沖縄で生まれた私の犬は3年間毎朝、首里の石畳を散策して過ごし、それからフィリピンのレイテ島では海辺を走り回り、マニラでもよく歩いたが11歳で亡くなった。彼は飛行機で家族とともに何千全キロも移動した。
体重20キロを超える大きな犬だったが、1人きり悲しみのどん底にいたとき、ベッドで私の胸の上で腹ばいになり、一晩中泣き明かした私の涙と鼻のぐちゃぐちゃを、朝までなめ取ってくれたことがある。思慮深い顔で、私を見つめながら次から次へと流れてくる涙を一生懸命なめてくれた、その時の彼の真剣な顔は神がかりだ。(ねこの舌だったら顔は傷だらけだったろうが)この犬は私の一生の宝だった。外でも家の中でもいつでも一緒だった。思えば両親は犬を一生鎖でつなぎ、ろくに散歩もさせず死ぬまで番犬係をさせる残酷人間だった。
母の兄、宇佐美正一郎は外国生活に慣れていたから、当たり前のように犬は家の中で飼っていた。大きなポインターとグレートデンがいて、訪ねていくと来客を珍しがって2匹とも争ってくっついて回り、トイレの中まで入ってこようとする。でも食べ物をねだるような無礼は決してしなかった。
その弟の 宇佐美誠次郎は、叔父だけになつき、来客などに話しかけもしない気位の高い雑種をやはり家の中で飼っていた。
父の父の弟、私の大叔父、大内兵衛も犬が好きだった。私は父方の祖父母も母方の祖父母も早く亡くなっていたので、おじいさんと言えば、この兵衛のおじいさんしか知らない。いくつになっても、忙しく動き回っていて、以外な時にひょっこり現れてはみんなを笑わせてサッサと去っていく、「疾風のように現れて疾風のように去っていく、、」月光仮面のような人だった。彼は、戦前ジャーマンセパードを家の中で飼っていた。戦後私の知る大叔父の住む鎌倉には犬はいなかったが、彼のこと書いたものの中に、このセパード犬の話が出てくる。
1938年2月1日、大内兵衛(1888-1980)、有沢広巳(1896-1988)、脇村義太郎(1900-1997)、美濃部亮吉(1904-1984)、大森義太郎(1898-1940)、高橋正雄(1901-1995)は、治安維持法容疑で一斉検挙された。世間を震撼させた学者の一斉逮捕だ。国体変革と、私有財産制度を否認し共謀して無産運動の理論的指導を行い、労農派の勢力の拡大を図り、共産主義運動を行った、という理由だった。東大を出て大蔵省で働き、望まれて東大で教えていた学者らを権力者は、治安維持法で一斉に検挙した。
警察が夜明けに大内家に到着したとき、兵衛大叔父は、自分の部屋から愛犬ジャーマンセパードを、「見かけは偶然だったように見せかけて」巡査らが踏み込んだ部屋に放った。「巡査は5人くらいでしたが、みんな一斉にわっと逃げ出した。僕は一生のうちで、こんなおもしろいことはなかった。」と彼は語っている。大型犬が彼の寝室にいるなどとは夢にも思わなかった治安警察は、この時、彼を強制連行できず、昼になってからトラックいっぱいの巡査がやってきて、そして彼は警察署に連れていかれた。
警察は兵衛大叔父が危険思想を他の学者に吹き込んだという証拠を見つけようと必死だったが、そういった証拠はなく、1944年9月にこの時の学者は全員無罪を勝ち取る。しかし、それまでの長い6年間、彼らは権力者によって醜い沈黙を強いられたのだ。
大叔父も叔父たちもとうの昔に亡くなってしまった今、また亡霊のように学問への政権の介入が蘇ってきた。
日本学術会議を、学者の会員以外の内閣総理大臣の指定する2人の外部の者によって会員を任命するという法案が通りそうになっている。
学問と研究の独立、自立性は、ときの政権の損得のためや、世界状況に左右されてはならない。悪名高い治安維持法でさえ、学問の独自性を’否定できなったのだ。日本学術会議の在り方を変えてしまう改正法案を許してはいけない。
ねこたちも犬たちも、きな臭い世情を嘆いている。