当時フィリピンの国会議員の20%以上が、米国のグリーン カードを持っているということだっ た。いつでも自分の国から逃げ出せる連中が1国の政治を司っていたわけだ。
娘たちが通っていたマニラインターナショナルスクールは、幼稚園から高校までの生徒数が2000人足らずの学校だったが、世界各国から来ていた外交官やアジアバンク、商社などの外国人子弟が通ってきてた。そして現地のフィリピン人を生徒数の7%だけ受け入れていた。その7%の子供たちが、どれほどお金持ちの家から来ているかは、まったく驚くほどだった。
私はオーケストラを指導していたが、弦楽器と木管楽器全員で80人くらいの生徒と教師を大型バスに乗せ、地方の海べの別荘に連れていき宿舎と食事などすべて世話をして数日後に送り返してくれるような屋敷を所有する家庭がいくつかあって世話になった。
フィリピン現地採用のコーラスを教えていた女教師の父親は医師だった戦時中に「バタンガス死の行進」の生存者だったが、招かれて屋敷に行ってみたら、常時料理人を8人抱えた大きな屋敷で素晴らしい料理が出てきて、帰りは6台のメルセデスを持っているので、どれでお送りしましょうか、といわれて耳を疑った。
バイオリンの個人レッスンで行った屋敷では、驚いたことに玄関から居間までのスペースに飾り立てたジープニー(乗り合いバス)が飾ってあったことだ。普通玄関には花瓶に生けた花などかざるものだが。それほど大きな屋敷だった。
また、娘の同級生は、毎年ウィンブルドンに家族でテニスの観戦に行って有名選手からテニスの手ほどきを受けていた。
ピープルズパワーで独裁者マルコスを追放したあとに大統領となったアキノも、出身コファンコファミリーは、自分たちの領地には私兵軍隊も銀行も学校も教会もあり、中に電車が走っているような大きな領地をもった大領主だった。
少し私たちが住むビレッジを出て街に出れば、どぶに死体が浮かんでいる。うつぶせになった死体の顔を見ようと、両岸にいる子供たちが頭に向かって石を投げつけている。
交通事故でフロントがつぶれて運転手も乗客も死んだか気絶していて動かない。通行人がドアを開け乗客のポケットから財布を抜き取っている。
用があって出かけたとき、反対側のエドサ通りにガソリンスタンドがあって、給油するところに全裸の少年がうつぶせで横たわっている。ドライバーに聞くと、酔っ払いでしょう、と笑っている。この子の周りを男たちが、その体を蹴飛ばしたりあざ笑っていて、体のすれすれを車が止めて給油している。心残りのまま通りの反対側なので通り過ぎたが、あとでそれが暴行され、捨てられた10代の女の子だったと聞いて悲鳴を上げずにいられなかった。 貧富の差というものを、これほど見せつけられたことのない数年間だった。