2010年7月25日日曜日
映画 「クリエーション ダーウィンの幻想」
チャールス ダーウィンが「種の起源」を出版したのが1859年1月24日。5年間に及ぶ ビーグル号の航海を経て、進化論を確立した記念的書物だ。その日のうちに完売された、という。
理論の正しさは、150年あまりたった現在も証明され続けている。生物は進化する。
日本では1874年、現在の東京大学医学部で フランツ ヒルゲンドルフが初めて進化論の講義をして、それを森鴎外が聴講した、という。
ヒトの進化については 1992年にエチオピアで発見された 440万年前に生存したという ラミダス猿人が鍵になる。その実態が徐々に わかってくるにつれ ヒトのルーツは ゴリラやチンパンジーとヒトとの共通祖先があったわけではなくて、全く別のヒトの祖先をもっていたことが 明らかになってきた。発見されたラミダス猿人は 身長120センチ、体重50キロ。はじめから2本足で立って歩いていたという。この最古の猿人が その後どのように 他の猿人たちにつながっていくのか ヒトの祖先を解明する道は まだ遠そうだ。
経済学者カール マルクスは 進化論に大きく影響された学者の一人だ。進化論が唯物史観を 着想する鍵になった として マルクスは「資本論」を ダーウィンに献本している。
ナチズムのアーリア人優等人種論では 優生学を証明するために ダーウィンの進化論を利用しようとしたが、学問的には全く相容れない 科学的な思想とは言えないとして、ヒットラーの優生学は否定されている。
進化論を最も否定するのは イスラム教とキリスト教だ。
イスラムにとって「神アッラーは天地を創造した。」のである。
キリスト教では、聖書学が「創世記」に、「神が植物、動物、人の順で天地を完成させた」と、記述されている。
しかし、カトリックでは 1991年にローマ教皇 ヨハネ パウロ2世が 「進化論は仮説以上のものであり、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神によって創造されたものだ」として、進化論とキリスト教とは矛盾しない、という結論を下した。
アメリカでは 進化論どころか、神によって人はデザインされたとするインテリジェント デザイン(ID説)が 公共教育に取り入れられる動きがある。ジョージw ブッシュもそのうちの一人だ。彼らは 「複雑な細胞からなる生体組織が進化、自然淘汰などでできたとは考えられない。創造にさいして 高度な知性(神)によるデザインが必要だった。」と主張する。 これを根拠にカンサス州では教育委員会が 進化論を教育に取り入れないことを決定した。その一方でペンシルバニア州では ID説を公立学校え教えるのは 宗教的創造論と結びついているので、憲法違反だという決定をした。
小学校高学年の時にダーウィンの進化論を学び、ごく自然に生物が進化する説を正論としてきた私たちにとって、月や火星探検が現実になっている現在でも人口の 40%のアメリカ人が 進化論は間違っていると 信じている事実に驚愕する。日本人の常識がアメリカ人の常識とは限らない ことは承知だが、やはりそれでも驚かざるを得ない。進化論を正しいとするアメリカ人は たった40%。トルコ人にいたっては、25%でしかない。
どうして映画評を書くのに 長々と進化論について述べているか というと、「種の起源」を出版する前後のダーウィンを映画化した作品の上映が 反対者が多く、アメリカで上映延期になった というニュースを聞いたからだ。クリスチャンの立場から この映画上映を反対する人々もご苦労なことだが、こういう事態をみて、アメリカという国を理解する良い機会にもなる。
イギリス映画「クリエーション ダーウィンの幻想」
原題:「CRIATION」
監督: ジョン コリー
キャスト
チャールス:ポール ボタニー
妻エマ: ジェニファー コネリー
娘アニー: マーサ ウェスト
原作はチャールス ダーウィンのひ孫に当たる ランダル ケインズの「ANNIE’S BOX」。
ストーリーは
イギリスの田舎 ダーウィンは広大な領地を所有する領主だ。ビーグル号での航海を終え「種の起源」をほぼ書き終えるところだ。彼を支持してその出版を心待ちにしてくれる同胞も多いが、敵も多い。「君は神を殺す気か」と、科学者としての確信を 誹謗中傷する知識人も多かった。宗教心あつい妻との確執 家族そろって教会に行く習慣も チャールスにとっては 苦痛をともなう。家庭の中で 唯一のなぐさめは10歳の長女アニーだった。彼女は科学者としての父を尊敬し 父親のすることすべてに信頼を置く よき理解者だった。
そのアニーが しょう紅熱で亡くなる。チャールス自身も健康を害し 執筆に行き詰まった。アニーの幻覚をみたり 採集した生物標本が 動き出したりする。心の病を経て苦渋の末に「種の起源」を完成させる。頑として全知全能の神を信じる妻に、チャールスは原稿を渡す。妻は夜を徹して夫の渾身の研究成果を読み通す。どうだった、と心配気に問うチャールスにむかって 妻はすでに出版社あてに小包みにしてある原稿を手渡すのだった。
というお話。
ダーウィンのバイオグラフィを映画化するというので とても期待していた。ポール ベタニーは 大好きな俳優の一人だ。長身で額が広く 学者の風格もあって、ダーウィンは適役だ。
ラッセル クロウと共演した 同じ監督ジョン コリーの「マスターアンドコマンダー」でも 航海先で時間をみつけては動植物を採集する学者の役をやっていて、それがとても良かった。長い航海で、夕食が済むと ラッセル クロウがヴァイオリンを、ポール ベタニーがチェロを弾いて食後のひと時を楽しむ。そのシーンが、美しくて忘れがたい。
このポール ベタニーが「ダヴィンチ コード」では イルミナリテイの狂信者でシラスの殺し屋になった。アルビノで全身に毛がない。次から次へと司祭を殺していく。本当に恐ろしくて震えた。
シェイクスピアを劇場で演じていた人だから どんな役でもやれる。その彼の実生活上の妻、ジェニファー コネリーがこの映画で 妻エマを演じている。映画の中でエマは一度も笑わない。実生活でもこんな感じかな、と思ってポール ベタニーがちょっと可哀想。
役に適した良い俳優、いまだに人気のあるダーウィンという題材がそろっているのに 残念ながらフイルムワークは良くなかった。現在と過去が余りにも頻繁に交差するので、背景を理解できないまま画面にひきずられ、感情をフイルムに移入することができない。
夫を理解しない妻との あまり明るくない家庭、唯一の理解者だった娘を失って嘆く父親、、、人間としてのダーウィンを描いたにしては 一面的だ。恐らく 彼のひ孫による原作「ANNIE;S BOX」がそのようなものなのだろう。家族にとっては貴重な内容だが 外部の人間にとってはあまり意味をもたない、というような。
科学者の苦悩を描くのは 確かにむずかしいだろう。まして人類史にとって画期的な意味を持つ書物だ。
ハトの何世代にも渡る遺伝的形質を研究するために 沢山のハトを飼っている。次から次へと記録の為に 首をひねって殺しているシーンが 本物っぽくてダーウィンに肉迫していた。また ダーウィンとチンパンジーとの交流のシーン、、、心が通じ合って一緒にハーモニカを吹くところなど、心があたたかくなる。また、10歳で死んだアニーの活発で好奇心に満ちた瞳が印象的だ。心に残る良いシーンが 点在する。
もしも良いシナリオライター、すぐれたカメラマン、それを編集する知性をもった監督が これらの題材を使って映画制作したら、見ごたえのある映画になっただろう。この映画は、監督の知性とセンスが足りない為に映画が台無しなった という珍しい例だ。とても残念だ。
最後にもうひとつ ケチつけ。
最後、チャールスが原稿を妻に渡し 妻がそれを徹夜で読む。妻が「種の起源」出版に反対するのではないかと、チャールスは心配で眠れない。しかし朝方 ちょっと眠ってしまった。起きて見ると居間で原稿を読んでいた妻も原稿も見つからない。チャールスは必死で探す。すると妻は庭で怖い顔をして、何かを燃やしている。近付きがたい 恐ろしい雰囲気だ。何を燃やしているのだ。原稿はどこだ、、、。チャールスは庭に向かって走っていく。心臓が早鐘のように鳴っている。何が燃えているの???? ギャー やめてー!
で、こわい顔の妻は 無言で出版社あてに包まれた原稿をチャールスにわたす。という結局なんでもなかったシーンだけれど、皮肉屋と一緒に映画を観ていたら大爆笑するところだった。
2010年7月22日木曜日
映画 「トイ ストーリー3」
ピクサー製作 アニメーション。
トイ ストーリーは ピクサー製作会社の第1作だった記念的作品。第1作から14年たって、第2作が出て、また それから11年たって第3作が出た。恐らく、これがトイストーリーの最終作だろう。
トイストーリーとともに、成長してきた子供達は もうすっかり大人になった。玩具どうしの 冒険と友情を描いたトイストーリーも、観客と一緒にセンチメンタルな終焉を迎える。おもちゃに命を 吹き込むのは 子供の想像力だ。それを失っていくことが 大人になる過程なのかもしれない。
監督:リー アンクリッチ
声優
アンデイ:ジョン モリス
ウッデイ:トム ハンクス
ジェシー:ジョアン キューサック
バズ :テイム アレン
レックス:ウォーレス ジョーン
など
ストーリーは
アンデイは17歳、大学に進学して寮生活に入るため、家を出ることになった。
荷物を片付けているあいだに、むかし遊んだおもちゃたちが出てくる。
カウボーイのウッデイはいつも勇気と行動力を見せてくれたアンデイーのヒーローだ。ガールフレンドのジェシー。ウッデイの馬ブルズアイ。ロボットのバズ、怪獣で火を噴くレックス。ドクターポークチョップは大きな豚の貯金箱だ。ミスター&ミセスポテトヘッドなど、捨てがたい思い出の詰まったおもちゃたちだ。
アンデイは どうしようかと、思い迷った末、 カウボーイのウッデイだけは 寮に一緒に連れて行くことにする。母親は 玩具たちを保育園に寄付しなさい と言うが アンデイは手放すのが惜しくなって、袋につめて屋根裏部屋にしまうことにした。ところが、手違いがおきて、他のゴミと一緒に、ゴミに出されてしまう。
アンデイに捨てられたと思い込む 玩具たち、、、。ウッデイは懸命に玩具たちをゴミ自動車から救い出す。するとまた、箱に入ってアンデイのもとに戻る途中で、まちがってサニーサイド保育園に届けられてしまう。
おもちゃたちは 子供に遊ばれているときは 動かないで静かにしているが いったん子供達がいなくなれば 動き出して 人と同じに仲間同士で話し合ったり冒険したりできる。アンデイのおもちゃたちは自分達がアンデイの玩具であって、彼の成長をそばで見てきた という誇りを持っている。できることならばいつまでもアンデイのそばに居たい。しかし、自分達はアンデイに捨てられ、新しい子供達が保育園で待っている。みんな 新しい場所で、出会える子供達に 期待に胸を膨らませていた。
しかし、ウッデイは おもちゃたちが 手違いでゴミに出された末、保育園に送られてしまったことを知っている。どうしても、アンデイのもとに、帰らなければならない。ウッデイは 一緒にアンデイのもとには帰らないことにした、みんなに さよならを言って保育園から脱出した。
しかしウッデイは アンデイの家に向かう途中 他の玩具たちから、真実を聞かされる。表面上楽しそうな サニーサイド保育園は実は 玩具の牢獄と呼ばれ ボスのテデイベアの暗黒支配下にあった。いったん 入所した玩具は 使い捨てられるまで脱出不可能だ という。
ウッデイは 皆を救い出して 無事にアンデイのもとに連れて帰ることを決意して、サニーサイドに戻る。
ボスのテデイベアは、むかし持ち主に置き忘れられたことを、裏切られたと思い込んで 人間を敵視していた。新しいおもちゃがやってくると、乱暴な幼児達ばかりの部屋で 壊れるまで相手をさせる。
おかげで、ジェシーもバズも、レックスも 最初の日に、みな傷だらけになってしまった。ウッデイとアンデイのおもちゃたちは、再び一丸となって、厳しい監視を潜り抜け、ゴミの排出口から脱出するところを ボスのテデイベアに見つかって 一緒にゴミ自動車に放り込まれてしまう。
ゴミ自動車のなかで 散々バラバラになった仲間達は、再び集まり力をあわせて ゴミ粉砕機から逃れ、焼却炉から脱出、大冒険の末 ついにアンデイのもとに 帰ることが出来た。そして、ウッデイは 他の玩具たちと別れて アンデイが持っていく箱の中に納まり、ほかのおもちゃたちは屋根裏部屋に持って行かれるのを待っていた。
アンデイが遂に出かけるときが来た。彼は 片付いて広々とした自分の部屋を見回す。何もなくなってしまったアンデイの部屋を見て 様子を見に来たママは、思わず息子の旅立ちに、涙ぐむ。そんな様子をじっと見詰めるおもちゃたち、、、。
ウッデイは考えた末、屋根裏部屋に行くはずのおもちゃたちの入った箱に、心優しい女の子のいる家の住所を書き込んで、自分もそこに入り込む。
とうとう出発。
アンデイは自分が寮に持っていく箱を自動車に積み込む。そして、おもちゃたちの入った箱を 表に書いてあった住所の家に運び込む。恥ずかしがりやの、女の子のいる家だ。
ぼくが、大事にしていたおもちゃをあげる。大切にしてね。アンデイは 箱を開けて、おもちゃを ひとつひとつ女の子に紹介する。これがジェシー これがバズ、ドクターポークチョップもあるよ。紹介しながら 女の子としばらく遊んであげる。そして、箱の一番底には ウッデイがいた。ウッデイだけは、連れて行きたかったのに、、、。でも、おもちゃは 全員一緒で遊んでもらいたがっている。遊んでくれる 子供のために残していくべきだ。アンデイは そっとウッデイにさよならを言う。僕に勇気と正義、友情を教えてくれたカウボーイのウッデイ さよなら、ありがとう。
名残惜しそうに 出発するアンデイ。
後姿を見送るウッデイたち、おもちゃたち、、、、。
というお話。
子供向けアニメーションと言えない。観ている人みんなをホロリとさせる上質の映画だ。
動かないプラスチックのおもちゃが 夜になると飛んだり踊ったり大冒険をしたりする その原動力はこどもの想像力だ。そういった子供心をいくつになっても 持ち続けたいと思う。
たくさんおもちゃが出てきたが、中に「トトロ」がいたのが、うれしかった。「トトロ」を観ると どんなときでも心が優しくなれる。ミヤザキ ハヤオが作り出した世界が どんなにピクサーやデイズニーに大きな影響を与えたか計り知れない。そんなこともよくわかる映画だった。
トイストーリー3、良い映画だ。
2010年7月19日月曜日
パトリシア コパチンスカヤのヴァイオリンを聴く
素足でちょっと猫背の黒髪の美女が スタスタと舞台に上がり、右の眉をちょっと動かして合図を送っただけで コンサートが始まった。
団員全員が合図とともに 透明な ものすごく美しい音を紡ぎ出す。21人の弦楽器奏者が 生き生きとしたハーモニーを作り 盛り上がり歌う。誰一人として 彼女の合図を見逃さない。オ-ケストラ団員達の集中力がすごい。それをひきつけている 彼女のパワーにもあきれるほどだ。そんな彼女が、オーケストラをバックに独奏を始めると 矢継ぎ早のテクニック、熱に浮かされたような独演に、彼女の素足の足踏みの音が入り、突然彼女が歌いだす。ヴァイオリンの音と 激しいピッチカートと弦を擦る音、ハープシコードの弦まで擦っていた。聴いたことの無いような和音が入り乱れる。音の洪水。
そして、突然、団員全体が何の前触れも無く止まり、静寂が訪れる。一糸乱れぬ統制力。
ブラボーの声がとびかう。
こういう音を作り上げる 指揮者も偉いが、ついてくる21人のオーストラリア チェンバー オーケストラ(ACO)のレベルの高さは、並みではない。シドニーシンフォニーオーケストラの面々にこのようなことが出来る人は一人としていないだろう。
毎年 7回のACO定期公演回を 過去、10年あまり続けて聴いてきた。いくつも その報告をここに書いてきたので ACOの素晴らしさを繰り返すつもりはないが、彼らはいつもオーストラリアで最高のパフォーマンスをしていて、聴きに行けば必ず わたしを満足させてくれる。
今回のコンサートは ACOの創始者で総監督で指揮者で独奏者のリチャード トンゲテイは出演せず、代わりにパトリシア コバチンスカヤがゲスト指揮者で ヴァイオリン独奏をした。プログラムの6曲の選曲も彼女のもの。
16世紀のバロック、アルメニア人作曲家の現代音楽、ハンガリア人作曲家のダンス曲、ウズベキスタン生まれ作曲家の現代音楽、それに ハイドンとヴィバルデイ。
いつもリイチャード トンゲテイがやっているように、指揮もコンサートマスターも独奏も務めるやり方だ。
常に21人の弦楽奏者の目が この指揮者に集中している。よほど息があっていないとできない。演奏者としてオーケストラ全体を率いていくカリスマがあって、実力がないとでいない技を この1834年「プレセンダ」を弾くパトリシアは 楽々と楽しんでやっていた。
モルドバ生まれ。ウイーンで作曲を学び 数々の賞を取り 若い新鋭の作曲家として高い評価を受けている。ACOとの共演はこれで3回目。
常に新しいものを 追求するACOの肌合いに 彼女の爆弾を抱えているような創造力がよくマッチしている。彼女も団員たちも、実に相性よく、共演を楽しんでいることが 見ていてわかる。楽しみながら プロの演奏家としての緊張が、ピリピリと伝わってくる。
パトリシア コバチンスカヤについては 以下のとおり。
http://www.patriciakopatchinskaja.com/
ACOの良さは 実力があり、それを常に海外遠征と 海外からのゲストとの共演とで 常に鍛えあげていることだ。世界のあちこちから 若い優れた演奏者を 発掘し、連れてきて共演する。いちはやく 10年も前に ペッカ クシストをフィンランドから連れてきて紹介したのも、ACOだった。今回のパトリシア コバチンスカヤも、もう3回目の登場。初めて彼女の作曲したものを紹介されたときは びっくりした。もうあまりびっくりしない。彼女の作り出す音が居心地が良くなってきた。爆発寸前の若い熱が 聴いていて心地よい。聴くごとに 新しい感動を与えてくれる。
ハイドンの形どおりの美しいバロックが、奏でられる。それが 彼女がいったんカデンッアにはいると 全く新しいピッチカーとと和音の独奏になる。それでいてバロックから外れない。魔法をみているようだ。
ヴィバルデイも、よく演奏される「四季」の冬の場面を思い浮かべて欲しい。とても早い。16部音符の連続。氷の上を激しい北風が吹きすさび 枯葉が舞う とても早いピッチの曲だけれども、これを彼女は2倍早い、36部音符の連続にした。これが弦楽器の限界 というような弓さばき 手が痙攣するよりも早く動いている。 それをパトリシアと21人の団員全員がやっている。もう、、、すごい迫力。
ハイドンも ヴィバルデイも ここまで新しくなれるんだ ということをまざまざと見せてくれた。クラシックは新しい。
プログラム
1)へンりッヒ シューツ(HEINRICH SCHUTZ)
(1585-1672)による ドイツ マリア賛歌作品494(1671年作)
JS バッハよりも1世紀も早く 生まれたドイツ人作曲家。バロック音楽の作曲家として 沢山の影響を与えた。バッハ以前の曲と思えない斬新さ。骨太のリズムの中で 美しいメロデイーが ハーモナイズする。
2)テイグラン マンスリアン(TIGRAN MANSURIAN)
レバノン ベイルート生まれのアルメニア人作曲家が2006年に作曲したヴァイオリンコンチェルト 第2番。ソビエト崩壊後もトルコ ジョージア アゼルバイジャン イランにまたがったアルメニア地方で民族音楽を元にした現代音楽を作曲している。瞑想的なレクイエム曲。
3)サンドール ヴェレス(SANDOR VERESS)(1907-1992年)による4つの トランジルバニアのダンス曲。ハンガリアのトランジルバニア生まれ。第2次世界大戦で 生地を占領されスイスに逃亡、作曲を続けた人。
これが素晴らしかった。4部作のダンス曲が始まるやいなや、目の前に草原が広がり 羊達が草を食み、遠く青い山脈が連なる光景が目にうかんでくる。牧草の香り、山から吹き降ろしてくる冷たい空気、淡い青の空、、、。
チェロは力強いリズムを刻み、軽やかな小刻みなヴァイオリンがメロデイーを繋ぐ。そのそばから ドカンというリズミックな足踏みが加わり 早いテンポのダンス曲が次第に熱狂化してくる。楽団員全員が足を踏み鳴らし 熱が最高潮に達して 突然終わる。実にみごとなダンス曲だった。
4)エレナ カッツ チェーニン(ELENA KATS CHERNIN)1975年タシュケント ウズベキスタン生まれの女性 現代音楽作曲家。1997年の作品「ズームとジップ」
5)ハイドン(1732-1809年)
ヴァイオリンコンチェルト第4番Gメジャー 1761年作。
6)ヴィバルデイ (1678-1741年)
ヴァイオリンンのためのコンチェルトEフラットメジャー作品253「嵐の海」
繰り返すが、ハイドンもヴィバルデイも 弾き手次第で、ここまで生き生きとした 輝きのある音楽になれるんだ ということがよくわかった。まさしくクラシックは新しい。
2010年7月12日月曜日
サッカーワールドカップ終了 次はツアーデ フランス
サッカーワールドカップが 7月12日早朝終了した。
予想どうり強国スペインが 初めて決勝戦を戦うオランダを 1対ゼロで下した。
どのチームを見ていても良いゲームは負けたほうが ずっとボールのパスも デイフェンスも攻撃さえも よく押していたように思えるのは 反官びいきの私だけか。スペインは 何度も何度もゴールの真正面ぺナルテイーキックのようなチャンスを逃していた。しかし延長戦で オランダの 強力なデイフェンスの壁をすりぬけてシュートが入った。オランダチームのほぼ全員がイエローカードをもらっていて 思い切ったボールの奪い合いができなかったのだろう。
オランダの 今回の試合で合計5ゴールを記録したシュナイダーの芸術的なゴールキックが素晴らしい。ロビンの早足と 正確なボールコントロールも芸術的だ。オランダはすごく よく戦った。一方スペインでは イングリッシュプレミアリーグの選手、フルバックのラモスが プジョーとともに 飛びぬけていた。アロンソ、ペドロもよく走った。イネスタのタイムリーなキックが良かった。これで2010年のワールドカップは、1位から3位まで全部ヨーロッパに持っていかれた。
サッカーの歴史の浅い 日本の活躍は これからだ。
歴史が浅いといっても1936年のナチスドイツが開催したベルリンオリンピックで、日本勢サッカーは 順々決勝戦まで勝ち進んでいる。次回のワールドカップは もっと期待できるだろう。
さて、サッカーが終わり ツアーデ フランスが始まっている。今日で8日目。これから 辛い山登りが始まる。私のヒーロー オーストラリアのカデロ エバンスが、現在世界第2位にいる。エバンスについては 前に何度か触れた。 (2008年7月29日の日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=884926892&owner_id=5059993
世界一過酷な自転車レース。米国のアームストロングも走っている。毎日6時間も7時間も走り続けていて、1日に9000カロリーもエネルギーを消耗するそうだ。食べても食べても 自転車をこぎながらエネルギー補給しても足りない。ものすごい消耗戦だ。是非 エバンスに優勝してもらいたい。
さてさて、来年はラグビーのワールドカップだ。ニュージーランドで ラグビー世界一が決まる。オールブラックは 世界のプレッシャーを背負っている。オールブラックがんばれ。
スポーツ観戦に目が離せない。
ああ漫画を読む時間がない!!!
2010年7月6日火曜日
五嶋みどりのモーツアルトを聴く
ニューヨークを中心に音楽活動をして、南カルフォルニア大学ソートン音楽学校で主任教授を務める 五嶋みどりが2日間だけ、オーストラリアに立ち寄り、モーツアルトを弾いてくれた。とても楽しみにしていて、聴きにいってきた。
五嶋みどりは シドニーシンフォニーオーケストラをバックに、モーツアルトのヴァイオリンコンチェルト第5番と、シューベルトのロンドを弾いた。期待にたがわず 本当に深い 済んだ音。宝石のように1音1音が光り輝いている。誰にも真似ができない。天才の紡ぎ出す音というものは、こういうものなのだろう。音あわせで、開放弦を弾いた時点で、もう他のヴァイオリニストと音がちがう。
モーツアルト ヴァイオリンコンチェルト第5番、トルコ風。とても有名な曲で美しい。シューベルトのロンドは 難曲。どちらも、とても良かった。コンサートが終わって、日がたったいまでも、最初に彼女が出したときの音が 耳に残っている。
残念なことは、音響の悪いオペラハウスでコンサートが行われたことだ。オペラハウスにはコンサートホールとオペラシアターがある。程よい大きさのオペラシアターに比べて、コンサートホールは2700席、箱が大きすぎる。席数に対して建物が大きく、音がむき出しの木の天井に、拡散して やわらかい音が充分響かない。100人のオーケストラに対して、ソロイストには 高い天井から吊り下げられたマイクロフォン1本だけ。
おまけに、残念なことに シドニーシンフォニーを指揮したのが イタリア人の若い アントネロ マナコルダという人だ。僕が僕が、、、と主張しすぎた。彼の華麗なフォーム、舞うような派手な指揮のスタイルに違和感を感じる。この指揮者の経歴を見ると もともと室内楽団のヴァイオリニストだったようだ。指揮者としては10年足らずの経験。イタリアでオペラの指揮を主にしてきた人。今回のコンサートが 彼の初めての シドニーシンフォニーのデビューだそうだ。ソロイストの演奏するコンチェルトには、オーケストラの皆さんに大声で叫んでもらっては困る。お客はソロイストの演奏を聴きにきているのだから。音を控えめに 指揮はソロイストが合わせるのではなく、ソロイストにオーケストラをあわせるのが彼の役割だ。出過ぎてはいけない。
それでいてシドニーシンフォニーだけで演奏した モーツァルトの交響曲40番の音は死んでいた。何てことだろう。モーツアルトの数ある交響曲のなかで一番 輝かしいジュピターが、、、。もっと歌え もっと輝け、、、。どうして、このオーケストラが演奏してこの指揮者が指揮すると退屈な曲になってしまうのだろう。
せめて、シドニーシンフォニー常任指揮者 アシュケナージに指揮してもらいたかった。あるいは シドニーシンフォニーではなくて、実力一番のオーストラリアチェンバーオーケストラ(ACO)にやってもらいたかった。ACOに比べて シドニーシンフォニーは 国と自治体から団員に給料が出ている。明日、良い演奏をしなかったら客が入らず 収入なくして路頭に迷う立場に自ら追い込んで演奏活動している芸術家集団ACOとは まったく立場が異なる。30年間 ルーチンで演奏して定年退職して年金暮らしできるシドニーシンフォニーに、生きた音は 出せない。現に、この日、25年間ヴィオラを弾いてきた70歳を越える団員が、これが最後の舞台です といって花束をもらっていた。こんなことではアシュケナージを 引っ張ってきてもシンフォニーの空気を入れ替えることはできない。毎年オーデイションをして 新しい団員を入れ、古い順から首を切っていくくらいのことをしなければ良い音は出ない。
箱だけ大きくてシドニーのアイコンになっているオペラハウスは観光で一度だけ訪れて写真を撮る分には良いが、演奏を聴きに行くには世界で最低な設備だ。
オペラオーストラリアを支えてきたのは60代、70代の年寄りだ。なのに、階段転落事故が相次いで死者まで出て やっとエスカレーターがつけられたのが今年になってからだ。リフトは舞台用大道具を載せるリフトが1機あるのみ。開演前と休憩時間の 女性用トイレは ドアの外まで長い列ができる。手荷物預かりカウンターは 今回コンサート終了後40分たっても まだ引き取る人の列が並んでいた。終わっても、会場出口まで タクシーが入れないので、長い距離を歩いてサーキュラーキーまで出て タクシーを拾わなければならない。車で来た人は 駐車する前に料金を支払って入るのにも拘らず 出口が1本しかないため ノロノロ運転で駐車場からでるのに 大変時間がかかる。おまけに駐車料金が $32とは、高すぎる。なぜ、$150のコンサートを聴く為に $32の駐車料金を払わなければならないのか。 こんなオペラハウスに 10年あまり 月に一度は来て演奏を聴き オペラを観て来ている。オペラハウスの欠点をあげればきりがない。噴飯ものだ。
総じて、今回のコンサートでは 自己主張の強すぎるイタリア人指揮者と、シドニーシンフォニーの活力不足が残念だった。
しかし、五嶋みどりの独奏は本当に良かった。彼女の輝く音、ひとつひとつが よみがえってくる。本当にきれいな音だ。
みどりは11歳でズビン メタ指揮のもと、ニューヨークフィルハーモニーをバックに バルトークを弾いてデビュー 世界的センセーションを起こした。14歳のときに、タングルウッド音楽祭、レナード バーンスタイン指揮で、ソロを弾いている最中 ガット弦が切れたのに、演奏を止めることなく コンサートマスターのヴァイオリンを受け取り 演奏を続行、また弦が切れても あわてず またコンサートマスターから受け取ったヴァイオリンで独奏を弾き終えた。この英雄的武勇伝は、語り継がれ 現代の奇跡みたいになっている。
その頃、私たちは沖縄でヴァイオリンを弾いていた。幼稚園にはいったばかりの長女と、1歳年下の次女に、毎日毎日厳しい練習をさせる鬼の親だった。ヴァイオリンレッスンが厳しすぎて 小学校1年になった娘のノートに「いえでするときの もちもの」として「ハンカチ、ちりがみ、えんぴつ、おやつ、、、」とか あって、なかなか帰ってこない。逆上して探し回り、隣の家の庭に隠れている2人の娘を引きずり出して練習をさせたこともある。何で、あんなにムキになったんだろう。他にすることがなかった、、。友人も知人もいない沖縄で、本土人が孤立にあえいでいた、、。馬鹿な母親だった。娘達には どんなに謝っても 謝りきれない。
東京から沖縄へ、沖縄からレイテ島へ、レイテ島からマニラへ、フィリピンからシドニーに。いつも母娘3人 ヴァイオリンを抱えて移動してきた。しかし幼いとき習熟したヴァイオリンを 娘達が10代が終わるまで弾き続け、いろんな人に会い それなりに楽しんでくれたことが嬉しい。度重なる引越しで私たちは 環境が変わるごとに たくさんのものを失ってきた。しかしヴァイオリンを弾くという 誰もが簡単にできることではないことを持っていたことは、アイデンテイテイにも、自信のもつながったことだと思う。
五嶋みどりの母 節が育児書というか、天才ヴァイオリニストをどう育てたか、、、というようなものを書いた本を出している。弟の龍もいて、母として誇らしいだろう。しかし、その母がネックになって みどりが拒食症にどんなにか苦しんだか、ということは 本にはなっていない。
バネッサ メイも、ヴァイオリニストの母から、魔球を編み出した星投手の父親みたいな天才教育を受けて 世界的なヴァイオリニストになったが いまではお互いに憎しみ合い 楽屋に豚の生首を投げ込んだり 殺し屋を雇うほどの深刻な仲になっている。
母と娘、、、強い絆は、互いを傷つけあう。ちょっと、ゆるいくらいの ほどほどが良いのだ。
2010年7月5日月曜日
映画 「ロウ」
オーストラリア映画、新作「LOU」を観た。
監督:べリンダ カイコウ(BELINDA CHAYKO)
キャスト:ロウ : リリー ベル テイングレイ
祖父ドイル: ジョン ハート
母 リア:エミリー バークレイ
妹達:チャーリー ローズと、エロイズ マクレナン
ストーリーは
オーストラリア ニューサウスウェルス州 ニューイングランド。
見渡す限り とうもろこし畑が広がっている田舎の小さな町。28歳のリアは、幼い3人に娘を抱えて 生活苦にあえいでいた。11歳のロウを筆頭に、3人の娘を捨てて夫が家を出て行って、10ヶ月たった。クリスマスが近いというのに、家賃の取立てに男達が来ると リアは3人の娘を連れて逃げ回らなければならない。田舎町、女一人の稼ぎでは 娘達はいつも空腹だ。
そんなわびしい暮らしが続く ある日、ソーシャルワーカーが 一人の年寄りを連れてくる。それは、リアと3人の子供を捨てて出て行った夫の父親 ドリルだった。アルツハイマー病に冒されていて、自分の息子の嫁や孫たちの記憶はない。この病人を収容する病院がないので、もし自宅で家族が世話をしてくれるなら、その為の生活資金を 自治体で出してくれるという。リアは、給付される金額を聞いて、1も2もなく老人を引き取ることにする。
ドリルには記憶がなく、意識が混乱しており自分の身の回りの世話もできない大きな子供のようなものだった。そんな年寄りのために、自分の部屋を提供して 自分は地下室で寝なければならなくなった長女ロウは 始めドリルが憎くて仕方がない。わざと辛く当たって 意地悪をする。
11歳のロウには 新聞配達で町からやって来る少年に淡い恋心を持っている。密かに母親のところに通ってくる母のボーイフレンドに嫌悪感を感じている。幼い2人の妹と違って、自分はもう大人の世界が理解できるようになったつもりでいる。
ドリルは家族の一員になり 次第に孫達の良い遊び相手になっていく。ロウも序序にドリルに対して 憎しみよりも哀れみ そして優しい気持ちを抱くようになっていく。ドリルは亡くなった妻がニュージーランドの先住民族マオリ出身だったので よくマオリの唄を歌ってくれる。ロウは海を見ながら、そのむこうにあるニュージーランドという国の夢をみる。父親の先祖だったと言うマオリの国が、まるで夢のように自由で美しい国に、思えてくるのだった。
真夏のクリスマス。
庭でバーベキューパーテイーが開催される。新聞配達の少年も 近所の人々もみなやってくる。変化のない日々の中で クリスマスは子供達にとっても大人にとっても特別な日だった。翌日、みんなで海に行く約束だったのに、母親は酔っていて、約束を守らない。怒ったロウはドリルと2人の妹を連れて バスで海に行って、一日遊んで帰ってくる。
一方、母親リアは ロウがどこに行ってしまったのか分からなかったので、ボーイフレンドと出かける予定だったのに 出かけられない。それが原因でボーイフレンドは リアを捨てて出て行ってしまう。泣き崩れるリアに、ドリルもリアも なぐさめの言葉もない。
ソーシャルワーカーが 様子を見に来て 家族がきちんとドリルの世話をしていないので、病院に戻すことにした と言う。ロウは、ドリルを連れて家出をする。何もわからないドリルは脅えて家に帰りたがるが、ロウは頑として ドリルと自由の国 ニュージーランドに渡るために、港町を目指していこうとする。
というお話。
年寄りと少女の逃避行が、哀しくて 美しい。
現実には逃げることは出来ないのだけれども 逃れようとする二人の姿が 泣かせる。
年をとった俳優、ジョン ハートが とても良い。妻に先立たれ アルツハイマーになり、何のよるべもない世界でポツンと、立ち尽くす男の孤独感をよく表していた。混乱してロウを妻と間違えたり 必死でロウに指輪を差し出してプロポーズする真摯な姿、嫁のリアのボーイフレンドに嫌悪感をむき出しにするところなども、良い。
母親リアが、夫に捨てられ、ボーイフレンドにも去られ、私はまだ28歳なのに、、、といって泣き崩れるシーンなど、とてもせつない。
しかし、初めて役者をやった というロウを演じたリリー ベル テイングレイの演技が際立っている。11歳の怒れる少女、、。怒らずにいられようか。右も左も八方塞がりの中で、それでも夢を見続けずには、いられない。生きることが即、逆境と戦うことを意味するのだから。そんな怒りの演技をとてもよく表現していた。
ロウは結局 連れ戻され母親を和解する。しかし、もどっても またロウは怒り続け、反逆し続けなければならないだろう。
2010年7月2日金曜日
オーストラリア初の女性首相 ジュリア ギラー
かりに ここに人気商売を営む社長が居たとする。
弁護士出身の優秀な妻がいて、右腕となってやってくれるので、仕事は順調そのもの。3年間、何事もなくやってこられた。ところが新しい税金対策で、ちょっと人気が下降気味。やばいかな、と思いつつ ある日職場に出てみると、100%信頼していた妻が社長の椅子に座っていて、副社長、腹心の者もすべてが妻の忠実な部下になっていた。おまけに、自分の席が会社から無くなっている。机も無ければ椅子も処分されている。たった、一晩で社長として提供されていた家も ただちに出て行かなければならないと宣告される。もし そんな立場に 自分がなったら、どうだろう?
オーストラリアの新首相 ジュリア ギラーの登場はこのようなものだった。何の疑念もなく信頼を置いていた副首相が、実は 裏で自分の支持票を集めていて、謀反を起こすなど、微塵も考えもしなかったケビン ラッドのショックの大きさは計り知れない。政治というものは そういうもの 昨日の味方は今日の敵、と言えばそれまでだが このような形で起きた オーストラリア初の女性首相の登場を 素直に喜べない。
フェアでない。彼女を人々が首相として信認した訳ではなくて、一連の政治劇の結果だった。
2007年12月 ケビン ラッドが首相の座についてから、彼は歴代のなかでも飛びぬけて 高い国民の支持率を 維持してきた。多い時は60%代、悪い時でも45%を下ったことは無かった。
就任と同時に アボリジニーの子供達を強制的に親から取り上げて 教会や白人家庭で教育を施した歴史を取り上げて、アボリジニーに正式な謝罪をした。また 地球温暖化、環境悪化の問題で、京都議定書に同意サインをした。13年間の長期にわたった保守自由党にあきあきしていた人々にとっては ケビンの登場は待ちに待った改革と新しい指針だった。
彼が資源会社の利益に40%の課税をする税制改革案を出すまでは、ケビンは人気者であり続けた。
オーストラリアの基幹産業は その豊富な地下資源にある。中国、インドなどの経済発展にともない、資源ブームが起きて、鉄鉱石、石炭、ガスなどの輸出企業は、笑いが止まらなかった。資源会社がすでに充分利益を得ていることから、この利益に課税して、富みの分配をして国内のほかの部門を強化する というのが、ケビンなど労働党の考えだった。
税制改革の趣旨は
1)資源から得た利益に 40%課税する。
2)各州は今までどおり採掘権料を徴収できるが 連邦政府は企業に対して その払い戻しを求めることが出来る。
3)法人税は現行30%から28%に引き下げ、中小企業を応援する。
4)年金は 雇用者負担を現行9%から、12%に引き上げる。
というもので、一般の働く人は賛成だと思う。趣旨の4では、今まで私が仮に100ドル 働いて稼いだとすると、雇用主は 自動的に私の年金口座に9ドル入れなければいけないところを 新案では12ドル入れてくれることになるわけだ。
要は 資源ブームに乗じて利潤を上げすぎた資源会社から高い税を取り 他の中小企業や労働者を援助する案だった。
当然ながら、資源会社は猛反対する。何度も首相と企業側との話し合いが持たれていた。
オーストラリアは世界で初めて 女性に選挙権を与えた国だ。そんなことは、ローマ人にもできなかった。マーチン ルターにもできなかった。トーマス ジェファーソンにもできなかった。男女平等の権利として女性に選挙権を与えたのが、イギリスから島流しにあった囚人たちで、建国したオーストラリアだった というのは愉快な話し ではないか。そんな国で、初めて迎える女性首相が、奇妙な政権争いの末にでてきた ということが、とても残念だ。
ジュリア ギラー英国生まれで、ウェルスで司法を学んだ。数年前、彼女が労働党入党の際、二重国籍でイギリス国籍を残していることが、問題になったことがある。3年前、ケビン ラッドに指名されて、初めての女性副首相に抜擢されたとき、テレビインタビューが自宅を訪れた。このときの様子をニュースで見た人々が、女性の家なのに、花1本、果物ひとつあるわけでない、およそ生活臭のない家を見てショックを受けた とかいう与太話もある。
オーストラリアは今年 総選挙をひかえている。
政局が流動的だ。ともかく、国のトップと、労働党のヘッドが ケビン ラッドから ジュリア ギラーに替わった。要は何が 変わったのか、ということだ。ジュリアはケビンとは、スタオルが違うと言う。政策は何も変わらないのに スタイルが変わるということは、何なのか、さっぱりわからない。課税対策は同じなのだろう。資源会社から40%の税金を徴収するのも同じなのだろう。でも、スタイルが違うということは、40%でなくて、主婦が40なら買わないけど39.8なら 思わず買ってしまうような気分で、39.8%にでもするつもり なのかしら。
首相の首の挿げ替えは、選挙対策だという。でも、ナンバー2が ナンバー1に隠れて票を集め 背後からつき落とすようなことをした政党が 果たして選挙で勝てるだろうか。
保守自由党の党首トニー アボットも、同じようなことをして、タンブル党首を抹殺した。トライアスロンに登場したり、水上救急隊で活躍してみたり すぐ裸姿をみせたがる。大嫌いだが、こんな男が、案外 今回の選挙で勝ってしまうのではないだろうか。
そうだとしたら、数ヶ月間だけの女性首相だった、ということになる。こんなことで良いのか。
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