「チボー家の人々」マルタン デイユガール、山内義雄訳 全5巻
ジャック チボーは、このような独語、仏語のアジビラを120万枚刷って、仏独両軍の上空を飛行機から蒔こうと飛び立ったが独軍兵に撃ち落されて死んだ。
新潮社出版のこの本は、父が若かったころ出版されるごとに買いそろえた本だ。子供の時に父の書庫から持ち出して、そのまま大人になって私が家庭を持っても、持ち歩いてきた。家族で沖縄、レイテ島、マニラ、豪国と、移動してきた今も持っていて、5冊とも箱から出すと、表紙の角からボロボロと紙が崩れ落ちてくる。
原書は大戦中に出版されたが、ジャックがドイツ軍に打ち殺される最終巻は、フランス軍の戦意高揚を削ぐと言う理由で戦後しばらくしてから出版されたという。
父は子供の時に自分の父親に死なれ、その弟の大内兵衛に育てられた。実の息子の大内力に比べると、学力に格段の差があるうえ、星を数えて過ごすような夢想癖のある子供だったと思う。父の2人の弟も、大内家の男はみな東大で学ぶのが自然だったのに、ひとり父は早稲田で小説、それもセンチメンタルなロマンスものばかり書いていた。全然生活能力が無くて、兵衛叔父の一番弟子だった宇佐美誠次郎の妹と結婚して貧しい所帯を持ってからは、叔父の紹介で早稲田で教壇に立った。
大學では自分もいつまでも学生のように、何時も学生たちとつるみ、千葉の上総湊では、漁師にねだって土地を借り自分たちの力で釣り小屋を建てた。毎年夏の間中、その小屋で学生達と秋になるまで過ごした。私の幼いこの頃の記憶は、海と自由とで太陽のように輝いている。
父は自分には父親が居なくて、3男2女の長男で、弟の娘を養女にしたり、下の弟がアル中で死ぬまで世話をしたり、それでも教員の安給料で、何時も食うや食わずの貧乏学生達までかかえて、かつかつの生活していてもまだ、沢山の学生たちを家や研究室に呼んで世話した。
父は寂しかったのだと思う。
晩年はひとりきりだった。
2人の娘をつれて豪国から毎年クリスマスには会いに行ったが、行くね、というと、もうその日から、それが10月であっても、毎日ベランダから下を見下ろして、いつ来るかと待っていたとケアラーから聞かされた。