2018年5月3日木曜日

日本帰国休暇 その1

10日ほど日本に帰って休暇を過ごしてきた。
長女と次女とその6歳と8歳の子供達、総勢5人の旅行だった。旅の目的はマゴたちに日本を好きになってもらうことだ。学校はイースターホリデイで休みだし。
異国で日本語を学び、身につけることは至難の業だ。子供達は、普通の小学校を英語で学び、友達や両親と英語で会話する。そんな生活の中で、学校のない土曜日は、といえばサッカー、ラグビーやサーフィンで、学校に居るあいだは解きほぐせなかった体と心を全開放して、のびのびするために過ごす。そんなせっかくの土曜日を日本語土曜学校の狭い校舎で堅苦しい日本の先生の言う通りにするなんて、誰が嬉しいか。

週に一度、土曜半日の日本語学習でどれだけ異国育ちの子供達が、日本語を習得できるか、それぞれの家庭によって大きく差が出る。日本人夫婦の子供で、親が熱心に土曜校で学ぶ内容を家でも反復して学習させる家庭では、ある程度成功するだろうが、大多数の子供達はダブルと呼ばれる子供達だ。土曜日の朝、青空グランドと海がまってるぜい、と親に言われて、「いえ、ぼくは土曜学校で漢字の書き取りをします、」と答えられる子供は稀有な存在だろう。
それでも、マゴたちが「おばあちゃん、だいすき。」と、日本語で言ってくれる時の喜びは何にも代えがたい。少しでも日本語に親しんでくれて、日本を好きになって欲しい、そんな気持ちを込めて、マゴたちを連れて日本旅行してきた。
9泊10日、前半は上野、後半は船橋駅にできたばかりの駅ビルホテルに滞在した。

到着翌日から上野科学博物館、三鷹のジブリ博物館、浅草界隈、上野動物園、千葉のマザー牧場、鹿野山イチゴ摘みツアー、大内家家族の集まりと父の7回忌、デイズ二―ランドと、一日としてスケジュールに追われない日はなく、忙しい詰め込みの日程だったが、計画通りに過ごした。子供たちはこれだけ詰め込まれても、少しでも時間が空くと、ホテルを抜け出して近所の公園で走り回っていた。大人たちが付いていくのに、ヨレヨレだったが。それは、とても嬉しい計画外のことだった。

私も時間を作って夜ホテルを抜け出して、昔の友達と会った。
33年間海外で暮らした。沖縄を独立国と考えると、36年間異国暮らしだったことになる。日本に残る友達は少ない。甥も姪も結婚式に出ていないから、記憶は子供の時のままだ。だが父の7回忌で、今回、初めて甥や姪のパートナーや子供達に会うことができた。

昔の友達で会えたのは、沖縄時代からの古い友達、30年ぶりの再会。彼女は半世紀前JALのフライトアテンダンスだったので、横浜のJALのホテルを取ってくれた。彼女に懐石料理をご馳走のなったあと、二人でスーマーのライブを聴きに行った。スーマーはいつも変わらず、マイクなしで声が届く小さな店で、自作の歌の数々を聞かせてくれる。オットのブルースが元気だった時から。帰国ごとにスーマーのライブを聴きながら、そこで懐かしい人々と会うことが習慣になっていたが、今回は場所が横浜だたので、声を掛けられなくて、会えなかった方々もあった。でもスーマーの人柄、あたたかさ、彼の歌う世界が私は大好きだ。ライブの後夜明けまで、ホテルで友人とのおしゃべりは続いた。それでも6時には、シャキっと起き上がり身支度を始める友人を、こころから尊敬。フライトアテンダンスのときからの彼女のプロの姿勢には脱帽した。

帰国ごとに必ず会う山田修氏は、10年間フィリピンで暮らしていた時からの友人。彼は 岩波書店の雑誌「世界」を頼みもしないのに、几帳面に、毎月毎月シドニーの私のところに送ってくださっている。私と日本とをつなぐものは、毎月送られてくる「世界」だけといっても良い。   
アートギャラリーを主宰する大学の先輩が友人を連れて根津の割烹から呼んでくれた。この友人とは半世紀ぶりの再会。化粧をしたこともなかった18歳の一年生が、いまどう化粧しても隠し切れない衰えた姿になっても、むかしのようにアコちゃんアコちゃんと呼んでくれて、心からもてなしてくれることが嬉しい。
最後の日に中学高校と同級生だった女友達と夕食を共にした。穏やかな方で、人の為に何かをしてあげることが大好きなので、いつも何かをしてもらいたい晩年の父が。いつも甘えて頼りにしていた。元気で再会できることが、この年になるととても嬉しい。
10日間の短い滞在に合わせて、時間を作ってくださった方々には、本当にありがたい思いで、感謝の言葉もない。で、、、、マゴたちの日本語は上達したか、というと、、、そこがなんとも、もごもご、、、、、。