2010年5月9日日曜日
NSW州美術館の「歌麿」
先月は、ポスト印象派の絵を観に キャンベラまで旅行してきた。いま、この絵画たちは、日本で公開されている。
私の住んでいる近所にある NSW州立美術館にも ポスト印象派の良い絵が いくつかある。州立美術館は シドニーのシテイーの中心 ハイドパークと、オペラハウスの中間にある。とても大きなヴィクトリア風の建物だ。1896年ー1909年建設。
グランドフロアに
ゴッホの「農夫の顔」(HEAD OF PEASANT),1884年
セザンヌの「マレーネ川岸」(THE BANK OF MARENE)1888年
モネの「ゴルファー港」(PORT GOULPHAR BELLE-ILE]1887年
ピサロの「農家 エナグニー」(PEASANT HOUSES ENAGNY)1887年作、などがある。なかでもゴッホの絵がとても良い。
地下2階に下りると 20世紀の絵画の部屋に ピカソの大作「ロッキングチェアーに座る裸婦」(NUDE IN ROCKINGCHAIR)1956年が、あって、輝いている。
ここで 喜多川歌麿の浮世絵89点が展示 公開されていた。日本から来たわけではなく、ベルリン国立アジア美術館所蔵作品が貸し出されてきたものだ。
写楽の描いた役者の肖像画など、その斬新な描写に魅力を感じるが 歌麿は春画のイメージが強くて、ちょっとねー、、と、避けて通りたかったが、日本びいきの友達らが、ビューテイフル、ワンダフル、マーべラス、アストニッシュ、グレイト と連発するので、行ってみてきた。
歌麿は吉原の遊女ばかり描いていたのかと思っていたら、そればかりではなくて、その時代の庶民の姿を描いたものが多いのが意外だった。
女達の顔は みな似ていて、平面的、小さな目や口で、そろって着ている着物は 襟がゆるく はだけて着崩している。男も女も共通して、なよなよして、なめくじのよう。だが、色っぽい。
描写力が実に緻密で 着物の模様、帯の刺繍の端まで はっきりと描写されている。人物描写が細かいのに 絵の背景に色がなく、白い紙に人物だけが描かれているものが多い。記念写真のように 上半身の女の絵が多く、「美人大首絵」といって、歌麿の専売特許のようなものらしい。カメラのなかった時代 彼の描いた遊女達の美人画が出版されるやいなや、その女性が吉原で売れっ子になる などの流行現象をおこしたといわれている。
印象に残った作品は
1:「絵本虫選」1788年
15ページの絵本で 狂歌の横に花や蝶や虫が描かれている。虫に、恋心をたくして 哀しがったり 喜んだり 皮肉ったりしている。それぞれの絵が緻密で、本当の図鑑のよう。狂歌の英語訳がおもしろい。英語は実用後だから、ことばに余韻も味も香りもない。
2:「煙草の煙を吹く女」1793年
大首絵といって、画面いっぱいに上半身の女を描いたもの。クローズアップされた女の 怠惰な表情が伝わってくる。
3:「お七,吉三」1800年
1683年の本当にあった江戸の大火の原因になった、八百屋お七と、吉三のお話を芝居にした時の絵。絵では ふたり仲良く並んで絵になっているが、死罪になったお七の悲劇は、娯楽に少なかった時代に 格好の芝居になって庶民の涙をふり絞ったことだろう。
喜多川歌麿の絵を観たついでに 関連の本も読んでみた。歌麿は 1806年に死去したことになっているが、墓が発見されたのが、明治35年 1902年のことだ。長いこと誰からも省みられることなく 墓を世話する家族もなかったらしく、墓の土台だけが辛うじて残っていた。そこに書かれていた記録から、死亡年月が確定されて、生まれた年が逆算され、1753年に生まれたことになった。どんな家庭に生まれて育ったのか、本人はどんな家庭を持ったのか、子供はいたのか などの事も わかっていない。
当時 文筆に長けていた教養人からは、浮世絵師は ずっと下の卑しい職業と思われていた。歌麿がどうして 浮世絵を描くようになったのかわからないが、幼いときから 鳥山石燕(1712-1288)に 弟子入りしたことは わかっている。彼は 大衆小説 黄表紙の挿絵 絵本入り狂歌 芝居絵本などの版下絵師として、生計をたてていた。
28歳で、葛屋重三郎という、版元に出会い、次々と作品を出版できて売れるようになって、30歳を過ぎてから 美人画を描き始める。
生涯に1000の美人画を描き、450の春画を描いた と言われている。江戸町人文化の華だ。
ところが、突然 松平定信による寛政の改革令が下りて 葛屋重三郎が身上半減の極刑を受ける。また1796年に浮世絵は出版禁止となる。しかしその後も、歌麿はしぶとく絵の背景に、字や絵をいれて、浮世絵とは別のものであるようにして、描き続ける。
1804年、絵本太閤記につけた武者絵が刊行されたことで、当局に「風紀壊乱」した、とされて版元は絶版没収、15貫文の罰金、3日間の入牢、50日の手鎖という重刑を受けた。徳川幕府にとって、豊臣秀吉の英雄物語の出版とそれによる庶民の人気が、時の政府の怒りをあおったのだろう。受刑のあと、歌麿は失意に打ちのめされ2年後に死んだ。
浮世絵が当局によって出版禁止になっても、描くことを止めず 圧倒的な庶民による支持を受けて、人気者であり続けた歌麿。酷刑にあい、身も心もうちやぶられて、死んだ歌麿。美人画や春画を描くことで 時の権力者にたてついた反逆児だった。
A DOG TRAINER SHOULD BE WELL TRAINED THAN DOG.
犬を訓練したかったら、犬よりは賢くなくちゃあね。とよく言う。今も昔も 権力者は 賢くなければ。それなのに、、、。
江戸時代 大衆文化の豊穣さを、少しでも お上が理解できていたら、寛政の改革や風紀取締りで、芸術家を圧殺するようなことは なかっただろう。