アボリジニーは先住民族として6万年の歴史を持ち、独特の言語、道具、絵画などの芸術、楽器などを持った民族だが、入植後、英国人が持ってきた感染症や、虐殺により人口の90%を失った。75万人から100万人あった人口が、一挙に10%に減ったのは、奴隷として売買されたアフリカ民族と違って、怠惰で教えに従って働くことができないと判断され、「害蓄」として大量佐殺戮されたからだ。人口はその後回復したが、現在は総人口の3.3%、約85万人になっている。
オーストラリアは英国植民地となって以来、最初の20年は主に英国の刑務所として役割を果たした。囚人として故国から追放されてきた者の30%は19歳以下、彼らは無給の労働者としてシドニー湾の周りに道路や政府の建造物を建て、植民地を耕し、刑期を終えた後は家庭を持ち、捕鯨、漁業、羊毛業、鉱物採掘に携わった。1850年代にニューサウスウェルス州とビクトリア州で金が採掘されるようになるとゴールドラッシュが起こり急激に人口が増した。遂に植民地男性の20%が中国人に占められるようになり、暴力を伴った激しいアジア人排斥運動がおこる。オーストラリアの白豪主義はこれをもって形成され、オーストラリアは有色人の海に囲まれた唯一の白人の島というアイデンテイテイが作られる。
白豪主義が改められるのは、1943年第2次世界大戦で人口がわずか、730万人の国となってしまい、他国から侵略される危険性が高くなったので、移民を制限すべきではないという切羽詰まった危機感に迫られたからだ。現在は4人に1人は外国生まれという移民大国となって、多様な民族、宗教、文化を誇っている。
1996年1月25日に2人の娘とともにオーストラリアに移住して26年経った。その前は、10年フィリピン、その前は3年沖縄に暮らしたから、娘たちは生まれ育った東京を幼児の時に離れて、40年近く経ったことになる。怪しげな日本語を使うわけだ。責められない。
日本ではマスコミを学び編集記者、フイリピンではインターナショナルスクールでバイオリン教師をやってきて、誰一人知人も友人もいないシングルマザーが子連れでオーストラリアに来るなんて、勇敢ね、バカじゃない、と言われたが、シドニーで頼まれて医療通訳、修学旅行付き添い、病院ナースなどをやっているうちに、娘たちは大学を終え立派な専門家として自立、家庭を持った。
オーストラリアの良いところは、ものすごく勉強すれば必ずそれが報われて望み通りの専門家になれるところかもしれない。娘たちの勉強ぶりは在学中も卒業後も際立っていたが、じつによく学ぶ。彼女達とは学びのレベルは比較にならないが、私も55歳で大学に入った。全然違和感がなく在学中、誰一人として私に年齢を聞く人は居なかった。
いまナースとして働いていて、職場の仲間たちも、ナースをやりながらICUのスペシャリストや、教育者の資格などを次々と取って勉強を辞めない。それでいて自由時間に「本当は役者になりたかった」などと、突然言い出して俳優養成所に通うナースが居たと思うと、歌手になる、と言ってパブでバンドを組んで歌いながらトレイナーについて声楽を勉強しているナースがいる。
人生自己満足だと思うが、自己満足のレベルが高いのだ。オージーの許容量の大きさ、というか年齢や環境や立場に縛られず自由な度量の大きさが、とても好ましく感じる。日本の良さ、フイリピンの良さ、オーストラリアの良さに身を浸し、体現して生きていくことが出来たら上出来だ、と思っている。
I am singing [ I STILL CALL AUSTRALIA HOME].