2008年2月27日水曜日

映画「父親達の掲げた星条旗」

昨年、「ミリオンダラーベイビー」でアカデミー映画監督賞を受賞した、クリント イーストウッド監督の映画、「FLAGS OF OUR FATHERS」を観た。各地 ホイッツで上映中。

この映画は、1945年日米太平洋戦争の、硫黄島が舞台。血を血で洗うような激戦の後に、若い兵士達が、硫黄島中央の茶臼岳の頂上にアメリカ国旗を立てたのは、ヒロイズムとちょっとした 茶目っ気の兵士達がやったことだった。それを見た軍の上層部がこれはアメリカの良いプロパガンダに使えると考えて、カメラマンを連れて、別の兵士達に、最初に立てた旗より大きな旗を立てさせて、写真を撮る。

このときに撮影された、、6人の兵が山の頂上に国旗を掲げる写真は後にピュリツアー賞を受賞し、アメリカ中の 愛国心を燃え立たせ、破産しかけた軍に資金を提供することになった。 その後も厳しい戦闘が続き、仲間は次々と死んでいく。
そのうち、生き残りの3人は、属していた隊からはずされ、故国に戦争のヒーローとして、帰還して、全国を講演してまわり軍資金を集めることに利用される。
しかし、この3人は、仲間の屍を踏み越えて山頂に到達し、最初に旗を立てた仲間は その後の戦闘で死んでしまっていることや、自分達が写真撮影用の役者でしかなかった にも関わらず、全国どこに行っても、ヒーローとして熱烈に受け入れられるといった、ギャップに苦しむことになる。

とくに3人のうち、ひとりは、先住民族インデアン出身で、人々からヒーローとして、歓迎されながらも、先住民族の誇りと、アメリカ軍人としての相反する誇り、国を代表して英雄になった喜びと、本当は旗を立てて、死んでいった人々が英雄で、自分ではないという罪悪感から、逃れることができずに、酒びたりになってしまう。
戦後、彼は農場で、小作人として働くが、ある日、銃の暴発で死ぬ。事故だったのか自殺だったのか、誰にもわからない。

もう一人のヒーローは、英雄視されていた間は、その役得を楽しむが、人々の熱がに出会った人をつてに、職を探すが、なんの特技も才能もないまま、掃除夫として生きていく。

3人のうち、最後のヒーローは、誰にも戦争のことは、いっさい 語らず、家庭をもち、平凡な人生を終えようとするが、心臓発作をおこし、死の前に息子にこの戦争で、自分が体験したことを、語って聞かせる。 
彼は言う、「戦争に英雄なんて、いやしないんだ。それを必要とする人が勝手に作り出しているだけなんだよ。」と。
戦争に良い戦争の悪い戦争もない。正義の戦争も誤った戦争もない。ただ、大量兵器の消耗と人命損失があるだけだ。

ビュンビュン弾丸が飛び交い、大砲が鳴り、激しい戦闘で、手足や首が ちぎれて、飛んできたり、腸がはみ出したり、残酷なシーンが続くが、どこかで、こんなシーンみたような、、、そう、「SAVING PRIVATE RYAN」にとてもよく似ている。 あの ノルマンジー上陸シーンを見たとき、戦争のリアリズムを極限まで、追求している と思った。以来、この映画を超える戦争映画はなかった。クリントイーストウッドも同じこと考えたんだ。

イーストウッドは良い俳優だったが監督としても良い。私が子供の時は、毎週日曜日テレビの「ローハイドー」で、カウボーイ姿のイーストウッドを見て育った。青春時代は、ダーテイーハリーのキャラハン警部。彼の映画史は私の歴史でもある。

この映画はアメリカ側から見た硫黄島の激戦史の一コマだが、今度は、日本側からみた物語を「硫黄島からの手紙」という題で、映画を制作発表するそうだ。現在、編集中。 二つの映画を総合して歴史を検証しようという試み。と、言うから、こちらも観なければならない。宿題がまだ残っている。

2008年2月22日金曜日

映画 「THERE WILL BE BLOOD」



主演男優賞、ベスト監督賞を含む 8つのオスカーにノミネイトされている 160分の大作 映画「THERE WILL BE BLOOD」を観た。

原作は アプトン シンクレア(UPTON SINCLAIR)が1927年、テキサスの石油王 ダニエル プレインビューの生き方を描いた「OIL」(オイル)。それを映画化したもの。 監督 ポール トーマス アンダーソン(PAUL THOMAS ANDERSON)。彼は過去に 映画「BOOGIE NIGHT 」、「PUNCHI-DRUNK LOVE」、トム クルーズの「MAGNOLIA」などを撮っている。

主演は石油王 ダニエル プレインビューを、ダニエル デイ ルイス(DANIEL DAY LEWIS)が演じた。 この人は 1990年に「MY LEFT FOOT」でオスカーを獲っている。 

この映画は 主演ダニエルの一人芝居のような趣だが、主演のほかに 二人の重要な登場人物がいる。一人は、息子の、デイロン フレイザー(DILLON FREASIER)で、もう一人は、若い牧師で ポール ダノ(PAUL DANO)が演じている。

ダニエル デイ ルイスなくしてこの映画の成功はなかったと 監督をはじめ 沢山の人が 絶賛している。160分の映画の間 この人が映像に出ていない画面が全然なかった。文字どうりのこの俳優のワンマンショーだ。彼はオスカー主演男優賞を取るだろう。この人が取らないで 他の誰が取るというのだ。

タッチはドキュメンタリーの切迫力、映画の始まりから終わりまで 極度の緊張で 見ている者を縛り続けてくれた。この俳優の迫力に圧倒されて、見終わったときには、ものすごく疲れていた。こんなに重くて、疲れる映画 久しぶり。

事業のために生きた男のお話。ダニエルは 石油採掘に命をかけ その事業欲を満足させるためには 反社会的な行為も殺人だって厭わない、孤高の男。彼は、事業に成功して石油王になってから、人から仕事以外に何も持っていない、家族もないと言われることを極端に恐れていた。事実は、恋愛も結婚にも家庭のも興味がない。偏愛する息子は かつて採掘現場で死んだ仲間の息子だ。この映画には全然女性が出てこない。石油堀りの男達にあやされていた赤ちゃんが、ずっと、後で 母親は出産時に亡くなった と説明されるだけだ。無言で いつも従順な犬のように ついて回る息子に、人から愛されたことのない石油王ダニエルが 狂気じみた愛にのめりこんでいく様子が よくわかる。極端な息子への偏愛。にも拘らず 成長した息子が 自立に苦しみだすと、裏切られたと断じて、押しとどめることの出来ない憎悪と激情をむきだしにする。

石油王ダニエルの宿敵ともいうべき聖職者、カリスマ的な若い牧師が登場する。この作品のテーマには 強烈な個性を持った実業家と、宗教家の対立が複線になっている。事業の持つ 非人間性、物欲、弱肉強食,資本主義の腐敗的体質、堕落、罪深さと、宗教とは 対立するかのように見えるが、時として、事業一筋に生きてきた男が 金も名誉も欲しい聖職者よりも 純粋であることもある。石油王は一生を通じて 神を必要としたことがなかった。 石油を掘るために彼はいくつもの人命と血を犠牲にしてきた。自身が採掘穴から生還できたのは、神の力ではなく、自身の意思の強さによる。富を得て、集めた骨董品を並べて それを銃でぶち壊しては 楽しんでいる。破壊的、破滅的な 成り上がり石油王の後ろ姿の 何という孤独感。何という寂寥感。

60年前にオーソン ウェルス(ORSON WELLES)は、映画「市民ケーン」で、新聞王(CHARIES FOSTER KANE)を描いた。この新聞王と、石油王の共通点の多いこと。強烈な個性、反社会的性格、エゴイズム、自己愛の延長の偏愛、権力、留まることを知らない事業欲。

こういう映画を観ると、なんか 給料とか残業とか有給休暇とかで ヤキモキしたり、争ったりしている普通の人が馬鹿に見えてくる。

神も、人の愛も要らない男、100%事業に燃えて燃え尽きる男。ああ、、、男にとって、仕事って一体何なの?

音楽では 最後のブラームスが 切り刻むような激しいヴァイオリンの鋭利な音が 男の心象を表現していて、とっても良かった。

2008年2月21日木曜日

再び、ドルフィンを食べないで


昨年9月22日の 「ドルフィンを食べないで」の続き。

この2月16日 和歌山県太地で バンドウイルカが 追い込み猟で95頭 殺された。彼らは 岸に追い込まれ、突きん棒で一頭一頭 叩き殺された。岸辺は血で染まり、イルカの叫び声は むなしく空に消えていったことだろう。 

人間同様、高度な集団社会を持っているイルカは 人間でいう3歳以上の知能をもった高等動物だ。人懐こくて、海の中で人と戯れるだけでなく、その神秘的な能力から、妊婦をみわけられる、とされ、軽飛行機から海に墜落した妊婦を その背に乗せて、救命したという報告もある。水の中で、高度なコミュニケーションを交わし、それぞれのコミュニテイーを形成、維持している。彼らの棲み分けや、生活形態で、まだわかっていないことが沢山ある。野生動物の中で人畜無害、最も愛すべき存在ではないだろうか。

その愛すべき大型野生動物100頭ちかくを 彼らの生活の場である海から追い込んで 撲殺してまでして、どうして その肉を食べなければならないのか? 他に食べ物の選択がいくらでもあるのに、どうして、イルカの肉でなければならないのか?

昨年7月の和歌山県太地町では イルカの肉に、厚生労働省の規制基準値を16倍以上も上回る水銀が 検出されたも関わらず、すでに、同様の肉が学校給食で出されていた、として、社会問題になった。 今、100頭近く殺しておいて、残留水銀量が 同じように食肉基準値を上回っていたら その肉はどう処分するのか。殺した責任は 誰がとるのか。

100頭というと、ひとつのコミュニテイーが、丸ごと全員 虐殺されたのだ。 考えても見てもらいたい。ひとつの国民が、世界の注目の中で、平和の使者といわれる大型野生動物、キリンやシマウマを100頭追い込んで、殴り殺して食べたら、世界はなんと言うか?日本人は、同じことをしているのだ。どんなに、それが、世界中から孤立した行為であることか。日本の新聞はもっと、この事実を報道すべきだ。

日本ではイルカを小型鯨類として、くじら肉として流通させている。しかし、イルカはクジラと、同じ種ではないので、IWC(国際捕鯨委員会)では、イルカ猟を、規制することができない。法規制をかいくぐり、流通させている。日本では、水産庁の指導のもと、年2,300頭のイルカが 殺されて、食べられている。

野生動物はいったん絶滅したら、復活させることができない。野生動物をこれ以上 殺すべきではない。まして、私達の子供達と同じ知能を持つ高等動物を 食肉にするべきではない。太地町はイルカの追い込み猟を、今すぐ止めるべきだ。人々は イルカを食べることを拒否すべきだ。はっきり、NON と言って欲しい。

2008年2月16日土曜日

ミュージカル 「ビリーエリオット」



キャピタルシアターで、ミュージカル「ビリーエリオット」を観た。

2007年の11月から 公演が始まって、好評で続行中。 A席:105ドルーC席45ドルまで。

ロンドンのヴィクトリアパレスで このミュージカルが 開始されたのが2005年5月で、まだ現在まで引き続きロングランで 上演が続行されている。2000年に公開された映画「ビリーエリオット」、邦題「リトルダンサー」を舞台化したもの。

背景は、1984年、マーガレットサッシャー政権下,緊縮財政策で、イギリス北東部の石炭の町は 炭鉱閉鎖の波にゆれていた。労働者組合は1年に及ぶストライキに入り、政府の合理化政策と、ストライキを止めさせようとする警官と戦っていた。 炭鉱夫の父と兄をもつビリーエリオットは12歳。小さい時に母が亡くなって 無骨な父と兄と祖母に育てられてきた。

父も兄もビリーに強くなって欲しくて、ボクシング教室に送り出すが、ビリーはひょんなことから、バレエクラスに紛れ込んでしまう。行き掛かり上、女の子達と一緒にステップを踏むうちに ビリーはダンスに興味をそそられて すっかり夢中になってしまう。バレエの先生も、ビリーの身のこなしから 彼にはバレエの才能がある と見抜いて、個人レッスンを始める。厳しい訓練ののちに ロンドンのロイヤルバレエ団のオーデイションを受ける段になって、ビリーは父と兄の猛反対に合う。おまけに炭鉱閉鎖が決まって ストライキにはいっている家族の生存権そのものが失われる事態に追い込まれたことを知って、ビリーは絶望する。

時がたち、ビリーが ひとりバレエを踊る姿を 偶然目にした父親はビリーには本当に才能があることを知って、炭鉱夫たちのストライキのピケを抜け駆けして スト破りをして お金をかき集め ビリーを連れてロンドンに行く。ロイヤルバレエ団に来てみると いるのはお金持ちの子弟ばかり。ビリーは気押されながらも 遂にオーデイションに受かる。 そしてビリーは 閉鎖される炭鉱に残る父と兄に送られて、本格的にバレエを勉強するためにロンドンに向かう。
というストーリー。

おもしろいのは、炭鉱の町、荒くれ男ばかりの家庭で ビリーが ボクシンググローブを首に下げたまま、バレエの楽しさに目覚めていくところ。顔も体も真っ黒になって石炭を掘る鉱夫と、クラシックバレエの優雅さ対照的なコントラスト。

息子を罵倒しながら、遂には息子の才能を信じて ストライキ中の鉱夫仲間から どんな屈辱を受けても 息子を支える父親の無骨で あつい愛情。

一見、ひ弱で、亡くなったお母さんの手紙を宝物にしている か細い12歳の少年が踊り子になることを夢見る けなげな姿。
親友の少年が女装趣味をもっていることへの 戸惑い。

素晴らしい舞台だった。何より驚いたのは、13歳の少年が プロの大人の役者と同格に、歌い踊るプロフェッショナルな姿。ミュージカルだから、例えば、バレエの「くるみ割り人形」のように バレエを踊るだけで進行するわけではない。ダンスもクラシックバレエだけでなく、タップダンスも アクロバット顔負けのジムナステイックも、モダンダンスもある、おまけに踊りながら、会話があり演技をしなければならないのだ。完成度の高い 素晴らしいパフォーマンスだった。3時間の舞台を、ビリーが、4人。かわるがわるに出演していたが、全く同じようで、どこで役者が変わったのか 全然わからなかった。

音楽:エルトン ジョン
原作;リー ホール(LEE HALL)
演出:ステファン ダルドリー(STEPHEN DALDRY)
配役:ビリー役の4人の13から14歳の少年は、オーデイションで決まった。    
LOCHLAN DENHOLM (メルボルン出身)    
RHYS KOSAKOWSKI (ニューカッスル出身)    
RARMIAN NEWTON (メルボルン出身)    
NIVK TWINEY   (シドニー出身)

やはり エルトンジョンは天才だ。暗くなりがちな炭鉱夫たちのストライキや警官との激突を、明るい力強さ たくましい歌とダンスにまとめ、随所に笑いと 生きることの喜びを歌い上げていた。

バレエの振り付けも すごく良い。12歳のビリーが、大人になったときのビリーを思い描くシーンで、ビリーと大人のバレエダンサーとが デュオで踊るところは、二人とも全く鏡のように 同じ動きで優雅に踊って夢のようだった。

素晴らしいパフォーマンス。 総勢70人の出演者はみなオーストラリア人。半分は ビリーの年齢だ。この舞台の為に、舞台練習をしながら学校の勉強ができるように、出演者達と一緒にいられる先生が ハイヤーされたという。友人が ロンドンの舞台を観て来て 感激して、シドニーでも観て、どちらも同じくらいに良かったと、目をうるうるさせて言っていた。 すごく良い舞台なので、お勧め。 

2008年2月14日木曜日

再び くじらを食べないで


オーストラリア連邦裁判所は 1月15日、南極海の保護地域での捕鯨が違法であるとの立場から、日本の調査捕鯨団の操業停止を命令した。

しかし、南極海で調査捕鯨をしている 日本の捕鯨船団は、世界から ひんしゅくの嵐をあびながら、しぶとく予定どうり ひき続きクジラを殺戮、南極海で血祭りをあげている。50頭の絶滅危惧種であるナガスクジラと、935頭のミンククジラが、次々と死刑台に送り込まれている。

オーストラリア連邦裁判所の命令に対抗して、日本政府は 南極海は どの国も領土権を持たないのだから、捕鯨をしても良いと、主張する。しかし、誰のものでもない南極海で、日本だけが 捕鯨して食料を確保して良いとは思えない。日本人だけが 南極海から資源を収奪して許されると思えない。

調査が目的ならば 殺さなくても調査できる。尾から獲るDNAが、調査対象ならば、殺さずに効率の良い調査の仕方があるはずだ。調査と言う名目で肉を捌いて 売り買いできるのはおかしい。 国民の税金10億円ものお金を使って 調査捕鯨するなら、調査結果を毎年きちんと国民に報告すべきだ。

ミンククジラの母娘と思われる2頭が槍を打ち込まれ、多量の出血しながら日本船に収容されていくところを放映した写真が世界のニュースで報道され、非難の矢面にたつと、すぐに日本側は あれはメス2頭であって、授乳中の母と娘とは思われない、と居直った。暖かい海で赤ちゃんを産んだクジラは、離乳期に 餌の多い南極の冷たい海に泳いでくるから、そのとき母乳が出ていなかったからと言って、母親でないとはいえない。

日本にいるとNHKニュースで目が覚めて、夜のニュースで眠るから 日本が鯨に関して どれほど世界で孤立しているか 気がつかないのではないだろか。 60年前、石油の補給路を断たれて、孤立した日本が中国、アジアに資源を買い求め海外派兵せざるをえなかったように、戦前の日本の孤立に人々は気つかないでいるのではないか。 資源の為にアジアの国々の主権を蹂躙し、収奪、強奪し、600万人の国民を犠牲にして、やっと戦争を終結した日本。その60年前の日本と南極海でクジラを血祭をあげる日本と、いかに相似していることか。

1、誰の領海でもない南極海で日本だけが誰のものでもない野生動物を 殺して食べ続けて良いと思えない。他に蛋白源が豊富な今日、どうしてもクジラを食べなければならない理由はひとつもない。

2、調査目的と言い その場で殺して肉を冷凍して 売買して流通させるのは、調査捕鯨ではなく、商業捕鯨としか考えられない。

3、捕鯨は伝統だと言うが 調査捕鯨が拡大され、クジラの供給が過剰になり、値崩れして、和歌山県太地町など、沿岸の伝統的な捕鯨漁士の生活基盤は、圧迫されているのが、現状だ。

4、調査捕鯨に毎年10億円の調査費が国民の税金から払われているが、国民は納得しているのか?それだけの出費に見合う調査結果が 毎年、情報公開されているのか。

5、鯨肉は水銀汚染(大きな魚ほど水銀蓄積量が多い)されている。政府が 妊婦、小児などは、大型魚肉は、週に40グラム以下に抑えるべきだ と指導しているのに 鯨肉を学校給食で出すのは矛盾している。学校給食で鯨肉を出すことを、父兄は納得しているのか。給食で出る肉は約70グラム、2週間分の水銀を摂取することになる。その上 家庭でもマグロなど、水銀含有量の多い魚を食べる機会は多いのに、政府はをどのように指導するつもりか。

6、1月19日北海道のホテルで 集団食中毒が起き鯨肉から、病原菌大腸菌が検出されたが、野生動物の肉は水銀、病原性大腸菌、PCB,プリセラ菌などお汚染から、安全といえるのか?

以上の理由から、クジラを食べるのは疑問。美しい野生動物を もういい加減食べるのは 止めにして欲しい。

2008年2月6日水曜日

映画 「君のためなら千回でも」



映画 「THE KITE RUNNER」、邦題「君のためなら千回でも」を観た。ホイッツ映画館で上映中。 日本でも好評で、上映中。

カレド フセイン (KHALED HOSSEIN) 原作の「THE KITE RUNNER」を、スイス生まれ、ニューヨーク育ちの映画監督マルク フォスター(MARK FORSTER)が、映画化した。

この監督、「MONSTER'S BALL」2001、「FINDING NEVERLAND」を作った人。先日28歳で亡くなった ヒースレジャー主演の「MONSTER'S BALL」は、舞台も役者も みんなオーストラリアで チャイナタウンや、私が毎日歩いている町で撮影していて、身近に感じていたが、アクション映画なのに、家族のつながりがよく描かれていて良かった。「FINDING NEVERLAND 」も 大人になっても夢を持ち続けることの大切さを描いて印象的な映画だった。この監督、好きになれそう。

KITE RUNNERとは、凧揚げをしていて、落ちてくる凧を拾うために走る人のこと。凧揚げは アフガニスタンの人々にとって 大人も子供も 夢中になって遊ぶ国民的リクリエーション。空中に高く舞い上がる凧を 他の凧と競って互いの糸を切って勝負をきめる、高度なテクニックを要する遊びだ。

ソビエト侵攻前のアフガニスタン カブールに、二人の少年がいる。アミールとハッサン。中産階級で 西欧的教育を受けた父親をもつアミールは、自分が生まれたときに母を失ったので、母親を知らない。 この家には 父親が子供のときから 世話をしてきた召使がいる。その息子、ハッサンは、アミールの召使でもあるが、親友で遊び友達。アミールが上げた凧を 落ちてくるとき 決まってハッサンが、「君のためなら千回でも、、」と言って 取りに走っていく。

凧揚げ大会でアミールの凧が 他の凧を次々と落として、遂に優勝する。その凧を拾いに行ったハッサンは 妬み深い年上の悪童どもに、陵辱される。 それを目撃しながら、親友を助け出す勇気を持たなかったアミールは、この日を境に 罪の意識と レイプされても凧を守るために反撃しなかったハッサンへの軽蔑心とから、遂に ハッサン親子が家に居られない様にしてしまう。

そのうちに、ソビエト軍が侵攻してきて、アミール親子は カブールからパキスタンへと逃れ、その後、アメリカに移住する。 20年たち、アミールは大学を卒業し、小説家として成功、本を出版できるまでになった。ある日、パキスタンから 友人の電話を受け取る。パキスタンまで会いに行って、友人はタリバン制圧下のカブールで ハッサンが殺されたこと、そしてハッサンはアミールの実の兄だったことを知らされる。アミールは タリバンに誘拐された、ハッサンの息子を取り戻し、アメリカに連れ帰ることを決意する。そのことによって、かつて自分が子供のときにハッサンを裏切った償いをする というストーリー。

カブールの石でできた家々、凧を上げる少年達の真剣な顔、ベールを被る女たち、夕日に映える美しいモスク。 センチメンタルな テーマを 西欧社会で育った監督が 筋を追っていく。 

私が、好きなシーンは、アミールが 自分を責めるよりも、レイプされたハッサンに向かって、腐ったザクロの実をハッサンに投げつけて、ハッサンが怒って投げ返したり、卑怯だった自分をぶん殴ってくれることを期待するところ。すると、ハッサンは、大きなザクロをつかんだと思ったら、自分の額に激しくぶつけて 血のように顔中 真っ赤にしてアミールの前にたたずむところ。 二人の少年の心が このような形で 決定的に分かれるシーンが とても印象的だった。

小児性愛はこの世で 一番唾棄すべき、許されざる罪、おぞましい犯罪だが、それにしても どうしてイスラム社会で このように いとも簡単に 小児へのレイプが引き起こされるのか? イスラムの厳格な結婚前までの禁欲、年長者が結婚を決めるしきたりの重さ、強い父権、限りなく無に近い女権、封建的な社会観、こういった、習慣、社会規制が 小児性愛、性暴力という形で頻発するのではないか。全く頭にくる。

いろいろな見方があるだろうが、 この映画のテーマは 人生、やり直しがきくのか?自分の罪を自分の行為で償うことができるのか ということだろう。20年たったあとで 償っても、ハッサンは生き返らない。償いはただの自己満足か、自己ヒロイズムだ。しかし、自分の罪を真正面から見据え 罪を認めるのは 辛い、勇気のいることでもある。

この映画を観た日は火曜日で チケットが半額近いので、平日の朝なのに、結構沢山人がきていて、上映中、あちこちで観ている人が 鼻をかんでいた。 でも、私には、この映画、ちょっと、センチメンタルすぎて、人の心の掘り下げ方と、現実認識が 足りないようにおもわれた。

この映画、同じように、子供を扱った名作のなかで、
ルネ クレマン監督、フランス映画「禁じられた遊び」と、
ヴィットリオ デシーカ監督 イタリア映画「自転車泥棒」と、
マジット マジ監督の、イラン映画「赤い金魚と運動靴」 この3つが、それぞれ100点満点とすると、
30点くらいだろうか。

2008年2月5日火曜日

映画 「CHARLIE WILSON’S WAR」


ハリウッド映画「チャーリーウィルソンの戦争」を観た。
監督 マイク ニコルス(MIKE NICHOLS) 主演 トム ハンクス(TOMHANKS) と、ジュリア ロバーツ(JULIA ROBERTS).  

双子を出産したあとで、また赤ちゃんを産んで 子育てほどドラマチックでエキサイテイングなことはない、子育ての楽しさに比べたら 映画や舞台なんて 全然魅力ない。と、公言していたジュリア ロバーツが本当に久しぶりで 映画出演。 彼女の水着姿が見られるとあって、ヨダレをたらしている夫を連れて、観にいった。夫に限らず私も ジュリアロバーツと、トムハンクスは どちらかというと好きな俳優。実際の人となりも 誠実で、人権派、良心派とばかり思っていた。そう思っている人は多いだろう。

だから言うが、こんな映画は観るべきではない。観にいって 時間と金の無駄と言うか、心底 不愉快になって 気分台無し、胸が悪くなる。

この映画、ポリテイカルコメデイーだそうだ。 実在する1980年に活躍した テキサス出身の下院議員 チャーリー ウィルソンの本当の話。ソビエト侵攻下のアフガニスタンで、彼は反共の富豪家 JOANNE HERRING の 強力な支持と、CIAの後ろ盾を得て、5億円あまりの資金を アフガニスタン反政府軍に提供する。アメリカ製の良い武器が 戦争で勝利を導くという 確信からだ。彼の より性能の高い武器がアフガニスタンを舞台とする米ソ戦の決着をつける、という読みが当たって これがソビエト軍撤退のきっかけを作った。

この映画のクライマックスは アメリカ製爆撃機が ソビエト軍の戦闘機をミサイルで打ち落とすごとに、ヤンヤの歓声をあげて 映画の登場人物たち アメリカ人たちが 喜び抱き合うシーンだ。ジュリア ロバーツとトム ハンクスが 送られてくるフィルムを観て、ソビエト軍機が落ちるたびに バンザーィと抱き合って喜ぶ。富豪婦人宅のプール で、マルテイー二を飲みながら、ヌードダンサーが踊る横で、浮気を楽しみながら、ドカン!!!!オー イエーィ!!やったー! と言うわけだ。戦争画面は 素敵な酒のつまみだ。

映画は、アフガニスタンからソビエト軍を敗退させた 輝かしいアメリカの歴史の1ページを追憶してみたわけだ。 今度は 日本軍を フィリピンから敗退させたときの、戦闘映画など、トム ハンクスと、ジュリア ロバーツでやったら どうだろう。

アメリカはすっかり変わってしまった。 9-11で、アメリカの良心は死に絶えたのか?
現在のアフガニスタンは ソビエト軍侵攻以前よりも 悲惨な状態だ。当時、アメリカの豊富な資金で武装した反政府軍もタリバンも 今や分裂に分裂を重ねて 政治解決に程遠い。この20年あまり、アメリカを中心とした世界はアフガニスタンに何をしたのか?何をしなかったのか?

ポリテイカルコメデイーというのは、政治を笑うパワーだ。日本の狂歌にもみられるように、圧倒的に強い権力に対して、笑いで逆うしか方法のない 者たちのパワーだ。
しかし、この映画の笑いはアメリカ人にしか 通じない。世界で一番権力をもったアメリカが それを持たない人々に 同じ笑いを期待しないでもらいたい。きみたちは 限りなく愚かだ。 

2008年2月3日日曜日

日本帰国11日間の旅

2年ぶりに二人の娘達と一緒に 休暇で日本帰国することが実現できた。
その11日間の何と短かかったことか。
ひさしぶり、日本に帰ってみるごとに いつも ちょっとした変化が 発見される。

ひとつに、車のサイドミラー。 歩いていて 娘が「日本の車には耳がないんだー。」と言うので、注意して駐車場を見てみると、なるほど、どの車からも、サイドミラーがなくなっている。そのうちに、エンジンをかけた車が ウィーンと サイドミラーを出して 発車していく姿を見てあっけにとられた。口を開けたままだったかもしれない。 いつのころから日本では 誰も彼もが例外なしに、駐車するときはサイドミラーをしまうようになったのだろう。 シドニーでも、夫も娘も日本車に乗っているが、サイドミラーを引っ込めるような細工はない。もともと、車体から突き出ていることに意味があるものだから、ぶつけて衝撃を受けても ポロリと取れたりしないようになっている。そうなっていなかったら、私など サイドミラーを、1年に200個くらい ぶつけて失くしている筈だ。車幅の感覚をつかむのに鈍いので、ガレージの出し入れや、カーブを曲がりきれなくて サイドミラーを擦ったりぶつけたりする。ウィーンとサイドミラーがしまえるポケットを持った日本の日本車を持った人がうらやましい。

茶塩というのが流行っていたのも 新しい。 天ぷらなどの料理にかけて食べるようだ。おみやげに と持たせてくれた親切な人がいて、シドニーに持って帰って、ゆでたまごにかけて食べたりしてみたが 余り好きになれない。緑茶には利尿作用があるので、これをジャンジャンかけて食べている人は トイレに行ってばかりいるのだろうか。

2年ばかり前に帰国したときは、電話詐欺が流行っていて、友達の電話番号の前に、3桁の数字を入れないと、つながらなかった。滞在先から電話するには 番号の先にゼロを入れることになっているが、始めにゼロをいれても、3桁の数字の後にゼロを入れても、通じないところが多くて 友達の誰とも電話でスムーズに話しができなくて、腹がたった。今年になって、人々はもう その3桁をつけるのに飽きたらしくて誰もやってなかったから、いろんな人と話ができた。

その前に帰国したときは、ホテルの高級レストランに連れて行ってもらって、パンと一緒に 見慣れないバージンオイルがついてきたので、「これなんですか?」と、ボーイさんに聞いて、同席者に笑われた。

ずっと日本にいる人には何でもないことだろうが、時々来る人にとっては ついていくのがなかなか大変。友達と一緒にいて 冗談に笑えなかったり、知らないのにしっているふりをしないといけないような時もあって、ヒヤヒヤする。