2020年1月18日土曜日

ジミーチェンのドキュメンタリ「メル―」

原題:MERU
監督:ジミー チェン
   エリザベス チャイ ヴァサルヘリ
キャスト:ジミー チェン 
     コンラッド アンカー
     レナン オズターク

山岳登山家にして写真家、ジミー チェンが例えようもなく素晴らしいドキュメンタリーフイルムを、2本作った。「メル―」2015と、「フリーソロ」2019だ。

「フリーソロ」は、昨年アカデミー賞長編ドキュメンタリーフイルム賞を受賞した。この映画については2019年に観た映画の中で最も優れた映画だったので、このブログでも繰り返し書いている。単独登山家のアレックス オノルドが、ザイルもハーケンもカラビナも使わずに岩山を登頂するフリーソロというスタイルで、カルフォルニア、ヨセミテ国立公園の「エルカピタン」と呼ばれる1000メートルの絶壁を、世界で初めて登頂したときのドキュメンタリーフイルムだ。アレックスが1インチに満たない岩の割れ目を、3本の指でつかみ、そこに全体重をかけて自分の体を引き上げて、よじ登る。尺取り虫の様に、身体の3点を確保しながら岩壁を進む。その一挙一動を少し離れたところで、ザイルを確保しながらジミー チェンら3人のクルーが撮影する。直下からは望遠レンズでカメラを回す別のクルーが居る。そうして登頂に成功したアレックスの恐怖心や逡巡、逃亡や再挑戦といった過程や、彼の私生活の様子を編集して、より真に迫ったドキュメンタリー作品に仕上がっている。何よりも、人間が描かれている。

この映画「フルーソロ」に興奮した人は、「メル―」でぶちのめされる。何といっても世界の最高峰ヒマラヤだ。エベレスト8844メートルを拝している。世界で初めての岩壁登頂記録だけでない。それを成功した3人の山男たちのヒューマンドラマが素晴らしい。
「メル―」とは、ヒマラヤ山脈、中国側のメル―中央峰、6250メートルの難攻不落の岩壁「シャークフィン」の登頂記録だ。この岩山を2011年に、世界で初めて、ジミー チエン、コンラッド アンカーとレナン オズタックの3人が初登頂を成功させた。そのときのフイルムだ。

ストーリーは
コンラッド アンカーはヒマラヤで1924年に消息を絶ったままだった世界的登山家マロリーの遺体を見つけた有名な登山家だ。コンラッドには長年、マーク アレックスという登山家のパートナーがいた。このアレックスはコンラッドとザイルでつながったまま、岩場から転落して1992年に亡くなる。そのアレックスには18年間連れ添った妻、ジェニーが居た。ザイルパートナーを失くしたコンラッドは自分を責め、夫を亡くしたジェニーのために生きようとしてジェニーを再婚し、アレックスの3人の息子たちの父親になる。2008年、コンラッドは、ジミー チェンとレナン オズタックを誘いメル―に挑戦する。

3000メートルの高所をベースキャンプにして、総重量90キロのテント、燃料や8日分の食料を担ぎ、2台のカメラを持ち一行は出発する。ヒマラヤのアイスクライミングは、出来るだけ軽い荷物で天候の良いチャンスを狙って一挙に、3000メートル登らなければ成功しない。重いカメラ機材を持つため食糧はギリギリまで切り詰めなければならない。出発した時は良かった天候が、しかし3日目に急変する。強風とブリザードの連続で、急斜面に岩に括り付けたテントは嵐に愚弄されて揺れ、外に出ることも出来ない。いたずらに嵐の日々が経っていく。目的地まであと90%の道のりが残っているというのに、持ってきた食糧の90%がすでに消費された。それでも登るのか。リーダーのコンラッドは迷う。嵐が収まった8日目、再び一行は登り始める。食糧が無くなっても、みな行けるところまで行きたい。登攀開始から15日目、最後のチーズのかけらを3等分して食べる。食料が尽き燃料が無くなり、これからは、自分の生命力だけが頼りだ。出発から17日目。あと100メートルで頂上というところで、コンラッドは退却を決意する。飢餓状態で最後の力を振り絞って3人が頂上に達してしまったら、きっと3人とも帰って来られないだろう。下山する体力が残っている内に下りないと全員遭難することになる。
カメラが100メートル先の頂上を映す。手の届くところに夢見た景色が広がっている。青空にそびえ立つ頂上。3人は涙を呑んで退却し、生きて下山する。3人はこの時のことがあまりにつらい経験だったので、もうメル―のことは話題にしなかった、という。3人とも2度と同じ峰をトライすることはないだろうと思っていた。

3人のうちで一番若いレナン オズボーンは、画家で写真家でもある。メル―からの敗退の3年後、ジミーとレナンはスキーボードで互いに写真撮影をしていたとき、レナンは急斜面で転落し、頭がい骨骨折と、3か所の頚椎骨折という致命的な事故に遭う。その様子を横で撮影していたジミーは、この親友がもう二度と立ち上がることができない、それどころか一生植物人間としてベッドで生きることになるだろうという医師の言葉をのちに聞いて、自分を責めたてる。
レナンが事故に遭った4日後に、ジミー チエンは現場に戻って撮影を続けた。このとき雪崩が起きて、ジミーは600メートルの距離を雪崩とともに、時速130キロのスピードで流される。ジミーは親友のレナンは植物人間となり、自分はこのまま雪崩に巻き込まれて死ぬだろうと覚悟した。しかし奇跡的にジミーは生還する。カメラクルーはこのときの雪崩の様子やジミーが這い出て来て全身がケイレンしている様子を映し出している。
それからのレナンの活躍ぶりには目を見張る。彼は運命を信じない。頚椎骨折していることを認めない。狂ったようにリハビリに立ち向かう。必ず自分は立つ。立って先に進む。足が動かないがならば腕を強くすればよい。激しいトレーニングのためにレナンは、新しい頚椎骨折に見舞われる。それでも障害をものともせずに、レナンは復活する。もう一度メル―に挑戦するために。世界で初めてメル―を登頂するために。

そのころスロバキアの登山チームがメル―に向かい、自分たちと同じように登頂できずに下山したというニュースが入る。負けられない。レナンは本気でメル―を登るために厳しいトレーニングを積んでいる。このまま放っておける訳がないではないか。
2011年コンラッド アンカー、ジミー チェンとレナン オズダックの3人は、再びメル―に向かう。しかし山に取り憑いて、1日目に、強風でテントの柱が折れてしまう。翌日、レナンは疲労困憊してテントに倒れ込み意識を失う。レナンは死んでしまうかもしれない。コンラッドは撤退か、登攀かの判断に迫られる。しかし、レナンは持ち直し、3人は登り続ける。遂に、11日目にして、それまでリーダーとして先頭で岩場を確保してきたコンラッドが、2番手を歩んできたジミーに、先に行くように言う。譲られたジミーは、世界中の誰よりも先に、初めてメル―の頂上に立ち、叫び声をあげる。3人は世界で初めてヒマラヤ、メル―中央峰の難攻不落のシャークフィンの登頂に成功する。3人の感動のフイルムはここで終わる。

ジミー チェンは私たちをヒマラヤの頂上まで連れて行ってくれる。凍った岩場で自分の体を確保するだけで命がけなのに、登りながら重いカメラを担いでカメラを回し、山の素晴らしさを教えてくれる。氷点下20度のなか、厚い手袋をはめて、ハーケンを持ちザイルで身を確保する。カメラのボタンを押すときに、手袋を外さなければならない。カメラボタン操作をして1秒でも手袋をはめるのが遅れたら、指は凍って凍傷で使い物にならなくなる。危険を冒しながらもジミーは、登りながら撮る、という技術的に最も困難な方法で、ドキュメンタリーフイルムを作る。彼は新しい世界を切り開いた人。
山登りは孤独な作業だから山男は一般的に口数の少ない、社交が苦手な人が多いが、ジミーはいつも笑顔でとても話し上手な親しみやすい人だ。インタビューを聞くと彼の、幅広い知識に裏打ちされた豊かな人間性と人柄に魅せられる。ジミーと同じように登山家で写真家の妻エリザベスとの間に1男1女の子供が居る。登山が一流、写真も一流、人柄も穏やかで謙虚で、それでいて冒険心いっぱいの挑戦者。こんな素敵な人が世界にいるなんて。彼はこれからどんな山を私たちに見せてくれるのだろうか。いずれ出来ることだろう、第3作目に心を躍らせている。


2020年1月15日水曜日

ケン ローチの映画「家族を想うとき」

原題「SORRY WE  MISSED YOU」
邦題「家族を想うとき」
監督:ケン ローチ
キャスト
クリス ビチェン:父親リッキー ターナー
デビ― ハニーウッド:母親アビー
リス ストーン :セブ(セバスチャン)16歳息子
ケイテイ プロクター:ライザ ジェン 12歳娘

83歳の労働者の味方、庶民の代弁者、ケン ローチが社会の不条理に怒りを込めて作った作品。フイルムの端々から彼の怒りが、ふつふつと煮えたぎっているのが見える。
題名は「不在通知」。配達先が不在だったときに、配達人が置いていく通知書のこと。
映画は、真面目に働いて、真面目に家庭を持ち、きちんと税金を払い公共料金の支払いも滞りなく、働き詰めてきた労働者が、なぜ家庭を維持してやっていけないのか。貧しいものはどうして働いても、働いても楽になれないのか。虐げられているものは、真面目に生きて正直でいるのに、どうして騙されるばかりなのか。なぜささやかな家さえも買うことができないのかを問う。
社会のシステムが、壊れている。公共サービスが、利権中心の企業に切り売りされて内実を失い、福祉政策が形だけ残して無くなってしまった。市場原理の資本主義の構造が、むきだしになって、人々の上に襲い掛かる。人々は働いても働いても、生活ができないようになっている。これで良いのか。と、引退したはずのケン ローチは問いかけている。

ストーリーは
労働者の街マンチェスターで生まれたリッキーは、家族をもって今はニューカッスルに住んでいる。妻のアビーは、訪問看護師を勤め、長男セブは16歳で高校生、長女ライザは12歳、ジュニアスクールのに通う。2008年のリーマンショックに端を発した金融不況のあおりを受けてリッキーは、建設業の定職を失い、ローンを組んで家を手にする夢を失った。少しでも良い収入を望んで、いまフランチャイズの宅配業者のもとで運転手として働くことになった。契約では個人事業主となったリッキーは、配達用のバンを自分で買わなければならない。そのために古い自分の車も、妻のアビーが訪問看護に使っている車まで売り飛ばさなければならなかった。おまけに1000ポンド(14万円ほど)会社にフランチャイズの登録のために預け金を置かなければならない。いざ、働き始めてみると配達には厳しいノルマが課せられており、休日も、病気の時の保険もなかった。日々ノルマをこなすために、いったん運転席に座るとトイレに行く時間もなく、ユーリンボトルを持たされるはめに。荷物を持って配達先に行くあいだ、車を離れられるのは、3分間に限られている。急いで相手先に荷物を手渡して、走って3分で車に戻って、また移動だ。それでも仕事に少しでも楽しみを見つけようと、12歳の娘が望むまま助手席に乗せて、一緒に配達をしてみると、どこから知ったのかすぐにボスか介入してきて止めさせられる。

一方、妻のアビーは日に何軒もの訪問先を移動するのに、車を夫に売られてしまったので、バスで移動しなければならない。効率が悪いので家に帰るのも毎日遅くなる。二人の子供たちに夕食を作ってやることも出来ず、冷凍のマカロニを温めて食べるように指示したり、子供たちはシリアルで空腹を満たしたりしている。息子がスプレー缶を持って、仲間たちと公共建物に落書きをして、警察に連行されても、リッキーは、ノルマを果たすために、警察に息子を引き取りに行くことができない。学校から呼び出されても、リッキーは配達の手を休めることができない。すべてのしわ寄せがアビーの肩にかかってくる。リッキーは疲れ切って家に帰って来る。彼には問題を起こした息子の話をきいてやるだけの余裕がない。怒りに任せて、息子の携帯電話を取り上げてしまう。息子は、自分の命の様に大事にしている携帯電話を取られて、逆上して家を出て行ってしまう。

翌日家に帰ると家に飾ってあった家族写真のすべてが、スプレーで塗りつぶされている。おまけに朝リッキーが出勤しようとすると車のキーがない。息子の仕業に決まっている。父親はセブを殺しかねない勢いで探す。でもキーを隠したのは、息子ではなかった。12歳の娘が、「車が家に来てから父親の人が変わってしまった。車が亡くなったら、以前の様に家族みんなで仲良く暮らせるだろう」、そう思ってキーを隠していたのだった。リッキーは娘の柔らかい心に触れて、涙にくれる。それでも彼は働きに行かなければならない。

その日、リッキーは、配達で車を離れた隙に二人の暴漢に襲われる。大事な配達物を奪われ、リッキーは、殴る蹴るの暴行を受け、病院に運ばれる。そこでボスに事情を説明すると、「盗まれた荷物は保険でカバーされるが、配達できなくなった荷物のペナルテイーとして1000ポンド支払わなければならない」、と通告される。病院に駆けつけて来た妻のアビーは、それを聞くと、夫の携帯を奪い取り、夫のボスに怒りをぶつけてるのを止められない。「あなたのために今まで休日返上で家庭を犠牲にしてリッキーは働き続けてきた。いま仕事中に暴漢に襲われて大怪我をしているのに、どうしてペナルテイーを払わなければならないのか。」夫のボスを怒鳴り散らしてしまったアビは、冷静になってみると、自分のしたことで、夫が失業することになることを知って、あわてて夫に謝罪する。「いや、いいんだ。いいんだよ。」と妻を抱きしめるリッキーの折れた腕、痛む両足、切れた顔、満身創痍のリッキー。
翌朝、ごめん ぼくはもうここに居られない。SORRY WE  MISSED YOU.不在通知を残してリッキーは家を出ていく。
というお話。

リッキーの話は、いま普通にどこにでも転がっている話だ。それほど社会は破綻している。フランチャイズ組織は、リッキーの配送会社に限らず、マクドナルドであり、ケンタッキーフライドチキンであり、スタバであり、セブンイレブンであり、ローソンであり、クロネコヤマトだ。それぞれの店長さんは、決められた本社のノルマを達成することに追われ、おおもとの江戸将軍のところに、多額の上納金を収めに参勤交代しなければならない。上部組織は肥え太るが、末端の労働者はたまらない。このようにして搾取に搾取を重ねて富に膨れ上がった大企業を、市場経済は作って来た。特に、サッシャ―首相以降の英国の新自由経済は、完全に福祉型の資本主義社会を破壊した。

仕事に追われるお父さんでなく、昔のような優しいお父さんに戻って欲しい、と願って父親の車のキーを隠した娘の泣き顔には泣かされる。家出したはずなのに、父親が暴漢に襲われたと知るや否や、横たわる父親のベッドに 駆けつけて跪く息子の姿にも泣かされる。怪我をした夫が会社のボスから罰金を言い渡されて、妻がボスを怒鳴りつける姿も、自分だってそうするだろうと自分の姿に重ねて泣ける。この家族に降りかかっている事態は、明日の自分のことでもある。だれも他人の話だなどと言うことができない。骨折した腕で、もうどうにもなれ、と車に飛び乗って家を出ようとするリッキーに、自分の体を投げ出して、体を張って車を止めようとする息子、妻、娘。それでも振り切って出ていくリッキーの行く先には死しかないのか。それとも思い直して借金に借金を重ねながら家族ともども生きていくのか。

彼ら、ごく普通の家族を取り巻く環境は、酷い。ニューカッスルでも公共サービスが民間企業に取って代わられて、公立病院は、貧しい移民と老人とこどもで溢れかえっている。大怪我をしていても緊急処置をしてもらえずに、長い待ち時間を待たなければならない。街には収集されないゴミがあふれて悪臭が漂っている。ゴミ収集が、利潤優先の会社に代わったために充分収集されずにいるからだ。さりげなくフイルムはこうした町の様子を映し出す。
仕事が終われば家で子供達と温かい食事をとり、親は子供達の学校の話を聞き、子供たちは親の話を聞いて、ゲームをしたりテレビを見て過ごす。朝は食卓でそろって家族で食事をとる、といった家庭の姿が、すでに昔話になってしまった。おかしいではないか。
これからさらに、私達には、IT企業が生み出すツールによって大量の失業が発生する時代を迎える。史上最大の大失業時代が来ることになる。それで良いのか。

トマ ピケテイが、「21世紀の資本」で言うように、こういった新自由主義的資本主義の行き詰まりには、国家が介入して「資本税」を徴収することでしか解決できない。GAFAといったグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルなどの巨大企業が世界の富の半分を独占しているが、そのような独占による富を人々に、公平に配分しようとするならば、暴力装置を持った国家が強制的に「資本税」を直接課税して、税を奪取しない限り不可能だ。

ケン ローチは2017年に、「私はダニエル ブレイク」を製作して、英国の福祉政策が死に絶え、老人に年金はなく、母子家庭に育児手当が配給中止になって、シングルマザーが体を売らないと食べていけないような冷酷な現状を告発した。ダニエル ブレイクは生涯、質の良い家具を手造りし、よく働き税金を納め、年を取って働けなくなって年金などの社会保障を求めたが、何一つ得られずに死んでいくしかなかった。ケン ローチは、渾身の怒りを込めてこの映画を作った。今回もケン ローチが怒っている。私たちは怒らなければならない。私達にはケン ローチが必要だ。おかしいことをおかしいという。間違っていることを間違っていると告発する。怒り続ける人。ケン ローチ、85歳。引退するにはまだ早い。
(最後の写真はケン ローチ監督)

ギターで歌っているのは、ブルースシンガーのハーデイ レッドベターによって1933年に書かれた曲:「GOODNIGHT  IRENE」(おやすみアイレーン)。ハーデイはこれを12弦ギターで歌っているが、この曲を映画の中では、妻のアビが世話している患者のおばあさんが歌っている。夫と諍いをして悲しくてむせび泣くアビの髪をとかしてやりながら、おばあさんが歌ってアビを慰さめる。自分では立って歩くことも排尿排便することもできないおばあさんが、看護師のアビを慰め、どんなときでも人は、互いに助け合うことができるということを教えている。