2011年8月23日火曜日
チチキトク
8月8日
父親が、肺炎で食べ物も飲物も飲み込めなくなって入院した という知らせを受け、カンタス 夜の便でシドニーから成田へ。空港から直接 船橋を経由して市川大野中央病院へ、父のもとに直行する。
ベッドで 父は苦しそうな息をしていたが、「章子がきました。」と言うと、「オオッ」と 嬉しそうに答える。つやのある顔、長年 教壇に立った人のハリのある声。私の手を握る力強さ。
日本を後にして26年、母を亡くして13年。もう この人を失ったら 私は外国でただ一人 みなし児になってしまう。もう 日本という根を失なってしまう。そう思って 悲しみが こみあがってくる。父の呼吸する姿を見ていて 回復すると思えない。残された時間が貴重で 一刻も父のそばを離れたくない。
病院のベッド横に簡易ベッドを置いてもらい、横になる。繰り返し、繰り返し吸引される痰。吸引と検温のために ナースが来る以外、病院の静寂な時間を、父と娘の濃密な時間が流れる。しっかり父の手を握ったまま眠る。
父は子供たちを甘えさせなかった。大学に入ったころ、議論をしていて
激して私が「あなたの考えは、、」と言ったら、「あなたじゃない。父上と言え」と 怒鳴られた。そのころ父は 早稲田政経学部の教務主任として 大口明彦全学連委員長に退学を言い渡していた。父としては苦しい判断だったろうが。立場上やむを得なかった。しかし、下駄を履き 学生服で登校してくる その人の姿に、同じように貧しく 学生服、学帽で同じ校舎で学んだ自分の姿を重ねて、深い愛情を感じていた。そう思う。数年後、あの人は京大で法学を学んでいる と報告したときの嬉しそうな顔。後に弁護士として成功されたことを知ったときの父の喜びは 自分の弟子たちが巣立った時よりも大きかった と思う。
家には いつも学生 または元学生がいた。母はみなに食べさせるのが大変だったと思う。ほとんど毎週のように訪ねてくる安田学園の卒業生や 早稲田のお弟子さんたちは、家族の一員のようだった。それらのお弟子さんたちは、卒業で父の世話になり、就職で父の手を煩わせ、結婚で父を悩ませ、子供が生まれると父を喜ばせた。媒酌人になって母と出かけることが多かった。どれだけの人の入学と卒業を助け、どれだけの就職の面倒を見、どれほどの結婚に立ち会ったか、数え切れない。
56年間 早稲田の教壇に立ち、名誉教授になって退職した。限りなく学生たちから慕われた。
しかし娘にとっては「父上様」であり、普通の人のように お父ちゃんというような言い回しで甘えることはできなかった。お弟子さん達と同じように、一定の距離をおいていた。お願いがあると 正座して 説明しなければならなかった。明治気質の父にならい 母も若いときは子供たちに甘えを許さない厳しい人だった。子供を中心にしている よその家庭や、友達のような両親が うらやましい時期もあった。権威と威厳の双璧のような親を憎み、反発する時期は 途方もなく長かった。父も苦しかっただろう。申し訳なかったと思う。
父は苦しい呼吸を続ける。
それでも、昔話をする私に 父は笑顔を見せる。聞けば「ウン」とか「ホホウ」とか 返事をする。「兄さんが帰ってきた私にお小使いをくれました。」「お姉さんが自分で焼いたパンを持ってきてくれました。」と言うと、顔をくずして一緒に喜んでくれる。高校野球を 少しの間見ていたので、そのままにしておくと 突然テレビを指して「それ、やめてくれないか。」と。そういえば テレビも映画も音楽も嫌いな人だった。部屋が暗くなってもカーテンを閉めずにいたら、「そこを閉めなさい。」長かった父の一人暮らしぶりが垣間見られて 悲しい。