2020年9月23日水曜日

映画ジャック ロンドンの「野性の呼び声」

原作: 1903年 ジャック ロンドン作
原題:THE CALL OF THE WILD
監督: クリス サンダース
キャスト
ソーントン:ハリソン フォード
郵便配達夫:オマール シー

ジャック ロンドン(1876-1916)が居なかったら、アーノルド ヘミングウェイ(1899-1961)は小説を世に出さなかったかもしれない。ジャック ロンドンがほとんど文盲ながら冒険小説を書いて新聞社に売りに行っていなかったら、ヘミングウェイの作風は、ずっと異なった文体で描かれていたかもしれない。
ロンドンは40歳で、モルヒネを飲んで死んだが、ヘミングウェイは61歳で、散弾銃で自分の頭を撃ち抜いて死んだ。どちらも男の中の男、文体は簡潔。写実的で明確。行動的で冒険的な生活をして、勝手に自分で死んでしまった。私はこの二人の作家が熱狂的に好きだ。
ジャック ロンドンの「野性の呼び声」と、「白い牙」は、子供の時の愛読書だった。この人間ではなく犬の冒険物語を、何度繰り返し読んだか知れない。

1903年に書かれた「野性の呼び声」を日本で初めて翻訳したのは堺利彦、こんなところで彼に会えるなんて! 1919年のことだ。堺利彦(1871-1933)は、内村鑑三、幸徳秋水らと日露戦争に反対し非戦論を唱えた社会主義者だが、「平民新聞」を刊行、大逆事件を獄中で知り、山川均、荒畑寒村らと1922年に日本共産党を結成、のちに離党し労農派として活動した。当時の彼ら社会主義活動家たちの本を読むと、その貧乏な暮らしぶりを知ることができる。生活に困った堺利彦は色町の女たちの恋文を代筆したり、雑誌社に雑文を書かせてもらったりして食いつないでいた。そんな彼が、ジャック ロンドンの冒険小説を、「共産党宣言」を翻訳した翌年に翻訳していたことを思うと感慨深い。

いま日本では、「マーチン エデン」というイタリア映画を上映中をのようだ。これはジャック ロンドンの半生を描いたバイオグラフィーで、主演は、ルカ マリネッリ。2019年今年のアカデミー賞男優主演賞も、ゴールデングローブ賞も、「ジョーカー」のホアキン フェニックスが受賞したが、ベネチア国際映画祭では主演男優賞を、このルカ マリネッリが受賞した。孤高の作家を演じた役者が優れていたのだろうが、それほどジャック ロンドンの一生が劇的だったとも言える。


映画のストーリーは
19世紀末。カルフォルニア州サンタクララバレー。
パックはセントバーナード犬とスコットランドコリー犬との間に生まれた大型犬だ。裕福な判事一家の住む大きな屋敷で大切に育てられた。体重は63キロ。やんちゃで甘えん坊、判事一家の誰からもあふれるほどの愛情を受けてきた。しかし4歳になったある日、出入りする庭師に誘拐されてれて売りに出され、列車でアラスカに送られてしまう。

当時カナダのユコンでは、金脈が見つかりゴールドラッシュに沸いていた。深い森を切り開き、岩山を削り山道を開通させて金を掘る男たちは、馬で走るには危険なため犬ぞりで雪と氷の山の中を移動しなければならない。重い荷物を引いて走れる大きな力の強い犬が必要だった。ユコンに着いて、生まれて初めて雪が舞い降りるのが不思議で走り回るパックを見て、誘拐犯たちは笑うが、パックには極寒の土地で他の犬たちと重いそりを引く過酷な運命が待っていた。
男たちは、言うことを聞かないパックを半死状態になるまでこん棒で殴り続ける。そり犬たちも1頭として親しくする犬はなく皆が敵だ。パックは厳冬の中で、いかにして与えられた粗末な食べ物を仲間の犬に奪われないように食べ、こん棒で殴られずに、他の犬からしかけられた喧嘩に打ち勝って生き延びるかを学び取っていく。

最初のパックの買い手は、郵便配達員のフランス人夫婦だった。12頭の犬たちで重い郵便物を、ユコン全域に届ける重労働に就く。途中凍ったユコン河の氷が割れ、凍る河に落ちた飼い主をパックが救ったこともあり、飼い主の信頼を得てソリの先導犬として活躍する。しかし突然、政府の費用削減のため郵便配達業務が中止となり、パックはまた売りに出される。
次の買い手は、金鉱目当てにアラスカに来たばかりの3人の男女だった。彼らはソリの扱いを知らず、重い荷物を少ない犬たちで引くことを強制し、満足な食事を与えなかった。弱い犬から次々に死んでいく。命令に従わないパックを3人組がこん棒で打ち据える様子を見ていたソーントンという老人が見かねて、死にかけていたパックを譲り受ける。

ソーントンは、単独で山に入り小さな小屋を作り、何年も一人で金鉱探しをしている孤独な老人だった。彼に傷の手当をされ、食べ物を与えられ、パックは忘れかけていた主人への信頼と忠誠心を取り戻す。谷の合間に建てられたソーントンの小屋からは、狼たちの叫び声がよく聞こえる。中でも白い雌の狼は、誘うようにパックのすぐ近くまで来るようになった。パックはこの美しい狼に惹かれる。そんなある日、ソーントンは、ならず者たちに襲われて殺される。パックはソーントンが死んだことを知って森に入っていく。白い狼がパックを待ち受けている。
というところで映画は終わる。

でも原作では、「その後」があって、、、狼の群れを一回り大きな犬のような狼が率いている。先頭の狼にはいつも白い雌の狼が寄り添っている。その群れは極めて頭がよく残忍で、人々が仕掛けた罠をわざと壊し、飼い犬や狩人を襲い、のどをかみ切って殺し、その血をそこいらじゅうに残して引き上げる。しかし毎年夏になると、その大きな狼は1頭だけで、むかしソーントンが殺された谷まで下りて来て、苔むした崩れかかった小屋の前で、長い長い悲しみに満ちた遠吠えをあげて、そして去っていく。それをインデイアンたちは、幽霊犬といって恐れていた。というところでお話が終わる。


白銀の世界を12頭の犬が引くソリが走っていく様子が、たとえようもなく美しい。雪崩が起きることを知ってパックがやみくもに走り抜け、山々が崩れていくシーンには感動した。アラスカの山々の純白の世界と恐怖、音もなく山が崩れ形を変えて生き物たちを踏むつぶしていく。雄大な自然の美しさ。
ハリソン フォードが孤独な年よりを演じていて、それなりに悪くはない。

この映画の決定的な欠点は、CGにある。犬のパックの動きをシルクド ソレイユのバレエダンサーがモーションキャプチャーで演じ、それをもとにCGで作ってフイルムにしたそうだ。そのために犬の動きは自然だが、CGで作られた犬の表情は、犬の表情とは思えない。吐き気がするほど、嘘っぽい。

CGは、映画にとってどこまで許されるのだろうか。それが数万人の兵隊の戦争場面とか、100万人の市民が蜂起して革命が起きる場面とかに使われるのならわかる。だから100%CG映画なら良い。また、監督ジョン ファブローによる100%CGの「ライオンキング」は純粋にアニメ映画だが、とても良かった。彼は、単にアニメ映画を作るのではなく、本物の撮影監督が本物のカメラで、ドキュメンタリーを撮影するようにして映画を作った。自然の光、動物の自然な表情、自然主義リアリズムのある、動物をどうやって本物のように動かすかで、映画技術としては最先端といわれる技術を使った。
それに比べると、この「野性の呼び声」は、アニメではない、CG映画でもない、実写映画でもない中途半端な顔をした犬が主人公だ。それは困る。この映画は実写映画で、ヒューマンストーリーなので、主人公の犬は、CGで作ってもらいたくない。犬は動物の中で一番表情の豊かな生き物だ。犬の心の動きは逐一表情の変化になって表れる。犬好きの人にはそれがよくわかる。犬ほど主人の喜びを一緒に喜び、主人の悲しみに同感を示して悲しみ、主人とともに生きようと努力してくれる生き物は他にはいない。犬の表情はそのまま言葉を超えて人は理解し受け止めることができる。豊かな犬の表情を、勝手に操作しないでもらいたい。気持ちが悪い。

テイム バートンの「ダンボ」もこれと同じで、実写映画なのに、象の顔の表情だけが人間様の表情をCGで作っていて、気持ち悪い。極端にきょとんとしたり、大げさに嬉しそうにしたり、目をキラキラさせたり、、、CGで動物の顔を作るのは、動物に対する理解を妨げ、生きているものの尊厳を傷つける。やめてもらいたい。
これからの映画では、ますますCGが多様化し、多くの映画で使われ、なにが本物で、どこまでが現実でどこまでがCGなのか、全くわからないように、CG技術も洗練されていくことだろう。それが良いことなのか、悪いことなのかわたしにはわからない。でも、犬の顔をCG操作するような映画だけは今後は見ないつもりだ。