生まれる時、年の瀬で正月の準備で人々が忙しい夜半に、父は産婆を迎えに自転車を走らせたそうだ。
父は99歳で亡くなったが、会いに行くごとに自分は若い、を連発し、ドクターに「頭は50代の脳だ」と言われたとか、歩く速さは60代と言われた、とか言って、褒められようとする。
父が93歳になったとき「勝ったぞ」と言って、父親代わりだった大内兵衛が92歳でなくなったので、それより長生きした自分を自分で褒めていた。父以外の大内家の男子は全員揃って東大出身だが、自分だけは小説家を目指す夢を追う人だったことで肩身が狭かった、その負け惜しみだったのかもしれない。
父が悲しかったのは、家族同然だったお弟子さんたちが、長生きした自分よりも先に、みな逝ってしまったことだ。父は生まれつき片目が弱視でほとんど見えず、戦争に召集されなかった。まだ早稲田大学の学生だった頃から、人手の足りなくなった高校の先生として雇われ、学生の身で自分とそれほど年の変わらない生徒を教えた。その頃の生徒たちは戦争がもう少し長引いていたら、召集されて特攻隊に引っ張られるところだった。当時父を慕ってきた生徒たちは、家で家族のように一緒に食事をしたり家族旅行も一緒に行った。彼らは結婚して家族を持っても、ごく普通に家に来ては、家事嫌いな母に代わって食事を作ったり、家を修理したりしてくれて、私にはいつも横にいてくれる人の良いお兄さんたちだった。
学制改革で早稲田高校が大学になり、父が教員から教授になっても、父は政経学部の自分のゼミの学生を書生のように家に置きたがり、夏休みは古いお弟子さんも新しいお弟子さんも、みんなそろって海の家に連れて行って毎日釣りを楽しんだ。なじみの漁師の繰る船に、お弟子さんたちを乗せて、「タイを釣った奴はA, コチしか釣らなかった奴はCで、それ以外は落第だぞ」とか言って、慣れない荒波に吐いている学生を「しごく」父の姿は、学生らと同年のガキ大将だった。
70歳の定年になるまでそれを繰り返し、たくさんの学生を愛したし、愛されたと思う。名誉教授になったとき、そんなもの欲しくない、本当は小説家になりたかった、と言い、死ぬ間際は、宙に向かって右手を動かすので、ペンを握らせたら、物凄い速さでペンを空に向かって走らせた。書きたくて書けなかったことが沢山あったのだろう。そして命終えた後、ペンを指から外そうとしたが、きつく握っていてなかなか取れなかった。
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