夫の赴任に伴って、フィリピンのレイテ島オルモックに家族で移住したのが1987年、20年に渡って戒厳令を布いた独裁者マルコスがピープルズ革命で倒され、アキノ政権に代わったばかりの頃だった。首都マニラと違ってレイテ島では、まだNPA共産軍の力が強く、政府軍の駐屯地など常に緊張していた。早朝の犬の散歩で、殺されたゲリラの死体の第一発見者になったこともあったし、無造作に死体が積み重なったところを歩かなければならないこともあった。ODAの豊富な資金を使って建設省は、家族を現地に住ませて、地元の有力者達とのコネクションを作ることが当時の課題だった、と思うが、毎日が外交と社交という重大な責任を負わされ、身の安全も保障されなかったレイテでの3年間、密かに銃を枕元に置いて眠る日々だった。小学生だった二人の娘たちにとっては、テレビも電話もない、外国人が一人もいない町で、日本文化を渇望しながら、過酷な生活を体験したと思う。
その後、マニラに移って娘たちはインターナショナルスクールに入り、実によく勉強した。熱帯地方の汗が粘りついてくるような蒸暑さのなかで、二人とも機関銃のような音のするエアコンをつけて、その音量に負けないボリュームで、スピッツのCDを聴きながら勉強をしていた。
異国の地で日本の文化に巡り合う喜びは大きいが、このころ母子家庭の我が家に頻繁に日本の本、日本の雑誌、日本のCDを持ってきてくれた、山田修は、だれよりも有難い存在だった。いまだに本を送ってくれている山田修には、一生かかってもお礼が返しきれない。しっかり勉強してくれたお陰でオーストラリアで立派な専門家になってくれた娘たちと山田修に感謝をこめて、、、「ロビンソン」。
I am singing [ Robinson] by Japanese rock band, SPITZ.