2025年5月22日木曜日

フィリピンマニラ マカテイ

 3年間(1987-1990)フィリピンレイテ島オルモックで過ごした後、夫がレイテ島だけでなくサマール島やマニラで、いくつもの大きなODAのプロジェクトの指揮をとることになり、家族でマニ
ラに移住することになった。
オルモックではフィリピン人15人に1人を日本軍が殺したことへの、免罪符としてのODAで、仮に命を狙われても仕方がないと夫は思っていた。銀行も郵便局もない、人口2万人弱の町を拠点に、道路工事の技術者を含めて何千人の労働者の給料を、毎月現金で運ぶことは危険極まりない仕事だったと思う。どうやって運んでいたのか、夫は私にも決して言わなかった。ずっと後から、ドライバーだった人に、夫が運転手の服を着て運転し、運転手が夫の服を着て2時間、レイテ島の首都タクロバンから車で往復したこともあった、と聞いた。
オルモックを去ることになり、3年間使用したベッドやソファーや冷蔵庫など、世話になった方々にあげて、私も安全装置を外して息を詰めていた瞬間はあったが、引き金を引くことはなかったコルト銃とお別れした。

マニラでは高圧線の入った高い壁に囲まれて、24時間ガードマンが警備するビレッジと呼ばれる外国人向けの住宅に住み、娘たちはインターナショナルスクールに通うようになった。
ちまたでは商社丸紅の支社長が誘拐されたり、暴力団がフィリピン人ダンサーと偽装結婚しては人身売買したり、スキャンダルがいくつもあったようだが、娘たちは日本人学校には通わずに米国の学校に行ったので、日本のゴシップには関わらずに済んだ。

マニラインターナショナルスクールには、世界各国の大使館職員やアジア銀行職員の子弟が主に通っていた。米国のボストンで試験に受かって採用された教師たちによって、米国製の教科書を使って教育が行われた。学費は年200万円ほどで、高額だが教材は豊富で、何か足りないものがあると、軍の飛行機ですぐに届いた。学業だけでなくスポーツも授業で水泳、サッカー、バレー、バスケット、ホッケー、ラクロス、アスレチックなど習って、音楽教育も、オーケストラが編成できるよう弦楽器、木管楽器が、すべてそろっていた。
生徒のほとんどは12年生(高3)までここで学び、米国の大学に進学する。成績だけでなく、スポーツや音楽など課外活動にどれだけ活躍したかで、受け容れる大学が決まる。その州に家のある子どもは州立大学の授業料は無料だった。また、優秀な子供はインターナショナルバカロレアのコースを取ると、大学に入って1年生を飛び級して大学2年生から専門教育を受けることができる。娘たちが学ぶのに申し分のない学校だった。

マニラに移って1年ほどして私は夫を、娘たちは父親を失った。家族ビザがなくなったので、娘たちの学校の弁護士に相談に行くと、それまでボランテイアでバイオリンを教えていたが、現地採用で学校が音楽教師として雇うので、ビザを発給してくれる、という。肝っ玉お母さんみたいな太っ腹のフィリピン人おばあさん弁護士で、彼女の一言で、入管局に足を運ぶこともなく、ビザ問題が解決できて、娘たちがそのまま学業に専念できたことは、とてもありがたかった。
マニラに移って1年ほどして、レイテオルモックでは災害が起きた。オルモックの山頂には大きな湖があるが、雨で決壊して大量の水が山から落ちて来て海に流され、人口の半分ちかくの人々、8000人が亡くなったのだ。3年間住んだ屋敷は、海辺まで200メートルほどの距離にありメインストリートに面していたから、1年引っ越しが遅れていたら無事ではなかった。
日本で買った2000円くらいの安い時計を、仲良くしてくれた海岸沿いのサリサリストアのおじさんにあげたことがあった。彼は山からの水で海に流されて顔が誰だかわからなくなって引き上げられた。「あなたがあげた腕時計で身元が確認できたんだよ。」と人伝てに聞かされて、大泣きした。
写真はフィリピンの国花 サンパギータ