「記者クラブ」が結成されたのは1890年、明治23年、帝国議会が開会したときに議会に出入りできる記者団を結成したことに始まる。このような古い歴史を持つ組織が、いまだにあって時代錯誤の記者たちの不平等がまかり通っていることが不思議だ。特権をもつメデイアの人々は、恥ずかしくないのか。
気候変動によって洪水と日照りと飢餓が拡大している。日本では13年前の東日本大震災、放射線被害のために避難している人がいまだ3万人もいる。今年正月の能登半島地震で避難している人が4600人、災害から半年たっていまだ電気水道のない家庭が4000戸以上。こんな酷い被害が出たままなのにメデイアが事実を公表し、政府を動かそうとしない。
国境なき記者団(RSF)による発表によると報道の自由度で日本は70位、OECDで最低。第1位ノルウェー、2位デンマーク、3位スウェーデン、10位ドイツ、14位カナダに比べて大きな差がある。日本が民主主義国家だと信じるならば、マスメデイアは、記者クラブを廃止し、メデイアの民主化を目指しなければいけない。
父は70歳まで早稲田政経学部で教壇に立った。政治経済を学んだ卒業生の多くがマスメデイアに就職していった。
父は学問的業績は残さなかったが、学生を自分の子供のように可愛がって育てた。うちには書生のように入り浸っている学生がゴロゴロしていて、日曜には元学生もやってくるから、もっと人数が増えた。家計は大変だったと思う。大根みそ汁におにぎりだけというような貧しい食事を、デカい声で政治談議しながら学生も家族も分け合った。
卒業して事業に成功したり、余裕のできた元卒業生が送ってくれるお歳暮やお中元の鮭の荒巻や牛肉の味噌漬けや魚の佃煮などは貴重な蛋白源だった。中村屋のカステラ、文明堂の三笠山、大黒屋の羊羹、泉屋のクッキーなど届けばあっという間になくなった。私の体はもらいもので大きくなったようなものだ。
子供だった私は、学生たちのおはなしを何時もねだった。それは彼が虫歯を抜かれたときの恐怖の大冒険だったり、ホームランの直球が顔に当たって鼻が折れた時の渋い体験だったり、溺れそうになった人を助けた武勇伝だったりして、ドキドキわくわくする話ばかりだった。
学生達の早稲田の野人たる誇り、権力に組しない気風を父は愛した。
いま若い人が育っていない。米国大統領の候補者は、70代のバイデンとトランプ。誰も本気で若い人を愛し、育てようとしていない。愛されなかった学生は、人を愛する人に育たない。大事にされなかったら、他人を大事にできる人にならない。差別なく平等にみんな同じように大事にされた経験を持っていれば、差別する側にはならない。
メデイアは、記者クラブのような差別的特権を持ってはいけない。差別や特権ができあがるようなシステムを壊さなければ正当な報道はできない。大企業に支えられたマスメデイアは記者クラブを廃止し、誰もが情報にアクセスできるような報道システムにしなければいけない。