そんな母が言うには、私が小学校1年生になったばかりのとき、先生の「勤労感謝の日は何をする日ですか」との問いかけに、真っ先に手を上げて私が「万国労働者の祭典です。」と答えたらしい。全く記憶にないが労働者も万国も何のことかわからなくても、そういった訳の分からない言葉が、ふつうに家族や来客者の間で行き交う様な家庭で育った。
父は、父の父が満州鉄道の幹部だったので、京城、今のソウルの満鉄官舎で生まれて育ったが、幼いうちに父に死なれ、故郷の淡路島に帰り、そこで父の弟、大内兵衛を親代わりにして育った。
私の子供時代は、晩年の兵衛の大叔父は、鎌倉に居を構えていた。高台にある景色の良い居心地の良さそうな木造家屋で、斜面には彼が自ら植えたチューリップ畑が一面に並んでいた。ヨーロッパでは一時チューリップが大流行して、一つの球根が何百ポンドもしたという。その球根の根分けの仕方や、陽に干して翌年に備える技を習得していた。ヨーロッパ仕込みのその技は、父にも伝えられ父もチューリップを愛した。
鎌倉から江ノ電に乗って数駅、駅から坂の多い道をかなり歩かなければならない。訪ねて行ったとき、東京で会議があるからと、出かけなければならない時間なのに、なかなか腰を上げない。江ノ電がやってくる時間に走って、ドアが閉まる寸前に飛び乗るのが大好き、という。年をとっても小柄で足取り軽く、ちゃめっけの多い大叔父だった。
大叔父が2度目に治安維持法で逮捕されたのは1938年2月1日。続いてお弟子さんたちも引っ張られた。美濃部亮吉、脇坂義太郎、有沢広巳、大森義太郎、高橋正雄、阿部勇らも検挙された。大叔父が危険思想を吹き込んだとして治安維持法で起訴したが、全員、頑として連座を認めなかったので検察側が共同謀議を立件できず、最終的に無罪判決が下った。
しかし彼らは、戦前戦中の1年半のあいだ獄中にあり、口をふさがれ、筆を折られ、語る場を奪われていたのだった。
大叔父が甥にあたる父と、可愛がっていた弟子の宇佐美誠次郎の妹を結婚させて私が生まれた。父は早稲田の政経で教えていたが、給料は薄給で家計は大変な様で、私の服など下着のパンツまで、兵衛の孫の茉莉子のお古のお下がりだった。
宇佐美誠次郎叔父が大学を出て、東方文化学院に勤めていた頃、1942年4月に、論文の内容が治安維持法に触れるといわれて逮捕された。1年半のあいだ拘留され保釈されたときに、その足で彼は大叔父に会いに行った。そのときのエピソードが好きだ。
兵衛は誠次郎に自分の宝の「クーゲルマンあてのマルクスの自署のある資本論の初版本」を手に取らせてしばらく語り合ったあと、近所の映画館にふらりと入り、夏川静江の「小島の春」を見たという。誠次郎は、映画を瀬戸内海の風光は美しかったが他に何も記憶に残らない映画だった、というが、私は厳しい尋問を受け、1年半拘留され、劣悪な刑務所の南京虫だらけの毛布のために体中傷だらけのなりながら釈放され、その足で会いに来た愛弟子とならんで、呑気な映画をみているおじいさんの嬉しそうな顔が、リアルに想像できる。2人とも生きて再び会うことができて、とても幸せだったのだと思う。