2020年10月5日月曜日

1968年とは何だったのか

           



映画「シカゴ7裁判」「THE TRIAL OF THE CHICAGO7」という映画を見た。1968年に米国民主党全国大会が開催されたとき、反ベトナム戦争を叫ぶ平和的なデモ隊に、完全武装した警官隊が襲い掛かり沢山の負傷者を出したが、7人の活動家が逮捕、起訴された事件を扱った映画だ。NETFLIX制作で、早くも2020年のアカデミー賞にノミネイトされると言われている。1968年という時代が自分にとってどんな時代だったのか、説明することなしにこの映画の映評が書けない。そこで日本の戦後史にとって1968年とは、どんな年だったのか、書いてみたい。

第二次世界大戦では戦没者310万人、当時の人口の4%が失われた。日本兵の死因のほとんどは餓死だった。1945年8月に日本軍は連合軍に対して無条件降伏して戦争は終結され、アメリカ進駐軍によって日本は占領、統治された。
1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約締結を条件に、占領軍は撤収、日本は再び独立国となった。日本という国は他国を侵略したこともなければ、侵略支配されたこともない平和国家だったわけでなく、中国、韓国、フィリピン、シンガポール、ビルマ、インドネシア、ニューギニア、ソロモン諸島など沢山の国を侵略した結果、敗戦を機に米国に7年間支配され再建した国なのだ。

その10年後の1969年、日米安全保障条約(安保条約)は、日米がより軍事的に協力し強化していくことを約束し10年間延長された。そしてそのまた10年後の1970年、アジアの平和のために日米協力して軍事同盟を共同して強化していく、として議会で決議され現在に至っている。その間、米軍は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク侵攻、シリア内戦などはを引き起こしているが、日本は、沖縄基地を米軍に提供し、米軍の出撃基地となり、その一翼を担ってきた。安保条約と日米地位協定だけでなく、安倍政権は憲法解釈によって積極的に戦争に海外派兵できる体制を作り、特定秘密保護法、安全保障関連法、共謀罪法などで警察国家として日本の軍事力を強化してきた。日本は侵略し、侵略され、シリアなどの戦争に加担している血なまぐさい軍事国家なのであって、決して平和な国でも、和をもって礼節をわきまえた美しい国でもない。それを胸に刻みたい。

自分は、1949年戦後米国の占領下の日本に生まれたベビーブーマー。子供のころは、街角や電車でアコーデオンを抱え義足や義手をつけた傷痍軍人が軍歌を歌って小銭を求め、上野駅の地下には孤児や家のない家族が暮らしていた。大雨が降れば荒川や江戸川が氾濫してゼロメートル地帯に住む人々が、浸水した家の屋根の上で生活している姿を京成電車から見た。
小学校5年生のときに、1960年自民党の岸内閣によって国会に警官隊を導入してに安保条約が強行採決される、暴力内閣の様子をテレビで見る。国会を取り巻く警官隊、抗議のために集まった数十万人の市民、労働者、学生、このときの安保条約反対集会は、延べ6290か所。参加人数は延べ460万人に及んだ。国会を前にしたデモで、当時東大生だった樺美智子さんが圧死する。当時ブントで全国学生連盟(全学連)議長の唐牛健太郎は、警官隊の装甲車を占拠しその上で演説をしたあと先頭に立って国会に突入した。反対運動の高まりの中でアイゼンハワー米国大統領は来日を取りやめ、岸信介政権は退陣する。

1967年ベトナム戦争が本格化し、8月に新宿駅で立川基地に米軍ジェット機の燃料を輸送する列車が衝突事故を起こし、青梅街道ガードから100メートル四方が火の海となった。王子にはベトナム戦争野戦病院が建設され、王子と沖縄ではベトナムで死んだ兵士がつなぎ合わされ綺麗に処理されて本国に送られていった。
1968年、米軍のベトナム戦争介入はさらに本格化し激しい北爆が続いていた。1月、佐世保に米軍エンタプライズとミサイル巡洋艦が寄港することになり、佐世保港がベトナム戦争出撃基地となる。それを阻止するために、延べ5万6千人の市民が集結した。
私は大学に入ると同時に、自分の大学でなく明治大学を訪れる。上原敦男(よど号ハイジャック)、遠山美枝子(赤城山で殺害)、重信房子(服役中)が最初に学生会館で会って仲良くなった活動家だった。でも、一番私が共感し、影響を受けた活動家は味岡修(三上治)だった。彼はベトナムに飛んでアメリカ兵と戦うためにベトナムに志願兵として合流しようとしていた。反ベトナム戦争、70年安保阻止運動は空前の高まりをみせていた。

大叔父はリベラルな大内兵衛、叔父は宇佐美誠次郎、父は早稲田大学政経学部教授、しかし父は私がデモに行くのを許さなかった。サッサと家を出たが、そのころはどの大学も封鎖していたから泊るところに不便はなかった。1968年と69年に2回デモで逮捕されるが、未成年だったので起訴を免れた。警察署の留置所に入る経験をして良かったのは、普通に大学生となって生きてきたがそれが普通なのではなく、警察署の雑居房にいる人たち、売春婦たち、バーでもめ事を起こしたレズビアン、朝鮮人の密売人など今まであったことのなかった人々に会えたことだ。怪我をして房に放り込まれて痛みと怒りで一杯の自分が、そんな人たちから優しく看護された。母親より優しかった手のぬくもりが忘れられない。娑婆に出てみると、ブントは二つに割れていた。関西から塩見孝也議長が過激文書をもって上京し、赤軍ができていた。そっちにいっちゃだめだ。まちがいだ。レーニンの組織論に戻ろう、と叫んでいるうちに仲間は仲間でなくなっていた。
思い描いている理想社会が一致しない、意見が異なる、方針も戦略も違う。でもだからどうした。仲間じゃないのか。どうして殴り合う。アジトを襲い寝込みを襲い、拉致して閉じ込める。どうして死ぬまで殴るのか。組織が組織である以上、人間を捨てなければならないのか。

1968年がどんな年だったか。このころの騒然とした社会状況を説明するのは難しい。誰もが暴力的だった。国はより激しく暴力装置としての国家権力をむき出しにしていた。
このころに逮捕され長期拘留されていた友人たちを思うと、どうして自分ではなくて彼らだったのか、と胸が痛む。殺された仲間たち、自死した友達の顔がよみがえってきて胸がふさがれる。
日本を離れて34年になるが、状況は少しも良くなっていない。市場原理、新自由経済政策のおかげで国の公共機関であった資源、福祉、教育が私企業に売り渡され、貧富間の格差は広がる一方だ。経済効率主義は環境汚染を広げ、地球温暖化を促進させる。日本の軍事予算は大きくなる一方で、安保条約は軍事同盟として強化されてきた。
米国は世界中に米軍基地を持ち、世界一の技術で通信網を維持し数々の戦争をしてきた。ソマリア戦争、イラン侵攻、アフガニスタン占領、シリア内戦、リビア内戦、イラン核兵器の虚言と経済封鎖、ウクライナ転覆、イエメン戦争、パレスチナ占領の容認、などなど、これらのすべてに日本は加担してきた。
私企業である軍需産業が国を支えているから、供給を満たすために需要、すなわち戦争をやめることができない。中国が国力を増し、かつての米ソ以上の米中対立は深刻な勢力争いになる。日本はそれを止めることはできない。1968年は一つの大きな通過点だった。今になってそう思う。