2010年2月1日月曜日
台湾で結婚式
台湾に結婚式に招待されて行って来た。
台湾が「自衛」のためにアメリカからミサイルとヘリコプターを購入することになって中国が怒り狂っている この時期に、、、。経済封鎖だ、断交だ、威嚇ミサイルをぶち込む と中国がわめいている一方で 台湾は取澄まして わが道を行く如く しごく冷静だ。
たのもしい。
花嫁は、フィリピンにいたときに ヴァイオリンを教えていた娘さんだ。彼女は長女の同級生で、1歳年下の妹をもっていて、それが次女とまた同級生だったので、特別に家族ごと仲良くしてもらった。
花嫁の中学、高校がフィリピンで、大学はアメリカだったから、結婚式には、文字通り世界各国から友達が 来ていた。集まってきた昔の同級生の そのほとんどが私のヴァイオリンの生徒だったこともあり、たくさんの若い人たちの成長振りを見ることが出来て 幸せな気持ちになった。
台湾のしきたりどうり、花嫁の実家で まず婚約儀礼をして、婚約指輪を交換、それから家族、親戚、友人みんなで今度は花婿の実家に行って、結婚の儀式をする。入り口で二人で瓦を割ったり、花嫁の3つの質問に花婿が正解を出して、やっと家に入れてもらえたり、様々な約束事を経て やっと2人が結ばれる。結婚指輪の交換で 結婚式は終了。
ブライドメイトを務めた私の娘は 花嫁とともに朝6時からの行事に付き合い、花嫁に終始付き添っていた。
午後からの結婚披露宴には招待客が、120人。花嫁は結婚式で3回 ドレスを替え、披露宴でまた3回 豪華なドレスを着替えた。
処変われば 習慣も変わり、じつに興味深い 楽しいお祝いだった。
中国の伝統料理に フランスシャドネーの赤ワインで、マンダリンが話せないのに大いに楽しんだ。
娘達は 東京生まれだが4歳と5歳のときに 設計技師だった夫の仕事で赴任先の沖縄に移住し、9歳と10歳のときに さらに南下してフィリピンに移った。マニラ インターナショナル スクールで学び、大学のためにシドニーに来るまで9年間をフィリピンで過ごした。
彼らは、13歳と14歳のときに父親を失った。私達3人は夫の扶養家族だったから その日のうちに 滞在ビザを失った。
これには困った。
むかしむかし夫は 妻子も職場も捨てて私と一緒になり、私は家族から絶縁されるような形で結婚してきていたから 頭を下げて実家に帰ることなどまっぴらごめん。仕方なく、娘達の通うインターナショナルスクールの弁護士に直談判して、ヴァイオリン教師として 学校に雇ってもらって 就労ビザを出してもらうことにした。
学校は 中学の選択科目だった音楽の声楽クラス、ブラスバンドクラスに 新たにヴァイオリンクラスを設けてくれた。午前中 4クラス 午後は 高校のオーケストラを指導することになった。
ヴァイオリンを弾くが、教えたことなど一度もない。ヴァイオリンは「ト音記号」で弾くが、チェロは「へ音記号」の楽譜だ。見たことも聞いた事もない宇宙人みたいな記号で 楽譜が書かれたヴィオラの譜をみて腰をぬかした。なんだ これ? それを数時間後に 生徒に教えなければならない。暗中模索とは このことだ。ピアノで音を確かめながら ヴァイオリンのGは第4弦、同じ音はチェロの3の指で ヴィオラでは1の指、、、と、1音1音確かめながら 楽譜を少しずつ読めるようになった。自分がわかったことを その日に生徒に教えるような日々、いつ生徒に先を越されるかドキドキハラハラのスタートだった。
マニラ インターナショナルスクールは 約80カ国の国の生徒達が学び その多くは大使館やアジア銀行の雇用者の子弟だった。アメリカが最多で、地元のフィリピン人は 希望者が多くても どんなにお金を積んでも生徒数の7%に抑えるという約束があったようだ。幼稚園から12年生まで2千人足らずの生徒数だが、教科書から学用品まで すべてアメリカから直接送られてきていた。
ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスも希望する生徒の数だけ 毎年きちんと そろえてくれた。みようみまねで教えていたが 毎日が刺激に満ちて本当に楽しかった。
続けて何年か教えていた生徒は自分の子供のように可愛くなる。生徒にシカトされたり いじめられたりして眠れぬ夜を歯軋りして過ごしたこともあったが そんな生徒ほど誤解が解けると可愛い子になって いとおしい。教えるという新しい体験に毎日が 目が覚める思いだった。
あれから14年。 そんななかでヴァイオリンを教えた子供達が卒業して アメリカで大学を終え、MBAやMBSをとって 社会で大活躍をしている。みんな、立派な大人になったけれど、話せば、むかしと少しも変わらない。エネルギーに満ちている。
そんな若い人たちに囲まれて、本当にうれしい台湾旅行だった。