2023年3月14日火曜日

移民と難民の受け入れを!

医療現場で働くオーストラリアのナースの40%は外国から来たスキルワーカーだ。
もともとこの国は国民の4人に1人以上は外国生まれの移民によって形作られた国だから、驚くにも当たらない。
オーストラリア生まれではない40%のナースの内訳は、外国から来て市民権を取った移民も、私のように日本国籍は変えず永住権をもつ移民も、労働契約で働きに来た外国籍の人も、英国やカナダなどからワーキングホリデイビザで来て働く人も含まれる。

オーストラリアは建国以来、積極的に移民を受け入れてきた。第1次世界大戦で母国英国に忠誠を誓うため沢山の志願兵を失ったオーストラリアは、1943年には人口たったの730万人、外国からの侵略を阻止し独立を守るためには、急遽最低人口を3千万人増やさなければならなかった。で、そのまま現在に至っている。

ところで私の職場は外国人ばかりだ。彼らの元の国籍と来豪した時期を考え合わせると、さながら現代史を復習することになる。
まず30年ちかく私の働くエイジケアで働くラデイアは、私と同じ年、73歳の旧ユーゴスラビア出身だが、9歳のときにチトー率いる独立軍に迫害されて生まれ育った土地を追われボートでマルタに逃れ、イタリアの難民キャンプを転々とした末、1958年に難民として来豪した。オーストラリアは1950-1970までに旧ユーゴスラビア、ポーランド、ハンガリーから30万人の難民を受け入れている。同時期英国、アイルランド、ニュージーランドからは88万人を受け入れ、その多くは技術を有し優遇されたが、南ヨーロッパ出身者の多くは低賃金の産業労働者となった。セルビア人だったラデイアが、故国でもイタリアでも道端に身寄りのない子供たちが空腹で動けなくなって、そのまま亡くなって沢山転がってた、と話してくれる昔の風景は、ホラーそのものだ。聴くに辛い話だが、現代史に貴重な語りは、是非続けてもらいたい。

16年あまり一緒に働いているマリアは、シオラレオーネ出身。1970年5歳で両親に連れられ難民として到着した。このころはオーストラリアは日本同様、高度成長期にあり移民大歓迎だったので、マリアがシドニーに着いて、割り振られた一戸建ての庭付きの家には、家具や電化製品までそろっていたと言う。箪笥には両親と彼女にために服が並び、冷蔵庫には食料が入っていて、地域の人々から歓迎会まで行われた。アフリカでダイヤモンド鉱山を所有していた両親は長く続いた内戦と政争で命を狙われて、デカプリオの映画「ブラッドダイヤモンド」よりも怖い経験をしたという。
また、アフリカのガーナからきたグレイスは、2000年シドニーオリンピックのとき、ガーナを代表するマラソン走者だった。レズビアンでもあって帰国すれば差別に苦しまなければならない、ということで、入管から人権保護のため永住権を与えられた。優しい人で職場になくてはならない人だ。
オーストラリアのナース事情を語り、職場の人々をことを語り始めると、全員がユニークで現代の歴史の動きに関わってくる。

その国の価値を決めるのは、経済力や、国民性や、識字率だけではない。人口減少と国民の老齢化を前にしていまだ、難民受け入れを拒否している日本に今必要なのは、人々の多様性に順応し、受け容れることではないか。誰も日本に生まれようとして、自分で選んで生まれてきたのではない。国籍に関わりなく人として生きるために生まれてきたのだ。日本にいる外国人に人権を!!!

「イムジン河」(臨津江)朴世永作詞、高宗漢作曲を歌ってみた。