2025年5月20日火曜日

フィリピンレイテ島 オルモック

フィリピンは330年間スペインの植民地だったがその後、米国の統治下に置かれ、太平洋戦争では、4年近く日本の植民地にされた。日本軍と米国フィリピン連合軍との間で行われたマニラ市街戦やレイテ島などの激戦によって、日本軍は111万人のフィリピン人を殺害した。当時の人口1600万人のうちの111万人というと、じつに15人に1人のフィリピン人の命を、日本軍は奪った。

幼い2人の娘たちを連れて家族赴任で1987年から1996年まで、フィリピンに滞在した。初めの3年間はレイテ島オルモック市だった。レイテ島は戦争で最も激しい戦闘が行われ日本軍の死者を最も出した土地だ。私たちが赴任したころは、この戦争の生存者で家族を失った人もまだ多かった。ちょっと掘ると日本軍のヘルメットなど沢山出てきた。
また赴任した前年は、1986年2月にエドサ革命が起き、独裁者マルコスの戒厳令に抗して人々が、軍の力をはねのけマルコス、イメルダ夫婦を追放したばかりだった。しかし首都マニラから遠いレイテ島は、イメルダ夫人の出身地でもあったから、いまだ小規模の争いは続いていて、不穏な空気も残っていた。

唯一の飛行場だったレイテ島の首都タクロバンの、ただの原っぱとしか思えない飛行場に小型機がふわりと着地したところから2時間、車で山を越え谷を越え、人口2万人のオルモックに到着。私たちは町で唯一の外国人家庭だった。
夫は第一級建築士と、第一級施工管理士の資格を持つ、建設省のエリート役人だったが、異端児で、現場が好きで、日本の政府開発援助(ODA)の資金でレイテの道路のないところに道路を通すプロジェクトの総指揮をとることになり、現地に派遣されたのだった。まだマウンテンピープルと呼ばれていた共産ゲリラが山を根拠地にしていたから、開発に反対する彼らとの軋轢もあった。赴任に当たって生命保険を掛けようとしたが、どの会社からも断られ生命の保障なしの出向だった。
沖縄生まれの大型犬を連れて来ていたから、私は毎朝1時間ほど海辺を散歩する習慣でいたが、軍によって殺された引き取り手のない死人を収容する小屋の横を、腐臭を我慢して通らなければならなかった。海辺で転がっている死体を発見したことも1度や2度ではない。
住んでいた屋敷は、外観は美しい白壁のスペイン風建物だった。そこで毎月のように市長、町の有力者、工事関係者、隣人たちを招待して大きなパーテイーを持った。そのたびにレチョンという豚の丸焼きが2頭犠牲になった。

国民の15人に1人が日本軍に殺され、ともすれば反日感情が噴き出てくるような状況で、だからこそODAの役割は大きかったはずだが、私たち家族はこうした人々に囲まれて外交的な役割を果たすことに必死だった。まだ小学低学年だった娘たちの笑顔に、どんなに助けられたか計り知れない。母娘3人でバイオリンを弾きまくった。モーツアルトのアイネクライネナハトムジク、バッハのバイオリンコンチェルト第1番、、、小学校で、高校で、パーテイーで、呼ばれるところはどこでも弾いて、音楽好きな現地の人々と交流した。メイドさんたちには、高校に通ってもらった。ドライバーさんたちにはバスケットボールコートを作らせ、チームを作って対抗戦ができるまで支援した。
道路工事が始まり、機材が運ばれても100のシャベルで100人の工夫が働けば、翌日はシャベルは持ち去られ誰も働きに来ない。また別の100人を雇い機材を持たせてもまた持ち去られる、そんなことを繰り返しながら、夫も大変だったと思う。また夫は出張が多く家に帰れないときが多かった。ガードマンを雇っても、夜遊びに行ってしまう。母娘だけで寝ていた夜、ベランダから数人の男たちが侵入して薄いドアⅠつ隔てて震えていたこともある。小さな銃コルトを枕に置いて寝ていた。

111万人のフィリピン人を殺した贖罪として日本政府が提供した、累計4兆6千憶円のODA政府開発援助金を決定した政治家たちや、フィリピン首都マニラのエアコンのきいた高層ビルで政治を語っていた外交官などに、地方に住んで援助資金の最前線で赴任家族が日々奮闘する姿など、想像もしなかっただろう。
当時、娘たちはレイテ島で日比間の外交に携わっているという自覚など全くなかっただろうが、しかし彼女らの邪気のない純真な人々との関りが何よりの優れた外交だったのだ、と今にして思う。あれから40年近い時が経ったが、娘たちには感謝しかない。