2007年6月27日水曜日

パリ オペラ座バレエ団

THE PARIS OPERA BALLET =パリ オペラ座バレエ団が 初めてオーストラリアにやってきた。世界最古の歴史を誇るバレエ団。 このバレエ団の歴史は1661年 ルイ14世が 創設したロイヤル アカデミー オブ ダンスに、さかのぼる。ルイ14世は政治にもすぐれた手腕をもったが、芸術家としても、秀でていて 自らバレエを踊って楽しみもした。太陽王とよばれてもいたので、知っている人も多いだろう。

この世界のバレエの出発点とも言うべき歴史をもつバレエ団が、オーストラリアの歴史上 初めて100人の団員を連れて シドニーにやってきた。彼らがこの国に滞在すること たった2週間。6月13日は、開幕前のガラパフォーマンスが オペラハウスで行われた。それに続くパフォーマンスは、「白鳥の湖」9公演、「ジュエルス」5公演のみ。プレミア席 $195。キャピタルシアターにて。 値段に関係なく たった14回の公演に限られるため、チケットは発売同時に完売した。

手にしたチケットは、「白鳥の湖」2枚、「ジュエルス」2枚。はじめに 夫と、バレエを習っていた娘が「白鳥の湖」を観て来た。帰るなり、夫いわく、今まで何百も 僕が見てきたバレエはバレエじゃなかった。今日生まれて初めて 本当のバレエを観た!と、感動さめやらず、目がウルウル。 娘も、本当に美しい、どの白鳥も、人間ではなく本当の白鳥に見えた。といっていた。

「白鳥の湖」作曲=チャイコフスキー、振り付け=ルドルフ ヌレエフ、音楽=シドニーリリックオーケストラ、指揮=エストニア出身のヴエロ ポーン、白鳥オデット姫=MARIE AGNES GILLOT、王子ジークフレッド=HERUE  MOREAU だったのが、第二幕から、足を痛めて、KARL PAQUETTEが、出演。

振り付けのヌレエフは 1993年パリオペラ座の芸術監督を勤めていたが、1993年パリでエイズで亡くなった。直前まで、「僕の故郷は楽屋。僕にはバレエがすべて。」といっていた。 バレエ発祥の地で 世界最古のバレエ団の監督として、誰にもまねのできない華麗な舞台を作り上げた偉業は 世界のバレエ史に特筆される。

ヌレエフ、1938年 ソビエト生まれ、キロフバレエ団のソリストだったが、1961年 相手役のバレリーナと手と手をたずさえ ヨーロッパ公演中に舞台裏から逃れ 自由な表現を求めて西側に亡命。イギリスロイヤルバレエ団に迎え入れられる。以後、マーゴ フォンテイーンのパートナーとして世界を魅了した。23歳だった、ヌレエフに対して、もう母親ほどの年齢だったフォンテイーンとの共演は、フォンテイーンが踊れなくなるまで続き、今でもバレエのお手本になっている。 1961年のヌレエフの文字どうり 命をかけた亡命事件は  当時厚い鉄のカーテンにしきられていたソビエトと、アメリカとの政治的緊張関係にさらなる緊張を強いた。東ドイツから逃れようとした市民がバンバン壁の前で撃ち殺されていた頃の話だ。当時の緊張感は、子供だった私にも忘れられない。ロシア革命で国を捨て 逃れて来たロシア人、小野アンナにバイオリンを習っていたので ロシア人芸術家の姿が他人事ではなかった。

ヌレエフは、ヨーロッパに移ってから ロシアで自分が踊っていた「白鳥の湖」を 大幅に振り付けを変えた。人でなく白鳥に恋をして、かなわぬ思いに苦しみながら死んでいく王子ジークフレッドの美意識、この世を生きるのではなく 彼の理想は美の極致、極限の世界でしか得られない。そのためには命を懸けなければならない、といった彼自身の美意識を投影した大胆な振り付けだ。王子の役に生命を吹き込んだ、と言えよう。より、高くジャンプし、より早く飛び、華麗に舞い、美のために命を捧げる という完璧な舞台を彼は求めていたのだ。

17世紀のルイ14世が世界に残したものがバレエという芸術遺産だったとするならば、ヌレエフはその遺産を引き継いだ たぐいまれな天才だった。彼の振付けた舞台が 別のダンサー達に受け継がれ、それを、今、私たちが見ることができることに、感謝したい。