監督:ベン ウイトリー
キャスト
わたし:リリー ジェームス
マキシム ド ウィンター:アーミー ハマー
家政婦ダンバー婦人: クリステイン スコット トーマス
1940年版 「レベッカ」
監督:アルフレッド ヒッチコック
キャスト
わたし:ジョーン フォンテーン
マキシム ド ウィンター:ローレンス オリビエ
家政婦ダンバー婦人:ジュデイス アンダーソン
ストーリーは
休暇で、モンテカルロにホッパー婦人の付き人(レデイスコンパニオン)として来ていた、「わたし」は、同じホテルにいた英国紳士、マキシム ド ウィンター卿に出会う。マキシムに誘われるままドライブや食事を共にするうち、恋に陥り求婚される。二人して素晴らしい夏を過ごすが、ハネムーンが終わり、マキシムの由緒ある古い屋敷マンダレイに着いてみると、屋敷は、巨大な博物館のようで、わたしは家政婦長のダンバース婦人をはじめ使用人たちからは、好奇の目と冷笑で迎えられる。ダンバース婦人は、1年前に嵐で溺れて亡くなった前妻レベッカが、子供の時から世話をしてきた女でレベッカに心酔していたため、新しい妻のわたしを認めようとしない。陰湿ないじめを繰り返され、追い詰められたわたしがダンバース婦人のの誘導に乗って窓から身を投げようとしたとき、大きな花火の音がしてわたしは正気を取り戻す。
花火は1年前から行方不明だった前妻レベッカを乗せたヨットが見つかったことを知らせる合図だった。船内からレベッカの死体が見つかる。レベッカの愛人だった従弟ジャックは、マキシムが二人の関係を嫉妬してレベッカを殺した、と主張する。レベッカの死因をめぐって裁判が起こされ、マキシムは殺人者か否かを問われる。しかしロンドン在住の医師が、レベッカは癌に侵されていてあと数か月の命だったが、誇り高いレベッカはそれを誰にも言わず自ら死んだ、と事実を明らかにする。レベッカの呪詛からやっと逃れられたマキシムと、わたしが屋敷に帰ると、狂ったダンバー婦人が屋敷に火を放ち、屋敷は目の前で崩れ落ちて行った。
というお話。
英国人作家ダフネ デユ モーリアが、わずか30歳の若さでこの小説「レベッカ」を書いた1938年から80年余が経った。彼女は「鳥」も書いている。
「レベッカ」は発表後、すぐに脚光を浴びて戯曲化され1940年ロンドンのクイーンズシアターで演じられ大人気となった。ダフネは小説だけでなく他にも戯曲「THE YEAR BETWEEN」や、「SEPTEMBER TIDE」など書いて舞台で演じられている。祖父は作家で風刺漫画家として有名だったジョージ デユ モーリア、父親は役者だったジェラルド デユ モーリア、母親は人気の高い女優のミュリアル バーモンドだった。そういった家族の知名度の高さが彼女の作家として成功する要因にもなった事だろう。軍人と結婚して、1男2女を育てたが、81歳まで生きて、英国の田舎コーンウェルに住んだ。若い時からインパクトのある個性的な作品を書いたが、ベストセラーを続出しても本人は人前に出るのを嫌い、コーンウェルの田舎から外に出ることもなかった。
テイーンのときに「レベッカ」と「鳥」を読んだが、短い文で読者を没頭させる。語り手の間の取り方、語りの巧みさ、話の持っていき方が巧妙で読者を不安にさせ、怖がらせる優れたミステリーのストーリーテラーだ。たとえば、女が島に着くとなぜか急に寒気に襲われる。すると大きな黒い鳥が鋭い視線で女を見竦めていた、、、というように、ただ LOOKとかWATCH 見ていたのでなくて STARE、震え上がるくらい怖い目で凝視されていたのだ。この時から鳥の目が怖くて視線を合わせないようにしている。彼女はまことに天才ミステリー作家といえようか。
映画監督、アルフレッド ヒッチコックが、ダフネの作品に、音響効果や視覚効果を加えて一流のサイコテイックスリラー映画を仕上げた。
「レベッカ」は、英国人ヒッチコックが渡米して作品を制作するようになって最初の記念的ヒット作品だ。のちの作品「鳥」でもヒッチコックは成功した。
ヒッチコックの「レベッカ」は配役が素晴らしい。「わたし」を演じたアメリカ人、ジョーン フォンテーン、マキシムを演じた英国人ローレンス オリビエ、ダンバース婦人を演じたオーストラリア人のジュデイス アンダーソン、3人ともその年のアカデミー賞主演賞、助演賞を獲得している。この1940年第13回アカデミー賞で、「レベッカ」は最優秀作品賞、撮影賞も受賞している。それなのに監督賞だけをヒッチコックは逃した。この年の監督賞は、「怒りのぶどう」のジョン フォード監督に与えられている。1940年といえば戦争中だ。世界恐慌のあと街は失業者があふれ、餓死者が出て、労働組合の芽が育っていた。スタインベックの名作「怒りのぶどう」の力強い労働者の怒りが人々の心を揺さぶったことを思えば、このときジョン フォードに栄誉が与えられたことは、妥当な判断だったはずだ。
ヒッチコックは「レベッカ」を白黒映画で撮影し、わずかな光、暗い死を思わせる古い屋敷、音もなく忍び寄るダンバー婦人などを強調することによって、存分に視聴者を怖がらせてくれた。最後の火事のシーンは有名だ。焼け落ちる屋敷の火の中で勝ち誇って笑い続ける狂った家政婦の怖さは忘れられない。夢に出てくるほど怖い。
新作「レベッカ」では、配役の悪さが目立つが、ヒッチコックよりもずっとお金をかけて、イングランドのロケーションをたっぷり見せてくれて満足した。
配役の悪さでは、まずアーミー ハマーが、45歳初老の貴族に見えない。2メートルの長身、知的な風貌、文句のないハンサムな顔、からし色の3つぞろいの背広が似合って美しいモデルのようだ。浮気な妻を殺したかもしれない影をもった富豪にもみえない。ハンサムすぎる。
またリリー ジェームスが20代前半の恋愛経験のない、親のない薄幸な女の子に見えない。アーミー ハマーも、リリー ジェームスも同じ年ごろに見える。平民のリリーは妻として貴族の館に招き入れられて、伝統を重んずる貴族のしきたりも作法もわからない、まわりの誰もが彼女が失敗するのを待っている。そんな中で消えゆくほどに自分を失い、ダサい服を着て顔の輪郭さえぼやけた存在だった。
それがボートが引き上げられたとたんに事態が変わる。マキシムは「富豪貴族のウィンター卿様」ではなくて、自分の「夫」だ。夫が殺人犯人にされそうになったとたんに、強い「わたし」に変わる。生き生きとした自立した強い女、目鼻立ちがはっきりして、強い生きる意志が表れる。きりっとした服装にきっちり顔が見える帽子をかぶり、きっぱりした歩調で歩く。すべてが180度変わる。一晩にして薄幸少女が、自信に満ちた妻、強いワンダーウーマン、グラデイエイターの変わるのだ。そういった変化の表し方が、上手だった。これはヒッチコックにはなかったことだ。女優の実力だろう。
ヒッチコックの白黒フイルムがほとんど屋敷の中での撮影だったのに比べて、新作ではロケーション撮影が主になっていて、イングランドの景色が素晴らしい。激しい波が打ち寄せる断崖絶壁。白い岩の壁がそびえ立つ。荒々しいイングランドの海岸線。強い風を受けて建つ小さな釣り小屋。レベッカが愛人と隠れて過ごした釣り小屋は、岩の上で吹けば飛ぶような儚い存在だ。そんな小さな小屋を、レベッカが愛した犬、ゴールデンレトリバーが、新妻を誘導する。死んだレベッカを悼む気持ちは家政婦だけではないのだ。
美男美女の「レベッカ」新作は見て楽しい。しかし80年ものあいだヒッチコックの「レベッカ」は名作として人々から忘れられずにきた。80年経って、どうしてもリメイクが作られなければならないという理由がみつからない。舞台と違って、映画はどんなに上手にリメイクしても、人は前作と比較する。残念ながら古い映画のリメイクで成功した例が思い浮かばない。
ハンフリー ボガードとイグリッド バーグマンが演じない「カサブランカ」は見たくない。クラーク ゲーブルとビビアン リーが主演ではない「風と共に去りぬ」も、見たくない。グレゴリー ペックとオードリー ヘップバーンの演じない「ローマの休日」も見たくない。ついでに、三船敏郎の主役でない「羅生門」も、高倉健がやらない「唐獅子牡丹」も、渥美清が出てこない「ふうてんの寅」も見たくない、のは私だけではないだろう。