2016年9月3日土曜日

大内姓が嫌いだ


                  
大学1年の頃、会う男会う男に「ねえ 結婚してくれない?」と聞いていた。大内の名前が嫌で嫌で、どんな男でもいいから結婚してもらって苗字を変えたかった。
父は早稲田大学政治経済学部で教務主任をしていて、大口昭彦早大全学連委員長を退学させたばかりだった。伝説になるほどやぼい学生服にゲタ姿の大口さんは正義の味方ヒーローだった。

ベトナムの民衆は何十年も独立戦争を戦っていた。米国軍の北ベトナム爆撃は激しさを増し、ナパーム弾でベトナムの山林を焼きつくし、ベトコンなどと共産主義者のレッテルを張り付けて女子供を殺しまくっていた。沖縄の米軍基地はベトナム攻撃への出撃基地だったし、東京の王子には野戦病院が建てられ、新宿を米軍爆撃機のための燃料を運ぶ列車が通過し、佐世保には原子力潜水艦が入港し、国内の米軍基地では、ベトナムで戦死した手足や頭のない米軍兵の死体がきれいに作り直されて、ジェット機で米国に帰っていく。日本も戦場だったのだ。
私が初めてデモで逮捕されたのが大学1年、1967年11月だったが、悪いことなどしていない。こんな悪い米国大使館に石を投げて何が悪いか?
18歳で未成年だったから未決釈放になって、父が警察署に迎えに来てくれた。「ごめいわくをおかけしました。」と、頭を下げたら父は無言でチョコレートを差し出して、ニッと笑ってくれた。その前、高校時代も何度か父は学校に呼ばれていた。フォークソングのレコードを貸し借りしたり、校長のお話の時間に屋上でギターを練習していた、とかいう人畜無害、清廉潔白のなんでもない事で、親を呼びつける、とんでもない学校だった。ろくでもないことで私のために父は呼ばれ、自分が大学で教えた昔の教え子に頭を下げることになって、口惜しかったのかもしれない。

結局大学1年の時に家を出て、同棲希望者にはたくさん出会ったが、結婚してくれる人はいなかった。早く結婚して名前を変えたかったのは、父に迷惑がかからないようにしたかったのだ。
父の父親は父の子供の時に亡くなっていて、その弟だった大内兵衛が父には親代わりだった。当時学生運動がらみで兵衛の大叔父さんの動静が話題になることも多かったので、ともかく私は大内姓が、嫌で嫌で捨てたくて仕方がなかった。

父は学者としては凡庸で何も冴えた研究成果は残さなかったが、若い人達が大好きで良く世話をした。父の仲人で結婚した教え子は数えきれない。卒業後も父を頼って、家に飲みに来るもと教え子が多く、いつも家には若い人、若かった人たちがたくさん居て賑やかだった。
長男だった父とその母親は、亡くなった満鉄の幹部だった父親、大内要が残してくれた阿佐ヶ谷の100坪以上ある大きな屋敷に住んでいた。その後、母親が亡くなり父は、大内兵衛の弟子だった宇佐美誠次郎の妹ふみと結婚した。戦争が始まり、片目が弱視だった父は徴兵を逃れ、教師が足りなくなった両国にある安田学園で教鞭をとることになった。このときの学生たちを、結婚したばかりだった父も母も特別に可愛がった。自分たちとそれほど年の違わない学生たちは、クラスの全員が、毎週日曜日には阿佐ヶ谷の家に遊びに通ってくるほど父を慕ってくれて、それは父が死ぬまで続いた。

戦争が長引き、父の愛した高校生たちまでが特攻隊の順列に並ぶようになり、父と母は千葉県飯岡に疎開する。そこで一緒に疎開した宇佐美誠次郎は、疎開先でお世話になっていた旅館の娘と結婚した。この旅館に大内家と宇佐美家、総じて世話になっていたのに、無学無教養の旅館の娘が嫁に、、と実に親戚は冷ややかだったようだ。ようだというのは、私はまだ生まれていないが、母や叔母たちが後年、誠次郎の嫁の話が出るたびにグジグジ言うのを聞かされていたからわかる。私は宇佐美誠次郎の叔父さんも叔母さんも、宇佐美正一郎の叔父さんも叔母さんも大好きだった。この人達が私にお古のバイオリンくれて、父に余裕がない時でもレッスンを続けるように言ってくれた。
このころどさくさの中で、父は東京中が焼け野原になるという確信から、阿佐ヶ谷の屋敷を父親代わりだった兵衛の叔父さんに差し上げてしまう。戦時中のことで金銭のやりとりや土地の登録がどうなっていたのかわからないが、父に聞いてもこの件に関しては決して口を開かなかった。父は自分の父親が自分のために残した100坪余りの阿佐ヶ谷の屋敷を叔父さんに譲った。父は何があったのか決して言わなかったが、自分は親不孝者だった、と死ぬまで言っていた。
母は私が高校の頃、自分が昔住んでいた阿佐ヶ谷が今はどうなっているのか見たい、と言うのでそのあたりを連れて歩いたことがある。近所だったという大工の家がまだあって、嬉しそうだったが、どこからどこまでが屋敷だったのか皆目わからないまま帰って来た。

兵衛の大叔父さんは、亡くなる数年前から認知症が出てきてベッドの前のテレビをつけ放しにしていて見るでもなく見ないでもなく過ごしていたと父は言っていた。
亡くなって、お通夜に続く葬式からいったん帰ってきた父は ひどく怒っていて叔父の通夜でずっと付き添っていたが、丸一日水も飲めず食事も出されなかったというのだ。一人息子の大内力は、父が親族なのでお客様ではないからと言う理由で、訪ねてくる人々には食事や酒を出すのに父にはいっさい何も出そうとしない、と。「ああいう奴なんだ。」、「昔っから心の狭い、ケチな嫌な奴なんだ。」と、憤懣やるかたない。父はウイスキーで心が静まるまで、亡くなった方の一人息子をなじっていた。
兵衛の大叔父さんは92歳で亡くなったが、父が93歳になった時、実に嬉しそうに「私は叔父さんに勝ったぞ。」、「叔父さんよりも長生きで勝ったぞー。」と言った。余程嬉しかったのだろうが、なんで勝って嬉しいのかちょっと解釈不明ぎみ。

日本を離れて30年。両親はとうの昔に亡くなり、嫌で嫌で仕方のなかった大内姓からすっかり自由になっている。今の私には大内姓も死んだ昔の夫の北村姓も何の意味もない。