1950年の終わりから60年にかけて、プレスリーが歌いながら腰を振るのは、公共秩序に反し道徳と教育に悪く、若者の非行を助長するという理由で、警察が出動して、彼が腰を揺らしたら即、逮捕という条件でステージで歌わなければならなかった。
ビートルズが世に出た時、人々は長髪の男たちの登場に顔をしかめ、「不良」のレッテルを張り、PTAなどこぞって、彼らのレコードを公衆の場で踏みつけ叩き割った。
今では冗談のようだが、これが事実であって私も歴史の証人だ。
18で大学に入りすぐベトナム戦争、安保反対闘争に突入、家を出て、当時学生が占拠していた学生会館をに根城にして、毎日ガリ版でビラを作って蒔き、集会でデモを呼びかけ、連日デモり、せっせと敷石をかち割り、逮捕者を救援する、一緒に活動する仲間と思っていた活動家と称する男たちは、ほとんどが女を「同志」と考えず、俺の女とか、誰それの彼女という範疇でしか存在を認めようとしなかった。
逮捕された警察署で「お前らPは、」と言われて、意味が分からず聞き返したら、マルクスは俺のものはお前のもの、お前のものは俺のものと言っている。だからお前ら女子学生は、誰とでも寝る売春婦を同じだ、と言われた。2度目の逮捕の時は、もう囲まれていて逃げようがない場で、重装備の機動隊に「女のくせに生意気」と飛び蹴りされて、地面に倒れたところを数人の機動隊に殴る蹴るの暴力を受けた。左翼の多くも、ポリと同じ封建時代、明治男の頭だった。冗談のような話だが、事実だ。
リベラルな家庭に育って、父も叔父たちも母方の叔父たちも皆、戦争に抗した大学教授だった。しかし家庭では、父は平気で、「女は馬鹿だ」と言い放ち、私の2歳上の兄だけを「世継ぎ」として甘やかした。戦後貧しい中でも四谷大塚のような塾に通わせ中学で下宿までさせて、東大に行かせようとし、その後就職まで面倒を見る親ばかだった。父は死ぬ前、とても甘えてきて何かと頼りにしたが、財産の大半は兄に残して死んだ。家のアルバムに私の写真はほとんどない。兄の小さなころからの笑顔ばかりが張り付けてある。冗談のようだが、これも事実だ。
「五番街のマリーへ」は、昔マリーを捨てた男が、何年かしてマリーに思いをはせる、センチメンタルな歌だ。自分がマリーを懐かしく思うと、マリーの方も自分を懐かしく思ってくれていると信じて疑わない、うぬぼれた思い込み。俺がマリーを捨てた時、マリーの方も別れたがっていたかもしれないし、思い出したくもないかも、あるいはすっかり忘れているかもしれないとは決して思わない男の身勝手と自己過信。マリーに悪いことをしたと思うなら反省して、匿名で小切手でも送りなさい。黙って、そっと力になる、ということがどうしてできないのか。勝手に自分と他人との過去を装飾して、ノスタルジアと自己愛にふけるのは、やめたほうがよろしい。
どうして女は怒るのか。
答えは簡単だ。男が甘やかされすぎていて、未熟なまま成長し、大人になれないまま死んでいくからだ。(笑)
I am singing [ 5 th Avenue's Mary ] written by Aku Yu and Tokura Shinichi in 1973 and recording by Pedro and Capricious