私の大叔父と叔父にあたる。背が高くて立派に見えるのが、兵衛の弟子の誠次郎だ。私の父は京城の朝鮮総督府官舎で生まれたが早くに親に死なれ、その弟の兵衛が父親代わりだった。その兵衛が父と、東大で可愛がっていた弟子の誠次郎の妹を結婚させて、私が生まれた。
母が兄の誠二郎のことを大好きだったので、私もこの叔父が好きだった。私にバイオリンをくれたのも、高いレッスンフィーに躊躇する父に続けるように言ってくれたのも、学生時代にデモで逮捕されたことで怒り狂う父をなだめてくれたのも、この叔父だ。母にはもう一人の兄、宇佐美正一郎が居て、理学博士で北大と神奈川大で教えた。叔父たち二人とも、この時代の人にしてはとびぬけて背が高くハンサムだった。
母は5歳上の正一郎と3歳上の誠次郎に、思いきりちやほやされて育った。母のアルバムには、体の大きな兄たちにはさまれ両腕にぶら下がるようにして銀座を闊歩しているベレー帽の姿や、2人に手を取られて「竹」のスキーを履いて滑る姿の写真がある。「銀ぶら」帰りの車も、しゃれ者だった兄のおかげでオープンカーだ。外国語に堪能で最新の蓄音機や写真機を取り寄せて楽しんだ兄たちは、宝塚に夢中だった母を、望まれるまま劇場に連れて行ったし、軽井沢でテニスに興じた。結婚前の母は幸せそのものだったろう。むかし母に戦争中は何が辛かったの、と聞いたらテニスできなかったことかな、と母が答えてがっかりさせてくれたことがある。大事にされていた母には兄たちの苦境や学問するものの姿は目に入らなかったろう。
大内兵衛大叔父は1938年に治安維持法違反容疑により逮捕され1年半もの間拘禁されていた。共産党員でもない、政治活動するでもない、赤でも黒でも緑でもない、経済学者が国家転覆を図っているといわれて逮捕される異常な時代だった。宇佐美誠次郎も1942年に治安維持法違反容疑で逮捕、投獄された。翌年懲役2年執行猶予5年の判決を受け出所したが、「死んで来い」とでもいうように、1943年臨時招集を受け補充兵として中国の前線に送られた。1945年9月に召集解除されるまで生きのびることができたのは、スポーツで鍛えた堅固な体と幸運のおかげだったろう。