2025年6月21日土曜日

豪州イスラエル閣僚にビザを出さず

米国とイランは核処理について話し合いの途中だったにもかかわらず、6月13日金曜日に、一方的にイスラエル軍がイランへのミサイル攻撃を始めて、今日で9日目。報酬攻撃を始めたイラン軍との交戦で連日100人単位の犠牲者が出ている。

豪州は移民国家なので世界中のどこにでもオージーがいるが、現在、里帰りや親戚を訪問中で、イランに滞在している500人ほどのオージーと、イスラエルに居る2,000人のオージーを無事に帰国させるために豪州軍が派遣されることになった。とりあえずテルアビブにいる1200人のオージーを救出すると、外務大臣ペニーウオンが発表した。どのようなルートで救出するかは秘密だろうが、武器を持たない数千人の人命救出部隊が出発する。

犯罪国家、イスラエルはイラン空爆を始めて戦線を拡大しながら、連日ガザでは避難民を追い立てて、何キロも歩かせて食料配布をするといっては集まった飢餓状態にある市民にむかって銃撃を繰り返している。米国が毎日武器を供給しやめることをしない。胸がつぶれるような報道ばかりのなかで、少しだけましなニュース。

イスラエルから豪州に入国しようとした閣僚2人が、豪州政府がビザを発行しなかったため、彼らの予定していた後援会やユダヤ人コミュニテイー訪問がキャンセルになった。極右のスモトリッチ財務相と、ベングビール国家治安相の2人だ。彼らシオニストは国際法に違反してパレスチナ西岸地区に軍を送り、新たな占領地を拡大している。国連総会でパレスチナの民族自決権は、170各国で採決決議されている。イスラエル政権の中でも、この2人の超右翼のシオニストはパレスチナの存在そのものを否定して、ネタニヤフ政権を右から圧力をかけてきた。豪州にもユダヤ人は沢山住むが、2人の閣僚が豪州に入国して、彼らの軍資金を集め回るような野蛮な行為を止めることができただけでも良しとしなければならない。

2025年6月18日水曜日

米国はイスラエルへの武器支援をやめろ!

70年間、他民族の土地を侵略し、人々を避難民にしておいて高い塀で隔離し、テロリストのラベルをつけて水、電気、ガス、医療品、食料を止め、病院、学校を爆撃し5万5千3百人の市民を殺し、飢餓に直面させUNの食糧配給をする、と人を追い立てて銃撃する。わずかな食料支援が始まってから400人余りの命が奪われた。殺された多くの市民は頭を撃たれて死んだ、という。

6月13日にイスラエルはイランへ空爆を始め、テヘランのアパートで就寝中だった軍のトップコマンダーと、核物理学者を暗殺し、核施設を爆撃したため、240人の市民が犠牲になった。イランは一貫して核の軍事目的化を否定し、イスラエルはイランが持つ核以上の核を所有している、にもかかわらずイランへの攻撃を続けている。

米国大統領トランプは6月14日に79歳の誕生日と米国陸軍記念日のお祝いに、7千万ドルかけて大規模なパレードを行って、得意満面だ。いま彼は「イランはいますぐ無条件降伏をしろ。」と言い、「イランの最高指導者ハメネイ師を殺せ、殺せ、殺せ。」と恥も外見もなく叫んでいる。
人としての良識も、宗教も、法も、この暴力を止められない。米国は武器をイスラエルに送るのをやめなければならない。戦後70年間の米国の血に汚れた歴史をいつまで続けるのか。米国は武器をイスラエルとウクライナに送るのをやめろ!

ダニーボーイを歌います。
意訳は
ダニーボーイ 愛する息子よ
バグパイプが鳴り響き  山の谷間では夏が終わり、花も枯れ    そしておまえは戦争に行かなければならない   おまえがまた夏になって帰ってくるときまで  山も谷も雪で覆われる時まで  晴れの日も曇りの日も  待っているよ
でも
薔薇の花がみんな枯れるころまで   きっと  わたしは待てない   おまえが帰ってきたら   土の下でわたしが眠っているところを見つけておくれ   ひざまずいて優しい言葉をかけておくれ   わたしにはちゃんと聞こえて   わたしの墓はやさしく温まるだろう   帰ってきて  わたしを愛しているといっておくれ   それを聞いて私は  心安らかに静かに眠ることができるだろう。



2025年6月1日日曜日

犬の話 

 犬は人にとって特別な存在で、飼い主のために一生を捧げ、主人が嬉しいときは一緒に喜び、悲  しみを共有することができる、唯一の動物だ。
沖縄で生まれた私の犬は3年間毎朝、首里の石畳を散策して過ごし、それからフィリピンのレイテ島では海辺を走り回り、マニラでもよく歩いたが11歳で亡くなった。彼は飛行機で家族とともに何千全キロも移動した。

体重20キロを超える大きな犬だったが、1人きり悲しみのどん底にいたとき、ベッドで私の胸の上で腹ばいになり、一晩中泣き明かした私の涙と鼻のぐちゃぐちゃを、朝までなめ取ってくれたことがある。思慮深い顔で、私を見つめながら次から次へと流れてくる涙を一生懸命なめてくれた、その時の彼の真剣な顔は神がかりだ。(ねこの舌だったら顔は傷だらけだったろうが)この犬は私の一生の宝だった。外でも家の中でもいつでも一緒だった。思えば両親は犬を一生鎖でつなぎ、ろくに散歩もさせず死ぬまで番犬係をさせる残酷人間だった。

母の兄、宇佐美正一郎は外国生活に慣れていたから、当たり前のように犬は家の中で飼っていた。大きなポインターとグレートデンがいて、訪ねていくと来客を珍しがって2匹とも争ってくっついて回り、トイレの中まで入ってこようとする。でも食べ物をねだるような無礼は決してしなかった。
その弟の 宇佐美誠次郎は、叔父だけになつき、来客などに話しかけもしない気位の高い雑種をやはり家の中で飼っていた。

父の父の弟、私の大叔父、大内兵衛も犬が好きだった。私は父方の祖父母も母方の祖父母も早く亡くなっていたので、おじいさんと言えば、この兵衛のおじいさんしか知らない。いくつになっても、忙しく動き回っていて、以外な時にひょっこり現れてはみんなを笑わせてサッサと去っていく、「疾風のように現れて疾風のように去っていく、、」月光仮面のような人だった。彼は、戦前ジャーマンセパードを家の中で飼っていた。戦後私の知る大叔父の住む鎌倉には犬はいなかったが、彼のこと書いたものの中に、このセパード犬の話が出てくる。

1938年2月1日、大内兵衛(1888-1980)、有沢広巳(1896-1988)、脇村義太郎(1900-1997)、美濃部亮吉(1904-1984)、大森義太郎(1898-1940)、高橋正雄(1901-1995)は、治安維持法容疑で一斉検挙された。世間を震撼させた学者の一斉逮捕だ。国体変革と、私有財産制度を否認し共謀して無産運動の理論的指導を行い、労農派の勢力の拡大を図り、共産主義運動を行った、という理由だった。東大を出て大蔵省で働き、望まれて東大で教えていた学者らを権力者は、治安維持法で一斉に検挙した。
警察が夜明けに大内家に到着したとき、兵衛大叔父は、自分の部屋から愛犬ジャーマンセパードを、「見かけは偶然だったように見せかけて」巡査らが踏み込んだ部屋に放った。「巡査は5人くらいでしたが、みんな一斉にわっと逃げ出した。僕は一生のうちで、こんなおもしろいことはなかった。」と彼は語っている。大型犬が彼の寝室にいるなどとは夢にも思わなかった治安警察は、この時、彼を強制連行できず、昼になってからトラックいっぱいの巡査がやってきて、そして彼は警察署に連れていかれた。
警察は兵衛大叔父が危険思想を他の学者に吹き込んだという証拠を見つけようと必死だったが、そういった証拠はなく、1944年9月にこの時の学者は全員無罪を勝ち取る。しかし、それまでの長い6年間、彼らは権力者によって醜い沈黙を強いられたのだ。

大叔父も叔父たちもとうの昔に亡くなってしまった今、また亡霊のように学問への政権の介入が蘇ってきた。
日本学術会議を、学者の会員以外の内閣総理大臣の指定する2人の外部の者によって会員を任命するという法案が通りそうになっている。
学問と研究の独立、自立性は、ときの政権の損得のためや、世界状況に左右されてはならない。悪名高い治安維持法でさえ、学問の独自性を’否定できなったのだ。日本学術会議の在り方を変えてしまう改正法案を許してはいけない。
ねこたちも犬たちも、きな臭い世情を嘆いている。

写真は大内兵衛




すべてのリア

2025年5月29日木曜日

パレスチナ

パレスチナの人々それを代表するハマスの戦いは、反ユダヤ主義でもユダヤ人憎悪でもない。
パレスチナ人たちは、自分たちの祖国を占領しているのが、英国人や米国人や、中国人やロシア人であったとしても戦っていた。火星人やクリプトン星人や、キキララ星人やトウィントウィン星人や、月に住む地球外生物体であったとしても戦っていたに違いない。

パレスチナ人が祖国を占領した者たちと戦うのは、彼らがユダヤ人だからではない。占領者から祖国を守るために抵抗しているのだ。占領者から自分たちの国を奪い返すために抵抗しているのだ。これを民族解放闘争という。正義の戦い以外の何物でもない。

イスラエルのネタニヤフは、ユダヤ人だけの民族国家を建設しようとする誤ったシオニズムに凝り固まったレイシストだ。
彼のトチ狂った頭を少しでも正気に戻すには、米国のトランプが武器供給をストップすることが唯一の治療法だ。武器がなくなれば、無防備の飢えた女子供たちを、もう殺せない。トランプはパレスチナの現状を嘆いたらしいが、それを言う暇があったら、STOP と言えばよい。金儲けのためにそれが言えない。諸悪の根源、トランプ。
ひとこと武器供給に「STOP 」と命令しろ。
STOP NOW !

「YOU RAISE ME UP 」
を歌ってみた。
自己流日本語訳は以下
あなたが育ててくれた  わたしがしょげて、失意にあるとき  困難ばかりで心が重く沈んでいるとき  静かにじっとあなたが来てくれるのを待つ 
あなたが育ててくれたから   わたしは山の山頂に立てる   あなたが一緒に嵐を乗り越えてくれたから  わたしは強い  あなたがいてくれるから  あなたがわたしを強く育ててくれたから。


2025年5月22日木曜日

フィリピン パガサ島のいま

 1990年に私たち家族はフィリピンの首都マニラに移り住んだ。レイテ島に住んでいた頃よりも、   ずっと人々の貧困が目に見えて悲しい。

 当時フィリピンの国会議員の20%以上が、米国のグリーン カードを持っているということだっ  た。いつでも自分の国から逃げ出せる連中が1国の政治を司っていたわけだ。
娘たちが通っていたマニラインターナショナルスクールは、幼稚園から高校までの生徒数が2000人足らずの学校だったが、世界各国から来ていた外交官やアジアバンク、商社などの外国人子弟が通ってきてた。そして現地のフィリピン人を生徒数の7%だけ受け入れていた。その7%の子供たちが、どれほどお金持ちの家から来ているかは、まったく驚くほどだった。

追放された独裁者マルコス大統領が所有する島にアフリカから連れてきたライオンなどの猛獣を放して、家族が狩猟を楽しんでいた、という話は聞いていたが、この学校の子供たちも金曜日授業が終わると、パパが所有する島に、友達を連れて小型飛行機で飛んで週末を別荘で過ごした後、月曜の朝、学校の校庭に飛行機を着陸させて授業に出る、というようなことをやっている家庭がいつくもあった。
私はオーケストラを指導していたが、弦楽器と木管楽器全員で80人くらいの生徒と教師を大型バスに乗せ、地方の海べの別荘に連れていき宿舎と食事などすべて世話をして数日後に送り返してくれるような屋敷を所有する家庭がいくつかあって世話になった。
フィリピン現地採用のコーラスを教えていた女教師の父親は医師だった戦時中に「バタンガス死の行進」の生存者だったが、招かれて屋敷に行ってみたら、常時料理人を8人抱えた大きな屋敷で素晴らしい料理が出てきて、帰りは6台のメルセデスを持っているので、どれでお送りしましょうか、といわれて耳を疑った。
バイオリンの個人レッスンで行った屋敷では、驚いたことに玄関から居間までのスペースに飾り立てたジープニー(乗り合いバス)が飾ってあったことだ。普通玄関には花瓶に生けた花などかざるものだが。それほど大きな屋敷だった。
また、娘の同級生は、毎年ウィンブルドンに家族でテニスの観戦に行って有名選手からテニスの手ほどきを受けていた。
ピープルズパワーで独裁者マルコスを追放したあとに大統領となったアキノも、出身コファンコファミリーは、自分たちの領地には私兵軍隊も銀行も学校も教会もあり、中に電車が走っているような大きな領地をもった大領主だった。

少し私たちが住むビレッジを出て街に出れば、どぶに死体が浮かんでいる。うつぶせになった死体の顔を見ようと、両岸にいる子供たちが頭に向かって石を投げつけている。
交通事故でフロントがつぶれて運転手も乗客も死んだか気絶していて動かない。通行人がドアを開け乗客のポケットから財布を抜き取っている。
用があって出かけたとき、反対側のエドサ通りにガソリンスタンドがあって、給油するところに全裸の少年がうつぶせで横たわっている。ドライバーに聞くと、酔っ払いでしょう、と笑っている。この子の周りを男たちが、その体を蹴飛ばしたりあざ笑っていて、体のすれすれを車が止めて給油している。心残りのまま通りの反対側なので通り過ぎたが、あとでそれが暴行され、捨てられた10代の女の子だったと聞いて悲鳴を上げずにいられなかった。 貧富の差というものを、これほど見せつけられたことのない数年間だった。

いま南シナ海に37.2ヘクタールの、たった300人の住民が住む小さな島、「パガサ島」が注目されている。中国、台湾、ベトナム、フィリピンが、領有権を主張していて互いに譲らない。
今年に入りフィリピンが米国の力を借りて、軍港と滑走路を建設し始めた。いままで平和に自給自足で暮らしていた地元の人々の思惑に関係なく軍の力が先行している。1986年に独裁者マルコスを追放し米軍基地すべてを撤退させたフィリピンも、再びマルコスジュニアを迎え米軍基地を受け入れて、戦闘態勢に入ったのだ。
写真はパガサ島


すべてのリアクショ子、他21人

フィリピンマニラ マカテイ

 3年間(1987-1990)フィリピンレイテ島オルモックで過ごした後、夫がレイテ島だけでなくサマール島やマニラで、いくつもの大きなODAのプロジェクトの指揮をとることになり、家族でマニ
ラに移住することになった。
オルモックではフィリピン人15人に1人を日本軍が殺したことへの、免罪符としてのODAで、仮に命を狙われても仕方がないと夫は思っていた。銀行も郵便局もない、人口2万人弱の町を拠点に、道路工事の技術者を含めて何千人の労働者の給料を、毎月現金で運ぶことは危険極まりない仕事だったと思う。どうやって運んでいたのか、夫は私にも決して言わなかった。ずっと後から、ドライバーだった人に、夫が運転手の服を着て運転し、運転手が夫の服を着て2時間、レイテ島の首都タクロバンから車で往復したこともあった、と聞いた。
オルモックを去ることになり、3年間使用したベッドやソファーや冷蔵庫など、世話になった方々にあげて、私も安全装置を外して息を詰めていた瞬間はあったが、引き金を引くことはなかったコルト銃とお別れした。

マニラでは高圧線の入った高い壁に囲まれて、24時間ガードマンが警備するビレッジと呼ばれる外国人向けの住宅に住み、娘たちはインターナショナルスクールに通うようになった。
ちまたでは商社丸紅の支社長が誘拐されたり、暴力団がフィリピン人ダンサーと偽装結婚しては人身売買したり、スキャンダルがいくつもあったようだが、娘たちは日本人学校には通わずに米国の学校に行ったので、日本のゴシップには関わらずに済んだ。

マニラインターナショナルスクールには、世界各国の大使館職員やアジア銀行職員の子弟が主に通っていた。米国のボストンで試験に受かって採用された教師たちによって、米国製の教科書を使って教育が行われた。学費は年200万円ほどで、高額だが教材は豊富で、何か足りないものがあると、軍の飛行機ですぐに届いた。学業だけでなくスポーツも授業で水泳、サッカー、バレー、バスケット、ホッケー、ラクロス、アスレチックなど習って、音楽教育も、オーケストラが編成できるよう弦楽器、木管楽器が、すべてそろっていた。
生徒のほとんどは12年生(高3)までここで学び、米国の大学に進学する。成績だけでなく、スポーツや音楽など課外活動にどれだけ活躍したかで、受け容れる大学が決まる。その州に家のある子どもは州立大学の授業料は無料だった。また、優秀な子供はインターナショナルバカロレアのコースを取ると、大学に入って1年生を飛び級して大学2年生から専門教育を受けることができる。娘たちが学ぶのに申し分のない学校だった。

マニラに移って1年ほどして私は夫を、娘たちは父親を失った。家族ビザがなくなったので、娘たちの学校の弁護士に相談に行くと、それまでボランテイアでバイオリンを教えていたが、現地採用で学校が音楽教師として雇うので、ビザを発給してくれる、という。肝っ玉お母さんみたいな太っ腹のフィリピン人おばあさん弁護士で、彼女の一言で、入管局に足を運ぶこともなく、ビザ問題が解決できて、娘たちがそのまま学業に専念できたことは、とてもありがたかった。
マニラに移って1年ほどして、レイテオルモックでは災害が起きた。オルモックの山頂には大きな湖があるが、雨で決壊して大量の水が山から落ちて来て海に流され、人口の半分ちかくの人々、8000人が亡くなったのだ。3年間住んだ屋敷は、海辺まで200メートルほどの距離にありメインストリートに面していたから、1年引っ越しが遅れていたら無事ではなかった。
日本で買った2000円くらいの安い時計を、仲良くしてくれた海岸沿いのサリサリストアのおじさんにあげたことがあった。彼は山からの水で海に流されて顔が誰だかわからなくなって引き上げられた。「あなたがあげた腕時計で身元が確認できたんだよ。」と人伝てに聞かされて、大泣きした。
写真はフィリピンの国花 サンパギータ


2025年5月20日火曜日

フィリピンレイテ島 オルモック

フィリピンは330年間スペインの植民地だったがその後、米国の統治下に置かれ、太平洋戦争では、4年近く日本の植民地にされた。日本軍と米国フィリピン連合軍との間で行われたマニラ市街戦やレイテ島などの激戦によって、日本軍は111万人のフィリピン人を殺害した。当時の人口1600万人のうちの111万人というと、じつに15人に1人のフィリピン人の命を、日本軍は奪った。

幼い2人の娘たちを連れて家族赴任で1987年から1996年まで、フィリピンに滞在した。初めの3年間はレイテ島オルモック市だった。レイテ島は戦争で最も激しい戦闘が行われ日本軍の死者を最も出した土地だ。私たちが赴任したころは、この戦争の生存者で家族を失った人もまだ多かった。ちょっと掘ると日本軍のヘルメットなど沢山出てきた。
また赴任した前年は、1986年2月にエドサ革命が起き、独裁者マルコスの戒厳令に抗して人々が、軍の力をはねのけマルコス、イメルダ夫婦を追放したばかりだった。しかし首都マニラから遠いレイテ島は、イメルダ夫人の出身地でもあったから、いまだ小規模の争いは続いていて、不穏な空気も残っていた。

唯一の飛行場だったレイテ島の首都タクロバンの、ただの原っぱとしか思えない飛行場に小型機がふわりと着地したところから2時間、車で山を越え谷を越え、人口2万人のオルモックに到着。私たちは町で唯一の外国人家庭だった。
夫は第一級建築士と、第一級施工管理士の資格を持つ、建設省のエリート役人だったが、異端児で、現場が好きで、日本の政府開発援助(ODA)の資金でレイテの道路のないところに道路を通すプロジェクトの総指揮をとることになり、現地に派遣されたのだった。まだマウンテンピープルと呼ばれていた共産ゲリラが山を根拠地にしていたから、開発に反対する彼らとの軋轢もあった。赴任に当たって生命保険を掛けようとしたが、どの会社からも断られ生命の保障なしの出向だった。
沖縄生まれの大型犬を連れて来ていたから、私は毎朝1時間ほど海辺を散歩する習慣でいたが、軍によって殺された引き取り手のない死人を収容する小屋の横を、腐臭を我慢して通らなければならなかった。海辺で転がっている死体を発見したことも1度や2度ではない。
住んでいた屋敷は、外観は美しい白壁のスペイン風建物だった。そこで毎月のように市長、町の有力者、工事関係者、隣人たちを招待して大きなパーテイーを持った。そのたびにレチョンという豚の丸焼きが2頭犠牲になった。

国民の15人に1人が日本軍に殺され、ともすれば反日感情が噴き出てくるような状況で、だからこそODAの役割は大きかったはずだが、私たち家族はこうした人々に囲まれて外交的な役割を果たすことに必死だった。まだ小学低学年だった娘たちの笑顔に、どんなに助けられたか計り知れない。母娘3人でバイオリンを弾きまくった。モーツアルトのアイネクライネナハトムジク、バッハのバイオリンコンチェルト第1番、、、小学校で、高校で、パーテイーで、呼ばれるところはどこでも弾いて、音楽好きな現地の人々と交流した。メイドさんたちには、高校に通ってもらった。ドライバーさんたちにはバスケットボールコートを作らせ、チームを作って対抗戦ができるまで支援した。
道路工事が始まり、機材が運ばれても100のシャベルで100人の工夫が働けば、翌日はシャベルは持ち去られ誰も働きに来ない。また別の100人を雇い機材を持たせてもまた持ち去られる、そんなことを繰り返しながら、夫も大変だったと思う。また夫は出張が多く家に帰れないときが多かった。ガードマンを雇っても、夜遊びに行ってしまう。母娘だけで寝ていた夜、ベランダから数人の男たちが侵入して薄いドアⅠつ隔てて震えていたこともある。小さな銃コルトを枕に置いて寝ていた。

111万人のフィリピン人を殺した贖罪として日本政府が提供した、累計4兆6千憶円のODA政府開発援助金を決定した政治家たちや、フィリピン首都マニラのエアコンのきいた高層ビルで政治を語っていた外交官などに、地方に住んで援助資金の最前線で赴任家族が日々奮闘する姿など、想像もしなかっただろう。
当時、娘たちはレイテ島で日比間の外交に携わっているという自覚など全くなかっただろうが、しかし彼女らの邪気のない純真な人々との関りが何よりの優れた外交だったのだ、と今にして思う。あれから40年近い時が経ったが、娘たちには感謝しかない。

写真はフィリピン料理、レチョン


2025年5月10日土曜日

母の日

オーストラリアに来たばかりの頃、母の日に菊の花を献花されて、「おい、まだちょっと早いんではないか?」と思ったが、菊は英語でクレサンチマム、最後にマムが付くから、母の日に贈る習慣があると聞いて納得。毎年美しい花を贈ってくれる娘たち、ありがとう。世界中の母親が子供を無くさないで済みますように!!! 即時停戦の母親の願いが天に届きますように!