2008年12月31日水曜日

映画「数奇な人生」




映画「THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON」邦題「数奇な人生」を観た。
「華麗なるギャッピー」を残した現代アメリカ文学の F.S.フィッツジェラルドが、書いた小説を 映画化したもの。
自分が監督する映画には必ず ブラッド ピットを起用する「セブン」や「ファイトクラブ」のデビッド フィンチャーが監督。
早くも、主演のブラッド ピットが オスカー主演男優賞のノミネートされると、予想されている。 とにかく ハリウッドで一番セクシーな男優 ブラッド ピットと、世界で一番美しい女優、ケイト ブランシェットの組み合わせだから、配役に もんくはない。

80歳で、生まれて 年を重ねるごとに 若返る男の数奇な一生を描いた作品。この男、ベンジャミンが 生まれてくる前に あるできごとが、あった。 あるところで、時計職人が幸せな結婚をした。息子が生まれ、家族仲良く暮らていたが、息子が大人になった頃 戦争に駆り出され、遺体になって帰ってくる。時計職人は息子の死を嘆いて、市から依頼されていた 中央駅に掲げる大時計を、時間が反対に過去にむかって進むように作って、駅におさめる。人々は 驚きあきれるが、息子を失い その死を嘆き 時間を逆にもどしてしまいたい父親の気持ちを理解してやる。

そんなときに、ある職人の家で 赤ちゃんが生まれる。 母親は難産にために、亡くなる。生まれてきた赤ちゃんは しわだらけ、目は白内障だし、体中の関節は関節炎で腫れている。小さな醜い 気味の悪い老人にしか見えない赤ちゃんの出現に動転した父親は、赤ちゃんを養老院に捨てて、立ち去る。養老院で働く若夫婦は、信心深い 人格者で、赤ちゃんを 自分達で育てることにする。アフリカンアメリカンの母は、赤ちゃんをベンジャミンと名付けて、実子同様に可愛がって育てる。

ベンジャミンは やがて、養老院におばあさんを訪ねてやってくる ひとりの美少女 デイジーに恋をする。少女も、ベンジャミンおじいさんが 大好き。二人は、とても気があって、一緒にテーブルの下で、本を読んだり、仲良く遊んで過ごす。  やがてベンジャミンは、歩行器がなければ歩けなかった おじいさん時代から、壮年時代に入り、船員として職を得る。デイジーは、プロのバレリーナとして成功していく。舞台裏にデイジーの花束を届けに 会いにくるベンジャミンを 会うごとに若くなっていく姿に驚きながらも、デイジーはいつまでも心の交流を続ける。

その後、交通事故でプロのバレリーナの道を閉ざされたデイジーにとって、帰ってこられるのはベンジャミンのところしかなかった。ともに、30代のころの二人は、愛し合い、一緒に暮らして 幸せのいっときを共に過ごす。
デイジーが40代にはいって、子供向けのバレエ教室が軌道にのって、ますます幸せな生活に満ちているなかで、デイジーは 赤ちゃんを産む。ベンジャミンは、子供が育っていくに従って、自分が益々若くなっていくことに、不安でしかたがない。いつか、子供のために、身をかくし、父親らしい父親を見つけてこないとならないと、考えている。 そして遂に ベンジャミンは財産も何もかも デイジーに残して、消息不明になる。それから、また10年たって、、、、そのまた10ねんごには、、、というふうに、お話は続く。

時計職人が 時間が逆にまわる時計を作ったことがきっかけで、年とともに若返ってしまう一人の男の悲劇的な一生を、描いた作品。ありえないお話ではあるけれど、それを良い役者が演じていて、なかなか見ごたえのある映画だった。出てくるごとに 若くなるブラッド ピットが、スリルだ。テイーンのころもブラッド ピットの しわひとつない 可愛い顔、うーん、負けそう。本当に40代ですか?

ケイト ブランシェットの神々しいまでの、美しさ。透き通るような肌に、完璧なプロポーション。舞台でバレエを踊る姿も、レオタードの練習風景も、どの本物のバレリーナよりも、美しい。5年とか10年とかバレエを習っていただけでは、あれだけのテクニックを踊れない。この女優、なんでも、本物だ。3人の男の子のお母さんだなんて、誰が信じるだろうか。改めて、女優って すごい、、、と思う。うっとりケイトの姿ばかり、見ていた。

子供は親より早くは 死なないでいるということが、何よりの親孝行だ。どんなことがあっても、先に死ぬことは、許されない。この映画の時計職人が息子を戦争で亡くして 時間を止めて、過去にさかのぼる時計を作った気持ちがよくわかる気がする。

クリストファー リーのスーパーマンも、悪と戦っているうちに、恋人が事故死することを食い止められなかったが、そんな自分の非力を悔いて、地球を反対に回して、時間を過去にもどして、恋人を助ける。そんなことができたら良い。過去に帰って 謝りたい人や、やり直したいことがたくさんある。そういうスーパーマンも、続編を編集中だと聞く。楽しみだ。

2008年12月30日火曜日

映画「フォーホリデイ」




オーストラリアの人口は 2100万人。
日本の6分の1、アメリカの15分の1、EUの24分の1だ。

英国からの移民で成立して以来 積極的に移民を勧めてきたこの国では、クリスマスシーズンになると 国の半分ほどの人々が それぞれの国に帰国、帰郷してしまうので、街も道路もガラガラになる。

わたしは、クリスマスイブも、クリスマスデイも 大晦日も元旦も 仕事だ。職場まで10分位、普段は最も交通量の多いパシフィックハイウェイを走るが、このところ、車でヒップホップを踊り運転しながら走れるほど、道路は私だけのもの、行きも帰りも ひとつの車にも会わなかった。

文京区千駄木に住んでいた頃も、家の屋根に物干し台がこしらえてあって、東京のど真ん中のそこから 正月には雪を頂いた富士山が くっきりと見えた。通勤通学の車がなくなるだけで、東京の空気がきれいになったのだ。 クリスマス 年末に故郷に帰る習慣は、世界中 鮭が産卵のために川を登るように、自然なことなのかもしれない。

ハリウッド映画「フォーホリデイ」原題「FOUR CHRISTMAS」を見た。 リース ウィザースプーンと、ヴィンス ボーンのラブコメデイー。 心理療法士のケイトと、技師のブラッドは、恋人同士。愛し合っているが、結婚など、まっぴらごめん。二人が仕事をして、楽しく暮らせればそれが一番と思っている。ニューヨークに暮らすヤングセレブの典型的なカップルだ。

クリスマスホリデイには、みんなのように、「クリスマスは帰郷して親と過ごす」ということだけは、絶対にしたくない。南海の島に遊びにいこうと それぞれの親たちには 嘘の言い訳を作って、クリスマスに帰郷できないことにして、勇んで家を出る。ところが飛行場が深い霧に包まれて、すべてのフライトはキャンセル。飛行場で その姿をテレビニュースで、インタビューされて、全国にニュースで流されてしまったので、家族に嘘がばれてしまう。 仕方なくふたりは それぞれが離婚している両親4人を訪ねてクリスマスを過ごすことになる。

訪ねていった、ブラッドの父親の家では、ブラッドの二人の兄も来ていて、その兄達はブラッドを見れば すぐに蹴り上げ 羽交い絞めにして子供時代に いじめ遊んでいたままのことを いまだにする能しかない。散々、痛い思いをして、今度は、ケイトの母の家へ。
彼女はカルト宗教に凝っていて、祖母、母、姉の女ばかりの家庭に迎え入れられて 二人とも奇妙な宗教体験をさせられる。 次に訪れた ブラッドの母の家では、ブラッドの同級生で親友だった男が 母の愛人として暮らしている。クリスマス定例の食事やゲーム遊びの最中にも 二人ののろけ話を聞かされてブラッドの頭には血がのぼる。ケイトの父は孤独に、暮らしているが、ケイトの悩みを聞いてくれるほどの包容力はもうない。

どの家も、まともな家族など一人も居ない。楽しいクリスマスとは程遠いが、なんとか、ふたりとも 親のてまえ、社交上手にその場を切り抜けては、二人きりになったとき 大喧嘩になって、傷付け合う。 この映画のおもしろさは、初めは 親兄弟のことを忘れて、南海の小島に遊びに行くと、宣言して、職場の人からあきれられたり、うらやましがられたりしながら、完全に人々の流れから浮き上がっていた二人が、 ニュースキャスターにつかまって、嘘がばれたために、地獄に突き落とされる思いをするところにある。それだけはしたくなかった「クリスマスは両親と過ごす」 ということが、現実になってしまって、本当に地獄のようなクリスマスを過ごすわけだ。

帰ってみれば、故郷、年を取った親や、兄弟姉妹たちが、昔のままの姿で 心優しく 待っていてくれるわけもない。処は変わり 人は老いる。3組に1組は 確実に離婚するアメリカの「現在」は、こんなものなのだろう。 ラブコメデイーとして、単純で、ひねりも知性も品格もない。人を泣かせることは簡単だが、人を笑わせるには、哲学、知性、品格を備えていないとできない。帰って、新聞の映画評価を見たら、10分の4という最低の点数をもらっていた。

救いは、アカデミー主演女優賞を数年前にとった、リース ウィザースプーンが、とってもかわいい。相手役が、この暑苦しいヴィンス ボーンなどではなく、ジェイク ジーレンハッドとか、ロバート ダウニージュニアなんかだったら、素敵だっただろう。

2008年12月29日月曜日

OFFな私


DINTAI FUNG ディンタイフォンという台湾で有名なレストランが シドニーシテイーの中心 ワールドスクエアにオープンしたのが この5月。ニューヨークタイムズで絶賛されて 広まって日本にもチェーン店ができているらしい。 ジューシーな小龍包が、売りで 本当に美味しい。椅子に座ってから 結構待たされるのは、注文を聞いてから コックさんが具を丸めて包んで蒸すので、時間がかかるからだそうだ。ウェイターでなく、白い服を着たコックが、熱々の蒸篭をテーブルまで持ってきてくれる。

この店が出来た頃、同じ系列の経営の、ケーキ屋「85度」も開店した。
日本のケーキ屋さんにとても近い。きれいなケーキがずらりと並んだウィンドーを見ているだけで、幸せな気分だ。買わずに いつまでも嬉しそうに 見ているだけのわたしを いつも店の人は 変に思うだろうが、かまわない。 何故って 家に持って帰ることが出来ない。生クリームをふんだんに使ったババロア、プデイングなどは、日持ちしないので その日のうちに食べなければならない。10個以上買わないと 箱に入れてくれないので、それ以下では、持ち運ぶことができない。店のなかに、腰掛けて、食べて行けるスペースもない。
それに、夫は、伝統的な 固いパンのようなケーキしか食べないので、家に持って帰っても私しか食べる人がいない。大体、私が シテイーの人ごみに出かけていくのは 2ヶ月に一度くらい 古本屋「ほんだらけ」に行くときくらい。おのぼりさんのように シテイーに出れば 古本で重くなったバッグを抱えて 電車の乗り降りだけで ふうふう言って ケーキ持ち帰り どころではない。

その憧れのケーキ屋さん「85度」が、近所のチャッツウッドに 昨日オープンした。わーい、ばんざい。チャッツウッドの一番人通りの多いビクトリア通りの真ん中。昨日は すごい人だった。85%OF という 赤い広告の紙を 30人くらいの赤いシャツのお兄さんが 駅の前から配っている。85%OFって!!! 私はといえば、夢にまで出てきたケーキ屋さん、幻のババロア、コーヒーゼリー、憧れのクリームブリュレ、100%栗でできたモンブラン。それが85%のお値段ですか? 夢ではないかしら。
人ごみをかき分けて中に入るとパンも売っている。まあ、パンならば 生クリームやババロアが苦手な夫でも食べるし、冷凍保存しておくことも出来ると思い、トレイいっぱいのパンを持って、長い列のレジに。で、支払いのほうは、普通??? え? え?「85%OFF」ではなくて、「85%OF THE PRICE」だったのです。ということは、85%割引ではなくて、15%割引だったのでした。 当たり前か。考えてみれば。
見ていると、英語に弱い私だけでなく、買っている人 みんなみんな、支払いの段で、え? という顔になって、レシートを見ている。「OFF」と、「OF」を間違えるなんて。なんだ、赤ちゃんのころから英語で育った皆さん、あなた方が、夢中になってお店に押しかけて 狂ったように買いあさっているものだから、私まで、、、。
おい、オージー、 君の英語は大丈夫か? しっかりしろ。


家に帰って、顛末を話したら、「同じような 失敗をしたことがあるじゃない。」と夫に言われてしまって、思い出した。
毎週土曜日に 一週間分の食料を買いにショッピングセンターに行くが、その途中、ペルシャンカーペット屋さんがある。機械織りの大量生産した絨毯から、本物の手織りの家宝にするような 芸術品というようなじゅうたんまで、いろんなものを置いている。とても車の行き来の多い場所で駐車場がない。その店に行くためには 横に路上駐車するしかないが、2台分しかスペースがなく、いつもそこには車が駐車している。2台停まっている内 どれかが出て行きそうなとき、停まって それが出て行くまで待つと、両車線の沢山の車の流れを止めてしまうことになるので、心臓の弱い私には なかなかできない。

車の中からいつも 店先につるしてある絨毯をながめていた。ひとつは赤い機械織りの絨毯で、$50と大きく値札がついている。家では、同じような絨毯を テレビとソファーの間に敷いている。ねこが遊ぶので、端がほつれてきている。
すると、そのとなりに同じサイズで、白地にくすんだブルーと灰色の上品な とても手の込んだ模様の絨毯が70という値札をつけている。初めて店の前をと通ったときは、え? $70、、、と通りすがりに見て驚いた。次の週に前を通る時は、ゆっくり運転して 値段を確かめる。欲しい。どうしても買いたい。でも、車を停めることができない。ショッピングセンターに車を停めて 歩くには遠すぎる。 家に帰ると リビングルームに そのブルーの絨毯が広がっている様子が目に浮かぶ。来週こそは、どうしても、買わなければ、と心に決める。

そして、遂に その日がきた。テクテク歩いて、息をきらして、$70握り締め、とうとうやってきましたペルシャン絨毯屋さん。腹の出た店主、ニコニコして「マダム、あなたはラッキーね。70%OFFだから、たった$890だよ」と。 返す言葉もない。
となりの赤い絨毯は50の札がついて、$50だけれども、ブルーの絨毯は70の札がついて、70%値引きしても$890の代物だったのだ。

「OFF」 と「OF 」との歴然たる違い!
何度失敗したら、賢くなれるのかしら。 

2008年12月15日月曜日

映画 「オーストラリア」




オーストアリア国民の悲願で、完成させることが国家的大事業だった、映画「オーストラリア」が、遂に この12月に完成して劇場公開された。 2年前に、撮影のために アウトバックにあった本当の農場を借り切って映画作りが行われている ということで、国民は その仕上がりを今か今かと期待に胸を膨らませて 待っていたわけだ。1億3000万ドルかけて作られた 超大作、3時間の映画だ。いわば、オーストラリア版「風と共に去りぬ」。この映画を完成させることが国家的事業であったから、公開されて、観にいかないのは、国賊扱い、と言うわけだから観に行った。

監督:バズ ラーマン
俳優:ニコル キッドマン    
   ヒュー ジャックマン
ストーリーは 英国貴族アシュレイ サラ(ニコル キッドマン)は、新開拓地オーストラリア北部に 広大な牧場を所有していた。
その牧場は ベルギー一国ほどの大きさで、夫が管理している。しかし、サラは 夫がこの未開地に長らく留まったまま 帰ってこないので 業を煮やしている。彼女は、オーストラリアに行って、牧場など、処分して 夫を連れ戻してくるつもりでイギリスを発つ。

着いたところは、オーストラリア最北の港町 ダーウィン。ここで、サラは イギリス政府から派遣されている官庁の役人達の丁寧な歓迎など 素通りして、荒くれカウボーイのドローバー(ヒュー ジャックマン)の運転する車で 牧場に向かう。 しかし着いた屋敷でサラを待っていたのは 槍で襲撃されて死亡したばかりの 夫の横たわる姿だった。家には 年をとった会計士と、中国人の料理番とアボリジニーの家政婦がいるだけ。サラは 家政婦の息子ヌラ(ブランドン ウオルター)と友達になる。
会計士と話していて、わかったことは、牧場のマネージヤーは、ダーウィンの牛肉業界のボスの婿養子で、不正を働き、牧場の牛を計画的に盗んでいたことだった。サラはただちに マネージャーを首にする。しかし、それは、ダーウィンから遠く離れた牧場で サラが たったひとり孤立してしまうことを意味していた。 それを知ったサラは、カウボーイのドローバーに、すがって、1500頭の 牛をダーウィンに売却するため移動させて欲しいと、懇願する。20人のカウボーイが必要な牛の移動を 3,4人で、できるわけがない。彼は いったん断るが サラの窮状を見ぬふりで去ることができない。 また、アボリジニーの子供ヌラが 当時の白人同化政策のため、ミッションスクールに強制収用するため、連れ去られそうになっているところを 自分の子供として育てる決意をするサラを見て、ドローバーは、サラのために、人肌脱ぐことにする。

カウボーイのドローバーと、サラと、アボリジニーのヌラと 年老いた会計士、数人の身の回りの世話をするアボリジニー家族だけで、1,500頭の牛を移動させる過酷な旅は、苦渋を極める旅となる。不正をして解雇されたマネージャーは、執拗に追ってきて サラとドローバーの牛の移動を妨害する。何度も 死線をかいくぐりながら 少年ヌラと、それを遠くから見守るアボリジニー長老のキングジョージの不思議な 自然と一体化したようなパワーに助けられながら、遂に一行は、ダーウィンに到着する。 初めは、サラはイギリスから持ってきた絹のドレスや帽子などまでを持たせて移動していたが、荒々しい砂漠で、何度も命に関わる経験を経て自分がどんなに 世間知らずだったかを 思い知る。その過程で、不可能な旅を可能にしてくれた ドローバーのカウボーイとしての能力や 人間としての幅の広さを認識して サラはドローバーを愛するようになる。同時に子供が苦手だった自分が、孤児になったヌラを引き取ることによって 人間としても成長する。
サラはダーウィンに着いて 牛を売り払い、牧場を処分してイギリスに帰る予定だったが それを取りやめて ドローバーと二人で牧場を経営して ヌラを引き取って暮らしていくことを決意する。しかし幸せは長く続かない。日本軍が、パールハーバーを攻撃して戦争が始まった。ヌラは、警察に拘束され、ミッションスクールのある島に送られてしまう。サラが ダーウィンの市庁舎で、通信業務を手伝っているときに、日本軍の攻撃にあい、沢山の死傷者をだして、街は混乱し、人々はパニックに襲われて、あわただしく避難を開始する。サラも、死んだと、伝えられる。 混乱のなかで、ドローバーは 船に乗って ヌラが連れ去られたミッションスクールのある島に行き 爆撃から生き残ったヌラと他の子供達を 連れ帰ってくる。その途中で、日本軍兵士と銃撃戦になって、ドローバーは 自分の弟を亡くす。 ダーウィンに子供達を連れ帰ったドローバーとヌラの目の前に 市庁舎の崩壊とともに焼死したはずのサラが 立っていて、、、。というお話。

アメリカ ハワイのパールハーバー(1941年12月7日)では、日本軍によって 殺された人:2403人。171機の飛行機、21艘の船が破壊された。
1942年2月19日のオーストラリアへの攻撃では、たった5000人の人口のダーウィンで、243人が死亡、350人の負傷者が出た。

パールハーバーに比べると、ダーウィンでは、被害の規模は 少ないが 攻撃を全く予想もしていなかったため、人々の衝撃は、小さくなかった。60年たった、今でもダーウィンの住民による反日感情は大変強い。それは、事実。また、当時の日本軍の対外政策は間違っていた。日本軍はジュネーブ協定など無視して残酷非道なことをした。日本軍は悪い。これも事実。 しかし、だからといって 歴史にないことを映画で作ってしまっては いけない。この映画には 事実義認がある。日本軍はダーウィンを空から攻撃したが、いかなるオーストラリア領地も、占領していない。攻撃の直後に、陸軍がダーウィン付近の島に上陸して、ミッションスクールを探索したり、子供を救いに来たオーストラリア人を取り囲んで殺したりはしていない。 この映画は 世界大戦という激動の時代を背景にした、人間ドラマで、歴史スペクタクルなのだから、歴史にないことを作ってはいけない。調べれば 簡単にわかるような歴史検証をせずに シナリオを作ってはいけない。3時間ちかく、ふむふむ、と気分良くみていて、ここのところで、全くしらけてしまった。わたしは、こういう小さな嘘がきらいだ。

それにしても、雄大な北部オーストラリアの山々、川 そして砂漠。広大な大地。その中で アボリジニーの長老:キングジョージ(デビッド ウェンハム)が すごく良い。この俳優、たくさんの映画に出て、活躍しすぎて 一時酒と女で、悪い男だった時期もあったそうだが、いまは、枯れて 本当にアボリジニー社会で、裸で伝統的なブッシュ生活しているようだ。 今回の映画では、アボリジニーの13歳の少年ブランデン ウオルターが、断然スーパースターだ。ものすごく可愛い。まつげの上に重い万年筆を載せても落ちない。びっしり生えて、ながーい睫毛にぱっちりした大きな目。彼らが画面に出ると、デジュリドウーが鳴り出し アボリジニー風の音楽が流れて これがオーストラリアだ という確かな感覚がある。アメリカ映画で、インデイアンが 付け足しみたいに出てくるのとは かなり違う。この映画、アメリカでも公開されて、けっこう高く評価されているらしい。大画面で、観ても損はない映画だ。

2008年12月2日火曜日

映画「ビバリーヒルズ チャウチャウ」




デイズ二ー製作の映画「BEVERLY HILLS CHIHAUーCHIHAU」(ビバリーヒルズ チャウチャウ)を観た。
監督:RAJA GOSNELL
俳優:JAMIE LEE CURTIS     
PIPER PERABO    MANUELO CARDONA
彼は、もと腕利きの刑事だった。 しかし、ギャング達を追い詰めて、銃撃戦になったとき 相棒を死なせてしまった。以来、職に復帰する気も失せ、自堕落な生活をしている。法も裁きもない無法地帯で、飲んだくれてムショに放り込まれ 死罪処分になる寸前。これで あっさりこの世ともおさらばできて 地獄で相棒に再会できる と期待していた。 半分死んだような自分だったが、自分と同じように処分される少女が ムショに ぶち込まれてきたときに、心の中の何かが 変わった。何故って、世間知らずのさらわれて来た少女がふるえながら、彼に身を寄せてきた とあっては、無視できまい。おまけに、少女の首にかかっているダイヤのネックレスを狙って 殺し屋が追っ手をさしよこし、少女のまわりは、敵だらけ。そんな状況が、彼を再び男にした。

彼とはジャーマンセパード、少女とはビバリーヒルズ生まれのチワワだ。
殺し屋とは、ドーベルマンで、これがずばぬけて大型犬で 走るのも早くて怖い。ビバリーヒルズチワワの首を チョイとくわえて ビュンビュン走り去る。

ストーリーは
億万長者を主人にもつビバリーヒルズのチワワ:クロエは 毎日お散歩、プール、ヨガ、ジムを セレブ仲間のダックスフントやプードルやブルドッグ達と楽しんでいた。 ある日 主人が急に海外出張することになり、姪に世話を頼んで あわただしく発っていく。ちょっと頭の軽い姪は 大迷惑。女友達とメキシコに遊びに行く予定だった。姪は仕方なく クロエを連れて 友達とメキシコにドライブする。予定どうりパーテイーに馬鹿騒ぎばかり、、、ホテルに残されたクロエは空腹に耐えかねて ホテルを抜け出したところを 野犬狩りに捉われてしまう。 牢獄で、ジャーマンセパードやレトリバーやコリーやダルメシアンなんかと出会って 大型犬たちは 哀れなクロエの姿に発奮、反乱を起こし、全員脱獄に成功する。

ジャーマンセパードのデルガードは クロエにせがまれて、メキシコの砂漠を越えてアメリカを目指すが、実は、鼻がきかない。むかし、銃撃戦で相棒(人間)を失ったショックから 匂いがわからなくなって警察犬として お払い箱になった過去をもった犬だったのだ。殺人犬のドーベルマンの執拗な追跡をかわしながら、道に迷ってジャングルに踏み込むと そこはチワワ帝国だった。マヤ帝国ならぬ、チワワ王国に居住する何百頭ものチワワは圧巻。軽いアメリアッチの音楽にのって 何百ものチワワが踊って歌って、クロエを歓待してくれる。チワワはメキシコが原産地なのだ。 いろいろな経験をしながら、貨物列車の飛び乗ったり 追ってをさけて走る列車から飛び降りたり、遂に クロエが誘拐されて、殺される危機一髪のところで 鼻のきかないデルガードの 臭覚がもどり クロエを奪還。やれやれ、大変な苦労をしながら 遂に 必死で探しにきた 庭師とその犬に出会うことができ、メキシコ警察と姪に 保護される。ジャーマンセパードのデルガードは 無事 警察に復帰できることになって、ハッピーエンドというお話。

ムツゴロウの「子ねこ物語」は、大昔 観た。畑正憲が ねこと犬の冒険映画を製作するために 何時間もねこや犬が思い通りに動いてくれるまで ねばったり、猫が川に流されるシーンではスタッフが何日もずぶぬれになりながら撮影するなど、とても大変だった という。

動物に言葉をしゃべっているように 口を動かさせて そこに せりふを入れて物語を作るのに、最初に成功したのは「ベイブ」。豚の子のお話で これはオーストラリア映画だ。1995年 アカデミー賞では このCG アニマトロ二クスの特殊効果が評価されて アカデミー視覚効果賞が贈られた。以来、本物の動物を使って それらが人間のようにしゃべって 笑わせたり泣かせたりする映画が 続々と出てきた。

この映画でも よく調教された犬達が上手に演技をしていて、口を動かして、人間みたいに話をしているように見せているが 動作、表情が 会話に合っていて 本当に犬達が英語を話しているように見える。生きている本当の犬達なので、アニメーション映画とちがった 楽しさがある。 大金持ちのブルドッグやチワワ、殺し屋のド-ベルマン、警察官のジャーマンセパードという配役が 月並みだが 実にマッチしている。なかでもジャーマンセパードのドルガードが すごく良くて泣けてくる。

ジャーマンセパードを飼っていた。犬の中で 最も表情が豊かで、ちょっと叱られたとき、寂しいとき、満足しているとき、主人のご機嫌を取りたいとき、など、顔に出て 本当にわかりやすい。 動物を主人公にしたデイズ二ーのやらせ映画で夢中になってしまう というのは、いかにも愚かしいと思うが、ジャーマンセパードの懸命な演技に すっかり引き込まれてしまった。本当のことを言うと、「ジェームスボンド」とか、「オーストラリア」とか、インデペンデント系の人の生き方を問うような こむずかしい映画よりも こんな映画が好きだ。
犬は良い。見ているだけで時間を忘れる。 犬には私心というものがない。いつも目は主人だ。主人の喜びが犬の喜び。懸命に主人の心に寄り添おうとする。人は悲しいとき、声を出さない限りだれにもわかってもらえない。しかし犬は人が悲しみをじっと耐えているとき そばに来て 懸命に悲しみを共有しようとする。

映画で 犬達は 俳優達と一緒に飛んだり跳ねたり 演技をしているが、その俳優達の背後にいる調教師がいて、その人の命令どうりに動いているだけだ。犬の目をよく見ていると カメラの後ろや、俳優達の背後から指示している調教師の姿がわかって、映画を観る楽しさにプラスの愉快さがある。ドッグラバー必見の映画だ。

しっかりした頼りがいのある肩 太い足腰、美しい緑色の目、鼻筋の通ったバランスの良い顔、美しい耳、柔らかそうな体、立派に張り出した胸、賢そうな姿、美しい毛並みのドルガードにぞっこん 惚れてしまったゼイ。 

2008年11月27日木曜日

映画「007 慰めの報酬」


007ジェームスボンドの新作映画「QUANTUM OF SOLACE」(邦題:慰めの報酬)を観た。
監督:マーク フォースター
主演:ダニエル クレイグ

映画ボンド シリーズも この50年間のあいだに22作。原作者のイアン フレミングは とっくの昔に 故人。にもかかわらず 一人の主人公を中心に 物語が50年もの間続いてきて、毎回 最高の観客動員数を記録しているのは、映画界でも前代未聞のことだ。

英国女王陛下 じきじきの 秘密護衛組織のジェームスボンドは不死身で強くてハンサム。教養がありユーモアのセンスは一流、殺しのライセンスを持ち、最新兵器を駆使して女王のために悪と戦う。世界中を駆け巡り 世界中の美女を渡り歩く。
ショーンコネリーの においたつばかりの男臭さ。
ロジャームーアの華麗でゴージャスな姿。
ピアース ブロスナンの優雅でオシャレな立ち振る舞い。 それぞれのボンドには それぞれの良さがあった。

新作で、新しいところが二つ。 ひとつは あのゴールドフィンガーの有名な主題歌が初めに出てこなくなって、主題歌が変わった。ジャック ホワイトと、アリシア キーズが、新しい歌をデユエットしている。 もうひとつの新しいことは、今までボンドシリーズは、毎回一回きりで話が完結していたが、今回は、前回の「カジノ ロワイヤル」の続編 という設定だ。

前回で、ボンドはミスターホワイトという謎の組織に イギリス政府の秘密資金を奪われ、マネーランドリングされているところを カジノで奪い返す。しかしせっかく奪還したお金をボンドが恋に落ちた愛する女(エバ グリーン)の裏切りで 再び奪われてしまう。 新作映画は ボンドが黒幕のミスターホワイトを 派手なカーチェイスの末 誘拐して本部に引き立ててくるところから 始まる。

一味の資金源を洗っていくと、ハイチにいたる。ボンドは ハイチで、QUANTUMという 環境保護団体に出会い、その元締め グリーン(マチュー アマルリック)という実業家が 世界中の資源物資をコントロールする野望をもっていることを突き止める。グリーンは国外追放されているボリビアの メドラノ将軍を買収し 将軍の後ろ盾になっているCIAと、イギリス政府を欺いていた。

ボンドは グリーンを追っているうちに 偶然、ボリビアの美しい娘:カミラの命を助ける。カミラはメドラノ将軍の圧政下で 人権派だった両親、兄弟をすべて惨殺されて、復讐に燃えている警察官だった。ボンドとカミラは グリーンとメドラノ将軍を 追い詰める。その過程で、ボンドは 古い親友を亡くし、英国政府のエージェントを知らずに殺してしまった為 英国政府への忠誠心を疑われ、資金源を絶たれる。そんな不利な中でも、カミラと共に、敵を倒し、最終的にはボンドの最愛の女を死に追いやることになった男をエージェントに引き渡して、任務を完了する。ボンドの忠誠心を疑った 組織のボス(ジュデイー デッチ)は ボンドに留まるように 言うが、ボンドは「まっぴらごめん、アバヨ」と立ち去る。というところで、お話はおわり。

今、イギリスでトップの稼ぎ手、ダニエル クレイグ、ブロンズの007は 今までのボンドとちょっと違う。恋などに溺れないはずのボンドが 完全に一人の女に 惚れてしまってエージェントの仕事から足を洗う決意をする。そんな女に裏切られてからは、夜眠ることができずにいる。いつものドライマテイー二を何杯重ねても 酔うことが出来ない。男として弱点を持った きわめて人間的なボンドだ。

ダニエル クレイグのいたずら小僧というか やんちゃ坊主のような顔が良い。短距離走者と同じ走り方で 逃げる敵をどこまでも すごく真剣な顔で走る姿も良い。親友を失うような悲しいことがあったとき、唇をキュと、引き締めるが 目の表情は変わらない。今までのボンドになく、ダニエル クレイグのボンドにあるものは 女性の母性本能を刺激するところかもしれない。パーフェクトマン、スーパーヒーローにしては、可愛いのだ。

ただ、今回のボンドにないものは、ユーモアとウィット。失意のどん底にいるボンドだから仕方がないのかもしれないが、ロマンスもない。最新のファッションに身を包んだ美女のボンドガールが次々出てくることもない。
カミルは、失意にあるボンドに 惚れはしない。任務が終わって ボンドを振り向くこともなく去っていく。

今までのボンドと同じところは、アクションの連続、何度も繰り返される派手なカーチェイス、よじ登ったり、飛び降りたり ガラスを割り、爆破し、ハイチ、イタリア、オーストリア、ボリビア、ロシア と、めまぐるしく移動しながら バイク、車 ボートを操縦し、飛行機も操縦し、挙句の果てにパラシュートなしで 飛行機から飛び降りる。 大変な、やんちゃぶり。

さて、最後、ボスに シェーン カンバーック「帰ってきて」と、懇願されたのに、潔く立ち去ってしまったボンド。映画シェーンの幕切れみたいな終わり方をしたが、本当に、このままボンド、失業してしまうのかしら?

2008年11月19日水曜日

ロンドン 成田 シドニー




ロンドン最後の日も快晴。本当に運が良い。
オックスフォード通り、リジェント通り、ボンド通りを何度も繰り返して またまた散策。日本の「MUJI」無印良品と、「ユニクロ」がいくつもある。ユニクロは、「ユニキュウーエロ」と発音しているところがおもしろい。

中に入ってみると ロンドンっ子や外国の観光客から人気がある理由がよくわかる。服も、文房具なども、共通して、デザインが良く、シンプルで、色がきれい。品質も良い。店の外観は、オシャレで 現代的で 高級感がある。下着も 日本のユニクロでは白と黒とグレーしかないものが、明るい青、空色、草色、緑、オレンジ色など、たくさん きれいな色であふれている。

ロンドンからシドニーに帰る途中 成田に寄ったが、成田第二空港のなかにあるユニクロは どうしてあんなに ごちゃごちゃで田舎くさいんだろう。デイスプレイが 大事でしょう。下着の色も白、黒、グレーでは うつ病にでもなりそう。下着こそ 目の覚めるような色、デザインで、自分だけのおしゃれを楽しまなければ。せっかくユニクロは 100%木綿でよい素材を使っていて、着心地も良いのだから 美しく並べて、しっかり購入意欲をかきたててもらいたい。しっかりしろ。日本のユニクロ。ユニキューエロに 完全に負けてるぞ。

オックスフォード通りのリッツホテルの前に 和菓子屋さんがあった。毎日飛行機で作りたてを空輸しているそうだ。串だんごも 草もちも 大福もおせんべいもある。ロンドンに住む人が 急にうらやましくなる。こんな店がシドニーにあったら、どんなに良いだろう。串だんごは1ポンド、と安いのに、「ここで食べて良いですか」、と聞いたら、ちゃんとお茶を出してくれた。感激して泣きそう。

そうこうしているうちに、時間がせまり、地下鉄でヒースロー空港に向かう。
シテイーからヒースロー空港までタクシーで70ポンド、ヒースローエクスプレス電車で18ポンド、地下鉄だと3ポンド。料金を考えると地下鉄を使わない手はない。ロンドンのチューブと呼ばれる地下鉄は 便利で安いが日本の地下鉄の並みに 沢山の線が入り組んでいて、乗り換えも多く、また、どの駅も地上から降りるのは階段で、エレべーターは限られている。2012年のオリンピックはロンドンだそうだが、それまでに地下鉄各駅にエレベーターを取り付けなければならなくなって 大変だろう。もうすでに工事が始まっているところもある。
すっかり重くなったスーツケースを抱えて、階段を降りようとしたとたん、「お手伝いしましょう。」と、二人のハンサムな青年から 同時に声をかけられる。わーい。どっちの人にてつだってもらおうかなー。うれしや、レデイーファースト 紳士の国。

ヒースロー空港の 消費税払い戻しの窓口に並ぶ。150ユーロの買い物をしたので、15ユーロ返してもらうだけなんだけど、私の前の若夫婦が、払い戻しを長時間待たされている。担当官がハロッズに確認の電話をかけているという。頭にきて この若夫婦と一緒に、だーかーらー税務署の奴らって、、、と担当官の悪口をいいつのって時間をつぶしていたら、ついに担当官がやってきて札束をやおら 数えだして2500ユーロ 窓口に叩きつけるようにして 若夫婦に渡していたのにびっくり。いくら買い物したのかしら、、、数えるのに指が足りない。2500ユーロ還元されたということは、25000ユーロ 600万円の買い物を 今日ハロッズで したことになる。やっぱり、アラブのお金持ちは すごい。

ヒースローから成田へ12時間のフライト。成田でシドニー行きの飛行機を待つ間、日本の雑誌と、来年度の日記帖を買う。待合室のマッサージソファにすわる。200円で たっぷりマッサージしてくれるので止みつきになりそう。これで、お茶と羊羹でも出れば言うことないわい。

成田からシドニーには 10時間のフライト。 シドニーからロンドンに行くときに 座席についているDVD映画は1本残らず全部見てしまったので、帰りは観るものが無くなって、退屈極まりない。 シドニーには 朝着いた。2日がかりでロンドンから帰ったことになる。

3週間の休暇をおつきあいしてくれた長女
ありがとう。
2年前に6週間かけてヨーロッパを巡ってきたばかりなので と今回は 留守番役になってくれた次女 ありがとう。

写真1:ヒースロー空港
写真2:リッツホテル

再び ロンドン







今朝は早くから快晴。
オックスフォード通りのホテル、ホリデーインから歩いてグリーンパークを越えて バッキンガム宮殿へ。 ロンドンは毎日雨で寒くて 夕方からは厚い霧が出て、レインコートに傘が手放せない というはずだったのが、毎日シドニー顔負けの青い空、汗ばむほども晴天続き。

バッキンガムの名物 衛兵の交代を見物してバチバチ写真を撮ってから、セントジェームズ公園を歩き、セントジョーンズ宮殿や プリンスチャールズのいるクラレンスハウスからアドミラルアーチを越えて、また、しょうこりもなく三越でランチ。デパートで買うほどのものは 何もない。

フォートナム&メイソンに行く。1707年創業の 食料品専門店。勿論 紅茶を買う。ロンドンに行くと人に言うごとに、ここで紅茶を買ったら良い という親切なアドバイスを100人くらいの人から言われた。イギリスは紅茶の産地と言うわけじゃないのにね。 むかしむかし、インド、スリランカを占領していたときに紅茶を作らせていただけでしょう。しかし、イギリスにとって紅茶は特別の意味があるのだろう。

かつての大英帝国時代、朝のお茶は、解毒剤でもあった。イギリスは小さな船で7つの海を制覇して インドをはじめアジアやアフリカの国々を支配下においては 政府の高官を送り込んでいた。未開地を植民地化することは、疫病との闘いでもあったから、強力なタンニンを含有するお茶がイギリス人にとっては なくてはならない解毒剤だったわけだ。そんな時代からの慣習に敬意を表して、イギリス人の紅茶をいくつか買う。見ていると、上品なスーツ姿に、ちょっと時代遅れの帽子を被った老婦人が杖をついて 紅茶を求めていくところだった。なるほど、なるほどね。イギリス史の生き証人か。

午後はライシアム劇場でミュージカル「ライオンキング」を観る。 シドニーで見逃していて、ずっと気になっていたのが やっと観られる。舞台から3番目の真ん中というベストシート。インターネットで良い席を取ってくれた娘に感謝。観客席から象やキリンや鳥が登場してきたり、二階席にドラムやボンゴを配置して音の多重音響効果を出したり、意表をつく舞台造りが 楽しい。歌も、エルトン ジョーンズの音楽も良かった。

デイズ二ー作品ということになっているが、この作品は手塚治虫の「ジャングル大帝」のコピーだ。
このジャングル大帝レオは サバンナの王として、密猟者から動物達を守り、水源を確保し、肉食動物には必要最低限の食料確保をする以外のハンテイングを止めさせた。そのことによって種の維持や サバンナの安全を配慮したが、それはそのまま手塚治虫の自然観でもある。彼はもともと医師で、虫の研究者でもあった。自然への敬意、畏怖の気持ち、人の生きかた、家族の信頼 友情などを 若いライオンの成長を通して 読者に熱心に語りかけたのが、「ジャングル大帝」だった。
手塚治虫のヒューマニズムに基ずいたストーリーテリングが 後に続く若い漫画家や映画制作者に多大な影響を与えている。

ミュージカルを観た後は、娘の大学時代の友達と待ち合わせ。
やってきた青年は ロンドンのドイツ銀行に勤めているそうだ。この好青年に案内されてレストラン「わがまま」の姉妹店で 今とても流行っていると言う「TENTEN MOON」と言う店で 夕食をご馳走になる。インドネシア料理で ものすごく辛い。 口を開けると火が吹き出しそう。

青年の後について、リージェント通り、ボンド通り、ソーホーのチャイナタウン、ゲイばかりの集まる界隈、どんな好みでも必ず望みの街娼が手に入るという一角など、オタクしか知らないような裏路地まで 見物させてもらって、なんか、真夜中の大冒険をしたような気分。 
最後にテムズ河にかかる橋から、大観覧車のロンドンアイの夜景に歓声をあげて、夜風がビュ-ビュー吹き荒れるなか、写真をとって、青年とシドニーでの再会を約束して、さよならをした。今夜はよく眠れるはず。


写真1:バッキンガム宮殿前
写真2:トラファルガー広場のネルソン像
写真3:アドミラルテイ アーチ

2008年11月16日日曜日

パリからロンドンへ




後ろ髪引かれる思いでパリを後にして ドーバー海峡を渡る。

船内の乗客を見ていると おもしろい。いかにも東欧からロンドンに出稼ぎに行くらしい青年達。どことなく30年前に流行ったような服装、垢抜けなくて 鋭い眼光 粗野な雰囲気をしている。 同じような感じの逆に ヨーロッパで稼いでイギリスに帰っていく若者たち。船内の免税ショップに押しかける旅慣れない 田舎びた人々。岸を離れても それが見えなくなるまで じっと見つめている青年はフランスに何を残してきたのだろう。かと思うと 船内のスロットマシンに直行してギャンブルに目の色を変える人々。バーでさっそく飲み始める男達。 さまざまなものを抱えて 船で国境を越える人々の様相が 飛行機で旅する人々と 全然ちがうので興味深い。

簡単な昼食を船内で取って ツアーの人達とおしゃべりする。ロンドンに着いたら この人達ともお別れだ。2週間共にヨーロッパの国々を歩き回り、共に食卓につき パンを分け合った。名残惜しい。 南アフリカからツアーに参加した中年夫婦は新婚旅行だ。フィリピンからの若夫婦は 億万長者の放蕩息子とその新妻。カナダから2組の中年夫婦は、4人で固まって、初めから最後までフレンドリーではなかった。オージー女教師とアメリカ人の夫婦とは 一番気が合って よく行動を共にした。アメリカ フロリダから参加した2人の中年女性はどちらも体重100キロを越えていて、文字通りどこに行ってもお荷物だった。バチカンでもルーブルでも歩けなくなって、車椅子を 初老のツアーの男達に押してもらっていた。シンガポールから買い物に来ていた夫婦。そして 5組:10人のオージーたち。ブリスベン、メルボルン、クイーンズランド、そして私達を含めてシドニーなど様々なところから来ていたが 会ってすぐ親友みたいに仲良くなって助け合った。

ツアーに参加した 南アフリカ、フィリピン、カナダ、アメリカ、シンガポール、オーストラリア と、6カ国に人々が一緒に2週間 旅行してみて、印象だけでレッテルを貼ってみると、個人主義で他人が立ち入れない南アフリカ人、お気楽フィリピン人、エゴイストで田舎者のカナダ人とアメリカ人、お金の話しかしないシンガポール人、ということになる。 今回のツアーでオージーが一番多かったが、嫌な人は一人も居なかった。みな、社交上手で紳士的、女性は気さく世話好き、気取りもてらいもなく本当にみな良い人達だった。改めて、オーストラリアで暮らしていて、特に問題も不都合もないのは 人々が ニュートラルで マイルドだからだ と思い当たる。 特に強い個性をもった 激しい主張があるわけでなく、言ってみれば没個性。人が良くて誰とでも合わせられる、適応性豊かなところがオージーの国民性と言って良いのかもしれない。 家でも、オージーの夫と話をしていて、私の言うことを夫は必ず同意する。異議を唱えたことは一度もない。議論好きで デイべートならドンと来い、の私には 何でも同意されると歯がゆい。しかし、考えてみると、これが自然環境の厳しい、国土の85%が砂漠か荒野で、大きな国土の割に 僅かの人口で 人は誰とでも助け合って行かねば生存できなかった移民の国オーストラリアの人々の 生きる知恵なのかもしれない。

何となく感傷的な気分で、バスに揺られたあと、ロンドンに着いて、あっさり皆と別れる。
街の中心、ホリデーイン メイフィールドに投宿。娘と二人きりになる。夕食の時間になって、もう 好きなものが食べられる。すしだ。スシだ。寿司だ。絶対すしだ。このさい、うなぎとかそばとか刺身とか天ぷらとかの代替食では 絶対許容できない。断固として寿司 妥協なしの寿司だ。地図を見ながら、三越に向かう。自然、早足。そして大食い。

そこから地下鉄に乗り、デパートのハロッズに行く。夜8時半まで開いているのが嬉しい。何となく ツアーのスケジュールから解放されたからか、はしゃいだ気分になって、ハロッズの古風なエスカレーターを上ったり下ったり 果ては用もないのにトイレに入ってみて写真を撮ったりしてみる。 ハロッズのグランドフロアの化粧品売り場は 品ぞろえが豊富で メーカーも揃っていて、初めて見る香水や化粧品なども沢山あって楽しい。何より感心したのは 売り子が皆 すごく美形なのに、にこやかで、フレンドリーで親切で丁寧で品があることだ。 どの売り場も外国人客とか、イギリスでも地方から来た人とか、アラブの大金持ち家族とかで いっぱいだ。
ハロッズの名前のついたコーヒーカップとか買い物袋とか、贈答用チョコレートとかに群がっている。 小さな買い物をしたあとで レジのお姉さん、「お帰りの出口はお解かりですか?」だって。そんなもん、代々親譲りの方向音痴、わかるわけないでしょう。返事を躊躇っていると にこやかに ちゃんと一番近い 駅に行く出口を教えてくれる。親切に感激。売り子さんは、こうでなくちゃあね。ロンドンの田舎物は私達だけじゃないんだ ということも判って安心する。 ちょっと化粧が上手だからって、ツンとお高く留まっているシドニーのデビットジョンズの 頭が空っぽの売り子達、きみ達、本場ロンドンのハロッズで接客のイロハを学んできなさい。 などと、毒を吐いてみる。

2008年11月9日日曜日

パリ ヴェルサイユ その他







パリに着いた日は、ルーブルで 閉館の夜10時まで過ごした。中のカフェで遅い夕食も食べて、良い時間を過ごした。

翌日、一日で ヴェルサイユ宮殿、アンヴァリッド ナポレオンの墓、エッフェル塔、凱旋門、コンコルド広場、シャンデリゼ、パリオペラハウス、エリーゼ宮殿、ノートルダム寺院を見ようと言うのだから、気狂いじみている。しかし、ガイドに付いて できるだけのことをするしかない。一日は24時間しかないのだから。

ヴェルサイユ宮殿
1682年 フランス王ルイ14世が建てた部屋数2000の宮殿。パリ南西22キロ、イベリーヌ県ベルサイユにある。バロック建築の代表作。ルイは自分の治世の栄華を示す為に これを建設、大理石や金箔を施したブロンズを用い、特に高価だったガラスをふんだんに使って豪華なシャンデリアを沢山作らせた。
このルイ14世はアポロン:太陽王といわれ 芸術を愛し、芸術家を育成した。バレエの歴史は 彼ぬきにして語れない。自身がバロックダンスや バレエの立派な踊り手だった。バレエ学校を作り踊り手を養成した。また作曲家、ジャン バデイスト リュリの歌も上手に歌った。そして王室音楽アカデミー:今の国立オペラ座を設立した。 ヴェルサイユ宮殿に ルーブル宮殿から移るとき、ルーブルにアカデミーを創立し古代美術の研究を奨励した。まさにフランス王アポロンは芸術の父だった。

彼の治世は1643年の5歳で王位を継承して以来 1715年に亡くなるまで72年間続いた。死ぬ前 意識がしっかりしているうちに ひ孫のルイを呼び王位を継承させた。以来 ベルサイユには ルイ14世、ひ孫の15世、ルイ16世が暮らした。 1789年10月6日、ルイ16世が 宮殿に侵入した市民、群集の求めに応じて家族と共にバルコニーに立つことになる。

見学は、ヘラクレスの間から始まり、王の広間、王の寝室、閣議の間、王位の間、大広間など、17の部屋を 見て回る。部屋ごとに飾られる、調度品や絵画などや、美しい天井画や壁画など、興味深い。「鏡の回廊」が一番 シャンデリアが並んでいて豪華で美しい。 そして、庭の広いこと。花壇と庭園と、噴水と彫刻。素晴らしいが全部歩ききれない。これで入場料6ユーロは安い。若い人のデートのもってこい。朝早くから歩いて部屋を見て、庭をゆっくり見て回るのに夕方までかかり、夜は噴水が一斉に水を放つショーがあるそうだ。

アンヴァリッド、ナポレオンの墓
アンヴァリッドとは肉体的欠損者という意味で、ルイ14世が戦争負傷者を収容するために建設された病院だった。太陽王好みで壮大、華麗な建物。教会があり、地下にナポレオンの墓 というか、棺がある。棺の外ふたは赤班岩、台座は花崗岩。棺の周りには12対の女神が立ち、これはナポレオンの遠征を象徴している。遺言が刻まれている。 「余は余がかくも愛したフランスの市民に囲まれてセーヌ河のほとりに憩うことを願う。」と。改めてフランスの歴史にとって、ナポレオンがいかに大きな位置を占めるか 認識させられる。
この建物の中のカフェでランチを食べる。いつもながら大学の学生食堂みたい。自分で冷たいマカロニとコカコーラを盆にとって 支払いしている間にそれを暖めてもらって 味気ない簡易テーブルで食べる。値段だけは高級レストラン並み。18ユーロ。

エッフェル塔
1889年、パリ万博のために建設された。20年後に通信塔として活用されることに。鉄骨の脚の中を 斜めに登るエレベーターで二階まで上がる。見下ろすと タワーの前の陸軍士官学校までの公園が美しい。後ろではセーヌ河をはさんでシャイヨー宮が はっきりと見える。モンマルトルの丘は 遠くかすんで見える。
このときは知らなかったが、決まった曜日だけ、夜10時から10分間だけ、青いイルミネーションで塔が飾られる。とてもきれい。ガイドがちゃんと時間を計って、事前に連れて行ってくれたので 見ることができて 幸運だった。

凱旋門はバスで見ただけ。コンコルド広場は ちょっとだけ歩いた。エリゼ宮、国立パリオペラ座もバスの中からみただけ。
特に残念だったのは、ノートルダム寺院まで通り過ぎただけだったこと。ノートルダムでナポレオンが戴冠式をあげた。ビクトル ユーゴが小説「パリのノートルダム」を書いた。「ノートルダムのせむし男」は、読んだし、映画でも、オーソン ウェルズが演じたのを見て、感動した。寺院の中に入れなくても、建物の前に立ってみたかった。

パリ最後の夜は モンパルナスのキャバレーで食事。113ユーロ。ボネーラ エリーというキャバレー。このごろのキャバレー「ムーランルージュ」は、世界中からお客が押し寄せるので、ショーの質は落ちる一方、酒はガソリン並みの味、料理は冷凍食品、という。どうしてもムーランルージュに行きたい人は行くが、良い料理とショーを楽しみたい人は 別の店に行くというので 当然良いメシの方について行った。 沢山の踊り子たち、中でも踊り子で歌も歌うスターの歌手、手品、アクロバット そしてフレンチカンカン。本当にきれいで楽しいショーだった。
食事はシャンパンにフォアグラ、サーモンと野菜。ワインの飲み放題に、デザートもついて、サービスも申し分なかった。 だた、これが パリ最後の夜かと思うと、あと1週間は留まりたい、と、実にじつに せつない。
写真1:エッフェル塔
写真2:アンヴァリッド ナポレオンの墓
写真3:ベルサイユ宮殿入り口

2008年11月8日土曜日

パリ ルーブル その3







絵画で 印象深かった絵のひとつに ジャン ルイ ダヴィッドによる「ナポレオンの戴冠式」(SACRE I’EMPEREUR NAPOLEON)がある。
1806年ー1807年。カンバス油彩 縦621CM 横979CM。ナポレオンの妻 皇后ジョセフィーヌの戴冠の様子を描いた大作。191人もの人物が描かれている。ジョセフィーヌが とても美しい。そのジョセフィーヌは ローマ法王からでなく、夫の手から冠を授けられている。絵の中に ローマ法王 ナポレオンの母、ルイ ボナパルトとその息子も描かれている。後に、この絵に ヒットラーが異常に関心を示し、執着したという話もうなずける。まさに権力と それの持つ甘美、自己陶酔が描かれていて、ナポレオンが この絵をどんなに誇らしく感じていたか 想像できる。

「メデイユーサ号の筏」(RADEAU DE LA MEDUSE)。1818年ー1819年。テオドール ジェリコ作。カンバス油彩。縦491CM 横716CM。 1816年アフリカで起こった実際の事件を題材にした絵。 フリゲート艦メデイユース号が難破して 筏の上に149人の遭難者が避難。救出されるまでに、大半が飢餓のために死亡。救出されたときは15人しか生存していなかった悲劇的事故。この絵は 救出船が到着する希望に満ちた瞬間を描いたもの。
昨日のニュースで11月7日に ドミニカから生活苦のため、プエルトリコにボートで越境しようとした たくさんの人々が ボートのエンジン故障のため 2週間あまり漂流したのち、4人の生存者が カニバリズムをして命ながらえ救助された と報道していた。 メディユーサ号でも同じことがあって、センセーショナルな事件として取り上げられたことが ジェリコに創造意欲をかき立てた と言われている。子供のとき、画集でこの絵を見て、カニバリズムの話も聞いて、しばらく怖くて眠れなかったのを憶えている。今考えてみると、そんな話を小学生の子供に平気でしてくれたシュールでリアルな家庭で育てられたことに感謝しなければならない。

「モナ リザ」(JOCONDE)。レオナルド ダ ビンチ作。
1503年ー1506年 油彩。縦77CM,横53CM。 リザ ゲラルデイの微笑の絵。ルーブルの話をしていて、モナリザに触れないで居ると偏屈物と思われかねない。一番人気で 誰もがモナリザを見にルーブルに来る。防弾ガラスのケースに入って 近つけないような柵で守られているのに 人々はモナリザと一緒に居る写真を撮るために 押し合っている。これも子供のときに日本に来て、母に連れられて見にいった。画集で見るより小さくて 暗い絵のタッチに なんだ と拍子抜けしたのを憶えている。 ダ ビンチは偉大だが、彼の絵は好きになれない。

数少ないルーブルのダ ビンチの作品のひとつに「聖アンナと聖母子」がある。 聖アンナは 聖母マリアの母。この絵では3世代、アンナとマリアとイエスが描かれている。アンナの膝に イエスを抱いたマリアが座っている。まるまる太ったイエスを抱いたマリアを膝の乗せているのだから、アンナは、さぞ重かろう。しかしアンナもマリアも幸せで恍惚の表情をしている。解説によると 聖アンナは安定の化身で、イエスは自ら十字架に犠牲になる象徴として子羊に足をかけている のだそうだ。 彼の絵には、象徴、謎とき、秘密 クイズ、アイロニー、と彼自身の自己満足が多すぎる。難解すぎて、ダン ブラウンを読みながら 画集を見るなら面白いかもしれないが、それ以外の目的のためでは、おもしろくない。

写真1:ナポレオンの戴冠式
写真2:メデゥーサ号の筏
写真3:聖アンナと聖母子

パリ ルーブル その2







ルーブルで見たものの内、絵画より彫刻が素晴らしい。
絵に比べて より立体的で、紀元前3000年のものであっても 全く古びていなくて新しい。 躍動感があって、ダイナミックだ。  「サモトラケのニケ」(勝利の女神)が一番好きだが、ルーブルの彫像といったら、まず「ミロのヴィーナス」だろう。

ミロのヴィーナスは 紀元前2世紀後半 130年頃の作とされている。1820年 オスマントルコの統制化にあったエーゲ海のミロス島で 見つかった。大理石ででき、高さ、204CM.王冠を被り イヤリングをした愛と美の女神像だ。「サモトラケのニケ」を動の美としたら、「ミロのヴィーナス」は静の美だろう。女神の均整の取れた体 成熟した女性の知性と気品に満ちている。

この像は、1964年に日本に来て、一般公開された。場所は覚えていないが 子供だった私は母に連れられて、見にいったのを憶えている。母は、79歳で死ぬまで フランス語を勉強していた。子供達が独立し家を出てしまったあと 二回ほどツアーで フランスを旅行した。旅行中、言葉に困ることはなかっただろう。
大正生まれのモガ:モダンガールで、屋根のないオープンカーで銀座を走り回ったり スカート姿でスキーをしていたり、テニスに興じていた若い頃の写真がある。料理しながら、いつもシャンソンを歌っていた。 しかし、母は 一度目のフランス行きで ツアーは、ルーブルを何故か素通りし、二度目のフランス旅行でルーブルを見ることを 楽しみにしていたのに、当日、テロの恫喝電話があったため、ルーブルが閉鎖されていて、このときも見ることが出来なかった。悲しかっただろう。どんなに中に入りたかったことだろうか。門の前で悄然としている 母の姿が目に浮かんできて、たまらない気持ちになった。

「タニスの大スフィンクス」 これもすごい。紀元前2620年ー2500年の作品。花崗岩で出来ていている。縦183CM、横480CM,高さ154CM。
エジプトのスフィンクスはライオンの体と王の頭を持った「生きる王の像」だ。紀元前2620年にピラミッドやスフィンクスを作った人々の洗練された美意識の高さ 文化の高さ、これを見ると人の歴史の素晴らしさ、美を求める人の真摯な姿に泣きそうになる。キリストが生まれる何千年も前に、人々が完全な美と強さを求めて スフィンクスなどの作品を製作し、その人々の生きてきた延長線上に 私も居るのだと思う。いずれ、人は死に絶え、いずれ地球は滅びる。しかし 生きてきた人々は 紀元前何千年も前から 芸術を愛し、美を追求し、美しいものを紡ぎ出してきたのだと思うと、生きていることを無駄にしてはいけないと思う。

「瀕死の奴隷」(ESCLAUES) 1513年ー1515年、ミケランジェロの作品。 イタリアのフロレンス、アカデミア美術館で ミケランジェロの 未完の4体の奴隷の像をみて、印象深かった。それぞれが未完ながら 力強い生命力や 人の苦悩、怒りそして嘆きに満ちていて、忘れがたい像だった。ここルーブルでも彼の奴隷の作品を見ることになった。どうして、ミケランジェロは奴隷の姿を執拗に描いたのだろう。どうして貴族でなく、女でなく。ミケランジェロの生涯を書いたものを 読んでみよう。

写真1:タニスの大スフィンクス
写真2:瀕死の奴隷
写真3:ミロのヴィーナス 

2008年11月7日金曜日

とうとう パリ、ルーブル







スイスを後にして、とうとうフランスに入る。
朝早く、スイスのルツエルンを発ったのに、パリに着いたのは もう夕方。うす闇が下りている。パリ セーヌ河を見ながら 時間が惜しくて、気がはやる。ホテルは プルマンホテル。

地元のガイドに合流して、バスでルーブルへ。水曜だけ、ルーブルは夜10時まで開館していると聞いて ほっと安心する。バスは地下の駐車場に入る。そこから、歩いて前に進むと 広場に出て 三角形のガラスのピラミッドの底に迎えられる。入場料6ユーロ。

ルーブル美術館は 世界で最も大きな美術館のひとつ。 紀元前8000年から1848年までの作品を網羅している。ルネッサンス期には 居城だった。ルイ14世が ベルサイユに引越しするときに、初めて個展美術の研究をする場としてルーブルアカデミーを創立したのが はじまり。 アンリ4世は 芸術家をここに住まわせて 古代美術を陳列させた。 革命後は王室コレクションや 亡命貴族からの接収作品で、また、ナポレオンの征服によって さらに、美術館としても博物館としても収集が進み発達した。

1981年に大規模な ルーブル改造計画が始まり コレクションが再構成された。この時  発掘作業が始まり ルーブル美術館の下から800年前のフィリップオーギュスト王時代の要塞が出てきて、ルーブルは このオーギュストの要塞の上に建設されていたことがわかった。地下のホールに行くと 要塞の壁が見られる。そのところどころに ハートの削り後が見受けられ、これは800年前の人々の落書きであることがわかって 興味深い。ハートマークは 現代人だけのものではなかった訳だ。

1993年には 200周年を迎えたのを期に 離宮だったリシュレー翼が新たにオープンした。そのため新たに2万2千平方メートルの展示スペースが加えられた。2000年にプリミテイッブアート部門、2003年にイスラム美術部が開設。2005年は チュイルリー川庭園を一体化し、敷地をコンコルド広場まで広げた。

作品の中で、私が一番好きなものは、 「サーモトラケのニケ」(VICTORIE DE SAMOTHRACE)。 紀元前2世紀前半の彫刻。女神が船の軸先に立つ姿。シデでの海戦の勝利を祝うために、ロドス島民から奉納されたもの。1864年に発掘された。大理石で出来ており 高さ328CM, 横200CM。。118点の断片だった翼も完全に復元された。このあと、1950年に右手が発掘され、勝利を宣言して腕を持ち上げるポーズを復元することが可能になった。

女神は 海の偉大なる神々の神殿の中で、軍艦の舳先に立っている。大きな翼は 力強い体に衣服をなでつける海風を押し切って 広げられている。顔も、両腕もないのに これほど美しい彫刻を私は他に知らない。海に向かって広げられた翼は今にも飛び立ちそうな 躍動感に満ちている。女神が身にまとった薄衣が 風で押し付けられて体の線がくっきり現れて 美しい。衣の一つ一つのしわが 海風の強さを表している。見ていると、潮の香りがして、風の強さが感じられる。紀元前2世紀に これほど完成した美を 作り出す人能力を持った人々がいた ということに畏敬の気持ちをもつ。

ニケは勝利または、勝利の女神のこと。スポーツブランドのナイキは このニケからきている。ロゴマークは 女神の翼の姿を表しているということを、今回の旅で知った。
写真1: サモトラケのニケ
写真2: 800年前の落書き
写真3: ルーブル美術館地下のピラミッド

2008年11月4日火曜日

スイス ルツエルン その2







翌日は ピラトゥス山、標高2132Mに登る。世界一勾配の急な ケーブルカーで頂上付近まで行った。ケーブルカーから下を見ると、緑一面の牧草地に乳牛が放牧されている。牧歌的で可愛らしい、童話にでてくるような木造農家が点在している。眺めていると、ちょうど牛乳を収集する車が農家の間を回っているところだった。山道をハイキングしている人もいる。
ピラトゥス山の由来は 古代ローマの司令官ポンテウス ピラトからきていて、彼の亡霊が住んでいると言い伝えられてきた。大戦中は 機関銃が装填できるように トンネルが掘られ、機関銃をすえつけるための岩がくりぬかれていた。 アルプスの山々の絶景を見るはずが、頂上に着いてすぐに霧が立ち込めて 見る見るうちに下界の山や湖が霧に隠れてしまった。

山から下りてきて、「嘆きのライオン」を見る。湖に面した、自然のままの岩に 瀕死のライオンが彫ってある。実物のライオンの5倍くらいの大きさ。体に槍が刺さり 苦渋に満ちた顔をしている。フランス革命のときに、マリーアントワネットらを守る為に 勤務についていた250人ちかくのスイス衛兵達が 殺されたことを偲んで作られた像。

市内に帰ってきて、「チャペル橋」を渡る。14世紀に市内を流れるロイス川に造られた木造の橋。八角形の見張り台とともに、ルツエルンのシンボルになっている。
ランチはホットドッグとコーヒーをショッピングモールのスタンドの止まり木に腰掛けて食べる。15フランク。 1700円くらい。

ローレックス店に入ってみる。4階建ての大きな店で、時計や宝石だけでなく スイスナイフや、スワロスキーやほかの免税品や、お土産なども売っている。
男物の腕時計「サブマリーン」。ブルーと純金の鮮やかな色、300M潜っても防水で、9150フランク。すてき!
18金のゴールドカラー婦人物が 7200フランク。ピンクゴールドが9000フランク。娘が 可愛いピンクゴールドのを 腕につけてみて、、、ウーン重い!!!と言っている。約、9000ドル、100万円ですか?逡巡する娘の横顔をハラハラして覗っていると、しばらくして、じゃあ 帰りましょ、と、、。ほっと胸をなでおろす。

時計の代わりに チョコレートを買う。「MERKUR」というお店。店の中で、大きな延べ板のような鉄板の上で、チョコレートを作っている。ブラックチョコレートは熱い鉄板で薄く延ばして、ミルクチョコレートは 厚く伸ばして、ピスタチオをたっぷりいれて熱がさめたら、バリンバリンと豪快に割る。つぎはちょっとだけクリームの入ったチョコレートを厚くのばして、アーモンドをぎっしり入れて固まったら すぐにバリバリ割って 器に入れていく。見ているだけで とてもおもしろい。手つくりチョコレートだ。100グラム 6,20フランク。(620円)。500グラムのと200グラムのを買った。そのときは 何となく買ったが、家に帰ってきてから 開けて食べてみたら とてもとても美味しかった。スイスチョコの代表とされているリンドンなんか、比べ物にならない。ブラックチョコは本当に口が曲がるくらい苦いし、ミルクチョコもカカオの香りがプンとして、味がある。どのチョコも、木の実やイチゴやべリーが入っていて、それぞれが良く合ったミルクの度合いでカカオが混ざっている。本当に本物のチョコレートの味だった。
ベルギーチョコレートばかり ギフト用に流行っているが、生クリームの沢山入ったベルギーチョコは 飽きやすく、いったん飽きるともう二度と食べる気がしない。それに比べたら日本のチョコレートは 昔からある明治の板チョコが美味しい。でも、このスイスのチョコを食べてからは もう、これが一番、ということに決めた。チョコレートはMERKURだ。

夕食はホテルで。
今まで泊まってきたホテルでは、みな 人々がプロフェッショナルで感じ良く、気分よく過ごしてきた。しかし、ここスイスのホテルレストランで 初めて中国人の子供のような若いウェイトレス達が えばった態度で、「ユー!コーヒー???」とか言って ジャポンとコーヒーを乱暴に注いで こぼして行くのに出あった。「おい、ケンカ売ってんのかよ。」と思わず立ち上がりそうになるのを 辛うじて おしとどめ、ツアーの人たちと、にこやかに社交を続ける。まったく! 
一人っ子政策で礼儀を知らない世代の中国人が 世界中で 人々の神経をさかなでしている。限られた英語の能力だから、コミュニケーションをとるのが大変なのだったら その分 謙虚になっていれば良いものを 中国語をしゃべれない奴らは野蛮人 とでもいうように横暴だ。全く困ったもんだ。
しかし、君達、9ヶ月の勤務でスイスからは、追い出されるのだよ。スイスの外国人労働者制限政策に、このときばかりは、賛同する。

写真中央:嘆きのライオン
写真左右:典型的スイスの農家

スイス ルツエルン その1







イタリアのフロレンスを後にして、ピサに寄る。
ピサの斜塔が有名だが これはドウモー(教会)の鐘楼、ベルタワーだ。
ここでも、ピサ教会と斜めになった鐘楼と洗礼堂の3つの建物が隣り合わせになって建っている。洗礼を受けた人が教会に入るとき 斜塔が時を告げる鐘を鳴らしたわけだ。教会はロマネスク様式、1063年に建設が始まった。説教壇は ピサーノの作品。とても立派で美しい。

内部ではガリレオが その揺れを見て 「振り子の原理」を発見したと言われるランプがある。中にろうそくが灯されるようになっているランプが、シャンデリアのように、いまだに輝いている。 天井は 美しい彫金を施された本当の金で飾られて、豪華でピカピカの館内だ。 教会と洗礼堂の外側の壁は 全部、真っ白い大理石とグレーの大理石とを交互に積み立てた 縞模様。3色の縞模様の教会をフロレンスで 初めて見て、斬新なデザインと感心したがここでも 2色の縞模様が 美しい。

朝 早いのに、沢山の観光客が押し寄せていて、日本人も多くて、ここが人気なのがわかる。みな、遠くから倒れそうな斜塔を自分の手で押さえているような 格好をしてみたり、塔に抱きついているように見えるようなポーズをとったりして カメラの前で、大騒ぎをしている。 塔の前で、斜めに傾いているコーヒーカップを 面白いと思ってセットで買う。10ユーロ。(2000円)

ピサの後は、一路、アルプスの山々を見ながらスイスに向かう。 ドライブインでランチに、コーヒーとサンドイッチ。立ち食いだが、ちゃんとハムの入ったサンドイッチを温めてくれて、おいしい。
5,30ユーロ。 600円くらい。
ホテルはルツェルンのアストリアホテル。

夕食は スイスフォンデユーを食べる為、レストラン「STADTKELLER」という店に行く。大ジョッキのビール飲み放題で 60ユーロ。お料理は スイスフォンデユーと ビーフシチュー。久しぶりに新鮮な生野菜のサラダが出て、嬉しかった。フォンデユーを食べ、1リットルジョッキのビールを 軽ーく空けながら、ヨーデル音楽、スイスフォークダンス、ホルンの演奏などのショーを見る。

ルツエルンは ルツエルン湖の湖畔、ピラトゥス山のふもとにある 人口6万人の街。チューリヒからインターラーケンに向かう交通の要所だ。今まで、ベニス2泊、ローマ2泊、フロレンス1泊と、イタリアでは余りにも見るべきところがたくさんで 消化不良気味なので、ここで少し体を休められるかもしれない。

スイスは日本の九州ほどの大きさの山岳国。永世中立国。国民皆兵。ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏に分かれていて、連邦共和制。人口755万人。人々は国に属するというよりも、コミューン自治共同体に属する。スイスが永世中立国なので、戦争放棄を明確にうたった憲法を持つ日本と同様の平和国のイメージが大きいが これは誤解で、スイス国民は 男も女も国民皆兵で、常に武装、戦闘訓練を受けている。各自の家には70発の弾丸と銃が備え付けられている。きわめて、強力な軍事国家なのだ。
独自国家で、EUにも参加していない。歴史的には、ルネッサンスの影響も受けていない。
強力な移民制限政策を施行していて、外国労働者は、1年間以上は この国で働けない。1年といっても3ヶ月の休暇を強制的にとることになるので、9ヶ月間しか働くことが許されない。。バッキンガムの衛兵がそうだが、昔からスイス人がヨーロッパでは出稼ぎに行っている。移民を受け入れるつもりはない。本当にユニークな国だ。アルプスがもし なかったら誰も訪れたくない国かもしれない。アルプスがあるために、世界一美しい国なのだけれども。などと、考えながら眠りにつく。
写真左:ルツエルン湖
写真右:レストランで

2008年11月3日月曜日

フロレンス イタリア







ベニス、ローマを見てから フロレンスに着いた。
街全体が美術館と言われている。また天国に行く為の入り口とも。ルネッサンス発祥の土地だ。
フロレンスのまちに入るまで、キャンテイ丘陵地帯は 一面青々としたブドウ畑だった。豊かなトスカーナ地方はワインの生産地だ。ここで生産されるキャンテイワインはイタリア最高のワインといわれている。

街に着いて、落ち着き先はビラ ガブリエラ ダヌンテイオという地元のホテル。今回の旅行では このホテル以外はシェラトン、ヒルトン、コンチネンタルなど、世界のチェーンホテルばかりに宿泊したが、ここでは 初めて古い地元の歴史あるホテルに泊まることになる。

まずフロレンスで 地元のガイドに付いて初めに行くところは アカデミア美術館。
コシモ1世が初代総裁を務めた美術大学。学生の手本になる美術品を集めたのが始まりだ。ミケランジェロの「ダビデ像」がある。1502年から2年かけて作られた ルネッサンスの記念碑的な作品だ。 メディチ家は、芸術家を保護して育成した。ボッティチェリ、ミケロッツオ、ドナテッロ、ミケランジェロなど 特別に メディチ家から保護を受けてきたことが ルネッサンスという文化の革命の起爆剤になった。フロレンスの父と言われるコシモ デ メディチ全盛時代のメディチ家の富は ローマ法王やフランス王を合わせたよりも 大きかったと言われている。

「ダビデ像」のあるホールには、ミケランジェロの未完の4体の奴隷の像がある。その中のPRISONER ATLAS:「奴隷のアトラス」が未完ながら力強くて素晴らしい。両腕から顔の表情までもう構想ができているのに、どうして完成させなかったのだろう。人の筋肉の躍動 ダイナミックな生命力、今にも動き出しそうな人の姿の美しいこと。ひとつの石からできている像は 余程バランスよく彫りださないとこれほど長い年月 破損もなく完璧な姿で 歴史に残ることはないのだろう。ダビデ像の完成度の高さにいまさら気がつく。

次は、ドウオーモ:サンタマリア デルフィオーレ大聖堂を見る。1436年に完成。高さ107Mの巨大な円形屋根が載っている。横に「ジェットの鐘楼」があり、こちらは1359年完成。側面に施された56枚のレリーフや16体の彫像はピサーノや、ドナテッロの作品。これが素晴らしい。そのまた横に、8角形のサン ジョバン二洗礼堂。1336年完成。3つの聖堂の門があって、ひとつはピサーノの作品。 今まで観た教会はみなそうだが、教会には必ず 教会と時を告げる鐘楼と洗礼堂の合わせて3つの建物が並んで建っている。人々は 洗礼を済ませてからでないと教会に入ってはならない とされていたからだ。

ここでは教会、鐘楼、洗礼堂と3つそろって堅固な要塞のように大きく聳え立って居る。外壁は この地の特産、赤っぽい大理石と白い大理石と緑の石の3色で縞のもようになっていて、偉業を誇る巨大建物なのに 可愛らしいというか、現代的な感じがする。建物の外側 装飾が凝っていて美しい。いままでいくつもの教会を見てきた。イギリスのウェストミンスター寺院、ドイツのコロン大聖堂、インスブルック、ザルスブルグの教会、ベニスのサンマルコ寺院、ご本拠ヴァチカンのサンペテロ大聖堂、、、各国を代表するたくさんの教会を見てきたが、わたしはここフロレンスの サンタマリア デルフィオーレ大聖堂が 一番好きだ。デザインが洗練されていて 横縞の外壁の装飾が美しい。壁にはめ込まれている聖人の彫像もきれい。

シ二ョーリア広場、共和国時代の政治の中心だったところ。べッキオ宮殿とその回廊に囲まれた広場に「ネプチューンの噴水」がある。 その一角にアカデミアと言っていたが、沢山の時代を異にした 彫像が集められ 青空ギャラリーになっている。20ほどもある像の一つ一つが素晴らしい。略奪するローマ兵、首をもぎ取る兵士、嘆き女達、、、。歴史的な彫像を人々の手に触れられる広場に惜しげもなく ごちゃごちゃと置いてある。こんなところで生まれて、育つ若い人たちは 一体 子供のときからどんな絵を描くのだろう。

レザー加工場を見学させてもらう。3階建てのビルで 見学というより皮製品、バッグ、ジャケット、靴などを売っている。皮ジャンは持っているし、靴は皮でない軽いジョッギングブーツだし、、、欲しいものなどないのでサッサと出る。

娘と二人、歩いてポンテベッキオ(ポンテ橋)に行って見る。 金細工で有名なフロレンスで、金のアクササリーだけを売る店が 橋の両側に 50軒くらい並んでいる。どの店も ボンジョールノーと言って入っていくと、親切に色々見せてくれる。見るだけでも、出るときには あちらから気分よくグラーチェと言ってくれる。ピンクゴールド、イエローゴールド、ホワイトゴールドの3色を上手に配色よく使った繊細なネックレスがとても良い。3色の使い方が洗練されていて、オーストラリアでは勿論 日本でも見たことがないデザインだ。思わずヨダレが出そうになる。でも高い。シンプルなものでも2000ドル:20万円位。娘も随分迷っていたようだが、結局買わずに 重い足で帰ってくる。考えてみると、今日は、歩き回っているうちにお昼を食べるのを忘れていた。

夜は宿泊先のホテルのレストランが良くないらしく、歩いて他のホテルに食べに行った。キャンテイーワインは 飲みやすく良かったが 食事の方は どうと言うこともないチキンだった。ただコーヒーだけは さすがイタリア、本当に美味しい。

2008年11月2日日曜日

ローマ その2




次の日は早く起きてバチカン博物館と システイナチャペルへ。
9時に開く博物館の前に8時半から並ぶ。着いてみたら二番目に早く来たグループだった。人のいないうちに見たい、と気がはやる。ここに入るのに昼間になったら2時間待ちがざらだ。厳重な荷物検査と金属探知機をくぐって入館。

バチカン博物館は古代から現代までの芸術品をもつ世界最大の博物館だ。27の美術館と博物館で構成されている。博物館に入って、もうそこの廊下に感心し、天井に驚きあきれて、壁と言う壁を覆うタピストリーや絵画に感嘆し、彫刻に心奪われる。いくら時間があっても足りない。早足で先に行ってしまうガイドがうらめしい。

システイナチャペルのミケランジェロの天上画の素晴らしさ。教会の ものすごく大きな天井いっぱいに描かれた旧約聖書の物語。ワーッと声を出してしまう大きさ。四方のまわりに座れるようになっており 座って天井画を じっくり見ることができる。続いて、祭壇画。これも素晴らしい。ミケランジェロはこの天井画を完成した後 教皇ユリウス2世に命じられ祭壇画を製作した。旧約聖書の創世記から人類再生まで「最後の審判」を祭壇画として描いた。ミケランジェロの偉業は一人の天才によって果たされたとは思えない、天才以上の天才。どの絵もカラフルで美しい。

サン ピエトロ大聖堂に入り ミケランジェロ23歳の時の傑作「ピエタ像」を見る。キリストを抱くマリアの嘆きの像。ガラスケースに入った この美しい像を沢山の人が取り囲んで カメラに捉えたりしている。教皇の祭壇の豪華なこと。29メートルのおおきなベルニーニ作の天蓋。いくつもある祭壇がそれぞれ、華麗な装飾を施されている。聖ペトロの銅像もある。カトリックの富の総本山。装飾と富と美の極地を求めた殿堂に圧倒されながら外へ。

サンピエトロ広場には 何百何千という椅子を並べているところだった。聞くと年に一度、カトリックの中で階級を上げる認証式があるので準備しているところだそうだ。見上げると聖堂の右の3番目、法王がいる部屋の窓が開いているので 在室だという。テレビでおなじみの法王の顔を思い浮かべつつ 窓にむかって、チャオ と手を振って バチカン王国を後にする。

サンタジェロ城は 139年に建てられた霊ちょう。屋根の頂上高く、天使が立っている。10世紀にはバチカン宮殿と秘密に通路で結ばれて法王の避難場所となり、また牢獄としても使用されたという。テビレ河に架かるサンタジェロ橋の両側に 沢山の聖天使の像が立ち並んで壮観だ。

紀元前27年に建てられたパンテオンを見る。天井に43メートルの球形の採光のための 明り取りがくりぬいてあるため 堂内に光が入り 日光で時刻を正確に計測したという。聖母マリアと殉教者のために捧げられた教会。球形の天井を撮る為 天井の真下に娘と立って二人の顔を下から撮影しおもしろい写真が撮れた。

ナボナ広場とネプチューンの噴水、そしてトレビの泉。もう一度来られますように、いのりながら 3枚のコインを投げ入れる。

コロシアムに戻る。夜のコロシアムも美しかったが、炎天下で大汗をかきながら見るコロシアムも迫力満々。紀元80年ごろ完成した円形競技場。すべて大理石で覆われていた。猛獣とグラデイエイター、またはグラデイエイター同士の戦いを見物する為に 7万3千人の市民が押しかけたところ。円周527メートル 高さ50メートル。一階が貴族、2階が市民、3階は立見席、地下に猛獣が1頭1頭 入れられていた檻のあとが はっきり残っている。ライオンなどの猛獣は遠くアフリカから連れてこられたと言う。何という財力、何というパワー。

ローマ帝国ではコンスタンテイン帝の時代になってから改宗、キリスト教が公認された。それまではイエスキリストの迫害を例にするまでもなく クリスチャンは弾圧されローマ人から憎まれた。 キリスト教が公認され 力を持つようになると クリスチャンはローマの施設を攻撃、破壊した。コロシアムのすべてをカバーしていた大理石は このとき破壊され、はがされた。この大理石を、のちにウェストミニスター寺院に張り替えたのはクリスチャンだ。何たるイギリスの介入、暴挙。歴史のダイナミズムの中で 常に犠牲になるのは 芸術だ。

夜は 疲れた体に鞭打って ちゃんと着替えて、ツアーで仲良くなった人たちとレストランに繰り出す。老オージー夫婦、アメリカ人夫婦、シンガポール人夫婦など。他の人たちと社交する為に きちんとした食事でもしないと長い一日にくたびれ果てて 夕食抜きで眠りこけてしまう。眠る時間が惜しい。冷えたワインでパスタ、夜半まで語り 飲む。イタリアの濃いコーヒーがとても美味しい。 明日はフロレンスだ。
写真右:サンピエトロ大聖堂 教皇の祭壇
写真左:サンピエトロ広場

ついに ローマ その1







世界遺産の60%が、イタリアにあるという。
中でも毎日一日平均6万人の人が訪れるというベニスは世界の宝だ。その離れがたいベニスから、バスで一挙にローマへ。

朝発って 途中ドライブインで短時間の昼食をとっただけで またバスに揺られ、アペニマウンテンを見ながら 走りに走って、夕方ローマ シェラトンホテルに着く。ついに ローマに来た。ホテルで着替えて、夕食の為にコロシアムの横にあるというレストランへ。57ユーロのデイナーコース。

夕日がコロシアムに落ちて 暗くなるとコロシアムの中にある明かりが灯されて 闇の中に巨大なコロシアムが浮かび上がる。素晴らしく幻想的だ。古代ローマの遺跡を見つめながら ワインを傾けることになるとは 何という贅沢。アコーデイオン伴奏にソプラノとテノール歌手がやってきて歌ってくれる。「サンタルチア」や、「帰れソレント」などだ。スパゲテイの前菜、やっと南部イタリアに来たのだからパスタとピザだ。冷えた白ワインも赤ワインも美味しかった。コロシアムを前に何の文句が言えよう。 でも本当のことを言うと、歌手達、こういう観光客を前にして歌う芸人はミュージシャンとしては一流でも二流でもない。だから聞いた後 私は盛大に拍手をしながらブラボーと言う代わりにプラクテイースと叫ぶ。もっと練習しなさい、という意味だ。皮肉だはなく、ご愛嬌だ。

食事の後、もう夜遅いのに、バスで名所案内をしてもらう。これが本当の、ブラボー!!だ。 
ローマ遺跡、カラカラ浴場。217年にカラカラ帝の命で建設された古代ローマの巨大娯楽施設。総面積16万平方メートル。一度に1600人の市民が 高温 中温、低温の浴場、スチームバス、図書館、礼拝堂、劇場、スタジアム、遊歩道などを、楽しんだという。そのすべてが大理石で敷き詰められていたのだ。暗闇にライトアップされていて美しい。

遺跡のなかで、ロムラスとリーマスが狼のお乳を飲む像を見る。ローマの始まりだ。紀元前800年、ラテンのプリンセスがマーズの神を父とする双子を産む。しかしプリンセスは世界を天と地の二つに割ったという罪で、罰せられ、双子を取り上げられる。ロムラスとリーマスの双子は捨てられ河に流されるが、狼に拾われて 狼に育てられる。やがて成長した二人は国を造り支配者になるが、リーマスはロムラスに敗れて殺される。国王となったロムラスは この国をローマと名付ける。ローマの歴史の始まりだ。

パラテイーノの丘から フォロ ロマーノという宮殿跡を見た。競馬場の跡がある。勇士たちがカレッサを走らせ競技しただろうトラックがおまだにはっきり残っている。
ヴェネチア広場に行き、べネチア宮殿を見る。ここはベネチア共和国の大使館だった立派な宮殿。漆黒の夜をライトアップされている美しい殿堂のため息をつく。

そして、バチカン サンピエトロ大聖堂を夜歩く。バチカンの国境線に立つ。世界一小さな国の世界一大きなカトリックの大本山。大聖堂の大きさは とても説明できない大きさだ。 本当に 遂にローマに来たのだ。 ローマ帝国の夢を見ながら眠る。

写真1:コロシアム
写真2:バチカン
写真3:ヴェネチア広場

2008年10月31日金曜日

いよいよイタリア ベニス!







オーストリアのザウスブルグからべネト平原を抜けて 橋を渡ってやっと夕方になってからイタリア ベニスに入った。憧れのベネチアだ。
グルスコ(こんにちわ)とダンケシェーン(ありがとう)が、ボンジョールノとグラーチェに取って代わる。なりふりかまわずこれを連発する。

まずホテルコンチネンタルに。ベニス市内に車は入れない。重い私達のスーツケースはベニスの入り口 セントルチア駅でバスからボートタクシーに乗せられてホテルに先に運ばれていった。

事前にツアーダイレクターから クギを刺されていた。イタリアに外国人が望むようなホテルはない。イタリアで観光客に気に入ってもらいたいと思っているようなサービス業関係者など居たためしがない。出した料理が気に入らなければ食べなければ良い。外国人がお望みの物など出すつもりはない。子供じゃあるまいし10時以降にカプチーノなど飲む奴は馬鹿だ。お湯で薄めるようなアメリカンコーヒーなど作れない。飲みたければアメリカで飲んでくれ。というのがイタリア人だから、ホテルに入って、文句を言わないで、と。

人ごみを歩いて橋を渡りホテルに到着。娘とツインの部屋は小さいが別に文句を言うほどのことはない。ただ、バスルームに窓があり、レースのカーテンがあるだけで、向かいの建物の窓も開いている。夜暗くなってから どちらかのバスルームの明かりを点けると 中が丸見えになる。他の人は気にならないのだろうか。窓に大きなバスタオルをかけて、カバーして、やっと安心してお風呂につかる。

夕闇迫る外に出てみると、狭い路地の両側は宝石店、仮面専門店、ベネチアグラス専門店が並び、人々がぞろぞろ歩き回っている。ベネチアグラスでできたアクセサリーも パーテイーに使う華やかな仮面も、素晴らしい。全部持って帰りたい。

夕食はホテルのレストランで。ベランダから運河を通ってくる風が心地よい。イタリアのよく冷えた白ワインを早いピッチで飲みながらコース料理を。前菜にスパゲテイがでた、とても嬉しい。と思ったら、メインにチキン。イタリアに来てパスタとピザ以外のものを食べたくない。鶏肉に呪われているのか?と、思っていたら、勘違い。イタリアでも北イタリアの教養人は、パスタやピザのような南イタリアの貧乏人の食べ物は食べないのだそうだ。知らなかった。イタリアでは北と南とは まるで言葉も人種も違うのだから 食習慣が違うのは当然だ。ベニスは かつて完全に独立した共和国だった。商業都市として東西の貿易の要として富を謳歌した。ベニスとナポリなんかと一緒くたにしたら 叱られる。全然別の国として考えなければいけないのだ。

ベニスの2日目はサンマルコ広場までボートで行き、サンマルコ寺院を見学する。829年アレクサンドリアから持ってきた聖マルコの聖遺骸を祭った寺院。内部は床も壁も みごとなモザイクで埋め尽くされている。ベネチア共和国の富を象徴したような建物。とにかく大きい。カメラに収まりきらない。 寺院の前には 高さ96メートルの大鐘楼が立っている。
サンマルコ寺院のとなりがドウカーレ宮殿。共和国時代の総督の住居、政庁、裁判所だった。ここでも教会と権力者の住居は隣同士だ。白とピンクの大理石でできた建物。これも巨大な ゴシック様式の建物。内部は見られなかったが 2階3階の広間は16世紀の美術品で飾られ、世界最大の油絵テイントレットの「天国」や フレスコ天井画があるそうだ。

この宮殿の横からゴンドラに乗って運河から街を見物する。ドウカレ宮殿から運河を隔てた隣の建物は 昔 政治犯を収容した牢獄だ。かかっている橋の名は、ため息の橋。この橋を渡れば二度と外には戻れない囚人が ため息とともに振り返ったからだという。カサノバは収容されたが脱獄して、女泣かせを止めなかった。実在の人物だそうだが、晩年はどんな生活だったのだろう。映画「カサノバ」では、私の大好きな、オージー俳優で今年28歳で亡くなったヒース レジャーがカサノバの役をやった。彼が演じると女たらしも 全然いやらしくなくて、当時のベニスの貴族達の豪華な暮らしぶりや華美な服装が美しくて楽しい映画だった。 ゴンドラからその鉄格子や、ホテルダニエリのわきを通り、様々な建物を見る。こぎ手はしまのシャツにベレー帽のハンサムな青年、大きな櫂で小運河を自由に漕いでいく。でもカンツオーネを歌ってはくれない。

陸にあがって、地元のガイドについて 沢山の教会、沢山の像や家々、建物を見た。かつて政治を司っていた貴族達の家や貿易物資を保管する巨大な倉庫などを見た。人がやっと行き交うことが出来る狭い路地を通り抜けると 広場に必ず井戸がある。それを中心に人々の生活が広がっていった様子がわかって、興味深い。狭い路地にある小さな靴屋が手製の靴を作っているところを覗いたり、沢山の橋をわたり、そこを潜り抜けるゴンドラに乗った人々を冷やかしたりした。

ランチはスタンドカフェで、立ったままピザを温めてもらってコーヒーを飲む。見る物が多すぎて どんなに歩き回っても追いつかないのでとても座ってゆっくり何かを食べている余裕がない。15ユーロ。高い。3000円で立ち食いそばならぬ、立ち食いピザを食べたことになる。

朝から快晴、強い太陽の陽に照らされて早朝から歩き回っているので足の痛みもはんぱでないが、今日しかベニスに居られないと思えば、我慢も出来る。    その痛い足で、ガラスファクトリーに行く。せっかくベニスに来たのだ。どんなに高くても 一番気に入ったグラスを買おうと思っていた。一つ一つ 熱い炉で口で息を吹き込んで 手作りで作った本当のグラス、、、一生の宝になるだろう。職人が目の前でガラスの馬を作る。熱い竈から出したガラスの塊をちょっとペンチで引っ張ると馬の脚ができて、あっという間に完璧な馬の置物ができる。魔法を見ているようだ。ガラスの色付けは 紫はアメジスト、赤は本当の金を溶かして色付けするそうだ。赤に凝った金の飾り絵柄の入ったワイングラスをセットで買う。しっかりした足がついていて、ひとつでもとても重い。値段などひとつ200ドルでも300ドルでも どうでも良く、クレジットカードを渡して、シドニーまで送ってもらうように依頼する。本場に来て、作るところを見て本物を買ったという満足感で、充分だ。

夕方は、ボートで1時間 ブラノ島に行く。ボートと食事で65ユーロ。ブラノ島は それぞれの家が自分の色を持っていて、並んでいる家々が緑、ピンク、青、黄色、紫、というように どの家も同じ色はない。そんな家並みが御伽噺に出てくる家のようで 愉快で楽しい。レストランでワインを飲みながら、スズキのような白身の魚を食べる。エビフライ、イカフライ シーフードパスタも出てくる。満腹のおなかをかかえて、お土産屋を見て ボートでホテルに帰ると もうすっかり夜中で まわりの宝石店、仮面専門店などみんな店じまいしている。仮面を買って持って帰りたかったが、泣く泣くあきらめてベッドに入る。 

2008年10月30日木曜日

インスブルックとザウスブルグ







オーストリアのインスブルックは、街のどこを見ても 背景に雪山がある、素晴らしい街。 ホテルの窓から見える雪山と街の灯は、美しく、明け方、上ってくる太陽の光をあびた山々の輝き、そして光がさして来て徐々に街が目覚めていく様子が美しく いつまで見ていても見飽きない。 インスブルックを離れたくない。山のある光景が どんなに人の心に潤いと、落ち着きを与えてくれることか。オーストラリア大陸の平板な土地に暮らしていて、毎日の風景の中には山も、谷も、川も湖もない。窓を開けた時に 山が見えたらどんなに素晴らしいだろう。
しかし、旅は続く。 人は生まれるとき、場所も環境も、とりまく社会状況も 自分で選ぶことは出来ない。生きていくうちにそれを変える事はできる。しかし、全部はとても変えられない。部分だけだ。

インスブルックでは、過去2回、冬季オリンピックが開催されている。街から山に残されたスキージャンプ台が見えて、木々を伐採して作られた周囲が無残だ。地元の人がスキーを楽しむのはさぞ楽しいだろう。しかし国際試合のために山を切り刻み、ジャンプ台など作って自然を破壊した残骸を 雪のない時期に見るのは悲しい。
ジャンプ台の真下に ウィルテン バジリカ(WILTENER BASILLICA)という、ロココ調の教会がある。外側は普通の教会だが、内部が素晴らしい。白と金色に輝く装飾で 祭壇は目の覚めるよう。丸天井はカラフルな絵、壁の一つ一つが入念にデコレイトされていて無数の絵と彫刻で埋められており、芸術の極致。山に囲まれた美しい街に住む人々の心の豊かさを示すような 美しい教会だ。

この美しいインスブルックに2,3年 暮らしてみたい気持ちを残したまま、バスはザウスブルグに向かう。 毎年、ザウスブルグ音楽会が開かれる モーツアルトの生誕の地。強力な大司教が支配してきた歴史から、イタリアとの結びつきが強く、荘厳な寺院やイタリア風建築物が多数ある。 モーツアルトの生家を訪ねる。
何年もヴァイオリンを弾いて来て、好きな作曲家は、と聞かれると、いつも躊躇なくモーツアルト、と答えてきた。いつも良い演奏家によるモーツアルトの曲を聴くと 貧困のどん底にあって、これほど美しい曲を 自分の命を削って つむぎ出したモーツアルトの短い一生を思って泣きたくなる。モーツアルトが大好きだ。彼が生まれたアパートを見上げ、狭い階段を4階まで登る。 入場料6,50ユーロ。

意外なことに 家の中を見て回ったが、あまり感動もしなかったし、インスピレーションも受けなかった。人が多すぎる。部屋の一部がお土産屋になっていて、彼の顔写真つきのチョコレート、彼の顔のボールペン、彼の鉛筆立てを ぶったくりというような値段で売っている。通俗すぎる。彼が生まれた部屋に、ベビーベッドがあって、中に人形が寝ているのは 気持ちが悪い。悪趣味だ。 それでも、木の床をミシミシ踏みしめながら、当時、この家の人々が寒さを凌いだ 陶器製のヒーターに触れ、天井の低さを感じ、窓から乾いた空気を胸いっぱい吸ってきた。

ザウスブルグに来て、サウンドオブミュージックが好きな人は、ここでトラップ一家のあとをたどり、マリアが居たノンベルグ修道院や、家族が隠れていたザンクペーター教会や、一家が音楽祭でエイデルワイスを歌った野外劇場などを 見て回るツアーに行く。けれど、わたしは無視。限られた時間に何もかも見ることは出来ない。

街からバスで、私と娘は ヒットラーのイーグルネストを見にいった。1834メートルの山の頂上にヒットラーのために建てられた山荘、イーグルネストがある。ヒットラーを現人神として熱狂崇拝していた マーチン ボーマンがヒットラーの50歳の誕生日にプレゼントした山荘だ。山荘に通じるふもとにはヒットラーの私邸や、2000人のSS 親衛隊の住居があったそうだ。
現在はオーストリア政府観光局のものになっていて、5月末から10月までの夏の間 山道を往復する特殊なバスで、アクセスできるようになっている。バスの終点から歩いて124メートルのトンネルを通り抜け、124メートルの高さのエレベーターで 頂上の山荘に行く。

硬い石灰石でできた山を切り開き、いくつものトンネルを掘り、資材を運び、山の中央を掘りだし ぶち抜いて山頂に至るエレベーターを作った。この無謀な建設には 当時ドイツの最新の技術が使われたという。 124Mのトンネルの頑強、堅固な姿はあきれるばかり。そしてエレベーターは、天井も壁も、床も金色に輝く箱で、その豪華なこと。今まで見たこともない立派なエレベーターだ。ヒットラー50歳の誕生日に最大最高の贈り物をしたかった信奉者の狂気が充分うかがえる。 山荘には大きな暖炉のある大広間、ヒットラーの部屋、秘書で死ぬ前に彼の妻となった エバ ブラウンの部屋などがある。今はレストランとして観光客に利用されている。山荘から頂上までは50メートルくらいの きつい登りで山頂に立つことができる。素晴らしい眺め。紅葉で山々が色とりどり。とても寒い。山荘に戻って ランチ代わりに アップルケーキとコーヒーをいただく。12ユーロ。

夜は街に下りてきて、デイナーは カステラー二 パークホテルで またチキン、、、泣けてくる。ホテルの部屋に戻ると 部屋の気温が29度もあって、暑くて寝られない。娘がレセプションに電話でエアコンを入れるように頼むと 「今は秋だから エアコンはない。暑いなら窓を開けてください。」と言われる。これには笑った。それからは、しばらくの間 「今は秋だから」を連発して娘と笑うことになる。外は寒いのに部屋の気温が29度なのも、暑くて眠れないのも、携帯電話が何故か使えないのも、ホテルにコンピューターがないのも、寝坊して朝食をかきこむことになったのも、みんなみんな秋だから、、、というわけだ。  

写真1は モーツアルトの生家
写真2は ヒットラーのイーグルネスト
写真3は インスブルックの教会

2008年10月29日水曜日

ミュンヘンとインスブルック







ドイツ ラインランドから バスでミュンヘンに立ち寄る。

街の中心、マリエン広場の市庁舎に、ドイツ最大の仕掛け時計:グロッケンスパイルがある。1568年のバイエルン大公ヴィルヘルム5世と、ローレン皇女レナータの結婚式の様子を再現したもの。32体の等身大の人形が この地方の踊りや 騎士の馬上の試合などを舞う。これを見るために、午前11時と12時に、市庁舎前は人々で埋まる。是非 見たいと思っていたが、来る途中の道路が混雑していて、着いたのが12時半、みごとに見逃した。残念でならない。

ミュンへンは バイエルン国立オペラ劇場も有名。ここでルードヴィッヒ2世が ワーグナーのオペラ「ローウェングリーン」を観て感動してその後 生涯 ワーグナーのパトロンを勤めた。王家専用席のある 格調ある 歴史的なオペラハウスだ。ウィーンでウィーン交響楽団の新年コンサートを聴き、ミュンヘンでシュトラウスのオペラ「こうもり」を観たらば、もう完璧、これ以上のお正月はありえない。

今回はミュンヘンの仕掛け時計は見逃し、オペラハウスはバスで通過するだけ。ふてくされて、すし屋へ。しかし、こ、、、これは 何ですか。春巻きの干からびたもの、かっぱ巻き、死んだ魚としか形容できないような刺身が、プラスチックの皿に乗って回っている。中国人の怖い化粧をした女の子が 乱暴にお茶をドンと置いていく。これは危ない。かっぱ巻きだけを 何皿も食べて、15ユーロ払って出る。銀座老舗のすし屋並みの料金を取って、小学生が 海苔巻き作りに挑戦してみましたー、というような 海苔巻き失敗作を食わされた。

再びバスで一路 オーストリアのインスブルックに向かう。バスから眺めるドイツの石作りの家々が オーストリア領に入ると 木造の家に変わってくる。緑が一層 濃くなり 紅葉した木々も見えてくる。そうだ。秋たけなわなのだ。春になったばかりのシドニーから来た。オーストリアで日本のような鮮やかな紅葉が見られるなんて、なんという贅沢。スズカケの木、プラタナス、カエデの緑、黄、紅が調和して美しい。国境を越えても オーストリアは同じドイツ語の国だ。グーテンモルゲンや、グーテンタークでなく、朝でも夜でも使える挨拶言葉「グルスコ」と、ダンケシェーン(ありがとう)を、連発する。

インスブルックは、世界で一番美しい街。小さな街の四方を雪を抱いたチロルの山々が取り囲んでいる。街のどこで写真を撮っても バックに雪山が写る。聞くと 2日前に冷え込んで新雪が降ったばかりだという。雪山と紅葉した低い山々が重なり合って それが街のどこからでも見えて、手が届きそうだ。 街の中心にあるスワロスキ本店でバスを降りた。水晶のアクササリーや動物の置物を作っているスワロスキは チェコスロバキアかハンガリーのものかと思っていたが、インスブルックが本拠だと初めて知った。4階建ての店内を100%観光客の顔で見て回る。色々見て 娘にネックレスを買う。100ユーロ。 ここから歩いて街を見ながら ヒルトンホテルへ。

夕食はチロルの山小屋でチロルの伝統料理を、というコースがあったので申し込む。時間になると、バスが迎えに来て、結構暗い夜の山の中に入っていく。バスのあとは、馬車で山道をさらに登る。2頭立ての馬車の御者の横に座らせてもらって、足元の2匹の犬を抱き寄せる。御者が可愛がっている8ヶ月のセパードと白いテリア犬。寒いので毛布を膝にかけると犬達ももぐって入ってきて可愛い。30分余り 馬車が走っているうちにセパードが何度も馬車から飛び降りそうになり 首輪をしっかり掴んでいなければならなかった。真っ暗で何も見えなかったが、きっと山兎とか 狐とかあるいはもっと怖い動物でもいたのだろう。

着いたチロルの山小屋で、大ジョッキのビールにチキン、ポーク、ザワークラフト(キャベツ酢漬け)が出た。驚いたことに、木の器に載った肉や野菜をナイフもフォークも無しで食べる。それがチロル風 と聞いて 仕方なく手掴みで食べる。飲んで、食べて、愉快な気分で 深夜ホテルに帰って、爆睡する。

写真右は、ミュンヘン市庁舎(仕掛け時計は左の方)
写真中央は、インスブルックのゴールデンルーフの建物
写真左は、インスブルックから見える山々