肝臓がんと言われ、血液検査をしたら1単位に50くらいなければならない赤血球が12しかなかった。いま突然息が止まっても不思議ではない、と言い渡されて、最後の頼みのプレドニン注射を2回受けて、ひと月、私と普段通りに暮らした。無理を言って長い休暇をもらって一緒に居られたことが、私には何よりも幸せなことだった。
クロエを失って、悲嘆にくれた。20年余り一緒に暮らしたオットが2年前に、死んだ時よりずっと悲しい。ヒトは愚かな、罪深い存在だが、クロエは違う。私の喜怒哀楽をすべて共有してくれた。クロエには邪心がない。心と心だけで私たちは結ばれていた。
初めのころクロエは甘え方が下手な猫だった。抱き上げると嫌がって爪を立ててくる。雌なのに来客があると、シャーと相手を威嚇して、ここは自分のテリトリーだと主張する。娘がアメリカ製の立派な爪とぎ木を取り寄せてくれたのに、それを一瞥もせず皮製のソファーで爪を研ぐ。絨毯の一番目立つところで爪とぎの仕上げをする。おかげでソファーセットも、絨毯も、ベッドもボロボロになった。食事の好き嫌いも激しい。気に入らない猫缶やカリカリを出すと,匂いを嗅いでサッと立ち去る。絶対に、せっかく出してくれたんだから試してみよう、などと親切心を起こさない。余程寒い夜など、以前の犬や猫は寝ている私のふとんに潜り込んできて、私の枕を横取りして一緒に寝たものだが、クロエは布団に入ってくるとそのまま、私の足まで行って、そして出ていく。それを何度も繰り返すので、冬など寒いのなんのって。猫じゃらしや、ボールで遊ばせようとしても、全く関心を示さない。まことに人に甘えない、人に媚びない、関心をもたない、不思議な猫だった。そのくせ コンピュータを使おうとすると、キーパッドの上で寝そべって動かず仕事の邪魔をする。料理を始めようとすると、台所のシンクのなかでリラックスしているので、水が出せない。本当に気難しい猫だった。
前の猫を17歳で亡くしていたので、もう猫を飼うことはないだろうと思っていたときに、獣医の娘がクロエを連れてきた。オーナーが安楽死させたい、とクリニックに来た、という。そのオーナーは家に子犬を飼った。新しく来た子犬をクロエは虐めて、いたぶって噛み殺そうとしたらしい。まだ若いのに安楽死はないだろう、と思って娘の言うまま、うちで飼うことにした。そのクロエは家に来て3日で居なくなった。住んでいた高層アパートで、ベランダから飛び降りて逃げ出すことはできない。でもベランダ越しに小さな隙間から隣の家に行くことができる。ちょうど隣の一家が引っ越して、ペンキ屋や絨毯屋が出入りしているときだった。誘拐されたらしい。1週間後に、とんでもなく遠くにある獣医から連絡があり、マイクロチップから私の電話番号がわかって、クロエを保護したので引き取りに来てほしいという。あわてて40分運転して迎えに行った。やつれても、痩せてもいない。足裏も汚れてもいなくて長い毛でふかふかだ。何があったのか言ってくれないので、どうしてそんな遠くにいたのかわからない。でもそれからは、平穏に10年間、私と一緒に暮らしてくれた。
16歳になって徐々に痩せてきて、食べ物の好き嫌いも以前より激しくなって、来客嫌いも治らないが、私にはとても甘えるようになった。私が台所に立てば横に来て見上げ、トイレに行けばドアのところで待っていて、外出から帰れば地下の駐車場の車の音でわかるらしく、家の入口で「正座」して待っている。朝は私のほほを、シャープな爪で3-4回ひっかいて、朝食を催促する。夜はベッドの足の方で丸くなり、私がベッドで足を伸ばせないようにしてくれる。おかげで私は首を寝違えたり腰痛で動けなくなったり、散々な目にあった。片手で本をもって読んでいると空いている方の手に顔をこすりつけてくる。机に向かっていると足にからみついてきて、横で寝そべっている。どこにいったのかな、と見まわしてみると、部屋の隅に居るが、顔だけはこちらに向けていて、じっとこちらを見ている。
いま息が止まっても不思議じゃない、覚悟して、と言われてから、仕事を休んでずっと一緒に居た。最後のころ、クロエはいつもこちらを見ていた。寝転がっていても、へたばっていても、いつも目の届くところにいて、私の気配を察して必ず目を合わせてくる。愛情を確認するように美しい金色の目を交わしてくる。ペルシャのミックスなので長いふわふわの自慢の毛は、病気で食べなくなってもつやつやして、輝いていた。赤血球が足りないから酸素が十分体に行かないで呼吸が苦しいはずなのに、立ち振る舞いは優雅そのもので、決して姿勢を崩さなかった。きっちり前足をそろえて、おしゃれな姿勢で立っている。
いよいよ何も食べられなくなって、貧血で、呼吸数が1分間に40と早かったのが、50になって呼吸困難が明確になって、これ以上引き留めることが、可哀そうで辛くなった。注射を4本。最初の麻酔注射で眠ります、といわれたけれど、クロエは大きな目を開けて、私を見つめていた。それから静脈注射を3本。心臓も呼吸も止まったのに、大きな目でこちらを見ている。体が冷たくなっても、その目は私を見つめていた。
クロエとふたりで生きてきた。クロエが居なくなってしまって、一人きりで生きていく自信があまりない。つらくて、つらくて、クロエを安楽死させたことを、娘たちにメッセージした。すると数分後に、11歳のマゴから「おばあちゃん、クロエが亡くなって残念です。でもこれからはいつもいつもクロエはおばあちゃんと一緒に居る、っていうことを忘れないでね。」と。11歳にして、何というマチュアリテイ、、、。遠く離れて住むマゴが、悲しまないで、と必死で慰めてくれている。11歳の思いやりのこもった言葉が、悲嘆にくれて、ひとりぼっちだった魂を救ってくれた。娘たちもすぐに電話をくれた。クロエ、長いこと一緒に居てくれて ありがとう。ありがとう。ありがとう。