2009年9月11日金曜日
映画 「崖の上のポニョ」
ヘラルド紙の日曜版に 毎週新作映画の映画評論が載る。
これが かなり辛口。プロの批評家が 10段階の評価をするが、「10分の1で観る価値なし」、というのがかなりある。それが堂々と日曜版に写真つきで出るからおもしろい。まあまあよくできていて10分の6くらい、絶賛できる映画で やっと10分の7くらいが普通だ。
ところが、驚くべきことに先週 初めて10分の10と評価されていた映画があったので、タイトルを見てみたら それが「PONYO」、原題「崖の上のポニョ」だった。
また、日本でいうNHKにあたる、ABCテレビで、毎週二人の映画評論家が 新作映画を紹介する番組「マーガレットとデヴッド」という1時間番組がある。ふたりの評論家が一致して 同じ映画を褒めることが少なくて、いつも二人が言い合いになるところが面白おかしい番組なのだが、珍しく二人一致して、この映画は来年のオスカー最優秀アニメ賞に推選すると言っていた。それが「ポニョ」だった。
宮崎駿の作品は新作が発表されるたびに 外国では評判が高くなっているようだ。手書きコンテのスタジオジブリの仕事ぶりは 特に海外で 驚異をもって受け入れられていて、その技術は高く評価されている。
私も彼の作品はどれも好きだ。特に 初めの頃の作品が良い。一番好きなのは「ルパン三世カリオストロの城」。テンポの速さ 小気味良い人の動き、登場人物一人一人の描き方、個性の強さ、ストーリーのおもしろさは 他に二つとない。また違う意味で、宮崎の「となりのトトロ」と「風のナウシカ」が次に好きだ。
「崖の上のポニョ」は日本では もうとっくの昔に公開されていて、ビデオもでまわっているようだが、ここでは新作として、初めて一般映画館で公開が始まった。映画はビデオでは観ない、きちんと街に出て 映画館で新作だけを観るという主義なので、映画館で観た。
英語版では ポニョのお母さんを、オスカー女優のケイト ブランシェットが声優として出演している。
「ポニョ」を観た人は みな1837年の発表されたアンデルセンの「人魚姫」を思い浮かべることだろう。若い人は1989年のデイズニーアニメ「リトルマーメイド」を思い出すかもしれない。「崖の上のポニョ」は宮崎ワールドの「人魚姫」物語だ。
アンデルセンの人魚姫は 海で溺れた王子様の命を助けたことが契機で 王子様を愛してしまった人魚のお話だ。平和な海底で幸せに暮らしていた人魚姫が 王子のために 魔法使いに頼んで人間の姿にしてもらい、願望どうりに 王子と出会うが 王子にはすでに婚約者がいた。結婚式の日に 人魚姫は海に身投げして 海の泡になって消えていきました、、、という悲しいお話だ。子供のときに 読み聞かせてもらったか、自分で読んだか したはずのこのお話は 湿っぽいので苦手だった。王子様を そんなに好きなら どうして王子の婚約者と正々堂々と デスマッチを挑んで自分のものにしてしまわないのか。王子が別の姫と結婚するなら そんなカスはさっさと忘れて広い世界に視野を広げ 別のオープションを選んだらよろしい。子供心にも 好きなのに そうと言えなくて身を引くというグジグジした女々しい人魚に矛盾を感じていた。せっかく魔法で人になったのに 歩くごとに足が痛い、というのも魔法使いのくせに ちゃんと責任もった仕事をしてくれ、、、と。もともと、童話はつっこみ満載の話だから、自分が人魚だったら、という仮定の上には 成り立たないのが童話のゆえんなのだろうが。
スタジオジブリの人魚姫はどうだろうか。
ストーリーは
港町に住む5歳のソウスケは 崖の上に建つ家に住んでいる。ある朝、岩場で遊んでいて 1匹の金魚がジャムの空ビンに閉じ込められて苦しがっているのを見つける。ビンを割って 金魚を自由にしてやった後 自分の持っていたバケツに この金魚を入れて ポニョという名前をつける。母親リサの運転する車に乗って ソウスケは保育園に ポニョを連れて行く。保育園の隣はリサの勤める老人ホームだ。ソウスケはここのお年寄りたちから人気がある。
ソウスケはポニョの愛らしさに惹かれて、ずっと、自分が守ってあげると、約束する。ポニョも自分を助けてくれたソウスケが どこに行くにもバケツに入れて連れて行ってくれて、大切にしてくれるので それをとても嬉しく思っている。ソウスケは 怪我をした指をポニョが舐めただけで 傷が塞がって治ってしまったところを見て、ポニョには不思議な力があることに気が付く。
しかし魔法使いのポニョのお父さんは、力ずくで海底にポニョを連れ帰る。海底にもどったポニョは ソウスケのところに帰ることしか考えられない。やがてソウスケが怪我をしたときに 彼の血を舐めたポニョに変化が訪れる。手足がはえてきたのだ。ポニョは海の生きもの皆の協力を得て 味方につけて深い海底から抜け出して ソウスケのもとにやってくる。
ソウスケの前に現れたのは もうバケツの中の小さな金魚ではなく 5歳のソウスケと同じ人間の姿になったポニョだ。ソウスケは赤い服を着た小さな女の子を見て、不思議に思いながらもそれをポニョだと、認識する。ソウスケの母リサは ソウスケにポニョを紹介されて、不思議に思いながらも家に入れてやり 二人の子供達に食事をさせる。
ポニョを失った海は 荒れ狂い 嵐となって街を襲う。みるみるうちに水位が上がってくる。リサは 歩くことが出来ない年寄りばかりが残された職場が気になって 子供達を崖の上の安全な家に置いて 職場にもどっていく。ソウスケは 母親の言いつけどうりに崖の上から灯火を照らして 海にいる船の遭難を防ごうとする。嵐のために 地上からの灯りが消えて方向がわからなくなった船を誘導するのだ。
ソウスケとポニョのいる崖の上の家を残して すべてが水の中に沈んでしまった。水の下の世界では、不思議なことに リサがもどった 老人ホームの年寄り達は 自由に歩くことができるようになって、病気だった年寄りは元気になっていた。ポニョを失って、怒り狂って嵐をおこした魔法使いは負けて 海の女神によって、静まっていたのだ。リサと海の女神は話し合って、リサの同意を得て、ポニョはソウスケの家に引き取られることになった。
海の女神は ソウスケとリサに出会い、再び人との信頼関係を取り戻したのだった。
というおはなし。
まず、心に沁みたのは ソウスケとリサとの 相互信頼関係と絆の強さだ。リサが素晴らしい。5歳のソウスケを完全に ひとりの自分と同格で同等の人として認識し、絶対的信頼を寄せ、尊重している。
嵐の中でソウスケに 突然現れた赤い服の女の子が これはポニョだよ、と紹介されたときリサは、「何か不思議なことが色々起こっているみたいだけど 後でわかるでしょう。今はとにかく家に入って。」と言う。わからない不思議な出来事もいずれはわかるときが来る。今しなければならないことをすればよい という大人の態度を取れるリサは立派だ。
また、初めの頃、ポニョが海の魔法使いに連れ戻されてしまって、海の深みで行き場を失ったソウスケを見つけたときの リサの態度も立派。ソウスケを呼び戻すために どなりもせず、わめきもせず、ただすばやく走っていって息子を海から引き戻すシーンだ。口先ばかりで子供を叱ったり、口で子供をしつけようとする愚かな口先女の親達に 100回くらいフィルムを巻き戻して見せてやりたい場面だ。
それから 崖の上の家に子供だけを残して リサが職場に行くところも感動的。嵐で町中が暗闇なので、海上で船が遭難しないように サーチライトを灯す大役を、5歳のソウスケにまかせて 家を去る母親。義務でもないのに 年寄り達を救出するために職場に戻る母親と、残ってライトを照らし続ける5歳の息子とは、ゆるぎのない絶対的信頼で結ばれている。
この母にしてこの子あり、だ。
それにしてもポニョのまっすぐな心、なんの曇りもない ソウスケへの100%純愛、ひたむきさは、涙がでるほどだ。誰もが これを見て 自分がポニョほどに純心な気持ちで 一人の人を愛して求めたことが 人生のうちで一度でもあっただろうか、、、と、自問したのではないだろうか。ソウスケの乗った車を追って 海の波間を駆け抜ける ポニョが一生懸命走り続ける長い長いシーンが、この映画で最も印象的な場面だった。ポニョがわき目もふらずに ソウスケを追って走る姿は 胸に迫る。そして、真剣に生きようとし、純真な心で人を愛そうとしているものに対して 自然は優しい。
宮崎の作品では いつも人と自然との調和、信頼がテーマになっている。
映画の中でも 人間によって汚れた海、止むことのない開発と汚染や 地球温暖化が、どれほど海の生物達に被害を与えているか、海洋資源の減少、生き物達の絶滅も、語られている。
また、人間社会のひずみを集約したような老人ホーム、その中で生きる老人達の孤独、ひがみや憎しみも、さりげなく画面で語られている。
しかし、映画はそういった社会現象、社会問題、人の心のゆがみなど、すべてを乗り越えるのも、また 若い、心にくもりのない人々の力によってなのだ、と、訴えている。社会批判や批評や、皮肉やニヒリズムでなくて、真剣に生きる若い力で 社会や人々の流れを変えていくことが出来るはずだ、というメッセージを、この映画から私はたしかに受け取った。