2018年12月12日水曜日

エルミタージュ美術館モダンアート展

ペテルスブルグにあるエルミタージュ美術館は、一度は行ってみたい美術館だ。
1754年ロシア女帝エカリーナ2世が命じて、1762年に完成したバロック様式の華麗で壮大な城だ。ペパーミント色の外壁が美しい。建立当時の外壁はライトイエローだったそうで、第2次世界大戦中は、空襲を避けるために灰色に塗り替えられたという。(どんだけペンキが要ったのか)部屋数が460室もあり、大きな中庭を囲んで正方形の形をした冬宮に、居住したエカリーナは、移り住むとすぐにベルリンの美術収集家から225点の絵画を購入したという。

エルミナージュ美術館は、その冬宮と、小エルミタージュ,大エルミタージュ,新エルミタージュとエルミタージュ劇場の計5つの建物を言う。美術品の展示室1500室、古代エジプトの美術からラファエロ、ダヴィンチ、ベラスケスから、モネ、セザンヌ、マテイス、ピカソまで300万点を収蔵する。厖大な作品数なので、イヤフォン式の解説を聴きながら順序良く見て行くと少なくとも10時間、20キロの道のりを歩くことになるそうだ。スケボを持って行かないといけないな。

シドニーニューサウスウェルス州アートギャラリーで、これらのエルミタージュ美術館から、65点のモダンアート作品が貸与されて、展示会が始まったので見に行ってきた。ロシアの美術収集家、セルゲイ シチューキンと、イワン モロゾフの二人が収集した作品が展示されている。
オーストラリアにこれらの作品がやってくる先立って、2016年10月から2017年3月までパリの ルイヴィトン財団美術館でセルゲイ シチューキンの収集した作品展が開かれている。これを、シチューキンの孫で、相続人に当たるドエロク フルコーが監修した。エルミタージュ美術館から100年余りの間、外国で公開されることのなかったシチューキンの収集作品が公開されるということで、大変な人気となって、ルイヴィトン美術館の斬新な美術館の話題性もあって、60万人を超える入場者を記録して、2月に終了する予定が急きょ3月まで会期を延長されたという。
このときは、シチューキンの収集作品274点のうち、130点が渡仏した。展示されたのは、モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーギャン、マテイスなどすべてパリで活躍した画家たちの作品だ。ロシア人美術収集家シチューキンは、まだ画家として実力を認められていなかった、マテイスとピカソに作品を依頼し、購入し収集したことで、彼らの生活を安定させ、国際的な認知を高めた。ピカソをシチューキンに紹介したのは、マテイスだった。マテイスとピカソ二人にとっては、シチューキンは、いわば育ての親とでもいえる役割を果たしたことになる。それにしてシチューキンの収集作品展に60万人が美術館を訪れたとは、パリっ子って美術好きなんだな。それとロシアがヨーロッパの一部で、フランスとは地続きだったということを改めて認識する。

かつては教会と王侯貴族がパトロンとして画家や音楽家たちの生活を支えた。しかしその後のモダンアートに時代になると、パトロンは富裕層ブルジョワに移り変わる。セルゲイ シチューキンもイワン モロゾフも革命前に織物業で大成功した実業家だった。モスクワのボリショイ ズメナンスキー通りに立派な屋敷を持っていたシチューキンにとって、定期的に夜会やお茶会を開催をするため、身分にふさわしい屋敷に飾る絵画が必要だった。確かに19世紀までのヨーロッパを舞台にした小説などを読むと、招待客が屋敷に招き入れられたとき、入口に飾ってある絵画で、その屋敷の主の教養が知れてしまうシーンが出て来て興味深い。日本だったら掛け軸、花器、とかお茶わんだろうか。ブルジョワが芸術を理解する教養がなければならなかった古き良き時代の話だ。
シチューキンは51歳のときに息子が自殺し、2年後に妻が病死し、失意のうちにひとり絵画に囲まれて暮らしたが、1917年のロシア革命によって、ボルシェビキにすべての美術品を没収されて、自身はパリに亡命し、パリで没した。

1917年のロシア革命は、人類史の中で最もダイナミックな歴史の動きの一つで、この時代に人々がどう生きたか、興味が尽きない。レーニンとクレプスカヤが、大混乱の中で何を思ったか、ツアーの家族たちがどう処分され、貴族の子供達がどのように命を長らえたのか。

宝石で有名なテイファニーも、フランス革命がなければ宝石商として成功しなかった。パリ2月革命で、宝石よりも命からがらパリから脱出するための資金を必要としたフランス貴族たちからテイファニーは、希少価値のある極上の宝石を手に入れたことで、商売を成功させる切っ掛けを作った。

私の子供の時のバイオリンの小先生は村山先生といったが、大先生はアンナというロシアから亡命してきたもと貴族の末裔だった。そんな話を、むかしマニラでフィリピンフィルハーモニーの音楽家たちと雑談していたら、「おや、僕のピアノの先生も。」「へー、僕のチェロの先生もロシア貴族の末裔だったが、晩年は一人きり誰にも看取られずに亡くなったんだよ。」と何人もの楽士がロシア人の名前を言い出した。ロシア革命で国境を越えてヨーロッパやアジアに逃れて来た貴族たちが彼らの「たしなみ」のひとつだった音楽によって他国で身を立てなければならなかったというロシアの歴史が、急に身近に感じられた瞬間だった。

ところでエルミタージュのシチューキンの収集作品展だ。
マテイスの作品を収集したシチューキンだが、マテイスの代表作「ダンス」と、「音楽」は、海を渡ってオーストラリアには来なかった。この二つの作品はシチューキンが自分の屋敷に入って真正面にある階段に飾るためにマテイスに描かせたもの。2017年パリのルイ ヴィトン美術館にも来なかった。マテイスも、ピカソも保存状態が良くなくて輸送できないのだそうだ。
フェルメールやレンブラントなどオランダやイタリアの画家たちは、職人として自分の作品に絶えず色を重ね塗りし続けていたので、保存状態が良く輸送にも耐えられる。しかしモダンアートでは、作家が常に新しい事に挑戦する前衛でなければならないので、作品を次々と発表する必要があり、昔の作品を手直ししたり、メインテナンスしないようになったからなのだそうだ。だから、エルミタージュにあるマテイスやピカソなどモダンアート作品はこれからも、外国美術館には 貸与されないかもしれない。「音楽」と「ダンス」を見たかったらぺテルスブルグに来なさいということだ。

今回の展示では、マテイスの「ボール遊び」1908、「ニンフとサテュロス」1908、「ひまわり」1899、「テラスの女性」1907、「赤と黒のカーペット上の皿とフルーツ」1906を見ることができた。
でも私はマテイスの作品では、後期の作品で彼がニースに移ってからの、明るく楽しい作品が好きだ。だから今回の展示作品でマテイスの作品では、好きな絵が一枚も無かった。ギリシャ神話に出てくる黄金時代の3人の男がうなだれて、何がおもしろくないのか知らないけれどボールゲームしている「ボール遊び」も、ギリシャ神話の欲情の塊、サチュロスがニンフを言うままにさせようとしている「ニンフとサチュロス」、しおれた「ひまわり」などなど、、、「あなたの居間にプレゼントしたい」と誰かに言われても、「要らない」というかも。

気に入った絵は、セザンヌの「静物画」1880、ゴーギャンの「マリアの月」1899、ピサロの「モンマルトルの午後の陽」1897、それとピカソの「扇を持った女」1908.
ピカソのこの作品は、まるい女の顔、まるい乳房、直線の四角い椅子、直線の背景。女の強い意志と、そこに居る存在感が強力なエネルギーを発していて素晴らしい。

面白かったのは、フイルムだ。
真っ暗な部屋に3面の大きなスクリーンがあって、右面のスクリーンでは、シチューキンに扮した役者が自分より20歳若いマテイスの魅力について語っている。向かいのもう一つのスクリーンでは、マテイスが自分の芸術的な視点につて語っている。正面の大きなスクリーンではマテイスの「ダンス」なみにほとんど裸のような姿で数人の男女が手を取り合って踊っている。音楽は古楽器。男女が音楽に合わせて踊る背景にマテイスの作品が次々と写される。自信家で裕福そうなシチューキンが、マチスの作品を買い求めるごとに、踊り子たちはシチューキンを、声を出してあざ笑う。まったく馬鹿にした笑い方だ。そして、フイルムの最後に、シチューキンは、「マテイスの良さはすぐにはわからない。」「マテイスの価値はずっとあとになって、後々の人々によって理解される時が来るだろう」、と言ってフイルムが終わる。とても気の利いた企画だ。シチューキンもマテイスも、このフイルムをみたあとは、ずっと身近で生きた人として捉えることができた。

エルミタージュ美術館からや、はるばるやって来た65点の絵画を見るだけで2時間半。スニーカーで行ったのにくたびれた。本場エルミタージュで、300万点の収蔵品、1500の展示室、イヤフォン解説を聞きながら、総行程20キロを歩いて芸術品を見る覚悟はまだできていない。

写真は、上から、エルミタージュ美術館冬宮
マテイスの「ダンス」
マテイスの「音楽」
マテイスの「ニンフとサテウロス」と「ボール遊び」
ピカソの「扇を持った女」