マイケルジャクソンもそうだが、プロのエンタテイナーとして、人に楽しんでもらえるなら足の1本や2本失くしても本望と、命も差し出している潔さが、切ない。第2部は来年に公開されるそうだが、まだ彼の敵は姿を現していない。認識カメラに映らない人を動かし、潜水艦を吹っ飛ばす未知の悪い奴が、どう出てくるのか楽しみだ。
ハリウッドの俳優組合のストは大きく報道されたが、実際AIで、顔だけのトム・クルーズやライアンゴスリングが、画面で大暴れして1本の映画がCGで作れるところまで、テクニックが進んでいるとは、嫌な時代になったものだ。それは「インデイアナジョーズ」最終作を見た時に、80歳の役者が、ギャングをかっ飛ばしたり、走る列車の屋根で乱闘を繰り返すフイルムをみたときに、感じた嘘くさい不思議感覚につながる。自分と等身大のはずの役者がAIで加筆修正されて出てこられても嬉しくない。
「バービー」は、歌って踊って楽しいコメデイで、マーゴットロビーが可愛らしい。馬鹿っぽい映画ではなくフェミニズムもアイデンテイテイやルッキズムや女性差別を真面目に取り扱っているという宣伝だったが、どれも中途半端な踏み込みなので、単なるミュージカルコメデイとして見るのが良い。初めて人形のバービーが人間世界に行って、カルフォルニアビーチで人に囲まれたとき、バービーは、「私にはヴァギナが無くて、ケンにはペニスがないのよ。」といきなり言って自己紹介する。そして沢山の人に触れ、バービーは悲しさも悩みも怒りも嫉妬や妬みもある人間になるために、ヴァギナを作ってもらいに医院に行くことで映画は終わる。人にはジェンダーがあるから人は人なのだと言うことが、可愛いバービーにわかってもらえたことは、喜ばしい。
しかしこの8月は1953年作、関川秀雄監督による「ひろしま」を観るべきだ。日本教職員組合制作、1955年ベルリン国際映画祭受賞作。8万8千5百人のボランテイアによってフイルム化されたそうだ。私は7歳で学校で先生が、日本国憲法について「主権が国民にあります。」「日本は二度と戦争を繰り返さないと誓いました。」と誇らしげに胸を張って語った時の様子をはっきりと覚えている。このころの教師は民主主義のなかった時代に教育を受けて教師になり、民主主義を教えることが使命だと考えていた。 映画の中で岡田英治が演じる先生は、貧血で倒れる生徒をみて被爆と白血病について生徒に理解を求め、被爆による同じ広島県人どうしの差別と偏見についても踏み込む。戦後7年経ち警察予備隊ができ、朝鮮戦争のために再び、工場では弾丸を作り始める。そういった動きに敏感に反応する子供たち。映像が素晴らしい。
まさにエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」であり、ジッロポンテヴオ監督の「アルジェの戦い」に共通するリアリテイだ。映画はこのような真実を伝えるために作られる。観た後に感動が押し寄せる。
熊本県民謡「五木の子守歌」を歌ってみた。
I am singing [ LULLOBY for ITSUKI ] Kumamoto country song.
Awaiting the harvest festival. My master might give day-off. Might not I don't know. I was sold for nursemaid. My master has luxurious life. beautiful dress. Even I might died Who care me? A Cicada shrills at back yard. Don't cry baby at my back. Its me really cry out. If I would be died, bury me beside the road. Someone who pass by will leave flowers for me. Leave a Camellia for me. The rain makes the flower lively brighten.