2012年12月26日水曜日

2012年に観た映画 ベストテン

  

第1位:「HUGOの不思議な発明」マーチン スコセッシ
第2位:「最強のふたり」 エリック トレダン、オリバーナカチェ
第3位:「J エドガー」 クリント イーストウッド
第4位:「アウンサン スーチー引き裂かれた愛」 リックべッソン
第5位:「ル オーブルの靴磨き」 アキ カウリスマキ
第6位:「人生の特等席」 ロバート ローレンツ
第7位:「ぼくらのラザール先生」フイリップ ファラルド
第8位:「レ ミゼラブル」
第9位:「アメイジング スパイダーマン」マック ウェブ
第10位:「バットマン ダークナイトライジング」クリストファーノーラン

第1位 「HUGOの不思議な発明」
原題 「HUGO」
監督: マーチン スコセッシ
原作:「ヒューゴカブレットの発明」
映画の説明と評価は1月27日に 詳しく書いた。
人は映像を観ることによって初めて自分の想像力に色彩や香りや動きがついてきて、イマジネーションを広げ、さらに夢を見ることができるようになる。それを明確に実証してくれたのが 映画人ジョージ マリエス(1902年の月への旅行)だ。この映画人マリエスと、ヒューゴというパリ駅の時計台に住む孤児との素晴らしい物語。
映像の美しさが例えようも無い。ヒューゴが少女に伴われて入るパリ国立図書館、パリ駅の中の本屋、巨大なぜんまいに取り囲まれた大時計の内部、公安警部と花売り娘との恋、陽気なカフェの音楽家たち、つかの間の逢瀬をする恋人たち。1930年代の人々を 美しいセピア色に染め上げて、紡ぎだされた映像が 身震いするほど美しい。今年観た映画の中で一番素晴らしかっただけでなく、人生のなかで観たすべての映画の中でも忘れがたい貴重な作品。スコセッシを心から敬愛。

第2位 「最強のふたり」
原題:「INTOUCHABLE」
監督;エリック トレダン オリバーナカチェ
映画評は、11月8日に書いた。
裕福だが脊椎損傷の障害者フリップと、ケア役のセネガルからきた移民のドリスとの交流を描いた作品。身体障害者に必要なのは、怪我をしないように真綿に包んで大切にされる事ではなくて、同等の友人として歓びを共有することだという当たり前にことを、気付かせてくれる映画。二人の男が車椅子を倍の早さで走れるように改造し、ハングライダーを楽しみ、時速300キロ出る黒のマセラテイでぶっとばす。童心に帰ってふたりの男達の魂が解放される。笑い転げる二人が子供のように輝いている。何て素敵な映画だろう。

第3位 「J エドガー」
原題:「J EDGAR」
監督:クリント イーストウッド
映画評は、2月9日に詳しく書いた。
8人の米国大統領に恐れられ、48年間休むことなくアメリカ連邦捜査局局長を務めたエドガー フーバーが現職で亡くなるまでのバイオゲラフイー。フーバーとクライドとの生涯の伴侶として尊敬しあうプラトニックな男と男の結びつき。求愛を拒否されながらもフーバーの小児病的いびつな愛情を受け止めて、右腕として生涯を貫くクライドの愛のかたちが、泣かせる。人間が描かれている。人を描いて、感動させることの天才 クリントイーストウッドの力量に感服。82歳で完成させた映画。映画を観た後で、様々なシーンが蘇ってきて感動が深まっていく。素晴らしい。

第4位 「アウンサン スーチー引き裂かれた愛」
原題:「The LADY」
監督:リック べッソン
映画評は 6月6日に書いた。 ビルマ独立建国の父アウンサン将軍の一人娘スーチーが ロンドンで家庭を築いて夫と二人の息子と暮らしていた1988年から、夫と離れたまま死に別れる1999年を描いた作品。1991年の自宅軟禁で、本人不在のノーベル平和賞を夫と息子が代わりに受け取るシーン、その後の2007年の僧侶達の勇気ある反政府デモのシーンに泣かずに居られない。この後これらの僧侶達は惨殺され、寺は打ち壊され、残るものは野に放たれたのが、現実だった。
現職の国会議員スーチーは非暴力 民主化実現のシンボルになったが、その現存の女性という難しい役を演じたミッシェル ヤオは、体重を極限まで落とし、難解なビルマ語をマスターし、スーチーの癖や仕草まで完全に習得。そっくりさんになってヤンゴンでの民主化要求演説したシーンでは、実際の国民民主連盟にいた映画関係者が 当時を思い出して取り乱して撮影が中断されたという。顔が違うのに映画を観ていると、彼女がアウンサン スーチーにしか見えない。楚々とした美しさ。孤立を恐れず一歩たりとも後ろに引かない。本当に美しい人。世界中に勇気を与え続けている。

第5位 「ル オーブルの靴磨き」
原題:「LE HARVRE」
監督:アキ カウリスマキ
映画評は 5月3日に書いた。
フランス北西部の港町、ル オーブルで、妻とつましく暮らす初老の靴磨きマルセルが、アフリカから密航してきたイングリッサという少年を匿って 彼の母親が働いているロンドンまで送り届けてやるために、貧しいル オーブルの住民達が一汗かく、というヒューマンドラマ。マルセロのヨレヨレのジャケット、埃だらけの破れそうな靴、顔の深いしわ、ぐちゃぐちゃのタバコの箱、めったに着ないけど大事にクロセットにかかっている背広、妻の服も2着しかない。徹底した市井の人々、権力にも法にも守られてさえ居ない。貧しいが、自分達の足でしっかり立っている生活者達を描いている。彼らの正義は金に縛られている人々の正義よりはるかに正しい。渋みと苦味とペーソスがあ合わさって やさしい笑いをかもし出している。さすがアキ カウリスマキ。

第6位「人生の特等席」
原題:「THE TROUBLE WITH THE CURVE」
監督:ロバート ローレンツ
映画評は12月12日に書いた。
83才で依然として立派な男、クリント イーストウッドは、いつまでもスターだ。イーストウッドの右腕としてプロデユースしてきたロバート ローレンツの初監督作。撮影中 彼が少しでも迷いを見せたら すぐにイーストウッドが代わって監督し始めるとわかっていたので、入念に準備して早いペースで撮影していってイーストウッドに口を出す暇を与えなかった と笑いながら言っている。映画の中でスタンドでイーストウッドに並んでいたスカウトマンらは、皆本当のスカウトマンだったそうだ。野球のダイナミズム、、、キャッチャーの弓なりになった全力投球、振り絞ったバットがみごとにヒットするときのカッキーンという音。野球が好きになる。イーストウッドは役者としても監督としても最高のストーリーテラーだ。

第7位 「ぼくらのラザール先生」
原題:「MONSIER LAZHAR」
監督:フリップ ファラルドー
映画評は8月29日に書いた。
カナダ映画、フランス語英語字幕。モントリオールの小学6年生のシモンとアリスは 担任の先生が教室で首を吊って死んでいる姿を見てしまった。学校側は心理療法士に事後処理をまかせ、何事もなかったように平常にもどるが、新しく雇われたラ ザール先生は、シモンとアリスの心の傷を放って置くことが出来ない。11歳の子供達の自然な姿が印象的。愛くるしい顔で心に痛みを抱えて、日常を過ごしている子供達の姿に涙が出て仕方が無かった。言葉でなく映像で子供の心を映し出すことに成功した素晴らしい映画。映像が詩になっている。

第8位 「レ ミゼラブル」
これについては、昨日観たばかりなので、あとで詳しく記載する。

第9位「アメイジング スパイダーマン」
監督:マック ウェブ
映画評は7月10日に書いた。
前回のスパイダーマンがサエなかった分だけ主役をアンドリュー ガーフイールドにして、全く別の作品のように素晴らしくなった。ガーフイールドはアメリカ人だがイギリスで育ち、映画よりシェイクスピアを演じる本格的な役者。スパイダーマンの動きも、悩める青年の心理描写も、感情の抑揚など良くわかりやすく見せてくれて、どうしてスパイダーマンになったのか理解、共鳴できる。3D画面がうまく生かされていて 画面の立体的で奥行きが深く美しい。スパイダーマンと一緒に風を切ってニューヨークの摩天楼をスウィングしている気分になれる。とても楽しい。今では、無駄にたくさんの3Dが出ているが この映画なら3Dにするだけの価値がある。

題10位 「バットマン ダークナイトライジング」
原題:「DARK KNIGHT RISES」
監督:クルストファー ノーラン
映画評は7月25日に書いた
2005年「バットマンビギンズ」、2008年「ダークナイト」に続いて、この2012年の作品が3部作の最終作になった。主演のクリスチャン ベール、執事のマイケル ケーン、ウェイン財閥代表のモーガン フリーマン、3人の芸達者が演じて、とても良い。両親を目の前で無慈悲にも暴漢に殺された少年が正義とは何か、そのために戦う真の強さとは何かを人として傷つきながら成長していく姿を見ることが出来る。悩めるバットマンに共鳴できる。素敵なラストシーンだった。

2012年12月24日月曜日

2012年に読んだ漫画 ベストテン

                                           

第1位:「岳」 1-18巻 石塚真一
第2位:「ピアノの森」1-22巻 一色まこと
第3位:「聖おにいさん」1-8巻 中村光
第4位:「3月のライオン」1-7巻 羽海野チカ 
第5位:「テルマエロマエ」1-5巻 ヤマザキマリ
第6位:「宇宙兄弟」1-19巻 小山宙哉
第7位:「ちはやふる」1-18巻 末次由紀
第8位:「バガボンド」1-34巻 井上雄彦
第9位:「神の雫」1-34巻 亜樹直作 オキモトシュウ
第10位:「きのう何食べた」 よしながふみ

第1位 「岳」
5月15日と9月17日に、この漫画について書いた。読み終わったときの感動が今でもそのまま続いている。むかし男の子が生まれたら穂高と名前をつけようと思っていた。その美しい山で、主人公、島崎三歩が小屋を作って山岳救助をしている。読んでいると、山から吹き降ろしてくる冷たい風が頬をなで、淡い山の陽が感じられて、乾いた風の音が聴こえてくる。一歩一歩踏みしめる雪渓の固さ、360度山また山の光景、突き抜ける青空、落葉樹や可憐な山岳植物、コッヘルで待ちわびるアルファ米入りラーメン、夜行列車の賑わい、茅野駅で電車を待つ間飲む味の濃い牛乳などなどが一気に蘇って来る。
 島崎三歩は、沢山の人命救助をして、遭難死した山男達を背負って下ろし、救助要員を育て、山の事故で親を失った孤児の兄貴になり、山を愛する人々の心の支えになった末、ひとりでヒマラヤで、救助をしていて死んでしまった。酸欠でおぼろげになった意識のなかで ヒマラヤの山々を見下ろしながら「んまいコーヒー」を飲んで、その死の瞬間まで自分が生きて帰る自分を信じていた。悲しいけど、この終わり方が自然だった。これ以上のことを三歩に望めない。本当に心にいつまでもいつまでも残っていて、胸のうちで三歩が永遠に輝いている。

 第2位 「ピアノの森」
一之瀬海は「森の端」と呼ばれる色町で、15歳の売春婦玲子から生まれた。父親は玲子にもわからない。住んでいる家の横に 昔ストリップショーに使われて今はもう音の出ない古いピアノが捨ててあった。同年の子供など一人もいない色町で、海はピアノを唯一の玩具にして育った。小学校に上がってもいつも裸足でいる森の端の子供には、友達もできない。しかし海は生まれながらの天真満爛さで、暴力団やキャバレーの面々だけでなく社会から取り残された人々に愛されてきた。
小学校5年生のときに、将来ピアニストになる、と自己紹介をする雨宮修平が 東京から転校してくる。世界的に有名な日本を代表するピアニスト雨宮洋一郎の息子だった。父親は、学校の陰湿で人気のない子供嫌いの音楽教師 阿字野が、実は20年前、彗星のように世界に躍り出て、雨宮洋一郎をあこがれさせ、最高潮のときに交通事故にあい突然姿を消した、伝説になった幻の天才ピアニストだったことがわかる。
人気絶頂の時に手指の事故で世間から隠れるようにして生きてきた阿字野が、彼が昔特別に作らせたピアノを唯一の玩具にして育ってきた天然野生児、海に出会い、阿字野の失踪のあと血の滲む努力でピアニストになった雨宮とその息子修平が、海に出会う。この4人の運命の出会いが、太い縦糸になって、それにまつわる沢山の人々、暴力団、娼婦達、丸山誉子、海の弟子大貴、ジャン ジャックセロー、カロル アダムスキー、パン ウェイ、レフ シマノスキー、ダラナドス、タイスなどなど、登場人物が横糸になって物語が紡ぎ出される。それぞれの人々がみな魅力的で、それぞれの抱える物語がどんどん広がって、一大交響曲になっている。
10歳で出会った海を「宿敵」と断定した雨宮父子と、出会ったとたんに修平をピアノの「同志」と思い込んだ海との友情と憎しみと嫉妬と 音楽への深い愛情の行方から目が離せない。他のコンクールの候補者のショパンを聴きながら「なんと音楽は人を喜ばせることだろう。」という海のつぶやきが すべてを語っている。本当に音楽は何と人を幸せにしてくれることだろう。舞台がポーランドに移り、ショパンコンクールで一体誰が 優勝するのか、、。まだ、連載、継続しているので、この先が楽しみ。

第3位「聖おにいさん」
目覚めた人ブッダと、神の子イエスが東京立川のアパートで 下界バカンスを送っている。浮世離れした、二人の会話の豊さに笑いが止まらない。何度も何度も読んで同じところでいつも笑い転げる。
血の涙を流すマリア、天草四郎の踏み絵、悟れアナンダの単行本化、ヨセフの父としての疑惑、仲良しのヤクザの兄さん、ゼウスまで突然出てきて、もう本当に、笑って笑って、涙が出て、呼吸が笑いで苦しくなる。他人のいるところでは絶対読めない。ずっとこれからも笑わせてもらいたい。

 第4位 「3月のライオン」
この世のすべての不幸を たった一人で背負うために生まれてきたような、親も兄弟も信頼できる親戚もない零が、ひとり将棋で戦っている。中学生で将棋で稼ぎ、高校生になって新人王を獲得。 零の唯一の心の安らぎをもたらせてくれる、やはり親のないアカリとヒナ姉妹。
正義感が強く、友達をかばったために、学校で陰湿ないじめにあうヒナと零の友情と忠誠心。ほかに、将棋の厳しい世界で日々戦う山崎五段とハト、順慶、不治の病気をもった二階堂、桐山五段、たくさんの人が出てきて、それぞれが壮絶な闘いを続ける。それぞれの将棋士たちに独白をさせるが、それがとても良い。

第5位 「テルマエロマエ」
第1巻が出たばかりの頃から愛読している。女性作家の作品と思えない。「そこはかとした」笑い。にんまりしながら読んで、終始顔がくずれる。古代ローマのハドリアヌス帝に仕える技師、ルシウスが、風呂のなかで「平たい顔族」の国の風呂にワープする。まじめ一方のルシウスが 馬のハナコにホレられたり、伊藤温泉でくつろいだ人々に囲まれて、旅館の半纏を着て働く様子など、何から何までおかしい。
このおかしさは、テイーンのころから理解ある母親から背中を押されてヨーロッパで絵を勉強しながら放浪した作者の、自由な発想からくるものだろう。作者自身が、とても魅力のある人だ。実際、立派な建築物を沢山残したハドリアヌス帝のところを 塩野七生のローマの歴史物語を読んでいるところ。今後も楽しみ。

第6位 「宇宙兄弟」
NASAに所属している六太と日々人兄弟が 一緒に月に行く希望もなかなか簡単には実現しない。日々人は月面での事故で、帰還後パニックアタックに苦しんだ。やっとそれを克服できたというのにNASAは日々人に残酷な決定をする。何をやっても優秀な弟、日々人に勝てなかったサエない兄ちゃん、六太は、いつも「何回目だ。こうやってあいつの背を見るの、、、。」と、つぶやいていたけれど、これからが兄の出番だ。兄弟愛、友情、信頼と敬愛。二人を取り巻く 沢山の人々が、みんな魅力的に描かれている。

 第7位 「ちはやふる」
小学校6年で転校生、綿谷新に出会った綾瀬千早は、カルタのおもしろさを知って、カルタで日本一は世界一のこと、と世界制覇の夢を見る。そんな千早も もう高校生。原田先生の言うように、「個人戦は団体戦、団体戦は個人戦」千早と彼女を片思いする太一との二人三脚で、瑞沢高校は、高校選手権を成功させた。今度は 彼らが属する白波会から、名人戦 クイーン戦の前哨戦である吉野会大会にのぞむことになる。
いよいよ新と千早と太一が同じ土俵に登って戦うことになる。千早が可愛い。新も太一も素敵だ。

 第8位 「バガボンド」
やっと34巻が出た。33巻まできて、作者が書く意欲を失ってしまって、ずいぶん待たなければならなかった。「スラムダンク」で青春の涙をふりしぼらせてくれた作者も中年クライシスか。吉川英次原作の「宮本武蔵」を彼らしい自由な発想で、佐々木小次郎をろうあ者にして人間としての魅力を引き出してくれた。絵がうまい。この人ほど生きた人間の表情を上手にとらえる漫画家を他に知らない。

第9位 「神の雫」
神咲豊多香の息子、神咲零と遠藤一青とのワインをめぐる争い。12本のワインを当てなければならないが、まだまだ先が長い。遠藤一青がじつは豊多香りの息子らしいが、二人にレースを強いることによって何を伝えようとしているのか知りたい。ワインに対する知識が増えた。ボトルが怒り肩のボルドー、下半身がデブのブルゴーニュ、ブルゴーニュの最高の畑でできるロマノコンテインが どうして高級なのか、カビを利用した貴腐ワイン、凍結するまで収穫しない糖度の高いアイスワインなどなど、とっても勉強させてもらった。

第10位 「きのう何食べた」
ふたりの男の作る料理の魅力的なこと。これをもとに、料理上手になる若い人が増えているらしい。よしながふみの描く絵が大好きだ。

2012年12月19日水曜日

メトロポリタンオペラ「皇帝ティトの慈悲」

                                
作曲者:ヴォルフガング アマデウス モーツアルト

原題 :「LA CLEMENZA DI TITO」
指揮 :ハリー ビケット
1791年 プラハで初演。 

日曜の午後、映画館でハイデフィニションフイルムのメトロポリタンオペラ「皇帝ティトの慈悲」を観た。
モーツアルトが亡くなった年に作られた最後のオペラ。神聖ローマ皇帝レオポルド2世が プラハでボヘミア王として戴冠(1791年9月)する式で上演するために、ボヘミア政府から依頼されて、モーツアルトが作曲した作品。当時、貧困と神経衰弱で死の床にあったモーツアルトは、「魔笛」を死力をつくして作曲していたが、政府の依頼に応じて、「魔笛」を中断して18日間でこのオペラを書き上げた。モーツアルトが食べ物にも事欠くような貧困、寒さ、絶望のなかで これほど美しい曲の数々と、楽しい舞台を作り上げたことは奇跡のようであり、また、とてつもなく哀しい。

紀元1世紀のローマ帝国。
実在した皇帝ティトのお話。歴史的にはこのティトの父親が皇帝で、政権を取っていた時に、ベスビアス火山の噴火が起こり古代ローマの都市、ポンペイが埋まってしまった。そのために皇帝が過労で早死にしたと言われている。親子共に、慈悲深い皇帝だった。皇帝ティトは、エルサレムを侵略、鎮圧した後、そこでエルサレムの王女と出逢い、愛し合っていたが、ローマ市民はそれを望まず、ユダヤ人を妃に迎えることができなかった。ティトは心を鬼にして、愛する王女を追放する。そこから、物語が始まる。

愛する人を失ったティトのために、お妃選びが始まった。ティトが妃にセルヴィリアを選ぶか、ヴィラリアを選ぶか、、、忠実な部下であり心の友であるセストとアンニオは 気が気ではない。実は セストはセルヴィリアを、アンニオはヴィラリアを愛している。とうとう皇帝はセルヴィリアを妃に迎えたい意向を伝えてきた。アンニオとセルヴィリアはパニックに陥る。二人は涙ながらに互いの愛を確認しては泣き崩れるばかり。セルヴィリアは意を決して 皇帝の前に進み出て、自分が皇帝の部下のアンニオと愛して合っていることを告白する。

ヴィラリアは、昔、自分の父親が皇帝に殺されていることを根に持って皇帝を憎んでいるが、自分は王妃に地位が欲しくて仕方が無い。このまま王妃の座をセルヴィリアに奪われてるくらいなら、皇帝ティトをいっそのこと抹殺したい。それで自分に夢中のセストをたきつけて、皇帝暗殺を企む。しかし、皇帝は、アンニオの恋人セルヴィリアの訴えに理解を示して、自分はヴィラリアと結婚することに決めた。王妃の夢がかなうことになって、あわてたのはヴィラリア。皇帝を暗殺しようとしているセストを止めなければ。しかし、時はすでに遅く、セストは城に火を放ち、反乱を起こしていた。セストは誰よりも崇拝し、心から忠誠を誓っていた皇帝を、恋人との愛を貫く為に殺害したことで、自分を責めて心身ともにズタズタになっている。親友のアンニオに見つかって、自分が皇帝を裏切ったことを言うが、アンニオは信じない。やがてセストは近衛隊に捉えられる。

皇帝ティトは無事だった。暗闇に中でセストに襲われて殺されたのは、別人だった。皇帝は心からセストを信頼していたから、セストが皇帝暗殺を謀ったとは信じられない。どうしても有罪の判決にサインをすることが出来ない。
一方、逮捕され、拷問されても、何故皇帝を襲ったのか、一切自己弁護しないセストの様子を見て、ヴィラリアは セストをそそのかしたことを心から後悔する。本当にセストが自分を愛していたのだと知って、ヴィラリアは苦しむ。迷った末、とうとう、ヴィラリアは皇帝の前に 自らの命を投げ出して、暗殺をそそのかしたのが自分であることを懺悔する。そんなヴィラリアを見て、皇帝ティトは すべてを許すと言い渡す。
というお話。

テーマは、「苦悩の末の赦し」だ。犯行を実行するまでのセストの迷いと苦悩。皇帝に無実だと言ってくれ、と迫られたあとの苦しみ。ヴィラリアの苦渋に満ちた愛情と権力欲。苦しみぬいた末の皇帝ティトの「赦し」は、モーツアルトが生活苦や、自分の才能が正しく認識評価されない苦悩から、脱却したい願望でもあっただろう。

皇帝はテノール。近衛隊長はバリトン。驚くことに二組の恋人たちのうち、ヴィラリア(ソプラノ)の相手、セストはカストラートで、セルヴィリア(ソプラノ)の相手アンニオはパンツ役といわれる男役のソプラノだ。カストラートは、モーツアルトの時代に流行していた、少年時に声変わりする前に睾丸を除去して一生ボーイソプラノの声を維持させた去勢歌手のこと。カストラートが禁止された後 現在はこの役をメゾソプラノの女性が歌っている。
従って二組の恋人たちは4人とも女性だ。男役は二人とも限りなくソプラノに近いメゾソプラノ。声も姿も、観ているとお花畑にいるような華やかさ。モーツアルトがいかにメゾソプラノの声域、声量、音質を愛していたかが わかる。おかげで宝塚をみているような美しい舞台だった。アンニオ役が、稀に見る美貌なのに男役で、中性的な不思議な魅力,よろっとしたり、くらっとしたり、声量もあって、素晴らしい。宝塚の那智わたるや、真帆しぶきに夢中になった大昔の記憶が蘇る。

このオペラになかで一番好きな曲が 「S’ALTO CHE LACRIME」。セストが自分のために捕らえられ死刑にされる事態の中で、このまま黙って王妃になることが出来るだろうか、と自分を責めるヴィラリアに向かって、親友のセルヴィリアが歌いかける。「あなたは残酷だわ。彼のために してあげられることは泣くことだけじゃないはず。」じっくり、説得調に歌われて、ヴィラリアは すべてを皇帝に告白することを決意する。
この曲はたくさんの歌手が歌っているが、キャサリン バトルが一番良い。親友の説得、忠告だから、力強いソプラノで歌うが、キャサリンのは時として強く、時として囁くようにピアニシモの美しい済んだ声で歌い上げる。彼女の声には、他のソプラノ歌手にない独特の輝きがある。

皇帝ティトにイタリア人テノール、ジョゼッペ フィルアントニ。セストにエストニア人のメゾソプラノ歌手、エリナ ガランチャ。ソプラノのヴィテリアにバーバラ フリットリ。セルヴィリアにイギリス人ルーシー クロウ。細身で美貌の男役アンニオに ケイト リンゼイで、すごい人気だった。みんなとても良かった。
日曜日の午後、ポップコーンとアイスクリームかじりながら こんな素敵な舞台に浸れるなんて何という贅沢な幸せだろう。オットは終始寝ていたが、、、。

2012年12月12日水曜日

映画「人生の特等席」

 
      
原題:THE TROUBLE WITH THE CURVE

監督:ロバート ローレンツ
キャスト
ガス  :クリント イーストィウッド
ミッキー:エイミー アダムス
ジョニー:ジャステイン テイバーレイク
ビート :ジョン グッドマン

クリント イーストウッドは私の人生で、いつもヒーローだった。
小学生のときに「ローハイド」、中学生のときにマカロニウェスタン、「荒野の用心棒」、大学生で 「ダーテイーハリー」、大人になって、「許されざる者」。中年になって「マデイソン郡の橋」や「ミステイックリバー」。ババになって、「ミリオンダラーベイビー」、「グラントリノ」そしてさらに、この映画「人生の特等席」だ。
彼が一生かかって描いてきたものが、そのまま私の人生の軌跡に重なる。だから82歳の彼が元気で現役役者や監督でいてくれることが、とても嬉しい。この映画は、恐らく彼が主演を勤める最後の映画になるだろう。これは彼の監督業で右腕になってきたロバート ローレンツが単独で 初めて監督をした映画。イーストウッドの右腕だけあって、音の使い方がうまく、映画全体の起承転結 メリハリの付けかたが秀逸。とてもよく出来た映画だ。
ただ邦題の「人生の、、、」の意味するものはよくわからない。原題をそのまま つけるべきだと思う。「TROUBLE WITH THE CURVE」の題は そのまま訳して、「カーブでトラブル」とか、「カーブが難問」とかの意味。

ストーリーは
ガスはメジャーリーグ、ボストンレッドソックスのスカウトマン。毎年有能な新人を発掘してチームに入れて成功させている。スカウトマンの中で一番古くからチームに貢献してきて、本当に使い物になるスターを見出すことで仲間からも ライバルチームのスカウトマンたちからも一目置かれていた。
しかし寄る年波には勝てない。ガスは新聞を読むにも眼鏡だけでは活字が見えなくて、虫眼鏡が要るようになった。視野の中心部がぼやけて足元が危うくて、よく転ぶ。医者からは黄班部変性か緑内障なので早く専門医に行って治療が必要だと言われている。スカウトマンのボス、ビートからは 何時引退するのか、と問われている。
しかしガスは聴く耳を持たない。大丈夫。今までも上手にやって来た、これからもやっていけるさ。スカウトマンは街から街へ 旅を続けて新人を見出す。ゆっくり家で腰を下ろしている暇などないのだ。

彼には自慢の娘がいる。33歳 独身の弁護士ミッキーだ。彼女は若いのにやり手で努力家。実績を買われて名のあるファームの招聘されている。名誉なことだ。恋人も弁護士で将来結婚するつもりでいる。
ガスのボス、ビートがある日、弁護士事務所に訪ねてくる。ビートはミッキーが赤ちゃんの頃から知っている。ミッキーは6歳で母親を亡くし、幼いうちからいつもガスに引っ付いていたからだ。彼は、ガスがどこか、体の調子が悪いのでは無いかと言う。そういわれると、忙しくてこのごろ疎遠にしていた父親が心配。でも、訪ねてみると頑固親爺は娘をうるさがるばかり。目医者に行くなど、とんでもない。不健康な食生活、酒も葉巻も手放せない。娘を怒らせて、サッサと返すだけの父親。

ある町にすごい新人バッターが出現。ガスを始めとして各チームのスカウトマンが町に乗り込んでくる。ガスを追って、ミッキーもこの町に。新人バッターは、皆の目の前で ジャンジャンボールをかっ飛ばす。どのチームもこの新人は「買い」だ、という中で、ガスはひとり反対する。新人は手を捻ってバットを握っている。これではカーブは打てない。とガスは言う。しかし眼鏡をかけても遠くが見えないガスの言うことなど誰も聞かない。ガスは、新人がボールをバットに当てる時の「音」だけで、バッターの欠点がわかったのだ。ガスの主張を娘のミッキーだけは信じる。父が強情に言い張る時は 絶対に正しい。しかし、「音でわかる」と言うガスをみんなは笑いものにして、この新人をチームは買う。

ミッキーは他のチームのスカウトマンをしている青年に 新しい恋をしていた。相手は、ガスが昔、見出したピッチャーのジョニーだ。彼は腕を痛めてプロから脱落、今はブロードキャストを目指しながらスカウトマンをやっている。ガスもミッキーもこの新人は「止め」というのでスカウトしなかった。しかし、ガスのチーム、レッドソックスは この新人を買った。ジョニーは、ガスとミッキーが自分を裏切ったと思って、怒って町を去っていく。ガスも 自分の意見を聞かずに カーブも打てないバッターを買ったチームの首脳陣に怒って、町から引き上げる。

しかし、町に残ったミッキーは、そこで埋もれていた とんでもない実力のあるピッチャーを見つける。ホテルの下働きをしている青年だった。ミッキーは、彼の投球するカーブに惚れこんで、彼を連れてレッドソックスの本部に乗り込む。そこでガスもビートも見ている前で 買ったばかりの新人バッターが この青年の投げるカーブも、ストライクさえも打てない醜態を見せて、父親の言ったことが真実だったことを証明してみせたのだった。
というおはなし。

父と娘の絆の深さに胸がジンと滲みる。老練のスカウトマンの正しさを娘が実証して仇をとる痛快な終わり方に拍手。この父にしてこの娘あり。やったぜい。最後に年をとったクリント イーストウッドがひとり歩み去る後姿が、娘との二人三脚の歓び、人生の喜怒哀楽を語っている。

それにしても、クリント イーストウッドはなんと「男」であることか。バーで33歳の娘に言い寄る男が出てきたとたんに、ぶん殴りに飛び込んでいく。転んでも人の手を借りない。だいたい転んだことを認めない。娘を和解しても抱き合わない。手も触れないし、肩に手を置く事もしない。ハローと言って軽く抱き合い、行ってらっしゃい お帰りと言い合い頬にキスする習慣の国で 彼は全然誰も抱いたりしない。するのは男と男の握手だけ。

家事ができない。夕食は冷蔵庫に入れっぱなしの食べかけの缶スパムのランチョンミート。これを直接フォークで口に掻き込む。または、フライパンで焼きすぎて真っ黒になった肉。朝食兼ランチは出前のピザ。葉巻タバコを手放せず、夜になれば勿論呑む。なんと偏った不健康な食事と生活態度、、、これが男だ。
「グラントリノ」でも誕生日に、でっかいバースデイケーキと 老人用の文字盤が大きい電話、落ちたものを拾える杖など持ってきた息子夫婦に怒ってどなり帰す。プレゼントはぶん投げて帰すが バースデイケーキは夕食に食べようとして 隣人にバーベキューに呼ばれるシーンがある。
彼の初期の頃の「ローハイド」では、彼はいつもアルミの皿に、「また豆かよ。」と文句を言いつつまずそうにスプーンで豆をすくって食べていた。彼の出てくる映画で彼が 健康的でおいしそうな食べ物を食べているシーンを見たことが無い。男もつらいな。

ガスがもう30年近く前に亡くなった妻の墓で妻に語りかけるのは「ユーアーマイサンシャイン」の歌詞だ。

   「おまえが俺には太陽の光
   俺には この光があるだけさ
   おまえだけが、この俺を幸せにしてくれる
   ー
   どうかこの俺からお前の光をうばわないでくれ」

泣かせる。妻が生きていた頃 優しい言葉ひとつかけてやらなかったに違いないが、墓に向かってなら、本心を言える。それでいて、残った唯一のサンシャインである娘に向かって、帰れ、帰れとどなりつけるだけで、まともな話しをしようとしない。こんな不器用な扱いのむずかしい親爺 まったくお手上げだ。

娘役のエイミー アダムスが良い。頑固親爺に意地っ張り娘。とてもきれいな目をした女優だ。わたしの愛用のLONGCAMPのバッグを映画のなかで使っていて、なんか、嬉しかった。
彼女の恋人になる元ピッチャーのジャステイン テインバーレイクの役者ぶりには恐れ入る。「ソーシャルネットワーク」でも良かった。ラッパー音楽家だけでなく役者としても一級だ。一芸ニ芸秀でている。
オットは、オージーでクリケットしか見ないので、野球をほとんど知らなかった。でもこの映画で ストライクもカーブも変化球も しっかり勉強できて、野球の面白さに目覚めた。ふりしぼったバットがみごとにヒットするときの 気持ちの良い音、キャッチャーとのやりとりの面白み、ピッチャーの豪快な投げ、など、たくさん映画で経験することができて、とても喜んでいる。

イーストウッドが口ずさむ「ユーアーマイサンシャイン」を聞いて、どうしてもギターで弾きながら歌いたくなった。一念発起して半世紀ぶりにギターを手にしてみよう。
とても心に響く良い映画だ。

2012年12月11日火曜日

映画 「ザ セッション」

                            
原題:THE SESSIONS

監督:ベン レウィン
キャスト
マーク オブライエン:ジョン ホーク
チェリー グリーン :ヘレン ハント

米国の作家、マーク オブライエンの自叙伝を映画化したもの。独立系プロダクションによる小作品。サンダース映画祭で上映され、観客賞を受賞し、スタンデイングオべーションとなった作品。

マーク オブライエンは6歳のときにポリオを患い、首から下の全身麻痺、人口肺(鉄の肺)の助けが無ければ呼吸も自由に出来ない。ストレッチャーに横臥したままの姿勢で ベッドに取り付けられた酸素を吸入しながら、学校にも行き、大学も優秀な成績で学位をとった。大学を出たあとは、アパートで猫と一人暮らし、生活の何もかもヘルパーに頼っている。
書き物は口でくわえたペンでタイプライターに活字をタイプする。電話も口でくわえた棒でダイヤルをまわす。

下半身に感覚はないが、性機能はあるらしい。寝たきりで自分で性器を見ることは出来ないが、異様な感触は残っている。38歳になったある日、彼は人並みに性体験を持ちたいと考えて 親しくしている神父に相談する。様々な人の協力を得て、彼はチェリーというセックスセラピストなる女性に出会う。彼女は、家庭をもって、理解ある夫と息子を持った普通の女性だ。セックスセラピストと娼婦の違いは高額のお金をとるかどうかの違い、とチェリーはさばさばと、のたまう。

セックスセラピーのセッションが始まると、彼女は 患者に男と女の体の違いを良く理解し、互いに体を触れ合ううちに共に、満足の得られる性行為ができるようになるまで セラピーが続けられることを説明する。マークは、四肢が麻痺していて、話をすることは出来ても顔を自由に動かすことが出来ない。チェリーに体を触れられ、次第に興奮して思いを遂げられるようになるまでセッションは続く。マークは当然のように、チェリーに想いを寄せるようになる。ここまで親身になってケアしてくれる人が 今まで他に居ただろうか。マークはペンを口にくわえて、チェリーに思いつくまま 愛の詩を書いて、チェリーに送る。
チェリーのほうは これはあくまでセラピーで仕事は仕事と考え、彼女の夫も息子も医療における彼女の仕事の重要性を理解している。しかしマークから美しい詩が届くようになると、チェリーはマークの純真さに魅かれ始めていた。それで、、。
というお話。

マーク オブライエンは実際6歳から49歳で亡くなるまで、人生のほとんどの時間を鉄の肺の中で過ごした。鉄の肺とは、首から下を鉄でできた棺桶のような箱に全身を入れ高圧酸素を流す治療方法。今でも潜水病の治療などに使っている。この映画を製作したオーストラリア人の監督、ベン レウィンも小児麻痺で障害を持ち、杖をついている。

障害者で24時間他人の世話がなければ生きていくことが出来ない全身麻痺の状態、勿論便や尿文字分ではコントロールできない失禁状態の男が 一人前にセックスが出来るようになり 彼を取り巻く何人もの女性達と冗談を言い合い心の交流をする。前を向いて生きていくマークの勇気がまぶしい。

停電になって アパートの電気が止まり鉄の肺に圧縮酸素が送られなくなって死にかかったり、猫が横を通って毛を落としていって、鼻がかゆいがかくことが出来ない自分を、心の中で鼻を掻くことで自分を笑うシーンがある。自分で自分を笑う精神の強さに目を瞠る。決して弱気にならず、常にユーモアをもって前を向いて生きている。亡くなったときは、たくさんの女性から 惜しまれて逝く。

稀有な映画。
マーク役のジョン ホークは出演中に熱演して自分の脊椎を痛めてしまい、病院のお世話になったそうだ。一方、セラピストのヘレン ハントは49歳とは思えない美しい全裸を惜しげもなくさらけ出して出演している。知性派女優でナチュラル志向。この映画でもマゾヒストではないかと思うほど 女の体をマークに理解させるために、マークの顔にまたがったり、生の自分をさらけだしてセラピスト役をこなしている。彼女は、ジャック ニコルソン共演の「AS GOOD AS IT GETS」でオスカーを受賞している。自然派で整形手術やボトックスなどを拒否、自分で脚本を書いて監督した「THEN SHE FOUND ME」という作品では 49歳、全く化粧なしの体当たり演技をしてみせて話題になった。

マークが亡くなって アパートに残された鉄の肺の無用な姿。そこにマークが残した猫が乗っている最後のシーンが いつまでも心に残っている。

2012年12月9日日曜日

英国の看護士の自死について

オーストラりアで看護士の資格を得たとき、しつこいくらいに教育されたことが、コンフィデンシャルだった。もともとオーストラリアを含む欧米では個人主義が徹底している。隣の住人や同僚が ギャンブル狂だったり アル中だったり、レスビアンだったり 母子家庭だったりしても関係ない。まして職場で知り得た患者の個人情報はコンフィデンシャルで他人に決して漏らしてはならない。医療従事者として、秘密情報は守らなければならない。人の生と死にかかわる場だから、慎重になるのは当然だ。


勤務を交代するときに引継ぎをするが、普通は引継ぎ用紙と口頭で行う。そこに診断名は書かない。エイズをもっているか、肝炎などの感染症を持っているかなども書かない。他人の手に渡ったら困るからだ。情報の中でどうしても伝えなければならないことは口頭で伝えて証拠を残さない。診断名、治療経過、検査結果、ドクターノート、看護記録などは、ひとつのファイルになっていて、ステーションから持ち出すことが出来ない。厳重に管理されている。

オーストラリアのラジオステーションでホストが 入院して妊娠が発表されたばかりのウィリアム王子の妻ケイトの状態を エリザベス女王の声を真似て問い合わせ、担当看護士が電話で答えてしまったことで、電話を取り次いだ看護士が自殺した。英国でもオーストラリアでもトップニュースで伝えられ、このラジオ番組のホストは、激しくバッシングされている。
オーストラリアは国土が広く人口が少ないので、公共の交通機関が未整備なため、多くの人々は車で移動することを強いられている。24時間ラジオ番組を耳にしながら人々は ニュースを聞き、音楽を聴き、たれながされるゴシップを聞かされている。問題になったラジオ番組は以前にも たちの悪いゴシップとプライバシーの侵害で警告を受けていた。このラジオ番組は、閉鎖されるだろうし、二人の男女のホストも仕事を干されるだろう。

私は基本的には権力を笑う、皇室を笑うのは 悪いことではないと思っている。働いても働いても 家など買えない。そんな庶民が毎日働いた給料から38%の税金を取られ、10%の消費税まで取られ、そういった税金で働きもしない皇室やその家族を養っているのはおかしい。日本の皇室も外交と研究だけでなく、消防署や保健所や災害対策などで汗を流して働くべきだと思う。だから、庶民感覚として皇室を笑う、おちょくるのは自然の反応だ。だからといって、この番組ホストたちを擁護する気はないけれど。

今回エリザベス女王の声に惑わされて 患者の担当看護士に電話をつないだ看護士が亡くなったことで、病院当局は「わたしたちはこの看護士たちを攻めていない。」と必死で弁明し、ラジオ番組のホストを責めていたが、責任の取り違いだ。もし何事も起きていなかったら、当然病院当局は 二人の看護士を諮問して、コンフィデンシャルに関してプロフェッショナルでなかった として、何らかの処分をしていただろう。看護士免許の剥奪や停職は無かったに違いないが、注意勧告、位の処分は出ていただろう。

病棟に勤めていると 患者の家族からの電話の問い合わせは多い。問い合わせには担当看護士が対応するがコンフィデンシャルには注意している。状態の悪い患者の家族が 電話で問い合わせてきた時など家族であることを確認して答えるが、遠い親戚や外国にいる息子とか保険会社とか警察とかの問い合わせには 本人が直接病院に来るまで 電話では答えない。癌診断の下りた患者のことを知りたがる保険会社、交通事故の示談のために情報が欲しい人など、患者情報が犯罪に利用されることも多々あるからだ。

イタリア人のビッグママが入院したときは まいった。毎日毎日朝昼晩と、世界中に散らばっている9人の息子達、嫁達、子供達またその親戚や近所の人々が、ママの状態を知りたがって電話してくる。電話ではあなたが本当の息子かどうかわからないから説明できない、というが早いが、マーマ マーマと涙声で大騒ぎ。自分がどんなに良い息子か延々と話す。電話は鳴りっぱなし。病棟では25人の患者が、携帯心電図を胸につけモニターしている。その内どの患者も、いつ心臓が止まっても不思議でない状態のときに、マーマ マーマとやられると、電話を叩き付けたくなる。でもどんなに憎まれてもコンフィデンシャルは譲れない。

癌末期の夫が今日、明日逝ってしまうかもしれない。気使う老いた その妻が電話をしてくれば、心をこめてご主人の一挙一動を電話で伝える。ご主人は朝ごはんを全部食べましたよ、あなたもしっかり召し上がってね、と。
看護士をやっていれば、いやがる患者に苦い薬を飲ませてブン殴られそうになったり、浣腸して蹴飛ばされたりもする。家に帰って患者の名前を出してあんなことあった、こんなことあった としゃべって愚痴をこぼしたいこともある。しかし、コンフィデンシャルは譲れないのだ。

2012年12月7日金曜日

映画 「アルゴ」

         
イランは、紀元前から誇り高いオリエントの大帝国だった。

1979年のイスラム革命によって 宗教上の指導者、ホメイニ師が国の最高権力を握り、イスラム共和国を樹立、真のイランの誇りを取り戻した。
それまでのバフラビ政権は、米国の傀儡政権だった。

イランは、石油ではOPEC第2位の石油産出国、天然ガスもロシアに続いて世界第2位の埋蔵量を持つ。英国も米国も、イランという宝の山を確保しようと イランに介入し続けてきた。この1979年イラン革命で、イラン政府は、米国のパペットだった逃亡中のバフラビ皇帝の身柄引渡しを要求したが、当時のカーター米大統領は拒否、イランに対して在米資産を接収し、国交断絶、経済制裁を実施した。その結果、怒ったイラン国民と新政府によって、反米をスローガンに大規模な反米デモストレーションが各地で起きた。怒り暴徒化した市民は、テヘランのアメリカ大使館を占拠して、52人のアメリカ人の外交官を人質にとる。
このとき、ドサクサの中で6人の職員が大使館を脱出し、カナダ大使公邸に逃げ込み保護される。

映画「アルゴ」は、ここから始まる。この出来事について米国側に正義はない。イラン政権による米国大使館占拠は、米国の利益のためにイランという国を蹂躙してきた米国の国策による結果のひとつにすぎない。そして犠牲者はいつも国からきり捨てられた 無力で一介の市民だ。
ストーリーは
カナダ大使公邸の地下に匿われた6人のアメリカ人大使館職員は、高まる反米の社会状況の中で、外に出る事も、封鎖された空港から脱出する事もできない。すべてのアメリカ人は、スパイとみなされている。イラン革命の象徴のように、街頭には処刑されたアメリカ人が、クレーンで吊るされている。空港ではアメリカで教育を受けたイラン人がチェックをして アメリカンアクセントをもつ外国人はすべて捕らえられている。

CIA工作本部技術部のトニー メンデスは、6人の大使館職員をカナダ大使公邸から脱出させるための策を考える。「アルゴ」という架空のSF映画を撮影することにして、映画監督としてイランに入国、首尾良く6人と合流し、全員を、イランから脱出させた。CIAの秘密工作だったので、事実は公表されずにいたという。これを映画化したもの。

監督:ベン アフレック
製作:ジョージ クルーニー、ベン アフレック
原作:アントニオ J メンデス「MASTER OF DISGUISE」
    ジョシュア パーマン「THE GREAT ESCAPE」

ベン アフレックが監督、主演している。
この映画では、ベン アフレック以外に目立った役者は居ない。美男美女も出て来ない。名前を出しても 誰が誰かわからないから、出演キャストは省く。
ベン アフレックは40歳。バークレー生まれで、ハーバート大学卒の母親をもちリベラルな家庭で育つ。8歳の時から近所に同年のマット デーモンが住んで居て、今に至るまでずっと親友。ふたりで共同で映画制作会社ライブ ネットを設立して映画の脚本、製作を手がけている。社会活動もリベラリストとして活発に行っている。

「グッドウィルハンテイング旅立ち」は、この二人で脚本から製作、主演まで共同製作したものだが、アカデミー脚本賞、助演男優勝、ゴールデン グローブをもらっている。当時、無名だったマット デーモンは、天才的な頭脳を持った掃除夫、ベン アフレックは 彼を見出す心理学者を好演している。とても印象深い映画だ。
2001年「パールハーバー」では、ベン アフレックは恋人を寝取られる純真な青年を演じ、2009年では「消されたヘッドライン」で、たちの悪い国会議員を主演している。

でも、この「アルゴ」が、ベン アフレックの主演作のなかで一番良い。口数が少なく、ボサーとしているようで無造作に見えるが CIA工作員として緻密に計算された動きで確実を手に入れる。カナダ大使公邸の地下で陽の光を浴びることがでいないまま数ヶ月くすぶっている。その6人が6様に絶望感に覆われ不安と不信でいらだっている時 ばらばらになった6人の気持ちをひとつにまとめる度量がある。彼が少ない言葉で6人から全幅の信頼を獲得する経過は、まるで心理劇をみているようだ。迫力がある。
米国人を見つけて、公衆の前で断罪 処刑しろと 目の色をかえて米国人狩りをする群集の只中を通過するシーンや 空港でのパスポートのチェックなど、恐怖で心臓が口から飛び出てきそうなハラハラドキドキのシーンがたくさんある。

結果として、イラン革命を評価するかどうかに関係なく 映画としてCIAに救出された6人に共感できる秀作に出来上がっている。

ベン アフレックは こんないハンサムだったのか。彼の出演作を沢山見てきているが 間の抜けた顔とは感じていても、一度も良い顔だと思ったことが無かったが、今回、前髪をボサボサに下げて、ヒゲも口の周りに伸び放題にしてみると、画面で大写しになった顔をどこから見てもハンサムなのに、びっくりした。この時代、1970年代は思い返してみると みな長髪、ひげ面が主流だったんだな。いま見ると 人によっては、むさ苦しいだけだが ベン アフレックの長髪、ひげ面は高感度100%。今後もこれで行って貰いたい。

イラン国民の悲願だった米国傀儡政権が打倒されたあとも、イランは 米国を中心とする国際社会から、経済制裁や核疑惑を受け、厳しい道を歩んでいる。2005年から保守派のマフムド アクマデイネジャードが大統領になって、強権を主導しているが、米国はイラン政権を揺るがす反政府運動を裏で組織して内政干渉を繰り返している。
イランの核開発について、イランが核兵器を持っていないことは、米国CIAの調査でも IAEAの調査でも明確になっているが、政治の駆け引きのために、明確にせず核兵器を持っているような扱いをして、イランの核が国際社会の安全を脅かしているような米国主導の宣伝ばかりが繰り返されてきた。
しかし、米国の経済不況と国内の失業者など深刻な問題で国際社会への影響力が少なくなるに連れて、今後はこれまでとは違った状況になってくる。イラクは力を蓄えて、今後はイスラム国家の指導的役割を与えられ、オピニオンリーダーとしてイスラム社会を拡大していくだろう。そして美しいペルシャ語を語る人々が、紀元前から営んできた過去の栄光を取り戻していくことだろう。
いろんな事を考えさせる、良い映画だ。

2012年11月28日水曜日

映画 「007 スカイフォール」


    
イアン フレミングのハードボイルド007ジェームス ボンドを読んでいた時は、ボンドのことを、女王陛下のために命を投げ出す、貴族出身らしく教養があり、洗礼された身のこなし、ユーモアとウィットに富んだ、趣味の良いジェントルマンを思い描いていたから、映画には、ものすごく落胆させられた。映画では良家も教養も、趣味の良い会話もない、ただの女たらしのオッサンが 蹴ったり殴られたり走ったり飛んだり跳ねたりするだけに見えたものだ。


ジャーナリストだったイアン フレミングは、第2次世界大戦でイギリス情報部、特別作戦部でスパイ工作に携わっていた。自分の経験が、ハードボイルド作品のもとになっていて、1953年から「カジノ ロワイヤル」、「ダイヤモンドは永遠に」、「ロシアから愛をこめて」、「ドクターノオ」、「ゴールドフィンガー」、「わたしを愛したスパイ」、「「女王陛下の007」、「007は二度死ぬ」など、12の作品を次々と書いた。主人公のジェームス ボンドは、オメガの腕時計をして、ワルサー銃を使い、シックジャパンであわ立てた石鹸でひげを剃る。イギリス製のアストン マーチンDB5を乗り回し、車には特殊武器が満載、トム フォードの服に身を包み、ギャンブルをすれば勝ちまくり、冷えたドライマティニかジンを飲み、ワインもブランデーも匂いをかげば、何年産のどこの地方で出来たものか当てることが出来る。貴族の屋敷やオフィスに行って飾ってある絵が どんな画家のもので、どんな価値を持っているかすぐにわかり、さりげなく教養深く、慇懃無礼。腕力も強く、女性が窮地に陥っていればどんなことをしてでも救い出す。
そんな男のイメージを ショーン コネリーやジョージ レイゼンビーや、ロジャー ムーアやテイモシー ダルトンや ピアース ブロスナンや、ダニエル クレイグに重ね合わせるには無理がある。しかし、イアン フレミングが1964年に亡くなり、映画のほうが脚光をあびるようになってくると、慣れとは恐ろしいもので、続けて見ているうちに、映画もおもしろいと思えるようになった。

ジェームス ボンド007シリーズ、50周年記念作。
全米でオープニング興収8800万ドルでシリーズ新記録を更新。本国イギリスをはじめ25カ国で公開され、公開7日目で歴代第1位の記録を作った。
ダニエル クレイグにとっては、「カジノ ロワイヤル」2006年、「慰めの報酬」2008年、に続いて 第3作目。
監督: サム メンデス。
悪役は、「ノーカントリー」のハビエル バルデム、ボンドガールには、フランス人のベレニス マーローと、イギリス人のナオミ ハリス。

ストーリーは
MI6では、007たちの失態によってNATOの機密データが盗まれて、窮地に陥っている。必死でそれを取り返す為に犯人を追っていた007は、Mの命令で仲間によって撃ち殺される。九死に一生を得た007はMに裏切られた思いに絶望するが、テロリストによって国防省が爆破され、国家の威信が失われていく様子を見て、復帰する決意をしてMのもとに帰る。Mは 007にスパイとしての審査をうけなければならない、と言う。007はもう若くない。現場に復帰するには無理があるのではないか。
しかし007は身体能力や精神力の厳しい審査を受け、Mの命令でスパイとして復帰する。彼がテロリストの本拠地に 囮になって入り込んでみると、テロリストは、もとのMI6の仲間、シルヴァだった。シルヴァは007に捉えられ、M16に連行されるが、それはMI6の望むところ。MI6のコンピューターをハックするために 故意に捉えられたのだった。シルヴァの目的は、ただひとつ、自分をかつて裏切ったMI6を壊滅させることだった。毎週5人ずつの選りすぐりのスパイが処刑されていく。シルヴァの指示どおりに007は、Mを連れて、自分の生家にもどり、シルヴァと正面対決することになって、、、。
というお話。

このシリーズでは毎回、悪役が興味深いが今回の敵は ロシアのスパイでも、アラブのテロリストでも、某国の誇大妄想狂ハッカーでもなくて、もとの仲間ということで とびぬけて頭の良い、血も涙もない極悪の敵役にうってつけのハビエル バルデムがやっていて、本当に憎憎しい。彼は「ノーカントリー」で、偏執狂の殺人魔を演じたが、不気味なキモィ役をやるとピカイチだ。捉えた007の胸の傷や内股を、ゲイっぽく撫で回す様子など、鳥肌がたつ。顔も体もでかくてギョとする存在感。やっぱり敵はMI6の内部にあった。組織は内部から腐敗、崩壊していく。内部の敵が一番怖いのだ。

ボンドガールのベレニス マーローなど始めのうちに、サッサと殺されて居なくなり、今回はおなじみの酒や女やカジノシーンは少なくて、アクションがメインだ。
M役のジュディ リンチは、両目の黄班部変性でほとんど視力が無く、台本がもう読めなくなって、娘が読む本を記憶して演技している。007シリーズでいつも毅然としてMI6を率いて勇ましかったが、そろそろ引退かと、思ってきたが、やっぱり、、。彼女の役者根性に拍手を送りたくなる。

ダニエル クレイグは、ステーブ マクイーンのイメージをひきずって、口数少ないが よく闘い死にそうで死なない。今年のロンドンオリンピックの開会式では、女王陛下をヘリコプターからパラシュートで会場に降下させて、笑いを取った。やっぱり007シリーズは英国の誇りでもあるんだな。

ジェームス ボンドの生家が出てくる。スコットランドの広大な海沿いの土地に建つ古城。その古い屋敷の留守番人の男が、ここでハンチングを被り、猟銃を背負い、猟犬を従えているシーンがある。ほれぼれと美しい。「これがスコットランドなのだ。」「なのなのだ」レレレ。と言っているようだ。
ハードボイルドは、アメリカの専売特許ではなくて、イギリスが本家。イギリスの古典と歴史が根底にあるから面白いのかもしれない。
長い映画だが とても面白い映画だ。

2012年11月8日木曜日

映画 「最強のふたり」

             

フランス映画。

裕福な、脊椎損傷で四肢麻痺した男と、それをケアするセネガルからの移民で刑務所から出所したばかりの青年との交流を描いた作品。実際にあったことをベースで作られて、フランスで大ヒットした映画。2011年のフランスでの年間 映画興行収入第1位。全米でも外国映画興行成績、第1位を記録し、国際映画賞の最優秀作品賞と、最優秀男優賞を受賞した。

監督:エリック トレダノ
    オリバー ナカチェ

キャスト
ドリス:オマー サイ
フィリップ:フランコイス クリュゼ

こそ泥で刑務所にお世話になったばかりのドリスは失業中。スラムに住み、子沢山でシングルマザーの母親からは、もう迷惑なので出て行くように言われている。職安で紹介された職場に面接に行って 3回不採用になったら失業手当が出る。不採用のサインが欲しくて、ドリスはフイリップの屋敷に面接に行く。面接で問われても、障害者の介護が、どんなものか、四肢麻痺がどんな状態なのか、全くわかっていない。
しかしドリスの、でかい態度と無知が幸いして、彼はフイリップの目に留まる。面接に来た沢山の就職希望者は、障害者についての教育だけは ばっちり受けていて知識はあるが 実際にケアしたことがない頭でっかちや、障害者に同情して、へりくだった態度をするような輩ばかりで、フイリップは腹を立てていた。未経験でも ドリスならば人間として対等な関係が結べる。何にしても、ドリスは 力持ちで単純な男だ。おまけに根が明るい。

晴れて介護人として採用になったドリスは フイリップの屋敷で面食らうことばかり。屋敷には、中世の絵画やルイ14世肖像画や、骨董品が所狭しと飾られていて博物館のよう。立派な家具調度品に、風呂までついている個室を与えられて、ドリスは、ただただ、驚くばかり。はじめはフイリップの下の世話を露骨に嫌がったドリスだが、徐々に障害者に必要なものは何なのか、介護人としての自覚が芽生えてくる。争いや喧嘩でぶつかることも多いが、同時に、二人の間の友情も、確実なものとなっていく。

フイリップはハングライダーの事故で四肢麻痺に陥った。裕福で自分のビジネスを持っていて、妻に死なれた。養女に迎えた娘は高校生だ。古典音楽を愛し、絵画など、芸術に通じ、友人も多い。
そんなフイリップには、長いこと文通をしている女性がいた。手紙を通じて互いに惹かれあっているが、フイリップは自分が障害者であることを、女性に伝えていない。好意を抱いているが、手紙のやり取り以上の関係に進むことが出来ないで居る。そんなデリカシーがドリスには理解できない。ドリスは 良かれと思って、サッサと彼女に電話をして、フリップに取り次ぐ。電話を切っ掛けに、手紙だけだった二人の関係に変化が生まれる。彼女は 自分の写真を送ってきて、フイリップの写真を求める。ドリスは、車椅子に座ったフイリップの写真を送るように手配するが、フリップは自分が元気だった頃の写真に摩り替えて、彼女に送る。

仕事が順調だったにも拘らず、ドリスが仕事を辞めなければならなくなった。ドリスの母親が、ギャンググループに深入りして身動きができなくなったドリスの弟を助ける為に、ドリスを呼び戻したのだ。母親には逆らえない。ドリスは、仕事を辞めて、スラムに帰る。
一方、フイリップは、ドリスの去ったあと、どんな介護人を雇っても、気に入らない。どの介護人もフイリップの顔色ばかり覗って、対等に友人として信頼することができない。かんしゃくを起こして とうとうフイリップは、またドリスを呼び寄せる。

ドリスは、何も説明せずに、海沿いの避暑地にフイリップを連れて行く。そして、海の見えるカフェでドリスは彼女がやってくることを告げて、去っていく。すでにドリスから車椅子に乗ったフイリップの写真を受け取っていた彼女が、フイリップに会いにやってきて、、、。
というお話。

ドリスのめっぽう陽気な態度と、無知で憎めない人柄に笑って笑って、最後に泣かされる。有名な画家の抽象画の値段を聞いて 腰をぬかしたあとは、自分で一生懸命 抽象画を描いてみせたり、オペラに連れていかれて、樹が歌っている、と言って大声で笑い出したり、オーケストラが奏でる古典音楽を、「これ知ってる、石鹸のコマーシャルだよー。」「これも知ってる、ガス会社のお待たせしてます、のテープだよ。」などと、じっとして聴いていられずに、やかましい。

でもこの映画のキーワードは、「童心」だ。スーパーリッチなフイリップは、事故にあうまでは 活発にスポーツカーを乗り回し、ハングライダーや乗馬を楽しんでいた。ドリスも屈強な体を持ち、遊ぶ道具さえあればスポーツでも何でもできる。その二人の男達が合体すると、冒険心のかたまりで、童心にかえってしまう。ドリスの采配で、フリップの車椅子を倍の早さで走るようにする。車椅子を畳まずに乗れる無骨な大型車をやめて、スポーツカーで出かける。健康のために辞めていたタバコも気分転換に吸う。自家用飛行機で遠出する。ハングライダーで空中遊泳でやってみる。パンクロックで踊ってみる。そして、遂に長いこと魅かれていた女性に会う決意をする。

二人の男の童心が、みごとに結びついて、縮こまっていた二人の魂が再生し、日々の輝きを取り戻していく。その過程が美しい映像と音楽によって みごとな作品に仕上がっている。
ドリスが カバーを掛けられていた車を無理に出させて、フイリップと乗り込む。それがなんと、、、ファアットの黒のマセラテイ、クアトロポルテだ。時速300キロ以上で走る、イタリアのスポーツカー。ドリスとフリップがマセラテイに乗り込んでエンジンをふかした瞬間 二人の童心が一体化する。アクセレレーターをブアン ブアン言わせて二人が顔を見合わせてワッハッハッと笑う。この瞬間の男達の笑顔が良い。だって、何て素敵なクアトロポルテ。夢中にならずに居られない。

黒のマセラテイでぶっとばして交通警官に捕まるところを、とっさのフイリップの機転で助けられ、アースウィンド&ファイヤーの「セプテンバー」を爆音で聴きながら二人が首を振り、体を揺らしながらドライブするシーンは最高だ。思わず顔がゆるんで、画面を見ながら自分もリズムに乗っている。本当に幸せになれる映画。久々に、心躍る映画を見た。満足感でいっぱい。

2012年11月7日水曜日

映画「ローマ ウィズ ラブ」


      

ウッデイ アレン出演、監督のアメリカ映画。

「それでも恋するバルセロナ」でスペインを描き、「ミッドナイト イン パリ」でパリの魅力を、かき口説いて説明してくれたウッデイ アレンが 今度はローマから「アレンのローマ」を作って欲しいという注文を受けて 作られた作品。 スペインもパリも良かったが、今回のイタリアは少々、皮肉が効き過ぎたか。
ストーリーは 4組の人々が、同じ時にローマを訪れていて、同時進行的に、様々な経験をする。

一組は
今は、初老の著名な建築家、ジョン(アレック ボールドウィン)が、自分が若かった頃に建築を学ぶために留学していたローマを再び訪れている。昔を思い出しながら、感傷に浸って かつて自分が住んでいた街を歩き回るうち、過去の自分に出会う。恋人と一緒に暮らしていたアパート、自分が建築家になるためのインスピレーションを与えてくれたローマ古代遺跡の数々、石畳、、。彼は恋人を訪ねてきた女友達に恋をして、同時に二人の女性達から立ち去られた。ほろ苦い思い出に、身をまかせる感傷旅行。
アレック ボールドウィンの若い頃を演じる、ジェシー アイゼンブルグとその恋人グレタ ゲーウィックの丁々発矢の早口会話が面白い。頭の良い若い人たちが、普通の人の会話の3倍くらいの早さで論議する姿が 理屈っぽいウィデイ アレン風と言える。

2組目は
新婚旅行で、田舎からミリ(アレクサンドラ マストロナード)と、アントニオ(アレクサンドロ テイべり)の二人がローマに来た。ローマに来た目的のひとつは 新妻を叔父叔母達に紹介することだが、親戚達はアントニオに、ローマで自分達の商売を引き継いで欲しいと思っている。親戚がホテルに訪ねて来ると言うのに、ミリはホテルから外に出て、迷子になってしまう。そこで偶然、彼女はあこがれの映画スターに会って、誘惑されホテルに。ところがホテルの部屋に強盗が入り、その上、現れたのは、探偵に付き添われた映画スターの妻だった。とんだ目にあう新婦だが彼女は、今まで田舎ではできなかったスリルたっぷりの貴重な経験を楽しんでいた。
一方、彼女をホテルで待つ新郎の部屋に、何の間違いか娼婦(ペネロペ クルーズ)が入ってくる。娼婦はさっそくベッドで商売を始めようとするが、そこに親戚一同が押しかけてくる。一同は娼婦と一緒にバチカン観光に行くことに。何やらかにやら、たくさんの出来事に巻き込まれた末、新婦は新郎の待つホテルに帰ってきて、一件落着。いかにも非現実的だが、イタリアならば こんなことも起きるかもしれない、と思わせる。

3話は
イタリア人と結婚することになった娘のために、その両親ジェリー(ウッデイ アレン)とフェリス(ジュデイー デイビス)が、アメリカからローマにやってくる。青年の父親、ジャン カルロ(ファビオ アルミアト)は葬儀屋を営んでいるが、めっぽうオペラを上手に歌いこなす。ジェリーは引退した音楽監督なので、そのつてで、この葬儀屋を、歌手として売り出そうとプロモート始めるが、彼は風呂場では朗々と歌えるが風呂を出ると、からっきしダメ。結局、舞台で簡易シャワーを運んで、シャワーを浴びながら歌わせて、オペラを成功させる。
ここでは、ローマでは一介の市民が プロのオペラ歌手並みにオペラを歌うのに面食らうアメリカ人を大いに笑っている。本物のテナーの人気オペラ歌手、ファビオ アルミアトが出演していて、素晴らしい歌声を聞かせてくれる。

4話は
平凡な事務職に就いているローマ市民、レオポルド(ロベルト ベニーニ)は、何の取り得も、才覚もあるわけでなく、平々凡々妻と子供達と暮らしていたが、ある日突然、パパラッチに追われる身に。朝食に何を食べたか、下着は何色か、とまでインタビューで問われて、それごとに大騒ぎされる。それに彼は、怖くなって、面食らって、逃げてばかり。そんな日も、しかし、突然何事もなかったように終わり、今度は誰も 彼に関心をもってくれない。騒がれなくなった彼は、かつてのパパラッチに追われていた、栄光の日々を思い出して、自分を失ってしまう。ここではパパラッチ好きの 熱しやすく冷めやすいイタリア人気質と、それに振り回される小市民を笑っている。
コメデイーだが、こんな風に イタリア人を笑ってばかりいていいのだろうか。ウッデイ アレンの笑いが わはは、と笑う楽しい笑いよりも ブラックなカラーが濃いことが気になる。それこそが、ウデイ アレンの味だろうが。

アレンはニューヨーク、ブロンクス生まれのユダヤ人。小男で醜い顔をしている。それを自分が一番承知している。子供のときから手品が好きで、人を笑わせ、ウッデイ アレンの名前で16歳のときからギャグやジョークを書いてきた。舞台にも映画にも進出して、駄作も含めて、沢山の作品を生み出してきた。特に、「アニー ホール」1977年、「マンハッタン」1979年、「カメレオンマン」1983年など、独特のおかしみで、愛好者を増やしてきた。
近年の「これでも恋するバルセロナ」と、「ミッドナイト インパリ」は、良く出来ていて、ウッデイのファンでない人からも高く評価された。「ミッドナイト インパリ」では、作家のヘミングウェイやフィッツジェラルド、画家のピカソやロートレックが出てきて、とても楽しく、少しも皮肉がない、ストレートな笑いと楽しさがあった。唯一,アレンの作品の中で、私が好きな作品だ。

ウッデイ アレンの作品の特徴は とにかく よくしゃべることだ。会話が多く、おしゃべりすぎてしつこい。知的で神経質で ひとつのことに偏執狂的にこだわり、言い訳をのべつまくなしにしゃべり続ける。そのしつこさに辟易する。
今回の映画でも美声の葬儀屋を まわりの迷惑と反対を押し切って、簡易シャワーとともにオペラ舞台に強引に押し上げてしまう。全くしつこくてお手上げだ。笑うよりもげんなりしてしまう。この味が ウッデイのファンにはたまらないのだろう。

人は年をとれば、ウッデイでなくても 体が動かなくなる分だけ 意地悪でケチで皮肉屋になる。皮肉と毒を蒔き散らしても、一部のファンが喜ぶだけで誰も嬉しくない。年をとって、人の世話にならなければならなくなるのだから、毒を抜いて優しくなったほうが賢明だと思うが、どうだろう。

2012年10月22日月曜日

映画 「ルーパー」

原題:「LOOPER」

脚本、監督:ライアン ジョンソン             
キャスト:現在のジョー:ジョセフ ゴードン=レビット
     未来のジョー:ブルース ウィルス
     未来の妻  :シュイ チン
     サラ     :エミリー ブラント
     親友セス  :ポール ダーツ

ストーリー
現在は2040年。カンサス。
富める者はさらに豊になり、街は貧困者であふれている。人々は生き残る為に、犯罪が日常になっている。
ルーパーと呼ばれる男達が居る。
彼らは非合法組織の一員で、特別仕様の時計を持っていて、指示された時間に指示された場所に行って、タイムマシンで未来から送られてきた犯罪者を殺す。未来社会では 犯罪者だからといって、死体を始末して完全に抹消することはできないが、過去に送られてきたならば それができる。ルーパーの報酬は高額だ。それぞれのルーパーも、やがて引退する時が来る。殺した犯罪者が金の延べ棒を背負っていたら、それがルーパーの最後の仕事だ。あとは、仲間達から祝福されて、引退して贅沢三昧の生活を送れることになっている。
ルーパーの親玉は 未来から来た謎の男で、彼の命令は絶対だ。従わなかったものは即、死を意味する。

ジョーは選ばれてルーパーとなり、淡々と仕事をこなしている。そして引退できる日を心待ちにしている。そんなジョーのところに、ある夜、親友のルーパー、セスが助けを求めてやってくる。彼はタイムマシンで送られてきた男を殺す前に それが誰なのか、知ってしまった為に、殺すことが出来なかった。シンジケートの絶対命令に従うことが出来なかったセスを すでに組織は知って、追手を送り込んでいる。ジョーはとっさに 彼を自分のアパートに隠すが、組織の親玉はそんなことはとっくに見通している。自分の死か、親友の死か選択を 突きつけられる。そしてセスは組織に連れ去られていった。

ジョーに新しい仕事が指示された。ジョー(ジョセフ ゴードン=レビット)は、いつもの通りに約束された時間に約束された場所に行って、銃を構えて待っていた。しかし、タイムマシンでやってきた男(ブルース ウィルス)は、すばやくジョーをぶん殴って失神させると、シンジケートの本部を襲うために去っていった。ジョーは、仕事をしくじったことになり、シンジケートから追われる身となる。しかし、ジョーは、殺せなかった男が金の延べ棒を背負っていたことで、それが誰なのか、知った。親友セスが、連れ去られる前に言ったことは本当だったのだ。
ルーパーは自分で自分を最後に殺す。

未来からタイムマシンで帰って来たジョーは、未来世界で生まれて初めて心から愛せる女に巡りあった。いま、現在のジョーに殺されるわけには行かないので、タイムマシンで過去の世界に帰ってきた。
シンジケートは現在のジョーも未来のジョーも抹殺しようと、躍起になっている。
現在のジョーは、逃げながら子供を抱えた女サラ(エミリー ブラント)に出会う。その子供は 未来で最大の極悪犯罪者、(レインメーカー)になる子供だった。ジョーは子供を盲愛する女を不憫に思い、、、。
というお話。

SFスリラー。未来世界の犯罪人を、現在に送り返して抹殺する、という発想がおもしろい。今と未来と過去とが ごたまぜになって混乱して、映画を見た人たちと解釈や意見交換した末、やっと 筋を整理することができた。
でも、せっかく面白い発想で描かれた映画なので、結末もクールに、近未来風に終えて欲しかった。こういうストーリーに、変に女子供を加えずに、ラブロマンスなどなしで、話しを進めたほうが良いのに、惜しい。

ジョセフ ゴードン=レビットは、平凡な顔、姿をしているのに、マーチン スコセッシ監督に認められて「インセプション」で、良い役をやり「ダークナイト ライジング」で、次のヒーローに選ばれ、「フィフテイーフィフテイー」では、癌患者の役で、しっかり泣かせてくれた。良い役者だ。

ブルース ウィルスは、いつも良い。本当に頼りになる男。「ダイハード」以来、いくつになっても絶対殺されない強い男だ。今回の映画では、妻、シュイ チンのために どんなことでもする。中国人女優が、ハリウッドの看板のようなブルース ウィルスの妻の役を演じたことで、中国で話題になり、この映画、アメリカ人よりも沢山の中国人観客を動員したそうだ。
これからのハリウッド映画は、中国人をキャストに登場させると、興行成績が上がって、大成功することになるだろう。何と言っても 世界中4人に一人は中国人。中国人なしには世界は回らない。彼らを敵にまわして、尖閣列島などで、眠れる巨像を起こしてはいけないのではないか。

なかなかおもしろい発想の映画。それだけに結末には落胆。
しかし、この映画のあと、沢山の人と「あの、鼻が無くなった男はどうなったっけ?」とか、「レインメーカーと親玉とは どういう関係だっけ?」とか、「女が いつも古い切り株に斧をふるっているのは何だったんだろう?」とか、いろいろ、それぞれの疑問について、喧々諤々 話しあったり諍いがあったりして、盛り上がった。自分がジョーだったら、どうする、こうする、などと、架空の世界で、深刻かつ現実的にまじめに話し合ったりして、それが 映画よりもおもしろかった。「バックザ、フューチャー」、「ミッション8ミニュツ」、「シャッターアイランド」、「インセプション」が好きだった人には、おすすめ。
日本では一月に公開。

2012年10月6日土曜日

和太鼓「鼓童」と「TAIKOZ」の合同公演


                
1971年から佐渡島を拠点に和太鼓のパフォーマンスを続けている「鼓童」と、オーストラリアで和太鼓を演奏している「TAIKOZ」というグループの合同公演を観に行ってきた。


「鼓童」は、「伝統芸術を現代的に再創造する」パフォーマンスを続けてきたプロの和太鼓集団。田耕(でんたがやす)が、立ち上げた「佐渡国鬼太鼓座」が前身。「こどう」という名前には、心臓の鼓動という意味と、子供のように無心で太鼓をたたく、という意味が込められている。1981年に、ベルリン芸術祭で発表して以来、海外で評判が高く、今まで3500回の海外公演をこなし、一年の三分の一は海外公演、三分の一が国内公演、残りの三分の一を、佐渡で共同生活をしながら、修行に励んでいる。今年からは、演出、監修するためのアートデイレクターに歌舞伎の坂東玉三郎を迎えた。

  「鼓童」は毎年、夏になると本拠地の佐渡でアートセレブレーションと名付けた国際芸術祭りを主催している。ここでは、海外からも国内からもアーテイストが招かれて、様々のパフォーマンスが繰り広げられる。
彼らが使用する太鼓は、宮太鼓と呼ばれる、くり抜き胴のものと、桶太鼓と呼ばれる桶胴で、ロープで皮を締め付ける太鼓がある。どれも、胴の大きさ、長さによって太鼓の大きさが異なり、国産ケヤキの胴に、牛の一枚皮が張ってある。大太鼓では面の直径が、1メートル半近くあり、重さは400キロにも及ぶそうだ。グループは、和太鼓だけでなく歌や鐘や琴、竹笛、踊りも見せる。メンバーは 3年の研修の後、厳しい選考と実地研修を経て、正式メンバーとなるとういう。

今回の合同公演の演出、監修を務めたのは、オーストラリアで活躍する「TAIKOZ」の創始者でタイコもたたくが、尺八の大師匠の肩書きを持つ、ライリー リーだ。彼は、1970年代に 日本国宝の山本宝山の尺八に感動して、来日し、酒井竹保に師事して、7年間尺八を習ったというアメリカ人。彼は、当時、鼓童の前身だった佐渡国鬼太鼓座に加わり、太鼓の練習だけでなくランニングや精神修行を通じて日本の伝統音楽に精通する。その後、オーストラリアでプロの太鼓集団「TAIKOZ」を創立して、パフォーマンスをしている。市民向けの太鼓教室やキャンプを常時、開催しており、評判が良い。彼らは、鼓童にない現代的な太鼓の味付けにも積極的で、尺八、鐘、琴、笛だけでなく、ジャズドラム、マリンバ、サックス、デジュリドーなどの楽器ともコラボレーションしている。ライリー リーは、州立シドニー音楽大学の教授でもある。
また、TAIKOZをライリー リーとともに、立ち上げたイアン クレタースは、シドニーシンフォニーオーケストラのプリンシパル パーカッショニストでもある。

彼らの公演を聴くのは2回目。前回は3年ほど前だった。
公演が始まって座席に座っていると、地響きがしてきて、段々とそれが大きな音になり、大地が揺れ動き、圧倒的な音量に身動きができなくなる。大地が揺さぶられ、鼓膜が痛いほどに震える。太鼓の音がこれほどまでに人を圧倒するとは、驚くばかり。
3人の若衆が 直径1メートルもある3つの太鼓を舞いながら、強打する。自在に、異なった音の太鼓に移動しながら力強く、美しく舞う。あるいは 桶胴太鼓を首から下げた10人の男女が代わる代わる異なるリズムを打つ。それが総じて鼓膜が震え立つほどの迫力だ。全員が統制がとれていて、太鼓が鳴り響いている時と、静寂とのコントラストが 際立っている。彼らは共同生活しながら、運動で体を鍛え、トレーニングをしているそうだが、本当に厳しい練習のたまものだということが、よくわかる。

思えば、紀元前からヒトは太鼓に親しんできた。コミュニケーションの手段でもあったし、共同体にとって、親睦やエンタテイメントとしても活用されただろう。音楽の元は 心臓の鼓動だが、母親の子宮の中に居た時から聞き慣れたリズムを 成長してからも太鼓をたたくことによって、再生し、心の安らぎを求める必要もあったろう。いま、わたしたちは、正確に刻まれるリズムに快感を覚え、自由自在にリズムを変え、メロデイーを楽しむという 高度な音楽的な能力も身に着けてきた。しかし、やはりリズムの力には勝てない。天井も空も堕ちよ、という程に会場にとどろき渡る太鼓の音は、何故か懐かしく、力のエネルギーに溢れていて、ただただ圧倒されていた。
素晴らしい太鼓の演奏だった。

それだけに、太鼓と太鼓のパフォーマンスの間に挿入される歌や踊りの出し物との落差に愕然とする。公演の2時間を、太鼓ばかりをたたいていたら、力尽きて死んでしまいそう。だから力を抜いた見世物が間に挿まれていても仕方がないのだけれども、これは前回の公演でも感じたが、どうしても釈然としない。
例えば、アイヌの古い歌が歌われる。歌うのは、日本人ともアイヌとも思えない不思議な着物を着て、いかにも外国人が歓びそうな神秘的な雰囲気の中で 意味不明の歌詞で歌われる。また、例えば、国籍不明のドレスを着た女性が琴を奏で、竹笛で、どこかの地方に伝わる曲が外国人向けに演奏される。鼓童は、「伝統芸術を現代的に再創造する」グループということだから、それで良いのかもしれないが、日本人が見ると違和感を禁じざるを得ない。わたしがオーストラリアに 18年住んでいてアボリジニの踊りに触れてきたからと言って、日本に帰ったとき、アボリジニ風のボデイーペインテイングをしてダンスを踊り、お客を集めて良いものだろうか。先住民族の古い歌や踊りには、彼らの深い祈りや独特の意味が込められているはずだ。まね出来るものではない。

地方独特の伝統文化を、その伝統に属さない者が、どこまでコピーして良いのか。オリジナルを、現代芸術家が どこまで再生し創造することが許されるのか。伝統をどこまで壊して良いのか。現代芸術化に、厳しく問われるべき倫理に関わることで、わたしには、わからない。
ただ、パフォーマンスが、外国人受けをねらった商業主義に陥ったならば、人々は見向きしなくなるだろう。 鼓童の太鼓が大好きなので、つい 文句を言ったが、それだけ、次回に期待している、ということでもある。

2012年10月1日月曜日

オペラ オン アイス


「オペラ オン アイス」、「氷の上でオペラを」、というイタリア ベローナのコロシアムで行われた公演を ハイデフィニションフイルムで映画館で観た。


ギリシャをはじめとして ヨーロッパ中がユーロ危機で震え上がっている時期に、ついにイタリアも財政破綻か、と言われるのも、うなずける、、、というほどに贅沢なイベント。さすが、ルネッサンス発祥の地で、芸術にはお金の糸目をつけないイタリア気風に、感心。素晴らしい出し物だ。
2000年の歴史のあるベローナのコロシアム(円形劇場)の半分に 氷を張って、残りの半分にステージを作り、100人のオーケストラ、200人の合唱団を配置。それを2万5千人収容できる階段状の客席が見下ろす形で、夜の野外公演が行われた。

フイルムの早回しで 巨大なコロシアムに氷を張り、会場を作る様子をフイルムのはじめに見せてくれたが、実に興味深い。2000年前に古代ローマ人が、大理石でカバーされたこの円形劇場に、やってきて、グラデイエーターが戦う姿や、世界中から連れて来たライオンや豹などの珍しい猛獣が死闘する姿をヤンヤの歓声で見て楽しんだ。コロシアムや浴場は、古代ローマ人にとって大切な娯楽であり、社交であったろう。いま、人々はそのコロシアムで 芸術の中の芸術といわれるオペラを見ることが出来る。そのコロシアムで歌われるオペラも、600年ほど前から作られた過去の遺産なのだ。
ベローナのコロシアムは ローマのコロシアムほど傷んでおらず、ほぼ完璧な形で保存されていることから、夏の間は、オペラ会場として使われている。マリア カラスがデビューしたオペラ会場としても有名だ。そういった華やかな過去の遺産をバックに、最新の技術をもったプロのスケーターが舞う。なんとも贅沢な公演だ。

指揮:ファビオ マストランジェロ
ベローナ市オペラオーケストラ
テナー:ジーン フランコイス ボラス
テナー:ルーベンス ぺリザリ
ソプラノ:エリカ グリマンデイ
ソプラノ:レイチェル スタニスキー
メゾソプラノ:ジェラルデイン シャべ
バス:ミルコ パラツイ

スケーター
カロリーナ コスナー(イタリー)
ステファン ランビエル(スイス)
キム パン&ジアン トング(中国)
タチアナ トツミアーニ&マキシム マリニン(ロシア)
イザベル デロベル&オリバー ションフィルダー(フランス)
アナ カペリーニ&ルカ ラノツテ(イタリア)
エマニエル サンド(カナダ)
ホット シバーズ (イタリア)

ビゼーの「カルメン」の「序曲」から始まって、ラストのベルデイの「アイーダ」から「勝利の行進の歌」まで、有名な曲ばかり、オペラ歌手の歌う曲にあわせて、スケーターたちが優雅に踊った。 テナーのジーン フランコイス ボラスの歌う声がとても良かった。とくにドニゼッテイ作曲「愛の妙薬」から、「人知れぬ涙」(UNA FURTIVA LAGRIMA)の曲がいつ聞いても胸に迫ってくる。それを世界チャンピオンタイトルをたくさん持っているスケーターのステファン ランビエルが、この愛のために今死のう、とでもいうように絶望的な悲哀をこめて踊る。とても感動的だ。

オリンピックで、かつて何度もメダルを取っているこのスイス人の、ステファン ランビエルと言う人は、技術的にも中で際立っている。スケート靴を履いたまま、誰よりも高くジャンプして、誰よりも早くスピンしてクルクル回る。動作のキレが良く、とても見栄えする。この人が舞台に出てくると、観客からの歓声がものすごかった。ヴェルデイのオペラ「リゴレット」から、有名な浮気男が、女なんてみんな簡単に落とせる、と歌う「女心の歌」に合わせて踊る時は、思い切りコミカルに、氷の上を飛んだり跳ねたりして踊った。氷のステージと観客との間に堺がないので、ちょっとスピードのコントロールが悪いと観客席まで滑り落ちてしまうのではないかと、心配になるほど、激しいスピードで、自由自在に気持ち良さそうに滑っていた。プロだな。

プッチーニ作曲「トランドット」とグノーの「ロメオとジュリエット」を踊った中国人カップル、キム パン&ジアン トングのテクニックも驚くばかり。早いスピードでアクロバットのように手と手を取り合って踊る姿は怖いほどだ。例えば、横臥姿勢で横にゴロゴロ転がる姿を想像して欲しい。それをスケートを履いたまま男性に横臥状態のまま頭上で放リ投げられた女性が くるくる3回半も空中で回って それを男性に受け止められて、降りてきて、また踊り続けるのだ。頭上に飛び上がって、降りてくるだけなら分るが、横臥状態で横に回転しながら、なんて物理的に可能なことだろうか。ものすごいスピードだからできることなのだろうか。ヒョイと男性のスケート靴の上に飛び乗って、ポーズをとったり スピンの末、飛び上がって3回半の回転など 繰り返し、続けて何度も楽々とやっている。2010年のオリンピックシルバーメダル保持者で、スケート世界チャンピオンシップに毎年のように入賞しているようだが、カップルのスケーターの中では、抜群の技術の高さだ。

16人のホット シバースというイタリアの女性グループが優雅で これまた恐ろしく皆、統制がとれていた。彼らはヴェルデイの「ナブコ」から、オペラの中で一番美しい合唱の歌を、素晴らしく優雅で美しく踊った。とても感動的な合唱曲で、200人の合唱団が正装して歌っているのをバックに 途切れなく流れるような美しさで16人が一糸乱れず、たくさんの環を、氷に描いた。
ラストは ベルデイの「アイーダ」から、勝利の行進の歌を、出場者全員が歌い、全てのスケーターが華やかに踊った。オペラの中で一番立派で堂々とした曲だ。
好きな曲ばかりに合わせて、美しい踊り子達が氷の上で踊って、楽しい公演だった。

テーラーズスクエアのヴエロナという、小さな映画館で観たが、この映画館の良いところはバーがあって、イタリアビールの「ペローニ」を、ボトルでなく、樽で置いていることだ。素敵なフイルムを見て、ペローニを飲んで、外れた音でアイーダを歌いながら帰ってきた。満足な土曜日。

2012年9月23日日曜日

映画 「モンスターホテル」

                                 
原題:「HOTEL TRANSYLVNIA」(ホテル トランシルバニア)


監督:ゲンデイー タルタコフスキー
アメリカ映画 3D コンピューターアニメ映画 ソニーピクチャー
キャスト(声優)
ドラキュラ伯爵:アダム サンドラー
娘メイビス  :セレナ ゴメス  日本版(川崎海荷)
ジョナサン  :アンデイーサンバーグ (藤森慎吾)
フランケンシュタイン:ケビン ジェームス
ミイラ男   :セ ローグリーン
狼男     :ステーブ ブジェミー

ストーリーは
ドラキュラ伯爵は 愛した妻が形見に残した赤ちゃんを 安全に育てる為に秘境のリゾート地に、お城のようなホテルを建てた。妻を無残にも魔女狩りの火あぶりで失った。その憎い人間から できるだけ離れて暮らさなければならない。大切な赤ちゃんを 人間の迫害から逃れて無事に育てるには どんなに注意しても注意し足りない。お城の奥の奥で、大切に大切に育てられた女の子メイビスは 父親の愛情を一身に受けて育った。
でも大きくなると メイビスはお城を出て、外の世界を見てみたくて仕方がない。外に出たいと言う娘に、とうとうドラキュラは メイビスが118歳になったら外出禁止を解く と約束してしまった。

メイビスの118歳の誕生日。
好奇心の塊のようなメイビスのことが心配で心配で仕方の無い父親は、メイビスに外出許可を与える一方で、ホテルの近くに、架空の町を作り、メイビスを待ち受けた。彼女が町に着いたとたんに、人間のふりをしたモンスターがメイビスを火炎攻撃、ニンニク攻撃で、怖い思いをさせる。もうこりごりと、逃げ帰ったメイビスを見て、ドラキュラは、にんまり。

さてメイビスのお誕生日を祝う為に 世界中からモンスターがやってきた。フランケンシュタイン、ミイラ男、透明人間、狼男、と次々にやってくるお客たちと、豪勢で愉快な誕生パーテイーが始まる。しかし、ドラキュラ伯爵の館に こともあろうにバックパックを背負った人間界の青年が紛れ込んでやってきた。ドラキュラは大慌て。

リュックを背負って世界中を歩いて回っている青年アンデイーは、のどかな顔で怖いもの知らず。まして、ホテルはモンスターのために作られたホテルだなどと、知らないから中に入るなり、みんな怪物の仮装パーテイーをしているのだと思って、さっそく仲間入り。そこで出会ったメイビスに一目惚れをする。
メイビスも、生まれて初めて会った青年に心惹かれる。あわてたのはドラキュラだ。体よくアンデイーを追い出そうとするが 可愛らしいメイビスに恋をしたアンデイーは 一向に出て行かない。歯噛みをして二人の間を引き裂こうとするドラキュラのもと、メイビスとアンデイーの初恋の行方は、、、。
というお話。

とても愉快なコメデイーアニメーション。
驚くほど画面が美しい。アニメーションの技術も進んだものだ。デイズニーアニメの初期の頃のフイルムとは雲泥の差だ。動きも自然で、それぞれのキャラクターが際立っている。
ドラキュラがとても魅力ある描き方をしている。彼の親ばかぶりが、笑えて、ホロッとさせる。彼の過保護のもとすくすく育ったメイビスが 純真で可愛らしい。
そのメイビスを一目見るなり恋をする 21歳のバックパッカーも、朴訥としていて 正直で魅力的だ。彼がメイビスに誘われて、お城の屋根の上から下界を眺めて、その美しさに感動して、「ワー。ブタペストみたいだ。」というシーンがある。アンデイがただの旅行好きな現代っ子なだけではなく、東欧諸国を歩いて巡るような、なかなか骨のある青年だということが それとなくわかる。

ホテルにやってきたモンスターたちに楽しんでもらおうと、ドラキュラは 食事だけでなく、ゲームやカードやロックコンサートやプールでもてなす。でもドラキュラのセンスは とっても時代遅れ。なんと言ってもドラキュラは何世紀も生きてきた。今では 年寄りが老人ホームでしかやらないような ビンゴゲーム、1950年代のようなスローテンポのミュージック。ドラキュラの時代の産物に、欠伸を噛み殺すアンデイーの様子が 大いに笑える。
誰もが知っているモンスターたちが、リゾートホテルにやってきて、皆仲良くプール遊びに興じたり、ダンスしたり、ゲームやったり、メイビスとドラキュラのために力を貸したりする。

とても楽しい映画。見ていて自然と頬が緩む。
一人で見るのではなく 仲の良い家族や友達と見て、一緒に笑って、ちょっと幸せな気持ちになれる映画だ。



2012年9月22日土曜日

映画 「メリダとおそろしの森」

原題:「BRAVE」(ブレイブ)
 監督:マーク アンドリュース    ブレンダ チャップマン
 ピクサー アニメーション
キャスト(声優)
メリダ:ゲリー マクドナルド
女王エリノア:エマ トンプソン
王ファーガス:ビリー コノロイ

もうすぐで3歳になるマゴを、初めて映画館に連れて行った。 大きな暗い建物の中に入り 真っ暗闇の中でスクリーンが映し出され、今まで聞いたことがないような大音響、、、マゴは怖かったらしく、椅子に座ったまま 固まって動けずにいた。体を硬くして目だけ大きく見開いて、画面を見ている姿を見て、3歳前では ちょっと早すぎる体験をさせたかな、、と心配になったが、映画が始まると すぐにストーリーの中に入っていって、読み取っていることが分った。順応性がはやい。
ストーリーがちゃんとわかっている。頭が良い。さすが娘の娘だ。

 2歳半のときにヴィデオで「ライオンキング」を見ていて、レオのお父さんライオンが死ぬシーンで涙を落とした。たった2歳半で 死を悼むという間接体験をして、主人公レオに共鳴していた。何て情感豊な子供だろう。わたしが映画を見て 泣いたり笑ったりできるようになったのは小学校高学年の時だった。 娘は小さいときから 絵を描き、詩を読み、ヴァイオリンを持たせるとわたしより良い音を出した。感受性の高い芸術家肌。そんな娘の娘だから 芸術に目覚めるのも早いかもしれない、、、。などと、完全な親馬鹿で、救いようの無いマゴ馬鹿。 ともかくマゴは 2時間近くのこの映画を、最後までしっかり集中して見ていた。すごいな。将来が楽しみ。今回は、抱いてマゴを連れて行ったが、10年後には、わたしの乗った車椅子を押して映画館に連れて行ってもらいたい。

ストーリーは
 中世のスコットランド王、ファーガスは勇敢で力持ち。ある日、ばけ物のような巨大で凶暴な人食い熊と戦って、片足を失くした。彼には、物静かで思慮深い妻と、燃えるような赤毛の娘がいた。その一人娘のメリダは、ふつう女の子が興味を持つような遊びには全く関心がなく、男の子のような活発な子供だった。幼い時に父親から贈られた弓と矢が 一番お気に入りの玩具。馬に乗れるようになると 森に出かけて行っては、弓と矢で走り回っている。何時の間にか、メリダほど巧みに弓を射る者は城内にはいない程になってしまった。

そんなメリダに、母親が突然結婚の話しを持ちかけてくる。遠来の親戚や貴族の中から選ばれた王子と メリダは結婚して、妻としての役割を果たさなければならない と母親は言う。いつまでも愛馬とともに森で自由自在に愉快な暮らしをしたいのに、お城の中で 窮屈な服を着て、刺繍をして夫を待つ暮し、なんて考えられない。そう思うとメリダは 家族のつながりが恨めしい。腹いせに家族を刺繍したタピストリーをバッサリ破って、森に逃げ出した。

森の奥深くで魔女に出会ったメリダは、クイーンがもう自分に結婚を強いないようにして、とお願いをする。しかし、魔女がかけた魔法によってクイーン エレノアは熊にされてしまった。あわてたのはメリダだ。城の中で熊が出た と騒ぎは大きくなるばかり。熊狩りの第一人者 ファーガス王に追われる身になったエレノアを連れて、メリダは森に逃げ出した。メリダはもう一度、魔女に会って、何としてでも母親をもとのクイーンにもどしてもらわなければならない。しかし、森には、むかし王を襲った、凶暴な人食い熊が居て、、、、。 というお話。

ケルト民族独特の燃えるような赤毛の勇敢な女の子が馬を疾走させ、弓を射ながら森を駆け巡る姿が とても美しい。魔女が住み 恐ろしい熊が生息する森の神秘、怖いもの知らずの勇敢なメリダの生き生きとした動き、お城では 王様達が囲む祝宴のご馳走の数々。 画面が きわだって美しい。

しかし、ピクサーアニメーションなのに、「モンスターインク」のような、面白さに欠ける。「トイストーリー」や、「カールじいさんの空飛ぶ家」のような、笑って泣かせて、優しい気持ちになるような感傷性がない。「レミーのおいしいレストラン」のような、突拍子も無い独創性もない。 ピクサーが作った 初めてのお伽噺なのに、ストーリーが 複雑でややこしい。ピクサーが初めて女性監督に作らせたのに、これでは 現代女性の味方になっていない。ピクサーが作った映画なのに 斬新さに欠けて、デイズニー映画みたいだ。

まじめにこの映画を見た子供が、「ママの言うこと聞かないと、ママが熊にされちゃうよ。」という 間違ったメッセージを受け取ってしまわないか、心配だ。家族の絆を大切に、とか、親の言うことをよく聞く様に、みたいな結論になってしまったら、困る。やっぱ、アニメで説教しちゃ、いけないんじゃないか。ま、、、3歳のマゴは楽しかった と言ってくれたからいいんだけど。

2012年9月17日月曜日

オーイ ヤッホー 島崎三歩さーん!!!

大好きだった漫画が長い連載を終えて、最終回を迎える時、読者は長いこと付き合ってくれた親しい友達に去られるような 深い悲しみと喪失感に苛まれる。石塚真一による漫画「岳」が、18巻で遂に終わった。もうこの続きがないのか と思うと大切な人を、又失ったような思いで悲嘆にくれている。  

私のヒーロー、島崎三歩は ヒマラヤのヒラリーステップで死んでしまった。二重遭難だった。 昔の仲間オスカーが率いるヒマラヤ登山隊が悪天候の中、遭難したのを、救助している内、長時間酸素なしで救助に当たらざるを得なくなって、意識混濁するなかを さらに無謀としか言いようのない救助に向かって命を落とした。 三歩は、常に、山に行っても絶対生きて帰ってくると、明言して遭難者の救助を行い、滑落や雪崩や凍死で助からなかった登山者も、自分の背中に背負って帰ってくる。氷のクレパスに落ちて、ザイルと滑車があっても救助できないような怪我人でも、自分の背中に縛り付けて背負って這い登ってくる。 彼は、どんな過失や 装備不全で遭難した登山者も、決して責めない。自分を責める遭難者に、「よく頑張った。」と、心をこめて言い、怪我が治ったら「また 山においでよ。もどっておいでよ。」と、言って送り出す。 ごっつい体に、子供がそのまま大きくなったような純真さで、山を愛する。山への畏敬の念と、登山者への無条件の愛情。どんなピンチでもあきらめない。吹雪に閉じ込められたら ただ無心で天候回復を待つ。決して恐怖に囚われない。もう、穂高岳の三ノ沢に住み着いている三歩は、自然児というか、山の一部のような存在だ。そんな男でも、8848メートルのヒマラヤで風速100メートルの強風とブリザードには 勝てなかった。

島崎三歩は 長野市北部警察署地域課、遭難救助隊を補佐する遭難防止対策の民間ボランテイアだ。 一緒に救助活動をしていた警察官の阿久津君が 落石事故に遭い、二度と自力で立つことが出来ない障害者になってしまった。彼の出会いや結婚、一人前の救助隊員に育つまでを、ずっと見守っていただけに、この事故は、三歩にとって、大きな傷となり、挫折感を植えつけた。仲間のザックに 遭難救助のような人のためではなく、いったん自分の山登りに戻ることを勧められて、三歩は北アルプスの山を降りて、ひとりローチェ登山に向かう。

ローチェ単独山はんを成功させると、今度は天候が予想外に崩れてきたヒマラヤに向かう。ヒマラヤには昔の仲間、オスカーを隊長としたグループが山頂を目指している。その中の一人、小田草介は むかし前穂高岳のシェルンドで滑落し瀕死のところを三歩に救助された過去を持っている。 オスカーを先頭にしたエベレスト隊は サウスコルキャンプ(7980メートル)から ヒラリーステップを越えて、最終アタックに成功(8848メートル)する。酸素ボンベの酸素が残り少なくなって、山頂から少しでも早く下山しなければならない隊に 予想外の天候悪化が襲い掛かる。しかも、午後になって山頂を目指して登ってくる 非常識なインド隊に 一方通行の道を譲らなければならず、待機を余儀なくされたオスカー隊にブリザードが襲いかかり、酸素が無くなる。ヒラリーステップで動けなくなった隊員とオスカー隊長を残して、小田草介が先頭に立って下山するが、草介は凍った稜線で滑落寸前。そこを、三歩に助けられる。

草介から得た情報で、三歩は次々と動けなくなった隊員を救助してテントに収容する。しかし、その前に新しい酸素ボンベを担いで救助にむかっていたピートは 雪庇を踏み抜いて転落。三歩は、酸素なしでピートを救助し、再びオスカーを救助しに山頂に向かう。しかし三歩は、すでに感覚は失われ、視力は無くなり幻覚か現実かわからなくなっていた。それでもまだ、残っているインド隊を救助しようと、、。壮絶な死。

以前、どうして山に登るのか と遭難救助隊の椎名久美に問われて、三歩は「山ではコーヒーが美味しいっしょ?」と答えている。そのコーヒーを三歩は、ヒマラヤの山頂で幻覚の中で飲んだ。 もう悲しくて悲しくて、たまらない。親しい友人を失ったような気持ち。
本当に良い山の本だった。三歩の生き方、山に向かう姿が、とてもよくわかる。ここで最終回になったことで どうしてこんな終わり方になったのか、、、と、アマゾンの読者からのコメントは 怒りと非難でいっぱいだ。でも、山に絶対はない。どんなに立派な山岳家でも命を落とすこともある。山の好きな人ならば、三歩の死は理解できる。この終わり方で良い。

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2012年9月16日日曜日

反米暴動 広がる

先日、9月11日以降、イスラム教徒による反米運動、暴動が リビア、イエメン、エジプトから世界的規模で広がっているが、シドニーでも イスラム教徒によってデモが行われて暴徒化して逮捕者が出た。

もとは、エジプトを中心に組織されているクリスチャン、コプト正教会の者が イスラム教の預言者モハメドを侮辱するヴィデオを、U-TUBEに載せたことで、怒ったイスラム教徒による暴動が起った。INOCENT OF MUSLIMというヴィデオで、まともな良心のあるひとならば、誰もが見て、吐気を催すような下劣なフィルムだ。これで、あっという間に、反米運動に広がり、リビア、ベンガジにあるアメリカ領事館が襲撃され、アメリカ大使を含む4人の犠牲者が命を落とした。 クリントンは、亡くなった大使が、リビアの前大統領カタフイの失脚とリビアの民主化に寄与した人物だった として彼の死を悼んだ。領事館が焼き討ちにあい、大使を含む、4人のアメリカ人が二酸化炭素中毒で亡くなったが、そのうちの二人はアメリカ軍海軍のシールドの一員だったという。シールドは、オサマビンラデインを暗殺した特殊部隊だ。焼き討ちされるほうも、した方も 実に攻撃的、かつ政治的だ。

9-11から11年がたち、アメリカ大統領選挙直前、シリアでは、アサド政権を支持するシーア派のイランと それに対抗するアメリカ、イスラエル、エジプトサウジアラビア、トルコなどの後ろ盾を得たアサド反政権派との戦闘が続いていて、先が見えない。

宗教心あるものが、自分の神でない、他の神を冒涜することは、許されない。軽はずみにヴィデオを作り公表したものは その罪を償わなければならない。しかし、常識を持ったものならば、モハメドを冒涜するヴィデオを公表すれば どんなことが起るかわかっていたはずだ。 このできごとで、利益を得るものは、誰だろう。 反米暴動のどさくさで、漁夫の利をえる者、、、それがヴィデオを製作した本人ではないだろうか。

2012年9月6日木曜日

映画 「ムーンライズ キングダム」

 
   
アメリカ映画

監督:ウェス アンダーソン
脚本:ロマン コッポラ
音楽:ベンジャミン ブリテン

キャスト
保安官シャープ :ブルース ウィルス
スージー    :カラ ヘイワード
サム      :ジャード ギルマン
スカウトマスター:エドワード ノートン
スージーの父  :ビル マーフィー
スージーの母  :フランシス マクドナルド

ストーリーは
1965年夏、ニューイングランド島。
夏の間、ボーイスカウトが ニューイングランド島で、キャンプをしている。スカウトマスターの指導の下、キャンプ内での規律はとても厳しい。食事、炊飯、野外活動、就寝、すべてが時間どうりに 秩序正しく行われなければならない。

ある日、サムと言う少年は、地元の学校の生徒達が教会で「ノアの箱舟」の劇を演じているのを見て、ひとりの少女に恋をした。少女の名前はスージー(カラ ヘイワード)。
サム(ジャード ギルマン)とスージーは 示し合わせて、計画したとおりに駆け落ちをする。サムはテント1式を背負い、空気銃も担ぎ、スージーはスーツケースに愛読書をつめて、ふたりの逃走劇がはじまる。

12歳の少女の失踪で、普段は眠ったような、静かな田舎町は大騒ぎ。少女の両親はあわてふためき、ボーイスカウトのキャンプも大慌て。12歳のサムは 孤児だったので、養父母の育てられていたが、これを機会に、養父母は、サムの引取りを拒否。サムが見つかり次第、孤児院に送られることになった。スージーの両親の要請を受けて、保安官のシャープ(ブルース ウィルス)は 何としても二人の身柄を確保しなければならなくなった。

一方、恋する二人、12歳の道行きは、きわめて順調。二人して手に手をとってボートでムーンライズ キングダム岬に渡って、海辺にテントを張り、サムは魚を仕留めて料理して、スージーは毎晩、サムに本を読んできかせる。二人して仲良く 眺めの良い海辺で過ごしていた。しかし、大型台風がやってきて、、、。
というお話。

映画のストーリーや、キャストや、ドラマがどうこう言うような映画ではなくて、映画そのものがアート作品。ふつうの映画ではない。非現実的なフェアリーテールでもある。
例えば、教会の尖塔で 恋する二人を保安官が引き戻そうとしているところで、雷の音がした、と思った次の場面で、折れた教会の塔に片手で保安官が捕まっていて、その片手にサムが、またその片手にスージーがぶら下がっている絵のようなシーンがある。
あるいは、ボーイスカウトのマスターが居住する小屋は 50メートルもある高い木のトップにのっかっている。そのくせ中では揺れもしない。物理学的にも、建築上も、土木工学的にも、ありえない小屋なのだ。
カメラは正面から写していて動かない。画面が平面的で奥行きがない。ボーイスカウトの小さなテントが沢山並んでいるが、そこに一人が入るシーンがある。次のシーンはテントの中だが、これが驚くほど広くて整然としている。距離感とか、奥行きの 普通の感覚が覆される。

ブルース ウィルスの演じる保安官のキャラクターガ生きている。二人が捕られる。娘と引き離されたサムに、保安官が朝食を作ってやっている。すっかりしょげているサムに、どうだ、あの浜辺では楽しかったか?と聞く。いいなあ、あの浜辺。俺に彼女がいたら、絶対あの浜辺に連れて行ってやっただろうと思うよ。と、実に共感をもって語り、サムを一人前の男として扱っている。
登場する大人たちが、みな、スージーの両親も含めて、どこかずれている。大真面目だが、ずれている様子が とてもおかしい。

サムが獲物を捕まえ、解体して 火をおこし料理する。スージーが食べ終わると、サムが眠るまで、本を読んで聞かせる。テープレコーダーの曲に合わせて、砂浜で踊ったり、手を繋いだり、泳いだり、ちょっとキスしたりする。ひょうひょうとした眼鏡の少年が、頼りなげに見え、危なっかしくて仕方無いのだが、見ている側は、笑いをこらえて見守っている。

駆け落ちという深刻なできごとを 駆け落ちにはちょっと早すぎる二人が気軽にヒョイとやってしまい それに混乱して上や下やの大騒ぎに巻き込まれる大人たちが笑える。
音楽が良い。ベンジャミン ブリテンの「真夏の夜の夢」や、「ノアの箱舟」などからもってきた音楽が 画面の芸術性や、とっ拍子のない筋書きによくマッチしている。

大人でもない、子供でもない、テイーンでもない、スージーとサムの危なっかしい愛の行方に、ハラハラしながら、笑いをこらえながら見ている誰もが いつしか二人の見方になっていて、二人がどんなことになっても守ってやりたい、と思うだろう。
子供だったとき、人を好きになって、それがどんなに純粋で真剣だったかを思い出して 胸が痛くなる人もいるかもしれない。
とても楽しい、ロマンテイックコメデイー。

2012年8月29日水曜日

映画 「ぼくたちのムッシュラザール」


     
今年(2012)のアカデミー賞外国語映画賞の候補作。カナダ映画。フランス語、英語字幕。

原題:MONSIEUR LAZHAR
監督:フイリップ ファラルドー
キャスト
ムッシュラザール:モハメド フェラグ
シモン     :エミリアン ネロン
アリス     :ソフィーネ リッセ

ストーリーは
フランス語圏 モントリオールの小学校。
登校した6年生、11歳のアリスが、雪の積もる校庭の端っこで 教室が開くまで、ポケットのナッツを食べながら待っている。横に、そっとシモンが来て、アリスの前に手を出す。アリスはその手にナッツを乗せてやり、二人して食べている。自然な二人の様子を写すロングショットが続く。二人の間に会話はないし、互いに顔をあわせることも無い。しかし観ていると 二人がとても気のあった仲で、いつも一緒に居ることがわかる。他の子供達は校庭でボールを投げあったり、ゲームに興じている。

アリスがシモンに、「牛乳当番でしょ。」と言う。そうだった。シモンはあわてて走って校内に入り、給食室からクラス人数分の牛乳を取り出して、教室に運ぶ。そして、シモンが教室の中で見たものは、大好きな受け持ちのマルテイーヌ先生が首を吊って死んでいる姿だった。
走ってシモンが教員室に駆け込み、先生方はあわてて生徒達を構内から立ち退かせる。しかし、アリスはシモンのすぐ後を追ってきていたから、教室を覗いてしまう。シモンが大好きだったマルテイーヌ先生は 自分の青いスカーフで首を吊っていた。

教室のペンキが塗り替えられ、クラスの子供達には専門の心理療法士がやってくる。しかし、事件が新聞に載ってしまったので後続の先生がなかなか見つからない。
そこに、アルジェリア出身で、ケペックで19年間教師をしていたという、ラザール先生がやってくる。警察との対応や社会的責任を問われ、子供達の父兄達からも厳し追求されて傷心だった校長は、物腰穏やかなラザール先生を雇用して、クラスを担当してもらうことにする。

ラザール先生は教室で円形に広がっていた子供達の机を 前後縦横にきちんと並べ替えさせる。最初に子供達にさせたことは、バルザックの書き取りだ。授業中ふざける子供をパシンと軽くたたいて諌め、姿勢の悪い子供には正させる。先生の古典的な教え方に、生徒達はざわめく。
さっそく校長はラザール先生を呼び出して、子供に体罰はおろか、触れることも、頭を撫でることも、抱いてやることも学校では禁止されていると言う。自分達の担任の先生が、子供達の教室で自殺しことで、子供達が傷ついていないわけがない。しかし校長は 起きた出来事について、心理療法士以外の人が、話しても触れてもいけないと言う。子供達はマルテイーヌ先生のことを 心理療法士以外の人に話すことも 子供同士で話し合うこともできない。誰も、何もなかったのように口をつぐんでいた。一方、ラザール先生は同僚とも穏やかな良い関係を持ちつつ、クラスを運営していく。冬が去り、春がやってくる。子供達は何も問題がないかのようだ。だが、シモンだけは、乱暴な生徒として、問題児になっていく。

ある日、シモンが大切に肌身離さずもっていたものが、マルテイーヌ先生の写真だったことがわかって、クラスは再び揺れ動く。アリスはみんなの前に立って、語り始める。乱暴はいけない乱暴はいけない、と大人は言うけれど、マルテーヌ先生は青いスカーフで首を吊って死んだ。これこそが乱暴だったではないか、と。アリスの発言を切っ掛けに、シモンは 一人きりで今まで自分の中に秘めていた思いを一気に吐露する。「マルテーヌ先生は僕を抱きしめた。その先生を僕は突き飛ばしたんだ」。と言って泣きじゃくる。マルテイーヌは次の朝、シモンが牛乳当番で早く教室に来ることを知っていて、首を吊っていた。抱きしめられて、突き飛ばしたシモンは、先生の自殺が自分のせいだと思い込んで ずっと自分を責めていたのだ。アリスはシモンがどれだけマルテイーヌ先生が好きだったかを知っている。シモンが特別の先生に可愛がられていて、抱きしめられたのに思わず突き飛ばしてしまった複雑な少年の心も、アリス自身の嫉妬に似た感情にも気がついていた。
マルテイーヌ先生の自殺の原因は誰にもわからない。ただ、死後彼女の荷物を夫が取りに来なかったことだけが分っている。

ラザール先生は再び校長に呼ばれる。
19年間教師だったというのは嘘で、あなたは難民ではないか、と。ラザールはアルジェリアでカフェを経営していた。先生だったのは妻だ。自分の国は独立後も長期にわたるフランスの殖民によって、国内では宗教対立や社会動乱が続いている。ラザールは難民としてカナダに渡り 自国で迫害をうけている難民認定を受け、人道的配慮から家族を呼び寄せて移民する過程にいた。そのための家族のパスポートがそろい、ようやくカナダに向けて出発するその夜に、家族の住むアパートが放火され、ラザールの家族は全員殺された。彼は妻と二人の娘を失ったばかりだったのだ。しかし、怒り狂っている校長は ラザールに解雇を言い渡す。

最後の日、いつも通りにラザール先生は、生徒達に向かって何ら変わりない様子で授業する。最後に簡単に、さよならだけを皆に言って、誰もいなくなった教室、、、アリスがひとり、戻ってくる。無言でラザールはアリスをしっかり抱きしめる。
というお話。

子供が主演する映画で、子供達の純真さに触れて 思わず泣いてしまうことがあるが、この映画でも誰もが涙ぐむのではないかと思うシーンが二つある。ひとつは、シモンが「マルテーヌ先生が抱きしめたのを、僕が突き飛ばした。そんなことして欲しくなかったんだもん。嫌だったんだもの。」と泣きじゃくりながら告白するシーン。それと、最後の、大好きな先生との別れが悲しくて教室に戻ってきたアリスをラザール先生がしっかり抱きしめるシーンだ。せっかく、自分たちの心を受け止めてくれる後続の先生が来てくれて、アリスもシモンも心を開きかけたところで、二人ともまたしても先生を失うことになるのだ。

徹底した管理社会である学校。校則が優先する冷徹な社会。生徒達が大好きだった先生が首を吊った教室で、その後何事もなかったかのように授業を受けなければならない子供達。妻も娘も宗教的対立によって焼き殺されて、二度と家族に会うことが出来ないラザール先生。あまりに厳しく、凄惨な現実。

カナダ映画だがフランステイストの映画で、画面で描く詩のような作品。極端に会話が少なく、説明がない。観ている人の想像力で、辛うじてストーリーがつながっていく。想像力の無い人には見終わっても、話しが、見えてこない。一緒に観たオットは 「なんにもわからなかった」 と言っていた。ラザール先生が愛するバルザック。映像の詩人といわれるフランソワ トリュフォーの映画にも バルザックが出て来る。監督がトリュフォーに傾倒していることがわかる。カメラショットが似ている。

アリスは先生に 自分の愛読書、ジャック ロンドンの「ホワイト ファング」や「野生の叫び」を持ってきて読んでもらう。彼女はジャック ロンドンのような冒険小説にはまっている。そして、バルザックの書き取りをさせる先生のことを、シモンと一緒に笑う。それはそうだろう。日本で言えば、5年生に樋口一葉や森鴎外を口述筆記させるようなものだから。

物語の背景に過酷なカナダの移民政策がある。カナダもオーストラリア同様に移民でできた新しい国だ。人口3400万人、日本の4分の1の人々が広大な土地に居り、毎年人口の1%を移民として受け入れる準備がある。しかし、欲しいのは専門技術をもった高学歴の健康な独身者だ。家族呼び寄せ移民は、年寄りや病弱な子供が来るので 保健医療予算を圧迫するから欲しくない。また難民移民は内戦や紛争で引き裂かれた国から来るので、精神病やアルコール中毒、薬物中毒者が多く暴力事件も起こしやすい。家族ビザも難民ビザもカナダ政府としてはあまり出したくない。
そんなことから、ラザールも 妻と娘達がアルジェリアで迫害されていた事実を認めながらも それでももうアルジェリアは安全で平和になっていてラザールが帰国しても問題ない、などと移民審査官は言う。また、学校の校長が軽蔑をこめて、「あんた難民じゃない。」と破棄捨てるように言う。難民のどこが悪いか。誰も好きで難民になったわけではない。

ラザール先生は もし自分の妻が生きていて、アリスやシモンのクラスを担当したらどんなことをしただろうか、といつも考えながら、担任の先生を失った子供達に接していたに違いない。ラザールのところに、アルジェリアから小包みが届く。家族全員、家ごと焼かれてしまったので、形見の品は 妻が教えていたクラスの残っていた妻の教材だけだ。それをラザールは自分のクラスの子供達のために使う。それがラザールなりの、妻への追悼だったのだ。

会話が極端に少なく、説明もない。黙示劇のように子供達の表情だけで、その背景を読まなければならない。だから、人によって解釈が違ってくる映画だ。とても良い。わからないことは わからないまま、モーツアルトをバックに美しい映像をみているだけで良い。とても印象に深く刻まれる映画だった。

2012年8月25日土曜日

オペラオーストラリア公演 「南太平洋」



オペラハウスで、ミュージカル「南太平洋」を観て来た。

オペラオーストラリアでは、毎年10から11のオペラを上演する。今年は、「魔笛」、「トランドット」、「コシ ファン トッテ」、「真珠とり」、「アイーダ」、「蝶々夫人」、「ルチア デ ラメモアール」、「サロメ」、「椿姫」、と「南太平洋」だ。重いオペラだけでは疲れるからか、予算の都合によるものか、わからないが、「南太平洋」のような軽いミュージカルも、毎年 一つくらい間に挿まれる。前には、「マイ フェア レデイー」や、「美女と荒馬」や「メリーウィドウ」などが上演されて、それなりに好評だった。

「南太平洋」は 1949年初演の ブロードウェイミュージカルだ。
原作:ジェームス ミッチナー 「TAILS OF THE SOUTH PACIFIC」
作曲:リチャード ロジャース

映画「南太平洋」は 1958年製作
監督:ジョシュア ローガン
キャスト
ネリー  :ミッチー ゲイナー
エミール :ロッサノ ブラッツイ
ジョセフ :ジョン カー
ブラデイ マリー:ジュアーニ ホール

オペラ「南太平洋」
監督:バーツレット シェアー
指揮:アンドリュー グリーン
キャスト
ネリー:リサ マッケーン
エミール:テデイー タフ ローデス
ジョセフ:ジャスパー リロイド
ブラデイーマリー:ケイト セベラノ

歌われる歌
バリ ハイ
ワンダフル ガイ
SOME ENCHANTED EVENING
THERE IS NOTHING LIKE A DANE
YOUNGER THAN SPRING
ハッピートーク など。

ストーリーは
太平洋戦争中の南太平洋のある島。
米軍駐屯地の海軍所属の看護婦、ネリーは、その持ち前の明るさと天真爛漫な性格で 基地の人気者だ。ネリーに思いを寄せる若い兵士が何人もいる。しかし、彼女は島の農園主エミールに パーテイーで出会って、恋をしていた。エミールはネリよりもずっと年配のフランス人だ。

その基地に 海兵隊のジョセフが 特殊任務を任されてやってきた。となりの島に、敵の日本軍が上陸したが、それを偵察して、敵の通信網を切断するのが彼の任務だ。しかし、米軍の彼らには島の地理や、島の人々に関する情報がない。それで、軍としては、島を良く知っているエミールに、島を案内してもらいたい。しかし、それは、当然、大変危険な任務だった。
軍は丁重にエミールに協力を依頼するが、案の定、にべもなくエミールは断る。それでもあきらめきれず、米軍の司令官はネリーを呼び出して、ネリーを通して、エミールの力が借りられないかどうか、詮索する。
そんな軍の思惑に関係なくエミールは、パ-テイーを開催してネリーを招待する。そこでネリーはプロポーズされる。夢心地のネリーが、歓びに胸を震わせているときに、色の黒い二人の子供達が登場する。そこで、エミールは子供達を抱き上げて、自分の子供だ、といってネリーに紹介する。ネリーは 恋した男が以前、土地の女と結婚していたことを、知って衝撃を受ける。そしてエミールを、許すことが出来なくなる。ネリーは、エミールの前から逃げるように立ち去り、エミールが会いに行っても もうネリーは エミールに会おうとしなかった。ネリーは勤務地変更願いを出していた。

海兵隊のジョセフがエミールとともに、島から消えた。後になって、ネリーは 二人が日本軍の基地に潜入したことを知る。エミールの屋敷に残された二人の子供達が 気になってネリーは屋敷に通って、子供達を世話するようになる。天使のように心の美しい子供達を見ているうちに、ネリーは自分が本当にエミールを愛していたことに気がつく。そこにジョセフの死の知らせが入り、、、。
というお話。

映画が公開されて、日本でも空前のヒット作になった。ロードショウを銀座で観た記憶がある。12歳くらいだったか。画面の美しさと、「バリ ハイ」を歌うジュアーニ ホールの素晴らしい迫力に見惚れた。緑輝く南太平洋の島々、透明なエメラルドグリーンの海、ジョセフが恋をする島の娘の可憐な可愛らしさ、ロッサノ ブラッテイの素敵なナイスミドルぶり。何もかも美しくて素晴らしく、心ごと南太平洋に持っていかれそうな思いだった。
ロッサノ ブラッテイは、キャサリン ヘップバーンとの共演、「旅情」、「愛の泉」などで、すでに知っていて、中年男なのに いつも恋する男の役で目がウルウルする姿に、魅かれていた。12歳なのに!

それにしても ミュージカルのせりふに何度も何度も出て来る「ジャップ」、「ジャップ」という言葉が今になると気に障る。子供の時には知らなかった時代背景や社会関係が分かってみると いやはや何ともこれは お気楽なアメリカミュージカルだった、と思う。
それと、軍規のゆるさ。従軍看護婦が 自由奔放に兵士達と恋愛して、休日(!)には好きな兵士と手を組んでデートする。看護婦たちは駒鳥のようにさえずりながらスイスイと飛び回り、気に入った相手と恋愛したり基地内で結婚したり、戦争中だというのに地元の名士が開催するパーテイーに招待されて飲んだり食べたり、社交している。まるで当時の日本軍の軍規からみると絵空事のようだ。これは、米軍のプロパガンダ映画だったのか。
ストーリーだけをみると 日本で空前のヒット映画というのが嘘みたいだが、当時貧しかった敗戦国日本にとって、こうした明るくて楽しい映画が必要だったのかもしれない。

オペラオーストラリアが このミュージカルをやることになってエミールの子供達を選ぶオーデイションがあった。10歳の息子役に選ばれたジャスパー リロイドは、ポリネシア系のオージー。祖母がバレエ教師、母も叔父もシンガーでダンサー、本人は3歳のときから ダンスを習っていて、バレエだけでなく、ジャズダンス、ヒップホップもタップダンスもお手の物という多才な子供だ。きれいなボーイソプラノを聴かせてくれた。

父親のフランス人、エミール役を演じたテデイー タフ ロイドはオペラオーストラリアではおなじみのバリトン歌手だ。2メートルも背丈のある、がっしりした体格で、おなかに響く美しい低音を聴かせる。 残念なのは、主演女優のネリー役の、リサ マクイン。彼女は、もともとミュージカル俳優なので、声量がなくテデイ タフ ロイドとのデュエットでは、生彩に欠けることだ。

しかし、一番悪かったのは ブラデイマリー役のケイト セベラノだ。「南太平洋」を観に来た人は 10人のうち9人は「バリ ハイ」の歌を聴きに来たのではないだろうか。ブラデイマリーは、体重150キロはありそうな土地の女で、基地に自由に出入りして、兵士達にココヤシの民芸品や装飾品や ミイラになった人の頭を50ドルで売りつける。ジョセフ中尉に、年端もいかぬ娘まで差し出す商売女で、煮ても焼いても食えない女だ。そんな巨漢が バリ ハイの歌ひとつで、人々に、この世のものと思えない夢の島を見せてくれる。昔、映画でこの歌に 感動して完全にノックダウンされた。しかし、オペラハウスで観たブラデイーマリーは声量のない貧相な女で、最低だった。ロックを聴きに行って、浪花節を聞かされたようなものだ。

プレミアチケット二人分と、オペラハウスの駐車券を入れると500ドル。オペラハウスは、こんな悪い商売をしてはいけない。オペラ好きには全然観る価値のない公演だ。ミュージカルにミュージカル以上のものを求めてはいけないのならば、オペラハウス以外のミュージカルシアターで、半額の値段で公演するべきだ。

2012年8月16日木曜日

映画 「ザ サファイヤズ」



      
オーストラリアの先住民アボリジニーの人々は 独自の優れた文化と芸術を持っていることで知られている。人類のうちで最も古い歴史をもった狩猟民族で 4万年前にすでにオーストラリア大陸で、岩に動物の姿や狩りをする人の姿などを描いている。シロアリで空洞になった樹でできたデイジュリトウという楽器を吹きながら、踊る、音楽家達でもある。

いまは、ギターをもって、カントリー調のソウルを歌う人が多く、アイドルになっている人も多いが、もって生まれた音感の良さと、リズムを打つ正確さには真に驚かされる。シンガーソングライテイングでは、独特の哀調を帯びた作風、また自由自在に転調に転調を重ねて音をつないでいく巧みさは、全くまねができない。

アボリジニー出身の映画監督も、みな若いが、ブレンダン フレッチャー、イワン セン、ワーリック トーントンなど優れた映画作りをする人が出てきた、。この映画「ザ サファイヤズ」も、アボリジニー出身の監督、ウェイン ブランによって作られ、今年のカンヌ映画祭で、初めて上映されて、高く評価された。

映画は、1950年末から1960年代に、実際あった、リアルストーリー。全米で黒人解放、公民権獲得運動が、ベトナム戦争を背景に嵐のように広がった、その時期のお話だ。同じ頃、オーストラリアでは まだアボリジニーに選挙権もなく、対等な人間として扱われていなかったが、アボリジニの女性歌手のグループが ベトナムに送られて、戦闘の最前線を慰問してまわったという あまり知られていない事実を映画化したもの。脚本家のトニー ブリッグは、自分の母親と叔母さんが、実際に、映画に出てくる歌手だったそうだ。コミカルなラブロマンス。笑わせてくれるが 作り手のメッセージは、強くて確かだ。

監督:ウェイン ブラン
脚本;トニー ブリッグ
キャスト
デイブ:クリス オドウ
ゲイル:デボラ メイルマン
ジュリー:ジェシカ マウボーイ
シンシア:ミランダ タペル
ケイ  :シャリ セベン

ストーリーは
1958年 ヴィクトリア州の田舎町で婦人会主催の歌のコンテストが行われることになった。そこに審査員としてメルボルンから、スカウトマンのデイブが招待されてきた。審査員といっても、アイルランド人のデイブは、ポンコツ車で寝泊りして移動しながら、地方回りをしてきた、歌手になりそこねたアルコール中毒のうらぶれた男だ。歌のコンテストが始まってみると、着飾った婦人会の面々を前に、音の外れた歌手や、間の抜けた腹話術氏など、この田舎町ではとてもスカウトの対象になるような技能をもったものは見当たらない。いい加減、デイブがあくびをかみ殺すのも面倒になった頃、コンテストが終わる寸前に、駆けつけてきた3人のアボリジニー達に 婦人会一同は、ざわめきだす。アボリジニーと同じ部屋にいることを拒否して、部屋を猛然と出て行く人、舞台に背を向けて大声で話し出して コンテストを妨害する人々。一様に、無視しながらも、ちらりと彼女たちを見る時は、汚物でも見るような険しい顔だ。

3人は厳しい視線や、気まずい空気を気にせずに、美声で歌い始める。やっと音楽らしい音楽を耳にすることができて、スカウトマンのデイブが嬉しくなって、つい、ピアノ伴奏を始める。さて、今日のコンテストの優勝者は、と、デイブが記念の盾を彼女達に渡そうとすると 婦人会は怒り狂う。「アボリジニーは、森で狩りでもしていたらいいでしょ。」と。婦人会によって、3人のアボリジニーとデイブは、会場からたたき出されてしまった。

ゲイルとジュリーとシンシアは、3人姉妹だ。いつも歌が好きで歌ってばかりいる母親に育てられた。姉妹喧嘩をしても、母親が歌いだすと、自然といつの間にか、そろって声を合わせていて、いつの間にか喧嘩していたことが忘れられてしまう。家族は町から離れたアボリジニーのコミュニテイーで暮らしている。3姉妹は、仕事が欲しかった。しかし、街で白人に混じって働ける職場など 探してもみつかる訳がない。スカウトマンに出会った3人は、「米軍 歌手を求む」という新聞広告をデイブに手渡して、自分達をプロモートして、米軍に売り込んで欲しいと頼み込む。それは、ベトナムの戦場にいる兵士達を慰問する仕事だった。
デイブは、すっかり本気になって、彼女達3人に従姉妹を加えた4人のグループに、歌の振り付けやコーラスの技術を教え込む。グループの名前は「ザ サファイヤズ」だ。そして、無事オーデイションに受かって一行はハノイに向かう。

デイブに引き連れられて、彼女達が着いたところはベトナムの戦火の中だった。娘達はオーストラリア社会で存在を認められず、どこに行っても鼻つまみにされることに慣れてきたから、黒人兵の多い米兵達から歓迎され、仲間として大切に扱われて、嬉しかった。米兵達は明日の命の保障もない戦場で 戦闘の合間には 酒とドラッグとセックスに溺れた。そんななかで、4人の女の子たちは 兵士達のマスコットガールとして、もてはやされた。
ザ サファイヤズは米軍の拠点から拠点へと移動しながら歌い続ける。しかし、戦況が厳しくなり、前線基地で激しい爆撃にあい、デイブは銃弾に倒れる。4人はサイゴンに戻ることになり、やがて戦況悪化とともに、オーストラリアに帰国することになって、、、。
というお話。

ひょろひょろして、頼りないデイブが 4人の元気なアボリジニーの女の子の勢いに押されてばかりいる、掛け合いがコミカルで笑える。4人のしっかり者に、どやされたり、たしなめられたり、懇願されたり、泣きつかれたりしながら あたふたと4人をプロモートして売り出して成功させるデイブの姿が おかしいが憎めない。差別に正面からぶつかっていく4人の足を地に付けた確かさに感動する。

初めの頃の、母親が「イエローバード」を歌いだすと、娘達がひとり、またひとりと歌に加わって、美しいハーモニーになるところが印象的だ。
時代背景を説明する目的だろうが、アボリジニーコミュニテイーのみんながテレビの前に居て、マルチン ルーサー キングが暗殺されたニュースが流れるシーンがある。キング牧師の演説に聞き入るアボリジニーの人々、、、感動的なシーンだが、このころ1960年末から1979年代のかけて、コミュニテイーに電気はなかったと思う。一般のオーストラリアの間でも 1950年代にテレビはあまり普及していなかった。
だいたい、アボリジニーに選挙権が与えられたのが、1963年のことだ。ヨーロッパやアメリカの先駆けて、世界で初めて女性に選挙権を認めたオーストラリアにして、自分達の先輩たちである先住民を公式に国民として認めたのは、それほど遅い時期だった。

日本では、アイヌの土地没収、アイヌへの日本語使用義務、改名による戸籍への編入を強制した「北海道旧土人保護法」が 廃止されたのが1997年。「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が国会で採択されたのが2008年のことだ。 ことほどさように どの国でも先住民は 奪われ、虐げられ、その人間としての権利が認められ、尊厳が回復されるには、長い長い時間が必要だったのだ。

私がオーストラリアに来た16年前には、一般オーストラリア人とアボリジニーの平均寿命に、20年の差があった。アボリジニーは20年も早く糖尿病やアルコール中毒による腎不全、肝不全で亡くなっていた。それが、教育や住宅、保険医療の改善などの成果で、17年となり、さらに差が少しずつ縮まてきている。

大きな病院の心臓外科病棟に勤めていたとき、ひとりのアボリジニーの患者が亡くなった。事態を知らされて待機していた患者の家族たちが 亡くなった患者を取り囲み、悲しい哀調のこもった歌を歌いだして、まわりを祈りながら、歌いながら舞った。その美しい歌を聴きながら、亡くなった患者の魂が 仲間にしっかりと抱かれている姿が、見えるような気がした。良い経験だったと思う。

この映画は楽しい映画だ。アボリジニー出身監督のメッセージは、受け止めた上で、楽しい音楽映画、ラブコメとして観るのが良い。

2012年8月13日月曜日

ベートーヴェン交響曲第9番 ACO定期公演


   

シドニーは真冬。一年のうちで、一番寒い8月。凍るような南極から吹いてくる強風に震えながら オーストラリア チェンバーオーケストラ(ACO)定期コンサートに行ってきた。で、日本でも真冬に演奏されるベートーヴェンの交響曲第9番を聴いた。


ACOのリチャード トンゲテイが、棒を振るベートーヴェンに、エンジェルプレイスコンサートホールが一杯になって、立ち見の観客が出た。クラシックコンサートで立ち見なんて、シドニーで今まで聞いたことが無い。それほど「第9」が人気 というのに驚いた。まるで日本に居るみたい。

交響曲第9番の第4楽章の「歓喜」は、ヨーロッパ連合の歌。連合の統一性を象徴する歌として、ヨーロッパ各国から承認されている。近頃では経済危機で ギリシャ、イタリアに次いでスペインまで危なくなってきているけれど ヨーロッパは、連合として生き残るしか方法はない。ヨーロッパ連合の「歓喜の歌」が「悲哀の歌」にならないことを願うしかない。
1918年、第一次世界大戦集結の年の暮れ、ヨーロッパの平和への祈りをこめて、ライプチッヒのケバントハウスで12月31日に、100人の演奏家と300人の歌手とで、「第9」が演奏されたのが、始まり。以降、毎年これが繰り返し演奏され、1944年に、ケバントハウスが戦火で消失しても、再建され演奏が続けられた。

日本では、たくさんの演奏家達の間で クリスマスにはヘンデルの「メサイヤ」、大晦日には「第9」が演奏されるのが恒例になった。
東京両国の国技館では「5000人の第9」が、大阪では、「サントリー一万人の第9」が大阪城ホールで、広島では広島交響楽団による「第9ひろしま」が、演奏、合唱する。クリスチャンのバックグラウンドがない国で、これほどベートーヴェンの「第九」が愛されている国は他に無い。
決して簡単に演奏できる曲ではない。決して簡単に歌って 暗誦できるドイツ語の詩ではない。それを やりぬけてしまう日本人のパワーって、すごい と思う。

何十年も前だが、アマチュアオーケストラの仲間に入れていただいたことがある。夫の赴任先で 知人も友人も居ない。言葉が全く通じないことにショックを受けていた。家は畑の真ん中の一軒屋。孤独のどん底から 引き上げてオーケストラに受け入れてくれた音楽家達の優しさに、有頂天になって、2歳と3歳の子供を連れて練習に通った。クリスマスのヘンデル「メサイヤ」や、ミュージカルやバレエの演奏を一緒にさせてもらって、本当に嬉しかった。
さて、隣町の宜野湾市に公会堂ができることになって、こけら落としに「第9」をやることになった。ヴァイオリンのスコアを 初めて開いてみると、16分音符と32音符ばかりで 全然弾ける気がしない。ピッチカート、スピカート、トレモロばかりで 練習しても練習しても、弦をこする不快音がするばかり。必死に 練習して弾いてみるが 全然、音になっていない。案の定、合同練習が始まってみると コンダクターに「ねえ、ベタベタ弾かないでくれない?」と何度も注意される。ごめんなさい。でも、うまく弓を飛ばせない。ピタリと全体が休符にはいるところで 私だけが音を伸ばしていて締まるところが締まらない。練習のたびに半泣きだった。「メサイヤ」と全然ちがう。音の密度も、難易度も他の曲と比べ物にならない。

だから私にとって「第9」は 「歓喜」ではなかった。いまでも思い出すと冷や汗が出る。でも聴くのは大好き。いつ聴いても心を揺さぶられるような感動をする。
フリードリッヒ フォン シラーの詩「歓喜に寄す」を読んで 感動した22歳の若いベートーヴェンが いつかこの詩に曲をつけて交響曲にしよう とずっと思って 生涯暖めて最後の交響曲に全力を投入して作曲した作品。ひとつの小節 ひとつの楽章にも気が抜けない。考えて考えて工夫に工夫を凝らして作られている。偉大な作品だ。

演奏:オーストラリアチェンバーオーケストラ
指揮:リチャード トンゲテイ
ソプラノ:ルーシー クロウ
アルト :フィオナ キャンベル
テナー :アラン クレイトン
バリトン:マチュー ブロック
合唱  :ケンブリッジ クレアカレッジ合唱団

メゾソプラノ以外全員 歌い手はイギリス人。ケンブリッジ大学からきた32人の男女合唱団は、とても40人足らずの合唱とは思えない声の篤さと響きをもった、迫力のある合唱団で、素晴らしかった。
チェンバーオーケストラは団員21人の弦楽グループだが、「ACOー2」という若手のオーケストラを育成、指導している。この中から助っ人を加えて、第1ヴァイオリン10人、第2ヴァイオリン8人、ヴィオラ6人、チェロ5人、ベース1人というメンバーだった。
これに吹奏楽器を加え、さらにテインパニーもシンバルもトライアングルも「第9」には必要だ。リチャード トンゲテイがコンサートマスターでヴァイオリンを弾きながら指揮もするのは、いつものことだ。だけど、合唱が加わって、指揮に力が入って、弓で指揮するたびに、見ているのにハラハラしてしまう。「わー、、国宝ガダニーニのヴァイオリンと弓なのに、どこかにぶっつけなければ良いけど、、」という心配だ。さすがに、リチャード、合唱の後半は ヴァイオリンを横に置いて指揮していた。
素晴らしい。

低い弱音で 奏で始められるチェロによる歓喜の歌のテーマが、やがてヴィオラに代わり、ヴァイオリンになり、音が徐々に大きく広がっていく。そして、大合唱の大爆発。

天に響け とばかりにオーケストラが鳴り、合唱が重なる。胸が開かれる思いだ。澱になって沈んでいた心のすべてが流れ出して、自分の胸にあるものが解放されていく。この世のものと思えない、力強く 清らかな天使の声を聴く。
素晴らしい演奏と合唱だった。

ほとんどの人々が ブラボーと叫び、立ち上がって拍手の嵐になった。
鳴り止まない拍手。

でも2回ほど お辞儀をするとサッサと引っ込んで二度と舞台には戻ってこないリチャードたちACOの面々。拍手の嵐が鳴り止むころには、団員達はもう車で家に向かう途中だ。
そういうところ、ACOが大好き。  

2012年8月6日月曜日

映画「エイブラハム リンカーン バンパイヤーハンター」

           

エイブラハム リンカーン(1809-1865)は、日本人に最も親しまれているアメリカ大統領ではないだろうか。ワシントンを旅行した人は 必ずワシントンDCの記念館で、どでかい彼の椅子に座った銅像を見物させられるだろうし、リンカーンと言われて、すぐに眉の太い ヒゲ顔の暗い、憂鬱そうな怖い顔を思い浮かべるだろう。歴代アメリカ大統領のなかで 顔と名前が一致する人はそれほど居ない。顔写真をみて名前を挙げるというゲームをしたら ジェファーソン、マッカーシー、トルーマンなど すぐには思い浮かばない。GHQのマッカーサーでさえ あのレイバンのサングラスがなかったら 顔を見ても分からない人のほうが多いだろう。


それだけリンカーンが日本で知られているのは、何故だろう。
小学校低学年の教科書で、リンカーンと桜の樹のエピソードがあった。幼いエイブラハムが父親に斧をもらって、嬉しくてつい父親の大事にしていた桜の樹を切ってしまった。隠しておきたかったが、勇気を出して父親に事実を告げ謝罪した。父親は彼を叱らずに 自分の過ちを認めた彼の勇気を褒めた。という美談だ。小学校で先生が得意そうに 生徒にこれで説教するのを聞きながら、なんか陳腐な話しだと、子供ながらに冷笑していた。この頃に桜の樹がケンタッキーに生育していたとも思えない。作り話だ。
また 彼の有名な演説 オブピープル、バイピープル、フォーピープルを知らない人は居ないだろう。奴隷制拡張に反対し、アメリカ合衆国を二分し、議会の承認なしに 独力で南北戦争を指揮した。同時に、インデアンを保留地に追い込み、民族浄化ともいえる大虐殺を指揮した。そして、南軍のロバート リー将軍が降伏し、南北戦争が終結した直後に 暗殺された。

彼のいうピープル(人民)のなかにアフリカンアメリカン(黒人)も、インデアンも入っていない。奴隷制は終息したが、選挙権などの基本的人権は全く認めていない。もともとリンカーンは 黒人が白人と同じ対等な人間とは思っていなかった。まして、インデアンに至っては、抹殺すべき人類の敵だと考えていた。
しかし、いま彼は「奴隷解放の父」と呼ばれ、アメリカフロンテイア精神の代表者、パイオニア(開拓者)の代表者として尊敬されている。丸木小屋で育ち、無学の両親のもとで、斧で樹を切ることに長けていた。独学で学問をして 弁護士となり、大統領にまで登りつめたことは偉業に違いない。

映画「エブラハム リンカーン:バンパイヤーハンター」3D を観た。
原作: セス グラハム スミス
監督: テイムール べグマンベトフ
製作: テイム バートン

キャスト
リンカーン:ベンジャミン ウォーカー
妻マリー :マリー エリザベスウィンステット
幼馴染ウィリアム:アンソニー マックフィー
親友ヘンリー:ドミニック クーパー
吸血鬼バドマ:エハン ワーソン
吸血鬼アダム:ルフ セウェル

ストーリーは
第16代目アメリカ大統領エイブラハム リンカーンの本業は 吸血鬼狩りだった。夜な夜なリンカーンは斧を振り回して吸血鬼を退治していた。そして、ついに吸血鬼との全面戦争、南北戦争に突入する。南部アメリカに、はびこっていた吸血鬼は アメリカ征服を企んでいたため、北部の人間との全面戦争を避けられなかったのだ。奴隷解放は、吸血鬼の食料源を断つために必要だった。厳しい戦争を勝ち抜いて、ついにアメリカは人民の、人民による、人民のための国家を建設することができました。
というお話。

ここまでアメリカの現代史を茶化すことができる、ということに、まずびっくりした。この小説「バンパイヤーハンター リンカーン」(2010年)が人気小説になり、それをテイム バートンが映画にしてしまう というのも、すごい。カザクスタン出身のロシア人が監督して、奇才テイム バートンが製作すると、立派な作品になってしまう、ということも驚きだ。
リンカーンが振り回す斧で吸血鬼がぶっちぎれて 血肉が吹き飛ぶという予告を読んでいたので、怖くなったらすぐに映画館を出るつもりで最初から端の席で脅えていた。しかし、映画が始まったとたんにストーリーに引き込まれて、とてもおもしろくかった。
リンカーンンが斧ひとつで、バットマンと、スパイダーマンと、アイアンマンと、ハルクと スーパーマンを足したくらいの活躍をする。そんな彼が家に帰れば 無名の好青年。妻メアリーとのロマンスも感動的だ。

印象に残った大スペクタクルは二つ。
ひとつは 暴れ馬が200頭くらい暴走するシーンだ。馬に飛び乗って逃げる瀕死の吸血鬼をリンカーンが追う。臨場感いっぱいの馬の群れのなかで、飛び乗って、振り落とされたり、馬から馬へと乗り移ったりしながら、片手で斧を振りかざして戦う一騎打ちのシーンが迫力がすごくて 手に汗を握る。
もうひとつは、列車で武器を満載して南部戦線に向かうリンカーンたちを、吸血鬼が襲い、橋が崩れ落ち、列車が火に包まれるシーン。橋が落ち、列車が次々と谷底に落ち、リンカーンらが乗った車両は落ちても、済んでのところで助かるに決まっているのだけど、いつもハラハラする。

また着飾った吸血鬼たちが、屋敷で晩餐会を開催している。モーツアルトの曲に合わせて 人々は優雅に踊り、飲み、楽しんでいる。シャンデリアにシャンパンに、贅沢なお客たちの衣装。そこで、突然、屋敷主が 「皆様、お食事の支度ができました。」と言ったとたんに 吸血鬼たちが ダンスで手を組んでいた相手の咽喉笛にガブリと食らいつくシーンが おもしろかった。

アメリカ版ブラックユーモア健全 ということか。すっかりおもしろくて、リンカーンの活躍に感動すらしてしまった。日本では、吸血鬼を東電にあてはめて見ることもできる。斧ひとつで退治してくれる 日本版リンカーンが居ないだけだ。

2012年7月27日金曜日

オペラオーストラリア公演「アイーダ」

                                   
オペラオーストラリア定期公演の「アイーダ」を観た。

1870年 ヴェルデイ作曲
初演;1871年 カイロ オペラ座
4幕 2時間30分 イタリア語
演奏;オーストラリアオペラ バレエオーケストラ
指揮:アルボ ヴォルマー
監督:グレイム マーフイー

キャスト
アイーダエチオピア王女:  ラトニア モーア 
ラダミスエジプト軍将軍:  ロザリオ ラ スピナ
アムネリスエジプト王女:  ミリアナ ニコルフ
アイーダ父エチオピア王:  ワーリック ファイファ
アムネリス父エジプト王:  ジェド アーサー

「アイーダ」はオペラの中でも 豪華絢爛、派手で立派でスペクタキュラー。堂々とした凱旋の歌が 劇中、何度も何度も繰り返されるので、勇ましくて、最も好きなオペラだ。エジプトでは、新年のお祝いに、ピラミッドの前で公演が行われたりしてきた。
ヴェルデイは、「リゴレット」、「椿姫」、「トロバトーレ」、「ドンカルロ」、「オテロ」などを作曲したが、このオペラはイタリアオペラの良さを存分にて味わうことができる。
5年前にオペラオーストラリアで観たが、再演されることになって、どうしても観たいと思ってきた。長いことオーストラリアで たくさんのオペラを観てきたが、印象的で いつまでたっても、どうしても忘れられないオペラは、そう多くない。この「アイーダ」と、「真夏の世の夢」くらいだ。どちらも 意表をつく舞台の作り方をしていて 舞台美術のお手本のような素晴らしい作品だった。

「アイーダ」では、舞台の前に、端から端まで細長いプールが出来ていて、これがナイル川。登場人物たちが咽喉の渇きを癒したり、バレエ団が泳いで渡って見せたり 川べりでニンフ達が遊び呆ける姿を見せてくれて とても楽しい。
物語は三角関係の末に 愛し合う二人が悲劇の死を迎える悲劇だが、ファンファーレが鳴り響き 凱旋の行進とともに50人を越える男性コーラスが力強い合唱をする。その立派な行進とそれを取り囲む豪華な衣装の王族達、バレエ団の踊りなど 華やかな明るさに満ちている。舞台一杯に すべての登場人物がそろうと100人ちかい人々が 晴れやかに歌う。観ていてオペラって何て素敵なのだろう、と心から思う。

ストーリーは
エジプトの若き将軍、ラダミスは 将来エジプト国王の一人娘アムネリスの夫に選ばれることになっている。アムネリスは心から 勇敢なラダミスを慕っていた。ラダミスが戦勝っをあげて帰国し次第 王女と結婚して、国王は引退して王座をラダミスに譲るつもりでいた。

ところが、実はラダミスは エチオピアから連れて来られて奴隷になっているアイーダと 密かに愛し合っていた。
エジプト国王はラダミスを、エチオピア討伐に行かせる。アイーダは愛する人の安全を願いながらも、祖国への愛と父親の安全を危惧して、苦しむ。アムネリス王女は かねてからアイーダが誰かを愛しているのではないか と思っていた。ラダミスの留守中に、試してアイーダに、「ラダミスが闘いで殺された」と言って見る。それを聞いて 取り乱すアイーダの様子を目にして、王女は アイーダが間違いなく自分の恋敵であったことを知ってしまう。

ラダミス将軍は、勝利の歌とともに凱旋する。強国エチオピアを打ち破り、国王達王族を捕虜として辱めるために引き連れてきた。アイーダは愛する人が無事で帰ってきてくれて、嬉しいが、自分の父親や兄弟の変わり果てた捕虜姿を見て悲嘆にくれる。

捕虜となったエチオピア国王は、悲しむ娘アイーダに巧みに近付き、その夜、監視のない逃げ道を聞き出そうとする。父に祖国への愛と忠誠を迫られ、拒みきれなくなったアイーダは ラミダスに 逃げ道を聞いて、父親に伝えてしまう。捕虜達は逃亡し、追っ手が出され、国王は捕獲されて殺される。しかし、結果的にエジプトに裏切りを働くことになってしまったラダミスは 謀反人として審判にかけられ、死刑を言い渡される。刑罰は生き埋めの刑。
ラダミスが、砂漠に埋められた石棺の中に入っていくと、そこには、逃げたはずのアイーダが待っていた。二人は再会を喜び合い、ともに抱き合って、息絶える。地上では 愛する人を失ったアムネリスがラダミスの冥福を、一心に祈っている。
というお話。

今回の主役 ラダミスは オーストラリア生まれのイタリア人、ロザリオ ラ スピナだった。大好きな歌い手。すばらしく甘い、伸びのあるテノールを聞かせてくれる。6年くらい前、イタリアから帰国したばかりで新人として「リゴレット」を演じた。美しい声に感激したが、オペラが終わってオットと劇場を出たところで、たった今 感激させてくれたこの青年が、ひとりきり ひょいと舞台裏から出てきて、歩いて帰るところだった。思わず、バイバーイと、手を振ると、にっこり笑って手を振ってくれた。何の飾りもないブーツにジーパン姿の好青年の後姿に、思わず見惚れてしまった。
その時から何年もたったが、彼は二倍の大きさになっていた。しばらく見ないうちに、しっかり太って貫禄がついていたのには驚いた。スパゲテイの食べすぎか、、。アンドレア ボッチエリのような声の輝きはない。ホセ カレラスや パバロテイのような強靭さはない。プラシド ドミンゴのような明るい、伸びやかなう美しい声だ。ヨーロッパで活躍しているらしく、オーストラリアにあまり帰ってきてくれないが 今後もここで歌って欲しい。

ソプラノのラトニア モーアはアフリカンアメリカン。声につやと輝きがあって、キャサリン バトルのような声に清らかな美しさがある。彼女も太っていて、彼女とロザリオ ラ スピナが抱き合ってアイの歌を歌っていると、互いの腕が腰まで回らないみたい。二人のウェストを合計すると3メートルくらいか、、。
でも二人とも声が素晴らしい。

アルトのアムネリス役は背が高く舞台栄えのする人だった。登場人物すべての衣装が とにかく秀逸。白地の長いガウンに金色をたっぷり使った冠や衣装はとても豪華で美しい。
とてもとても豪華で晴れやかで素晴らしい舞台だった。忘れられない。いつまでたっても、凱旋の歌が頭の中で鳴り響いている。