2010年2月22日月曜日

映画 「ザ ハート ロッカー」



アメリカの経済学者 ミルトン フリードマンは「国の仕事は軍と警察以外はすべて市場に任せるべきだ。」と言った。
しかし、米国主導の市場原理は自由競争によって人々の生活が豊にする、、どころか、世界規模で貧富差が広がる一方だ。理念としてのグローバリゼーションは死に絶え、現実のグローバリゼーションは貧困者を さらなる貧困に追い落としている。

また、国家事業としての軍と警察は、じつは無数の民間事業によって支えられている。純粋に軍と警察が公正な方法で運営されて汚職にも内部腐敗にも無縁であった歴史など どこにもない。

戦争の民営化が言われて久しい。
戦場に人材派遣で、貧困者が送り込まれている。戦争はビジネスだ。かつて、デイック チェイニー副大統領がCEOを勤めたハリー バートン社は石油採掘機の会社だが、子会社を通じて戦場に民間人を派遣するビジネスをしている。わずかな契約金で イラクやアフガニスタンに人を送り込んでいる。イラクで アメリカ民間警備会社が、大手を振って活躍している。市民を虐殺しているのは悪名高いこれら民間警備会社の恐れを知らない雇われ兵だ。
BBCニュースで アメリカ民間警備会社が あるアフリカの村で青年達を集めてリクルートしているところをカメラが捉えていた。イラクという国が 地球儀の上のどのへんにあるのかも知らない若者達が ドルに目を輝かせていた。こういう事実は なかなか表には出てこない。

映画「ザ ハート ロッカー」原題「THE HURT LOCKER」を観た。
監督:キャサリン ビグロー
キャスト:ジェレミー レナー (ジェイムス軍曹)
     アンソニー マッキー(サンボーン軍曹)
     ブライアン ジェラテイ(オーエン技術兵)
     その他、ガイ ピアース、レイフ ファインズ など
ストーリーは
戦時下のイラク、バグダット。
爆発物処理特別部隊EODの仕事は 不発弾や時限爆弾 地雷、ダイナマイトを腹に抱いた人間爆弾にいたるまでの 爆発の危険のあるものを解体処理することだ。戦場での最前線の最も危険な作業をする部隊だ。

人望があり、部下から信頼されていたトンプソン軍曹(ガイ ピアース)は 爆弾を処理した直後、その現場でリモートコントロール操作による爆弾で命を落とす。変わってジェイムス軍曹(ジェレミー レナー)が送り込まれてくる。彼はすでに、873個の爆弾を解体する実績を持っていた。しかし、部隊の中で 余りにも自信家でチームーワークができないジェイソンを、サポートしなければならないサンボーン軍曹(アンソニー マッキー)と、オーエン技術兵(ブライアン ジェラテイ)は、彼に振り回される。仲間としての信頼感が得られないまま 連日 危険な前線で仕事を続行けることで、ストレス レベルも尋常ではない。

ベッカムと名乗る人なつこくジェイムスに付きまとってくる少年がいた。ゲリラの秘密基地を急襲すると、少年が殺されていた。その体のなかには何キロもの爆弾が埋め込まれていた。。少年の体を引き裂き 取り出した爆弾を解体する。さすがのジェイムスも冷静ではいられない。

移動中 スナイパーに狙われている。いつ どこで と言えず、突然兵が倒れ、助け起こしてみると撃ち殺されている。スナイパーは善良そうな羊飼いであり、マーケットの商人であり、ベールを被った主婦だ。
死はいつでもどこにでもある。今日生き残ったのは、ただ運が良かったというだけのことだ。

極限状態のなかで 大型爆弾を背後で操作して多数の死傷者が出た現場で ジェームスは 命知らずにもサンボーンとオーエンとを伴って 犯人を追って 夜の居住地に入り込んでいく。結果、オーエンは襲われて瀕死の目にあう。

任期が終了してジェイムスは帰国する。
待っていた妻のところに帰り、赤ちゃんの世話をする。日常に戻ってもジェイムスにはそれが 何の喜びも興奮や 楽しみも もたらさないことを知る。
そして、彼はまた 志願して爆弾処理部隊として戦場に戻っていく。
というストーリー。

映画を観ている観客は 命知らずのジェームスの肩越しに戦争を見ることになる。怪しげな違法駐車の車。爆弾は見つかったが ワイヤーが どこに通じていて爆発する仕掛けになっているのか わからない。座席を切り裂き フロントを開けで信管を見つける。
目と鼻の先で リモートコントロールで発火させようとしているゲリラが潜んでいる。毎回 違う種類の爆弾が 人の意表をつくかたちで仕掛けられている。解体が楽ではない。ひとつの爆弾で300メートル以内にいる人すべての命が一瞬で失われる。
スナイパーは市民を装い どこにでもいる。ドキドキハラハラだ。
何と バグダッドで米軍は孤立していることだろう。

フィルムの最初に「WAR IS DRUG」という言葉が出てくるがこの言葉が映画のすべてを語っている。戦争は中毒だ。阿片やアルコールのように人の神経を無感覚にさせ、神経をズタズタに破壊する。
ジェイムス軍曹はアメリカが仕掛けたイラク戦争の犠牲者だ。イラクは、米軍など呼び寄せていない。スンニ派とシーア派の対立や 政治腐敗やクルド民族問題など、すべてイラク国内問題であって アメリカやイギリスの介入すべきことではない。大量兵器など持って居なかったイラクに 国連の賛同もなく介入したアメリカ。イギリスではいま、公聴会が開催されていてジョージ ブッシュを後押ししてイラクに介入したトニー ブレアが裁かれている。

戦場の実態に肉薄する映像を作る行為、そのことに意味がある。若い女性監督が 現地を見て 撮影に入っている。よくやっていると思う。
「アバター」を作ったジェームス キャメロンは、自分の作品がゴールデン グローブ賞を受賞したとき、賞は「ハート ロッカー」のキャサリン ビグローが取ると思ってたよ と言ったそうだ。この二人は むかし夫婦だった。元夫と元妻がともに アカデミー最優秀監督賞に ノミネートされて 賞を取り合っている、なんて 素敵しゃないか。

アカデミー監督賞は、この「ハート ロック」か、クリント イーストウッドの「インヴィクタス」になったら良いと思う。
監督に賞を与えて、次の製作を励ますことが、賞の目的ならば、キャサリン ビグローと、クリント イーストウッドに 世界の良識と良心を呼び覚ますような作品を今後も続けて撮ってほしいと思う。

オーストラリアチャンバーオーケストラ 第一回定期公演



今年、最初のオーストラリア チェンバー オーケストラ(ACO)の定期公演会を聴いてきた。このあと、11月まで7回 定期コンサートがある。毎回ゲストがよばれていて、フルート奏者や、チェロ奏者や歌手などが 彼らACOと共演する。

今回は団長のリチャード トンゲテイが独奏者になってモーツアルトを弾いた。プログラムは、

モーツアルト バイオリンコンチェルト第4番 Dメジャー
ハイドン 交響曲46番 Bメジャー
グレグ 弦楽4重奏曲 Gメジャー

毎年、席を変えて ちがう場所から聴く事にしているが 今年は2階席の左、舞台の真上の席にしてみた。なので、ヴァイオリニストの後ろの方の人たちは見えない。
リチャード トンゲテイも、副団長のサトゥ ヴァンスカの顔も正面から見られないが、斜め後ろからリチャードがどんな風に このチェンバーを自分も演奏しながら指揮しているかがよくわかる。
チェロとべースのまん前になるので 低音が良いぐあいによく響く。

モーツアルトのバイオリンコンチェルト第4番は、彼が19歳の時に作った曲だ。父親が高く評価されていたバイオリニストで、作曲家だったので 彼は早くからピアノの名手だった。14歳のザウルスブルグの宮廷オーケストラの団長になってからは、バイオリン奏者としても認められ いくつものコンチェルトを作曲した。

コンチェルト第4番が ことさら有名なのは 鈴木バイオリンのおかげだ。鈴木バイオリンの教科書は1巻から10巻まであるが、その最後の9巻と10巻はモーツアルトのコンチェルト4番と3番だ。鈴木バイオリンの教科書になるくらいだから、練習すれば誰でも弾けるようになる。しかし、ジャズでいうとアドリブの部分になる「カデンツア」になると その弾き手の「音楽」が問われるから、ちょっと練習したくらいでは 弾けない。アドリヴって、ジャズでもロックでも そうじゃないかな。 リチャード トンゲテイは、長い長い華麗なカデンツアを弾いてくれた。この人のカデンツアは 誰にも真似できない。

次のハイドンは 正統派バロックの良さを正統的な室内楽団が演奏してくれて、耳に心地よい。最後のグレグ、弦楽4重奏曲は 重厚で 技術的に スリルに満ちた難曲だった。とても良かった。

大喜びする聴衆がブラボーを連呼しても、どんなに長く拍手しても足踏みしてアンコールを求めても、ACOの定期コンサートでは 団員は演奏が終わるとサッサと 壇上から引き上げる。お客たちが駐車場から 車を出すのに混みあって苦労しているころには、団員達、楽器かついで夜の街に消えている。
観客に媚びない。実力があるのだ。
彼らの潔さが好きだ。

2010年2月20日土曜日

オペラ オーストラリア「椿姫」



今年のオペラ オーストラリアは「椿姫」(LA TRAVIATA)で開幕した。1853年、ヴェルデイ 作曲。オペラの中で 最も人気のあるオペラのひとつだ。
イタリア語で歌われ、オペラ オーストラリアでは 英語の字幕が舞台上につく。原作はアレクサンドラ デュマの小説で、この芝居を観て感激したヴェルデイが オペラにした と言われている。
原作の 「ラ トラヴィアータ」とは、「堕落した女」という意味。高級娼婦 ヴィオレッタが 純愛に苦しみながら死んでいくお話。ヴィオレッタが愛したのは、白い椿の花だ。マリア カラスが最も得意としたオペラなので、彼女が歌うヴィオレッタが、いくつもCDやDVDになっている。

映画「プリテイーウーマン」で、ジュリア ロバートが リチャード ギアと小型飛行機でサンフランシスコに飛んで このオペラを観て、感激きわまり つい自分を抑えられず「すっごく良かった 感激してオシッコちびっちゃうとこだったよ。」と言って、となりの席の上品なおばあさんが卒倒しそうになる。このおかしいシーンを 日本ではどんな風に日本語訳したのか 日本でこの映画を観ていないのでわからないのが残念。観客がどっと大笑いするところを 上手に日本語字幕つける人も プロながら、大変な仕事だと思う。

話はそれるが、ブラッド ピット主演、クエンテイン タランテイーノ監督の「イングロリアス バスターズ」も、原題「INGLOURIOUS BASTERS」で、本来 「ならずも」のという意味のBASTARSが、BASTERSになっていて、「不名誉」という意の INGROURIOUSも、はじめのころは、INGLORIUSになっていた。あきらかに、スペル ミスだが、わざと誤字をタイトルにする ひねこびたのタランテイーノの性格を よく表しているのだけど、ここのところは、気がつく人は気がつくが、わからない人はわからない。それだけに 気がついた人には おかしさが増すところだ。

ついでに言うと また話がそれるが ウィル スミス主演の「幸せのちから」も、原題は「PURSUIT HAPPYNESS」という。直訳だと 「幸せを買う」という意味だが、HAPPYの名詞は、HAPPINESS。ここでHAPPYNESSと、わざと ミス スペリングになっているのは 映画の中で、彼が住むスラムの壁に落書きしてあった 誤字をウィル スミスが見て、こんなところで息子を育てたくない と、肩を落とすシーンからきている。これも題名をみて わかる人にわかる おもしろさがある。

「椿姫」のストーリーは
第一幕
男爵をパトロンにもつ高級娼婦ヴィオレッタは パリ社交界で 男達からもてはやされる 美しい大輪の花だ。チヤホヤされて、有頂天のヴィオレッタ。そこに、若いアルフレッドが、やってきて真剣に愛を告白する。ヴィオレッタは笑って相手にしないが、それでいていつになく胸がときめく自分に気がついていた。

第2幕
パリから離れた田舎 秘密の隠れ家で アルフレッドとヴィオレッタは 二人仲むつまじく暮らしている。世間知らずのアルフレッドは 田舎暮らしをするためにヴィオレッタが宝石や家具を売ってお金を工面していることを知らなかったが 女中から知らされて あわてて金策のためにパリに向かう。

アルフレッドが留守のあいだにヴィオレッタの前に現れたのは、アルフレッドの父親だった。家を出て、娼婦だったヴィオレッタと秘密の愛の巣にいる息子が一家の恥だ。アルフレッドが今の生活を精算して家に戻らなければ 娘の縁談が壊れてしまう。若く将来のある息子を返して欲しい と父親はヴェオレッタに懇願する。ヴィオレッタは、初めて本当の愛を見つけたところなのに アルフレッドの為に別れなければならない。悲嘆にくれるが、アルフレッドのためにはどんな辛いことでも耐えようと決意する。
ヴィオレッタは手紙を残して 姿を消す。
パリの社交界に戻ったヴィオレッタは、パトロンの男爵とよりを戻して楽しくやっている。そこに、嫉妬に狂ったアルフレッドが乗り込んできて、ヴィオレッタを衆人の前で罵倒 愚弄する。怒った男爵は、アルフレッドに決闘を申し込む。

第3幕
すでに、結核に蝕まれたヴィオレッタの命は消えかかっている。死ぬ前に もう一度アルフレッドに会いたいと 望んではならぬ夢をみているヴィオレッタ。医師はもう数時間しかもたないだろう と言い渡すが 生きる希望を失ったヴィオレッタには、死など怖くない。
そこに、アルフレッドが父親とともにかけつける。父親の告白によって、ヴィオレッタが姿を消したのは、心変わりからではなかったことがわかったからだった。真実の愛を誓い合うヴィオレッタとアルフレッドの前で父親は深く頭をたれて謝罪する。しかし 時すでに遅く ヴィオレッタはアルフレッドに抱かれて死んでいく。
というおはなし。

私が一番好きなシーンは 父親に懇願されて ヴィオレッタがアルフレッドと別れる決意するところだ。初めて手にした真実の愛に自分から背を向けなければならないことがわかって、すすり泣き、嘆き、憎み、怒り、悲嘆にくれる。マリア カラスが歌う ここの 父親との長いシーンだけのCDがある。本当に悲しみをかかえて絶望の底に落ちる彼女の嘆息には、思わず泣かずにいられない。

今回の公演で、ヴィオレッタを歌ったのは、ELVIRA FATYKHOVA。ロシア人のソプラノ、なかなか良かった。
アルフレッドの ALDO DI TOROのテノールも良かった。しかし、この作品ではいつも、父親役のバリトンが勝つ。恋人に熱をあげ夢中になり 挙句の果てに恋人に養なってもらい、今度は父親に別れさせられて 怒りを恋人にぶつけて大騒ぎするアルフレッドに比べて 父親の感情を抑えた低音が よく響くのは 立場上 仕方がない。

パリ社交界のシーンで 50人の男女が踊り 歌う第2幕後半のシーンは 派手で華やかでみごとだった。男女コーラスも、ダンサーも美しい服を身に纏い 狭い舞台で生き生きとしていた。オペラがお金がかかって仕方がないのがよくわかる。

オペラ オーストラリアの「椿姫」を観るのはこれで3回目。
第一幕で はじめの「乾杯の歌」のあとのデュエットの音程が合わなかった。テノールが音程を外し 次いでソプラノも音程を外した。
オー!!!と思って、となりのオットの顔を見たら、オットが「デザスター!」(大災害!)と言ったので 笑ってしまった。素人にもはっきりわかるほど 二人の主役のデュエットで音が外れたのだ。まあ、プロでも 結構あることだ。これに懲りたのか、以降は二人とも慎重に歌っていて、よく調和していた。しかし、これも、余興のうち、といえるようになるには この二人まだ若すぎる。
しっかりしろよ。オペラ オーストラリア!

2010年2月17日水曜日

映画「マイレージ マイライフ」



これほど、男も女もひっくるめた世の中の人から「チャーミング」という形容詞で語られている男は、他にいない。
もちろん、ジョージ クルーニーのことだ。
これといって理由はないのに、結婚せず 気ままに暮らして、時にホロッとヨロめいたりするが持続せず、ひとりで愉快にやっている。人なつこくて ちょっと寂しげな彼の後姿が、気になって 異性としても同性としても 気になって仕方がない。テレビ連続ドラマ「ER 救命室」で、小児科の先生をやって、人気が爆発的に上がった。監督としても良い仕事をしている。髪に白いものが混ざるようになって表情に 深みが出てきて、魅力が増している。
そんなチャーミングな クルーニーが そのまま地でやっているみたいな映画を主演して、アカデミー主演男優賞にノミネートされている。この作品、すでに、ゴールデングローブで、最優秀ドラマ作品賞を受賞した。

映画「マイレージ マイライフ」原題「UP IN THE AIR」を観た。
監督: ジェイソン レイトマン
キャスト:ライアン: ジョージ クルーニー
     アレックス:ヴェラ ファーミガ
     ナタリー: アナ ケンドリック
ストーリーは
空前の不景気。企業は生き残るために沢山の解雇予定者を抱えている。企業は、従業員の解雇の際に 予想される訴訟やトラブルを避けるために、解雇を言い渡す専門家を雇っている。ライアンの仕事がそれだ。そんな彼は 会社のヘッドクオーターに戻り、自宅のアパートに帰る時間よりも、仕事のために、飛行機に乗っている時間のほうが 長い。

ライアンは 年間 322日間 出張で全米を飛び回って 様々な企業から渡されたリストに従って 人々を解雇していく。おかげで、航空会社のマイレージが貯まって仕方がない。特別客として、発券カウンターでも待つことなしに優先席に着けるし、ホテルもグレードアップした一流のホテルで宿泊できる特典をもっている。
マイレージはもうすぐで10ミリオンマイルになる。10ミリオンマイル飛行すれば、航空会社からは 永久名誉客としてプラチナのカードがもらえる。そんな人は世界に何人もいないので、ライアンはそのカードをもらえる日を楽しみにしている。

ある夜 出張先のバーで 同じく出張中の女性アレックスに出会い、意気投合。互いにプライバシーに立ち入らない約束で、大人の関係で親しくなる。付かず離れず 程よい関係だ。
会社のヘッドクオーターに 呼び出されて行ってみると、新入社員のナタリーのアイデアで これからは経費削減のために サイバーで解雇を言い渡す方針に 変更するかどうかで、議論をしている。これにはライアンは大反対。サイバーで人を解雇できれば、もう出張する必要がなくなり、マイレージを貯めることもできなくなる。解雇という、人生にとって一番厳しい時期を乗り越える為には 人間がじかに対面してその人の新しい人生に力を貸してやるべきだ とライアンは主張する。

上司の命令で、ライアンは新入社員ナタリーを連れて出張することになった。旅慣れないが、気が強く、口先だけ手ごわい論客ナタリーは、しかし、現実に解雇を言い渡すことになって、失意と同様に揺れ動く解雇者を前にして サイバーで一方的に解雇を言い渡すだけでは 仕事は成立しないことを知る。折りしも出張が長引き ボーイフレンドから 心変わりとお別れを通告されたナタリーは大泣き。ライアンとアレックスに慰められる。

アレックスとナタリー二人の女性に会って 二人の弱さと優しさを見せられたライアンの心に、ちょっとした変化が訪れる。すっかり忘れていたが、姪の結婚式に招待されていたことを思い出す。長いこと、連絡を絶っていた家族。
思い立って ライアンはアレックスを同伴して帰郷する。生まれて育った故郷、弟想いの姉、結婚の悦びに輝いている姪、優しいアレックスと過ごすうちに、ライアンには 今まで考えても見なかった生涯のパートナーを持つということが 序序に現実味を帯びてくるのだった。アレックスのことを思うと居ても発ってもいられない。
ライアンは、アレックスの住所を書いた紙片を握り締め 飛行機を乗り継いで 遂に彼女の家にたどり着く。しかし、ドアベルを鳴らして出てきたのは、夫も子供もあるアレックスだった。

互いの私生活に立ち入らない、という約束を破ったとライアンを責め、彼にも当然妻子があると思い込んでいるアレックスに、ライアンは言うべき言葉を失ってうなだれるだけだ。

ナタリーは 会社を辞めて 携帯電話で別れのメッセージを送ってきた元ボーイフレンドの居る街に彼を追っていくという。そんなナタリーのために ライアンは立派な推薦状を持たせてやり、次の就職に役立ってやるのだった。

アレックスとナタリーを失ったライアンは、失意のまま、再び機上の人となる。 その機内で、ライアンを待ち受けていたのは マイレージが 10ミリオンマイルの記録に達したお祝いのシャンパンだった。機長から プラチナのマイレージカードを手渡されたライアン。
そして、今日もライアンの空の旅は続くのだった。
というストーリー。

チャーミングなジョージ クルーニーが適役の映画だ。失業、企業命令、解雇、年に322日間の出張、極度のストレス、深まる孤独、などなど、深刻な問題を扱っているのに ジョージ クルーニーのスマートな身のこなし 甘い笑顔、ウィットに富んだ会話で 楽しくて上品でコミカルな作品に仕上がっている。
アレックス役のヴェラ ファーミガが情感豊かで、素敵な大人の女を演じている。
ナタリー役の 新人、アナ ケンドリックもすごく役に はまって輝いている。実にせりふの多い 頭の切れる女性役を 機関銃のように気のきいた洒落や皮肉もたっぷり入れて 喋り捲っていた。それが可愛い。この女優ふたりとも、アカデミー助演女優賞にノミネートされた。

芸達者な3人の役者で、ストーリーが生きている。
よく冷えた イタリアのシャンパンに、苦くて上品なベルギーチョコレートを口に含んだような感じの映画だ。とてもよくできている。

2010年2月12日金曜日

映画「インヴィクタス・負けざる者たち」




ネルソン マンデラが27年間捕らわれていた獄中から出所した日から20年たった。この記念すべき日、2月11日 南アフリカでは 大規模な祝典と人々のマーチが行われた。マンデラとともに出所した かつてのANC闘士は マンデラの護衛官になったが、晴れ晴れした顔で、ニュースのインタビューに答えていた。

南アフリカ、この国の国歌は 3つの言語で歌われる。はじめに黒人の間で使われているBANTOUという先住民族の言葉で、次に 白人アフリカーナが使っているドイツ語をベースにした古いダッチの言語で、そして、最後に英語で同じメロデイーを歌う。黒人も白人もなく、マンデラのいう虹色のネーションが、声を合わせて 3つの言語で国歌を歌うのだ。

映画「インヴィクタス・負けざる者たち」(原題 INVCTUS)を観た。
79歳のクリントイーストウッドが監督、制作した30作目の作品。ネルソン マンデラが アパルトヘイトの南アフリカで大統領に選出され、それまでバラバラだった国民を一つにまとめる感動的な実話だ。原作は、ジョン カーリンの「PLAYING THE ENEMY」。
キャスト:ネルソン マンデラ:モーガン フリーマン
     フランソワ ピナール:マット デーモン

ストーリー
1990年 ネルソン マンデラが27年ぶりに刑務所から出所するところから 映画は始まる。国民大多数の黒人が熱狂してマンデラの出所を祝う一方で、白人達は、テロリスト マンデラが出てきやがった、、、と舌打ちする。彼の出所は 長年の黒人達ANC主導の公民権獲得運動や、国際社会によるアパルトヘイトに対する嵐のような激しい非難と経済封鎖の結果だった。その後 事実上、アパルトヘイトは廃止され、初めて黒人に投票権が与えられ、民主選挙が行われる。圧倒的な支持によって、ネルソン マンデラが大統領に選出される。

マンデラはユニオンビル 大統領官邸に初出勤した朝、大慌てでデスクを片付けで出て行こうとする白人官邸職員たちを引き止めて、君達の能力と経験を新しい国作りのために、協力して欲しいといって、おしとどめる。白人の大統領護衛官たちも留まる。それには黒人護衛官たちは、納得がいかない。昨日まで自分達を拘束し、拷問し、獄中に送り込んでいた連中が マンデラを守れるわけがない。大統領の命を危険に曝すのか。怒る黒人護衛官を前に、マンデラは 懸命に説得をする。国を変えていくには、まず 憎しみを捨て、自分達が変わらなければならない のだと。

スポーツ協議会は 今まで事実上黒人に道を閉ざしていた 南アフリカ代表のラグビーチーム スプリングボックの廃止を決議するが、マンデラは それを覆す。スポーツを通じてこそ人々の心は ひとつに結ばれる。南アフリカはアパルトヘイトのために、長いこと国際試合から締め出されていた。マンデラは スプリングボックを1995年のワールドカップに参加させ、公式会場を南アフリカに招聘することで アパルトヘイトで病んだ国民の心をひとつに結び付けたいと考えていた。

まずスプリングボックの主将、フランソワ ピナールを官邸に呼んで話し合う。当時、スプリングボックは 国外試合に出てられるようになっても 惨敗を繰り返していた。また、フランソワ ピナールには はじめ、マンデラのラグビーで国民の心を統合するという夢が 理解できなかった。何故 ラグビーか。半信半疑のピナールはマンデラから手渡された イギリス詩人ウィリアム アーネスト ヘンリーの「インヴクタス=征服されない」という詩を読む。
やがてピナールは マンデラが収容されていたロヘ島の監獄を訪ね マンデラが27年間すごした監房を訪れる。そして、小さな監房でインヴィクタスの詩に支えられ気高い精神を維持し続けたマンデラの偉大さと彼のラグビーにかけた夢に、心をうたれる。

マンデラの 黒人でも白人でもない、虹色の国民が心を一つにして新しい国造りをするという信念にインスパイヤーされたピナールは 黒人のBANTOU語で歌われる「南アフリカに神の祝福あれ」という歌をチームの全員に手渡す。
1995年ワールドカップに向けて強化訓練が始まる。ゲームを南アフリカで、というマンデラの熱心な招聘要請の結果、ワールドカップの決勝戦は南アフリカで行われることになった。
チームはまず、オーストラリアを破り、遂に 決勝戦で、ニュージーランドのオールブラックとの最終決勝戦で勝ち抜き優勝する。熱狂するに虹色の国民たち。
と、いうストーリー。
本当にあったことで、本当に感動的な決勝戦だった。

この映画を観なければならない理由が3つある。
ひとつは
ネルソン マンデラの偉大さを改めて映像をと歴史的事実をとおして確認する、ということ。マンデラの自分が受けた弾圧や差別を憎まず、人種に拘らず 暴力に頼らず 差別を乗り越え国を造った という偉業に心打たれない人はないだろう。昨日2月11日のニュースで ノーベル平和賞のツツ司教が、「すべての国がマンデラをもっているわけではない。南アフリカはラッキーだった。」と述べている。本当にそうだ。
マンデラの精神の高さと、それに伴う実行力は、となりのジンバブエに比較すると よくわかる。ムガベ大統領とジンバブエ国民の悲惨な状況が悲しい。
またマンデラあとを引き継いだ、このあとの大統領でさえも、この悪名高いジンバブエに癒着して 腐敗が進んでいる。4人の妻を持つ現大統領の醜悪な姿、、、。暴力が 日常茶飯事で、ヨハネスブルグはいま、世界で一番治安の悪い土地だ。エイズの広がりも止められない。そんな時だからこそ、過去を振り返り マンデラの歩んだ道を明らかにすることに意味がある。

2つ目には、
この映画はクリント イーストウッドが79歳で30作目の作品だということ。イーストウッド すごい。
イーストウッドが「ローハイド」で ちょいワルのカーボーイだったころからのファンだ。「ダ-テイーハリー」に胸ときめかせ、「マデイソン橋」でよろめき、「ミリオンダラーベイビー」や「ミステイックリバー」で 監督としての彼を見直した。昨年の「グラントリノ」はいまだに私のなかで一番好きな映画のひとつだ。
彼は偉大だ。おもしろい話がある。
彼はワーナーブラザースに、もう40年も自分のオフィスを持っている。数年前、新しく社長に就任した男が イーストウッドに電話してきて、「挨拶にいって、僕から君にちょっとした注文をしたいんだけど、何時が良いかね?」と聞いたら、イーストウッドは、「いいよ。何時来ても パラマウントのオフィスにいるからね。」と答えたという。新社長の「ご注文」や「ご意見」など聞くつもりはない。社長に従わなければならないなら、さっさと辞めてパラマウント社に移るゼーィ というわけだ。製作者として 自信に満ちた 権威をきらうイーストウッドの姿勢をよく表したエピソードだ。かっこいい。

3つ目は
この映画がラグビーの映画だということ。
ラグビーは良い。最高のスポーツだ。子供の時から大好きだった。
正月の早慶戦は必ず見ていた。慶応が力をなくしてからは 早明戦が、全国一の勝者決定戦だった。早稲田の藤原、明治の松尾兄弟、北島監督。忘れられない顔がつぎつぎとよみがえってくる。
ラグビーは肉弾戦で、格闘技に近い。それでいて走るのも早くないといけない。ニュージーランドのオールブラックでは 体重が100キロ以上なのに、100メートルを10秒で走るマオリの選手がぞろぞろいる。オーストラリアのワラビーズも同様だ。
この映画では ラグビー戦闘シーンの迫力がすごい。ラグビー好きな人は絶対観るべきだ。よく観客席でみていると、ボールを持った選手が わざわざ敵が待ち構えるところに突っ込んでいくのが、不思議に思えるが このフィルムを観て フィールドに、選手と共に立ってみると デイフェンスの壁を破るのがどんなに 難しいかがわかる。何と広いフィールド。固いデイフェンス。ボールをどこに渡したら前に進めるのか、、、。もう自分がラグビーをやっているような臨場感だ。カメラワークが素晴らしい。スクラムを直下から見た映像の迫力にゾクゾクする。後半戦のスクラムの繰り返し。選手達の背骨のきしむ音がする。荒い息、声にならない呻き。肩と肩がぶつかり合う鈍い音。まさに、これがラグビーだ。これほどラグビー選手に密着してフィルムを回せる人は他にないのではないだろうか。さすがに、これがイーストウッドなのだ。すばらしい。

現代史の奇跡みたいな人、人類の宝、ネルソン マンデラが ラグビーに夢をつないだ映画を イーストウッドが撮ったなんて、こんな ザ ベストがそろった映画を観ないで済ませる人がいるなんてもったいない。俳優のマット デーモンがよくチームで泥だらけになって 実際スクラムも組んでパスもしていた。オールブラックもワラビーズも出ていた。
フィルムの最後に本当の1995年に優勝したときの選手が出てきて それも良かった。というわけで、この映画は絶対お勧めなのだ。 

2010年2月10日水曜日

飛行機でランランのライブを聴く


ビジネスクラス空の旅を 東京、台湾間で楽しんだ私たちは その後、台湾、シドニー間の9時間をエコノミークラスで地獄の空の旅をすることになった。 

満席で乗客はインド人と中国人ばかり。マナーの悪さで世界一を競い合う両国民が、そろって安い航空運賃のチャイナエアラインで旅行している。メシは家畜が死なない程度、9時間の間、食事の時以外 みごとに 一切飲み物のサービスはなかった。水入りペットボトルくらい無料で配ったってチャイナエアラインが倒産するわけじゃない。最低限のサービスくらいしないと エコノミック症候群で太ったインド人や中国人のおっさん達がバタバタ倒れて死ぬぞ。
おまけに ビジネスクラスのフライトアテンダントと、エコノミーのとでは 天使と鬼ほどの違いがある。同じ航空会社で同じ制服を着ているのに この差はどう理解したらいいのか。ビジネスのサービスでは メイド喫茶のホステスなみの笑顔と至れりつくせりのサービスだったのが、エコノミーでは誰も笑わない。一人のアテンダントなど、私の横で食事のトレイをひっくり返し、そこらじゅうサラダや果物が飛び散って私の皮のハンドバッグにもドレッシングが飛んできたが、決して誰も謝罪しない。どの女の子も1週間続く便秘で 苦しくて仕方がないような顔を終始していた。

しかし、地獄の狭苦しさと、汚れた空気で窒息しそうな機内の不快感を100%の天国にしてくれたのが、ランランのピアノだった。音楽の偉大な力。ランランのおかげで 嘔気に満ちた機内の空気が一瞬のうちに清らかな高原の空気が流れ出し、豊穣な音の世界で満たされた。
心が躍る。なんという美しい音を出すのだ。この人は、、、これで人間だろうか。人の形をした神ではないか。

ライプチッヒ ゴワダス オーケストラ
リカルド チアリー 指揮
ランランによるメンデルスゾーン ピアノコンチェルトNO1
2009年 ガラコンサートライブ

ランランがすごい。ソロイストとして若手で一番と言う話は聴いていたが、ライブを観るのは初めて。
ピアノの前に座ったとたん この人は完全に自分の世界をバリアで作ってしまう。観客やオーケストラに目もくれない。彼のホコリひとつない真空の密室で 彼はピアノに触れる。彼の指は自然 ひとりでに踊りだし、空中を自由気ままに飛び歩く。
緑の深い森を駆け巡る。天に向かって羽ばたく。宇宙の果てまで 星を捕まえに行く。清涼な風、氷のような星を捕まえて、体まで透明になりながら飛んでいく。指だけが、鍵盤の上を走る。なんという豊かな音量。深くてそして、熱い音だ。これほどピアノの豊かな表現に 心を動かされたのは 初めてかもしれない。恐るべしランラン。

オーケストラも良かった。コントラバスが5台。バスーンが2台。どうりで低音が響きわたっている。すごい。ランランの演奏に 観客は総立ちのスタンデイングオべーション。

彼はアンコールに応えて、ショパンのエチュード3番を弾いた。
ピアノ曲として すごく有名で、ピアノを弾く人は 大抵弾いた事のある こんな小曲を彼は1音1音 大切に丁寧に、弾いた。すごい。一つ一つの音に命が吹き込まれ 誰もが知っている旋律が まるで全然ちがう生きもののように、呼吸し、微笑み、そしてささやいてくれた。夢のようないっとき。 パーフェクト。ブラボー。涙がでてくる。

もう一曲 ショパンを弾いた後、最後のアンコールは、「真夏の夜」から、結婚行進曲。これこそ誰もが結婚式場で聞いている 子供でも知っている曲。これをトランペットのファンファーレに続いて、ランランは 力強く きっぱりと、誇らしげに弾いた。ブリリアント。
嵐のような拍手。

本当に素晴らしいピアニスト。ランランのライブフィルムを見せてくれたチャイナエアライン大好き。コンサート全フィルムを見せてもらえるなんて、本当に幸運だった。台湾経由で日本に行くには 他のチョイスがなくて、仕方なく乗ったエアラインだったが、正解だった。ありがとう ありがとう チャイナエアライン。

2010年2月8日月曜日

7泊8日 親孝行の旅




3泊4日の新宿での愉快な休日のあとは、7泊8日の親孝行の旅だ。
新宿から千葉の柏井に移動。父の住む有料老人ホームに滞在する。父に会ってしまったら、寂しがる父を置いて 買い物に行ったり 友達に会いに行って遊ぶことはできない。父と一緒のときを持つために来た。
1週間を父と過ごしたあとは、シドニーに直行だ。

父は70才で早稲田大学を退職して 数年間 市川の和洋女子大で教えた後、市川の家を売り、莫大な量の蔵書を寄付したり売り払ったあと母と市川市柏井の老人ホームのユニットを買って そこに移った。
24時間医師や看護士が常駐し、亡くなるまでホームが責任をもって世話をするという施設だ。そこで母が亡くなって15年目になるが、母がいた頃は 父とふたりで まだ自然が沢山残っていたホームのあたりを毎朝散歩したり、電車に乗って市立図書館に行ったり、道端の草花を掘ってきて、ベランダで育てたりしていた。家を売って 大きな庭がなくなったことを悔いたこともあっただろうが、二人とも老後は絶対 子供達の世話にはならないと、言い張ってきたからホームに入るという選択は 彼ららしい結論だったのだろう。

父は98歳。最後の明治生まれで、大正 昭和の激動の現代史を生きた。政治経済学部だったから、たくさんの教え子を政界、マスコミ界に送り出した。90歳の誕生日は、ホテルを借りて500人の教え子達が集まった。驚いたことは、ひとりひとり挨拶に父のところにきた教え子の名前を全部父が憶えていた事だ。

2年前には二人の娘と父に会いにきて、2週間滞在した。このときも父は記憶力が全然衰えておらず、私が覚えていないことをよく憶えていた。父の叔父 兵衛は90のときすでに認知症が進んでいて、テレビの前に座っているだけの人になったが、父は96歳になっても文筆活動をしているのが自慢だった。毎朝テレビ体操をするので6時半には起きていて、体も柔らかく、活気があった。また泊まりに来なさい と、娘達を抱いて、送り出してくれた。
たった2年前の話だ。

この2年間で父はすっかり認知症が進んでしまった。
父はもう新聞を読まない。テレビを見ない。
私達とすき焼きを食べて、食後お手洗いに行って 居間に戻ってくると、もう すき焼きを食べたことを忘れている。父は日々、記憶とともに何もかも失っている。何か読んだその場で 内容を忘れている。話を聞いた その場でそれを失くして行く。何も残らない。

嘆いても仕方がない。時は移り 人はみな変わる。
現状を受け入れ、その中で悦び、楽しみを見つけていけば良い。いま父は 私のことはわかるし、娘のこともわかる。食べる楽しみもある。
着いた翌々日に、兄と兄のお嫁さんが ご馳走を持って来てくれて 父の98歳の誕生会をした。鯛の姿焼き、刺身、蟹や海老など父の好物ばかり。ショートケーキに18本のロウソク。
次の日は姉と義兄から 父の好物 山菜おこわが届く。

1日のうちにも ホームの職員が朝晩2回 巡回にきて様子を見てくれる。3食の食事は 居間のテーブルまで運んでくれるし、週2回は風呂の介助の人が来る。新聞 郵便も父の手元まで届けられるし、各部屋には緊急ボタンで職員を呼ぶことが出来る。洗面所を4時間以上使わないでいると 職員が様子を見に来る。
これでも充分とはいえないが、仕方がない。これも父の選択だ。

いろいろな思いを残したまま 帰国の時間は迫る。
帰途はまた 台湾経由のチャイナエアライン。成田に着いて チェックインをして驚いた。フライトまでまだ2時間以上あり、予定の便は満員だが 一つ前の便に変更できるならば ビジネスクラスの席を用意してくれる という。願ってもない申し出ではないか。
2時間のんびり 成田で買い物してから帰りたかった娘を叱咤激励して、ビジネスクラスの客となる。

ウェルカムドリンクをスリッパに履き替えていただく。前席との間が大きく 前席がリクライニングで倒されても こちらに影響はない。広々として テーブルも大きく 書き物が出来る。
テーブルにテーブルクロスが広げられ、食前酒のワインリストが来る。娘はフランスワイン ボルドーの白。私はイタリア キアンテワインの赤。食事は洋食3コースか、和食。勿論 和食を取る。
つき出しの豆腐、焼き物、若筍と蛸の和え物が美しい。メインはハマチ焼き物、やさいに、御飯とおつゆ。デザートは果物。お料理に合って よく熟したキアンテをお代わりしながら 出されたものを全部たいらげた。数え切れないほど飛行機に乗ってきたが、機内食を全部食べたのは 初めてだ。いつも狭いところで 揺れながら、あちこちに腕をぶつけながら小さくなっていて、食欲も出ない。サラダに海老でも入っていようものなら もし食中毒を起こしたら 300人にトイレが4つ、、、どういことになるのか 気が気でなく恐ろしくて食べられない。ちゃんと火が通っているかどうか確認しながら 恐る恐るちょっと手を出してデザートケーキだけを食べるくらい のことが多かった。


気分よく食事して 気分よく いくつかの雑誌に目を通して ゆったり台湾に着いた。うーーん! ビジネスクラスは良い。確かに2倍の航空運賃を払うだけのことはある。これからはビジネスだ。決めた決めた、、、。
決意も速いが 忘れるのも速い。

台湾エアポートで時間をつぶし、エコノミークラス席でシドニーに着いたのは翌日のお昼。一日がかりの大旅行だった。
台湾、東京 2週間の休暇もこれでおしまい。
ああー、やれやれ、、、仕事が待っている。

2010年2月7日日曜日

新宿3泊4日の旅




オーストラリアに住んでいて 時々里帰りする日本人同士で 「日本に着いたら まず何をするか」 という話をすると 案外みな共通点があって、おもしろい。以前は まず、何を置いても鮨屋にかけこむ、という人が多かったが、今ではシドニーでも 寿司屋が乱立し、店を選べば寿司もおいしい。

私はいつも成田に着くと 電車に乗車する前に キオスクの売店で「ぴあ」と「アエラ」を買い、その横にある自動販売機で あたたかい缶コーヒーを買う。
「ジドーハンバイキ」は、日本が世界に誇る文化だ。程よい熱さの缶コーヒーを手にして、ああ、日本に帰ってきた、と、しみじみ思う。

「ぴあ」は 短い日本滞在中に、ピカソ展や、レオナール フジタ作品展とか、60年代イタリアヌーベルバーグ映画祭とか、井上雄彦のサイン会とか、浦沢直樹のロックコンサートとか、パリオペラ座バレエや、立川談志の寄席とか、メトロポリタンオペラとか、ソフィア ローレンの「二人の女」上映会がある、、、などという予定が書いてあった ためしは ない。だからいつも買った「ぴあ」は無駄になり、捨てられることになる。でも買わずにいられない。
日本は世界一、イベントが多くて、美術館が充実していて、海外からのエンタテイナーが呼ばれ 芸術活動も盛んだ。人口が多いということは、活気があるという証明で、素晴らしい。

台湾から日本に来て、成田から 新しくできた急行直通電車で新宿に着いた。
南口の新宿プラザホテルに3泊する。この3泊4日だけが、友達と会い、買い物をして、好きなことが出来る期間だ。少しも時間を無駄にすることができない。3日間で会いたい人みなに 会うことはできないが できるだけ効率よく会えるように 事前にネットで連絡してある。
しかし、成田に迎えに来てくれる といっていた人が成田で見つからず、「成田に来れないならホテルで待っていて」、と言ったはずなのにホテルでも会えなかったのは残念。一番会いたかった人なのに、機会を逃がすと もう他に時間は取れない。

ホテルに着いて、重いスーツケースを置いたら さっそく夜の新宿へ、、。どこに行くって? ローソンです。
これぞ、世界に誇るコンビニ!娘がシドニーで注文したアマゾン発の漫画:井上雄彦の「バガボンド」第32巻、オキモトシュウの「神の雫」第22巻、末次由紀の「ちはやふる」、中村光の「聖おにいさん」第4巻、よしながふみ「きのう何食べた」第3巻、そのほか たくさん注文した本が全部、指定したローソンに着いている。日本で 代わりに受け取ってくれる人がいない 私達のような国外に住むものにとってローソンは 天の助けなのだ。いっぱい本の入ったダンボール箱を抱えて ホテルに戻る私達。ローソンのおにぎりとコーンスープもいっしょだ。こうして夜更けまで 私たちは幸せな日本の夜を過ごす。

翌朝は当然 買い物。どこに行くって? もちろんユニクロです。
世界に誇るユニクロ。ロンドンでは「ユニキューエルオー」と発音します。無駄口をきくひまもなく、買い物籠をいっぱいにする。ユニクロで、娘が試着する必要もなく Sサイズが体にぴったりなのに、シドニーでは娘に合うシャツはない。女3人分の1年間分のシャツを買い占める。それって すごい重さ。いったん荷物をホテルに下ろして、寿司を食べ、元気を取り戻して買い物を続ける。

夜は若い人たちに会って ホテルのバイキング。彼らはむかしシドニーに来て、サーフィンをしたり、怪我をしたり、バイトしたり 病気したりしていたこともあったが、いまでは立派な社会人。しっかり地面に足をつけて良い仕事をしている。なんて素敵な 若者達。
30年前は、男の子が生まれたら、穂高か剣という名前にしようと思っていた。日本でナンバーワンの富士のような つまらん山でなく 立派なナンバーツーになるような人に育ってほしいから穂高、、、と思っていたら 生まれてきたのは 二人とも可愛い可愛い女の子だった。でも、シドニーのおかあさんとして、シドニーで病気になったり怪我した人のお世話ができて、その元気な姿をときどき見られるなら それって素敵。大満足。

次の日も買い物。
ビッグカメラでニコンを買う。ニコンD5000。 18-55MMズームレンズで、手ぶれ補正機能 流し撮りもできる、木村拓哉がコマーシャルでやってる奴。低い位置から撮れるように液晶モニターの角度が変えられる。動画も撮れる。
ねこに小判、豚に真珠とは よく言ったものでぶ厚い説明書を見ても 何もわからない。ただただ重い。馬鹿ちょんカメラしか持ったことのない私には とても重いカメラだ。これはオットへのおみやげ。むかし彼が持っていたレンズがカビでやられて以来 新しいニコンを欲しがっていた。いまは 白内障と緑内障と黄班部変性で、視力が限られて 新聞を読むにも眼鏡と虫眼鏡を両方使っている。そんな人にカメラが何になるだろうか。と言ってみても仕方がない。これは彼の夢なのだ。夢を見続けさせてやって何が悪い。否、悪くないぞ(反語)

娘も私も新しいオーバーコートを買って、留守番の娘と孫に衣類や本やDVDを買って、夜はまた人と会う。
新宿最後の夜、ホテルの風呂に、薬屋から買って来た温泉の粉を入れて温泉気分。漫画を読みながら、幸せな日本の夜はゆっくり更けて行くのでした。

2010年2月5日金曜日

一握りの灰になったオスカー




台湾で結婚式に参列するため旅行している間に オスカーが死んだ。
18歳の愛猫。
死ぬことが わかっていた。だから、本当はどこにも行きたくなかった。

食べなくなって3週間ちかく。痩せて 辛うじて這って歩くことが出来た。目やにと鼻とで 目と口の周りが汚れて、何度お湯で拭いてやっても 強烈な悪臭を放っていた。食べることを止めてから 便も出なくなり、2,3日おきに排尿すると 以前のように上手に箱の中でできなくて、床や絨毯にたくさんの染みを作った。

骨と皮になって 体が3分の1くらいになってしまって、お気に入りの台所のカーペットの上で、静かに呼吸をしていた。私達が寝室に行くと、ベッドの下まで やっとの力で這ってきた。
起きて、台所で食事の支度を始めると 台所まで這ってきて 足元に横になる。動き回っているから 踏み潰しそうで 危なくて仕方がなかった。

そんな姿になってしまっても、抱き上げて胸の上に寝かせて なでると、ゴロゴロ咽喉をならす。体をなでると毛玉が沢山できていて、ゴツゴツしている。顔を撫でると 硬くなった目やにや鼻がボロボロと落ち どんなに頻繁にきれいにしても すぐに目やにだらけになってしまう。背骨のとんがりが手に痛いほど 骨が突き出てしまった。

それでも私の近くに居たがって、私が動くと這って後を追ってくる。
最後まで一緒に居たい と、意思表明していたのに、どうして私は予定通りに旅にでてしまったのだろう。オスカーは、裏切られた気持ちで、孤独のうちに死んでいっただろうか。オットが仕事から帰ったら、娘の置いていったベッドの下で冷たくなっていた という。

オスカーが家にきたのは 8歳のとき。
長い毛がふさふさで 顔のまわりはライオンのような たてがみがあった。大きな目で 賢そうな 落ち着いた猫だった。
体は小さくても毛が長くて ふわふわに毛が密集しているので大きくて、太ったタヌキのように見えた。
王室動物虐待防止協会(RSPCA)に行ったとき、沢山の猫のなかでも、ガラスケースの中の、一番高い台の上で 悠然と下界を見下していた。一目で気に入って、連れてきた。8歳で、名前はオスカーといわれたが、昔は、アントニオと言う名前で、イタリア人家族に飼われていたそうだ。一家がイタリアに引き上げるとき、捨てられたのだという。

オシッコ箱を作ってやると オシッコをし終わったとたんに 風のような速さで押入れに隠れてしまう。食事もパクリと口に入れるや否や 飛んで押入れに隠れて小さくなっている。きっと、しつけに厳しい家族に飼われていて おもらしをしたり、食い散らかしては 叱られていたのだろう。
落ち着いて排尿便や、食事ができるようになるまで、ゆっくり時間をかけて、慣らせることにした。そのために猫可愛がりしないで、すこし離れて見守る、触るのも最小限にする、何をしても叱ったりせずに 優しい言葉をかけるようにした。オスカーが自分から私達家族のそばに寄ってくるようになるのに、1年くらいかかった。

いったん甘えるようになると、際限なく甘えん坊になった。自分の食事は済んだ筈なのに、私の皿のものを欲しがる。肉も魚もオスカーの目の前で4分の1を切り取って、分けてやり、一緒に食べるのが習慣になってしまった。食べ終わると、ニュースを見ているわたしの膝に乗ってきて、眠る。 寒い夜はベッドの中に入ってくる。冷たい体で入ってきて、温まると出て行って、又 氷のように冷たいからだで入ってくる。

ベランダから下はテニスコートと公園になっていて遊歩道が出来ている。そこを行き来する人びとを ベランダの椅子から一日中 眺めている。ベランダの安楽椅子も、オスカーの毛だらけで、使い物にならなくなって2台目の椅子になった。

ベランダには緑色のパロットや、マグパイやコカバラらの鳥たちがやってくる。オスカーは届くわけがないのに 獲物を追うライオンのように、身をひくくして今にも飛び掛るような「かっこう」をする。そんなことはお見通しの賢い鳥たちは オスカーを見て ここに敵がいる、、、とばかりに やかましくさえずり始めて 猫をばかにする。そんなときのオスカーの困惑の表情に、いつも笑わずにいられない。

10年間 娘達が成長して家を出て行き、会話の少なくなった夫婦にとって、オスカーの存在は二人の会話をつなぐ大切な「つなぎめ」になっていた。10年間、私達の喜怒哀楽を共有してくれた。オスカーがいなかったら 私達家族はどんなに味気ない日々を送ったことだろう。オスカーのいない日など考えられなかった。

枯れ木が朽ちて 音も立てずに倒れるようにしてオスカーは逝ってしまった。18歳といえば 人でいえば100歳以上。
いま、片手の手のひらに乗る小さな灰になった。金色の袋に入って、私達を見下ろしている。
ありがとう。
オスカー。本当に私達と10年間 居てくれて ありがとう。
愛しているよ。

2010年2月3日水曜日

台湾 3泊4日の旅


台北の結婚式のあと、もう夜になっていたが、娘とその仲間達とで 台北の街にくり出した。台北101ビルデイングに行ってみた。
高さ508メートル 東洋1の高層ビル。最近ドバイに世界一高いビルができるまで 世界1の高さだった。89階には下界を380度 見渡せる展望台、91階には野外展望台がある。風が強い日は、見せてもらえないが この夜は静かだったので、どちらの展望台からも、夜景をながめた。素晴らしい。

ビルの中は 大きなデパートで、ブランドショップのオンパレード。世界中の どんなファッションブランドもそろっている。店員達がツンともしていなければ、客に付きまとうでもない、ほどよい間隔を開けてくれていて、感じが良い。 


下界に下りて、軽食を食べたら 疲労困憊。朝6時から娘の元クラスメイトの結婚式で、沢山の人たちと旧交をあたためた。充実した 長い長い一日だった。

台北2日目は、まず鉄道を使って 龍安寺(ロン サン スー)に行く。高架線の駅で切符を買うと リサイクルできるプラスチックのコイン型切符が出てくる。これを自動改札口に入れたところを パチリ 記念撮影。電車の中で 持ち歩いているペットボトルから水をグビリとやり またパチリ記念撮影。 竜安寺駅で昨日一緒だった 友達に会う。そんな彼から 電車の写真撮影も 電車の中での飲み食いも 違法で 見つかると$200以上の罰金だったと聞かされて、真っ青。
そうだった。この国はまだ戦争をしているのだ。兵役義務も3年間、アジアのなかでは 兵役義務の長い国だ。法律違反して、ごめんなさい。

龍安寺は地元の熱心な信徒のおまいりで いっぱいだった。お守りを売るコーナーも人が並んでいた。下町の喧騒が楽しい。日本にいるようだ。

中正紀念堂(ツォン ツエンチー ニエタン)に移動する。青と白の美しい巨大建築物。蒋介石を記念して建てられたメモリアルホールだ。
民族主義を全面に出した前大統領によって 「台湾民主紀念館」に改名されたが 2008年 現大統領によって再び 中正紀念堂になった。中国との無用の摩擦を避けるためだ。大統領が変わるたびに 入り口の巨大な門に書かれた文字が塗り潰されたり、書き直されたりした。今では、台湾独立を声だかに叫ぶ声はほとんど聴こえない。上手にアメリカの援助を引き出しながら、中国を懐柔して生き残ろうとする巧みな政治手腕が歓迎されている。それがいい。がんばれ。

蒋介石の像は 高さ30メートル、巨大で銃を持った衛兵に守られている。8角形の青い瑠璃瓦の屋根、白い大理石の壁に囲まれている。衛兵交代の儀式を観た。二人の衛兵は身じろぎもせず、瞬きもせず起立していたので、プラスチックのお人形かと思った。突然別の色の制服を着た衛兵が行進してきて まごうかたなく生きた美少年達だったので びっくりした。制服姿もりりしいが、まったく肉がついていない痩せ型。これでは蒋介石の像は守れるかもしれないが 国は守れるだろうか、とちょっと心配。若者よ しっかり食べてください。

紀念堂の階下は 蒋介石の執務室を再現してある博物館になっていて、近代中国史を学ぶ場になっている。コミュニティースクールが併設されていて、一般市民が美術、健康教育、太極拳 気孔、ヨガなどが学べるようになっていた。

門から蒋介石の像のある紀念堂まで1200メートル、両側に赤い屋根の立派な建物が双子のように建っていて、向かって右が 国立オペラハウスで、左が国立コンサートホールだ。
敷地面積25平方メートルの中には 広い庭があり散歩道がある。
門から紀念堂までの広場では、いろいろなイベントが行われていて、昨年10月のゲイ レスビアンパレードも ここが集結 出発地点だったそうだ。ここを訪れた翌朝テレビで ニュースを見ていたら、この広場が出てきて、ポップバンドの音楽に合わせて若い人たちがスケボーで 曲芸なみの華麗なダンスショーをニュースで報道していた。

一月とは言え 雲ひとつない晴天で一日歩き回ったあと、デパートのそごうで 買い物をしていたら、昨日結婚したばかりの花嫁、花婿とその家族の皆さん方が、あいさつに来てくださった。メインストリートの夕方の交通渋滞のなか、ウィンカー出して 違法駐車しながら、明日発つ私達のために わざわざ会いにきてくれたのだった。名残惜しくて いつまでも みな抱き合っていた。

夕食は そごうの地下のテイン タイホンで。教師をしていて昼間会えなかった友人が駆けつけてきてくれ 乾杯。食後 もう8時というのに 込み合っているレコード屋や雑貨屋を冷やかして、最後まで付き合ってくれた、友人と最後のお別れ。彼、泣くなよ。

短い3日間の台湾訪問だったが、たくさんの懐かしい人たちに会えて、うれしかった。たくさんの喜びを分けてくれた若い人たちに感謝。みんなみんな 本当にありがとう。

2010年2月1日月曜日

台湾で結婚式



台湾に結婚式に招待されて行って来た。
台湾が「自衛」のためにアメリカからミサイルとヘリコプターを購入することになって中国が怒り狂っている この時期に、、、。経済封鎖だ、断交だ、威嚇ミサイルをぶち込む と中国がわめいている一方で 台湾は取澄まして わが道を行く如く しごく冷静だ。
たのもしい。

花嫁は、フィリピンにいたときに ヴァイオリンを教えていた娘さんだ。彼女は長女の同級生で、1歳年下の妹をもっていて、それが次女とまた同級生だったので、特別に家族ごと仲良くしてもらった。
花嫁の中学、高校がフィリピンで、大学はアメリカだったから、結婚式には、文字通り世界各国から友達が 来ていた。集まってきた昔の同級生の そのほとんどが私のヴァイオリンの生徒だったこともあり、たくさんの若い人たちの成長振りを見ることが出来て 幸せな気持ちになった。

台湾のしきたりどうり、花嫁の実家で まず婚約儀礼をして、婚約指輪を交換、それから家族、親戚、友人みんなで今度は花婿の実家に行って、結婚の儀式をする。入り口で二人で瓦を割ったり、花嫁の3つの質問に花婿が正解を出して、やっと家に入れてもらえたり、様々な約束事を経て やっと2人が結ばれる。結婚指輪の交換で 結婚式は終了。
ブライドメイトを務めた私の娘は 花嫁とともに朝6時からの行事に付き合い、花嫁に終始付き添っていた。

午後からの結婚披露宴には招待客が、120人。花嫁は結婚式で3回 ドレスを替え、披露宴でまた3回 豪華なドレスを着替えた。
処変われば 習慣も変わり、じつに興味深い 楽しいお祝いだった。
中国の伝統料理に フランスシャドネーの赤ワインで、マンダリンが話せないのに大いに楽しんだ。

娘達は 東京生まれだが4歳と5歳のときに 設計技師だった夫の仕事で赴任先の沖縄に移住し、9歳と10歳のときに さらに南下してフィリピンに移った。マニラ インターナショナル スクールで学び、大学のためにシドニーに来るまで9年間をフィリピンで過ごした。
彼らは、13歳と14歳のときに父親を失った。私達3人は夫の扶養家族だったから その日のうちに 滞在ビザを失った。
これには困った。
むかしむかし夫は 妻子も職場も捨てて私と一緒になり、私は家族から絶縁されるような形で結婚してきていたから 頭を下げて実家に帰ることなどまっぴらごめん。仕方なく、娘達の通うインターナショナルスクールの弁護士に直談判して、ヴァイオリン教師として 学校に雇ってもらって 就労ビザを出してもらうことにした。

学校は 中学の選択科目だった音楽の声楽クラス、ブラスバンドクラスに 新たにヴァイオリンクラスを設けてくれた。午前中 4クラス 午後は 高校のオーケストラを指導することになった。
ヴァイオリンを弾くが、教えたことなど一度もない。ヴァイオリンは「ト音記号」で弾くが、チェロは「へ音記号」の楽譜だ。見たことも聞いた事もない宇宙人みたいな記号で 楽譜が書かれたヴィオラの譜をみて腰をぬかした。なんだ これ? それを数時間後に 生徒に教えなければならない。暗中模索とは このことだ。ピアノで音を確かめながら ヴァイオリンのGは第4弦、同じ音はチェロの3の指で ヴィオラでは1の指、、、と、1音1音確かめながら 楽譜を少しずつ読めるようになった。自分がわかったことを その日に生徒に教えるような日々、いつ生徒に先を越されるかドキドキハラハラのスタートだった。

マニラ インターナショナルスクールは 約80カ国の国の生徒達が学び その多くは大使館やアジア銀行の雇用者の子弟だった。アメリカが最多で、地元のフィリピン人は 希望者が多くても どんなにお金を積んでも生徒数の7%に抑えるという約束があったようだ。幼稚園から12年生まで2千人足らずの生徒数だが、教科書から学用品まで すべてアメリカから直接送られてきていた。
ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスも希望する生徒の数だけ 毎年きちんと そろえてくれた。みようみまねで教えていたが 毎日が刺激に満ちて本当に楽しかった。

続けて何年か教えていた生徒は自分の子供のように可愛くなる。生徒にシカトされたり いじめられたりして眠れぬ夜を歯軋りして過ごしたこともあったが そんな生徒ほど誤解が解けると可愛い子になって いとおしい。教えるという新しい体験に毎日が 目が覚める思いだった。

あれから14年。 そんななかでヴァイオリンを教えた子供達が卒業して アメリカで大学を終え、MBAやMBSをとって 社会で大活躍をしている。みんな、立派な大人になったけれど、話せば、むかしと少しも変わらない。エネルギーに満ちている。
そんな若い人たちに囲まれて、本当にうれしい台湾旅行だった。