳になった日に迎えに行く というメイルが入る。ニナは 漠然とした恐怖感に襲われながら 偶然、天馬医師と出会う。帰宅したニナを待っていたのは 最愛の養父母が殺害された姿だった。養父母の惨状を見て、二ナは一挙に 双子の兄、ヨハンの記憶を 取り戻す。

10歳のときに 両親を殺したのは兄のヨハンだった。両親を殺した後、銃をアンナに渡して 自分の眉間を指して ここを撃てと命令したのはヨハンだった、と天馬にいう。アンナはモンスターのヨハンを しっかり撃ったのに、どうして天馬医師は ヨハンを救命してしまったのか、と責める。そして、ニナ(アンナ)は ヨハンというモンスターを殺して殺人行為をやめさせられるのは自分だけだと考え ヨハンを追って旅に出る。

ヨハンの殺人行為に深く関わってしまった天馬はいまや 大量殺人事件の重要参考人 殺人容疑者だ。天馬は自分が殺人鬼モンスターの命を救ってしまった為に、沢山の犠牲者が出ていること知って、自分が責任を持って ヨハンを始末しなければならないと考え 自分もまた警察に追われながら ヨハンとニナの後を追う。

ヨハンは バイエルンに現れる。実業界の大物に近ずいて 彼の秘書に納まっている。この男の昔の愛人が ヨハンとアンナの母親の親友だったことが わかったからだ。母親がチェコスロバキアで 生きているかもしれないと知って、ヨハンはプラハに向かう。
昔、プラハに 政治犯の子供達だけをあつめた孤児院があって 様々な人体実験と教育実験が行われた という。そこで育った子供達や職員達は ある日、互いに殺しあって その場に居た全員が死亡するという事件があった。
すべてを読む 鍵は このキンダーハイム孤児院だ。
というお話。このあとも長いけど、ここまでしか言えない。

簡単に筋だけ触れたが ものすごく沢山の登場人物がいる。その人々それぞれが ドラマをもっていて 複雑にヨハンの過去にからみあっている。酒癖の悪い私立探偵、天馬の同級生のサイコセラピスト、無医村の医師、ジャーナリスト、極右団体、戦争犯罪人 昔の婚約者、天馬になついてしまった孤児、若い志を持った刑事、それらがみんな複雑に関わりあって話を重層的なものにしている。

しかし、この物語のおもしろさは、ヨハンもアンナも自分の過去を憶えていない というところにある。ずばぬけて秀でた頭脳を持ち 人を殺すことなど何とも思っていないヨハンが 自分の過去を探し出しながら 自分の過去に関わった人々や育ててくれた人たちを 次々と抹殺していく。それを追う アンナが彼女もまた10歳までの消えていた過去を 徐々に よみがえらせていく。またそれを追う天馬がヨハンの過去を洗いながら 追い詰めていく。天馬は 自分の無実の罪を証明する為にヨハンを追っているのではなくて ヨハンの命を奪うために追っているのだ。それをまた 執拗に追う、ルンケ刑事の執念。
読者は ヨハンの過去への旅とともに、殺人が繰り返されながら ひとつひとつの彼の過去を知っていくことになる。

どうしてヨハンが 殺人鬼となり 自分の過去を抹殺しなければならないのか、、、それは、ヨハンとアンナと天馬と ルンケ刑事が一堂にに 顔をあわせたときに 一挙に山場をむかえる。
最後 天馬ははどうなるのか 解釈は それぞれだ。
 
双子の兄妹がいる。そのうち 一人を母親が切り捨てなければならないとき 連れて行かれた子供よりも、時として それを見送らなければならなかった子供の方が 傷が深い場合もある。
ヨハンの自己破壊、自己消滅願望は 幼い妹を守りきれなかった 贖罪からくる と言えないことはない。

結末は、これで一件落着ではない。じつに多くのことを 語っている終末。ヨハンの旅は終わっていないのだ。
ただ、人は 空のベッドをみることができるだけだ。

本当におもしろいコミックだった。

2009年8月7日金曜日

ガールズコミック「そんなんじゃねえよ」和泉かねよし


顔が良いと 得をする。顔が良いと人から大切にされる。困っていると誰でも助けようとするし、自分から求めなくても友達がたくさんできる。面接で 高感度の高い印象を与えるから 思いどうりの就学も、就職もできる。職場でも優遇される。特に客扱いの営業などでは 引く手あまただ。顔がアトラクテイブだと 異性パートナーを選ぶにも無限のチョイスを与えられて 欲しい相手が手に入る。銀行から信頼され 融資設も受けやすいから 家などの財産も手に入れやすい。仮に 犯罪に手を染めても 顔が良くて 印象が良いと有罪になるかどうかで 極悪人の容貌を持った人に比べると はるかに軽い刑で済む。
従って 顔が良く生まれた人はそうでない人に比べると すべての面で優遇されて得をする。

というのは 私の考えではなく、「常識」なのでもなく、アメリカで 科学的に秩序立てて行われた社会学者たちによる調査結果だ。私は自分の体験から このような調査結果が 全く正しいと、確信する。

私の顔が良いのではない。
死んだ私の 最初のオットが顔が良かった。
若い人は知らないだろうが 岡田真澄と高倉健を足して二で割ったような顔だった。身長183センチ、一流国立大学卒、シャープな頭脳、洗練された動作、独特なオシャレなセンス。天はニ物を与えず というが、天からは何もかも もらって生まれて来ていた。これでチヤホヤされないわけがない。

電車に乗っていて、ジャイアンツの投手とまちがえられて、サインを求められたことが 一回2回ではない。初めて飲みに行ったバーから ほろ酔いで帰って ポケットを見たら ママのマンションの鍵と住所を書いた紙がでてきたこともある。結構有名なママだったが、、。道を歩くと必ず人々の目はオットに。これがオットですというと、大抵の女性はポッと顔を赤らめて俄然 目を輝かせたり、急にハイになって はしゃぎだす人が多かった。おもしろいのは、この男前のツマが それにつりあうほどの美貌ではなくて フツーの女だ、というのがわかると まわりの女達が 俄然がんばりだすことだ。こういう場面はどこにいっても 起こった。だから、私は 人々が とびぬけて顔の良い男に会ったときの対応をよく知っている。

顔の良い男に会ったとき、人の態度が変わる というとそんな馬鹿な。人は外見より 中身じゃないですか というへそ曲がりが必ずいる。でも それはウソだ。その人がとびぬけて美しい 超のつくハンサムな男に出会ったことがないから そんなことを言っていられるのだ。体験から断言できる。

例えば私の女友達が沢山居る。そこにオットを連れて行き 紹介するとたちまち女達は するすると服を脱ぎ捨ててオットの前で思い思いのポーズを取り始めるので困ってしまった、、、ということはなかったが、そんな感じに100%ちかい奇妙なフェロモンな空気になるのが常だった。また、例えば オットの職場の人や オットの友達が集まっているところに行って ツマが 初めて紹介される。で、皆がツマを見ると え???という顔になり、こんなツマなら自分は勝てる とばかり急に肉食獣になってオットに襲い掛かるのだった。
そんなだったから、年をとっても オットは女には困らなかった、というか、全く ホトホト女に 困りきりだった。

ところで、そんな奇妙な体験を持つ私が おもしろいガールズコミックを見つけてしまった。
「そんなじゃねえよ」和泉かねよし作、1-9巻、フラワーコミックス小学館出版。

これが顔の良い 二人のお兄ちゃんを持つ フツーの顔でどちらかというと地味な女の子の話だ。読んでいて 身につまされるというか、あ、そうそう こんなこともあった などと昔のことを思いだした。

背が高くて 頭が良くて 力が強くて けんかも強い スポーツもできて、とにかく顔が良い 真宮家の二卵性双生児、烈と哲。シングルマザーで看護婦の母は 美貌の女王様。そんな中で妹の静ちゃんだけは みにくいアヒルの子ばりに ごく普通のめだたない女の子だ。この静ちゃんから見た まわりの人々の兄達への態度 狂騒ぶりがおかしくて、静ちゃんに すごく共感してしまった。
軽快なしゃれたジョークがとびかう、的を得た会話。すっかり気に入って2回も読み返してしまった。

例えば 美貌の母に片思いして食事に誘う高校生に向かって 母は言う。
「あなた 女の口説き方わかってないのね。」
「そう、どうすればいいの?」
「簡単よ。20こえて 年収1千万以上になったら同じセルフを言うの。」

そんな母が 寝起きの悪い息子を見て
「寝起きの悪い哲ちゃん。顔がキレイに整ってる分 マネキンみたいね。こいつ裸にムイて紳士服のコナガにおいてきちゃおか。」

かと思うと長男の烈が
「俺にもしものことがあったら 誰が静を守るんだ」
「あんたの保険金じゃない?死ぬならくれぐれも わかりやすい事故死ね。不審死だと保険金おりにくいんだ。コレが。」
などと言う。

静が 好きな子に家に来られて
「しまった、、、この気合の抜けたリラックスウェア。トータルコーデイネイトで1万円以下。これでは彼氏を前に勝負服どころか試合放棄同然。たしかあたしの部屋には友達から押し付けられたレデイコミが、、この地雷地帯に踏み込まれたら、、、」
などと、悩む娘にたいして 冷酷にも母は、
「うるさい。ガキはガキらしく 小さな恋のメロデイ奏でてろ!」などと言う。母は強い。
とにかく愉快なコミックだ。

子供の頃は 少女漫画をおもしろいと思ったことがなかった。継母にいじめられる 可愛そうな少女だの 恨みを持った怨霊みたいな漫画ばかりでじめじめして気持ちが悪かったからだ。
ちばてつやの「明日のジョー」で育った世代だから、漫画といえば スポーツ少年ものばかり。
そんなだったのに、急にガールズコミックがおもしろくなった。
さあー 今日は、これから古本屋にガールズコミックをあさりに行ってこよう!

2009年8月5日水曜日

映画「わたしのなかのあなた」


アメリカ映画 「わたしのなかのあなた」原作「マイ シスターズ キーパー」(「MY SISTER"S KEEPER」)を観た。日本では10月に公開されるらしい。

監督:ニック カサぺトス
キャスト
アンナ:アビゲール ブレスリン
ケイト:ソフィア バシレバ
母: キャロン デイアス
父:ジェーソン パトリック
弁護士:アレック ボールドウィン

ストーリーは
消防士のライアンと、弁護士のサラとのあいだには、長男ジェシーと、2歳になる娘ケイトがいた。庭のある大きな家、愛らしい兄妹と 仲の良い夫婦、非の打ち所のない幸せな家庭が、突然、ケイトが白血病と診断されたことで、幸せの頂上から 奈落のそこへと突き落とされる。

ケイトの白血病の治療のためには マッチした骨髄提供者が 常時必要になる。しかし家族のうち 誰一人としてケイトと同じ型の 血液型や骨髄を持つものが居なかった。
夫婦は専門家と話し合ったすえ、遺伝子工学で ケイトと同じ遺伝子をもった赤ちゃんを人工授精で作ることにする。 そして生まれたのが、アンナだった。
アンナは5歳になったときから 姉のケイトのために輸血提供者となり、6歳からは 骨髄提供者として 頻繁に入院することになる。父親も母親も ケイトの命を救うことを優先して 妹のアンナが病院を嫌がって泣き叫んでも 押さえつけてドクターに娘を差し出すことをなんとも思わなかった。

両親がケイトの世話に夢中になっているうちに、放って置かれた兄ジェシーは 必要な親のサポートがなかった為 学校の成績がよくない。それを理由に両親はジェシーを特殊学校の施設に入れてしまう。それを契機にジェシーは学校が嫌いになって行かなくなってしまう。

アンナは11歳になった。徐々に 病状が悪化していくケイトには 腎臓移植が必要になってくる。腎臓提供者は当然アンナだ。両親は何の疑いもなくアンナに腎臓を提供させるつもりで居る。
アンナは ケイトとも兄のジェシーとも話し合い 腎臓を姉に提供することを 拒否することにする。アンナは 全財産($700)をかけて 凄腕の弁護士に会いに行き 彼をアンナの代理人として両親を訴えることにする。弁護士は アンナが持参した医療記録を見て 驚愕する。そして腎臓提供を強硬しようとする両親を訴えることに決める。弁護士自身がてんかんを持つ 身体障害者だったからだ。

母親も弁護士だから 負けていない。父も、母も 病状が悪化する一方のケイトを見ていて 何故 腎臓の提供を妹のアンナが法廷に持ち込んでまで拒否するのかがわからない。法廷でも サラはアンナに どうして姉の命を助けないで平気で居られるのか と、親の強権を見せつけ 未成年者は親に従うことが義務だ、とまで言う。これがアンナにとっては、自分の存在すべてをかけた基本的な存在権を主張していることに、盲目なままで 気付くことができない。 

一方、ケイトは病院で化学療法中に、同じ病気の男の子に出会って、恋をする。病院主催のダンスパテイーで、二人は愛し合う。しかし、男の子は 駆け抜けていった疾風のごとく、ケイトを置いていって 死んで行ってしまう。腎臓透析を繰り返しても 効果が得られない最終段階に入って ケイトは家族の一人一人にお別れを言って 死んで行く。

ケイトの死後 アンナのところに弁護士が訪ねてきて、アンナが勝訴したことを告げる。

ケイトが居なくなって 家族の隙間を埋め合わせるように 残った家族は 毎年ケイトが好きだった海岸にキャンプに来て ケイトを偲ぶことが 習慣になった。
というストーリー。

化学療法を受け始めたケイトが やはり同じ髪のなくなった少年に恋をするシーンが可愛い。二人がパーテイーで はしゃぎ回った末に愛し合うシーンが印象的だ。

兄ジェシーの孤独が痛々しい。親に見捨てられた子、両親から何の関心も示してもらえない子。親が病気の妹にかかりきりになっている間に、成績はふるわず、特殊学校に行かされてそのまま学校が嫌になって、離れてしまった。友達もなく、わかってくれる人もなく、寂しくて仕方がない。一日中、街でぶらぶらして、忙しそうに動き回っている人々を ただ眺めて過ごしている。時として、最終バスを逃して、ヒッチハイクと歩きで家に深夜帰ってたところで 両親はケイトしか眼中になくて、息子を叱ってくれるわけではない。理解者もなく 自信もなく ただ人生の傍観者のようになってしまった。
そんなジェシーが、小さな妹アンナが 初めて親に逆らって 弁護士に相談に行くことに決めると、自分の持っているすべてのお金を財布ごと 妹に渡してやる。
ジェシーの心の痛みがしみて 泣けてくる。安住できる場がどこにもない子供の心の傷が ぱっくりと大きな穴を開けて血を流している。

しかし、この映画はなんといっても 天才子役のアビゲール ブレスリンの演技に勝てる役者はいない。涙、涙、涙 のこの映画の中で 彼女自身は ほとんど涙を見せない。気丈に自分の足でしっかり立っている。そしてそれが末っ子の役割であるかのように 明るく飛び回っては まわりの人々を笑わせる。映画「ミス サンシャイン」で大笑いさせた キャラクターそのままだ。
けなげにも 自分の存在を 姉の故障修理のためのスペアパーツでないことで、証明しようとする。彼女もまた血も涙もあり、ケイトとは全く違う 人格をもった人間であることを証明しようとする。

ああ、それにしても何という 両親だろうか。母親役のキャメロン デイアスの顔が鬼に見えてくる。おまけに 妻の独走を止めるどころか 助走することしかできない気弱な父親の顔も鬼だ。白血病の子供を持った親の 悲しさは どんなにつらいか、想像しても余りある。しかし、遺伝子操作で ダミー人間を作り その血液や骨髄や腎臓を抜き取り 病気の娘を治療するなどということを 平気でやるアメリカという国、平然と それを実行する エゴイストな親達。
ダミーが口を利き ダミーが訴訟をおこしてまで 抵抗して初めて ダミーもまた人間だったことに、初めて気が付く親の愚かしさ。ダミーだって自分が産んだ子供なのに。

本当にあったことを 基にして作られた映画だそうだ。
映画で家族が食卓を囲み、にこやかに語り笑いあうシーンがたくさん出てくる。最後もケイトが居なくなって 海辺で仲良く 波と戯れる兄妹、両親、、、これって ウソ臭くないだろうか。
ケイトが居なくなって 家族を繋ぎとめているものがなくなって、兄ジェシーは 家を出て街のギャング団に入り 強盗に明け暮れる、、、ケイトのスペアパーツだったアンナは 両親との同居を拒否して 好きでもない中年男と同棲始めたり、寄宿舎に入ってしまって、親が会いに来ても面会しない、、、といった形で収まる方が 自然ではないだろうか。

親に疎まれた子供は その後 反省して態度を変えた親に もどってこられても、「幸せな家族」を演出することなどできない。親に愛されなかった子供には それがよくわかる。子育ては「やりなおし」が効かない。ということは、育つこどもにとっても やりなおしが 効かない。

親の押し付けを拒否し、親の強権と、愛という名の暴力を拒否した11歳の娘の勇気は まことに 賞賛に値する。子供からの親離れを 見事に果たした この、アンナに共鳴する人は多いのではないだろうか。それは、その人もまた傷を持っているからだ。