キャスト
家福悠介:西島秀俊
みさき:三浦透子
音:霧島れいか
高槻耕史:岡田将生
イ ユナ:バク ユリム
コン ユンス:ジン デユン
ジャニス チャン:リニア ユアン
ストーリー
演出家、家福悠介は、シナリオライターだった妻、音を脳出血で亡くしていた。妻とは愛情と理解とで結ばれていたことを確信しているが、妻は水を飲むような自然さで、若い役者や演劇関係者と肉体関係をもっていたことで、実はずっと傷ついていた。その傷は、妻が故人になって、さらに深まっている。2年後、ヒロシマで演劇祭が開催されることになり、家福が演出する、チェホフの「ワーニャ叔父さん」が取り上げられることになった。役者たちは、日本人に限らず、韓国、台湾、フイリピン、ドイツ、マレーシア、インドネシアなどからも公募されてキャステイングが決まる。家福は、ワーニャ叔父さんに、こともあろうに妻と関係を持っていた若い役者、高槻を指名する。演出家と役者として対面することで、家福は自分の心の傷を深めていく。専用ドライバーとなった、みさきとの朴訥な会話によって、家福は徐々に自分の心の中の傷について真正面から見つめなおさなければならないことを気付かされる。というおはなし。
演劇から言語のワクを外した「舞台」というものに新鮮な驚きを感じた。舞台演出家の家福が作る舞台に、言葉の障壁がない。日本語を語るワーニャ叔父さんに対して娘のソーニャは、手話で応じ、教授の後妻エレーナはマンダリンで答える。舞台上には、セリフが日本語、英語、ドイツ語、韓国語、マンダリンなどで写しだされる。役者たちは異なる言語に対して、自分の言葉で何も不自然を感じさせないかのように劇を進行させる。
舞台というものは、いつの時代にも前衛の旗手を担ってきたが、このような形で舞台が作り上げられたことで、19世紀の文化人チェホフも喜んでいるだろう。
「ワーニャ叔父さん」は、兄の教授が美しい後妻を連れて故郷の田舎に戻ってくるところから始まる。教授の弟ワーニャは、インテリで美しい妻を伴った教授とは異なって、苦労して領地を維持し管理してきたことで、不公平感にさいなまれている。片思いしている兄の妻、エレーナはつれないし、教授が土地を処分しようと考えているに至っては、怒り心頭、銃を持ち出し兄を殺すか自殺するか。土地を失ってしまえば、自分が生きている意味もなくなってしまう。ワーニャは絶望するが、娘ソーニャの純真な励ましによって、魂を再生させる、という人間と宗教、善と悪、知と無知といったテーマを持った芝居だ。
それと同時に、自分がどれほど自分と異なる他人に寛容になれるか、という価値感もテーマになっている。家福とその妻とは別人であって価値観も異なる。自分のエゴを押し付けることは愛ではなく暴力だ。自分と異なる言語を話す人に、自分の言語を押し付けるのも暴力だ。どこまで他者を認め、許し合えるのか、互いに違いを認め合えるのかといった問いが、映画の初めから終わりまで付きまとっている。
芝居を取り組む妻の浮気相手だった高槻も、家福の妻、音も本心から愛し合っていて、尊重し合っていたことを知らされて家福は打ちのめされる。一方、そういった家福や高槻とのやりとりを耳にするドライバーのみさきは、母子家庭で母から暴力を受けながら育ってきた。生きる喜びも知らず、将来の目的や幸福感とは縁遠く、自分の魂を半分殺すようにして生きてきた。家福はみさきの、魂を絞り出すような告白によって、自分自身の心の傷を初めて認識して傷に立ち向かう勇気をもらう。
舞台の進行と同様に、それぞれの人が、自分をさらけ出すことによって、自分の魂を認識する。芝居同様に、魂の死と再生がテーマになっている。
3時間の長い映画。村上春樹の小説を読むように、タッチがそっくり映画になっている。役者たちがそれぞれ、実に達者で良い。ソーニャ役の手話には感動した。手話がこれほど表情豊かな表現方法だったのか、台詞の音がないだけ、その静かで豊かな表現にじわじわと感動が広がる。手話に対してワーニャ叔父さんが、打ちひしがれた表情から徐々に立ち直り、希望をつなごうとする演技と表情も素晴らしい。この映画、見る価値がある。
第79回ゴールデングローブ賞で、最優秀英語映画賞受賞。第94回アカデミー賞で、作品賞にノミネイトされているだけでなく、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門で、ノミネイトされている。