2010年9月25日土曜日
北部準州ダーウィン 第二日目
気温35度、日中の日差しが強くて ちょっと街と海辺を散策しただけで たちまち真赤に日焼けした。ダーウィンの街は こんがり日焼けした若者であふれている。世界中からやってきたバックパッカーたちだ。街にはマックも コールススーパーマーケットも ユースホステルもある。しかし海は ワニとクラゲがいるので 波乗りや遊泳などはできない。テントを載せてキャンプして移動しながら ダーウィンからカカドウ国立公園を見て回る四輪駆動ジープの旅をする若者達の顔は 冒険者達の顔だ。良い顔をしている。
ここ 北部準州(ノーザンテリトリー)の議会と博物館を見る。
博物館は美術館も兼ねていて アボリジニーのキャンパスに描かれたみごとな絵画がたくさん並んでいる。アボリジニの絵画は それぞれの土地の泥とか植物を顔料に使っているので 描かれたときと同じ状態に温度と湿度を維持するのが とても難しい。アボリジニーの作品は維持費が他の絵に比べて 何倍もかかるし、維持するのが大変だと、美術館のアボリジニーのスタッフが言っていた。
博物館の中に 1974年のクリスマスイヴに ダーウィンを襲ったハリケーン トレイシーに関する一角がある。このハリケーンでダーウィンの70%の建物が崩壊して、50人の死者を出した。このときの風速150キロというとてつもない殺人的な風の音を 来館者に体験させるための小部屋がある。真っ暗な部屋の中に入ると 風速150キロが襲う風の音を再現してくれて、ハリケーンの恐怖を体験させてくれる。一人で入ったので、とても怖かった。
ダーウィンというと、必ず1974年のハリケーン トレイシーの話が出てきて、ついでに1942年の日本軍ダーウィン爆撃の話がでてくる。これはもう、セットメニューのようなもので、避けて通れない。1941年12月 日本軍はパールハーバーを攻撃したあと、1942年2月には ダーウィンを 242機の戦闘機で爆撃したため 湾内にいた6隻の大型船が沈められ、市庁舎、病院などが破壊、243人の民間人、軍人が亡くなった。パールハーバーとちがうところは、一回だけの攻撃ではなくて、日本軍はここを1943年までの間に、何度も繰り返して空襲したことだ。したがって、いまだにダーウィンでは 日本人の受けが良くない。
ダーウィンにはたくさんの岬があるが、先端はみな軍事基地になっていて、立ち入ることが出来ない。イラク、アフガニスタン、スリランカなど、内戦状態にある国々から、ボートでオーストラリアに難民としてやってくる人々が押し寄せるからだ。ブラックマーケットが インドネシアにあって、人身売買のプロが 難民受け入れの時期を読みながら 小さな漁船で 一人200万円とかを取り立ててボートでやってくる。世界で戦争がある限り、また富める者と 何も持たない者がある限り 難民として自分の国を捨てる人は後を絶たない。欧州でも米国でもオーストラリアでも日本でも 難民受け入れは 簡単に解決することのできない難題だ。
明日から ダーウィン発キンバリーの旅のグループの一員になる。キンバリーというと、西オーストラリアの秘境といわれるところだ。たくさんの山と渓谷と湖がある。一般観光地ではない。来る前に、調べてみたがあまり この地域の旅を紹介するものが見つからない。プロの写真家の写真集ならある。で、図書館の司書に、「キンバリーの本をみたい。」と言って 探してもらおうとしたら、北部準州の項で探している。「ちがいます。西オーストラリアです。」と、言ったら司書に睨まれた。詳しい地図とか、ガイドとかが見つからなかったので、行って見るしかない。そんな旅もいいかもしれない。
今日も 冷えたビールが美味しい。
写真は、北部準州議会、日本軍爆撃による被害者の墓地、アボリジニーの絵画