「プラダを着た悪魔」20年前にそれなりヒットした同名のハリウッド映画の続編が再び映画化されて市場に出ている。アカデミー主演女優賞を重ねて取ったメリルストリープとアンハサウェイとエミリーブラントと、それらを支えるイタリアの名優スタンレイドゥッチの4人が、20年の年月を感じさせないで、まったく同じような顔と体形で姿を現したのは驚くべきことだ。4人とも好きな役者だ。メリルの「ソフィの選択」が忘れられない。ここまで女性の悲哀を表情一つで表現できる、彼女の役者ぶりには驚いた。
映画では華美で激しい競争を強いられるファッションの世界で、それぞれが、だまし合ったり、出し抜いたり足を引っ張りあったりもがきながら、商売に血眼で頑張る女たちを描いている。10分ごとに長身で、見栄えのあるアンハサウェイが、次々とブランド服をつっかえとっかえ着て出てくる姿は、それなり愉快で、レデイガガが、ショーで歌うシーンも良かった。なによりも、本場ミラノでショーが開かれ、そこがミラノ大聖堂で、ダヴィンチの「最後の晩餐」が見られたのもおどろきだ。
ただ
チャオという中国人らしい女性が新人として会社に採用されてくる。おきまりの「人種差別と偏見で笑いと取る」レイシストビューだ。背が低く、目が吊り上がって、眼鏡をかけて、ダサい服を着た女。映画の中でちょっとした笑いを取るための演出は、私がアジア人であるかどうかにかかわりなく不愉快。人の見た目で笑いを取る、ということをしてはいけない。教養はそのためにあり、片足の人の歩く姿を、指さして笑わないだけの良識をわたしたちは持っていたのではないか。
人は生まれつき成長ホルモンのいたずらで背の伸びない小人症の人も居れば反対の人も、指が4本で生まれてくる人も居る。ナースとして、山火事が起きボランテイアで人々を守ろうとして顔に火傷を負った患者をたくさん見てきた。山火事で消火に当たる人はまず顔から火傷を負うから、ケロイドでフランケンシュタインみたいな顔になる人が多くいる。彼らの姿は異様でも、やってきたことは、誰よりも崇高で美しい。癌で顔半分を手術でなくした人や、声帯のない人や、片目になっても社会復帰している人も沢山居る。外見の違いや障害があっても彼らの社会への貢献は何よりも貴重だ。人は見た目で笑うような幼稚で無教養な社会で生きてはいけない。人種を笑う、異形を笑う、障害を笑う、ような人は、自分が病気や事故で同じ目に遭わないと、笑うことを止めないのだろうか。
人は生まれたときサルと同じ、というか、生まれたときにすぐに立ち上がれないという意味で動物にも劣る。
それを立派な人にするかどうかは教育の力による。サルに劣ったまま大人になるか、教養を身に着け人類に貢献する人になるかは教育にかかっている。だから差別をしないという教育が大事だ。中国人らしい女性が映画に出てくるシーンは、ほんの10分、しかしそのたった10分の差別的な笑いが、暴力に通じるだけに、社会は許してはならないのだ。一方的に笑われることは笑う方が意図しているかどうかにかかわりなく傷を受ける。そうした暴力を見過ごしてはならない。
そう思い当たって、この映画を見続けていると、物質主義のアメリカファッションの世界が、マイアミの豪邸にふんぞり返るトランプに共通するアメリカ文化の、華麗でなく「貧相」、文化的でなく「低俗」、品格でなく「軽薄」に感じられて、このうえなくむなしくなるのであった。