2021年5月30日日曜日

ジョンデンバーの「アニーズソング」

ジョンデンバーの「アニーズソング」を歌ってみた。
ジョンデンバーと言えば、「カントリーロード」が超ポピュラーだ。ジブリアニメのテーマソングにも使われた。アニーは彼の妻の名前で、これはラブソング。

彼はドイツ系米国人で、本名はヘンリージョン デユチェドルフジュニア(1943-1997)という。空軍のパイロットの父を持ち、軍人のしつけの厳しい家庭が嫌で高校をドロップアウトして、友達とバンドツアーをしていたら、父にジェット機で探し出し、連れ戻されたエピソードを持つ。
近視が原因で、プロのパイロットという父と息子の夢を絶たれたが、飛行機への執着を否定できず、小型飛行機を収集し自ら操縦を楽しんだ。53歳でプロペラ機操縦中、海上に墜落死した。破損が大きく遺体はDNAで確認されたという。
同時代ジョーンバエズらがギターを持ち、「勝利を我らに」と歌いながらデモの先頭に立った頃、彼は目立った政治的な関りを持たず、メッセージ性のある曲を作りもしなかったが、明朗快活で、歌いやすい彼の曲に親しみを感じる。
I am singing [ Annie's Song ] written by John Denver. He loved airplane which influenced by his father who was a Air force pilot. His dream was becoming a professional pilot however he got short eye sight and was unable to be professional. But he loved to operate his own small airplane. On 1997 he passed away by air plane accident crushed into the ocean. He wrote lots of easy listening songs include Country Road, which is very popular.



2021年5月27日木曜日

サイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」 Bridge over troubled water

サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を歌ってみた。
    
「君が生きるのに疲れ、みじめで泣きたいとき、そばに居てあげるよ。激流をこえる橋のように僕が君の懸け橋になる。銀の少女、船を出せ。君の夢に向かって前に進め。友達が欲しければ僕がいる。後ろから見ていて、いつでも懸け橋になってあげるから。」
作曲者、ポールサイモンは、自分が育ったNYユダヤ街で通った教会で聴いたゴスペルに、インスパイヤされてこの曲を作ったと言っている。

曲は、当時ベトナム戦争(1955-1975)で疲弊していた人々の心に響いた。この曲を最後にサイモンとガーファンクルはデユオを解消するが、一方で、曲の人気は続き、1970年当時アパルトヘイトのあった南アフリカでは、教会で賛美歌として歌われた。1992年に人種登録法が廃止されたあと、サイモンはこの国に招待され、人々と交歓した。美しい旋律。スカボロフェアと、サウンドオブサイレンスを歌ったあとなので、前に投稿したことがあるが、サイモンの作った曲の中で、一番好きなので歌ってみた。
I am singing [ Bridge over troubled water ] written by Paul Simon and recorded by Simon & Garfunkel on 1970. Paul was inspired by Gospel , The Swan Silvertons(1958 ), and wrote this music. This song won an unprecedented 5 Grammy Award and loved by young Americans who were forced to serve Vietnam War. It touches hearts of people who lost hope with war and tragedy.



2021年5月22日土曜日

さくらみち

作詞作曲、秋吉壽和「さくらみち」を歌ってみた。
ときどき、これを作曲された方に来てもらって、ギターを習っている。難しいコードや自己流のまちがいを直してもらったり。

ギターを始めたのは、何と60年近く前、テイーンのとき。小さい時からヴァイオリンを教わっていたが、小野アンナ先生の直弟子のレッスンは、1音の誤りも許されない息詰まる緊張と、重圧感から自分を解き放ちたくて、ヴァイオリンレッスンの帰りに、自分の小使いでギター教室に通った。彫りの深い、ジェラルフイリップ(1922-1959)そっくりの美しい顔をした先生が、その長い細い指でスパニッシュギターを弾く姿に心を奪われた。お小使いが続かなくてあまり続けられなかったけれど。

それから50年経ってマゴが生まれ、半分ガイジンのマゴたちに日本の童謡を歌ってやりたくて、成瀬龍三郎、シドニーでロックバンドのメンバーだった方のところに通い始めた。彼には童謡を含めて200曲くらい教わった。2年余り教わって、ビートルズもステイービーワンダーも歌えるようになって嬉しかったが、残念なことに帰国された。
現在の先生は、マーケテイングビジネスをしながらハワイアンバンドで活躍されている。
この曲は、雪降る道を歩きながら桜が咲くころに結婚して故郷を離れていく娘を歌っている。
I am singing [SAKURAMICHI] written by Hisakazu Akiyoshi, who is my current guitar teacher. I started to learn guitar when I was teens, nearly 60 years ago. As a little violinist, I needed to be released tension from strict and hard violin lesson and visited guitar teacher who was look like French movie star Gerald Philip, beautiful guy and I had wonderful lesson. Then 50 years passed, I got a guitar teacher ,Ryuzaburo Naruse who was a Australian rock band member. He taught about 200 music but sadly he went back to Japan, however luckily I got new teacher. This music was written about a girl who is leaving her home for marriage, sentimental song.



2021年5月18日火曜日

映画「スーパーノバ」とオーストラリアの安楽死法

映画「スーパーノバ」( SUPERNOVA )

監督:ハリー マックイーン
キャスト
コリン ファース:サム
スタンレー ツチ:タスカー

スーパーノヴァの NOVAとは、新星のことで、それにスーパーが付くから「超新星」。星がその核の原子力を失うと、爆発して粉々になって滅ぶがそのときの光は太陽よりも明るい光となって消えていく。その大爆発を超新星爆発という。銀河系の中で起きる超新星爆発による衝撃波は、星どうしの密度に揺らぎを生み出し、新たな星の誕生を促すのだそうだ。私たちが何気なく夜空を見ていて、強く光を発する星があるかもしれない。その時私たちは何千億光年という遠い昔に激しく瞬いて、光と共に消えて行った星の残骸を見ているのかもしれない。残骸は周囲のガスに衝突して断熱圧縮されて高温を維持する。そして高温を維持できなくなるまで数万年輝き続ける。ふたご座にも、おうし座にも白鳥座にもその残骸がある。爆発の時、光となり、粉々になった星の粉は、地球に落ちてきて、私たちの体の一部になる。

そんなことを、夜空をみながらタスカーが、サムに繰り返し語って教えている。
タスカーは2年前に若年性認知症と診断されて、いまは、思考する自由も、体の自由も失いつつある。名のある作家として活躍してきたが、20年来の人生のパートナーであるサムに面倒をかけている。
2人は休暇を取って、キャンピングカーで昔の友人や、タスカーが生まれ育った田舎を旅行することになった。サムは、いまはタスカーと会話を楽しんでいるが、もう自分で服を着ることもできなくなったタスカーが、じきに普通に日常生活を送ることもできなくなり、サムのことを認識できなくなる日も近いことを予感している。サムはタスカーが自分のことを忘れてしまっても、そばにいて支え、排尿便出来なくなっても世話して、自分の腕の中で死なせてやりたいと心に決めている。

二人はタスカーが生まれて育った田舎で親戚や兄弟たちと、なごやかに過ごした後、湖に面した、静かな山荘に数日間過ごす。しかし、サムは偶然、タスカーが毎日几帳面につけている鍵つき日記帳を、開けて中を見てしまう。そこにはもう活字がかけなくなっているタスカーの殴り書きと、自殺用の薬が入っていた。タスカーには、まだ自分の意志で自ら死を選ぶ判断力も行動力もある。しかし進行性の病ゆえ、明日それが実行できるかどうかわからない。じきにタスカーがその薬が何なのかわからなくなったら、自分の意思を達成することもできなくなる。サムとの激論の末、タスカーは言い争いに疲れて眠ってしまう。目が覚めた時、机の上には彼の鍵つき日記帳が置かれていた。もう心配することも、思い残すこともない。トスカーはしっかりとサムに抱かれて旅立つ。
というストーリー。

美しい映画だ。イングランドの自然がいっぱいの田舎、深い森、静かな湖、落ち葉の絨毯。冷たい清涼な風。「明日」がない二人の愛情が画面をみながらしっかり伝わってきて、せつない。コリン ファースも、スタンレー ツチも素晴らしい名優だ。年を取って、二人ともどんどん魅力的な役者になってきた。

テーマは認知症と尊厳安楽死。星もいつかは爆発して滅亡する。星の爆発で地球に降りかかってきた粉をまとった人間もいつか死ぬ。尊厳死を望む人間が認知症に陥った時に、どう死ぬべきか。


オーストラリアでは北部準州(州都ダーウィン)で1995年に安楽死法が議会を通過したが、オーストラリア連邦政府によって決議が覆され、法案は廃案になった。その後、ビクトリア州(州都メルボルン)で、2017年に「VOLUNTARY ASSISTED DYING法」(医療的自殺ほう助法)が立法化され、2019年から施行されている。施行後6か月で52人の末期患者が安楽死で亡くなった。そのうち42人が医師の処方の薬で、9人が医師の静脈注射で亡くなった。
安楽死の条件は、成人で、ビクトリア州に1年以上居住し、余命半年以下であると2人以上の医師に診断され、生存よる苦痛が耐えがたいと認められた場合に限っている。

ビクトリア州に続いて、タスマニア州と、南オーストラリア州(州都アデレート)でも同様の安楽死法がすでに議会で決議され、来年からの施行を待っている。安楽死は、EUでは、スイス、オランダ、ベルギーなどで同じような条件つきで認められている。しかし、オーストラリアの法は、医師が患者に直接静脈注射で致死量のモルヒネを投与できるという意味では、EUの国々の法よりも積極的に患者の要望に応える内容になっている。

これに対して、バチカンでは神に対する冒涜だと、おきまりの批判をしている。しかし、人間は自分の人生に自己決定権をもち、本人の尊厳を守るために苦痛より安楽死を望むのは自然の流れだ。私は医療現場にいて、パラテイブケア(終末医療)に関わっているが、処方箋に従って、たくさんの末期患者にモルヒネを投与してきた。
命は時として科学では説明できない。治療効果がなく、飲めない食べられない状態になって輸液もせず、全身皮膚がんに侵された90歳の患者が激痛に苦しみぬきながらも死ねず、1か月以上も生存しなければならなかった例を見てきた。

オーストラリアは6州1準州と特別区に分かれているが、6州のの半分の3州ですでに安楽死法が議会を通過した。今後、安楽死法は各州で論議され、法整備されるだろう。
ニュー-サウスウェルス州(州都シドニー)では安楽死が認められていないが、ADVACE CARE PLAN という書類があり、ここに自分が重病になって回復の見込みがないときや、認知症や脳障害で自分の意思を伝えられないときに、どうして欲しいか、どう死にたいか、を書き残すことができる。自分は遺言状を弁護士に作ってもらった時に、これも作った。
また、オーストラリアでは運転免許証に、事故などで急死したとき自分の体のどの部位を臓器移植のために提供するかが明記してある。残された家族の気持ちより、本人の意志を優先する合理に全面賛成だ。

人は長く生きるようになりすぎた。人はどう生きるのか、そしてどう死んでいきたいか、もっとオープンに語られなければならない。その意味で、アンソニーホプキンスの「ファーザー」もそうだが、こうした映画がさかんに作られている。


2021年5月16日日曜日

シーカーズの「カーニバル イズ オーバー」

この間FBで歌った曲が50曲達成!と自画自賛してみたが、この曲で60曲目になった。

きょうはオーストラリアのシーカーズというポップカルテットが歌った「カーニバル イズオーバー」(涙のカーニバル)を歌ってみた。トム スプリングフィールド作詞。
この曲、どこかで前に聴いたことがあると、ずっと思っていたら、なんだ!「ステンカラージン」ではないか!オリジナル曲はロシア民謡だった。
バラライカを伴奏によく訓練された、バリトン歌手がゆっくりしたテンポで、朗々と歌う素晴らしく堂々とした歌だ。ステンカラージン(1630-1671)は、ロシアロマノフ王朝に、厳しい徴税と度重なる徴兵で疲れ切った農民や下層民を組織して武装蜂起し、ボルガ河からカスピ海まで進出して強盗、強奪を繰り返し、ツァーリズムと戦った民衆の英雄だ。ロシアの王侯貴族を追放しコサック王国を建設する予定だったが、捕らえられて刑死した。

しかし、オリジナルの詩は、ペルシャから綺麗なお姫様を強奪してきて、ねんごろになったがステンカラージンは男だ!部下どもに、女にうつつを抜かして、となめられないようにボルガの急流にお姫様を投げ込んでやったぜいー!というようなとんでもない詩だ。人権擁護者が聞いたら卒倒するような詩。今でもこの詩でロシアで歌われているんだろうか。

子供時代に、この「ステンカラージン」や、「ボルガの舟歌」をどでかい蓄音機で聴いて育ったのは、戦後の国民総貧困、総栄養失調の時代に「資本論」や「共産党宣言」を翻訳した大叔父や叔父たちの影響もあっただろうが、単に父が薄給の大学教授だったからだ。意味も知らず、ステンカラージンステンカラージンと言いながら、縄跳びをしていた幼児期の記憶がある。
うちにはテレビが長いことなかった。おかげで小学校で友達の話題に全然ついていけなかった。人形も、みんな友達が持っているような人形でなく、東ドイツ製の粗末な藁人形だった。
しかし今になってみると、家族そろって蓄音機をわきに、「ツイゴイネルワイゼン」や、「ホフマンの舟歌」などのレコードに耳を傾けたことは、かえって幸運だったのかもしれない。
I am singing [ Carnival is over] by The Seekers: Australian pop quartet( 1962-2014). Ordinal song is Russian Folk song, titled [ Stenka Razin]. Stenka was a leader of Cossack rebel (1630-1671). He fought toward Russian Kingdom in 17C and killed by government.
I was familiar with this song since I was very little. My father put this record on old phonograph frequently and well trained opera singer used to sing with gorgeous baritone.



2021年5月12日水曜日

夥しい死者を前に、ただ祈るしかないのか

         

コヴィドウィルスの感染で、世界中で330万人の人命が失われている。
米国60万人、ブラジル45万人、インドでは1日4000人のスピードで死者が出ていて死亡総数など想像することしかできない。米国ではすでに国民の半数ちかくがワクチンを打ったのに、感染が止まらない。英国ではワクチン効果が出てきている、と言っている。

ニュージーランドとオーストラリアは、ラッキーだった。昨年3月から1年余りの間、国民に海外に出ることを禁じ、外国から帰国する人を制限し、事実上の鎖国政策をとって、感染者をくい止めてきた。外国からの帰国者を、2週間ホテルや国の施設で隔離を徹底したことも大きく効果を上げている。国から人を外に出さない、人を入れない、感染源を徹底して追及し、感染者が乗ったバスや関わった人々すべてを隔離し、みなどこに行ってもQRコードを入力して、自分の行動に責任を持つ。一人でも感染者が出て、感染源を突き止められなかったら、即時その地域全体を、ロックダウン外出禁止にして、感染拡大を防ぐ。ウィルスは腸に最も生息するので、各地の下水道の検査を続ける。
60歳以上の人は、アストロゼニカのワクチン、若い人はファイザーのワクチンを打つ。出来るだけ早く打つ。国民も、永住者も、旅行で入国した人たちも、ビザを持っていない人々も、とにかく国内に居る人は全員ワクチンは無料で無条件で受けられる。これだけのことをして、感染を最小限に防いできたオーストラリアの医療体制を少しだけ褒めてやりたい。

自分も医療従事者としてこの1年余りの間、ものすごい重圧を受けながら仕事をしてきた。50人の老人を預かる小さなホームで、職員たちと励まし合いながら働いてきたが、私よりも若い職員と、友人のナースが、2人もストロークで倒れた。2人とも自宅で、意識不明で倒れていて救命されたが、一人はリハビリで後遺症と戦い、もう一人は未だ重体だ。コヴィド流行によるストレスが無かったら、絶対病気にならなかったような人々が、病に倒れている。

ホームの老人50人のうち、期限までに家族の了解が得られなかった年寄りと、体調の悪かった人を除いて、44人が2回にわたるファイザーのワクチンを接種された。2回目のワクチン接種の後、44人中、2人が喘息症状が悪化し、2人嘔吐者が出た。が、深刻な副作用は出なかった。私自身は、オフの日に、アストロゼニカワクチンを受け、副作用もなかったが前後は自重して過ごした。

医療は完全ではない。コビッドテストも正確度80%、ワクチンも75-90%の割合でしか免疫はつかない。2週間の隔離をした後でも、検査で陽性になる人がいる。繰り返し発病する人もいる。人の体はみな同じではないからだ。ワクチンは効かないから、水銀を使っているから(使っていない)、ナチュラル思考に反するから、と接種に反対する人がいる。その人もポリオにも、結核にも、腸チフスや麻疹にもならずに生きてきただろうに。忘れたのだろうか。予防接種は副作用が出るだろうとビクビク、半信半疑でワクチンを受けて、注射部位の痛みだけで病院に行きたがる人もいる。

自分の体は自分のものだという意識を持った方が良い。医療者はワクチンを打つが、免疫を作るかどうかは、自分の体なのだ。超過勤務して、5分刻みの仕事の合間に走っていってワクチンを打ってはいけない。徹夜でドラマを見て、タバコを吸い、酒を飲んでワクチンを打ってはいけない。調子が悪かったらワクチンを打つ予約日だったとしても延期すべきだし、ワクチンを打った日は、外出せずに人込みや職場にでることをやめ、静かに自宅で過ごすことだ。ワクチンを打つ前後は、とくに栄養に注意して、きちんと食事をしてビタミンを取り、よく眠り、ワクチンを接種して免疫を自分の体のなかで、しっかり作ることが大切だ。
私たち地球市民、無念に死んでいった、330万人の死者たちのために、自分の体を大切に思い、そして彼らのために祈りたい。

2021年5月9日日曜日

スピッツの「ロビンソン」

1980年代に日本のロックグループ、スピッツが歌っていた「ロビンソン」を歌ってみた。

夫の赴任に伴って、フィリピンのレイテ島オルモックに家族で移住したのが1987年、20年に渡って戒厳令を布いた独裁者マルコスがピープルズ革命で倒され、アキノ政権に代わったばかりの頃だった。首都マニラと違ってレイテ島では、まだNPA共産軍の力が強く、政府軍の駐屯地など常に緊張していた。早朝の犬の散歩で、殺されたゲリラの死体の第一発見者になったこともあったし、無造作に死体が積み重なったところを歩かなければならないこともあった。ODAの豊富な資金を使って建設省は、家族を現地に住ませて、地元の有力者達とのコネクションを作ることが当時の課題だった、と思うが、毎日が外交と社交という重大な責任を負わされ、身の安全も保障されなかったレイテでの3年間、密かに銃を枕元に置いて眠る日々だった。小学生だった二人の娘たちにとっては、テレビも電話もない、外国人が一人もいない町で、日本文化を渇望しながら、過酷な生活を体験したと思う。

その後、マニラに移って娘たちはインターナショナルスクールに入り、実によく勉強した。熱帯地方の汗が粘りついてくるような蒸暑さのなかで、二人とも機関銃のような音のするエアコンをつけて、その音量に負けないボリュームで、スピッツのCDを聴きながら勉強をしていた。

異国の地で日本の文化に巡り合う喜びは大きいが、このころ母子家庭の我が家に頻繁に日本の本、日本の雑誌、日本のCDを持ってきてくれた、山田修は、だれよりも有難い存在だった。いまだに本を送ってくれている山田修には、一生かかってもお礼が返しきれない。しっかり勉強してくれたお陰でオーストラリアで立派な専門家になってくれた娘たちと山田修に感謝をこめて、、、「ロビンソン」。
I am singing [ Robinson] by Japanese rock band, SPITZ.



 


2021年5月1日土曜日

トマスメンデスの「ククルクク」と山本満喜子さん


鳩は一度つがいになると、終生共に生きると言う。
相手に死なれて一羽になってしまった鳩は二度と別の相手を持たずに、悲嘆の歌を歌いながら孤独のうちに死ぬ、という歌。

メキシコのペラクルスという港町に伝わるウアパンゴ(民族舞踊曲)1954年メキシコ人トマス メンデス作曲の、ククルククを歌ってみた。

50年以上まえにこの歌をスペイン語で哀愁いっぱいに歌ってくれたあと、プロポーズしてくれた人がいた。そのころは安保、ベトナム戦に抗して毎日デモで忙しく、そんな事にかまっていられなかったが。
キューバのフィデロ カストロがまだ元気で政権を掌握し活躍していた。フィデロの実質的な妻だった山本満喜子が一時帰国したときに、その彼と一緒に訪ねて行って、大学での講演を依頼して、親しくさせていただいた。一番近くにいる人からフィデロの超人的な働き方や、革命前のゲリラたちの姿や、様々なエピソードを伺って、フィデロにも、満喜子さんにも心から魅了された。これほど魅力的な女性に前にも後にも会ったことがない。艶やかな肌に目が輝いて、物腰が柔らかなのに野生のヒョウを思わせる美しさ。山本権兵衛の孫だそうだが、彼女は、1993年に73歳で亡くなったそうだ。
50年あまり経って振り返ってみると、この歌への思い入れも深い。

I am singing "Cucurucucu". Mexican huapango style song, written by Tomas Mendez in 1954. People said, once a Dove mate as a pair they keep their relationship whole in their life. The dove which lost a partner, never gets other partner and keeps mourning till its own death.