2023年6月25日日曜日

東宝争議1948年

 私の最初の夫は彼が11歳の時、自分の家の前を完全武装の米兵の乗った戦車が、轟音を立てて通ったことをよく覚えていた。
1948年の東宝争議。当時5600人の組合員を持った映画製作会社の東宝が、経営困難を理由に1000人以上の人員整理をするとの発表に、怒った組合員が世田谷区成城の東宝撮影所を占拠、封鎖して立てこもった。このストを解除するために占領政府は、小田急線成城学園前駅を閉鎖して、カービン銃を構えた米軍MP150人、装甲車6両、戦車3両、航空機3機を出動させ、米軍陸軍騎兵師団ウィリアムチェイス少将は航空機に乗って、スト鎮圧の指揮をとった。日本側の警察隊2000人も、米軍とともに東宝撮影所を包囲した。
団交の末、中に立てこもっていた2500人の組合員は、封鎖を解き、インターナショナルの歌を歌いながら肩を組んで撮影所を出た。日本の労働運動の、スト破りのために米軍戦車が出動した例は、後にも先にも東宝争議だけだった。普段清閑な成城の家の前を、轟音を立てて戦車が通るのをまじかに目撃したことは、夫の生き方に大きな影響を与えた。

大學時代の彼は日本共産党がまだ地下で武装闘争を展開していた時代の山村工作隊員だった。世田谷区成城生まれ、砧小学校、駒場中学、駒場高校、東京教育大学、今の筑波大学を卒業した。私の12歳年上だったから、とっくの昔に死んだが生きていれば86歳。建築や文学ばかりでなくクラシックバレエもオペラも良く精通していて、バリトンの良く通る声で歌った。合唱団で山村工作隊の一員として全国を回った。
彼は御茶水大学の岡百合子さんと高史明さんの結婚式を仲間たちと大学学生会館の地下でオルガナイズした。高史明さんは「夜が時の歩みを暗くするとき」、「生きることの意味」全4巻、「彼方に光を求めて」などの感銘深い著作がある。のちにご夫婦の1人息子だった岡真史さんが12歳で自死したときに「僕は12才」を出版し、高氏は親鸞の研究に打ち込んでいった。
6全協で日本共産党が路線転換して、武装闘争をやめ野坂参三、宮本顕治が主導権を握った時、外の大勢の学生と共に党を離れた。

建設省で働き、一級施工管理技士、一級建築技師を持ち東京で地下鉄を作ったり、タイで橋を設計したり、フィリピンで道路や学校をたくさん作った。背が高く頭が切れて物腰柔らかで、外交的だから日本に居ても外国に居てもどこでも持てはやされた。一緒に居て、プロ野球の選手と間違われてサインを求められたのも1度2度ではない。12歳年が離れていたから、私には理解できないことが多く、1人でトイレで泣くことも多かったが、2人の娘たちにとても良い父親だった。
話好きでいつもたくさんの人に囲まれていて、外交官のモデルのような人だったが、ほんとうはチョウの研究家で、1人きりで何日も山に入り、チョウの卵を採集し育てて、顕微鏡で調べてはチョウの同好会に発表することが1番好きだった。時を忘れてチョウの食草をスケッチしたり、標本を作っていた。

フィリピンのサマール島の山中で、網をもってチョウを追って夢中になり、朝食も昼食も忘れて採集に走り回ったあと、道端の売店でコークを一気飲みして、その場で倒れ絶命した。
彼が死んだとき、眠っていた私に会いに来た。真正面から走ってきて笑顔を見せて、あっという間に消えて行った。娘にもチョウが飛ぶわけもない曇り日、チョウの姿になって目の前にとまってサヨナラを言いに来たという。
時が経ち、みんな年を取って、東宝争議や6全協の語りなど聞くこともなくなった。

サザンオールスターズの「真夏の果実」を歌ってみた。

I am singing [ Manatsu no kajitsu ]( Mid summer fruits) written by Kuwata Keisuke, sing by Southern All Stars.