2017年11月25日土曜日

映画「ゴッホ最期の手紙」

とてつもなくアーテイーな映画。
世界中のプロの油絵画家125人が、ゴッホの色使いや筆のタッチを真似てキャンバスに描いた、65000コマの油絵が、実際の役者の動きに乗せられて、モーションキャプチャーとしてフイルム化された作品。油絵アニメーションとでも言ったら良いのか。ゴッホの伝記を、ゴッホの絵のタッチで描いた動画ドラマ。でも役者が演技しているし、アニメのジャンルを超え、今までのモーションキャプチャーやCG技術のレベルを超えているので、何と言ったら良いのかわからないけれど、画期的な技術ということだけはわかる。

映画化するに当たって、たくさんの油絵画家が必要だとわかると、ネットを通じて5000人の応募者があった、という。選ばれた125人の画家が、それぞれゴッホになりきって65000枚の絵を描いている。もう ゴッホの「てんこもり」。ゴッホ100%の映画の中で溺れそうです。ゴッホの世界、ゴッホがいっぱいで幸せだ。
原題:「LOVING VINCENT」
イギリス ポーランド合作映画
監督:ドロタ コビエラ 
   ハー ウェルクマン    
キャスト
ロベルト グラチェク:ヴィンセント ファン ゴッホ
ジェローム フリン :ドクター ガシェット
ダグラス ブース  :息子アルマンド ロラン
クリス オダウド  :郵便配達ジョセフ ロラン
サオライズ ロ―ナン:マーガレット ガシェット
アイドリアン ターナー:ボートマン

ストーリーは
ヴィンセント ファン ゴッホが亡くなって1年経った。
郵便配達のジョセフ ロランは、ヴィンセントの数少ない友人の一人で、彼のことを心から敬愛していた。肖像画のモデルを引き受けたこともある。生前ヴィンセントは頻繁に手紙を書いて、友人や家族に送り、その分返事の手紙を受け取る事も多かった。ジョセフはいつもそれを配達するのが仕事だった。ジョセフは息子のアルマンドに、ヴィンセントが弟のテオに書いた最後の手紙を託す。それはテオに手渡すことができなかった手紙だった。

ジョセフは以前、自分の耳を切り取り、封筒に入れて親しくしていた娼婦に手渡した事件をよく覚えている。芸術家の気まぐれや狂気に近い奇行にも関わらず。息子のアルマンドには、父親がどれだけヴィンセントのことを好きだったかよくわかっている。父親の気持ちを汲んで、1年前に住所がわからず配達されなかった手紙をもって、アルマンドはヴィンセント終焉の土地に向かう。

パリから30キロ、ヴィンセントは人生最後の2か月を、オーヴェル(AUVERS-SUR-OISE)で過ごした。アルマンドは ヴィンセントの最後を看取ったピエール タンガイに遭って、手紙の受け取人のテオは、ヴィンセントが亡くなって後を追うように、半年後に亡くなっていたことを知らされる。テオは梅毒を患い、鬱状態だったがヴィンセントの死後、状態が悪化して病死したのだった。パリでヴィンセントとテオは、決定的な仲たがいをして、ヴィンセントはパリを出走し、オーヴェルでドクターガシェットの世話になっていた。
ドクターガシェットは、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロなどと親しくし、自分でも油絵を描く美術愛好家だった。ヴィンセントは、ドクターガシェットから家族のように扱われて、制作に励んでいた、という。

ヴィンセントの最期の手紙には、体調も良く、環境の良いところで精神状態もとても安定している旨が書かれていた。とても自殺するような状態ではない。どうしてヴィンセントは自死しなければならなかったのか。
アルマンはドクターガシェットに会いに行くが、彼は商用で出かけている。仕方なくアルマンは、かつてヴィンセントが泊っていて、やがて亡くなったその部屋に、滞在することにした。宿屋主の勧めに従って、ヴィンセントが親しかったというボートマンに会いに行く。彼は気さくな男で、ヴィンセントはドクターガシェットの娘と親しかった。きっとそれが原因でヴィンセントはドクターガシェットと衝突し、失意に陥ったのだろうと言う。しかしドクターガシェットの美しい娘マーガレットはそれを否定する。

村の人々にとってヴィンセントは厄介な存在だった。子供達は平気でヴィンセントが写生しているのを邪魔したし、夜は夜で、酒場で若者たちは村の部外者で変わり者のヴィンセントを嫌った。知恵おくれの若者は、ヴィンセントのあとを執拗について回った。アルマンは自分が村の宿屋に滞在していて、どうしてヴィンセントが死ななければならなかったのか、疑問が湧いてきて仕方がなかった。アルマンはヴィンセントを死後検死した医師に会いに行く。医師はビンセントは、腹部を銃で撃って2日間苦しんだ末、亡くなった。ドクターガシェットがなぜ、銃で撃たれた傷口から弾を摘出する手術をしなかったのか、わからないと言う。また、もし自殺したかったら人は胸か頭部を撃って死ぬ。胃を撃って自殺する人は居ない。ヴィンセントの銃創は、離れたところからしかも地面に伏せた姿勢から狙って撃たれたものだ。と医師は言う。

ヴィンセントは地元の若者達と争いの巻き込まれて撃ち殺されたのではないか。教養のない村のごろつきの様な粗雑な若者達が犯人ではないか。そのうえドクターガシェットは、ヴィンセントの傷を治療しなかった。ドクターの愛娘をヴィンセントに取られたくなかったからではないのか。最後のヴィンセントの手紙では、体調も良く制作が進んでいて快適な暮らしをしている様子が描かれている。自殺する理由がない、ではないか。

ドクターガシェットが帰って来た。ドクターは自分も一流の画家になることを夢見て生きて来た。しかしヴィンセントの才能は疑いようもなかった。自分と比べることができないほどヴィンセントの絵は素晴らしかった。自分は嫉妬に狂ってそのあまり、悔しくてヴィンセントを死に追いやるほど激しくヴィンセントを告発してしまった。いつもヴィンセントは金策に困り果てて、弟のテオに迷惑をかけている。ヴィンセントは迷惑者以外の何物でもないと言って、ヴィンセントを責めたのだった。自分がヴィンセントを自死に追いやった。死ぬべきだったのは才能のない自分だった、と言ってドクターは泣きむせぶ。

アルマンは家に帰って来る。すべてを父親のジョセフに伝える。配達されなかった手紙はドクターガシェットを通じてテオの未亡人に手渡された。しばらくしてテオの妻からお礼の手紙が届く。そこには「愛するヴィンセント」(LOVING VINCENT)と書かれていた。
というお話。

ヴィンセント ゴッホは近代絵画の父と呼ばれ、28歳から36歳で死ぬまでの8年間に800点の作品を残した。生きていた時には才能を評価されることなく、たった1枚の絵が売れただけだった。セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの4人はポスト印象派と呼ばれている。オランダ生まれのゴッホの多くの作品は、アムステルダムのファン ゴッホ美術館に展示されている。1800年開館という歴史的なアムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)のとなりに建っていて、対照的に近代的建築を誇る。1973年開設で、別館は黒川紀章が設計し1999年に開館した。本館にはゴッホの200点の油絵、500点の素描、700点の書簡、それとゴッホとテオが収集した500点の浮世絵が収蔵されている。
油絵で特に有名なものは、「ジャガイモを食べる人々」1885年、「パイプをくわえた自画像」1886年、「黄色い家」1888年、「星月夜」1889年、「ひまわり」1889年、「ひまわりを描くファンゴッホ」1888年などなど。

印象画家展が何年か前にキャンベラの国立美術館で開催されたとき、真夜中3時間運転して娘と展覧会を見に行ったことがある。予想にたがわずゴッホの「星月夜」は、それはそれは美しい絵で、「一生に一度は見なきゃだめだよカテゴリー」に入る絵だった。どうやったらこれだけいくつも絵具を重ねて塗って、美しい「紺青」の空と光る星を描けるのか、触って確かめたい誘惑にかられる。「じゃがいもを食べる人々」も、働く農夫たちを描いた絵も好きだ。でも、ニューサウスウェルス州立美術館にある「ペザント」(農夫)の絵が一番好きだ。暗い色調、男のひしゃげた鼻、暗い瞳、しかし力強い生命力に圧倒される。

この映画を観て「あ、やっぱりゴッホは自殺じゃなかったんだ。」と解釈した。彼を理解しようとしない人々の無理解が彼を殺した。狂人のレッテルを貼りたがる村人達、ゴシップ好きな女たち、嫉妬に狂う芸術家たち、変人を排除しようとするコミュニテイー、不寛容な社会、みんなが殺人者だ。
芸術家は、多くがその前衛性によって、人々から理解も受容もされずに薄幸な人生を送る。それが哀しい。ショパンのピアノ曲を聴くといつも泣きたくなる。モーツアルトの明るい空を突きぬけるような快い響きを耳にすると、いつもそれを作曲していたころ空腹と寒さと死の恐怖に苛まれながら作曲していた彼を思って泣きたくなる。
ゴッホの絵もそうだ。残された手紙の数々は、食べていくため、画材を買う為にお金を無心する手紙ばかりだ。
どうしてわたしたちは芸術に、これほど不寛容なのだろう。過去だけでなく今もまた、どうしてわたしたちは新しい芸術の創出に、これほどにも不寛容なのだろう。


2017年11月20日月曜日

レンブラントとオランダ黄金時代作品展

                                                                     
アムステルダム国立美術館:ライクスミュージアムから、レンブラントなどの作品がシドニー州立美術館にやってきて展示されているので行ってみた。

父がレンブラントの絵が好きだった。どうしてだかわからない。
英国に留学する途中で立ち寄ったオランダで、チューリップの愛らしさと、レンブラントの光と影に心を奪われたのかもしれない。1ドル360円の時代、海外に持ち出せる円が極端に制限されていた。私大の教授ごときに航空券など買える訳がない。貨物船に乗せてもらって何週間もかけて欧州に渡ったのだ。欧米人は、日本人を見かけると唾を吐きかけたりジャップとかチンクなどと呼び、白人社会の差別が残っていてアジア人にも人権があるなどと大声で言う人も居なかった。
父は明治生まれ、旧武家の長男で頑固者。「女はみんな馬鹿だ。」などと平気で言い、私生活では、家族には抑圧者以外の何物でもなかった。戦後民主主義の思想家、経済学者だった大内兵衛が育ての親で、甥だったとはとても思えない。ひとつだけ庭いじりが好きだったところは似ていた。兵衛の鎌倉の家に至る斜面には、数えきれないチュ-リップが植えられていて見事だった。父も阿佐ヶ谷の家でチュ-リップを育てた。兵衛の采配で、一番弟子だった宇佐美誠次郎の妹ふみと、父とが結婚することになったとき、母が阿佐ヶ谷の屋敷を訪れて帰る時に、父が庭に出てチューリップを切って母に渡したが、手が大きく震えていた、という。もったいなくて。
という話を母が言うごとに大笑いしたが、当の父は「あたりまえだ。せっかく大事に育てた大輪の花だったのに。」と弁解(?)した。
外国でどの国が好き?と父に聞くと、迷わずオランダと答えた。長い船旅の途中で立ち寄ったオランダでみごとなチューリップを見て感激し、自然光だけのほの暗い建物の中でレンブラントを見て深く感動したのだろう。

オランダは、1600年初めに何万人もの国民を溺死させた、低い(ネーデル)土地(ランド)に住む人々の国だ。自分達の住む土地よりも高いところにある北海に対して堤防を作ることが全国民の悲願だった。そのために国民が一丸になって堅実、着実、倹約、質素、忍耐、質実な生活をすることが求められていた。ダッチアカウントは、そのための必要性から生まれた文化のひとつだ。そうして低地の特質を生かし、運河で物資を輸送し、風車や泥炭など’安価なエネルギーを使って貿易、産業を振興した。

スペインから独立してからの17世紀のオランダは、黄金時代と呼ばれ貿易では東インド会社が世界初の多国籍企業として、株式を財源としてアジア貿易を独占、香辛料で世界経済を制した。そして1世紀以上の間、貿易、産業、科学、芸術の中心となった。
ローマンカトリックによる偶像崇拝を嫌い、プロテスタントとして簡素な教会を持つ一方、豊かな商人達は芸術を愛し、絵画を教会にっではなく自分たちの屋敷に飾った。このころオランダでは、彫刻家が出なかったことと、教会に飾る宗教画が描かれなかったことは、特筆に値する。当時、オランダを訪れたイギリス人が、「オランダではどの家の壁にも絵が飾ってある。」と言って驚いたという。

今回ニューサウスウェルス州立美術館に、アムステルダム国立美術館(ライクス ミュージアム)から貸与された絵画の作品展が開催された。わたしには、レンブラントとフェルメール以外の画家の名は、知らない人ばかり。勿論作品を観るのも初めてだ。

ヤコブ ファン ロイスダール(JACOB VAN RUISDAEL)の風景画が青い空、のどかな農家を描いていて美しい。低地国なので風景画に山や岩壁や滝がない。どこまでも平面で、青い空には入道雲がモクモクと昇り広がっている。夏の青い空と入道雲。そんな空のことを「ロイスダールの空」というのだそうだ。ちょうど偶然、犬養道子の評論を読んでいたら、オランダの風景を「どこを見ても起伏のないまったいらな緑かかった土地、広すぎる上空はあわただしい雲をあとからあとから流していた。オランダ派画人の好んで描くあの独特の空。」と書いていて、ロイスダールの空に触れている文章があって、なんかとても嬉しかった。

ヤン ステーン(JAN STEEN)の描いた絵が興味深い。「陽気な家族」、「聖ニコラスの祝日」の2作で、男も女も子供達も大いに寛いでいる。贅沢な食べ物、酒、酔っぱらった大人たちの自堕落で醜悪な姿。足温器に足をつっこんでぐうたらしている。怠け者を扱った寓意画。こういった怠け者のことを、「ヤン ステーンの絵みたいな奴。」とか「ヤン ステーンの絵みたいなことは止めよう。」とか表現に使うそうだ。国民の命を守る堤防を強化するために質素、倹約、堅実、忍耐を目標とする国民性ゆえ、浪費や怠惰は半倫理、反社会的なのだろう。働いた後はぐうたらして何が悪いか、絵のように楽しくやればいいじゃないかと思うけど。

フランス ハルスの「陽気な酒飲み」も楽しい絵だ。ウィレム カルフの「銀の水差しのある静物」は美しく、 ヘンドリック アーフェル カンプの「スケートをする人のいる冬景色」では低地国の寒い寒い冬が想像できる。 ピーテル デ ホーホ「家の裏庭にいる3人野女性と1人の男性」など、普通の人々の何でもない日常が絵の題材になっている。
ヤン ダヴィス デ ヘームの静物画「ガラスの花瓶に生けた花」は、今回の絵画展の作品のなかで一番色彩が豊かで、精密な描写でだんとつに美しい。花びらの筋、葉についた青虫、蜘蛛までよく見ると居る。ガラスの花瓶には張ってある水だけでなく、そこに映った後の窓まで描いてある。1665年作と思えない花の配置や描き方も現代に通じる。観て描くということが今も昔も何一つ変わりはしない絵の基本だということが良くわかる。色の使い方が秀逸だ。

レンブラントはイタリアのカラバッジョ、フランデルのルーベンス、スペインのベラスケスとともにバロック期を代表する画家だが、若くして肖像画家として成功し、20歳前にすでに弟子を何人も持っていたという。エッチングでも優れた技術を持ち、印刷機を自分で所有してたくさんの作品を残した。レンブラントは、常に新しい技術を絵画で試して挑戦してみることを厭わなかった。その練習のためにお金にならない、売り物にならない「自画像」を75点も残した。

この絵画展での目玉は、レンブラントの自画像のひとつで、55歳の時の作品、「聖パウロの姿をした自画像」。1661年作。質感を出すために、重ねて重ねて塗って塗り重ねてあるので、窓からわずかに差し込む光で顔が立体的で生き生きして、いま生きてここにいる人のように見える。これが光と影の魔術師と呼ばれるレンブラントの絵だったのか。レンブラントは暗い、沈鬱、レンブラントなんて昔の人でしょう。生命がない、色がない、明るくない、と思い込んでいただけに、実物を初めて見てジワジワと胸に迫り溢れてくるものがあった。見て良かった。生命も色も明るさもある。父もそう思っただろうか。父も光と影、光に当たった部分の輝きに心躍る躍動感と生命力を見ただろうか。

もうひとつの今回の絵画展での注目は、ヨハネス フェルメールの「手紙を読む青衣を着た女」1663年作。ライクスミュージアムは、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」、「小路」、「恋文」を所有するが、今回シドニーに来たのは、この1点のみだった。
フェルメールは生涯で35点の作品しか残さなかった。彼の絵にはよく手紙と地図が出てくる。35作品のうち、手紙が絵の中にあるのが6点、地図が7点。この作品には手紙も地図も両方描かれている。
朝の光の中で、とても大切ななにかが書かれた手紙を女が立ったまま一心に読んでいる。女はブルーの絹のジャケットを着て、後ろにはスペイン椅子があり、椅子の背もたれにはライオンの彫刻が施してある。壁には世界地図が貼ってあって、机には宝石とスカーフが無造作に置かれている。女の着ているブルーのジャケットは朝の光に当たっている部分は薄いブルー、そうでない部分は深くて濃いブルーだ。当時の裕福な商人の若い妻だろうか。貿易商人の夫は植民地ジャカルタに行っていて、妻は、心のこもった夫から手紙を何度も何度も繰り返し読んでいるのだろうか。
青色はアフガニスタンでしか採れない宝石、ラピス アズーリを砕いたものだ。この青が素晴らしい。どんなに高価でも、この色を使いたかったフェルメールの気持ちがわかるような気がする。
どんな絵も先入観にとらわれず、見てみるものだ。17世紀の絵も今の絵も新しい。良いものはいつまでたっても生命力溢れて、人々にエネルギーをもたらしてくれる。良い週末を過ごした。
写真は、
レンブラント
ロイスダール
ヤン ステイン 
フェルメール

2017年11月12日日曜日

オージー議会:二重国籍てんやわんや

オーストラリアでは国民の26%が海外で生まれ、49%が自分自身または親が海外生まれだ。そして二重国籍者は記録では全人口の6分の1ほどだが、実際にはもっと多いだろう。
4人に1人以上の割で外国生まれだから、日本でいう国際結婚は当たり前だ。オーストラリア生まれの日本人夫婦の子供は、二つのパスポートを持ち二重国籍で育つが、日本は例外なしに二重国籍を認めない珍しい国なので、21歳になると、どちらかの国籍を選び、どちらかのパスポートを返さなければならない。しかし今後は日本も、国籍に関しての鎖国政策を止めて徐々に様々な例外を認めて行くようにならなければならないと思う。

オーストラリアは、18世紀にイギリスとアイルランドから送られた囚人によって国の基礎が作られ、その後ドイツ、デンマーク、北欧、イタリア、ギリシャなどの移民を受け入れた。1930年代にはユダヤ人、東欧の国々が入国、ベトナム戦争ではボートピープルが難民として、また天安門事件のあとでは数万人の中国人を難民として受け入れて来た。移民によって形造られてきた国という意味ではアメリカやカナダに似た多様な文化を持つ。しかし、3国ともに、移民が始まる前に住んでいた先住民族を、極めて残酷な武力によって迫害してきた醜悪な歴史を持つ。

オーストラリアでは二重国籍は違法ではないことは勿論のことだ。49%の外国生まれの
国民の国籍を、いちいち審査し規制することなどできない。
しかし、国会の連邦議員は、憲法によって違法とされていて、二重国籍者は、排除される。憲法第44条第1項では、「外国に忠誠を尽くし、服従もしくは加担すると認められる者、外国の臣民もしくは市民であるもの、または外国の臣民、もしくは市民の権利や特権を有するもの」は、議員資格がない、と明記されている。
二重国籍を持った議員が悪いことをするとしたら、選挙で選出され連邦議員でいる最中に、不正取引や収賄でスキャンダルを起こし追放されたあと、別の国に行ってまた議員になって居座る、とか、国家の重大秘密情報を議員でいる間に収集して他国のスパイ活動をする、とかだろうか。

しかしこれほど外国生まれが多いオーストラリアで、寝た子を起こす、とはこういうことか。今年の7月に突然、グリーン党の連邦上院議員スコット ラドラムと、ラリッサ ウオーターズが、自分は二重国籍者だったと表明して辞任した。ラドラムは10代のときに親がオーストラリアに帰化したがニュージーランド国籍がいまだに残っていたという。ウオーターズは、出生日の1週間後にカナダ国籍法が改正されたため自分にカナダ国籍が残っていたことを知らなかったと表明。どちらも精錬潔癖なグリーン党の若い議員で、彼らの潔癖な人柄を思わせたが、自由党党首マルコム ターンブル首相は彼らのことをケチョンケチョンにけなし、労働党も口をとんがらかして批判、二人はこれまで受けた議員報酬もすべて返却して辞任した。

これで済めば良かったものの、マルコム ターンブル首相の閣僚で資源相マット カナバツが、本人の承諾なしに母親がイタリア国籍を申請していて、本人はそれを知らず、イタリアに行ったこともなかったのに国籍があった、ということで現職閣僚が辞任。
続いて極右政党のワンネーション党、マルコム ロバーツと、ジャステイン キーの二人が英国国籍を持っていて、英国国籍を放棄したのが選挙の5か月後だったことがバレて辞任。

その後、誰もがあっけにとられたのが、副首相バーナビー ジョイスで、彼はニュージーランド生まれの父親を持ったため、自動的に二重国籍を持っていた。ターンブル首相より人気のある、「できる男」。副首相でいわば国の顔、現職の農業水資源大臣だ。ターンブル保守連合政権は、自由党と国民党の連合政権だが、バーナビー ジョイスは上院議員でなく、下院議員なので、150議席の76席が保守連合、バーナビー ジョイスが抜けるとターンブル首相は議会で過半数を取れなくなる。首相は右腕を失い、議会では多数派でなくなった。 上院議員の場合、議員が辞めても同じ政党の次の候補者が繰り上げ当選して後を継ぐので党派を確保できるが、ジョイスの場合下院議員なので国民党議員が後を継ぐことはできないのだ。

バーナビー ジョイスは彼の地元、ニューサウスウェルス州ニューイングランドに戻って連邦下院選挙区で補欠選挙が行われることになった。もちろん彼は立候補したし、再選が確実視されている。ここでもうターンブル政権の傷に塩を擦り込むのは止めればいいのに、バーナビー ジョイスと同じ国民党副党首、ナッシュが英国国籍を持っていたことが分かり、辞任した。それにしてもオーストラリアのファーマー達からオーストラリアの歴史以来代々と信頼を受け支持されてきた頑固者、保守政党国民党の党首と副党首が外国人(半分)だったとは何という皮肉。

止めればいいのにブルータスお前もか。ニック ゼネフォン党のニック ゼネフォンが、父親はキプロス生まれのギリシャ人だったと名乗り出て大騒ぎ。彼はサッサと辞職して、故郷のアデレードに帰ってしまった。そして南オーストラリアの州選挙に出馬すると言っている。優秀な弁護士出身で、ポーカーマシン賭博規制を公約し、出馬して行動力と力量と、独特のカリスマ性をもって連邦議員になり、マスコミに顔が出ない日はないほど活躍中の58歳。人権問題に真摯に向かい合い、マレーシアで反政府団体を支援してマレーシアから強制国外退去処分にあったこともある。自分の名前を党名に着けて、3人の上院議員を送り込んだ。国籍問題ばかりに大騒ぎして政治上の重要項目をまったく審議さえしていない現在の中央政府を早々と見限って、州政府に自分の場を作るということだろう。

このように多国籍国家、移民国家のオーストラリアであるのも関わらず、二重国籍ということで役職を辞任した連邦議員が今のところ8人、灰色議員と言われる議員が3-4人まだいて、追及が留まるところを知らない。たまたま自分の党に該当する議員が居なかった労働党の党首ビル ショーテンは有頂天で嬉しそうに厳しく政府を追及している。
「この国の法を作る議会で、議員が法を違反していることを赦してはいけない。」たしかにそうだろう。だが、もういい加減にしたら良い。
この争いは何も生まない。

二重国籍者、多重国籍者が何をしたというのだ。何を壊し、何を傷付けたというのだ。
一方、多国籍企業の方はどうだ。
世界中の富を奪い、圧倒的多数の人々から、石油を奪い、水を奪い、食糧を独占し苦しめている。怒りの矛先を向けるべきなのは、そっちだ。

(写真はニック ゼネフォン)

2017年11月4日土曜日

映画「ルート アイリッシュ」と軍需産業と傭兵と

映画:「RUTE  IRISH」
監督:ケン ローチ
キャスト               
マーク ウォーマーク:ファーガス
アンドレア ロウ  :レイチェル
ジョン フォーチュン:フランキー
トレバー ウィリアムズ:ネルソン

ストーリーは,
英国 リバプール。
ファーガスは子供の時からフランキ―と仲の良い双子のように親友同士で、いつも一緒だった。フランキーの妻、レイチェルは夫が妻の自分よりもファーガスを大事にしていることに、いつも不満を感じている。そのフランキーがテロにあってバグダッドで死んだ。ファーガスの憤りと悲しみは尋常ではない。
ファーガスは、英国軍特殊部隊SASに属してイラク戦争に関わり、退役してからも民間会社の傭兵として、フランキーと一緒にイラクにとどまっていた。帰国しても仕事はなかなか見つけられない。1カ月1万ポンドという破格の給料に魅かれて、傭兵になった。ファーガスは、自分がフランキ―を誘って現地に留まった結果事故に遭った、フランキ―の死に責任を感じている。

フランキーは、バグダッド空港と市内の米軍管轄地(安全地帯)とを結ぶ全長12キロのルート アイリッシュと呼ばれる、世界一危険な道路で乗っていたトラックごと爆破されたのだった。テロリストによる攻撃は毎日のように起きた。しかし、フランキーが死ぬ直前、ファーガスに「話がある」とメッセージをよこしていたことが気にかかっていた。フランキーは、何を伝えたかったのだろうか。
ファーガスはフランキーの葬儀の場で、自分にあてて送られた小包みを受け取る。中身はフランキーの携帯電話だった。中にはヴィデオが写されている。そこには、傭兵が、タクシーに銃撃を浴びせて乗っていた子供を含む4人の家族を撃ち殺すシーンが収められていた。ビデオでは、銃撃のあとタクシーに駆け寄ってドアを開けるフランキーの姿も映っていた。軍人による一般市民への殺人は赦されない。フランキーはテロリストに攻撃されたのではなくて、傭兵仲間によって、自分の犯した犯罪を隠蔽するために殺されたのではないか。フランキーがテロリストによって爆破された車は、普段傭兵が使う軍用ジープではなく、簡単に銃が貫通するような、普通車だったのもおかしな話だ。

そんな疑問を持ち始めた矢先、アフガ二スタンからネルソンという傭兵の中でも粗暴で暴力的な男が帰国してきた。そして彼はいきなりファーガスの家を襲い、フランキーがファーガスに送った小包みに入った携帯電話を取り返していった。怒ったファーガスはネルソンが、親友フランキーを殺したに違いないと確信して、彼を拉致して、CIAお得意の水攻めの拷問で殺す。しかし、そのあとでネルソンはフランキーが死んだときには、すでにイラクからアフガニスタンに移っていたことを知らされる。では、誰がフランキーを殺したのか。

ファーガスやフランキーを雇っていたコントラクター(会社)は売却されて新たなオーナーを迎えるところだった。会社はフランキーが握っている、傭兵の市民虐殺というスキャンダルを、隠して無かったことにしたい。それで会社は故意にフランキーをルート アイリッシュを通過する仕事ばかりを任せて、テロに遭って死ぬように仕向けたのだった。事情がわかったファーガスは、コントラクターの雇い主2人が乗った車を爆破する。親友フランキーのかたきは取った。しかし、仕返しをするために巻き添えに何人もの人も殺してしまった。もうファーガスは、フランキーが居た頃のようなもとには戻れない。
ファーガスは子供の時からフランキーといつも乗っていたフェリーに乗って、フランキーの骨を抱いて、河に身を投げた。
というお話。

親友に死なれた男が、捨身で親友の仇を取る、復讐 アクション映画。
テーマは、米英を始めとする大国による不理屈な戦争介入によって、軍人が市民を守るどころか現地の人々を蹂躙する現状を、激しく批判している。傭兵という戦争のプロが、戦場では大きな役割を任されていて、軍人のように軍規に縛られない分だけ、勝手気ままに現地の人々の生活を破壊している。また英国の失業率の高さ。兵役を終えて、故郷リバプールに帰国しても、ブルーカラーの自分達には就職できる当てがないため、戦地に留まり傭兵になって、命を引き換えに稼がなくてはならない現状も描いている。
映画の登場人物が、みな粗暴で暴力的だ。「ファッキンなにがし、ファッキンどうした。」ばかりで、放送禁止用語が2時間の映画の中で1000回くらい出てくる。

ケン ローチの映画はいつも労働者階級の人物が描かれるので、舞台はリバプールとか、グラスゴーとかで、なまりが強い。この映画も登場人物全員が、たった一人を除いて強いなまりで話す。ただ一人のきれいな英語を使う人物がイングリッシュ出身のコントラクターの持ち主、ファーガスたちの雇い主でフランキーを死に追いやった悪い奴だ。英国は階級社会だから話す言葉で、出身も属する階級も教育レベルもわかるところが興味深い。キングスイングリッシュやクイーンイングリッシュをしゃべる奴は悪い奴!! ケン ローチの映画に出てくる人々は、イエス、ノーではなくてナインだし、DOWNはドゥーン、HEADはアイド、NIGHTはニート、RIGHTはリート、TAKEはテク、MAKEはメク、MONDAYはモンデイ、NOWはヌー、ABSOLUTEはアプソリュ―ト、などなど聞き辛く、イングリッシュの字幕が必要だ。

いまや戦争は完全にビジネスになっている。戦争を始めるのは金のため。続けるにも、勝つのも金次第。かつて第二次世界大戦前には武器産業は無かった。戦争中は自動車会社や石油会社が国策として武器を作った。しかし、戦後、米国を中心に新しい武器開発が盛んにおこなわれるようになり、できるだけ自分達の国民の血を流さずに相手国に多くの血を流させる、最小の犠牲で最大効果を出すための兵器研究、開発が促進されてきた。大学では国防総省からの豊富な資金をもとに産学協同で武器を開発し、政情不安定な国々に武器輸出を推進する。

米国の軍需産業では、ロッキード マーチン、ボーイング、ジェネラル ダイナミックス、ノースロープ グラマン、の5つの企業が武器生産に関わる無数の関連企業を牛耳っていて、全米の国防費の40%を占めている。おとなしく飛行機を作っていれば良いのに。 武器輸入最大国アラブ首長国連邦、サウジアラビア、カタール、イラク、中国などが上得意先だ。軍需産業は売れるから、生産を止められない。武器の開発費は、輸出して得られる資金に依存しているから、沢山一度に人を殺せる武器を開発するために、今すでのある製品を売りつくさなければならない。作るだけ売れるから戦争を温存して続消させなければならない、という循環を無限に繰り返している。企業論理では、国籍よりも利益が優先だから、敵国であろうが同盟国であろうが、かまわず武器を売る。
かつて’戦争は国の独立のため、正義のため、自由のため、他国からの侵略から自国を守るためにあった。しかし今、起きているすべての戦争に正義もなければ、自由を求めて戦う人々も無い。軍需産業を太らせるために、終わりのない戦争を続けるだけだ。

戦争をしている兵士たちも国から派遣される軍人でなく、民間会社に雇われた傭兵だ。傭兵をかかえるコントラクターは、用心警備、施設、警備、現地向けの軍事教育、兵站等、軍の任務のすべてをカバーする。軍の強化、増大化には政治問題化しやすいが、民間に雇われている傭兵の数は表には出ないので、トラブルにならない。傭兵の死は公式な戦死者として扱われない。そのため、国民から戦争批判を浴びなくて済む。
そのかわり軍のような厳しい軍規がないので派遣される現地で問題を起こすことも多い。2007年米国ブラックウオーター社に雇われた傭兵が、17人の女子供を含む家族を虐殺した事件や、2004年、ファルージャで民衆によって殺された3人の傭兵が橋に吊るされた事件も記憶に新しい。いかに傭兵が地元の人々から憎まれているかよくわかる。
1991年湾岸戦争では全兵士の内、傭兵は100分の1に過ぎなかったのが、2003年イラク戦争では10分の1になった。兵士の10人に一人は傭兵であって、死んでも戦死者として扱われず、軍人恩給も出ない。イラクでは多い時で、後方支援や警備活動を含め26万人の傭兵が米国政府のために働いていたという。

死の商人は武器を作って売るだけでなく、傭兵も売りに出しているのだ。1991年ソ連崩壊と冷戦終結によって、軍縮が叫ばれるようになり優秀な失職した兵士に就職先が必要だった。またネパールのグルカ兵など植民地時代の遺産的、よく訓練された兵もコントラクターにとっては重宝された。しかし傭兵の需要が増してくると、アフリカのシオラレオーネのような貧しく失業率の高い国から子供を含めた傭兵を集めて来て低賃金で戦争に駆り立てるようになった。戦死してもニュースにならず、戦死者としてカウントされない。人の目に触れない。
武器商人が国の経済を牛耳り、敵味方に関係なく、売れる国に売れるだけ武器を売りつけ、戦争は始まりも終わりもなく、戦っているのは民間の傭兵で、雇い主コントラクターの命令通りに給料をもらって人を殺す。何のための戦争であろうが、誰のための戦争であろうが、傭兵は給料のために待遇の良い会社の側に立って相手を殺す。
どこにも正義はない。
哀しい映画だ。