2010年9月30日木曜日
エル クエスト 滝つぼで遊ぶ
キンバリー7日目の旅。
エル クエストに着く。エル クエストはとても素敵なところなので、特別な思いが残っている。
規模の大きさも そこにいたる道のりの遠さも、ぜんぜん違うが、エル クエストは 戦前の開発前の 上高地のようなところではないだろうか。戦前の上高地といっても 私はまだ生まれてないけれど。母から聞いた上高地のイメージにぴったりなのだ。
母は 大正生まれのモガ(モダンガール)だった。結婚前はベレー帽にカーリーヘアで、スカート姿でスキーをしたり、オープンカーで銀ぶらをしたり、軽井沢でテニスをしたり、2人の兄たちと上高地を散策したりしていた。私が穂高から下山してきた と言ったら 普段は無口なのに、珍しく目を輝かせて、昔の上高地の様子を話し出したので びっくりしたことがある。そんな母の思い出の詰まった上高地は きっとエル クエストのように輝いていたのだろう。
エル クエストは四方 高い岩山に囲まれて 渓谷があり、泉があり、滝がある。植物層も豊かで 鳥も多い。
テントに2泊した。夜でも猛禽類だろうか、鳥の声がする。朝には様々な鳥たちの声で にぎやかでとても寝坊していられない。テントには、簡単なバスルームも水洗トイレも ついているが、シャワールームに カエルが居た。うすい茶色の5センチくらいのカエルで とてもフレンドリー というか 中に入って シャワーを浴びても逃げようとしない。カエルと一緒に水浴びをしたのは、初めてだ。
テントから出て、バンガローに食事に行く。朝から強い太陽が激しく照り付けているが、山から吹き降ろす風が心地よい。バオバブの大きな木の根元に 地下水を引いている水場がある。水筒の水を一杯にする。
テントから岩山を歩くこと2キロ。
ガイドの後をついて、大きな岩をつかんでやっこらさ と登るような急な山道だ。情け容赦ない太陽に焼かれながら、岩を登って たどり着いたところは エマ渓谷の滝つぼ。エメラルドグリーンの素晴らしいプールがあった。まわりは数百メートルの岩で囲まれた自然のプールに いくつかの滝が流れ込んでいる。岩から沢山のツルが下がっていて 映画ターザンの出てくるみたい。競技用のプールを2つ合わせたくらいの大きさだ。うっそうと緑のコケや植物が生い茂る岩壁の美しさ。文字通りのエメラルドグリーンの水。ガイドについて ここまで来た10人くらいの人々はさっそく岩場に隠れて水着にかえて、ジャポーン。岩に囲まれた滝つぼ、、、さぞ水は冷たい、と恐る恐る水に入ってみると20度くらいに 水は温まっていた。岩がコケでぬめるが足が立つところだけで、バシャバシャやって、とても満足。滝の真下までは 泳いでいく勇気がない。帰りは大満足で きつい岩下りも鼻歌まじり。
エル クエストは ここ20年ほどで開発された休養地だ。もとは アボリジニーの人しか住んでいなかった。深い山林を切り開いてテント村が作られて 一般の人が滞在できるようになっている。このエル クエスト全部の、山奥の広大な土地を所有するのは たった一人の人。その所有者の家は 厳しい警備と山林で囲まれていて 山道からは 屋根がちょっと見えるだけだ。所有者とそのゲストはヘリコプターでアクセスする。インターンネットで予約すると 所有者とそのゲストが使わない時は 一般人も宿泊できるそうだが、1泊$1700もするそうだ。
翌日エル クエストのチェンバーライン渓谷を観にいく。
50人乗りのグラスファイバーボートに乗って、渓谷を見て回る。赤い切り立った岩山が両側にそびえる。深い緑色の水の上をボートが走る。操縦士も説明する人もアボリジニーだ。
河の中ほどに来た時、船が止められて、みんなに魚のエサが配られた。エサを指でつまんで水にかざして エサを落とすまねをしてごらん と言われる。やってみると、びっくり、寄ってきた魚が次々と 口から水をピューと、勢いよく飛ばすので 水にかざしていた手が びっしょり濡れる。あちこちから 驚きと嬉しい悲鳴。口の中から勢いよく水を飛ばして 飛んでいた虫を落として食べる魚、アーチャーズフィッシュという魚だそうだ。ヒゲをもったキャッツフィッシュも出てくる。
魚が水を飛ばす騒動が治まると、操縦士が今度は勢い良くシャンパンの栓を抜いて、グラスが配られる。おまけに新鮮なメロン、パパイヤ、スターアップル、スイカ、マンゴスチンなどの果物まで。サービス満点だ。趣のあるアボリジニーの語り手で案内されたボートで、緑の水、赤い岩山、青い空、シャンパンに 甘みのある果物、、、他に何が要るだろう。ぜいたくな水あそびの午後、、、。
今夜もビールが美味しいだろう。
2010年9月29日水曜日
キンバリーの旅 第6日目ペリーラグーン
今、旅をしているのは 西オーストラリア州のキンバリー地区とよばれるところだ。キンバリーは面積にして434,517平方キロメートル、西オーストラリアの6分の1を占め、日本の1,1倍の大きさがある。北にチモール海、西にインド洋に面しており、西オーストラリア州で一番暑く 雨期の始まる11月にかけては 37度、内陸部では40度にもなる。
今日は ペリーラグーン、干潟、湿地帯に入る。何千、何万という鳥が湖やまわりの木々に羽を休めている。
シドニーでも よく観られる騒がしい白い大きなインコ:サルファークレステッド コカトゥー。
愛らしいキングフィッシャー:カワセミは体に比べて 頭が大きくて可愛い。
ジャビルーというアボリジニーの愛称でよばれる足が赤く 体が白と黒のコウノトリ。黒くて長いくちばしで魚を取っている。
ブラックコカトゥー(黒インコ)は、全身黒いのに尾だけが赤くて とても大きい。
ブラミーカイトというトビは 白い胸に茶色の羽で悠然と飛んでいる。立派なので はじめはこれが 海の王様、シーイーグルだと思っていた。
シーイーグルは美しい白い胸に黒い翼で雄大、さすが王様の貫禄。ブラックブッチャーバードというモズもペリカンもガチョウまでいる。
鳥を見るための遊歩道と展望台が定められていて、それ以外のところを歩くことは禁じられている。ワニがいるからだ。
ワニには淡水ワニと海水にいるワニの2種類がいる。湖に居るワニは小型で人を襲わないが、海のワニは人でも動物でも何でも食べる。ワニを食べる地元のアボリジニーでも うっかりすると ワニに食べられる。
数年前、3人のアボリジニーの青年がキャンプをしていて、2人の見ている前で一人がワニに襲われて食べられた。二人は 立ち木に登って難を逃れたが、他のワニたちにとりかこまれて3日間 木から下りてくることが出来なかった。3日間、木に掴まって助かった青年達も偉いが、3日間人があきらめて落ちてくるのを待っていたワニも我慢強くて執念深い。
ペリーラグーンから アボリジニーの町 ウィンダムに入る。
人口1000人。かつて 人々は牧畜と食肉加工に携わっていた。屠殺した牛や羊の肉は冷凍処理をして外国に輸出したり他州に発送する。用のなくなった肉や骨は河に捨てられる。その血の匂いでワニが集まってきた。ところが近年では 牛も羊も生きたまま インドネシア、エジプト、サウジアラビア、中東の国々に輸出するのが主流になった。モスリムの国では生きたままの家畜を買い取り お祈りをしながら殺した肉しか食べないからだ。
これがまた、オーストラリアの動物愛護団体からクレームがついて、毎年のように問題になっている。生きたままの食肉牛が狭い船のなかで横になるスペースもない状態で運ばれる為死亡率が高いからだ。いまでは徐々に 運送中の環境が改善されてきた という。
今日も一日晴天で 暑かった。
ビールが美味しいはずだ
2010年9月28日火曜日
バングルバングルを飛ぶ
北部準州ダーウィンから 500キロ走ってキャサリン渓谷を見て、また500キロ飛ばして、西オーストラリア州 キンバリー地区のクヌヌラに来てアジル湖 オルド河下りをした。
今朝は5時に クヌヌラから150キロ走って小さな飛行場に来た。ここからパーヌル国立公園、バングルバングル山脈を上空から見る。
パーヌル国立公園は 世界自然遺産に指定されている。パヌールとはサンドストーン(砂岩)という意味。バングルバングルと言う非常に珍しい奇観を誇る山脈をもつ。横縞もようの釣鐘型の山々が 23万ヘクタールという途方もない広さで広がっている。デボン期 3億6千万年前に形造られた自然奇観だ。サンドストーンと微生物に侵食された鉄を多く含んだ岩の層とが地殻変動と水と風による侵食をくりかえして 山々の横縞もようを作ってきた。
ここが発見されたのは つい25年ほど前の話だ。それまでは この山々を知っているのは 地元のアボリジニーと、近くのダイヤモンド鉱山に働く限られた人だけだった。雨期の11月から3月までは ここに至る道が閉鎖されるため 1年のうちの半分 乾期にしか入れない。乾期でも 道が険しいので4輪駆動のジープに、ガイドつきでないと入れない。一般的なのは 小型飛行機で国立公園内まで入り、そこからジープで見て回る方法だ。
5人乗りの小型飛行機で クヌヌラを発つ。ここから550キロも距離を 上空500キロから3500キロの高さで、飛ぶ。乗っているとエンジンの音が ものすごくうるさい。ごつい航空用イヤホンをつけて、狭い椅子にすっぽり入り込み、キャプテンパイロットの指示に従う。
朝日が昇ったばかり。今日も晴天。ヒョイと、飛行機は空に浮かんだ。
アジル湖の緑、オルド河の青、一面灌漑で潤された農地の緑、赤い大地、青い空。
30分たったところで 飛行機は急にガスに囲まれる。キャプテンが「今日は バングルバングルを飛ぶには雲が多すぎるよ。ダイヤモンド鉱山だけ観て帰るかい?お金は半分返すよ。」と、、。キャプテンの声は良く聞こえるが 私たち乗客の声はキャプテンには聴こえない。ジェスチャーで、「いやだ。いやだー。帰りたくないー。」「バングルバングルまで曇っていてもいいから 飛んで、飛んでー!」と必死で訴える。他の3人も 悶えんばかりに行きたい行きたい行きたいと ジェスチャーで斉唱する。その勢いに折れて、キャプテンは雲の中を飛ぶ。横を見ると 同じ頃飛び発った 他の客を乗せた小型飛行機が 雲のずっと下を飛んでいる。それならば、、、と、こちらのキャプテンも グンと機体を低くして 地上500メートルを飛んでくれた。
雲の下、バングルバングルの山々の頂上スレスレを飛んでもらって 見た山々の素晴らしいこと。ただただ見惚れる。
山々の美しい 渦巻き模様、重なる山脈の模様の色合いは 山ごとに異なって それぞれの美しさを競っている。3億6千年前から侵食を続けてきた山々の大きさ。自然の形造る芸術作品に、感動する。バングルバングルの上を何度も何度も旋回してもらう。
そのあとアーガイルダイヤモンド鉱山の上を飛んでもらって、クヌヌラに帰る。
帰り道 ガスのなかをキャプテン 後ろを見たり横を見たり キョロキョロして、私に「他の飛行機どこだろ?」を聞くのには びっくりした。え?私たちが他の飛行機がどこを飛んでいるか 探さなければならないの? ガスのなかで、突然目の前に他の飛行機が現れた時では、もう遅いのではないでしょうか。空中衝突。
ということはなく、無事に飛行場に着陸。
とても良い飛行だった。
バングルバングルは 予想以上の美しさだった。
きょうもビールが美味しいはずだ。
2010年9月27日月曜日
州境を越えて キャサリンからクヌヌラへ
旅をはじめて第4日目
北部準州のキャサリンから さらに500キロメートル車を走らせて、州境を越えて 西オーストラリア州に入る。
州境では 厳しい荷物検査がある。リンゴや蜜柑、ローストしてないナッツ、植物、昆虫などは、すべて取り上げられて棄却される。生ものに付いているかもしれない農作物に害になる害虫の卵などを 西オーストアリア州に持ち込ませないためだ。
到着した町は 西オーストラリアで一番新しく出来たばかりの町、クヌヌラ。
1960年にオルド河かんがい工事をするために、人口が増えて、町になった。山々と渓谷から落ちてきた水を貯めて 人工的に湖に変えたのが アジル湖(LAKE ARGYLE)。オーストラリアで一番大きな人工湖だ。豊かな湖の水はオルド河に流れ、水力発電に使われ かんがい用水として牧畜、農業に使われる。また、毎年のように新しく発見される鉱物資源の発掘にも使われている。
鉱物資源というと、必ず名前が出てくるのが リオティントとPHB、世界最大の地下資源を牛耳っている。これがオーストラリアの経済基盤を握っていて景気の上下を左右している。採掘しているのが 金、ダイヤモンド、亜鉛、ニッケル、銅など。世界で産出されるダイヤモンドの3分の1を ここで産出している。農業では、バナナ、マンゴー、メロン、麦、大麦など、近年では、サンダーウッドの植林が主流になってきている。
クヌヌラでは こういった開発が始まる前は 長いこと デュラックファミリーが牧場を経営していた。彼らは、まず土地を買い、所有した1万2千平方メートルの土地に5万頭の牛を持って牧場を始めた。
オーストラリアが 50万年前に、南極大陸から分離して以来、厳しい自然のなかで 火星同様の表土を持つ砂漠ばかりのオーストラリアで 岩と渓谷から流れ落ちた水で湖を作り、灌漑施設を作り、牧場と農業を確立したイギリス人開拓者たちの努力と開拓者精神の強さに思いを馳せる。
現在1万4千平方メートルの土地が 灌漑工事によって潤され、牧畜、農業、鉱業を成功させ、オーストラリアを支える経済をこの一番新しい人口たった6000人の町が代表しているわけだ。
クヌヌラの町を歩いてみる。あるのは しょぼい銀行、スーパーマーケット、酒屋など。滞在したホテルはバンガロー風。アジル湖、オルド河に作られた水力発電で、電気はあるものの おせじにも一流ホテルとはいえない。年間平均気温が35度。もともと西オーストラリアは オーストラリアの中でも一番 年間平均気温の高いところだ。ここには住みたくないが、家を買うとすると平均的安つくりの3寝室の家で7千万円、と聞いて驚愕する。鉱山開発で、次から次へと新しい鉱物資源が見つかり、農業も順調で人が足りなくて 家も足りなくて家がものすごいスピードで値上がりしているのだそうだ。
北部準州の地図を広げてみると、その多くが グレーの色に塗り分けられていて、アボリジニーの土地ということになっている。5万年も前から 元来アボリジニーの土地だったオーストラリアに イギリス人が入植して以来 砂漠ばかりだった土地に水を引き、農業、牧畜を持ち込み人が住めるようにして、さらに地下資源を確保してきた。
そのあとで、公民権の認知を経てアボリジニーが土地所有権を主張して、裁判では かなりの土地がアボリジニーに返還されてきた。しかし、現実には狩猟で生活をしてきたアボリジニーは、白人入植者たちの経済活動に協調して生きていくしか他に方法はない。土地所有権は返されても 近代生活の中で 農業、牧畜、鉱業に、雇われて給料生活者となり 折り合っていくしかない。
一方、北部準州の20%あまりの土地を占めるアーネムランドが 残されており この広大な未開発の土地には 完全なアボリジニー社会が残っている。ここには部外者は立ち入ることが出来ない。許可されたものだけが出入りできて、完全なアボリジニーだけの世界が残されている。
現実と、あるべき姿としての理想、この2つが何とか折り合いながら やりくりしている姿が 現在のオーストラリアの姿だ。
500キロメートルあまりの移動。
今日もビールが美味しい。
写真は、アジル湖、湖畔の木にとまる蝙蝠、灌漑農地
2010年9月26日日曜日
キャサリン渓谷を見る
北部準州のダーウィンから キャサリンの町に向かって スチュワートハイウェイを南下する。距離は450キロメートル。
スチュワートハイウェイの名前は ジョン マクドナルド スチュワートという南オーストラリアからダーウィンまでオーストラリア大陸縦断を初めて走破した冒険家の名前からくる。また、向かう先のキャサリンという町の名は このスチュワートの大陸縦走を資金面で支えた南オーストラリアの大富豪家 ジェームス チェンバーの娘の名前だ。ジョン マクドナルド スチュワートの偉業は 大陸縦断のみならず、電信通信網を施設するための予備調査をして オーストラリアの南と北を結んで通信網を確立したことにある。彼は行動力も判断力もあり 探検隊長として、部下一人として失わずに全員を生かして帰した。立派な冒険家だったが、後半生はアルコール中毒で惨めに死んでいった。彼の葬式に参列したのは たった7人だったという。4人が親戚で、3人がナショナルジェォグラフィックの社員だった、と。なんて、素敵な奴なんだろう。
450キロメートルのダーウィン、キャサリン間を私たちを乗せた車は時速150キロで飛ばしていく。この北部準州では 3年前まで 車の時速制限がなかった。北部準州は人口もわずかで3分の2がアボリジニーだ。なかでも町と呼べるのは アリススプリング、エアーズロックとダーウィンくらいだ。広大な土地にわずかな人口しかいないので 地元の人は車をとばす。この州で 事故を起こすのは85%が観光客だった。自動車事故で亡くなる人が他州の人ばかり、、、ということで批判が集中して ついに北部準州でも道路スピード制限が制度化されて 2007年から最高速度が130キロと、決められた。その結果、今度は事故を起こすのが地元の人ばかりになった。130キロなんて、トロトロ 人一人いない赤土の大地を走っていると 退屈で退屈でハンドルを握りながら 眠ってしまうからだ、という。
まあともかくダーウィンからキャサリンまで スチュワートハイウェイを 400キロあまり走ったところで、キャサリン渓谷に到着。
キャサリンの町は人口1200人。
鉄分を含んだ激しく赤い色をした岩山を越えて 渓谷を渡るグラスボートに乗り込む。両側を切り立った屏風のように聳え立つ岩の間をボートが渡っていく。両側の岩は1000メートルちかい。何千年も時間をかけて雨期と乾期を繰り返しながら 岩を侵食してできた自然の渓谷だ。空が青い。岩が赤い。水が真緑だ。気温が36度で 太陽が情けも無く照りつける。荒々しい赤い岩壁と岩壁のあいだを、キャサリン河とヴィクトリア河が流れていく。迫力満点。2時間あまり、グラスボートを乗り換えて、二つの渓谷を渡って また戻ってきた。河をわたる風が心地よい。
6000年以上前のものと言われるアボリジニーの壁画を観た。高い壁に描かれた数人のアボリジニーの仲間の絵だ。ボートから20メートルほど高いところに 描かれているので写真に取ったが、あまりはっきり見えないのが残念。6000年の月日がたって、今なお人の心に訴えてくる壁画の威力に圧倒される。
グラスボートを降りたところで 「アイ ラブ ツーリスト」と言って口を大きくあんぐり開けているワニの立て看板をみて 思わず笑う。「ワニに注意」とか、「泳ぐな!」とか命令調の注意書きより ずっと気が利いている。
今日もビールが美味しいはずだ。
2010年9月25日土曜日
北部準州ダーウィン 第二日目
気温35度、日中の日差しが強くて ちょっと街と海辺を散策しただけで たちまち真赤に日焼けした。ダーウィンの街は こんがり日焼けした若者であふれている。世界中からやってきたバックパッカーたちだ。街にはマックも コールススーパーマーケットも ユースホステルもある。しかし海は ワニとクラゲがいるので 波乗りや遊泳などはできない。テントを載せてキャンプして移動しながら ダーウィンからカカドウ国立公園を見て回る四輪駆動ジープの旅をする若者達の顔は 冒険者達の顔だ。良い顔をしている。
ここ 北部準州(ノーザンテリトリー)の議会と博物館を見る。
博物館は美術館も兼ねていて アボリジニーのキャンパスに描かれたみごとな絵画がたくさん並んでいる。アボリジニの絵画は それぞれの土地の泥とか植物を顔料に使っているので 描かれたときと同じ状態に温度と湿度を維持するのが とても難しい。アボリジニーの作品は維持費が他の絵に比べて 何倍もかかるし、維持するのが大変だと、美術館のアボリジニーのスタッフが言っていた。
博物館の中に 1974年のクリスマスイヴに ダーウィンを襲ったハリケーン トレイシーに関する一角がある。このハリケーンでダーウィンの70%の建物が崩壊して、50人の死者を出した。このときの風速150キロというとてつもない殺人的な風の音を 来館者に体験させるための小部屋がある。真っ暗な部屋の中に入ると 風速150キロが襲う風の音を再現してくれて、ハリケーンの恐怖を体験させてくれる。一人で入ったので、とても怖かった。
ダーウィンというと、必ず1974年のハリケーン トレイシーの話が出てきて、ついでに1942年の日本軍ダーウィン爆撃の話がでてくる。これはもう、セットメニューのようなもので、避けて通れない。1941年12月 日本軍はパールハーバーを攻撃したあと、1942年2月には ダーウィンを 242機の戦闘機で爆撃したため 湾内にいた6隻の大型船が沈められ、市庁舎、病院などが破壊、243人の民間人、軍人が亡くなった。パールハーバーとちがうところは、一回だけの攻撃ではなくて、日本軍はここを1943年までの間に、何度も繰り返して空襲したことだ。したがって、いまだにダーウィンでは 日本人の受けが良くない。
ダーウィンにはたくさんの岬があるが、先端はみな軍事基地になっていて、立ち入ることが出来ない。イラク、アフガニスタン、スリランカなど、内戦状態にある国々から、ボートでオーストラリアに難民としてやってくる人々が押し寄せるからだ。ブラックマーケットが インドネシアにあって、人身売買のプロが 難民受け入れの時期を読みながら 小さな漁船で 一人200万円とかを取り立ててボートでやってくる。世界で戦争がある限り、また富める者と 何も持たない者がある限り 難民として自分の国を捨てる人は後を絶たない。欧州でも米国でもオーストラリアでも日本でも 難民受け入れは 簡単に解決することのできない難題だ。
明日から ダーウィン発キンバリーの旅のグループの一員になる。キンバリーというと、西オーストラリアの秘境といわれるところだ。たくさんの山と渓谷と湖がある。一般観光地ではない。来る前に、調べてみたがあまり この地域の旅を紹介するものが見つからない。プロの写真家の写真集ならある。で、図書館の司書に、「キンバリーの本をみたい。」と言って 探してもらおうとしたら、北部準州の項で探している。「ちがいます。西オーストラリアです。」と、言ったら司書に睨まれた。詳しい地図とか、ガイドとかが見つからなかったので、行って見るしかない。そんな旅もいいかもしれない。
今日も 冷えたビールが美味しい。
写真は、北部準州議会、日本軍爆撃による被害者の墓地、アボリジニーの絵画
チモール海に沈む太陽を見る
オーストラリアの北の果て、ダーウィンに到着。
日本からダーウィンには ただ経度をまっすぐ下に 下りてくればよい。地図で見てみると 日本に一番近い街だし、南極に向かって まっすぐ下がったところにある。しかし 日本からの直通便はない。いったんケアンズとか、パースとか メルボルンとかに行って 国内線に乗り換えなければならない。
このトップ エンドと呼ばれるダーウィンは沖縄より緯度で10度 距離にすると1000キロメートルも赤道に近い。南緯12度から15度にあって 南回帰線(南緯23度27分)と、赤道の真ん中にある。熱帯サバンナ気候で 雨期と乾季がはっきりしている。街の名前は チャールズ ダーウィンがビーグル号で立ち寄ったと言われているので、そのまま街の名前になった。
空港から車でダーウィンの町に入る。
海岸線沿いにある 広々とした公園の木陰では 円座を組んでたくさんのアボリジニーの人たちが のんびりとくつろいでいる。彼らのリラックスした穏やかな表情は シドニーでは決して見られないものだ。
海岸に向かって建てられたホテルのバルコニーから 日没を見る。
チモール海に沈む 大きな南国の太陽。西側はインド洋だ。
みごとな日没にビールが美味しい。
2010年9月11日土曜日
北北西に進路をとるのだ
旅にでることにした。
3交代勤務の職場で働いているので、年に6週間有給休暇がある。10年間 同じところに勤めていると その6週間の上に さらに1ヶ月有給休暇がご褒美でもらえる。けれど、それは まだ先のこと。
年6週間の休暇を どう過ごすかというと 大抵のオージーの同僚は海外を旅しているようだ。「オージーの4人に1人は海外生まれ。」という、移民で形作られている国なので 多くに人は 休暇で自分の生まれた国や親戚のいる国を訪ねる。ご多分にもれず私も 父が元気な内は 二人の娘を連れて毎年日本に帰っていた。しかし、98歳で、記憶を失くした父に会いに行くのは つらい。今年の1月に帰国しているので、残った有給休暇を 国内旅行で過ごすことに決めた。
オーストラリアに住むこと15年にして、初めての大がかりな国内旅行だ。北上することにした。オーストラリア大陸のほとんどは 乾燥した砂漠だ。人は住めない。大陸を一周する海岸線の一部に緑と水のある豊かな土地が散在しており大部分の人がここに集中して住んでいる。シドニーという一番人口が多く、進歩 繁栄している街にいると、オーストラリアが もともとはアボリジニの国だったことを忘れそうになる。
だから日常から非日常への旅は 思い切り文明から離れた土地に行ってみるのが 良い。そこに砂漠、湿地、荒野といった 本当のオーストラリアの姿が見られるかもしれない。アボリジニの人々の本場に足を踏み入れてみよう。
北北西に進路をとって、行く先は トップエンドと呼ばれるオーストラリア大陸の先端 一番日本に近い点、ダーウィン。
ダーウィン地域は 熱帯モンスーン気候だ。明確に乾季(5-10月)と、雨期(11月ー4月)に分かれている。ここで4万年前から暮らしてきたアボリジニにとって 季節は6つに分かれる。すなわち 1-2月のモンスーン期、3-4月の収穫期、5-6月の冷涼期、7-8月の乾燥期、9-10月の灼熱期、11-12月のモンスーン期の6つだ。灼熱のダーウィンを歩くことになった。
ダーウィン カカドウ国立公園は 四国全部の大きさ。アボリジニが4万年前から暮らしてきた伝統的な生活と 今もあまり変わらない生活を 続けている。自然が豊かな土地で、1600種の植物、1万種の昆虫、60種の哺乳類、132種の爬虫類、290種の鳥がいる。人類史上最古といわれるアボリジニの壁画(ロックアート)がたくさん残っていて、豊かな動植物が繁殖していることで、ユネスコから世界遺産に指定されている。
先住民族アボリジニは 約4万年前に(5万年前と言っている学者もいる) インドネシアからカヌーでやってきて大陸に住み着いた人々だ。地球が氷河期にはいったのは 5万年前と2万年前が最後と言われているが 気温が下がり 地表の水分が凍ったため海面が今から比べると100メートルくらい低かったので カヌーによる大陸どうしの行き来ができたらしい。
アボリジニは 文字を持たない人々だ。語る言語は部族の数だけある といわれていて600くらいあったらしいが、今では200くらいになって、ひとりの人が 4つも5つもの方言を話すことができるようだ。年寄りが若い人に知識を語る口頭によって伝承文化が 維持されてきた。
人類最古の壁画といえば、学校の教科書ではスペインのアルタミラ洞窟の壁画や フランスのラスコー洞窟画が 紹介されていて、記憶に新しい。赤茶けた岩に バッファローの絵が描かれていて、それが1万7千年前の作品とは思えない迫力だ。しかしアボリジニの壁画は それらの絵よりももっと古い、少なくとも2万年昔に描かれたものだそうだ。鉱石や土、植物の樹脂などを混ぜ合わせて造られた顔料や、焚き火の木炭で 人やカンガルー 魚、カメなどが描かれている。
中でも興味深いのは ナマゴン NAMARRGON というライトニングマンの絵だ。これは雷をおこす神様のことで、雷を持った人の姿をした絵だ。また、2000年前の作品では、レントゲン画法といわれて 人や動物の姿を ものの内部を透かしてみたときの骨組みを描写したものもある。 アボリジニのアートは とても豊か。シドニーではコピーしか見られないので、本物を観てこようと思う。
とっても楽しみ。
2010年9月2日木曜日
メトロポリタンオペラ 「ばらの騎士」を観る
ニューヨークメトロポリタンのオペラを ハイデフィニションフィルムに収めたものを 映画館で観た。同じハイデフィニションフィルムを日本でも、限られた映画館で上映しているそうだ。日本で上映しているフィルムのなかには、歌舞伎も狂言も文楽もあるらしく、そういったフィルムを ここでも観られたら どんない良いか、、、と思う。
オペラは リチャード シュトラウスの「ばらの騎士」、原題「DER ROSENKAVALIER」、「デル ローゼンカヴァレル」というドイツオペラ。リチャードを日本では ドイツ語読みにしてリヒャルドといっているみたい。ウィンナーワルツの ヨハン シュトラウスとは関係ない ゴリゴリのドイツ人作曲家。
初演は1911年、ドレスデンロイヤルオペラハウス。3幕 3時間30分と、長い本格的オペラで、リチャード シュトラウスの代表作とされている。他に彼は「サロメ」、「エレクトラ」など とても前衛的なオペラを作曲したが 「ばらの騎士」が大ヒットしたため これが彼の最高傑作といわれている。初演時から人気が出て、ヨーロッパ各地から このオペラを観る人達のために 特別列車が仕立てられ「ばらの騎士列車」とよばれたそうだ。ウィーンの香り高い 優雅でモーツアルト風の繊細さに満ちている。吉田秀和が オペラの中で モーツアルトを除けば これが一番好きだ と どこかで書いていた。
「ばらの騎士」というと、手塚治の「りばんの騎士」を思い浮かべてしまうけど ウィーンの貴族の間で当時 婚約の契約に際して 相手に銀の薔薇を送る習慣があり、その薔薇を届ける使者のことを薔薇の騎士と呼んだ。
シュトラウスはソプラノの声を一番愛していて、世界で一番美しい音だと言っていた。このオペラでは テノールを歌う王子様や恋を語る男はいない。銀の薔薇を届ける美青年の騎士オクタビアンは メゾソプラノを歌う男装の麗人 女性だ。昔はカステラートが 歌っていたのだろう。カステラートは、高音を歌うために睾丸を除去された歌い手のことで これについては5月26日の日記で書いたので繰り返さない。
このオペラでは 極端にアリアがなく、合唱もない。メゾソプラノの薔薇の騎士オクタビアンと ソプラノを歌う彼の愛人と恋人の3重唱が 多くて みごとに美しい。歌のどれもが重唱だ。繊細だが難曲ばかり。音程も次々と転調し 演奏するオーケストラはどんなに大変か と思う。頼まれても演奏したくない。安楽椅子で聴く分には 実に贅沢な喜び。立場が違えば 天国と地獄だ。
舞台設定が マリア テレシア時代のウィーンなので ロココ調の家具や衣装で、それを舞台に再現するとものすごくお金がかかる。お金も時間も しっかり掛かる 重いドイツオペラ。絶叫型アリアの多いイタリアオペラと比べると、何と違うテイストだろう。
しかし ハイビジョンフイルムを映画館で観て $24もするけれども得をした気分になれるのは、2回ある幕間の休憩時間に、フイルムが止まることなく 幕の内側で、舞台セットを組みかえるために何十人もの作業員が 次の舞台を作る様子をずっと見せてくれることだ。これは オペラより面白いかもしれない。クレーンで階段がつるされて、背景を描いたパネルが次々とはめ込まれていく。魔術をみているようだ。
またプレシド ドミンゴの 出演者へのインタビューまでサービスされていて、舞台裏で歌手達の素顔が見られるのも、うれしいオマケだ。
ニューヨークメトロポリタンオペラオーケストラ
指揮:エド デ ワート
キャスト
マルシャリン元帥夫人:レネ フレミング
騎士オクタビアン :スザン グラハム (メゾソプラノ)
ソフィー :クリステイン シャファー (ソプラノ)
オックス男爵 :クリステイン シグマドソン(バスーン)
ソフィーの父ファニル:トマス アレン (バリトン)
ストーリーは
ウィーンにある屋敷で マルシャリン元帥夫人と 17歳の美青年オクタビアンは愛し合って暮らしている。
そこに夫人の従兄弟に当たるオックス男爵が訪ねてくる。彼は俗物で、ケチで野卑で臆病者で好色漢だ。ファニルという新しく貴族に昇格した裕福な成金の娘、ゾフィーを妻に迎えたい意向をもっている。そこで、マリシャリン元帥夫人は オクタビアンを婚約成立のための薔薇の使者に立ててやることにする。
純白の美しい衣装を身に着けたオクタビアンを先頭に オックス男爵はファニルの屋敷に到着する。銀の薔薇の花を 娘のゾフィーに手渡して口上を述べるオクタビアンは しかし一目で可憐なゾフィーに恋をしてしまう。ゾフィーも美しくて立派な騎士オクタビアンを一目で愛してしまう。
そこに登場するオックス男爵は 無作法な上、すでにゾフィーの主人になった気で強引にことを運ぼうとする。たまりかねて、ゾフィーは オックス男爵と結婚しない、と父親に宣言して、 オクタビアンに助けを求める。しかし父親は娘のわがままを許そうとはしない。オクタビアンは いやがるゾフィーを無理に 連れ出そうとするオックス男爵を 止めさせようとして剣を抜くが、オックス男爵は からきし臆病で剣は使えず オクタビアンに肘を突かれて怪我をして大騒ぎをする。
オクタビアンは策略を練る。召使を使って オックス男爵に 女からの偽の手紙を渡して密会におびき出すことにした。いかがわしい宿屋に、オックス男爵が 約束どおりにやってくる。現れたのは 女装したオクタビアンだった。男爵が熱心に口説き始めると、ゾフィーも、ファニナルも、警官や おまけに元帥夫人までが現れて、大混乱。あまりの醜態に、元帥夫人はオックス男爵に 貴族としての自覚をもって、立ち去るように命令する。
そこで元帥夫人とオクタビアンとゾフィーの3人になる。オクタビアンは 元帥夫人に未練はあるが、ゾフィーを放っておくこともできない。そんな 混乱してうろたえるオクタビアンに向かって、元帥夫人はやさしく、若い二人で幸せになるように、と言い置いて自分は去っていく。というお話。
気品があり、風格も備わっている元帥夫人のソプラノと、若くて可憐、初々しいゾフィーのソプラノに オクタビアンのメゾソプラノが加わって みごとな3重唱になる。オクタビアンを愛しているのに、自分はもう若くないのだから 愛を捨ててあげましょう と嘆きながらも力強く愛を歌いあげる元帥夫人と、ただ一途にオクタブアンを愛していますと訴えるゾフィーのソプラノが オクタビアンの低音にからみあって、とても美しい。
この3幕の3重唱には、シュトラウスにとっても とても愛着のある曲だったようで、彼が亡くなったとき遺言どおりに、この3重唱が演奏されたそうだ。
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