2011年7月23日土曜日

小野アンナ先生



小野アンナにヴァイオリンを教わった、と言うと 嘘でしょう、あんな「日本のヴァイオリニストの生みの親」に教わったなんて、、、と言われる。
ついでに 小澤征爾の指揮で 演奏したことがある、というと、「お前、誇大妄想か、いい加減にしろ。」と言われそうだけど、これも ちょっと本当。大学時代、彼は成城学園出身なので 大学にコーラスを指導に来ていた時期がある。

小野アンナは、1898年生まれ、ロシアのヴァイオリニスト。彼女がペテログラードで出合った日本人留学生 小野俊一と結婚する前の名前は アンナ デイミトリエヴィナ ボブゾワ(ANNA DMITRIEVNA BUBNNA)。父親は ロシア皇帝に仕えた官僚で、母親は貴族だった。まさに、ロシア革命が起った年、1917年に結婚して、ボルシェビキによる革命から逃れ、日本に亡命する。
長男を出産するが、息子の病死を契機に 離婚。その後、ヴァイオリン教師として生きてきた。常に自分を教育者として位置つけて、ヴァイオリニストとしての演奏活動などはせず、レコードによる録音などには応じなかった。いわば伝説のヴァイオリニスト。

教育熱心で小野アンナの音階教本など、ヴァイオリン教育の基本の教科書をいくつか出版した。それらは いまだにヴァイオリンを習う人々の 必須の基礎学習本になっている。鈴木ヴァイオリンが組織だった活動を開始する前の話だ。彼女の伝統的な 教え方が理にかなったものだったゆえ「日本のヴァイオリニストの生みの親」という名がついたのだろう。
戦前は 諏訪根自子、巌本真理を輩出、戦後は 武蔵野音楽大学で教鞭をとりながら、前橋汀子や、潮田益子、浦川宣也、石川希峰などを 世に送り出した。
その後、1958年にソビエトに帰国して、グルジアのスミフ音楽院で教鞭をとった。亡くなったのは、1979年5月。

私が小野アンナにお会いしたのは 彼女がロシアに帰国する前の数年間で、私は 5歳から8歳の間くらいだったと思う。とても、穏やかな いつも静かに笑って観て下さったという記憶しかない。
小野アンナの愛弟子に 村山信吉と村山雄二郎がいる。現在の小野アンナ記念会の副会長が、村山雄二郎。私は彼に小さな時から、ヴァイオリンを教わっていた。とても厳しい先生で、音階ばかりを延々と練習して、レッスンの最後にちょっとだけ曲を弾かせてもらう という感じのレッスンだった。

年に一度 大きな発表会があり、小野アンナの弟子の生徒達:孫弟子のコンサートがあった。彼女は 生徒達は早くから 舞台に上がって演奏の発表することで成長すると考えていたので、発表会をとても大切にしていた。だから発表会の前には 伴奏のピアニストを連れて 弟子達のクラスに順にやってきて、曲を見てくれて、一人一人に注意やアドバイスをしてくれた。
いろんなことを言われたのだと思うが 全く憶えていない。銀色の髪をきれいにまとめて、肌の美しいおばあさんだった とか、発表会のあとの写真撮影で 横に来てくださって嬉しかった とかいう、記憶だけ。最後に見てもらったのは マスネの「タイスの瞑想曲」だったと思う。

小野アンナ記念会は、いまだに現役のヴァイオリニストを中心に活動していて、年に一度オーデイションをして、若い人を育成しているようだ。記念会をゴーグルで検索していたら、ジョン レノンのおかみさんだった小野ヨーコも 小野アンナの親戚だったということを初めて知った。
嬉しかったのは、子供の頃 ずっとヴァイオリンを教わっていた先生が この会の副会長をしておられることがわかったことだ。スマートで颯爽とした人だった。時としてあこがれたり、曲で叱られ怒鳴られ脅かされて、悔しかったり、全然上達しないので切なかった思いや いろいろな感情が溢れてきた。
でも考えてみたら 今ごろはもう80歳代なんだよね。
会いたいかって???いえ、結構です。